雪と闇
一
夜明けが近づいても、夜汽車が運行を再開する目処は立っていなかった。
車掌によれば、降り頻る大雪の為ではなく、線路の先で事故が起きたせいで、復旧が遅れているという。
乗船予定だった早朝の連絡船には間に合わないに違いない。なにせ、到着予定時刻まであと僅かにもかかわらず、船着き場のある青森駅どころか、途中の盛岡駅にすら至っていないのである。
結露の垂れる曇った車窓ごしに、名の知らぬ停車場と雪深い町が薄明に浮かび上がっている。
暖の乏しい車内ではなく、降りて宿に入る手もあった。食事にもありつけるだろう。
征一の隣の寝台で眠っていた若い男が席を立ち、身支度を整え、荷物を持って出ていった。
僕もここで降りようかと、征一は考えた。
母の故郷だという豊原を一目見たいと考え、寝台列車に乗り込んだのは昨夜の出来事だ。まさか本州すら出られないとは思いもよらなかった。
実業家の父に見初められ、十五歳で正妻となった征一の母は、征一が二歳の頃に肺炎で亡くなっている。妾であった後妻が捨てた為に母の形見といえそうなものは、かんざし一つ遺っていない。
だが、先妻の産んだ子を何かと毛嫌いした後妻が二言目にはあの女と同じ顔をしていると口にしていたからには、母というのは僕と同じ姿をしているのだろうと、征一は姿見を眺めるたびに母への恋しさを募らせてきた。
後妻に悪しざまに言われるたび、むしろ後妻に感謝していた。
なぜならば、父は先の結婚などなかったかのように先妻についてはなんら教えてはくれず、征一にとって母とは、後妻を通じて知るほかなかったからだ。
豊原のどこに住んでいたのかなど、母の足跡を追うことは不可能だった。かやという名前しか知らない。
かやは、父が拾った女だ。後妻によれば、田舎の出で、貧相でみすぼらしく、広場で花売りをしていて卑しく、雪女のように血色が悪く、異人の血を引いて目が不気味な青をしている。
後妻が吐き捨てた母にまつわる身体的特徴は、征一にもそっくり当てはまるのだった。
降りてしまおうか。征一は思った。目的地が重要なのではなかった。
昨夜、殴られた箇所がじくじくと痛んだ。
だが殴られた痛みよりも、突然、同じ大学に通っていた交際相手が大学から姿を消したこと、その理由が、手切れ金を渡されて帰郷したということ、この数ヶ月間に二人の間でおこなわれた情事の仔細を父が知っていたことのほうが、征一を絶望に陥らせた。
清に二度と会えない。そんな征一を、父は夜通し殴りつづけた。どうやら大変幻滅したようだった。
昨夜、かやに似ていると言われたせいか、母に会いたいと思った。
母のところへゆきますと書き置きをした今朝方、その前に一度だけ豊原を見に行くと決めたのだった。学生寮の片づけなどを済ませ、大学に退学の意向を伝え、上野から寝台列車に乗った。
夜は眠れなかった。だが、何も思い出さなかった。
熱と痛みに耐え、長い闇の一夜をなんとか乗り越えたというのに、列車はどこかで停車したままだった。
清に渡った手切れ金は潤沢だっただろうことだけが慰みだった。
大学で出会った瞬間に互いを大切に思った。
せめて金が尽きるまでの間、僕を覚えていてくれと征一は願って、少し笑った。塞がっていた口の端の裂傷がふたたび裂けて熱かった。
清にとって金で清算されてしまう程度の関係性だったとしても恨みはない。幸せでいてくれるならば、この痛みにも理由があるのだと思えた。
征一は起き上がった。
荷物をまとめ、外套をまとって列車を降りる。小さな停車場は白銀に染められ、日はないのに足元に困らないほど明るい。
屋根だけの駅舎を抜けて広がっているのは温泉街だった。つんざくような冷気の中に、硫黄のにおいがする。
さらに煙草のにおいがして、征一は顔をあげた。駅舎を出た路傍で、寝台列車で隣り合った男が紙巻き煙草をのんでいた。
煙草が盗んだものだとすぐにわかった。若い男の身なりは汚く、頬はこけ、壊れた靴を履いている。着ているものも薄く、胸元をかけ合わせても寒さを凌げやしまい。
普段ならば視線を合わせないように通り過ぎる存在だ。
資産家の家に育ち、身なりの良い征一が追い剥ぎに遭うとしたら、このような男だと、本能的な警戒心が湧き起こる。
