寸草の心
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――あんな話、ぜったいに嘘だ。
屏風の陰からそろりと頭を出して景景は唇を噛んだ。火鉢のそばでは景景の継母たる整斗王妃・孫月娥が針仕事をしている。銀紅色の長襖につつまれた腹部は大きくせり出しており、月娥はときどきその丸みを愛おしそうに撫でた。
――弟や妹が生まれても月娥はわたしを追い出したりしないはずだ。
自分に言い聞かせるように心のなかでくりかえしながらも不安が胸を去らない。それどころかどんどんふくらんでいく。空を覆う黒雲のように。
「あたらしい子どもが生まれたら、古い子どもは捨てられちまうんだぜ」
そう言ったのは親しく付き合っている養済院の少年だ。彼は貧しい行商人の子で、継母に嫌われて家から追い出されたのだという。
「弟が生まれてから母さんは弟にかかりきりになっちまった。おれのことなんかほったらかしで、好物の包子も作ってくれなくなったんだ。……前はよく作ってくれたのに」
少年の生母は彼が幼いころに流行り病で死んでしまい、父親は後妻を娶った。継母は大らかでやさしい女だったので、少年はすぐになついたそうだ。
「母さんは料理がうまいんだ。とくに包子は絶品だぜ。これくらいでっかくて、ふわふわしてて、雲を食ってるみたいなんだ」
しかし、わが子が生まれてから継母の態度は一変した。
「おれが食わせてもらえるのは残飯だけさ。おれだって父さんの手伝いをして一生懸命働いてたのに。包子が食いたいよって言うと、わがままだって叱られちまうんだ」
継母は少年の衣服をつくろってくれなくなった。
「おまえはもう大きいんだから、自分の衣くらい自分でつくろいな」
父さんの衣はつくろってやるくせに、と少年が文句を言うと、継母は彼を睨んだ。
「妻が夫の衣をつくろうのはあたりまえのことだ」
「息子の衣をつくろうのだって母親の仕事だぜ」
「あたしの息子はこの子だけだよ。あんたは前の母さんの息子だろ。そんなに母親につくろってもらいたきゃ、あの世にいる母さんに頼むんだね」
襁褓にくるまれた弟をあやす継母を横目に見ながら、少年は慣れない手つきでつくろい物をし、手指にいくつもの刺し傷をこしらえた。
「ある日、父さんに頼まれた用事をすませて雑院に帰ったら、弟が熱を出したせいで父さんと母さんが大騒ぎしてた。母さんは泣きわめくし、父さんはおろおろして行ったり来たりするし、うるせえのなんのって」
両親はつきっきりで赤子の看病をした。空腹を訴える少年には目もくれずに。
「弟が憎くてたまらなくなったよ。あいつさえいなけりゃ、母さんはずっとおれにやさしくしてくれたはずだ。あんなやつ、生まれてこなけりゃよかったんだって」
継母が目を離した隙に、少年は弟を手にかけようとした。
「赤ん坊を殺すなんて簡単だぜ。ちょっと鼻と口をおさえてやればいいんだ。あっという間に息ができなくなって死んじまう。蛙を踏んづけて殺すみたいなもんさ。やれると思った。すぐにすむって。あいつさえいなくなりゃあ、全部元どおりになるんだ。母さんはまたおれのために包子を作ってくれるようになるし、おれの衣をつくろってくれるようになるはず……」
少年は弟の小さな顔に手のひらを押しつけようとした。――しかし。
「あいつ、すげえ小っちゃいんだ。これくらいだぜ? あんなにちびなのに、ちゃんと目が二つある。黒くてつやつやした目で、俺をじーっと見てた。なにか言いたそうに口をもごもごしてたけど、なんて言ってるのか全然わからねえ。それでさ、耳を近づけて聞き取ろうとしたんだ」
そのときだ。継母が部屋に入ってきたのは。
「母さん、おれを思いっきり突き飛ばしたんだぜ。おれが弟を殺そうとしたって大騒ぎしてさ。……そりゃあ最初は殺すつもりだったよ。あんなやつ、いなくなっちまえって思った。息の根を止めてやろうとした。……でも、できなかった。変な気持ちになっちまって。あいつがあんまり小っこいから……」
継母は少年を雑院から追い出してほしいと夫に訴えた。
