ずっと一緒に

『ハケン飯友 僕と猫の、小さな食卓』番外編

「はー、食った食った」
 満足げにそう言って、猫トラキチは、両手を元気よく合わせ、ごちそうさまの(あい)(さつ)をした。
 ジャージ姿で胡座(あぐら)を掻いた彼は、ほっぺたから飛び出した長いヒゲさえなければ、本当に人間の若い男に見える。というか、そうとしか見えない。
「お粗末様でした。なんだか僕が夏バテ気味で、(そう)(めん)の出番が増えちゃってごめんね」
 僕が謝ると、トラキチは笑って片手を振った。
「俺っちは、米でも麺でもパンでも、旨けりゃ問題ねえですよ。てぇか、素麺()でるの、全然楽じゃなくないですかね。旦那、いつも大汗()きながら茹で上げてるでしょうに」
「それをわかってくれてありがとう。世の中には、素麺は簡単な料理って思ってる人も多いらしいのに」
 僕は思わず苦笑いで、トラキチにお礼を言い、説明を付け加えた。
「確かにお湯を沸かすから暑いは暑いんだ。でも、素麺はあっという間に茹で上がるし、いったん茹ででしまえば、あとは具材を載っけてつゆをかければおしまいだから、トータルで楽って感じかな」
「そういうもんですかねえ」
「今日みたいに、焼きナスと豚しゃぶを載っけるとすると、ナスはグリルで焼いて皮を()くだけ、豚肉はさっと茹でるだけ、だからシンプルだろ」
「ああ、なるほど。味付けいらずってやつですね。俺っちもそのあたりのこと、ちょっとだけわかってきましたよ」
「ふふ、ご飯の()(たく)、色々手伝ってくれるもんね」
 笑いながら、僕はトレイの上に空いた食器を集め始めた。
「さて、くつろぎすぎてお尻に根っこが生えないうちに、片付けちゃおう。トラキチは、うちを出たあと、なんか用事があるの? 猫集会とか、パトロールとか」
 そう(たず)ねると、彼は少し不思議そうに小首を傾げた。
「別に。このまんま、お(やしろ)に戻って寝床に潜り込むつもりでしたけど、旦那のほうは、何か用事でも?」
「うん、(かのう)()神社にね。毎月のアレ」
「あー、アレ」
 猫はポンと手を打った。
 実は毎月、僕は叶木神社へ(おもむ)き、ご祭神に特別な「お礼」を納めることにしている。
 最初はたった千円(それでも、失業直後の僕としては思いきった金額だった)で、トラキチを「(めし)(とも)」として派遣してもらったわけだが、そのままご祭神の厚意に甘え続けることは、あまりにも心苦しい。
 それに、「そんなケチな根性なら、トラキチはもう引き上げさせる。よその家に派遣したほうが、ずっとマシだ」などとご祭神に言われないようにという、予防線でもある。
「今月も、トラキチと晩ごはんを一緒に食べさせてくれて、色々と楽しいおしゃべりをさせてくれて、ありがとうございます。来月もどうか、よろしくお願いします」という気持ちを込めて、僕としては破格の一万円を、月に一度、思いきって(さい)(せん)(ばこ)にスッと差し入れている。
 以前、新米(ぐう)()(いの)()さんが、「毎月必ず、一万円もお納めしてくださる方がいらっしゃるんですよ。うちにお参りなさって、よっぽどええことがあったんでしょうな。やっぱし宝くじかな」などと言っていた。
「へえ」なんて、間の抜けた相づちを打ってしらばっくれたけれど、それは間違いなく僕のことだ。
 宝くじに当たるよりもずっと確率の低い幸運に恵まれたのだから、本当はもっとたくさん納めたい。でも、今の僕の稼ぎでは、これが精いっぱいだ。
 気持ちだけは、ご祭神に伝わっていると信じたい。
「旦那? ぼーっとして、大丈夫です? じゃあ、俺っちと一緒にお社まで行きますか。食後の腹ごなしも兼ねて」
 トラキチの()(げん)そうな声にハッと我に返った僕は、「そうだね」と返事をして、食器を台所に運んだ。
 とりあえず、洗い桶に水を張り、洗剤を少し入れて、食器を浸けておく。帰宅する頃には、スルッと汚れが落ちて、片付けが楽になっているはずだ。
 すぐそこまでの外出なので、敢えて着替えることはせず、Tシャツとハーフパンツのラフな部屋着のままで、僕はトラキチと一緒に家を出た。
 午後七時過ぎだと、まだ外はうっすらと明るい。カナカナとヒグラシの声がする。
 日中のアブラゼミやクマゼミと違って、どこか奥ゆかしく、物寂しさを感じる声だ。
