僕の目を見て
他の教科では一位しかとったことがないけれど、古典だけは本当に苦手。何が書いてあるのかさっぱりわからないし、同じ日本語だと思えない。ああ古典、一刻も早く教育課程から消えてくれ。どうか私が高校生であるうちに。
新学期の一番始めの授業で、最悪なことに抜き打ちテストがあった。先生は「簡単だから間違えたら恥ずかしいぞー」と言って、みんなも「そうだよなあ」と笑っていたけれど、私は大ピンチだった。冷たい汗が背中を伝い落ちていくのを感じて、隣の席の可児先輩の様子をこっそりと盗み見る。
「あの古典の先生な、一番初めの授業で抜き打ちテストをするんだよ。すごく簡単なんだけど、念のため、ミル子ちゃんが来年あの先生に当たった時に恥をかかないよう、僕が今から答えを教えとく」
可児先輩にそう言われたのは、今からちょうど一年前のことだ。その頃の私は、部活が終わった後に可児先輩と二人で道場の床にモップをかけながら、くだらない話をするのが世界で一番好きだった。可児先輩は声が優しくて、手が大きくて、剣道がすごく強い。そして私と真反対で、古典が大の得意らしい。
去年の新入生歓迎会の中の部活動紹介で、バスケ部が総勢五十人のダンスパフォーマンスを繰り広げた後、可児先輩はたった一人で一年生たちの前に立った。濃紺の道着を身に着け、右手に竹刀を、左手にマイクを握っている。
「剣道部の主将をしています、可児渉といいます。一年生の皆さん、ご入学おめでとうございます。現在、剣道部の部員は僕一人だけで、学校的には同好会という扱いになります。えー……剣道は、とても楽しいです。素振りをします」
可児先輩はマイクのスイッチを切って体育館の床に置き、蹲踞の姿勢を取った。立ち上がって竹刀を構える。眉が吊り上がり、口がカッと開いた。
「正面素振り、始めえッ!」
「ヤーッ!」
「一ッ! 二ッ! 三ッ! 四ッ!」
「もう一回!」
「一ッ! 二ッ! 三ッ! 四ッ!」
本来なら合図も掛け声も何人かで分担するのだろうけど、可児先輩は全部一人でやっていた。素振り自体には迫力があったけど、さっきのバスケ部と比べると、やっぱりどうしてもカッコよさより寂しさが目立った。もういいよ、やめなよ、と多分この場にいる可児先輩以外の全員が思っている。あと何回やるつもりなんだろう。
「ありがとうございました。……えー……剣道は、とても楽しいです。ぜひ入部してください」
活動日も活動場所も言い忘れ、可児先輩はお辞儀をして脇にはけた。まばらな拍手が起こる。次の瞬間、派手な音楽と共にサッカー部がリフティングをしながら登場してきて、みんな一瞬でそっちに目を奪われた。その時はまさか私も、自分が剣道部に入ることになるなんて思ってもみなかった。
数日後、バスケ部の体験入部に向かっていたら、どうやら自分が場所を間違えているらしいことに気づいた。体育館に向かっているはずなのに、ボールが弾む音も、シューズと床がこすれる音も一向に聞こえてこない。嘘でしょ、とげんなりして室内を覗き込んだら、そこは剣道場だった。防具を付けたマネキンを相手に、可児先輩が一人で打ち込みをしている。
「あのー、すみません」
私が声をかけると可児先輩は即座に気づき、ダッシュで距離を詰めてきた。
「何? あっ体験入部? 来てくれたの? ほんとに?」
そう言って目を輝かせる。ほんとに? と繰り返しながら、にこにこして竹刀を握る手に力を込めた。ガッツポーズの代わりらしい。
私は申し訳なくなってしまった。もしここで「バスケ部に行くんです、だから体育館の場所を教えてください」なんて言ったら、この人はきっと、すごく悲しい顔をするんだろう。嫌だなぁ、そんなの見たくない。そう思って、ちょっと、いやかなり、迷った。
「どうしようか、とりあえず道着に着替えて……って、経験者じゃないのかな。じゃあ防具も竹刀も持ってない?」
「はい……」
「そっか、大丈夫。ぜんっぜん、大丈夫。学校のがあるから、とりあえず今日はそれ使って。本格的にやりたいってなったら、ちょっとずつ、無理のない範囲で買い揃えていけばいいから」
ね、と笑いかけられる。一緒に遊ぼうと無邪気に誘う、小さな男の子みたいな表情だった。私はその日、流されるままに正面素振りを教わり、その次の日は左右面素振りを、そのまた次の日は一挙動素振りを教わって帰った。
本入部できる期間になると、可児先輩が教室まで入部届を持ってきた。
「これ、もし入部する気があったら提出して。別に強要してるつもりじゃないんだ。でもミル子ちゃんが入ってくれたら、僕、ほんとに嬉しいから」
そんなことを言われたら、いよいよ引くに引けなくなってしまった。そもそも、何日も体験入部に来ておいて本入部しない方がおかしいのだ。期待させていたに決まってる。もともとバスケ部に強いこだわりがあったわけでもないし、私は剣道部に入部することにした。きつかったら辞めればいいし、何より、可児先輩に興味があった。
心に余裕がなくなると、人はどうしても無愛想になってしまうらしいということに、私はこの十五年と少しの人生の中で気づいた。けれど可児先輩からは、全然そんな感じがしない。ゆるやかなご機嫌の状態が、常に保たれているのだ。微笑みがデフォルトの人を見たのは初めてだった。
バスケ部に体育館を占領されたバレー部が勝手に道場でパス練をしていても、体育の授業で見知らぬ生徒に勝手に防具を使われても、可児先輩は決して怒らない。
「体育館がもう少し広ければいいのにね」
「僕がここに置いてたのが悪かったから」
そう言ってその場を収め、次の瞬間には鼻唄を歌いながら部活の準備を始めている。ふんふんと、へたくそなメロディが道場全体に響く。
いざ部員になって始めてみると剣道は想像以上にやりがいがあって、私はすぐにお年玉貯金を切り崩して道着と防具一式を買い揃えた。技の動きを一つ一つ先輩に教わっていると、時間が一瞬で溶けた。活動日になると時計の針はあっという間に進んで、でもそれ以外の日は、太陽が沈むまでをひどく長く感じた。
