小野寺我聞のすべらない話
小野寺我聞は、池袋警察署に所属する齢三十の刑事である。現在、管内で発生した殺人事件を捜査中だが、警視庁の新たな試み「服役囚捜査加担措置」の一環として、服役囚とバディを組む羽目になった。「あんどれ」と名乗るその服役囚は、子供じみた性格で我聞の言うことをちっとも聞かない。これでは俺は捜査員じゃなくてベビーシッターだなと、肩を落として世話に追われる毎日だ。
「ねえガモちゃん」
がらんとした講堂で資料の整理をしていると、あんどれが椅子を揺らしながら言った。
「オレ、もう待ってるの飽きちゃったよ。その仕事、さっさと片づけてほしいな」
「誰かさんが手伝ってくれれば早く終わるんだが」
我聞は皮肉を込めて答えた。捜査員の人数分コピーした調書を、一部ずつホチキスで留めていく。
「ねえ、ガモちゃんってば」
「なんだよ、しつこいぞ。仕事中だ」
「オレ退屈なんだよ。なんか面白いことしてくれない? すべらない話なんかどう?」
「……サイコロがないからできない」
「へっへ、言うと思った」
あんどれはなぜか得意げに笑った。
「前にも同じセリフで断られたこと、オレが忘れたとでも思ったの? ほら、じゃーん」
そう言って、オレンジ色のダウンジャケットのポケットから何かを取り出す。小さく切った調書を折って作ったサイコロだった。
「そんなもの、いつ作ったんだ」
「今さっき、ガモちゃんが調書をコピーしてた時だけど」
「は……? ならこれ、一部足りないじゃないか」
机の上にある調書の山に目を向け、我聞は呆然と呟いた。後で追加のコピーを取りにいかなければ。
連日の激務のせいか、このところ、頭の中心が常にぼうっとしていた。充分な睡眠時間を確保できれば回復するはずだが、あいにく、仕事には終わりが見えない。
「眠いんでしょ」
あんどれに図星を指され、我聞は顔をしかめて「いや」と呻いた。サボってばかりの奴にそんなことを言い当てられたら、誰だって面白くない。
「強がらなくていいって。そのホチキス留めだってさ、気を紛らわしながらやった方がはかどると思うよ? 早くサイコロを振りなさいよ」
「お前が暇を潰したいだけだろ……」
無理やり握らされたサイコロに、我聞は視線を落とした。すべての面に「小野寺」とボールペンで書かれている。これじゃあ振っても無意味だろと、思わず笑ってしまった。
「仕方ないな……」
溜め息をついて、机の上にサイコロを転がす。結果は見るまでもない。
「言っておくが、俺に面白さを期待することがそもそもの間違いだ」
断りを入れてから我聞は語り始めた。
「これは俺が大学生の頃の話なんだが」
当時十九歳だった我聞は、アルバイト先の剣道教室から家へと向かう道を歩いていた。五月の夜の穏やかな風が、頭上に茂る青い葉を揺らしている。
そんな平和な空気を切り裂くように、バイクの排気音をこれでもかと響き渡らせる集団がいた。俗に言うヤンキー、つまりは不良たちだ。赤信号で停止中の車の間を、くねくねと蛇行して走っている。
「危ねえな……」
心の中で思っただけのつもりが、声に出してしまっていたと気づいたのは、「テメー今なんつった」と、一人の不良に凄まれた瞬間だった。路側帯を歩いていた我聞は、進路を変えた五、六台のバイクに、瞬く間に取り囲まれる。
何人かの不良がヘルメットを外した。眉を剃り、髪を染めているが、まだ高校生と思しきあどけない顔立ちだった。
「お兄サン、危ねえっつったけどな。俺たち別に道交法破ってねンだわ。それとも俺らみたいなのは外走るなってか? あ?」
「そこまで言ってないだろ……」
面倒なことになったなと、我聞は思わず一歩後ろに下がった。将来は警察官になるつもりだが、まだ何の資格も持っていない自分が、今ここで取り締まりの真似事をすることはできない。しかし、この不良たちはそう簡単に諦めてくれそうもない。
「あーあ、俺たちなんも悪いことしてないのに、いちゃもん付けられて可哀想」
「これってブジョク罪? 名誉キソン? 慰謝料請求しちゃおっかな~」
不良たちはじりじりと距離を詰めてくる。我聞は冷たい汗が背中を滑り落ちていくのを感じた。肩にかけていた竹刀袋に、こっそりと手を伸ばす。
その時だった。
「テメーら何してんだよっ!」
