吸血鬼に猫パンチ! 最終回

エキストラ

 ゆかりはタクシーを降りると、周囲を見回した。‌
 月明かりはあるが、雲も出ていて、月は顔を出したり、引っ込んだりしている。‌
こんなことって」‌
 と、ゆかりはつぶやいた。‌
 待ち合わせた場所は、静かな公園だった。‌
 人がいないわけではない。散歩するカップルが、そこここに目についた。‌
 どうして、こんな。‌
 ゆかりは公園の中を歩いて行った。そっと左右を見回していたが、捜している相手の姿はなかった。‌
 その内、すれ違ったカップルが、‌
「今の、かわゆかりじゃないか?」‌
「ねえ、たぶんそうよ」‌
 と、小声で話しているのが耳に入って来る。‌
 何といっても、ゆかりはTVなどで顔を知られている。いずれ気付かれるのは当然だった。‌
 しかも、ここに。‌
「やあ待った?」‌
 ポンと肩を叩かれ、びっくりして振り向くと、〈吸血鬼vs狼男〉で共演したアンジュが立っている。‌
「あ。どうも」‌
 と、ゆかりは何とか笑顔を見せたが、‌
「ここで良かったのかな、って心配になって」‌
「いいんだよ、もちろん」‌
「そうですか。でも」‌
 アンジュはゆかり以上に目立つ。周囲で、女の子たちが、‌
「アンジュだわ!」‌
「え? 本当だ!」‌
 と、騒いでいるのが聞こえて来た。‌
「あの何かお話があるのなら、どこかよそへ行った方が」‌
 ゆかりは気が気でない。もう何人かの女の子は、スマホでゆかりたちを撮っている。‌
 これがばれたら。ゆかりはアンジュの事務所の人から文句を言われるに違いないと思った。‌
「人の目なんか気にすることないさ」‌
 と、アンジュは、写真を撮られてもまったく気にしていない様子で、‌
「僕らもカップルなんだ。遠慮えんりょはいらないよ」‌
 と言うと、いきなりゆかりにキスした。‌
「みんなが見てます!」‌
 ゆかりはあわてて押し戻したが、アンジュは笑って、‌
「そりゃそうさ。僕らはスターだからね。映画の中でもキスしたじゃないか」‌
「あれはお芝居でしょ。こんな所で」‌
 ゆかりは、アンジュが何を考えているのか分からなかった。‌
 呼び出されて、ここへやって来たのも、アンジュは女の子に関心がないと聞かされていたからだ。‌
「やめて下さい。好きでもないのに、どうして?」‌
 と、小声で言うと、‌
「命令なんだ」‌
 と、アンジュが言った。‌
「命令? 何のことですか?」‌
「君を『連れて来い』という命令でね」‌
「どこへ? 誰の命令なんですか?」‌
「支配者だ。〈闇の支配者〉だよ」‌
「わけの分からないこと言って!」‌
 ムッとしたゆかりは、人目も構わず、‌
「放っといて!」‌
 と、大声で言って、アンジュを突き離した。‌
 周囲がざわついた。それはそうだろう。‌
 スターがスターを拒否したのだ。そして、ゆかりは公園の中を駆け出した。‌
 みんながスマホで撮っていることは百も承知だ。‌
 一体どうしちゃったの? これって、まともじゃない!‌
 ゆかりは急いでケータイで、神代かみしろエリカへかけたのである。‌
 エリカがやって来てくれる!‌
