清らで妙なる朝露のごとき
私の享年は十七だった。
数え年ならば十九というべきだろうか。とにかく高三だったのだ。私も、彼女も。
死因は泉子の喪失だった。でも、はっきりとした命日はわからない。
泉子の中の私は、自覚する以前からとうに死んでいたのだろうから。
藤城泉子のどこにも自分がいないことを知ったあの夏、私はついに亡者と化した。
泉子が消えてしまっても、私はマリア不在の白蓉女学院にあり続けるしかなかった。私が纏っていた白い制服は、朽ちて腐臭を立てる肌と癒着し脱げなくなっていた。
泉子の私は死んだ。そして泉子のための私が、私を構成するすべてだった。
まるで恋人のように睦まじい存在として振る舞っていても、泉子のすべてが私の手の中にあったことなんて一度もない。だけど名前を呼べばやさしい返事が返ってきて、好きだと言えば私もと微笑んでくれた。私だけに囁いてほしくて、私は絶えず彼女のそばにいて彼女に話しかけた。
私は泉子の身体に触れることができた。たとえそれが、彼女の纏う制服の上からであったとしても。
私だけの泉子になってくれなくても、私は死ぬまでずっと泉子のそばにいたかった。
私は泉子を愛し、そして抜け殻になった。
人ではなくなった私は今もまだ、泉子と過ごした過去をさまよっている。
*
幕開きのベルまではあと三十分ほど猶予があって、客席についている人はこの広い劇場に半分程度のようだった。
森園天音は二階席最前列から正面の舞台に降りる緞帳を眺めていた。この座席位置だとそう遠く感じない。オペラグラスも持ってきたが、天音の視力なら綴錦の白い緞帳に織り込まれた銀糸の光沢まで目視できるようだった。
十七年前の初演時も、オペラグラスは結局使わなかったのだ。ずっとケースに入れたままで、取り出して照準を合わせもしなかった。
初演の観劇日は七月三十日で、それは泉子の十八回目の誕生日になるはずだった。しかしその節目の日を泉子が無事に迎えられたのかは、一連の事件の裁判が終結して一応の解決を得たとされる現在も不明のままだ。
天音が泉子と過ごした年月と、泉子がいなくなってからの月日は、今年ちょうど等しくなった。
天音が藤城泉子と出会ったのは、二人がまだ一歳を過ぎたばかりの頃だった。以降、都内の私立幼稚園から小学校、そして滋賀県の白蓉女学院の中高と、場所は変わってもずっと同じ学び舎で同じ時間を共有した。
天音にとって、泉子は深い信頼と尊敬を抱く大切な友人だった。幼い頃からとても可愛らしく、優しかった憧れの存在。自分は彼女に釣り合わないと思いながらも、泉子のことがこの世で一番好きだった。
白蓉女学院の荘厳な校舎に、清らで妙なるマリアの如き藤城泉子がいる。物心ついた頃にはすでに、天音の日常は泉子とともにあった。私は泉子の一番古い幼馴染だという自負を秘めてうつくしい泉子を遠くから眺めていられたら、それで天音は満足だったのだ。
泉子との満ち足りた日々がこれからも続くと思っていた高等部二年の冬のある日、天音は彼女の好きだった劇作家の新作舞台が上演されることを知った。
これまでは大きくても五〇〇席弱のハコで上演していたその劇団が、客演も呼んではじめて大規模な劇場に舞台をかけるという。内容は想像できなくてもインパクト充分のタイトルで、お金をかけた舞台装置や衣装は凝って見応えがありそうだった。夏休みの帰省時期には東京の劇場でやるらしいから、休暇は実家に滞在する泉子も観に行きやすいのではないか。
――一緒に観に行かない? できれば、泉子が十八歳になるその日を私に祝わせて。
そう誘うと泉子は、誕生日を天音さんと過ごせたらとても嬉しいと微笑んだ。泉子の大きな瞳は天音を見つめて、明け方の澄んだ湖面のようにきらめいていた。
それなのに泉子は舞台の日を待つことなく、天音たちの前から忽然と姿を消した。
観劇日までにはもう、事件容疑者は犯行について詳細な供述を行っていた。その供述や捜査報道では、泉子の安否は極めて不安視されているようだった。
天音は一縷の望みに縋るように、約束の日に劇場に足を運んだ。購入したペアチケットの泉子の分は、失踪してしまうまでに彼女に渡してあった。
もしも無事でいるのなら、泉子はペアチケットの片割れを持って劇場に来てくれるかもしれない。
泉子になにが起きたのかはわからないけれど、今日のことは楽しみにしてくれていただろう。観劇に誘ったとき桜色に染まった頬や、チケットを渡したときに見せてくれた花が咲くような笑顔、それにこの日の計画をあれこれ話し合っていたときの思わずこちらが照れてしまうような愛らしさは、けして作りものではなかったと思うのだ。もしかしたら彼女には理由があって、自ら姿を消したのかもしれない。逮捕された犯人がいくら罪を語っても、天音には泉子が死んでしまったなんて信じられなかった。
泉子はきっと生きている。私との約束を覚えてくれている。
だが並びでとった隣の席は、幕が開いても誰も座らなかった。
まるで紗幕越しに見ているように、ストーリーも舞台セットもぼんやりとしていてまったく頭に入ってこなかった。カーテンコールの余韻が消えて、終演がアナウンスされるまで観客席で待ち続けた。緞帳が降りて二階席に残るのが天音ひとりになっても、ついに泉子は現れなかった。
天音も理性ではこの結末を予期していた。わかってはいたけれど、幕切れまで一度も椅子の形にならなかった隣の席の座面を手で押し下げたら、泉子の不在がぐさりと胸を抉った。
――泉子はいなくなった。そしてもう、きっと帰ってこない。
無人の座席にあらためて突きつけられたその事実は、泉子の不在にぽっかりと空いた天音の心に沈澱していった。
いま天音が腰かけているのは、その十七年前と全く同じ席だ。
一八〇〇席規模の広いホール。二階席の中央ブロック、最前列という良席に天音はいる。
ここから見下ろす一階席前方にはまだ客が座る前の座席シートが目立つのに比べて、天音の周囲は着席していく速度が早いようだ。
横の通路に人がやってくる気配がした。落下防止の手すりと着席した天音の膝先の狭い道を通りたい様子の中年の夫婦に気づき、天音は席を立って通路に出た。
二人は「すみません、失礼します」と身をかがめつつ手すり前の狭い隙間を通って、チケットを確認しながら席に着いた。通路際の天音の席と、さらにその隣を飛ばして彼らは掛けた。
天音はまた最前列中央ブロックの右端の席に座った。そうして通路沿いの席に座る天音の左隣は、未だ誰も来ない空席だ。