突如として怒声が飛んできた。見てみると、青信号に切り替わった道路を、彗星のように飛んでくる一台のバイクがいた。夜闇の中で、メタリックなピンク色の車体が輝いている。
「げっ、杏里」
「杏里だ」
我聞に摑みかかろうとしていた二人の不良が、パッと手を離して気まずそうに目配せし合った。猛スピードで近づいてきたバイクは、急ブレーキで前につんのめりながら停まる。
「こいつ、誰?」
ドライバーがひらりと地面に降り立ち、ヘルメットを外しながら尋ねた。ウェーブのかかった髪が肩に流れ、焦げ茶の鋭い瞳が我聞を見つめる。彼女もまた、まだ十代のようだ。
「……俺らに、文句付けてきた奴っす」
不良の一人が口を尖らせて答える。さっきまでの威勢はどこへ行ったのか、今は不貞腐れている子どもにしか見えなかった。
「ふーん……」
我聞を睨み上げたまま、彼女は腕を組んだ。風で髪がなびき、右耳に並んだ三つのピアスが光る。
「文句って、何? 私に言って」
「俺はただ……車間距離を取らないと危ないと思って……」
「だってさ。わかった?」
彼女が後ろを振り返ると、不良たちは次々に頷いた。「杏里、今日は来ないはずだったんじゃ」と、一人が思い出したように呟く。
「たまには息抜きしようと思ってさ」
「勉強なんかしてどうするんだよ。お前の夢、俺たちにも教えてくれたっていいじゃねえか」
「嫌だね。絶対バカにされる」
そう言って彼女が鼻を鳴らすのと、「ちょっといいかな」と男の声がするのが同時だった。
「君、さっきそのピンクのバイク運転してただろ。時速五十キロオーバーで十二点の違反。免許停止処分だ」
バインダーを携えた警察官が、いつの間にかそばに立っていた。違反を指摘された彼女は「えっ」と頬を引きつらせる。
「杏里……俺たちはいつかお前がこうなると思ってたよ」
「運転ヘタクソだもんな」
「すぐ電柱にこするし」
不良たちが口々に言う。
「お前ら、急にお喋りになりやがって……」
食いしばった歯の隙間から、彼女は悔しそうに声を絞り出した。「後で覚えてろよ」
「ええと、君はどうしてここに立ってるの?」
警察官が我聞に尋ねた。
「いや……どうしてだったか……」
首を傾げて答えると、「うん? じゃあ気を付けて帰りなさいね」と警察官はあっさり解放してくれた。我聞はそれから無事に家へ帰り着いたが、妙な出来事に巻き込まれたものだと、以来、その日の記憶がずっと頭の片隅に留まり続けている。
「運転ヘタクソ姐さんはその後どうなったの?」
話を聞き終えたあんどれが言った。
「知らん。俺が彼女を見たのはそれが最初で最後だ」
我聞は調書をホチキスで留めながら答える。
「姐さんの夢ってなんだったのかな」
「俺に訊いても仕方ないだろ」
「知りたいな。案外、近くにいるかもしれないよね?」
あんどれは机の上に脚を投げ出した。
「不良なのに正義の味方っぽくて、なんか親近感が湧くな。囚人なのに捜査本部にいるオレと似たようなもんじゃない?」
「お喋りだけじゃ、捜査官にはなれないぞ」
我聞がぼやくと、講堂のドアが開いた。
「楽しそうな声がしたから、私も加わろうと思って来たけど……なんだ、普通に雑用してるだけじゃないか」
阪井係長が意外そうに言った。
「楽しい思いをしてるのはこいつだけですよ」
我聞はあんどれを顎で示す。細く開けた窓から、街を徘徊するバイクの音が聞こえてきた。
「――懐かしいな」
阪井係長が呟く。
「何ですか?」
よく聞こえずに我聞は訊き返したが、彼女が同じ言葉を繰り返すことはなかった。
「たまには部下の雑用でも手伝ってやるかな」
そう言ってそばの椅子を引いて座り、調書の山に手を伸ばす。素早く一部取って端を揃え、我聞に渡してきた。
「ありがとうございます」
「こうやって時々優しくすることが、いい上司になるための第一歩だったりするんだよ」
彼女は真面目な口ぶりで言う。
「オレ、気づいちゃったかも」
あんどれがにやりと笑った。
「何に気づいたんだ? 事件の真相か」
「違うよーん。ガモちゃんにも、いつかわかるといいね」
「一体なんなんだ……」
頭を悩ませる我聞の隣で、阪井係長がすっと髪をかき上げた。今や刑事課強行犯係の首脳となった彼女の右耳には、過去の名残の三連ピアスの穴が、星のように小さく並んでいた。
【おわり】