「あの子は鬼怪ですよ! 赤ん坊を手にかけようとするんだもの、そのうちあたしやあなただって殺そうとするにちがいないわ!」
父親は大げさだと妻をたしなめたが、継母が赤子を抱いて実家に帰ると騒いだので最終的には少年が雑院を去ることになった。
「母さんは赤ん坊を産んだばかりだから気が立っているんだ。そのうち気持ちが落ちついて前のようなやさしい母さんに戻ってくれるよ。それまでおまえは養済院で世話をしてもらえ。あそこは身寄りのない子だけでなく、いろんな事情で家族と暮らせない子も受け入れてくれる。おなじ年ごろの子もいるだろうから、友だちがたくさんできるぞ」
父親に言いくるめられて少年は養済院に入った。
「母さんの気持ちが落ちついたらかならず迎えに行くって父さんは言ってたけど……まだ来ない。あれからもう三年経つのにな」
昨年、少年は養済院を抜け出して実家に帰った。なつかしい我が家で見たものは蒸したての包子を頬張る弟と、継母の腕に抱かれている赤子だった。
「もうひとり弟が生まれたんだ。……つまり、おれはもういらないってことさ」
一家団欒のあたたかい情景のなかには慕わしい父親の姿もあったが、少年は声をかけることなく、とぼとぼと来た道を引きかえした。
「おれの居場所は養済院しかないんだ。帰る場所なんかないんだよ」
このところ少年はせっせと書案に向かい、勉学に励んでいる。
「おれがここにいられるのはあと七年だ。養済院を出てからも食っていけるように読み書きくらいはおぼえておかねえと」
養済院で養育されるのは十五歳までの少年少女だ。それ以上の年齢になったら、養済院を出て独り立ちしなければならない。望むと望まざるとにかかわらず。
「勉学が忙しくて昔のことを思い出してる暇もねえ」
そんな強がりを言いながらも、少年はときどき門のそばをうろついている。迎えに来てくれるはずの父親をいまも待っているのだ。
されど、少年の期待は打ち砕かれつづけている。父親は迎えに来ない。実家からはなんの便りもない。七年後、少年が養済院を出ていくときも迎える者はいないのだろう。
――月娥はわたしのことを好きだから大丈夫だ。
大丈夫だ、と心のなかで何度つぶやいただろう。毎日、呪言のようにくりかえしているが、暗い未来ばかりが想像されて足がすくんでしまう。いや、「未来」とのんきにかまえていられる余裕はない。すでにそれははじまっている。
近ごろ、月娥は景景を避けている。景景が訪ねていっても寝床に入っていることが多いし、景景が遊びに誘ってもあまり長くは付き合ってくれない。
側仕えの奇幽や巧燕は「単に体調がすぐれないだけですよ」「産み月が近いので大事をとって身体をやすめていらっしゃるんです」と言うが、ほんとうだろうか。月娥の心は早くも生まれてくる赤子のことでいっぱいで、景景のことなど吹き飛んでいるのではないか。もっと露骨に言えば、景景への関心はとうに失われているのではないか。
――もし月娥がわたしを疎んじても、父王はわたしを見捨てないはず。
それも頼りない希望にすぎない。父は月娥を寵愛している。彼女のために料理をよそってやるし、ならんで歩くときはいつも彼女の身体を大切そうに支えている。子どもにはわからない大人の話をして月娥と笑い合っていることもあるし、景景をのけ者にしてふたりだけで過ごすことも多い。
父は景景よりも月娥のほうが好きなのかもしれない。もし月娥が景景を王府から追い出してほしいと言えば、父は彼女の望みを叶えてやるかもしれない。
――わたしは、父王のほんとうの子じゃないから……。
その事実を思い出すとき、景景の胸は釘を打ちこまれたかのようにずきずき痛む。景景は父の血をひいていない。月娥が身ごもっている子こそが父の実子なのだ。実子が生まれたあとも、父がいままでどおり景景を息子としてあつかってくれるという保証はない。養済院の不運な少年のように、邪険にされるようになるかもしれない。
いったいどうすれば、遠からずやってくる陰鬱な未来を回避できるのだろうか? 月娥に嫌われずにすむのだろうか? 父に見捨てられずにすむのだろうか? 血がつながっていなくてもふたりの息子でいるには、どうすればいいのだろうか?