――来年になったら、可児先輩は引退しちゃうのか。そしたら、部員は私一人? そんなの、つまんない。悲しい。行かないで先輩。進級しないで。
そう思っていたら、最悪な形で神様に願いが届いたらしい。
夏休みの学校閉鎖期間が開けたら、可児先輩は学校から消えていた。
「小学生の頃に通ってた道場で指導の手伝いをしてたら、アキレス腱をやっちまったらしい。部活は当分休むからお前に謝っておいてくれって、電話で言ってた」
顧問は気の毒そうにそう言って、マグカップのコーヒーを啜った。
私は絶句し、同時に、最後に可児先輩に会った時のことを思い出した。あの日は普段通りに準備をして、普段通りに練習メニューをこなし、普段通りにモップを掛けてから一緒に帰った。ちょうど午後の日差しが強い時間帯で、光化学スモッグ注意報の発令を知らせる放送が、耳の奥でわんわんこだましたことを覚えている。「これ、いつもうるさいよな」と笑った可児先輩の顔も、はっきりと思い出せる。
職員室を出た後、慌ててLINEを送ってみたら、半日経ってからようやく既読がついた。「無問題」という文字を掲げて踊るウーパールーパーのスタンプが送られてきた。その後も私はやりとりを続けようと試みたものの、可児先輩の返信は一日後になり、一週間後になり、文面もどんどんそっけなくなって、やがて既読すらつかなくなってしまった。学校には、夏休み以降一度も来ていないようだった。
一年の残り半年間、私はひたすら剣道漬けの日々を過ごした。一人になったからといって、やめるという選択肢は頭の中にはなかった。教わったことを無駄にしたくなかったのだ。毎日練習していると、竹刀を構える手に徐々に力が籠もるようになり、素振りをするたびに空気が鋭く鳴るようになった。手にまめができ、皮膚が分厚くなった。
努力の成果を、先輩に見てもらいたかった。試合をして「ミル子ちゃん、強くなったね」と言ってもらいたかった。そう思い続けて月日が経った。日に日に気温が上がるなと思って初めて、この冬はマフラーを巻くのを忘れていたことに気づいた。
新学期になると、クラス替えがあった。予鈴が鳴る頃になるとみんなほとんど登校してきて机に鞄を置いたけれど、私の隣の席だけ、いつまでもぽつりと空いていた。
本鈴が鳴ると、担任の先生が入ってきた。教卓に名簿を置いて言う。
「えーみんな、新しいクラスになって喋りたいことがたくさんあるだろうが、まず初めに、今年から同学年になった生徒を一人紹介したい。知っている人もいるかな」
先生が廊下に向かって手招きすると、ドアを開けて入ってくる人がいた。
私の目は釘付けになる。
黒板の前に立って、その人は言った。
「やあみな、我が名は可児渉なり。いかでよろしく」
かすかな違和感を覚える出来事が、ここ数日でいくつか起こった。
まず一つ目に、可児先輩は古語で喋るようになった。
「やあミル子、朝餉や食ひし?」
こんな喋り方をする理由が同学年になったからなら、私ももう、先輩と呼ぶのはやめよう。「可児くん」は、私のことをからかっているに違いなかった。きっと久々に会ったこととか、留年してしまったこととかが原因で、この人は恥ずかしがっているだけなのだ。それで照れ隠しに、こんな変な喋り方をしている。
私が苦手な古語をチョイスしてきたのは腹が立つけれど、茶番に付き合ってみるのも悪くはない気がした。どんなに調子が変わったように見えても、可児くんが復学してくれたことは嬉しい。
答えを教えてもらっていたはずの古典のテストでは、去年と全然違う問題が出された。パニックになった私は、机の上で頭を抱えて思わず笑ってしまう。どうしよう、一問も解けない。
解答時間が終わって隣同士で採点し合う時「毎年同じ問題じゃないんですね」と言ったら、可児くんは「は?」と眉を上げた。
「同じ問題とは、何ぞ」
まだふざけるつもりなのかと思って、私はちょっとムッとしてしまう。笑う気になれなくて、黙って可児くんの解答用紙に視線を落とした。筆圧の濃い右上がりの字。当然の満点だった。そこでふと気づいた。
――この人は、一年も前に話したことなんか忘れてしまっているのかもしれない。私は可児くんと話したことは全部と言っていいくらい完璧に覚えているけれど、そんなの、相手も同じとは限らない。
ひとまず私は、二つ目の違和感も心の引き出しにしまっておくことにした。
アキレス腱が断裂してしまったら、当分はギプスを付けて生活しなければならないというのを聞いたことがある。けれど登校初日から可児くんはそんなものを付けてはいなかったし、まるで怪我をしていたこと自体が嘘だったかのように、ごく普通に歩いていた。
「足、大丈夫なんですか」
私が尋ねると虚を衝かれたような顔をして、一瞬の間ののちに頷く。追加で質問しようとしたら、ふいとそっぽを向かれてしまった。あまり根掘り葉掘り聞かない方がいいのかもしれない。
部活動はその日の放課後から始めてもいいことになっていて、帰りのホームルームが終わると、私はすぐに道着が入った袋と竹刀を手にした。隣で教科書を鞄にしまっている可児くんに訊く。
「鍵、どっちが取ってきます? じゃんけんしましょうか」
「鍵?」
可児くんは目を瞬いた。「鍵とは、何ぞ」と、私の顔を見て尋ねる。
「剣道場の鍵。今日から部活開始ですよね? 必要なもの持ってきました?」
ほら、と私が自分の竹刀を掲げると、可児くんは不思議そうな表情で紺色の袋の上からそれに触れた。指先に力が籠もる。みしっ、と弦の部分がきしむ感触が、私の手にも伝わってきた。
「――我は、剣道部に入れりや?」
「えっ?」
一瞬、聞き間違いかと思った。とぼけられているんだと思って私は軽く答えた。
「そうですよ。変なこと訊かないでください」
可児くんはまだ不思議そうな顔をしている。竹刀袋から手を下ろしたかと思うと、小首を傾げて呟いた。
「渉は、さることは言わざりきな」
「はい?」
今、なんて言った?