劇場入り口に満員御礼の立て札が出ていたから、これから次第に客席は埋まっていくのだろう。さっき通ったロビーも華やかに装った人々でにぎわい、チケット窓口には立ち見券を求める列ができていた。
深い青緑のロングスカートの膝に置いたハンドバッグに手を重ね、天音は来る人のない左隣の席を思った。
これは、泉子のための席だった。あの夏も、そして今日この時も。
かつて大好評を博した舞台の十七年越しの再演とあって、この公演のチケットはかなりの争奪戦だった。天音は高校生の頃にはなかった金銭的な実力も行使して、申し込める限界の枠までチケットの抽選に申し込んだ。
七月三十日、昼公演の一等席を並びで二席。
同じ公演のチケットを二枚求めたのは、自分と泉子のためだった。そして天音は完璧に希望通りの席を得ることができた。
希望は叶ったが、これはとても迷惑な行為だ。観劇のマナー違反だし、そもそもの常識や良心に欠けた振る舞いだということは、天音も認識していた。
天音がもう一枚余分にチケットを購入したことで、観劇できなかった人がいる。この舞台の制作に関わっている人々も、ひとりでも多くの観客に生の舞台を見てほしいと願っているだろう。土曜の昼公演、大入りの劇場の二階席最前列にぽつんと浮かぶ空席は、演じる舞台の上からもきっとよく見えてしまう。
でも天音はどうしても、あの舞台の再演が同じ期間に同じこの劇場であると知ったとき、二人分のチケットを買わなければいけないと強く思った。めずらしく天音が矢も盾もたまらないような気持ちに取り憑かれたのは、終わった過去と繋がる扉を見つけてしまったせいだ。
あの七月の約束を覚えていて、泉子はこの劇場に来てくれるかもしれない。七月三十日、十三時開演のこの舞台を見るために。
マリアの惨事に動揺する白蓉生たちを置いてきぼりにするように、時間はたゆむことなく流れていった。天音は強い傷心と怒りが入り乱れる日々を送り、卒業後は京都にある芸術大学に進学した。
泉子のそばにいるとき、天音は泉子を描くことができなかった。自分にはまだ泉子を描くだけの技術も才能もないから、充分な実力をつけてじっくり描こうと思っていたのだ。やっているつもりの努力は逃げだともわからず、そして躊躇っているうちに泉子が消えてしまうなんて思ってもみなかった。
さらに泉子の失踪後にある絵を見て、天音は自分の腕が『まだ』の期待が持てるものではないと知ってしまった。描く苦しさの中に描けない怖さがあることに気がついて、天音は絵画そのものから遠ざかった。
自分はこの道ではきっと、泉子を表現することができない。
そう思って画作を投げ出したくせに、どうしても天音は自らの手で美しいなにかを生み出したかった。泉子に捧げられるような最高の美を創り出すことだけは、泉子が消えてそれまでの自分を見失っても諦められなかったのだ。
泉子を表現したい。
泉子を描くことはできなくても、泉子を包み彩る布を作ることなら、臆さないで取り組めるかもしれない。
天音は染めと織を専攻できる芸大の工芸科を受験し、無事に合格した。そして十二歳から十八歳までの六年間を過ごした白蓉の寮を去り、大学の沿線に一人暮らしの部屋を借りた。天音が泉子の存在しない進路に進むのは、幼稚園の受験スクール以来ではじめてだった。
もっとも染織が専攻でも紙と鉛筆とデッサンからは逃れられないし、むしろ型染めなどはデッサン技術が表現の根幹を成してくる分野だ。それでも最終的な目的を変えたら、天音は新しい気持ちで芸術に向き合えた。
新天地で、天音は染色に没頭した。大学一年から修士までの六年間は、それから続く天音の衣作りの土台となった。
この世でもっともうつくしい彼女の美をさらに引き立てる最上の衣。
どんな課題でも、天音は一貫して泉子を題材に制作した。工芸科の基礎課程のカリキュラムで陶芸や漆工芸に取り組むときも、その器が泉子に触れることを思わないではいられなかった。泉子の滑らかに細い指の白を際立たせる赤い漆の豊かさ。つややかな薄紅の唇にやさしく含まれる土の器の荒い風合い。
最終的に専門課程を染色に絞ったのだが、染色という幅広い分野でも特に正絹の白生地による着物制作を表現方法に選んだ。
繭の糸取りを見学したとき、眼に見えないぐらい細いのに眩く光る絹の糸を泉子のようだと思った。手繰り出した糸を撚り、また製経して織り成される白生地の贅と妙。巾一尺ほどの反物に真っ直ぐ鋏を入れて仕立てる着物は、普段着から礼服に至るまで仕立て上がりの形自体にはほぼ差異がない。衣桁にかければ一枚の絵のように広がる。着物には確固たる様式はあるが、布を裁ち落とす型紙はないのだ。天音はそんな和装の縛りと緩やかさの上に泉子を表現してみたいと思った。
泉子の着物姿だったら、天音は何度も見たことがあった。印象的だったのは七五三やお正月の晴れ着。まろやかな桃色のお祝い着も、白地に藤色の鹿の子絞りの振袖も、いつの着姿も雅で可憐だった。でも天音が泉子に選ぶのなら、もう少し違う雰囲気のものも着せてみたいかもしれない。
なにをどう着ても泉子は麗しいだろう。しかし天音は衣装そのものを主役にするのではなく、泉子をさまざまに映えさせる名脇役のような着物を作りたかった。そしてできるのなら、まだ他の人が気づいていない泉子の美を我が手で引き出したい。
頭の中に浮かぶイメージを正確に描き出せるよう、天音は染色技術の習得に励んだ。
無地染と型染を中心に、学年が進んでからは手描き友禅も試みるようになった。布地は後染めに適しているから縮緬や綸子といったやわらかものが多かったが、肌に馴染む風合いが泉子らしいと思って紬や麻の反物を染めることもした。こちらは先染めと後染めの両方を試し、今では作品によって使い分けている。
せっかく京都にいるのだから地の利を活かそうと、市内にある染工房でバイトしながら技術を学んだ。着付けも習ったし、和裁の教室にも通った。良い図案を描くためにデッサンも初歩から勉強し直した。他大学で農科学を学ぶ同級生に訊ねて草木染めに使えそうな色素分子を持つ植物を教えてもらい、一つずつ媒染剤との組み合わせも変えて試した。
周囲が成人式のための衣装を揃えている時期も、大学生協に袴が並ぶシーズンも、天音は自分の支度はそっちのけで着る人のいない反物を染めていた。振袖用の反物は在学中に何本も染めたが、自分の寸法で仕立てに出したことは一度もない。浴衣も小紋も色無地も訪問着も、昔なら嫁入り道具になりそうなひと通りの着物を扱ったが、どれも泉子のための図案で泉子のための色だった。天音はこれまで、泉子のことを思わずに着物を作ったことがない。そして泉子のために完成させた色や柄なら、自ら纏おうとは思わない。