考えても答えは出てこない。身を焼かれるような焦りがつのるだけだ。
「景景? そんなところでなにしてるの?」
ふいにかけられた声に景景は文字どおりびくりとした。
「そこは冷えるでしょう。こちらへいらっしゃい」
月娥が手招きしている。景景はすこし迷ったが、おそるおそる屏風の陰から出た。榻のそばに行って、空いている席に座る。
「甜点心をどうぞ」
勧められるまま、青磁の皿に盛られた揚げ菓子に手をのばす。拍子木切りにされた生地にはたっぷりと胡麻が練りこまれ、からりと揚げられて赤砂糖がまぶされている。ひと口かじった瞬間に月娥が手ずからこしらえたものだとわかった。月娥の味つけはとてもやさしい。やわらかい甘みが口のなかにふわりとひろがって、胸がじんわりあたたかくなる。
――この甜点心ももうじき食べられなくなるんだ……。
養済院の少年が蒸したての包子にかぶりつく弟を見たとき、どれほど胸をえぐられたか、わがことのように感じる。月娥も少年の継母のように変わってしまうのだろう。血のつながらない子よりも血をわけたわが子を可愛がるようになるのだろう。景景はいずれ一家団欒の邪魔者になって王府から追い出されてしまうのだろう。
「……景景? どうしたの?」
景景がしゃくりあげて泣き出したせいか、月娥はあわてて茶杯を小卓に置いた。
「おいしくなかった? 口に合わないなら無理して食べなくていいのよ」
心配そうな声音にますます感情をかき乱される。月娥がこんなふうに景景を案じてくれるのもあとすこしのあいだだけ。もうじき景景には声をかけてくれなくなる。微笑みかけてくれなくなる。甜点心を作ってくれなくなる。そんな未来はいやなのに、月娥には景景をずっと好きでいてほしいのに、そのためになにをすればいいのかわからない。
「……教えてほしい」
「ん? なあに?」
月娥は小卓を榻の端に寄せて景景のとなりに腰かけ、耳を近づけてくる。
「わたしはどうすれば月娥の子になれる?」
涙をいっぱいためた目で見上げると、いぶかしそうな視線がかえってきた。
「なれるもなにも、景景は私の子よ。だって殿下の御子だもの。私は殿下の王妃だから、あなたの母でもあるわ」
「ううん、ちがう。月娥は父王の妃だけど、わたしの母妃じゃない。だって、わたしたちは血がつながっていないもの」
わたしたちも、と言うべきだ。父と景景も実の父子ではないのだから。
「赤ん坊が生まれたら、わたしだけのけ者になる。父王と月娥と赤ん坊は家族だけど、わたしはちがう……。血がつながらない子は血がつながった子が生まれたら捨てられるって聞いた。わたしもじきに捨てられるんだろう? その子が生まれたら……」
景景はどうして父と月娥の子として生まれなかったのだろう。ふたりの子として生まれていればなんの心配も要らなかったのに。弟妹が生まれても追い出されずにすんだのに。
「景景、手を出して」
月娥が言うので、景景は嗚咽しながら素直に従った。するとその手をそっとつかまれ、大きな丸いものにあてがわれる。
「あなたもこんなふうに馮妃さまのおなかのなかにいたのよ。おぼえてる?」
景景は首を横にふった。母の記憶はない。物心ついたころには母はいなかった。
「じゃあ、思い出してごらんなさい。ほら、おなかに耳をあてて」
言われたとおりにしたが、なにも聞こえない。