「……何でもなし」
可児くんは私から視線をそらし、ひょいと鞄を肩にかけた。
もう一度訊き返すことはできなかった。聞き間違いか、それとも私が本当に意味を理解できていないだけだろうか? 笑い飛ばすのが怖かったけど、笑うしかなかった。怪我をして頭までおかしくなったんですか? なんて言えない。だって本当だったら怖い。
「……鍵、私が取ってきます」
これ以上変な想像を働かせたくなくて、ほとんど走って教室を後にした。可児くんは何も言わずに、こめかみのあたりをぽりぽりと掻いていた。
職員室で道場の鍵を借りて戻ってくると、可児くんはいなくなっていた。
「ねぇ。可児渉くん、どこに行ったか知ってる?」
おそるおそる他のクラスメイトに尋ねたら「さっき帰ったよ」と短い答えが返ってきた。
「ミル子ちゃん、どうかしたの?」
「ううん、大丈夫」
笑顔を取り繕って首を振る。頭がさび付いてしまったみたいに重かった。ペットボトルの水を飲むと、水滴がいくつも口の端から零れた。
せっかく、可児くんに強くなった私を見てもらえると思ったのに。どうして知らないふりなんかするの? わけがわからなくて、ただ寂しかった。開け放した窓から強い風が吹き込んできて、外にいる誰かの笑い声や喋り声を、とても遠くに感じた。
道場と本校舎の屋上の鍵は、型番が同じらしい。
そのことを教えてくれたのは可児先輩だった。学園ドラマによくある屋上のシーンが好きだと私が言ったら、実は、と話してくれたのだ。
「僕、まだミル子ちゃんがいなかった頃にここの鍵をなくしたことがあってさ。そしたら管理人のおじさんが屋上の鍵を貸してくれた。同じ型だから使えるだろって。まあ失くした方の鍵は結局、鞄の中から見つかったんだけど」
そう言って可児先輩は、水筒のそばに置いていた鍵を拾い上げた。手の中でチャリチャリと鳴らす。メッキがぼろぼろになって剥がれ落ちたカラビナには、歴代の主将たちが残していったストラップが大量にぶら下がっている。可児先輩のはウーパールーパーだ。
「僕がミル子ちゃんを、学園ドラマの主人公にしてあげよう」
そう言って可児先輩は世にも優しい悪ガキみたいに笑い、用具入れにモップを片付けた。道着のまますたすたと本校舎に入り、階段を上っていく。
可児先輩の後ろをついていきながら、私は自分たちのたくらみが誰かにばれてしまうんじゃないかと恐くて、五秒に一回は後ろを振り返らなければ気が済まなかった。足袋越しに、ひんやりと冷たくて硬い床の感触が伝わってくる。
一度、後ろを向いた拍子に階段から足を踏み外してしまいそうになった。「危ないよ」可児先輩が困った顔で言った。
鍵穴に鍵を差し込むと、屋上へと続くドアは本当に開いた。風で前髪が掻き上げられ、道着の裾がぱたぱたとはためく。しかし私が足を踏み出した瞬間、ぽつりとコンクリートの一点が濃い灰色に染まった。
「雨?」
私たちは同時に空を仰ぎ見る。水滴が落ちてくる間隔はどんどん短くなり、すぐに本格的な雷雨になった。私たちはドアのそばで立ち尽くした。
「ごめんね」
可児先輩が肩を落として言う。湿気のせいで、前髪まで元気がなくなっていた。
「せっかくミル子ちゃんの夢を現実にしてあげられると思ったのに。僕はこういうところで失敗しちゃうからいけない」
「でも楽しかったですよ。私、自分からこういうことしようと思わないから」
「ミル子ちゃんは優等生だね」
「先輩もそうでしょ」
「そんなことはない。僕はみんなに見えないところで色々と手を抜いている」
「嘘?」
「ほんとだよ。僕の目を見て? 嘘ついてるように見える?」
「ドラマ以外でそんなこと言う人初めて見ました」
道場と屋上の鍵はそれから付け替えられることもなく、今でも同じ型番のままだ。可児先輩がいなくなった後、私がそれを使って屋上に上がることは一度もなかった。一人では意味がなかったのだ。かと言って、他の人を誘うのは違う気がした。
今朝、私が朝練のために早く登校すると、隣の机の上に可児くんの鞄が置かれていた。肝心の本人の姿はどこにもない。私は不安と期待がないまぜになった状態で、自分の机の上に鞄を置き、道着を入れた袋と竹刀を携えて職員室へ向かった。
「鍵? さっき可児が借りてったけど」
パソコンと向き合っていた顧問は、湯気の立つマグカップを口元に運びながらそう言った。コーヒーの匂いが鼻をくすぐる。「可児の奴、喋り方変わったよな」みたいなことを、何でもいいから言ってくれたらいいのにと私は思った。そうしたら、私はこの奇妙な違和感を自分の中だけにとどめずに済むから。
本校舎を後にした私は、道場のドアにこわごわ手をかけた。
力を込めて引っ張る。
開かない。
嫌な予感が、指先から洪水のようにドッと流れ込んでくるのを感じた。
可児くんがあの鍵を持ってどこへ向かったのか大体の見当がついて、でもそのことが同時に、私を悲しくさせた。一人で行ってほしくなかったのだ。屋上の侵入に再チャレンジするなら、誘ってほしかったと思うのは私のわがままだろうか? それとも可児くんは喋り方が変わったせいで、優しさまで失ってしまったのだろうか……。
ドアの前で立ち止り、不安が最大限まで膨れた頭を落ち着かせる。取っ手に手をかけると、道場の時とは違っていとも簡単に開いた。外の空気が流れ込んでくる。
鳩がいた。
数えきれないほどの鳩を腕や肩や頭に留めて、羽ばたきで舞う羽毛の中、堂々と立っている人が一人いた。
「可児くん!」
そこにいるのは紛れもない可児くんだった。パンツだけを身に着けた限りなく全裸に近い格好で、太陽を崇め奉るかのように手を掲げている。全身の皮膚が、オレンジ色に光り輝いている。
私は眩しさに目を細め、次に笑い出してしまった。人は度を越して驚いた時はかえって叫べず、むしろ馬鹿らしくなるものだと初めて知った。だって、こんなの予想外すぎる。自分の妄想だと疑いたくても、私の頭では到底思いつけそうにない。
気配に気づいたのか、可児くんがくるりと振り向いた。鳩が空に向かって一斉に飛び立ち、太陽の丸いシルエットに、黒い羽根の影が重なる。
「ミル子」
可児くんの唇が動いた。
「この日ごろ、汝は怪しがれりな。いかで可児渉は、怪我の後遺症もなく歩めりや。剣道のことを覚えたらずや」