天音が今日着ている深い青緑のツーピースも、作り損ねた染液の再利用だった。理想では夜の森の風ように暗く澄んだ色にしたかったのだが、染料を足すうちに暗礁に乗り上げてしまい、仕方なくワイド幅のB反を染めて自分でミシンを踏んだ。
長くやっていても、いまだに染めはむつかしい。それに着物にも染織にも無知な状態で表現の題材に選び、さらに泉子を引き立てるためという絶対的なテーマがあったから、天音の創作は前途多難だった。
大学の同期先輩や先生からは、森園の作品は芸術というより伝統工芸風の商品に留まっている、従来の着物の形や柄行を踏襲するのは工夫がないといつも言われていた。反対に、着物関連の師匠筋からは、あなたの染めは自由すぎるとよく窘められた。
せっかくの天然染料に化学染料を混ぜるのは邪道だ。白糸で織りあがった紬や麻を後染めにするものではない。本来なら分業する染めの行程も一人でやろうとするから、あなたはどの技量も中途半端で猿真似のような作品しか作れないのだ。腕のなさを発想の奇抜さで補おうとするのは見苦しい。あなたはいったい、なんのために染織をしているのか。
きついことを言われても、心が折れることはなかった。たしかに私は好き勝手しているのだから、厳しい言葉も当たり前だと思った。
これではあかんでと言われたら、どうしたらもっと良くなりますかと素直に訊ねて、そして天音はまた泉子に着せる衣を染め続けた。
学部と院の二度の卒業制作も、泉子が纏う姿を思って考案した図案と色だった。高校を卒業するまでは著名なコンクールで入賞することのなかった天音が、大学の終わり頃から少しずつ評価されるようになってきた。だが白蓉にいた頃はあれほど選外が悔しかったのに、いざ賞を獲ってみると天音の心にそれほどの感慨はなかった。院の卒業制作で学長賞をもらったときも嬉しいというよりも他人事な感じがあって、ただ長いあいだ学費と下宿代を出してくれた東京の両親にやっと面目が立つことにほっとした。
天音はかつて、作品を評価されてもなんとも思っていなさそうで、しかも描き上げた瞬間から自作を忘れていくらしい綾倉鈴の醒めた態度をいけすかないと思っていた。でも大学で染色をするようになって、やっとあの頃の彼女の感覚がわかった気がした。
天音が知った感情と、当時の鈴の気持ちが同じだとは思わない。彼女と自分はまったく別個の人間だし、才能も技術もやはり及ばないと思う。しかしおそらく当時の彼女には雑念もなにもなく、ひたすら描きたいという欲求だけがあったのだろう。その湧き上がるような思いは、一時期は深く憎みさえした元同級生との唯一の共通項かもしれない。
泉子を失ってからの天音は、無心に彼女のことだけを考えて下絵を描き、図案を引いて染料を調合するようになった。だから作品が評価されるようになったのも、自分の腕や才能ではなくて泉子の魅力ゆえだろう。
仕上がりを褒められても自分ではどこか納得できず、いつでも次の作品を考えている。本当は泉子にこの布を纏ってほしかったし、それを着た泉子に微笑んでほしかったと思う。
そして天音は現在、白蓉女学院の中高で美術を教えて担任を持ちながら、学校のあるA町に住んで制作を続けていた。
もともと院の在学中から、季節ごとに白蓉生に向けた染色のワークショップを頼まれていた。恩師の頼みだし長浜で白生地も入手したいと度々母校に足を運ぶうちに、天音が修士課程を修めるタイミングがその恩師の定年とぶつかることがわかった。
最初から恩師は後任にすることを狙って天音に声をかけたのだろうが、天音自身もワークショップの講師をするうちに中高生と関わるのも面白いと思うようになっていった。芸大に進学するときに両親に提示された条件として、中高の教員免許はとっている。自身が白蓉生だった頃にはひねくれていた天音も、数か月に一度染色を教えにくるだけの天音を『先生』と呼んで話しかけてくる白蓉の生徒たちを可愛いと思うようにもなっていた。
正式に白蓉の教師となってから、天音は学院に仲立ちをしてもらってA町の古い空き家を安く手に入れ、自宅で染物ができるように改築した。
広い土間に蒸しと染めの釜を設置して、屋内で伸子張りができるように壁を取り払った。干し場にできる面積の庭があり、近くを流れる川の水は夏でも冷たく澄んでいる。もともとカツカツだった銀行残高が底をつくのと引き換えに、天音は森園染工の看板を掲げても差し支えない住環境を手に入れた。
平日は白蓉で教鞭をとり、夜間と休日に制作をする。天音は泉子より一足先に、三十五歳の誕生日を迎えていた。
白蓉に勤め出してからの制作も、泉子を表現するという一念は揺らがなかった。天音は大学時代から付き合いのある京都丹後と滋賀の織物工場から反物を仕入れて、相も変わらず泉子のための布を染めている。シボの美しい浜ちりめんや透けるような上布の軽やかさを活かしたくて、学生時代よりもさらに色作りに熱心になった。
香を焚き染めなくても、その布を見ればおのずと馥郁を感じるような色を染めたい。
制作で利益を出そうとか、作家として評価を得ようとは天音は考えていない。だから課題提出があり資金繰りにも悩む学生時代以上に、好きなように制作できた。数年前にシルクジョーゼットで正式な十二単を仕立てたときには泉子に合わせた襲の色目を考えて一色ずつ染液を作り、簪や扇子もデザインして誂えた。血の気が引くほど費用がかかったが、時代装束を用いた表現はまた取り組みたいと思っている。天音の染めは安定した本職があるからこそ可能な自分のための染めで、だから一生をかけて泉子のためだけに着物を作り続けるつもりでいる。
着せるあてのない反物は、たまに天音の工房兼自宅を訪問する知己の織物会社や卸会社の営業経由で買い取られていく。買い取られて会社の商品になった反物の行く先には、天音は興味がなかった。興味を持つべきなのだろうとは思うが、信頼のおける先だからもう任せてしまっている。普段は制作の赤字を本職の給与が補い、反物が一本手元から離れるとまとまった臨時収入がぽんと入る。それでまた泉子に着せたい着物をあれこれと考え、入ってきた臨時収入を丸ごとつぎ込んで、今度は工場に相談して織の地模様も特注で依頼したりする。そして奮発したせいでまた赤字ギリギリになり、固定給で黒字に回復してという綱渡りの収支を繰り返す。