「心を落ちつけて、耳を澄まして。きっと思い出せるわ。だってたった六年前のことなのよ。あなたは十月十日のあいだ母妃のおなかのなかで暮らしていたの」
「こんなところでどうやって暮らすんだ?」
考えてみればふしぎだ。赤ん坊は母親の腹のなかでなにをしているのだろう。
「おいしいものを食べて楽しく暮らしているわよ」
「このなかに食べ物があるのか?」
「あなたが空腹になったら母妃もおなかがすくの。あなたと母妃の身体はつながっているから。母妃がごちそうを食べれば、あなたもごちそうを食べて満腹になるわ」
「眠くなったら? 牀榻があるのか?」
「もちろんあるわよ。ふかふかの衾褥があなたの身体をすっぽりつつんでくれるわ」
「寝返りを打てる? 落っこちないかな?」
「とってもひろい牀榻だから大丈夫。端から端まで転がっても平気よ。どこもかしこもふわふわしていてやわらかいの」
ふうん、と相づちを打ちながら想像してみる。ふかふかのひろい寝床を端から端まで寝転がってみたらすごく楽しそうだ。
「遊びたくなったら遊ぶこともできるのよ。飛んだり跳ねたり、駆けまわったり、歌ったり踊ったり、退屈している暇はないわ」
それにね、月娥は景景の肩を抱く。
「ときどき外から声が聞こえるのよ。母妃が話しかけてくれるの。まずは朝のあいさつからはじまるわ。――おはよう。昨夜はぐっすり眠れた? 楽しい夢を見たかしら。今日もたくさん食べて、たくさん遊びましょうね。疲れたらいつでも眠っていいのよ。そっとさすってあげるわ。子守唄を歌ってあげましょうか。安心してね。ずっとそばにいるから。あなたが眠っているときも、起きているときも。けっしてひとりにはしないわ」
いつしか景景は目を閉じていた。春陽のように降り注ぐ月娥の声が心地よい。守られている感じがした。景景を脅かす、あらゆるものから。
「私の大切な坊や、あなたが毎日すこしずつ成長していくのを感じるわ。きっと可愛い顔をしているんでしょうね。あなたに会える日が待ち遠しくてたまらないわ。いつ生まれてきてくれるのかと、指折り数えているのよ。元気にすくすく育ってね。その日が来て、あなたがこちらの世界にやってきたら、あなたの小さくて愛らしい頭を撫でさせて。生まれてきてくれてありがとうって言わせてね」
慈愛に満ちた声音が赤子を育む大きな腹に反響して景景の耳にしみいる。
「……わたしにも」
景景はおずおずと目を開け、月娥を見あげた。
「そう言ってくれるか? 生まれてきてよかったって……」
答えを聞くのが怖い。あなたなんか要らないと突き放されたらどうしよう。生まれてこなくてよかったのにと、ため息をつかれたら――。
「なにもわかっていないのね」
月娥は破顔して景景の頭を撫でた。
「あなたに言っているのよ」
絹のようにたおやかな手のひらは胸が震えるほどあたたかい。
「ありがとう、景景。私の子になってくれて」
視界がゆがんでいるせいで、月娥の表情がはっきり見えない。けれど彼女が愛おしそうに微笑んでいることは、涙の帳越しにもわかった。
伝えたいことがあるのに、言葉は嗚咽に押し流される。つたない返答を口にすることをあきらめて、景景は弟か妹が眠っているまどかな寝床に顔をうずめた。
――ははうえ。
次からはそう呼ぼう。生まれる前からの習慣のように。
【おわり】