「……えっ? は? なんて言ってるのかわからないです」
私が混乱していると、可児くんがずいと距離を詰めてきた。鼻先と鼻先が触れそうになり、驚いて一歩後ずさると、また一歩近づいてきた。光り輝いていたオレンジ色の皮膚が、すっと元に戻る。そうしていると、本当にただほぼ全裸の可児くんがそこに立っているだけだ。私は急に恥ずかしくなってきてしまった。
「渉、って」
「汝の親しき方の我がことなり」
「……一旦、普通の言葉で喋ってもらっていいですか?」
冗談めかして頼んでみると、可児くんはフンと鼻を鳴らした。屋上のコンクリートの上に脱ぎ捨てていた制服を、ばさばさと音を立てながら身に着けていく。
「――昨日のことを伝へば、汝に隠し通すはあたはずと渉に言はれき。なれば汝には打ち明けむ」
「んぇ? …………ちょっと!」
ぽかんとしていた私は、突然ぐいと腕を引っ張られて我に返った。可児くんは私を連れて屋上から校舎へ入り、そのまま階段を下ろうとする。
「待ってください。全然話が見えないんだけど」
「黙りてつきこ。いたづらに騒ぐべからず」
「あなた誰なんですか。可児くんじゃないんですか? 私をどこに連れてく気?」
「らうがはしきかな。いかで渉は、かかる女の恋しきなり?」
可児くんが私の腕をつかんだまま二段飛ばしで階段を下るものだから、私は転げ落ちないようにするだけで精いっぱいだった。下駄箱の前を通る。
「ま、待って」
「何ぞ」
「外に出るんですか? もうすぐホームルームが始まる時間です」
今後の人生で、私はおそらく一度たりともその時の可児くんの表情を忘れることはないだろう。上機嫌のかけらもない、ただ私のことを「うるせぇ女だな」としか思っていない顔だった。
凍り付いた私をよそに、可児くんは再び前に向き直って歩き始めた。
【可児】と表札が出た一軒家の前で、可児くんは立ち止まった。スラックスのポケットから鍵を取り出し、ドアを開ける。
「渉」
玄関を入ってすぐ目の前にある階段の、上の方に向かって可児くんは呼びかけた。
「はあい」
間延びした声が聞こえた。トン、トン、と一段ずつ階段を降りてくる足音がして、二階から人影が覗く。
「あ、ミル子ちゃん」
そう言って、可児くんはにっこり微笑んだ。
「あ、こんにちは」
私は思わず挨拶し、続いて自分の隣に立っている人物にぎょっとして目を向ける。そこにいるのも、他でもない可児くんだった。
同じ人間が同じ空間に二人いた。
「な、な……」
「なんでかって?」
階段にいる方の可児くんが言葉を引き継いだ。
「言っただろ。僕はみんなの見えないところで色々と手を抜いているって」
「で、でも……」
「ミル子は心得るが遅し」
玄関にいる方の可児くんがぼやいた。いらついている様子だ。
「仕方ないよ。誰だって、君みたいなのに遭遇したらそうなる」
階段の方の可児くんが言った。「とりあえず部屋においで」と、私を手招きする。
階段を上がって突き当たりが可児くんの部屋らしかった。入るのは初めてだ。ベッドカバーもデスクチェアも黒っぽいグレーで、整理整頓が行き届いている。余計なものが何一つないと思ったら、棚の一番上に、小さなウーパールーパーのぬいぐるみがあった。去年の部活の帰りに、私がUFOキャッチャーで取ってあげたものだ。
「どうぞどうぞ」
片方の可児くんが、私をデスクチェアに座らせた。
「我はこなたに居る」
もう片方の可児くんが、どかっとベッドに腰を下ろした。残った方の可児くんもその隣に座る。
同じ人間が横並びになっている。けれどそれを見て初めて、私は両者が完全に一致するわけではないことに気づいた。片方の可児くんは優しげで、もう片方は厳めしい。まるで角度によって表情が変わって見える能面のように、比べてみると別物としか思えない内面の違いがあった。
優しげな方に向かって、私は手を差し伸べる。
「あなたが……私が知っていた可児先輩?」
「正解」可児先輩は頷いた。
「それで、あなたが――」
残った厳めしい方へ、私は手を差し伸べる。続けるべき言葉が思い当たらない。
「……あなたは、誰?」
二人いるうちの優しい方が、私が去年まで一緒に部活をしていた「可児先輩」。厳しい方が、私が新学期から接してきた「可児くん」。私は二人を一人の可児渉という人物だと思い込んでいたのだ。でも、可児先輩が双子だなんて話は聞いたことがない。
「ミル子ちゃん。彼はね、妖怪」
可児先輩が、可児くんの肩に手を置いて言った。
「妖怪は俗称なり。□×☒◆◎★と呼ぶべし」
「発音できないんだよ」
可児先輩は困ったように笑う。
「何て言えばいいのかな。ものすごく簡単に、僕が彼から聞いた話を百分の一くらいに要約すると、彼は古代から様々な生物に擬態することで存在してきた異類の生き残りなんだ」
「その通りなり」
可児くんが腕を組んで頷いた。
「我とせば、くまなく演じたらむとすれど。渉はいかにも口調が気に食はずめり。我には言の葉の微細なる違ひの判らぬ」
「人間に化けるのは久々らしくてね。言葉がアップデートされてないんだ」
可児先輩は肩を落とした。
「そうだったんですね」
私が言うと、二人は驚いたように顔を上げた。つかの間、どんなに精巧な顔認証システムでも見分けられないほどそっくりになる。
「信じるの?」
「信ずや?」
「だって、受け入れちゃった方が辻褄合いますから」
依然として混乱してはいたけれど、どこか安心してしまったのも事実だった。可児渉という一人の人間の性格が変わってしまうよりも、まったくの別人に入れ替わっていた方が、私にとっては都合がいい。以前のままの可児先輩が存在しているということ、それだけが重要だった。
「……それに、可児くんがパンツ一丁で光ってるとこ見ちゃったし」
「光合成なり」
可児くんが尊大な口調で言った。
「汝らは食物を取り込みて精力を獲得すれど、我々はさる危険かつ非効率なよしは使はず。独立栄養生物なり」
「僕があげたチーズバーガーは喜んで食ってたじゃないか」
「あな、嗜好品とせばあれぞやんごとなき」
チーズバーガーの味を思い出したのか、可児くんは頬を緩める。可児先輩は苦笑してそれを眺めていた。
「ああほら、君、また何か食べたのに歯を磨かなかったろ。虫歯ができてる」