それが泉子を失ってからの十七年だった。 泉子と過ごした土地を離れた六年間で、天音は自分なりの表現方法を得るのと同時に、まだ自分は泉子を探し求めているのだと知らされた。そして大学を終えて泉子との思い出のある母校の教員になり、そろそろ不惑が見えてくる歳の今もなお、天音は泉子に囚われ続けているのだろう。
天音は時間の流れの通りに歳をとったが、天音が思い浮かべる泉子は同じ速さでは歳をとらない。泉子の衣を作りながら、そのことをたまらなく寂しく思う瞬間がある。
天音は泉子に、自分だけを見て自分だけを愛してほしいと求めたことはなかった。それよりも彼女が困ったとき、最初に頼ってもらえる友人でいたいと思っていた。つらい気持ちを相談できるような、泉子にとってやさしい存在でありたかったし、なれるはずだという自信もあった。だが綾倉鈴が描いた泉子を見て、天音は画力のみならず泉子との関係の深さまでも彼女に遠く及ばなかったことを見せつけられた気がした。
どうすれば泉子は私の前で泣いてくれたのだろう。彼女のように蛮勇であれば? もっと泉子の心に踏み込んでいれば? いつからやり直せば、私は泉子を救えたのか。
繰り言ばかりが今も胸を疼かせる。だから天音は書くことのできない泉子への手紙の代わりに、こうして布を染めているのだろう。
その手紙が詫び状なのか恋文なのかは、天音にもわからない。大切な泉子に捧げる衣装なのだから、いつまでも自作の出来に満足することはないのだろう。そして染め続けていたらいつかは、泉子がその布を纏ってくれるかもしれない。
天音は日々働き、自らは袖を通すことのない泉子のための着物を作り続けた。染めと着物は最愛の友人を突然奪われた天音が十七年かけて手に入れた、泉子のいない世界で生きていくための道標だったのだ。
それでいいのだと、長い年月をかけてようやく自分を納得させたのに。
あの舞台が十七年ぶりに再演されるという知らせが、天音の粛々と単調な毎日に石を投げ込んだ。
――泉子に会えるかもしれない。
天音は手を尽くして自分と泉子のための二人分のチケットをなんとか入手し、この七月三十日を祈るように待ち焦がれた。
眼下に見える一階席は、じわじわと観客が集まってきているようだった。
忘れないうちにスマホの電源を落とそうとハンドバッグの蓋の留め具を外したとき、天音の席の横の通路に人が立った気配がした。おそらく座席の前を通って自分の席に向かいたいのだろうと、天音はバッグを抱えなおして立ち上がりかけた。
「あの……」
腰を浮かせながら振り仰ぐと、十七、八ぐらいの少女が二人、戸惑った表情でチケットを握っていた。ひとりがもうひとりを庇うようにわずかに前後して立っている。
こちらを見つめる少女の面差しに眼を疑い、天音は中途半端な体勢で固まってしまった。
先に立つ背の高いその少女は、白蓉で同級生だった九条真琴にとてもよく似ていた。明るく冴えた瞳も、通った鼻筋も、耳のラインが見えるショートヘアの雰囲気まで、まるであの頃の白蓉のプリンスそのものだった。
不穏な胸騒ぎがして、天音はさっと彼女の斜め後ろの少女にも眼を向けた。
泉子では、なかった。
そうだ。そんなことあるわけがない。
我に返ってみるとおかしな態度をとった一瞬が恥ずかしかった。しかし少女たちは天音の一時停止をいぶかしむよりも、なぜか緊張が勝って余裕がないようだった。
「ごめんなさいね。一旦出ます」
「いえ……私たち、そこの席のチケットを持っていて……」
やはり真琴に似ている少女がおずおずと差し出す二枚のチケットに記されている席番号は、天音が座る席とその隣の席を示していた。
二階席・A-34と二階席・A-35。
あら、と口のうちでつぶやく。チケットの座席指定をするときには必ずこの番号の席になるよう何度も画面表示を確認したのだが、席選択を間違っていたのだろうか。
なにかあったらしいと察したのか、近くに座る観客たちがちらちらと見てくる。注目が集まって、少女ふたりは気まずそうに視線を泳がせていた。
天音は彼女たちの不安をこれ以上搔き立てないよう、意識して表情をやわらげた。
「私、席を間違えていたのかしら。ちょっと待ってね」
天音はバッグに戻したばかりのスマホをまた取り出し、席番号を確かめようとチケット画面を表示した。
そこにはやはり、七月三十日十三時公演のこの席と隣の番号が記されていた。すると天音が座席を間違えているわけではないらしい。だが彼女たちの手にあるチケットの席番号も天音のスマホ画面とまったく同じなのである。
ダブルブッキングだろうかと思っていると、真琴似の少女が驚いた声を上げた。
「席、一緒……ですか?」
天音の画面を見たらしい。二人ともあきらかに困惑している。天音は生徒向けの微笑を浮かべて「大丈夫よ」と言った。
「席を振り替えられないか訊いてくるから、あなたたちはこの席に座っていて」
そう言って席から出ると、彼女たちは通路に立ったままおどおどと顔を見合わせた。
「でも、私らが後から来たのに……」
真琴似の少女の言葉に滲んだ訛りに気づいて、天音はおやと思った。
もしかすると、この子は関西から東京へ遊びにきたのだろうか。
見覚えのある顔立ちの少女が「どうしょう、ええんかな」と隣の少女に耳打ちするのを聞くと、また九条真琴のことが頭をよぎった。
白蓉女学院に在学した六年間、真琴は地元言葉を封印して常に標準語で話していた。真琴が滋賀県内で生まれ育ったということも、天音たちは卒業するまで知らずにいた。
「いいんですよ、どうぞ」
手で席を指し示して微笑すると、ふたりは逡巡してから「すみません」と言った。
「すみません、ありがとうございます」
やっぱり二人とも、イントネーションが東京とは違う。
そんなことを頭の隅で思いながら、天音は頭を下げる彼女たちに頷いてみせて、劇場扉へ続く通路を通り抜けた。
観客席へ向かう人の流れに逆らうように一階のロビーに出て、通行の邪魔にならない壁沿いで一度立ち止まった。もぎりで混雑する入場口を眺めながら、どうしようかとハンドバッグからスマホを取り出す。さっき開いたままのチケット画面をふたたび表示した。
画面には7月30日(土)13時公演の文字と共に、二階席A-34、A-35とはっきりある。けれどもあの席のチケットを持つ観客はもう一組いたのだ。そして天音はひとりきりで泉子がいないのに比べて、彼女たちはふたりで連れ立っていた。
