五月にはさくらんぼ

二十八歳の誕生日は実家で過ごすことにした。
金曜日なので木村さんと会おうかと思ったのだけど、
「独身最後なんだしご両親と過ごしたらどうですか? 俺とは次の日会えばいいですし」
と言われてしまったのだった。ちょうど実家に用事もあったので、そうすることにした。
木村さんは私の婚約者だ。去年初めて行った婚活パーティーで出会った同い年の公務員。初めからなんとなく話が合い、そのまま交際、婚約、ということになった。とんとん拍子、という婚活を検討し始めてからよく聞くようになった言葉がぴったりの成り行きだった。進むか、止まるか、というときに、選ぶというよりごく自然に、前に進んだ。流れがあって、進むほうが労力が要らない。決まるときはとんとん拍子だからね、の、見本みたいな結婚。
午後休を取り、式場の新婦分の打ち合わせを一人で済ませて実家に向かう。五時ごろは五月ならまだ明るく、住宅街は今はツツジの赤に彩られている。似たような小さな家が並ぶ中に、「光原」の表札。大学を出て就職するときに離れた家だが、近いので月に一度は帰っている。もうすぐ私も「光原」ではなくなるのだ、と、結婚に備えて感慨みたいなものを引き出してみようとしたけれど、しっくりこなかった。
「ただいま」
「おかえり、爽」
週五のパートを今日は休んだという母が、見慣れたエプロン姿で迎えてくれた。白髪混じりの長い髪を結び、前髪が落ちないようにかヘアバンドをつけて、丸くて広いおでこを出している。しみと皺は少ないけれど黄色っぽくくすんだ肌は、私も年を取るとこうなるのかなと思わせる。家事育児にパート先のドラッグストアの力仕事で指はごつごつとしているけれど、体型は今もほっそりとしている。いつものお母さんだ。
家の中は夕飯の出汁の匂いがした。促されて手を洗っていると、台所から声がした。
「炊き込みご飯と筍のお吸い物と茶碗蒸し、あと唐揚げにしたけどいーい?」
「え、ああ、うん。ありがとう」
どれも私の好物、誕生日の定番メニューだった。妹はその年ごとに作ってほしいものをリクエストしているけれど、私はいつも同じだ。
「揚げ物なんて久しぶり。お父さんと二人だと魚ばっかりだから」
来月の式に備えて平日は食事制限をしているし、明日もフレンチレストランを予約してもらっている。揚げ物も炭水化物も控えたいところだけれど、もういい年の娘にまだ唐揚げや炊き込みご飯を作ってあげたいのだ、と思うとくすぐったい。
台所を覗くと、下ごしらえは終わっているようだった。母は私を見て言う。
「夕飯はお父さん帰ってからでいい? 八時ぐらいになると思うけど」
「うん」
私が家にいた頃から父の帰宅はそのぐらいだった。子供の頃は父以外で先に食べていたが、今の母は父を待って二人で夕食を摂っているらしい。実家なのに、実の両親なのに、二人の食卓の様子はうまく想像できない。二人とも黙って食べているのか、それとも母が一方的に話すのだろうか。
「あと遅くなるけど夏帆も顔出すって」
頷いた。三つ年下の妹も都内で一人暮らしをしている。不動産の仕事をしていて、忙しくもやりがいのある毎日を送っているらしい。私よりもずっとしっかりしている妹だが、実は私はいまだに夏帆がかわいいので、会えるとちゃんと嬉しい。
実家に何か問題があったわけでもないのに、私も夏帆も就職を機に一人暮らしを始めた。両親にもそんなことを言われた記憶はないのだが、私よりずっと自立志向の強い夏帆は中学ぐらいから「就職したら一人暮らしするよね」と言っていたので、影響されやすい私も自然とそういうものかと思うようになった。
「私、二階でアルバム見てていい? 前もちょっと話したけど結婚式のスライドで使う写真を選びたいの」
「ああ。色んなアルバムがごちゃごちゃになってると思うけど」
「いいよいいよ。じゃあ上行ってるね」
「あ、そうだ。ケーキ、爽はチョコでいいよね?」
「うん」