「そういや旦那、セミ食ったことあります?」
 いきなりそんなことを言い出したトラキチに、少しセンチメンタルな気分になっていた僕は、思わず噴き出した。
「ないよ! いや、食べる人もいるかもしれないけど、僕の家庭にはそういう食習慣はなかったから」
「へえ? 俺っち、子猫の頃からよく、死にかけて地面でバタバタしてるセミを捕まえて食いましたよ」
「ああ、セミファイナル
「人間はそんな風に言うんですか? カリカリして、けっこう(おつ)なもんですよ。まあ、カリカリっていやあ、旦那が揚げる唐揚げのほうがずっと旨いんで、最近はあんまし食いませんけど」
「唐揚げ。ああ、うん。比べられるのはちょっと複雑な心境だけど、とりあえず褒めてくれてありがとう」
 頭の中で、つい唐揚げと、頭上で鳴いているセミを並べてしまいそうになって、僕はぶんぶんと首を横に振った。
 もう八月も末だというのに、日中は信じられないほど暑い日が続いている。
 でも、こうして夜が近づいてくると、アスファルトの地面から立ち上る熱は相変わらずでも、吹く風がいくぶん涼しくなって気持ちがいい。
「ねえ、旦那」
 並んでのんびりと叶木神社への道を歩きながら、トラキチはちょっと悪戯(いたずら)っぽい笑顔で、首を(すく)めて呼びかけてきた。
「何?」
「旦那、毎月毎月、(りち)()に神さんにお礼して。そんなに俺っちと飯食うの、好きですか?」
 そんな風にストレートに訊かれると、気恥ずかしくてもきちんと答えなくてはいけないという気持ちになる。
(もち)(ろん)、好きだよ。っていうか、別に一緒に食事をするのが好きなだけじゃなくて
「他に何が好きなんです?」
「僕たち、これまで他にも色んなことをしてきただろ。(おき)(もり)さんとか、猪田さんとか、他の人ともかかわってさ」
「まあ、そうですねえ」
 トラキチはのんびりと応じる。
「そういう出会いも含めて、トラキチと一緒に過ごして、一緒に経験した全部のことを大事に思うし、これからも
「これからも?」
 僕は少し躊躇(ためら)って、薄暗い中、トラキチの(のん)()そうな顔を見た。
「お前は僕よりずっと長く生きてきたから、『ずっと』なんてないって知ってるよね。だから僕が凄くつまんないこと言ってると思うかもだけど」
「俺っちは別に」
 トラキチは、いつもの軽い調子で適当に混ぜっ返そうとしたけれど、僕はそれを(さえぎ)って、話を続けた。
 こんな機会は滅多にないだろうから、真剣な想いを伝えておきたいと思ったのだ。
「でも僕は、これからもずっと、トラキチと色んなものを食べて、色んなところへ行って、色んな人に会って、色んな経験をしたいなって思ってるんだ。一緒に」
 一息に言いきって、僕は徐々に垂れ込めてくる夜の空気の中で、街灯に照らされたトラキチの、チェシャ猫じみた笑顔を見た。
「旦那」
「うん?」
 やはり肩を並べてゆっくり歩きながら、トラキチはさりげない口ぶりでこう言った。
「旦那の思うずっとと、俺っちのずっとはたぶん違う。俺っちのずっとと、神さんのずっとも、きっと違う。そんでもって、ずっとなんて、旦那が言うみたいに、ないかもしれねえ。けど、俺っちは、『ずっと』って言葉、嫌いじゃねえですよ」
「そうなの?」
 驚く僕を見て、トラキチはにしゃしゃ、と変な笑い方をした。もしかしたら、照れていたのかもしれない。
「そんだけ、今が楽しいってことでございましょ? 俺っちも、なかなか楽しいんで、旦那がそう思ってくれててよかったですよ」
「そう、なんだ」
「そうそう。だから、神さんが(へそ)を曲げないように、毎月きちきち払ってくださいよ、これからも」
「わかった。何なら、将来的にはちょっとでも増やせる方向で頑張る」
「それがいいです。実入りが増えて嫌がる奴ぁいませんからね」
「神様でも?」
「そりゃそうです。減るよりは、増えるほうがいいですよ。借金以外はね」
「うまいこと言うなあ」
 へへ、と鼻の下を指先で擦るトラキチが、屈託のない笑顔でいてくれることが、妙に嬉しい。
 ずっと、と心の中でもう一度繰り返し、僕は、ハーフパンツのポケットに入れた一万円札の存在を、薄い布地越しに確かめたのだった。

【おわり】