――バチが当たったのだろうか。
泉子は来ないとわかっていながら、泉子と観るためにひと席多くとった。そうすれば泉子に会えるような気がした。
だから、なのか、だが、なのか。
観客席に現れたのは、真琴にそっくりな少女だった。
あの頃の真琴に生き写しなのに違う言葉で話し、白蓉の制服ではなくてブラウスにショートパンツという私服姿だった。やや内気そうな受け答えも真琴らしくないし、なにより隣にいたのは泉子ではなかった。
違う部分はいっぱいある。それでも九条真琴を彷彿とさせてしまう。
白蓉のプリンスとさっきの少女は、まるで異なる画材で色付けした同じ二枚の塗り絵を見ているようだった。
けれども、私は九条真琴のなにを知っているというのだろう。天音はふとそう思い、同じ場所で六年間を過ごした元同級生とわずかに言葉を交わしただけの少女の面影が重なり合って、曖昧に入り混じっていくのを感じた。
九条真琴から泉子という存在を完全にデリートしてしまうと、彼女の輪郭は途端にぼやける。彼女が泉子以外になにを求め、どのように安らぎを得ているようだったか、遠い記憶を辿っても思い当たらなかった。
開演まで、もう十五分ほどになっている。
あの場では席の変更を劇場に相談してみると言ったものの、天音の気持ちは諦めに傾いていた。
これが、天音が十七年前をやり直そうとした結果なのだろう。
泉子は来ず、天音は席を立った。
いや、ひとりの感傷に浸るのはいいとしても、ダブルブッキングのことは劇場スタッフに相談するべきなのかもしれない。
天音はあらためて画面のチケットを見た。
チケットの日時も席次も合っている。チケット代の引き落としもすみ、正しく購入できているのだと思っていた。それなのに席が被ったということは、自分は購入するときからなにか手違いをしていたのだろうか。
チケット窓口は入場口の横だった。話す内容を整理しながら、天音は窓口のカウンターに向かった。
*
あの頃白蓉女学院で、九条真琴は女子校の王子様の立ち位置にいた。
公式の恋人ともてはやされるぐらい、白蓉では泉子といえば真琴だったし、真琴といえば泉子だった。誰もがそう思ってしまうほど、ふたりはいつも一緒だったのだ。
そのすべてがまやかしだったとは言わない。だけどある後輩が泉子の秘密を調べ出すずっと前から、天音は彼女たちふたりの関係を成り立たせているものが真琴の強い恋慕なのだと見抜いていた。
もちろん泉子も真琴を大切に思っていただろう。でも泉子は誰に対しても敬愛を持って接し、そして誰かを嫌うことも憎むことをしなかった。泉子が『恋人』とまで称された真琴に向ける優しさと、通りすがりの困っている人に向ける優しさは、根本的に同じものである。
在学当時の天音と真琴は嫌い合っていて、お互いに避けて過ごしていた。そうやって忌避しあう天音と真琴の真ん中に泉子がいて、泉子は等しくどちらにも親愛を示す。その分け隔てのなさを天音は泉子らしいと思っていたが、真琴は不服に思っているようだった。
傲慢な人だと、あの頃の天音は真琴を認識していた。だが彼女は泉子の隣に並びたいと思った瞬間から、ずっと苦悩を抱えていたのかもしれない。
泉子の周囲には婚約者のように振る舞う同年の従兄がいて、泉子のことなら誰よりも深く知っていると無言の圧をかける幼馴染がいて、ことあるごとに優等生の泉子とペアになる札付きの問題児がいた。
枚挙にいとまのない競争者たちから抜きんでてただひとりの勝利者となり、泉子を得るには如何にすべきか。
天音にはわからなかった。そしておそらくは真琴も同じように、その答えを探し続けていたのではないだろうか。
入寮式ではじめて顔を合わせたとき、九条真琴の髪は長かった。
全寮制の白蓉女学院は入学式よりもひと足早く、三月の末に入寮式がある。寮生活のオリエンテーションのようなその行事で、天音と一緒に式の開始を待っていた泉子に声をかけてきたのが九条真琴だった。
活発そうで気さくな子というのが、真琴への第一印象だった。結ばすに白い制服へと流した髪は背中にかかるほど長く、くっきりした瞳が印象的な整った顔をしていた。
真琴は白蓉の入学説明会で泉子の隣の席にいて、ペンを落としたことをきっかけに言葉を交わしたという。泉子も真琴を覚えていて、嬉しい再会に柔らかな笑顔を見せた。
その偶然をきっかけに真琴は天音と泉子の間に入って、それまでは天音がいた立ち位置をするりと奪った。
のちに真琴が白蓉のプリンスと呼ばれるようになってから、真琴様は説明会で運命的な出会いをした泉子様がいたから白蓉を選んだのだとミーハーな後輩たちが熱っぽく語っていたが、それもあながち大げさな作り話ではなかったのかもしれない。
泉子の横に真琴がいると、天音は遠慮して泉子のもとへ行かなくなっていった。天音がそれまでから感じていた容姿や性格へのコンプレックスをさらに強めて、大好きな泉子から距離を置くようになったのは、美しい容姿に明るい性格を備えた人気者の真琴の存在もたしかに影響している。
入学してすぐに、真琴はバッサリと髪を切った。二十センチ以上短くなった真琴の新しい髪型は、彼女の凜と華やかな顔立ちや溌剌とした個性によく似合っていた。
少女が演じる少年の格好良さに、同級生たちは色めきたった。それまで新入生の中でもっとも先輩たちに注目されて可愛がられているのは藤城泉子だったが、この変身がきっかけに九条真琴も一気に校内で有名になった。
真琴の変身は彼女がバレーボール部に入る時期と前後していて、傍目にはただ競技の邪魔にならないように短くしただけのように思えた。小学校からバレーボールを続けていると聞いて、天音はなんとなく納得したものである。まだ十代はじめでひょろりと細くても、真琴の身のこなしは日常的にスポーツをする人のものだった。人好きのする朗らかな性格もチーム競技で体得したものだろうと、スポーツをしない天音は断定的に思っていた。
だが、当時の真琴はおそらくとても意識的に、隠れた努力をして『九条真琴』を作り上げていたのではないか。
天音や泉子が話すような少し古風な標準語を使う真琴に、当時の天音は方言の気配を見出さなかった。九条家は横浜山の手に別荘があるらしく、彼女は夏休みなどの長期休暇には田園調布の泉子の実家をたびたび訪れていた。そう聞いていた天音は自然と、真琴を東京近郊の出身なのだと思っていた。
真琴は、嘘はつかなかったのだろう。