可児先輩は立ち上がって部屋を出ていったかと思うと、お母さんのものらしい手鏡を持ってきて可児くんに渡した。手鏡を顔の前に掲げ、可児くんはニッと歯をむき出す。前歯の一部が黒ずんでいるのが私にも見えた。
「これぞ?」
「そう、それ」
可児くんが片手で口元を覆った。バチンと乾いた音がして何かが光り、手を下ろすと虫歯は跡形もなく消えていた。
「――あの」
私が小さく挙手すると、二人の可児渉は同時にこちらに目を向ける。
「二人は、いつまでこんな感じなんですか? 擬態っていつ終わるの? いつになったら、本物の可児先輩が学校に来るようになるんですか?」
「あと二週間なり」可児くんが答えた。
「我は一か月ごとに擬態対象を変ふる。渉の擬態を始めしは今よりちょうど二週間前なれば、残り半分なり」
「ミル子ちゃん、意味わかった?」
可児先輩が尋ねる。
「たぶん」私は曖昧に頷いた。
「っていうか、可児先輩のご両親はこのことご存じなんですか? こんなにそっくりなんだから、友達で通すのは無理がありますよね」
「そこはうまくやってるんだよ」可児先輩が答えた。
「彼は学校から帰ってくるのと同時に、庭かクローゼットに隠れて僕と交代する。両親は共働きだから、それほど困ることもないんだ。彼が食事を必要としないことに助けられたな」
「ミル子は、渉に学校に来まほしや?」
可児くんが尋ねる。
「まほし?」私は聞き返した。
「ミル子ちゃんは、本物の僕に学校に来てほしいのかって」
可児先輩が翻訳してくれた。
「それはそうですよ。だって、こっちの可児くんだと剣道ができないですから。言葉もわからないし」
「僕が妖怪を代わりに学校に行かせてること、誰かに話す?」
不安げな顔で尋ねられた。
「ううん。誰にも言いません。頭がおかしくなっちゃったと思われたら、私も先輩も学校に行けなくなっちゃうから。私は、先輩と早く部活がしたいだけなので」
「ミル子ちゃん」
唐突に言葉を遮られた。
「悪いけど、僕はもう剣道はやらないよ」
「――えっ?」
自分の声が、宙に浮かんで消えるのを私は聞いた。可児くんが話す古語よりも、もっとずっと意味がわからなかった。
「……何言ってるんですか。先輩が剣道を辞めるなんて有り得ないでしょ」
「有り得なくない。もう決めたんだ」
「どうして……」
私は言葉を切り、はっとして可児先輩の足元に目を向けた。
「怪我をしたからですか? でも、それはもうリハビリも終わってるはずでしょ?」
「リハビリが終わっても、前とは違うんだよ」
可児先輩はうなだれて顔を覆った。目を見て言ってくれないことが私は悲しかった。
「もう前と同じ感覚には戻れない。これから練習をして、以前のレベルに戻るには何年かかると思う? 大会に出ても笑われるだけだ。ミル子ちゃんと打ち合っても、きっとがっかりされる。楽しくなくなったんだ……剣道のことを考えるのが。所詮、僕なんかその程度だったってことだ」
可児先輩は最後にはほとんど泣き声になってそう言い、しばらくしてから慌てて「ごめん」と顔を上げた。目が赤くなっている。
「暗い話なんかしちゃ駄目だな……。ミル子ちゃんには、本当に申し訳ないと思ってる。僕の代わりに、新入部員がたくさん入ってくれるといいね」
「先輩……」
ここで何かカッコいいことを言えたら、私はこんなにも悲しい気持ちにならずに済んだのかもしれない。僕なんか、暗い話なんかって、じゃあ、その可児先輩に憧れてる私は何なんですか? 暗い話の詳細を聞かせてほしいと思っている私も、先輩にとって「なんか」で片付けられてしまうような存在なんですか?
「ごめんね」
可児先輩がもう一度謝った。
「今日は、帰ってくれないかな」
私がデスクチェアから立ち上がって部屋を出ると、可児くんが後をついてきた。無言で階段を下って外に出る。
「……あなたは、怪我してないんだね」
玄関先で私が言うと、可児くんは小さく頷いた。その顔を覗き込んだ私は、瞳の奥に金色の粉でできた虫のようなものが羽ばたいていることに気づいた。
「擬態と言へども、体の細部までは一致させられぬなり。我が足には傷痕もあらず」
そう言って、スラックスの裾をたくし上げて見せてくる。
「渉とて、常日頃は足を引きずりたらず。怪我自体はおこたりて、はやくなのめに歩むべかるべくなれり。されど心がそれを妨げたり」
赤点や最下位を取ったことは何度もあるけれど、今日ほど古典が苦手なことを憎く思った日はない。私は何回か聞き直して可児くんのその言葉を暗記し、帰ってから辞典を使って翻訳に取り掛かった。テストや授業のためなんかじゃない、私が大好きな先輩のためにやるのだ。そう思ったらかつてないほど頑張れた。最後まで現代語訳したらわかった。可児先輩の体は怪我から回復しても、心は未だに前に進めずにいるのだ。
可児くんは毎日登校してきた。授業や周囲の人のお喋りを聞いて、現代語を学習しているようだ。話し方がどんどん変わっていった。
「ミル子、けふは道で亀を見かけし」
「ミル子、体育はまじで楽しかし」
「ミル子、視聴覚室とはどこぞ」
「ミル子、俺コンパス忘れき」
「ミル子、化学教えて」
自分の記憶の中の可児先輩の人格が少しずつ乗っ取られていくようで、私は可児くんの喋り方が普通の人みたいになっていくのが嫌でたまらなかった。こんな風になるくらいだったら、意味のわからない古語のままの方がよかった。
可児くんはクラスにもすっかりなじんでいた。初日はみんな喋り方を気味悪がっていたけれど、数日後には誰も話題にしなくなっていた。よく新学期にキャラ変しようとして後から辛くなって元に戻る人がいるけれど、その類だと思われているらしい。
「新入生歓迎会、何か考えてるのか?」
今朝、職員室に入るなり顧問にそう言われて、しまった忘れてた、と私はその場にしゃがみこみたくなってしまった。可児先輩と可児くんのことばかり考えていたら、すっかり頭から抜け落ちていた。
私の高校では、入学式の二週間後に新入生歓迎会が行われる。出し物の一つである部活動紹介の内容は、各々の部長が決める手筈になっていた。ダンスとかコントとか歌とか。部員総出で派手な演出をするところが多い。
現時点で、活動している剣道部の部員は私一人だ。去年の可児先輩のように素振りをする他に、何かできることがあるだろうか?