階段を上る私に母が尋ねる。誰かの誕生日には、父がいつも同じ店でケーキを買ってきてくれる。会社の近くの老舗のケーキ屋だ。うちはホールではなくカットのケーキを人数分用意する方式だった。私は生クリームがあまり好きではなく、妹はケーキならショートケーキという主義でそれぞれ好みが違うので、そういう形に落ち着いた。私は毎年重ためのチョコスポンジとチョコクリームが層になっていて、上に削ったミルクチョコレートがたっぷりかかったチョコケーキを頼んでいる。カロリーのことは忘れる。
「じゃあお父さんに言っておかなくちゃ」
母はエプロンのポケットからスマホを取り出した。父に連絡するのだろう。
「お父さん、さくらんぼも買ってくるかな」
「……そうなんじゃない?」
母が困ったように眉を下げて首を傾げた。父の行きつけのケーキ屋の近くには果実店があり、父は姉妹の誕生日にいつも果物も買ってくる。夏帆の七月の誕生日にはメロン、私の誕生日にはさくらんぼ。どうしてそうなったのかは記憶がないが、物心ついたときからずっとそうだった。
「私はさくらんぼいらないけど」
夏帆はメロンが好きだが、私はさくらんぼが好きではない。嫌いではないけれど、見た目は可愛いのに、種ばかり大きくてなんだか食べ応えのない、はっきりしない果物だと思っている。私だってメロンのほうが好きだ。夏帆もあまりさくらんぼは好きではなく、二人ともケーキのついでに二粒ほど摘まんで残ってしまう。
「まあ、いいじゃない。買うのはお父さんなんだから」
母は曖昧に笑ってとりなしてくる。
「そうだね」
素直にそれに従った。
子供の頃、私自身何度かさくらんぼは好きじゃない、いらない、他のがいい、と父に訴えた。父はその度にわかったようなわからないような顔で、うん、そうなのか、と言うのだが、次の誕生日には忘れるのか、あるいは何かのこだわりなのか、またさくらんぼを買ってくる。おそらく高価なのだろう。粒の揃った黄色味がかった濃いピンクのつやつやした小さな実。またさくらんぼなんだ。毎年の、ちょっとした失望。誕生日に買ってくるのでなければ、私だってもっとさくらんぼが好きになれたかもしれない。
今はもちろんいい大人なので、誕生日に父が買ってきてくれる果物に文句があるはずもない。去年帰ったときは、父だなあ、と笑って二粒いただいた。今年になって妙にそのことが気にかかるのは、自分もまた、家庭を作る立場になったからかもしれない。穏やかで礼儀正しい木村さんととにかく無口で無表情な父は似たタイプではないが、家庭というのはこういう、言ってもどうせ伝わらないという小さな諦めを元にできているものなのだろうか。とんとん拍子、の中で、私は何かを取り落としている気がしてしまう。
「二階行ってくるね」
そう言い置くと、小さな家の急な階段を軋ませながら上った。
実家に泊まるときは夏帆の部屋で二人で寝ることが多いので、私の部屋は物置代わりになっている。小学生の図工で作った「SAYA」のネームプレートがぶら下がったドアを開けると、使わなくなったエアロバイクやミシン、クリーニング済みのコートやスーツ。靴やカバンらしき箱。ごちゃごちゃといろんなものが詰め込まれている。母が時々出入りしているせいかありがたいことにそう埃っぽくはない。
ここだろうと見当をつけていたクローゼットを開けると、あった。りんごの段ボールに、アルバムがまとめて放りこんである。光原家のアルバムは結構な量がある。ちゃんと見ていると時間がいくらあっても足りないので機械的に確認していくつもりなのだが、どうしても見入ってしまう。
お食い初めで蛸を無表情に咥えている私。七五三の晴れ着で人形めいた無表情でこちらを見ている私。たいていの写真でにっこり微笑んでいる夏帆と違い、私はいつもきゅっと口を引き結んでいる。笑顔で写真に映るのが苦手で、小学校のアルバム撮影の前、誰にも知られないようにこっそり笑顔の練習をしていたことを思い出す。こうしてアルバムを見ていると幼い頃の色々な鬱屈が、すべて些細な、可愛らしいものに思えてくる。笑わない子供だって、充分に可愛い。物心ついた頃には他の子の細い脚に比べて太い自分の脚を気にして、大人に「そのぐらいが健康でいいの」と言われて不満だったけれど、今は大人の気持ちのほうがよくわかる。幼い頃の私はふっくらとしてはいるものの、全然太ってなんていない。