神奈川県K市には彼女の祖父母がいて、真琴は長期休暇には祖父母宅に滞在して泉子と会っていた。後輩に手紙の宛先を訊かれたときに教えるのもここの住所だった。どこの小学校だったか訊かれると国公立だったのと答えて、地元の話題は曖昧に濁した。実家に帰省するときには、長浜駅から京都方面に向かう在来線に乗る姿をけして他の生徒に見られないようにしていた。じつは真琴は白蓉女学院から車で一時間ほどの滋賀県南部に実家があって、そこに家族もいたのだが、彼女がその市に生まれ育ったことは同じ滋賀県内出身の同級生も知らずにいたらしい。学院参観では彼女の両親も見かけたが、姉は家族に事細かな緘口令を敷いていたと彼女の妹から聞いたのは天音たちが卒業してからである。
真琴は白蓉入学までの十二年間にスモークをかけて、わずかに見える断片から崇拝者たちが輝かしい想像を広めるのに任せた。そうすれば白蓉のプリンスに夢を持つ人たちは、それらしいストーリーを空想してくれた。
衣食住を共にする集団で、しかも人に取り巻かれがちな彼女がよく六年間もプロフィールを隠しおおせたものだ。真琴はそれらの秘密を泉子にも明かしていなかったのかもしれない。おそらく真琴がもっとも自分を飾りたかった相手は泉子だろうから。
白蓉女学院はどの学年でも、滋賀県及び近隣府県の出身者が全体の三分の一を占める。その割合は天音の在学中も、勤めている現在もそう変わらなかった。全寮制だから東北や九州といった遠方からやってくる生徒も多くいるし、六学年も集えば寮の談話室はお国言葉の万国博覧会の様相を呈すこともある。
それに白蓉は県内でお嬢さま学校の代名詞とされているが、生徒の誰も彼もがやんごとない一族の御令嬢ということはない。たとえば天音の実家は輸入関連会社を経営していたが、それはいわゆる金の卵の集団就職で上京してきた祖父が商店の奉公人から苦労を重ねて興したものだった。
家柄や出身校の知名度云々よりも、それを恥じて偽る気持ちのほうがよほど情けない。それはたしかに正論なのだろう。
しかしながら好きな人に自分を偽りつづけた真琴の心情ならば、天音にもとても身に覚えがあった。
藤城泉子は類い稀な人だった。
泉子を知って言葉を交わせば、おのずと彼女に惹きつけられる。もっと仲良くなって、いつも一緒にいたくなる。誰からも慕われるような優しく清廉な人柄に、さらに泉子はビスクドールのように精巧な美貌を備えていた。そのうえ日本有数の財閥だった元伯爵家のお嬢さまとくれば、あまりにも手が届かない雲の上の存在のような気がしてしまう。
私たちにマリアは眩しすぎたのだ。
天音や真琴が感じていた引け目は、過剰な自意識だと言える。ある意味では、幼稚なナルシシズムですらあるかもしれない。
揃って白蓉に入学しながら一方的に距離をとった天音に、きっと泉子は自分がなにか気を悪くさせたのではないかと悩んだだろう。距離を置いた側である天音に泉子を嫌う気持ちは皆無で、周囲にこれまでの関係を隠しても二人きりの付き合いは継続していた。だが一度でも泉子を悲しませたのなら、天音の選択は間違っていたのだ。
反対に真琴は、泉子のそばにいるために理想の自分になろうとしたのだろう。
聖少女マリアに合わせて作り上げた、オートクチュールの王子様。真琴が依頼して、真琴がデザインを描いて真琴が縫製する、泉子不在の泉子のための衣装。
泉子にマリアを見たのも真琴なら、そのマリアと釣り合いたいと『理想の私』をコルセットで締め上げて、動けないほど重いその衣装を着付けたのも真琴だった。
真琴は次第に、泉子の従兄の薫の振る舞いやイメージをなぞるようになっていた。
――私がどうあがこうと、泉子の相手は彼だ。
泉子が薫を従兄という以上に愛したことはなかったと天音は察している。けれども、真琴は彼が身に着けていた健全な自信に圧されてしまった。
藤城薫とは昔から、虚栄心で己を取り繕うことをしない人だ。
彼は泉子を愛していた。だけど彼は泉子を愛しているのに、自分を良く見せようと気負うことなく泉子に接することができた。
泉子といる薫のちょっとした言動から余裕を感じとるたび、真琴は強い敗北感を覚えていたのではないか。
そして泉子を置いたまま、泉子のための九条真琴は修正されていく。
まるでアイドルのようにその一挙手一投足が白蓉生の頬を染めさせた『白蓉のプリンス』は、薫になりたかった真琴が行き着いた先だったのだ。
勉強と部活のどちらでも、目立って一目置かれること。周囲から信頼される優等生であること。けして無様な姿は晒さず、見苦しい人間にならないこと。泉子の横に立ったときに、この人なら仕方ないと思わせられる圧倒的なオーラ。
だが、親友に少しずつ従兄の面影を見るようになったとき、泉子は怖れを感じなかっただろうか。
泉子の失踪とその後に続いた惨事にも、真琴は取り乱した姿を見せずに混乱する白蓉を鎮静しようとした。そして容疑者の逮捕によっておぞましい供述が報道されてからは、真琴はさらに王子の鎧を固く纏い直したようだった。むしろ夏休みが明けて二学期になってからのほうが、彼女はより強固に冷静を装っていたかもしれない。
泉子のいない十一月の終わりだった。
部室である美術室の鍵を返しに行った生徒会室で、天音はある場面に遭遇した。
陽が暮れて薄暗い生徒会室には、真琴と中等部の後輩のふたりしかいないようだった。天音は部長の役目として、黙って鍵を返せばいいだけだ。それなのにその半開きのドアを開けることを躊躇ったのは、あきらかに近い距離で真琴の胸に縋りつく中等部の後輩という構図に不穏なものを感じたからだった。
泉子の事件が起きて以降、学院では生徒が突然ヒステリックになって泣き出すようなことがあった。だがこの中等部の少女は不安で我を忘れているというよりも、真琴になにかを訴えかけているようだった。
なんで、どうしてといった答えのない繰り返しのあいだに、優しく相槌を打ってなだめる真琴の声が聞こえていた。
取り込み中らしいから後で出直そうと、ドアを離れかけたときだった。
――泉子様なんて、最初からいなかったらよかった。
どきっとして身体が固まったのは、後輩が踏んでしまった禁忌の重さのせいだ。
泉子を誹謗する後輩に怒りが沸き上がり、叱らずに黙っている真琴を許せなかった。
天音はためらうことなくドアを開け放った。だが中学生の彼女は小さく鼻をすすり、追い打ちのように口を開いた。
――泉子様はひどい。だって真琴様は、こんなにも泉子様を愛しているのに……!