去年の例からするに、素振りで新入部員が集まるとは考えにくい。せっかくなら新入生を五人以上集めて、同好会から部に昇格したい。道場がにぎやかになったら、可児先輩ももう一度剣道をする気になってくれるかもしれない。
悩みながらマネキン相手に打ち込みをしていたら、壁際で胡坐をかいていた可児くんに「何か考えてるな」と言われた。
可児先輩と同じ声で、可児先輩と同じ顔で、あまり私に核心を衝くようなことを言ってほしくなかった。次に先輩に会った時に「なんかいつもと雰囲気違うな」なんて思いたくないのだ。本物と偽物をきちんと区別していられる私でいたかった。でも、それは途方もなく難しいことで、ちょっとでも油断すれば、私の脳みそはどうしても二人を同一人物だと認識しようとする。そして無意識のうちに私の心を安心させてしまう。可児渉はここにいるでしょ? 一体、何を心配しているの? と。可児先輩が剣道をやめてしまうかもしれない悲しみを、これ以上私に感じさせないようにしている。
小手の勢いが鈍った気がして、体の向きを変えて何度か素振りをした。手に力を籠め、竹刀を振り下ろす。
――こんな、ぽっと出の、妖怪、なんかに、メンタル、壊されて、なる、もんか。
「何か考えてるな」
もう一度言われた。振り返ると、可児くんは制服のまま肋木の一番上にぶら下がって懸垂をしていた。一瞬、奇妙な違和感を覚える。本物の可児先輩が肋木にぶら下がっているのを見たことは一度もなかったから。
「……部員をね、集めたいんだけど。一人だとどうしてもしょぼい感じになっちゃうから、興味を持ってもらうのも難しいなって。新入生歓迎会ってわかる?」
「おん」
「そこで何をすればいいか考えてたの。去年の先輩は、素振りをしてたんだけど」
私が話し終えても可児くんはしばらく何も言わず、懸垂を繰り返していた。ギッ、ギッ、と鈍い音がする。もともと体育館に設置されていたらしい体操部用の肋木は、道場に設置するには背が高すぎて、脚の部分がのこぎりで切断されていた。そのせいで少し傾いていて、可児先輩は時々ふざけて、ピサの斜塔と呼んでいたものだ。
肋木だけじゃなく、この道場には壁際や用具入れのあちこちに他の部活の部員が置き去りにしていった備品があった。剣道部は、本来なら部としても成立していないただの同好会なのだから、活動場所が物置小屋同然の扱いを受けるのも無理はない。でも私にとっては何より大切なものだった。恥を忍んで言うなら、道場は私たちの王国で、剣道はそこで開かれる華やかな宴の数々。絶対に守らなければならないものだった。
「ねえ」
「あ?」
「可児くんには、それ、何に見える?」
「それとは?」
「肋木。ちょっと斜めになってるでしょ」
「ああ、うん」
可児くんは懸垂をしながら考えているようだった。私が再びマネキンに向き直ろうとすると、ひらめいた表情で口を開く。
「……渉は、勉強の時に背中が傾く。それが少し似ている」
「何それ。微妙すぎ」
私がそう言って笑うと、可児くんはつかめない表情で小さく首を傾げた。ギッ、ギッ、とまた懸垂を始める。私は打ち込みに戻る。
「――俺、ミル子のこと手伝ってやってもいいぞ」
肋木にぶら下がったまま、可児くんが言った。
「新入生歓迎会。ちょうど擬態対象を変える日だが、終わってからでも間に合うだろ」
「ほんとに?」
天からの助けだと思って、私は心が軽くなったのを感じる。でも次の瞬間には、そんなことしてもいいのかとほの暗い気持ちになった。
可児先輩が学校に来てくれないからといって、可児くんに変わりを頼むなんてことをしてもいいんだろうか? それこそ、怪我をした可児先輩を傷つけることにならないだろうか……。
「というか、可児くんは剣道できないでしょ」
私が言うと、「無問題」と答えて可児くんは肋木から手を離した。ひらりと床に降り立つ。
「渉の家に、渉が試合に出た時の映像がある。帰ったら見て、覚える」
「覚えるだけでできるようになるものじゃないよ」
「問題ない。擬態は得意だ」
そう言って、可児くんは備品が収納されている倉庫に入っていった。学校の道着を持って戻ってくる。ワイシャツのボタンをいきなり外し始めたから、私は慌てて「ここで脱がないで!」とストップをかけた。可児くんはあからさまに面倒くさそうな顔をして、更衣室に引っ込む。
道着に着替えて出てくると、可児くんはダンス部が置いていった姿見の前に立った。「写真で見た渉の通り」と、嬉しそうに近づいては離れ、近づいては離れを繰り返している。
「新入生歓迎会まで、あと一週間もないよ。ちゃんとマスターできる?」
私は何げない雰囲気を装って尋ねた。内心では、「可児くん」が私の最も見慣れた「可児先輩」の姿になってしまったことにおびえていた。これ以上混同したくなかった。
「できる。それも完璧に」
「冗談?」
「違う。俺の目を見ろ。冗談を言っているように見えるか?」
可児くんはくるりと私を振り向き、そこでふと気づいたように、再び姿見に向き直った。自分で自分のことを見つめ、何事か呟く。「渉みたいに」と言ったように聞こえた。
「俺の目を見ろ。お、ぼ、僕、僕の目を見ろ。め、目を、見て。僕の目を見て」
それから勢い良く首を回し、にこにこしながら私に近づいてくる。
「僕の目を見て?」
「やめて」
私はその体を押し返した。一瞬、記憶の中の可児先輩と姿が重なり、本当に見分けがつかなくてひどく恐ろしかった。
「バスケ部の皆さん、ありがとうございました。えー部長と副部長はね、昨夜、通話で台本を確認しながら遅くまでエペしてたらしいっす。はよ寝ろって感じですね」
司会者のつまらないコメントの後に、新入生の拍手が続く。
「流れ、忘れてない?」
私は隣に立つ可児くんの脇腹を小突いた。「おん」と軽い調子の答えが返ってくる。
私たちは活動内容を簡単に紹介した後に、シミュレーションで試合をすることになっていた。動きが見えやすいよう体の向きはなるべく変えずに面・胴・小手を披露し、最終的に可児くんがわざと負けるというシナリオだ。