足を止めたのは、孤独な風貌が、どこか清に似ていたせいだった。
二
その少年は、不幸を身にまとっていた。
温暖な駿河湾に面した漁村育ちのおれにとって信じられないほど雪深い町で、少年が初めておれの姿を目にしたときも、宿に入って風呂を借りた後、出てきたおれの顔を曙光の差す明るい部屋で触れて確認したときも。
最初は泣いているのかと思ったが、泣いてはいなかった。
皺の寄った布団から起き上がると、征一と名乗った少年はいなくなっていた。荷物は置いてあるので、少し外したのだろう。
「ああ、起きたか。これを着なさい。君の着物は洗濯をしている」
襖を開いて征一が急に入ってくる。
征一は、少年と青年の間ぐらいの男だ。年の頃は変わらないと感じた。落ち着いた喋り方や身なりの良さを見れば、裕福な出自とはわかる。
裕福で、純粋で、そして彼は不幸せをまとっていた。ぬばたまの髪に白雪の肌、異人のような藍玉の瞳を持っている。不健康そうではないが儚い。
戸惑うおれを立たせ、真新しい着物を慣れた手つきで着付けていく。
今朝、おれは征一にたかった。金目のものを置いていけと言った。
列車の荷から盗んだ紙巻き煙草をのんでいるのを見られ、自棄になって言った。
征一は、すべてをあげるからついてこいと言い、手近の宿に入った。
臭いから風呂に入れと言われて温泉に入れられた。
食事をしたあと、おれは泥のような眠りについた。
「少しは見られるじゃないか。困ったら売ればいい。足しになる」
手触りの良い正絹だった。また、足袋や靴、外套も揃えたらしい。毛織物の外套はあたたかい。
征一は、町を歩いておれのものを買い集めたので、ちぐはぐかもしれないと自嘲気味に笑った。
「余った金は財布に入っている。荷も多少は金になる」
征一の着ているものは古びたものに変わっていた。先に金にかえたらしい。
「さぁ、出ようか」
黙ったまま、おれたちは駅に向かい、ふたたび寝台列車に乗り込んだ。どこへ行くのかとは問わなかった。手段が温厚なだけで、おれは征一から金をもらい、服を買い与えられ、残りの荷物ももらうことになっている、れっきとした追い剥ぎだった。
それゆえ、征一の行く末を案じる資格はないように思われた。
おれのことを誰も知らない地に行こうと思い、列車に飛び乗ったら寝台列車だった。終点は青森駅というらしい。学のないおれには、遠いことしかわからない。
ほどなくして列車は動き出した。
片側通路式の寝台列車は、さほど乗車していない。歩き回るひともない。
もたれかかって眠る征一の前髪に唇を寄せて、肩を抱いていた。死人のような寝顔だった。あるいはこれから死にゆくように思え、ぞくりと肌が粟立った。
「豊原だ」
質問していないにもかかわらず、征一は言った。生きていたのかとおれはやや驚いた。
「豊原?」
豊原がどこかなど、何も知らなかった。
「母のふるさとなんだ」
世の中には二種類の人間がいる。生まれながらにして与えられた者と、なんら与えられなかった者だ。
金をもらう前であれば、はらわたが煮え繰りかえるような嫉妬心を抱いただろうと思われた。だが、不思議なことに、征一に対し、何らの感情も抱かなかった。
おれの母は、遊郭生まれで年増になって漁村の男に身請けされた。
自分はさる高貴な血筋の男の妾が産んだ子で、本来はこのような肥溜めにいる身分ではないと気位ばかり高かった母の生まれ故郷を、おれは知らない。母の郷里など行きたいと思わない。
その漁村はいまだ江戸時代の名残があった。禁止されて久しいにもかかわらず、おれは幼少時代ひもじさゆえに食べ物を盗んだ手に、入れ墨が入っている。
地域によっては、罪を犯した者の額に、犬と彫るのだという。一度目に一、二度目にノ、三度目に残りを書き足すのだそうだ。
生まれてこの方、畜生同然の扱いを受けてきた。犬と呼ばれていた。
列車の座席が隣り合っただけの征一の肩を抱いているのが、不思議でならなかった。おれが喉から手が出るほど欲しかったものを征一はすべて持っている。そして捨てようとしている。
布越しに伝わる頼りない体温が逃げていかないように、真新しい外套を被せた。
初めてだったせいだ。と思う。征一は、おれにあたたかな布団を、食事を、着る物を与えた初めての人間だった。