確か私は生まれた時三五六四グラムでかなり大きく、細身の母は苦労したそうだ。その三年後に小さめに生まれた夏帆は一六二センチあるが、私は一五六センチまでしか伸びなかった。ちょうど母と同じ身長だ。小学校に入ったばかりの私と幼稚園児の夏帆、母の三人並んだ写真を見る。少し遠い公園にピクニックに行った時の写真だ。
若い頃の母は、綺麗だ。
昔からほとんど化粧をしない人だったが、授業参観などでおめかしすると娘の目にもびっくりするぐらい華やかで、同級生にも「お母さん綺麗だね」と羨ましがられたものだった。今になって見返すと、トレーナーにジーンズにヘアバンドにすっぴんという格好でも、ちゃんと綺麗だ。私と夏帆を優しい目で眺めている。当時はお母さん、として見ていたけれど、少し距離ができた今では若くて綺麗な女の人だ。
アルバムは段ボールに無造作に放り込まれていて、時系列はバラバラだ。臙脂色の他より分厚いものを手に取る。随分古めかしいなと捲ったら、昔の母のものだった。何年か前に取り壊した母の実家から持ってきたのだろう。物珍しくて、今日は見る必要がないのについ目を通してしまう。幼少期から成人式の晴れ着、短大を出て勤め先の友達との旅行の写真まであった。おそらくハワイの海で、赤いビキニを着ている。写真の解像度のせいかほっそりとスタイルがよいせいか、生々しさはなく古いポスターのようだ。今の私より年下の母。伏せた睫毛まで繊細なふっくらと珠のような赤ちゃんから、セーラー服の素朴な美少女に、そして女優みたいな美人になる様子までアルバムに収められている。
写真なのではっきりとはわからないが、母は成人式の晴れ着を除いて、大人になってからも化粧はしていないようだった。もう亡くなった母方の祖父母は割合堅い人だったようだし、母はもともと目鼻立ちがくっきりと整っているので、私と違って年頃になっても化粧の必要性がなかったのかもしれない。もともと美しい人は、美しくなりたい、とは思わなかったのだろうか。
お化粧はね、本当に好きな人ができてからすればいいの。
小学生の高学年、お小遣いで買った百均のコスメで夏帆と化粧しているのを母に見つかって叱られたことがあった。その場ではその言葉に全然納得できなかった。ただメイクの真似事で遊んでいただけなのに、本当に好きな人、という、まったく関係ない概念を持ち出されて話を逸らされたような気がした。従ったふりだけしてそのあともこっそり化粧をしていた。そのうちに百均のコスメなんてものはただの玩具で、買う前に感じていた美しくなる魔法なんかなくて、化粧をしている母が美しいのは、ただ母が綺麗なんだと知ってしまった。私は化粧への熱意を失った。それでも、あの日の言葉は重さを増していくようだった。本当に好きな人。そう話した時の母はやっぱり化粧をしていなかったけれど、普段の低くてさっぱりとした声に、知らない色が滲んでいた。幼い私の知らない、魅力的な色。
お母さんって、ほんとうに好きな人がいたんだ。
そのことは友達にも、夏帆にも、もちろん父にも言わなかった。そのもっと前、母は父との結婚について、「お母さんの時代はそういうものだったから」したのだと夏帆と私に話してくれた。父と母はもともと家が近く、幼稚園から中学まで同じで、親同士も仲がよく、自然とそうまとまったのだということらしい。なので、母の本当に好きな人、は、父ではないのだと私は理解した。大人ってそういうものなんだ。それが受け入れられないというほどでもないが、嬉しくもなかった。現実の家庭は、おとぎ話のめでたしめでたしの先に、あるものではないらしい。
母の好きな人のことは、覚えていたくなかったのか、そのうち思い出すこともなくなった。けれどアルバムを見ていると、母という役割を常に負っている女性ではなく、一人の女の人を感じた。大切に育てられて、楽しそうに生きている人。恋をしていた人。
アルバムから、写真が一枚膝に落ちた。どこかに挟まっていたのだろう。それも母の写真だった。二十代の前半だろうか。黒いロングヘアにパーマを掛けて、夜景を背に微笑んでいる。大きめのベージュのトレンチコートに腕を通さず羽織っている。華やかで、幸福そうで。もともと清々しく美しかったその若い母は、この写真ではまたひときわ魅力的だった。さっきまで見ていたアルバムにあった積み重なった年月が、ここで花開いている。人生で一番美しい時期が焼きつけられている。