たった数日の成果とは思えないほど、可児くんはそれなりに戦えるようになっていた。おそらく喋り方も歩き方も含め、人間らしい振る舞い方のすべてを、こんな風に学習していったのだろう。「擬態は得意だ」という発言は本物だった。
「えー次に、剣道部の方。お願いします」
司会者に促されて、私と可児くんは前に進み出た。
マイクのスイッチを入れると、新入生たちの視線が一斉に私に注がれるのがわかった。まるで一年前の私がそこに座って、品定めをしながら今の私を見ているかのようだった。
こんなに追い詰められた状況で、去年の可児先輩は素振りをやってのけたのか。たった一人で、あんなに堂々と声を出して、竹刀を振り下ろしていたのか。先輩はやっぱりすごい。あんな人に、剣道をやめてほしくない。
「剣道部です。一年生の皆さん、ご入学おめでとうございます。現在、剣道部の部員は二人だけで、学校的には同好会という扱いになります。……剣道は、とても楽しいです。簡単に試合をします」
私たちは面を被り、向かい合って蹲踞の姿勢を取った。
【可児】と書かれた垂名札を付け、動画で見た通りに竹刀を構えた可児くんは、私の記憶の中の可児先輩と完全に一致する。ああ本物だ、戻ってきてくれたんだねと、脳が勘違いして鼓動が速くなった。違う、本物じゃないと自分で訂正して、混乱した頭を鎮める。隙を見つけて足を踏み出し、竹刀を握る手に力を籠めた。
一旦別人だと認識してしまうと、手ごたえを感じても、まるで虚無を斬ったかのようなむなしさがあった。思い切り振り下ろしても、空気の鳴る音が自分のものではないような気がした。
持ち時間の終了を知らせるアラームが鳴り、私は面を外した。空気に触れた汗が冷えていく。床に置いていたマイクを拾い上げ、スイッチを入れた。
「ありがとうございました。……剣道は、とても楽しいです。活動場所は本校舎横の道場、活動日は月水木土の四日間。その他の日も自主練可能です。経験者の方も初心者の方も、ぜひ入部してください」
最後まで言ってから脇にはけると、まばらな拍手の中、体育館の入り口にいる人物が目に入った。向こうも私に気づいたのか、くるりと背を向けて立ち去ろうとする。
「待って」
私は可児くんに自分の竹刀を押し付けて駆け出した。
体育館を出て、すのこの上を走る。板と板の隙間に足を取られて、転びそうになってしまった。踏ん張ってどうにか持ちこたえた。
「危ないよ」
困ったような声で言われた。マスクをして、サングラスをかけた人がそこに立っていた。変装のつもりかと思って笑ってしまう。私が手を伸ばしてサングラスを外すと、観念したように眉尻を下げる可児先輩と目が合った。
「二人のことが心配になって見に来たんだ。でも大丈夫みたいだね」
「最初から見てたんですか?」
「うん。僕が去年やった素振りよりずっといいよ。あれなら、今年は何人か体験入部に来てくれそうだな……」
言いながら、可児先輩の声はどんどん小さくなっていった。言葉を切り、唇を軽く嚙む。泣くのをこらえているようだった。
「先輩、本当は剣道を辞めたくないんでしょう」
私が言うと、睫毛がぴくりと震えた。可児先輩は目を伏せた。
「もし先輩が前よりも強くなくなってたとしても、私、がっかりしません。剣道を辞めちゃう方が何倍も嫌です。戻ってきてほしいんです。部員数が増えれば先輩もその気になるかもしれないと思って、私、今日も頑張って……」
伝えたいことは山ほどあるのに、何をどう言えばいいのかわからない。心の底から思っているはずのことも口にするとどうにも嘘っぽくなってしまって、きちんと届けられている自信がない。言葉にすればするほど、大切なものが少しずつ指と指の間からこぼれ落ちていくみたいだ。
「……情けないよ」可児先輩が言った。
「たかがアキレス腱が切れたくらいで絶望して、部活どころか学校にも行けなくなってさ。自分が高校留年するなんて思わなかった。本当に馬鹿な人間だよ。もう一回始めても嫌になるだけだってわかってるのに、今日の二人を見ていたら、どうしてもまたやりたくなってしまった」
「やりましょうよ!」
私が前のめりになって言うと、可児先輩は「でも」と目を泳がせた。「でも、だって」と、聞こえるか聞こえなくかぐらいの声量で繰り返している。
この人は面倒くさい、と私は思った。今までの私はこの人のほんの一部を知っていただけで、本当の可児先輩は、常にご機嫌なわけじゃないんだ。でもその一面を知れたことが嬉しくもあった。
体育館からざわざわと声が聞こえ、パイプ椅子がきしむ音がした。新入生歓迎会が終わったのだろう。足音が近づいてくる。
「ここにいたらよくないね」
可児先輩は静かに言い、正門の方へ歩いていった。
その日の放課後の部活で、可児くんは道着を着て道場にこそいたものの、竹刀を握ることはせずにいつまでも肋木にぶら下がっていた。
「先輩に擬態するのは今日で終わりなんじゃないの?」
私がそう尋ねても「おん」と頷くだけで要領を得ない。ギッ、ギッと、いつまでも懸垂をしている。ちっとも疲れたそぶりを見せないのが不気味だった。
少し前までは喋るとボロが出るから黙っていた方が本物の可児先輩に近かったのに、今では沈黙しているとかえって不自然だ。人間では知る由もないことを人間に擬態した頭で考えているから、そんな空っぽの箱みたいな表情ができるのだろうか。近寄りがたく、話しかけることすら難しい雰囲気があった。
私が制服に着替えて更衣室から出ると、可児くんはいなくなっていた。
「消えちゃったの?」
無駄と知りつつも、宙に向かって尋ねてみる。あっけないものだと思った。考えてみれば私は今までの人生で心霊やUFOなどの類には全く縁がなく、可児渉がすり替わったことを自分が受け入れていたこと自体、夢だったかのように感じた。ふわふわした心地で、道場の外に出る。
施錠しようとして気づいた。
鍵がない。
キーホルダーがじゃらじゃらついたカラビナごと、道場の鍵がなくなっていた。あたりを見回してみてもどこにもない。どうしよう、と頭が真っ白になって、それからふと気づいた。
――もし可児くんが、可児先輩から屋上のことを聞いていたとしたら。
鞄や竹刀袋を肩から下ろすことももどかしく、私は走って本校舎に駆け込んだ。