後輩の背を撫でていた真琴の表情は消え、一気に氷点下まで凍てついた。
真琴は黙って後輩を払いのけた。息を吸う気配がして、色をなくした唇が開かれた。
離れた位置にいる天音にもわかったのだ。後輩はもっと如実に真琴の激昂を感じとっただろう。その瞬間天音には、真琴がこれまで溜め込んできた感情のすべてを爆発させるかに見えた。
しかし燃えるように猛った瞳は突如翳り、彼女は小さく息をついた。
力のない横顔を手で隠すように、真琴はショートスタイルを保つ髪に指を通した。
「……そんなふうに言ってはいけないわ。泉子は、あなたのことも愛していた」
殊の外おだやかな声だった。でも後輩に向けられた真琴の瞳は、泣きそうに震えて自分を見つめる年下の少女を映さなかった。
あの夏以降、真琴が泉子にどんな感情を抱いていたのかはわからない。だが、もしも真琴が泉子を激しく憎悪していたとしても、彼女は自分以外の人間が泉子を悪く言うことだけは許せなかったのではないか。
必死で築き上げた理想像を打ち壊しそうになるほどの憤怒。
それなのに真琴は、燃えるような強い激情に駆られた瞬間に言葉に詰まってしまった。叫び方すらわからなくなって、彼女は萎れて口を閉ざした。
怒りも悲しみも、なにも口にできない。
最愛の少女を追い求めた六年間で、九条真琴は自らの声すら捨ててしまっていたのかもしれない。
真琴は卒業の日までずっと、理想の王子様として白蓉に君臨した。総代に選ばれた彼女は絵になる立ち姿で堂々と答辞を読み、別れを惜しむ下級生の涙に見送られて、同期と白蓉女学院の門を出た。そして白い校舎を後にして、九条真琴は白蓉のプリンスを知る人々の前から姿を消した。
一切の消息を断った真琴を心配した友人たちは、彼女の実家だとされていた神奈川県K市の住所に問い合わせた。
白蓉生はやっと、真琴の長い嘘を知った。
*
開演まであと十分になったと、場内アナウンスが観客に着席を促している。窓口で天音がチケットのことを話すと、係員は天音のスマホ画面とカウンター内の電子機器を確認しながら困惑に眉をひそめた。
お待ちくださいと言って、係員がインカムからどこかに通話を繋ごうとしたときだった。
「あっ、いた! すみません!」
耳に飛び込んできた声に振り向くと、さっきの少女たちが息を弾ませて走ってくる。
「待ってください、あっ!」
分厚い絨毯にスニーカーをひっかけて転びそうになる真琴に似た少女を、もう一人の少女が慌てて支えようとした。だけど最終的に、ふたり一緒に大きくつんのめる。
天音はここが劇場であることを忘れて、反射的に「あぶないわよ!」と声を張り上げながら駆け寄っていた。
「お客さんがいっぱいいるんだからホールでは走っちゃだめよ。どうしたの? もう舞台が始まるでしょう」
「あの、ごめんなさい!」
顔を真っ赤にした二人は、天音の注意を遮るように勢いよく謝った。
聞いてないなと思いながら天音はやや声量を下げて「どうしたの」ともう一度おだやかに訊ねた。すると真琴に似た少女は、手に握っていたチケットを真っ直ぐに差し出した。
「私たち、時間間違えてたんです……」
皺が寄ったチケットを覗きこむと、たしかに十八時開場の十九時開演と記してある。
天音は唖然とチケットを見つめて固まった。たったこれだけのことだったのに、なぜ私は気づかなかったのだろう。
「あのあと席の被りのこと調べたらほんまは後から席に来た方が替えなあかんってネットに書いてあって、それでもう一回チケット確認したら、私らの観る公演は今日の夜公演やって、それで焦って、追いかけて……」
訊ねていない経緯を回りくどく話しだした彼女たちを見ていると、自身の見落としに軽いショックを受けていた天音も苦笑していた。それはあまりにも天音の日常によくある光景で、脱力しながらも愛おしさを感じる。
「ごめんなさいね。私もさっきはまったく気がつかなかった」
天音を追いかけるように窓口の中から出てきた係員は、すぐにことの次第を呑み込んだらしい。その係員に天音は訊ねた。
「昼の公演をこの人たちに観てもらうことはできますか」
いいんですか、と少女が驚いて声を上げた。びっくりしているが、明るくなった表情には安堵と期待もあるようだった。
「森園様が、こちらのお客様にチケットをお譲りになるということですか」
「できればそれでお願いしたいです。友人もこの公演には間に合わないそうですから。空いた席があっても申し訳ないですし」
「でも、やったら私たちのチケットで夜公演をお姉さんに観てもらって……だってそんなん、交換じゃないと……」
少女がおずおずと言うと、係員も天音に夜公演への振り替えの意向を伺った。
「公演時間を見ずにお客様の半券を切ってしまった私共の責任ですので、すぐに手続きいたします」
「ありがたいけれど、少しだけ予定を確認してもいいですか。この人たちの手続きを先にお願いします」
それを受けて係員は、手持ちの端末で素早く手続きを始めた。少女たちはもじもじと天音に向かい、首を竦めるようにおじぎをした。
「あの、本当に、たくさん迷惑をかけてすみませんでした」
「私はいいのよ。だけど、劇場のスタッフさんにきちんとお礼を言って、それから時間はよく確認してね」
楽しんでいらっしゃい。天音がそう笑いかけると、少女たちはおずおずとはにかんで「ありがとうございます」と言った。
係員に誘導されていく少女たちを見送って、さて公演をどうしようかと思ったとき、天音の視界の端にある色がよぎった。