この人、恋をしている。
その唇は、はっきりと輪郭を取って赤く塗られていた。カメラを向けられて作ったのではなくて、つい溢れてしまった微笑み。カメラではなくて、それを持つ人を真っ直ぐに見つめている。本当に好きな人。
写真の隅には日付が載っている。一九九四年の十二月。両親が結婚する一年前だ。母はこのとき二十三歳。私が新卒の年だと思うと、とても若い。若くて、幸福な恋がここにはっきり写っている。
その写真にじっと見入っていると、階段が軋む音がした。母だ。慌ててアルバムに写真を挟むと、別のアルバムを開いた。
「アルバム見つかった? あらー、かわいい」
母が目を細める。開いたアルバムは私が生まれたときのものだった。パジャマ姿の母に、ぷくぷくとした、どこかふてぶてしい赤ちゃんが抱かれている。背景は病院だし、写真の日付からしても私は生まれたばかりなのだろう。
「……なんか、私新生児っぽくないね」
「そう? まああんたはお腹から出てくるの遅かったからねえ」
「髪が多いし」
「あー。お父さん譲りかな。お母さんは髪が細いから」
父の話題が出てぎくりとする。アルバムには、父が見るからにぎこちなく私を抱っこしている写真もあった。父は母と同い年なのでこの写真の時には二十六歳、つまり今の私より若いはずなのだが、とてもそうは見えない。がっしりとした体格の、無表情の男の人。短く刈られた髪が白くなり、顔に少し皺が増えればそのまま今の父になる。初めての我が子を抱いて、喜んでいるというより、戸惑っているようだ。
「お父さんこのあと泣いてたんだよ」
「本当?」
初耳だった。
「抱っこしたままいきなり泣き出すからお母さんもうびっくりしちゃった。ずーっと泣いてて。だから結婚式でも泣いちゃうかもね」
想像できない。なので、多分泣かないと思うよ、とも言いかねた。
アルバムには亡くなった母方の祖父母や、今も時々会いに行く父方の祖父母の写真もある。捲っていると、母が一人で写っている写真が出てきた。おそらくこの家を買う前に住んでいたアパートで撮ったものだろう。髪を一つに括って、黒い長袖のTシャツを着ている。食卓についているが、その前には何もない。困ったように笑っているが、唇に色がなく、頬もこけて、目の下には隈。見るからに元気がない。弱っている母を見ることがあまりないので、結構衝撃的だ。
「ああ、これ、つわりのときの写真だ。何も食べられなくて人生で一番痩せてたとき。こんなに元気ないこともないから撮ってってお父さんに頼んだの」
「あ、そうなの?」
「夏帆のときはそうでもなかったんだけど爽のときは本当にきつくて。白いご飯とかも気持ち悪いし、よく言われる酸っぱいものもねえ、だめで。色々食べられるものを探してたの。少しましにはなったけど臨月でも食欲なかったな」
「そうだったんだ」
全然知らなかった。母とは二十八年の付き合いになるのに、初めて知ることがどんどん出てくる。
「木村さんは爽がそういうとき、ちゃんと支えてくれそうな人?」
急に矛先がこちらに向いた。
「まあ、そうかな」
曖昧にしか返事ができない。木村さんにそういうことを期待できないというわけじゃない。女性特有の困りごとに理解があったり配慮が行き届いている人ではないけれど、私が弱れば素直に話を聞いてくれる人、ではある。してほしい、と言えば、特に理由を聞くこともなく、ただ、してくれる。家族以外の誰かにそうしてもらう経験がないので、その都度感動する。
なので不安があるのではなく、単に、子供のことはまだ何も考えてはいなかった。婚活で知り合った以上、そのうちに、とは、出会った頃に木村さんとも話していた。具体性のないそのうち。そのうち、と言っていられるほどお互い若くもないことは、重々承知しているけれど。でも。
「今は三十過ぎたお母さんなんか全然珍しくないけど、早いうちのほうが楽だよ。あんたはぼーっとしてるから、今のうちにちゃんと考えておきなさい」
「わかってるよ」
