幸せのオシソワケ!


 小さな靴箱が備え付けられた、コンパクトな玄関。
 短い廊下の右手にはトイレ、左手には洗面台と浴室。
 奥へ進むと四・五畳のダイニングキッチンがあり、簡易的な間仕切りの先には十畳の洋室と、申し訳程度に付いたベランダがある。
 築七年。全六戸二階建てアパートの角部屋一〇三号室。ここが、高校生になったばかりの()()が、初めて親元を離れて暮らしている部屋だ。
「ゆらぁ。かたぐるまっ!」
 脱いだ制服のブレザーをハンガーに掛ける結良の足に突然、小さな女の子が飛びつく。結良はワケあって、四歳のうたを、ここで預かることになった。
 突然始まった二人暮らし。今日はその初日である。
は?」
 子ども園の黄色いスモックを着たままのうたを見下ろし、結良は眉間にしわを寄せた。
「かたぐるま、知らないの? じゃぁ、見ててね」
 足から離れたうたは、自分の身長の半分以上もある大きなクマのぬいぐるみを抱えて持ってくると、うんしょ、うんしょ、とクマの両足を自分の小さな両肩に乗せる。
「ほら。こうやってするんだよ」
 うたはまるで大きなリュックを背負っているようだった。クマは足を掴まれ、うたの背中で力なく逆さまの宙吊りになっている。
それは肩車とは言わない。それから、肩車はしない」
「えー。なんでぇ?」
 帰ってきたばかりで疲れているし、面倒だから。そう正直に言ったところで納得はしないだろうなと、ほっぺたを膨らませて不満をあらわにするうたを見て、結良は思った。
俺がお前を肩に乗せたら、お前は天井に頭をぶつけるぞ」
 部屋の天井は建築基準法を守った高さだろうが、身長百八十二センチの結良が、子どもを安全に肩車できるほどの余裕はなさそうだ。
 天井と結良の頭を交互に見上げたうたもそれは理解したようで、風船の空気を抜いたようにほっぺたをしぼませた。
「かたぐるま、しない」
 クマを抱きかかえると、うたはとぼとぼ部屋の隅へ引っ込んでいった。
 やれやれとため息をついた結良は、冷たいお茶を飲もうと冷蔵庫を開ける。次の瞬間、とたとたと走る足音が部屋に響いた。
「ゆらぁ。今日のごはん、なぁに?」
 (かが)み込んだ背中に、うたが飛び乗ってくる。衝撃と重さでバランスを崩し倒れそうになったが、結良は何とか持ちこたえると、取り出したお茶を片手に振り返る。
 ついさっきまで落ち込んでいたのに。まるで宝石箱でも見るように、うたが冷蔵庫の中をのぞき込んでいる。その期待がこもった瞳はぱっちりと大きい。
 うたは結良の妹なのだが、目が合うだけで(にら)まれたとよく勘違いされてしまう、冷たい印象がある結良のそれとは全く似ていない。
 それもそのはず。結良がうたの兄になったのは、つい最近のこと。それまでは他人だった。
豚肉があるから、それを炒める」
「やったぁ! おっにくぅ! 早く食べたぁーい!」
「まだ飯の時間には早いだろ。人の背中で暴れるな」
 冷蔵庫を閉め、背中に張り付いたうたを引き剥がす。
 家の事情で仕方なく、少しの間だけ一緒に暮らすことにはなったが、血の繋がらないうたを、結良は今でも赤の他人も同然だと思っている。
 うたのことが嫌いなわけじゃない。ただ、他人と必要以上にかかわることが好きではない。小さな子どもを見て、可愛いと思える人種でもない。
立ち上がると、今度は足に絡まりついてくるうたを見下ろした。
「分かった。飯の支度するから、あっちにいってな」
「うたも、お手伝いする!」
 まかせなさい、と言わんばかりにうたが胸を張る。
 コップに注いだお茶を一気に飲み干してから、結良は(うなず)いた。
そうか。それじゃ頼む」
「うた、なにすればいい?」
「あっちで待っててくれ」
「それってお手伝いなの?」
じゃ聞くが。お前に何ができる?」
「えっとねぇー。おうた、うたえるよっ。オーエンカうたう!」
「それは、手伝いなのか?」
 隣で応援歌をうたわれても迷惑だと思った結良は、料理が出来上がったら味見をするよう、うたに頼んだ。重要なお手伝いだと伝えると、うたは得意げに「はーい!」と手をあげた。
「飯が出来るまで、静かに待ってろ。いいな」
「まかせるぅ!」
それを言うなら『まかせて』だろ」
「おまかせてぇ!」
 ふざけているのかと思えば、そうでもない様子のうたは、部屋へ戻ると、おとなしくおもちゃで遊び始めた。それを見てホッとしたのもつかの間。家着に着替えた結良が料理を始めると、うたは部屋とキッチンを行ったり来たりして騒がしくなった。
 火や包丁、それまで当たり前に使っていたものが、小さな子どもがそばにいるだけで危険なものである認識に変わって、ヒヤヒヤする。
「危ないから俺に近づくなよ。言うことを聞かないやつは飯抜きだからな」
「はーい!」