屋上のドアは半開きになっていて、鍵穴に道場の鍵が刺さったままになっている。口の部分がはがれかかったウーパールーパーが、つぶらな瞳で私のことを見つめていた。
思い切ってドアを全開にすると、胡坐をかいて座り込む可児くんの姿が視界に入った。道着姿で、肩に竹刀を担いでいる。光合成の具合は自分で調節できるらしく、今日は頬のあたりがうっすら眩しいと感じる程度だった。
「可児くん」
私が呼びかけると、ゆっくりとした動作で振り向く。それが自分の名前だと認識してはおらず、ただ呼ばれたら反応しなければならないことを理解していて、それを私にも知らせようとしているかのような、芝居臭さのある仕草だった。
「急にいなくなったからびっくりしたよ。次の擬態対象はもう決めてるの?」
そう尋ねると、私のことを焦らすみたいに、またゆっくりとした動作で首を振る。「決まってないの?」と質問を重ねると、少し考えるそぶりをした後に口を開いた。
「対象を変えるのはやめた」
「えっ?」
「俺は永遠に可児渉でいることにしたんだ」
可児くんは立ち上がり、すっと足を踏み出して私に近づいてきた。どこからか数匹の蝶やカナブンがやってきて、かすかな羽音を発しながら肩のあたりを飛び回っている。この前の鳩と同じく、どうも可児くんには生き物を引き寄せる性質があるらしかった。
「渉の体は丈夫で便利だ。この体を手に入れてから、俺はずっと人間でいたいと思うようになった。しかし俺は擬態することしか能がない。もともと存在しない生き物に成りすますことはできない」
至近距離で目を合わせると、また、瞳の奥に金色の虫が見えた。この前よりも激しく、力強く羽ばたいている。それがまるで感情のバロメーターになっているかのように、可児くんも徐々に早口になる。
「俺は勉強が好きだ。食事や睡眠をとるのも悪くはない。俺の仲間も、こんな風に自分に適した擬態対象を見つけてはそのまま姿を変えることなく老いて死んでいったのだろう。細部まで再現するために、本物の渉を取り込んでしまってもいい。そうしたら、邪魔もなくなるしな。こんな風に」
肩に留まったカナブンを素早く指でつかみ、可児くんはそれを口に放り込んだ。バチンと音がして何かが光り、「ほら」と言って開けられた口には、カナブンがいた痕跡などどこにもない。こんな風に可児先輩も消されてしまうのかと思った瞬間、みぞおちのあたりから全身に震えが走った。
「駄目。可児先輩に成りすますのをやめて」
私が言うと、え、と可児くんは眉を上げた。
「なぜだ。本物の方はもう剣道をしないじゃないか。俺はこれからもっと強くなる。ミル子だって、そっちの方が嬉しいだろう」
「そういうことじゃないから……」
説明しようとしても上手く言えない。私が言葉に詰まると、可児くんは「それなら」としばらく経ってから口を開いた。
「俺を倒してみろ。もしできたら、今すぐ渉に擬態することはやめよう。女に負けるような体はいらない」
えぇ、と私が渋ると「渉を取り戻したいんじゃないのか」と可児くんはつまらなさそうに肩をすくめた。そんなことを言われたら、乗らないわけにはいかなくなってしまった。
私が肩から鞄を下ろすと、可児くんも三歩離れて蹲踞の姿勢を取った。竹刀を構え、面もつけない状態で、私たちは向かい合った。
今までに培った剣道の技術は役に立たなかった。めちゃくちゃな動きで突進してきた可児くんの竹刀を受け流すことで精いっぱいで、試合の時の作法など気にしてはいられなかった。
私たちの力の差は圧倒的だ。新入生歓迎会の時の可児くんは本来の力の半分も出していなかったのだと初めて知った。それはつまり、去年までの可児先輩も私に対して相当手加減していたということだ。悔しくて、目の縁がじわりと熱くなった。まだ追いつけていないのに先にやめられてしまうなんて耐えられないと、より一層強く思った。
勢いに押されて私はじりじりと後退し、気づけばフェンスに背中が触れていた。耳元で風が鳴っている。視界の端には地面がなく、落ちるはずがないとわかっているのに、胃のあたりがひゅっと縮む心地がした。
エネルギーも底を突きて、疲れ切った手首がぶるぶる震えている。もう駄目だと思って力を緩めた瞬間、横から伸びてきた三本目の竹刀が私と可児くんを引き離した。
「自分と同じ見た目の奴が後輩を追い詰めるのは、いい気分じゃないね」
どこからか現れた可児先輩は、可児くんを咎めるようにそう言った。私が驚いていることに気づいたのか「気になって戻ってきたんだ」と付け足す。
「これ以上僕の擬態を続けるのは駄目だよ。一か月って約束だっただろ」
「知るか。これからは俺が本物だ。俺は俺だがお前と俺で俺になるんだ」
「舐達麻を聴いたんだね。僕が知らないところで、人間生活をずいぶんエンジョイしたみたいだ」
可児先輩は困ったように笑う。その表情のまま、竹刀で可児くんをフェンス側に追いやった。
「学校に来るきっかけをくれたのは助かった。でも約束を守らないのは駄目だ。怪我をした奴に負けるのは悔しいだろう。いくらうまく化けたからって、君は僕に勝てやしないよ」
可児くんが顔をぐっとしかめる。二人のすぐそばで、私はかたずをのんでその様子を見守っていた。
可児先輩の竹刀がひときわ強く突き出される。
「さあ、去ね!」
その言葉がきっかけになったようだった。可児くんが「くそっ」とつぶやいて身をよじる。バチンと乾いた音が鳴り、あたり一帯が光ったかと思うと、その姿は消えていた。
「いなくなっちゃった……」
呆然としている私の肩を叩き、「ほら」と可児先輩が頭上のある一点を示す。一匹のカナブンが、激しく羽を震わせて飛び去っていくところだった。
「……先輩。部活、戻ってきます?」
カナブンの姿が見えなくなってから私は聞いた。
「そうだな。少しずつね」
可児先輩は頷く。
「ところでさ。彼のおかげで、ミル子ちゃんも少しは古典が得意になったんじゃない?」
「なりましたけど。好きにはなってないです」
即答すると「ブレないなあ」と笑われる。優しい色をした目がこちらを見つめて、私は可児先輩が、以前と同じご機嫌な状態に戻りつつあることを知った。
【おわり】