思っていることを先取りされて、ふてくされた受け答えをしてしまう。私はやらなくちゃと思っても行動に移すのが遅いので、よく母にはこうやって急かされていた。
「木村さんは優しそうな人だけど、あんたは何が決め手だったの?」
「何って……別に、何ってわけじゃないけど」
色んな人に聞かれたことを、母にも聞かれる。向こうのご両親に会ったときには緊張して「優しい」「きちんと自分が決めたことを実行できる」などと人事の評価みたいなことを言ってしまったのだが、母には友達に話すために用意した答えを披露した。
「決め手っていうか、条件でも性格でも、嫌なところがなかったから」
「まあ、結婚にはそれが一番かもね」
深くつっこまれなかったことにほっとした。木村さん。木村新さん。身長は一七一センチ。実家は埼玉。学歴は関東の公立大卒。瘦せ型で、眼鏡で、優しそうな雰囲気。趣味は映画鑑賞。いかにも結婚向きな男の人で、いい人捕まえたね、と、いろんな人に言われた。私はいい人捕まえたでしょ、という顔をしていた。婚活の勝者、みたいな顔。そういう顔をしているとあまり突っ込まれない。
実際には、私はうまいことやった、というわけじゃなかった。パーティーでちょうどいい人と出会って、とんとん拍子に進んで。外側だけ見たらそういうふうだけど、でも、私にとっては違うのだった。私と木村さんの間には、もっと、色々なことが起こっている。パーティーで話して、平穏な映画デートをして、でもそこには、色々、あるのだった。色々な、大切なことが。
でも、それを人にわかってもらおうとは思わない。いつかわかってほしい日が来るとしても、今ではない。母にも、友達にも、夏帆にも、まだ誰にも分けたくはない。自分の中でじっくりと確かめていたい。
母と二人でアルバムを確認していく。
「話してたらいつまでも終わらないから、とりあえず気になるものは全部抜いときなさい」
母の指示のもと、最後のアルバムまで確認して、めぼしい写真は確保しておいた。スライドに使うならこれで充分だろう。持ってきたクリアファイルにしまう。木村さんは何と言うだろうか。小さい頃の私を見て、可愛いとか愛しいとか考えてくれるんだろうか。木村さんはどんな写真を持ってきてくれるだろう。そんな浮かれ方をしていることを、やっぱりどうしても人に知られたくない。
「そうだ爽、あんたバッグとかいる?」
「バッグ?」
アルバムを元の通りにしまっていると、立ち上がった母がベッドの上に積まれた箱を指さして尋ねてきた。
「下の部屋片付けようと思って服とか鞄とか、よさそうなものはこの部屋に持ってきたの。ほしいものあったら持って行きなさい」
「はあ……」
「お母さんこういうのもう全然使わないから。古いけど結構いいものもあるはずだよ。お母さんの若い頃に買ったんだけど今よりずっと安かったから」
あまり乗り気になれずに箱を開けると、今では私の給料ではとても買えないようなハイブランドのハンドバッグだった。古めかしい形で今とロゴも違うけれど、あまり傷んではいなくてセンスのいい人がうまく合わせればお洒落かもしれない。私にはとても使いこなせそうもない。夏帆の好みでもなさそうだ。
「これさっきお母さんのアルバムに写ってた」
「あ、そう?」
「こっちの服もそうかも」
クリーニングのカバーをつけたままハンガーラックの端に掛かっているのは、母の古いワンピースだ。今の流行りに比べてはっきりと体の線が出るものだ。たまにテレビで特集されるトレンディドラマにでも出てきそうなデザイン。かなり高価なものに見える。
「こういうの、なかなか捨てられないねえ。爽か夏帆が着てくれたら嬉しいんだけど」
「私には絶対に似合わないよ」
夏帆も着ないと思う。
「そう? 似合うと思うけど……まあ、今風じゃないね」
母が私にワンピースを当ててきて、
「いいじゃない」
と言うので私も母に当て返して同じことを言ってみた。実際、髪をセットして化粧をすれば、母は今でもちゃんとこのワンピースが似合うだろう。母は冗談だと思ったようで苦笑している。
「こっちのコートはまだ着られるかも」