青森に着いて青函連絡船、そこから先は急行、さらに稚泊連絡船に乗ると言った。そのどこかで征一とは別れることになるのだろう。
列車が青森駅に着いたのは、暗闇のような未明だった。
三
よく見ると、彼は清とは似ていなかった。ただ、はっきりとした目鼻立ちが美しかった。何者も寄せつけない狐狼のような瞳が印象的だった。
青函連絡船を降りる頃、征一は彼に言った。
「どこへ行くか知らないが、旅の無事を祈っている」
函館の船着き場を降り、黙ったままの男に往路の路銀以外のすべてを渡し、征一は急行列車に乗った。復路は必要なかった。
体の痛みはやや薄れていた。代わりに痣になり、痣の色も変わっていく。
車窓は雪深く、景色に変化はなかったが、征一の心中は穏やかだった。
自分に合わせて縫われたものではない寸法の合わない服を着て、履き慣れない靴に替え、薄手の外套と僅かな路銀以外に何も持たずにいることが、同時に、征一を苛んでいた重荷をおろしたのだった。
後妻は子を産まなかったので、征一は一人息子だ。他にも妾はいたが、誰も産まなかった。一人息子を失えば、実家は養子をとることになる。
先妻にあまりに生き写しであったばかりに、父は征一に血の繋がりを感じられなかったようだ。征一自身も疑っていた。遠縁であっても父の親族が継ぐほうが相応しいのではないかと征一は考えている。
車窓の雪景色は深くなるばかりだった。豊原はさらに深いのだろう。砕氷船は運行しているのだろうか。無事にオホーツク海を渡れるのだろうか。
寝台列車で居合わせた彼に感謝したい気持ちだった。彼がどこへ行くのかは問わなかった。
おそらく彼は、貧しい生い立ちで不幸な人生を歩んできたのだろう。
渡したものでは到底賄えないとしても、一晩の酒代に消えたとしても、引き受けた荷が征一にとっていかに重いものであったかを知らずに、使い切ってほしい。
夜汽車は闇を走り、過去を置いて遠ざかっていく。稚内に到着し、稚泊航路の連絡船乗り場へのほんの少しの距離を向かう途中、征一は声をかけられて振り返った。
「おれも行く」
彼だった。
征一は言った。
「……名は」
「名?」
「きみは、なんて名前なんだい」
彼は怯んだように顔を強張らせた。いちばん傷つく言葉を投げつけられた子どものような、心許なさに泣き出しそうな表情に、こちらにまで深い悲しみが押し寄せてくる。
妙に謝りたい気持ちになりながら、征一は待った。
彼は、名前は捨てたと答えた。忌々しい過去の象徴であるといわんばかりに。
「……好きに呼べ」
「では、きよ」
征一に思いついたのはそれだけだった。もう一度名を口にすることを許してほしい。懺悔をしながら、彼に名付けた。
「わかった」
新しい清は、荷物の大半をどこかで換価し、征一とともに稚泊連絡船に乗り込んだ。
四
半日の船旅を経て、稚泊連絡船は大泊という場所に着いたという。船と列車を乗り継いだ旅も、もうすぐ終わりなのだそうだ。
列車の中で、征一とペリメニというものを食べた。餃子だそうだ。餃子という食べ物は、名こそ違えど世界中にあるらしい。おれの世界にはなかったので初めて食べた。また、これほど長い間、飢えずに何かを口にできたのは初めてだった。
車窓は雪だった。上野から青森、函館から稚内、大泊から豊原、雪の種類が違うように感じられた。おれがそう言うと、征一は目を細めて微笑んだ。
「本州の雪は水気が多くて重く、北海道の雪は細かく、樺太の雪は……」
征一は車窓を眺めて目を細めた。
列車内は混み合っており、おれは征一と枡席で隣り合い、対面にも二人座っている。
「……なんだか懐かしい」
「樺太の雪は、懐かしい?」
雪は厳しい。凍てつく寒さで、氷の塊のようだ。
降りながら透き通るように凍っていき、氷漬けとなっている。
白く灰色で、ひどくなる一方の雪は、ただ暮れていく夕刻のようだ。
「僕は、……母とここに来たことがあるのかもしれない」
そう呟いた征一の目に涙が浮かんでいた。懐かしいのは樺太の雪ではなく母親なのだろう。
「母親のところに行けばいい」
と言うと、征一は微笑んだ。
「ああ。そのつもりだ」
おれは征一の母が亡くなっていることを、そこで初めて知り、後悔した。