 元気に返事をしたうたは、約束通り結良には近づかないものの、静かに待つことはできないようだ。キッチンの出入りはやめないし、ずっと話しかけてくる。そんなうたの話を聞き流し、「ね?」と返事を求められれば「そうだな」と適当に返し、ササッと肉と野菜を切って、油を引いたフライパンで炒めた。
「出来たぞ。出番だ、味見係」
「やったぁ。お手伝いだぁ!」
 呼ばれて駆け寄るうたが「あーん」と口を開ける。小皿に取った一切れの肉を冷ましてから、結良はうたの小さな口にそれを放り込んだ。
「んーっ。おかわり!」
「いいってことだな。よし、飯にするぞ」
 ご飯も炊き上がり、肉野菜炒めを皿に盛り付け、一人用の小さな折りたたみテーブルを拭いて食卓にする。
「ゆらぁ。オムレツは?」
は?」
「さっき、『オムレツも食べたい。作ってね』って、うた言ったよ。ゆらも『そうだな』って、言ったよ? もう忘れちゃった?」
 忘れたんじゃない。聞いていなかったんだ。とは言えず、結良は冷蔵庫を開けて卵の有無を確認する。
待ってろ。すぐ作る」
 フライパンを洗い、ボウルに材料を入れてかき回す。手際がいいのは、よく作る料理のひとつだからだ。母親の見よう見まねで初めて作った料理もオムレツだった。
「ほら。出来たぞ、オムレツ」
 ケチャップをかけたプレーンオムレツも完成して、結良は食卓に着いた。
「オムレツ、ひとつしかないよ。それに、ちっちゃい」
 皿にちんまりと乗ったオムレツを見たうたが、不満げな顔で結良の向かいに座る。
「卵がひとつしかなかったんだよ。お前が食えばいいから、文句は言うな」
 オムレツの皿を目の前に置いてやると、うたは「いただきます!」とニコニコ顔に戻って手を合わせ、早速オムレツに手を伸ばす。自前の子供用フォークをうまく使って一口大に切ると、パクリと頬張った。
「ゆらぁ」
「何だよ」
「おいしい!」
そうか」
 料理は得意というわけではなく、たまに焦がしてしまったりもするが、今日のオムレツはうまく焼けたから自信がある。
 それでも「おいしい」と、面と向かって言われた言葉が、結良の胸を静かにざわつかせた。
 そういえば、今朝は慌ただしくてトーストだけの食事で済ませていたから、うたが結良の作った料理を食べるのはこれが初めてだ。他人に料理を作ったことも、感想を言われたのも、これが初めて。悪い気は、しない。
「そうだ。はんぶんこ、しよ。ゆらにもあげるね」
 うたはそう言って、小さな食べかけのオムレツをさらに半分に切る。
俺はいいから、全部食え」
 おかずが一品少なくても、肉野菜炒めは結良の方が大盛りにしてあるから、量なら足りている。しかしうたはオムレツの半分をフォークに刺して取り、もう半分残ったオムレツを皿ごと結良に押しつけた。
「美味いんだろ。だったら残さず食えよ」
「残さないもん。これはね、オシソワケだよ」
何だそれ?」
「おいしいは、幸せなんだよ。だからね、これはぁ、幸せのオシソワケ!」
(すそ)()けな」
 卵を混ぜて焼いただけの代物を、目をキラキラさせながら幸せだと言う、うた。結良は顔には出さずに呆れながら箸を伸ばし、小さなオムレツの片方を一口で食べた。それを見たうたも満足そうにオムレツを食べると、モグモグと幸せをかみしめている。
「ね。おいしいでしょ?」
そうだな」
 まるで自分が作ったかのように、うたは自慢気だ。母親が作るふわふわのオムレツには敵わないが、自分にしては上出来だと、結良も頷く。
「おいしいはね、一緒に食べると、もっと幸せになれるんだよ」
 オムレツだけではなく、うたは何でも美味そうに食べる。()(ほど)腹が空いていたのか、それとも単なる食いしん坊なのか。ニコニコ顔でパクパク食べるうたを前に、結良も肉野菜炒めを乗せた白飯を口いっぱいに頬張った。

 おかずの味付けも、米の炊き加減も、いつもと変わらない。
 なのに今日は少しだけ、いつもより飯がおいしい気がする。
 気のせいだろう。腹が空いていたのは自分の方かもしれない。結良はもりもりと飯をかき込んだ。
「ゆらぁ」
「何だよ」
「また作ってね」
そうだな」
 結良はうたの皿に目を落とすと、とがめるように指をさした。
「全部、残さず食ったらな」
 うたの肉野菜炒めの皿の端に、ピーマンだけがこんもりと寄せ集められている。
「ピーマンは幸せじゃない。この世のフコーがつまってる」
「詰まってねぇよ。空洞だろうが」
 結局うたに(とう)()されたピーマンは、結良がすべて胃袋に納めた。
 この独特な風味が美味いのに。(しょ)(せん)は他人だ。幸せを分かち合えるはずがない。腹が満たされて眠くなったのか、ウトウトしはじめたうたを見ながら結良はそう思った。
「ごちそーさまでした。ふわぁぁ。おかわりぃ」
「寝言は寝て言え。あ。こら待て。まだ寝るな。風呂に入れよ、おい」

【おわり】