 それだけでも安心だったが。‌
 アンジュは追って来ないようで、ゆかりは少しホッとした。‌
 だが、そのときだった。明るく光っていた月を、突然、真っ黒な雲がおおったのだ。‌
 それは単に月が雲で隠れたというのではなかった。‌
 辺りを一寸先も見えないほどの暗闇が包んでしまった。‌
 そして、周囲に大勢いたはずの若者たちの声も、一切聞こえなくなっていた。‌
 これって普通じゃないわ。‌
 ゆかりは恐ろしさに凍りついた。そして実際に、凍えるような冷気が体を包み始めた。‌
「誰か! 誰かいないの?」‌
 と、ゆかりは叫んだが、その声は奇妙に反響した。‌
 そしてが近付いて来た。‌
 闇の中で、姿は見えないが、地面をこするような足音と、荒い息づかいは聞こえた。‌
誰なの? アンジュさん? ふざけてるの?」‌
 すると、闇の中から、‌
「お前を連れに来たのだ」‌
 という声がした。‌
 それは誰の声でもない、人間とは思えない声だった。‌
 ゆかりは息をんで、‌
「あなたね! 私の首を突然かんだのは」‌
「お前はあれで死ぬはずだった」‌
 と、その声は言った。‌
「邪魔が入ったせいで、お前はまだ生きているが、今度こそは、この手でお前の命を奪ってやる」‌
「いやよ! どうして私が死ななきゃならないの?」‌
「お前は〈死〉の花嫁になるのだ」‌
「何ですって?」‌
「さあ、私と一緒に」‌
 と、その声が迫って来た。‌
 そのとき、鋭い猫の鳴き声がして、‌
「フーッ!」‌
 と怒りの声を上げ、黒猫がゆかりの前に飛び込んで来た。闇の中でも、その姿は青白い光を放っていた。‌
「ブラック! 助けに来てくれたのね!」‌
 と、ゆかりが声を上げる。‌
 しかし、闇の主は低い声で笑って、‌
「これは映画の中ではないぞ。たかが猫一匹ぐらい、ひねり殺してやる!」‌
 闇の中に、ぼんやりと白く、人の顔らしいものが浮かび上がって来る。ゆかりは後ずさった。‌
「覚悟しろ!」‌
 と、その顔が迫って来る。‌
 するとブラックが驚くばかりの勢いで、飛び上がった。そして、その「顔」の高さまで飛ぶと、鋭い爪を出したまえあしで猫パンチを決めたのである。‌
「ウッ!」‌
 その顔が歪んで、赤い血の筋が刻まれていた。‌
「やったね!」‌
 と、ゆかりが喜んで、‌
「ブラック、みごとな猫パンチだったよ!」‌
「おのれ!」‌
 怒りに顔が真っ赤になる。‌
「死ね!」‌
 と、白い手がゆかりの方へと伸びて来る。‌
 そのとき、‌
「それまでだ!」‌
 と、クロロックの力強い声が辺り一杯に響きわたったのだ。‌
「間に合った!」‌
 辺りが一瞬で明るくなる。‌
「わあ! 月が輝いてる!」‌
 と、ゆかりは声を上げた。‌
 クロロックが、ゆかりのそばへ来て、‌
「今のは、一種のさいみんじゅつだ。それを操っていた男がいる」‌
「ブラックが、猫パンチを決めました」‌
「うむ。の顔には、ブラックの爪痕が残っているだろう」‌
「ブラック、偉い!」‌
 と、エリカが、つややかな黒い毛を撫でて言った。‌
「フニャ」‌
 ブラックは、いささか拍子抜けしそうな声を出した。‌