ワンピースは諦めて、ハンガーラックの残りの服をチェックしていく。来月に引っ越しを控えている身で自分のワードローブに加える気はないけれど、昔の母の服を見るのは楽しい。黒やグレイの落ち着いた色合いのものが多いが、デザインに若さと時代を感じる。どれも絶対に私には似合わないのがむしろ面白い。
「いる?」
と母に聞かれるたびに、
「遠慮します」
と首を振る。毎回本気で尋ねているらしく、母は残念そうだ。母に私はどんな女に見えているのだろう。
最後に掛かったコートらしき物を手に取る。ベージュのトレンチコートだった。有名なブランドの定番のコートなので、見覚えがあった。そっとビニールカバーを傷つかないように外してみると、メンズのようで随分大きい。
このコート。
あの、夜景を背にした一九九四年の母が羽織っていたコートだ。気付いてしまうと、自分の手にあることが気まずくなる。母のひどく柔らかい部分に無遠慮に触れてしまったような。元通りにカバーを掛けようとすると、母が私の手からコートを遠慮がちに、けれどしっかりと取り返した。
「これは、いいコートだけど、だめ」
聞いたことのない母の声だった。母になる前の、あの綺麗な若い、女の人の声。
コートを抱く母の化粧けのない頬と唇が、ほんのりとピンクに色づいていた。ずっと母の内に留めていた色が、隠し切れず滲んできている。
「……うん」
私がなんでもないふりをして頷くと、母はその場に漂う空気を振り払うように声を立てて笑った。いつもの母の顔だけれど、コートを掴む指の関節に力がこもって、少女みたいに赤らんでいる。
このコートについては、そっとしておいてあげよう。母の大切にしているものは、母だけのものにしてあげよう。
そう思っていると、母が言った。
「これはね、若い頃のお父さんの一張羅なの。無理して買ったコートだから」
一瞬、母の言っていることが理解できなかった。襟のところが捲れて、「光原」の刺繍が見えた。若い頃の父のコート。
なんだ。
そのコートを肩にかけた、あの写真の母の微笑み。それを写真に収めた父。母と、そして父が私たちの目には伏せていたものが、露になる。
平穏で幸福な光原家。その家庭の歴史の最初には、ああいう鮮やかな一瞬があって、それはきっと、今も変わらず鮮やかなままなのだ。私にも夏帆にも、そのすべては見ることができない。母と父だけのもの。三十年近く、もうずっとそうやって二人で抱えているものがある。
「じゃあ、大切なものだね」
私は優しく言った。
「……そうなの」
私が手渡したカバーを慎重にかけ直して母が頷いた。バッグや服を元に戻していると、母のスマホが短く鳴る。いつの間にか、外は暗くなっていた。
「お父さんケーキ買ったって。そろそろご飯の仕上げしなきゃ」
スマホを見た母が言う。さくらんぼも? と聞きかけて、ふと思いついたことを尋ねてみる。今日は私の誕生日。でも、私だけの記念日ではないのだ。そして誕生日のさくらんぼは、いつも次の日の朝にはなくなっていた。
「お母さんがつわりのときに食べてたのって、もしかしてさくらんぼなの?」
母が私を見て、いくらか恥ずかしそうに頷いて教えてくれる。
「それもアメリカンチェリーとかじゃなくて、国産のじゃないと食べられなかった。それまで好きってわけじゃなかったのにね」
笑ってしまう。そうだったんだ。
さくらんぼじゃないほうがいい、と駄々をこねる私を、父も母もどう思っていたんだろう。そう言えば、夏帆は私の誕生日の駄々には一度も乗ってこなかった。あの子は私よりもずっと察しがいいから、色々と気付いていたのかもしれない。今日の夜聞いてみないと。お姉ちゃんって何も気づいてなかったの、と呆れられるかもしれない。ありえる。私はこっそりあの写真を見せてあげよう。
「さて、茶碗蒸しと、唐揚げやらなきゃ」
母が少しわざとらしいほどの明るさで言い、台所に向かう。私もそれについて行く。
お母さんって、どうしてお父さんと結婚したの。
揺れる長い髪に、そう尋ねてみたくなる。でもせっかくなら、父が帰ってきてからでもいいだろう。父はどんな顔をするだろう。
木村さんに会いたくなった。私の本当に好きな人。私もいつか、そのことを誰かに話す日が来るだろうか。
母の好きな人は、もうすぐ帰ってくる。私へのケーキと、母へのさくらんぼを持って。
【おわり】