胸が苦しくなるような、夏の夜明けの匂いだった。花に落ちて混じり合う朝露のような香りに惹かれて振り向いた天音は、そこで泉子に再会した。
天音が染めた、泉子のための着物。
白銀の髪を贅沢に膨らませて結った老婦人が纏う着物と長襦袢は、天音が染めたものだった。去年の秋から思案して先月の末にやっと仕上がると、制作途中から待ち兼ねていた卸会社にすぐに買い取られていった。
紋紗白生地の着尺と長襦袢地を一対として、その二枚を重ねて着たときにもっとも美しく映えるよう染めの色を思案した。薄い紗の生地は長襦袢の色が透けるから、色の混ざり合いや柄の浮き上がりを楽しめる。紗袷の要領を襦袢地と着尺でやってみたのだということは営業に話していたが、一度手を離れた反物が天音の思うように装われるとは限らない。だがあの老婦人は、天音の意図を汲んだようにあの二枚を重ねて着てくれていた。
――私の泉子が、いた。
ゆっくりとロビーを歩く老婦人の気姿は、天音が狙っていたとおりの効果を見せている。そのことは作り手の天音に身体中が脈打つほどの喜びを与えた。だが大きな興奮の陰に、寂寥が小さく滴ってくる。
劇場の奥から黒服の中年男性が、急ぎ足で老婦人を出迎えにやってきた。彼女はこの劇場の上顧客なのか、チケットは彼女ではなく担当者の手元にあるらしい。席次を見ることなく座席へと先導しながら、お付きらしい担当者は老婦人の今日の着姿を称賛した。
「素敵なお色でしょう? 私には若すぎるでしょうけれど、でもどうしてもこの組み合わせで着たいと思ってしまいましたの。……あら、まだ匂い袋は使っていませんのよ。今日のために仕立てを特別に急いでいただいて、やっと昨日届いて躾をとったところですもの」
人のまばらになった緋絨毯に立ち尽くし、劇場扉の向こうに見えなくなるまで、天音は泉子の着物を眼に焼きつけていた。
十七年前の夏、泉子が消えてからずっと、もう一度私に会ってほしいと願っていた。あなたの唯一でなくていい。生きて泉子に会えるなら、それだけでいいと思っていた。
だけど、私が泉子に会えることはないのだろう。さっき見かけた泉子の衣を瞼に描きながら、天音は静かに得心した。
泉子のために染めた生地は、泉子でない誰かの寸法で仕立てられ、纏われている。
あの紗の二反はそれぞれ、泉子の顔立ちや佇まいに似合わせて配色を考え、色を作って染めたものだ。だが泉子でない人が装っても、あの布は匂うようにうつくしくその人に寄り添った。
自分の手が染めた着物を纏う人に偶然出会い、慈しまれている姿を見ることほど、作家にとってしあわせなことはない。
天音をこの場所まで連れてきてくれたのは泉子だ。十七年前のあの夏からずっと、天音は泉子の存在に導かれていたのだろう。
泉子がいなくなってしまった七月。
天音は泉子を失ってからも泉子に生かされていた。では、九条真琴も泉子に生きているのだろうか。それとも泉子に死んだのか。
彼女はどこでなにを思い、どう装い、どんな言葉で話しているのだろう。
まだ自分なりの形も色も決まらない十代の日々を、九条真琴は泉子に捧げた。泉子というひとりの少女のために、もっともふさわしく装った理想の私を差し出そうとした。
――このままの私では、泉子と釣り合わない。
最愛の泉子を汚さないために、天音は少し遠くから泉子を見つめることにした。離れても泉子と自分を繋ぐ親愛は不朽だと信じていたから、泉子の隣を他人に譲った。そうすることのできた天音はとても恵まれていて、そして傲慢だったのだろう。
一方の真琴は、天音から奪った泉子の隣を死守するために足搔き続けた。一度当たった役は降りられない。もしも疲れて素を晒したら、マリアの恋人の役を追われてしまう。そんな不安を隠して、彼女は痛々しいまでに王子としての九条真琴を全うした。
手探りで進む奈落の底。だが泉子は消え去って、白蓉のプリンスは潰えた。
人のいないロビーに立つ天音の視線の先で、正面の劇場扉がゆっくりと閉まった。響きわたる開幕のベルは天音に、白蓉女学院の鐘の音を思い出させる。
二人の少女を席に送り届けたらしい係員が、隅に立つ天音のもとにやってきた。振り替えの件を伺うその人に、天音は「もし私と友人が今日の夜公演を観ないとなったら、この二席はどうなりますか」と訊いた。
どうやら今回のことは特殊な事例になるので、天音に代金を返金した上でこの二席はこの後当日券扱いにするということだった。
それなら、振り替えを断るのが一番いいかもしれない。二席とも返してしまったほうが、二人の人間が正しくその席に座ることができる。
やはり友人は来られないようなのでと謝って、天音は二つの席を劇場に返した。
陽炎の立つ日盛りの下に出て、天音は劇場を振り返った。アールデコ様式の劇場の向こうには、透きとおる青が広がっていた。
泉子は来なかった。だが泉子の衣を身に纏ってあでやかな人がこの劇場を訪れ、泉子のために手に入れた座席には仲の良い二人の少女が座った。泉子は今日、天音との十七年越しの約束を果たしてくれたのだ。
私にはずっと泉子がいた。そして、いまも有る。
これからも私は泉子ための生地を染め続けるだろう。泉子を思うから、私は生きていられる。
雲のない夏の澄んだ空からは、真昼の透明なきらめきが流星群のように降り注いでいた。
この煌々とした陽射しを写しとり、泉子を引き立てるよう描きだすならどう染めようか。
眩しい青を見上げながら、天音はいつまでも考え込んでいた。
【おわり】