豊原に着いたときには夜となっていた。宿を探してとる。
「清。湯をもらった」
誰の名を呼んでいるのかもわかった。与えてくれたという喜びが、昏い気持ちに変わってゆく。
部屋で身を清めながら、おれは同じように傍で脱いだ征一の痣を不意になぞった。
「つけたのは、きよか?」
征一は驚いた顔をして、それから笑った。
「違う。父だ。痛みはほとんどない」
嘘だ。動くたびに顔をしかめ、身体が強張るのは、痛みを耐えているせいだ。
おれは痣をさすった。搔かれたような傷も生々しい。
おれの父は身請けした妻も、血のつながった子をも捨てた。その後、母は切見世で客をとっていた。そのような場所でなぜ生きながらえたのか、おれにはわからない。
病気になったとしても怪我をしたとしても、医者もおらず薬もない。金もなかった。だからおれは、手でさすって温める以外の方法を知らない。
何も知らない無力な自分ができる最善の方法がこれだった。気休めにしかならないだろう。
征一は黙って目を閉じていた。
五
書き置きをするのは二度目だった。母のところにゆくと書いた一度目の手紙を読み、父はどうしただろうかと少しだけ思いを馳せ、征一は首を振った。あまり時間がない。
清と名付けた彼は寝ている。起こさないように宿を出るつもりだった。ランプをつけて、万年筆をとった。これも売れば金になるだろう。
伝えたいことはすでに伝えてある気がした。今後の無事を祈っていること、荷物を換価すること、僕は母のもとに行くこと。
別れの文句を書きつけて宿を出る。夜明け前の町は、歩けないほどの闇ではない。ただ、目が凍るのではと思うほど冷たかった。
豊原に立っている。
生前の母と長い旅路の末にここに来たことがあると確信していた。
だからといってどうということはない。母の生家がどこであるかは依然としてわからない。広場で花売りをしていたというが、どの広場なのかもわからない。
ただ、一度も故郷に戻れずに死んだと思った母が、征一のおぼろげな記憶のなかで、豊原に帰っている。
誰もおらず、雪は止んでいた。晴れていた。夜の空はどこまでも濃い。
この場所で母は生まれ、嫁ぎ、征一を連れて帰った。なんと遠い旅だろう。北の果てのさらに向こうである。
町を歩きながら、征一は次第に高揚していた。全能感が湧き、満たされていく。
広場に出て、座り込んだ。空がひらけており、星が降る。少しでも母に近づけただろうか。
背中に触れた根雪に、体温が急速に奪われていく。
目を閉じた。迎えにくるとすれば母しかいない。別れたときとあまりに違いすぎてわかってもらえないだろうか。
「征一」
母の声かと目を開けたとき、そこにいたのは新しい清だった。
「清」
清は苛立ったように征一を起こし、外套を脱いで征一を背負い、その上から外套を羽織った。
征一はされるがままだ。抵抗する気力もない。清の体温に頬を寄せて、こぼしたそばから涙が凍っていく。目が開けられなくなるかもしれないので、両手で顔を覆った。
手と顔がくっついて、離れなくなるかもしれない。二人の体が密着したまま凍りつき、離れられなくなりつつあるように。
宿が見える頃、東の空が白んできた。
征一は言った。
「追わないでくれと、さよならと」
書き残したのに。
清は不貞腐れたように吐き捨てた。
「おれは文字が読めない」
その可能性には思い至らず、征一は申し訳ないと思った。ちょうど夜明けの光が差している。長い旅路の中で何度も目にした白い光だった。光が希望であったとしても、闇は絶望ではなかった。
「母親に会えたのか」
「……ああ」
あの広場に、母はたしかにいた。長い時間が母子を隔てているだけで、かならずどこかにいた。
清は言った。
「つぎはおれが行きたいところに行く。おれの生まれ故郷よりもあたたかい、さらに南の国だ。遠いからずいぶんかかるかもしれない。だがこの寒さは耐えられない。北を目指すのはもう懲り懲りだ」
「わかった」
南の国に行くまでの行路も、まだ見ぬ国を見つけた後も、旅は続く。
誰もいない朝に、凍りかけた涙を手で溶かして、背負われながら、本当の名前を教えてくれるようならあとで訊ねてみようと、征一は思った。
【おわり】