「弟、うまた?」


 小さな靴箱が備え付けられた、コンパクトな玄関。
 短い廊下の右手にはトイレ、左手には洗面台と浴室。
 奥へ進むと四・五畳のダイニングキッチンがあり、簡易的な間仕切りの先には十畳の洋室と、申し訳程度に付いたベランダがある。
 築七年。全六戸二階建てアパートの角部屋一〇三号室。高校生になった(よし)()()()が、初めて親元を離れて一人暮らしをしている部屋だ。
「ゆらぁ。早くいこーよぉ」
 小さな女の子が、洗面台で()(ぐせ)を直している結良に向かって口を(とが)らせている。ぱっちりと大きな瞳とおかっぱ頭が特徴的で、黄色いスモックを着ている彼女の名前は、うた。四歳。全く似ていないが、結良の妹だ。
ちょっと待てって」
 妹の世話を優先して、後回しにしていた自分の身支度もそこそこに、戸締まりをして家を出る準備をする。
 弟を腹に宿している母親が、入院したのが昨晩のこと。退院するまでは、結良がこのアパートでうたを預かる約束なのだが、予定が早まったせいで少し慌ただしい朝を迎えていた。
「よし。うた、行くぞ」
「よぉい、どーんっ!」
 元気よく飛び出したうたの手を慌てて掴み、そのまま最寄りのバス停へ向かう。乾いた空気がひんやりと気持ちよく、十月に入ったのを肌で感じる。
 結良がうたを預かるのは、これが初めてではない。いつもであれば、子ども園にうたを送り届けてから自身も学校へ向かう。
 時間通りにきたバスに乗り込み、うたが通う南子ども園に到着すると、結良は保護者証を首から下げた。これがないと園内には入れない決まりだ。
 正門に立つ園長先生に挨拶をする。うたの元気な声で結良の声は掻き消されたが、かまわず園舎へ向かう。広い園庭では子どもたちがきゃいきゃい叫びながら駆け回り、母親たちがグループを作って話し込んでいる。
「うたちゃん、おはよう!」
 小さな靴箱が整然と並んでいる園児用玄関で、ひとりの女の子がうたに気づいて駆け寄ってきた。ポニーテールを揺らしている彼女の名前は、(つむ)()
「つむちゃん、おはよぉ!」
 二人は磁石みたいにピタッとくっついてハグを交わした。
「お兄さんも、おはようございます。今朝は秋らしくて過ごしやすいですね」
 うたと手を繋いだまま、紡希は結良に向かって丁寧にお辞儀をする。
そうだな」
 うたのクラスメイトである紡希は、所作も言葉も大人びている。うたとは真逆のタイプと言えるが、二人は親友同士である。
 少し離れた場所で母親たちと話していた紡希の父親、(しゅん)(すけ)も結良たちに気づいてやってくる。彼は結良が信頼を寄せている数少ない大人のひとりだ。
「おはよう。うたちゃんが結良君と一緒に登園している、ということは
 眼鏡の奥で事情を察した目をする俊介に、結良はうたを預かることになった経緯を話した。俊介は「いよいよだね」と(うなず)く。
「きっと元気な弟が生まれるよ。大丈夫。うたちゃんのことは僕に任せて、結良君は学校へ行きなさい」
 今日は子ども園の保護者参観日だ。子どもを送迎した保護者たちが園内に残っているのはそのためで、うたのクラスではこの後、親子工作が開かれるらしい。この日のために半休を取っていた父親は今、母親に付き添っているため来られない。
「いえ。学校、休業日なんで。中学生の体験入学とかで。だから今日は俺が参加します」
 初めての参観日。何を着ていけばいいのか分からず制服で来たが、いつも通りのラフな服装でいる俊介を見て、自分も普段着にすればよかったと結良は後悔した。親と子の場に混ざる高校生は、明らかに目立っている。
 平日にもかかわらず多くの保護者が参加するなか、ひまわり組の保育室に移動すると間もなく親子工作が始まった。三、四人グループに分かれてテーブルに着席した園児たちは、配られたオレンジ色の小麦粘土をこねだす。親に手伝ってもらいながら、ジャックオーランタンを作るという。
「ゆらぁ。かぼちゃ、むずかしい」
 粘土を丸めたまではいいものの、そこからの成形にうたは苦戦している。
「うた、バナナの方が好き。バナナにしてもいい?」
「いいワケないだろ」
 一八三センチの長身を精一杯(かが)め、うたと一緒に粘土をいじる結良の耳が、後方でひそひそと話す母親たちの声を拾った。
(子連れ同士の再婚で、本当の兄妹じゃないのよ)
(まだ高校生の子どもに、血も繋がらない妹の世話をさせるなんて
(あの子、いつも表情がかたいじゃない? 大丈夫なのかな)
(苦労してるのよ。ヤングケアラーでしょ。かわいそう)
 後ろにいる彼女らの顔は見えないが、きっと好奇の目を自分に向けているのだろう。他人になんと言われようが、どうでもいい。幸い、粘土に夢中なうたの耳には入っていないようだ。ただ、母親を悪く言われているようで、結良は顔には出さないが不快だった。
(つむちゃんパパは、どう思います?)
 母親たちは、同じグループにいる俊介に話を振った。それを聞いた瞬間、思わず手が止まる。自分の至らなさからこれまでにたくさん迷惑をかけ、それでも救いの手を差し伸べてくれる俊介は、本当のところはどう思っているのだろう。
「素敵じゃないですか。家族みんなが、信頼し合っているからこそできることですから。本人の意思でちゃんと頑張っている彼を、僕らは見守るだけですよ」
 迷いなく答える俊介に、話を聞いていた紡希も「そうよ」と後に続く。
「あんなに可愛い妹がいるのに、お兄さんがかわいそうだなんて。勝手に決めつけられる方が、よっぽどかわいそうだわ」
 得意の笑顔で受け流すことも出来ただろう俊介の言葉が、にわかに強ばっていた結良をほぐした。紡希は声からして明らかに怒っている。結良と同じように、うたを悪く言われたと感じたのだろう。
 母親たちは「そんなつもりじゃ」「ただ心配なだけで」と口ごもり、その後は結良の話を一切しなくなった。
 気を取り直し、クリームパンみたいになったカボチャの目をくり抜こうとしたときだった。ズボンのポケットに振動を感じてスマホを取り出すと、血の繋がらない父親からメッセージがきていた。
 画面に表示された五文字は、全てひらがな。うたにも読めるように打ったのだろう彼の意を汲み、結良は隣のうたにスマホを向ける。
「うた。読んでみな」
「パパからだ! えっとぉ。うまねた、よ。おウマさん、眠っちゃったの?」
どこの馬が寝てんだよ。『ね』じゃなくて『れ』だ」
「うま、れた、よ
 意味が分かった瞬間、うたはパッと瞳を輝かせた。
「赤ちゃん、うまれたんだ。やったぁーっ!」
「おい、声が大き
「うた、おねぇちゃんになったぁーーっ!」
 弾けるような声が、室内に響き渡る。
「うたちゃん、おめでとう!」
 紡希の声を皮切りに、わっと歓声があがり、拍手が巻き起こる。
 みんなの注目を浴びながら、飛び跳ねて大喜びのうたはもう工作どころではない。姉になった小さな妹を横目に、呆れながらも結良の口元にはホッとしたような笑みが浮かんでいた。

【おわり】