「私がヨーロッパの古い街を歩いているシーンでした」‌
 と、ゆかりは言った。‌
「もちろん、ロケでなく、オープンセットでしたが、とてもよくできていて、いしだたみの道をちょっとロマンチックな気持ちで歩いていたんです。色々な国の人たちが集められて、観光客の役をつとめていました。そのとき急に首筋に痛みが」‌
「誰かにかまれたのかね?」‌
 と、クロロックが訊いた。‌
「もしかしたら。でも、そのときははちにでも刺されたのかと思ってました。まさか、人にかまれるなんて」‌
「そう思っても無理はないな。しかし、そのとき、あんたは危うく命を落とすところだった」‌
「ええ、後で聞いてびっくりしました」‌
 ゆかりは身震いした。‌
「でも、クロロックさん、一体誰がゆかりちゃんを襲おうとしたんですか?」‌
 と、宣伝部の西にしが言った。‌
「アンジュさんも怖かったわ」‌
 クロロックたちは、映画館での舞台挨拶あいさつを終えて、近くのきってんに入っていた。‌
「彼も、催眠術にかかっていたのだ」‌
 と、クロロックはコーヒーを飲みながら、‌
「まあ、少しボーッとしていて、かかりやすいタイプだと思うが」‌
「お父さん! アンジュのファンに殺されるよ」‌
 と、エリカが言った。‌
「でも、今日舞台挨拶に立った人たちの中に、ブラックの爪でけがをした人はいませんでしたね」‌
 と、ゆかりはホッとした様子で、‌
「良かったわ。あの映画の関係者じゃないってことですものね」‌
「そう思うか」‌
「え? だって」‌
「舞台に並んだ面々の中で、一人だけ、濃いメイクをしていた人間がいる」‌
「それって。狼男?」‌
 と、ゆかりは目を見開いて、‌
「まさか、もりかつさんが?」‌
「その可能性が高いと思っておった」‌
「お父さん」‌
「しかし、彼からは、血のにおいがしなかった。猫の爪の傷は、かなり深いものだ。一日二日で、傷は治らん」‌
「それじゃ、一体」‌
「映画はスターだけでできているわけではない」‌
 と、クロロックは言った。‌
「主役、脇役の他に、その他大勢の、通行人や商店街の客たちもいる」‌
「エキストラってこと?」‌
「そのエキストラに混ざっていても、他に大事な仕事をしている者がいる。危険な撮影を、スターの代わりにこなす人たちだ」‌
「スタントマン」‌
「そうだ。狼男は、スポーツ選手だった森が演じているので、かなりの部分、本人がやっているだろう。しかし、訊いてみると、やはり、万一事故で大けがでもされると、映画の撮影そのものがストップしてしまう。出資者からは、そんな危険をおかすわけにいかないと言われていたそうだ」‌
「つまり森さんにスタントマンが付いていたの?」‌
「そうなのだ」‌
 と、クロロックは言ってから、後ろの席に向かって、‌
「そうだろう?」‌
 と、声をかけた。‌
 その席の男が振り返った。‌
「森さん!」‌
 と、ゆかりはびっくりして、‌
「もうメイクを落としたの?」‌
「撮影のときとは違うから、舞台挨拶では、メイクはせずに、ゴムマスクをかぶってるだけだった」‌
 と、森は言った。‌
「クロロックさん、おっしゃる通りです。僕のスタントをやってくれたのは、同じスポーツクラブの後輩でした」‌
「あんたは察していたのではないかな? あの公園での殺人についても」‌
 森はうなずいて、‌
「彼は一時期、体操から離れて、魔術とか、そんな世界にはまっていたことがあるのです。そして、戻ったときには、にんげんわざとは思えない動きを見せるように。でも、それには禁止薬物が係わっていたのです」‌
「おそらくそうだろうと思っておった。クスリの力で、超人的な能力が発揮できる。しかし、そのクスリは当人の体をむしばんでいるはずだ。そして精神もな」‌
「私も、警察に話すつもりでした。あんな事件をまた起こしたら大変だ」‌
 と、森が言ったとき、突然頭上から、‌
「手遅れだ!」‌
 という声がした。‌
 天井を見上げたゆかりが悲鳴を上げた。‌
 天井にピタリと取り付いているのは、狼男だった。‌
 次の瞬間、狼男は真下にいた森の上に落下した。‌
「よせ!」‌
 と、森が叫んだ。‌
 狼男の鋭い爪が森の首に食い込む。血がふき出した。‌
 クロロックが狼男の上にマントを広げた。‌
 マントの下から、不気味なうめき声が聞こえて森が床に倒れた。‌
「エリカ! 救急車だ!」‌
 と、クロロックが言った。‌
「分かった!」‌
 クロロックがマントを外すと。メイクが消えた若い男が、息絶えて伏せていた。‌
 そのほおには、ブラックの爪跡が残っていた。‌

「心臓がもたなかったのだな」‌
 と、クロロックは言った。‌
「お父さんがやったんじゃないの?」‌
 と、エリカは訊いた。‌
「ま、多少力を貸したが。あの男も、自分を支配している異常な闇の力から逃げたかったのだ」‌
 表に出て、救急車が森を運んで行くのを見送っていると、‌
「ニャー」‌
 という猫の声がした。‌
「あ、ブラック」‌
 と、ゆかりが言った。‌
「助けてくれてありがとう」‌
 すると、‌
「どういたしまして」‌
 と、ブラックがしゃべった。‌
「え?」‌
 エリカとゆかりが目を丸くしていると、ブラックは素早く姿を消し、代わって現れたのは、飼い主のひでだった。‌
「クロロックさん、お会いできて幸せでした」‌
 と、秀代が言った。‌
「こちらも楽しかったぞ。気を付けてお帰りなさい」‌
「はい。それでは」‌
 秀代はスッといなくなってしまった。‌
あの人、どこへ帰ったの?」‌
 と、エリカが訊いた。‌
「さあな」‌
 クロロックは微笑ほほえんで、‌
「どこか遠い所だ。もしかすると、何百年か昔の、どこかかもしれんな」‌
 と言ったのだった。‌

【おわり】‌