受け継がれるもの
「ふっふっふ……」
今年も残り二日となった、十二月三十日。
家事代行サービスの会社に所属している秋月都は、仕事先のひとつである羽鳥家の台所で、恍惚とした笑みを浮かべていた。
コンロの上には、弱火にかけた両手鍋。ひと口大に切り分けた豚バラ肉が、じっくりコトコト煮込まれている。砂糖に醤油、そしてお酒と生姜が混ざり合った煮汁の香りが、都の鼻腔をこれでもかとくすぐった。
「うふふふふふふ……」
ああ、嬉しさのあまり(不気味な)笑いが止まらない。傍から見れば気色悪いだろうなとは思うけれど、幸いなことに、いま台所にいるのは自分だけだ。おかげで思うぞんぶん幸せにひたることができる。
煮汁が少なくなってきたところで、あらかじめ茹でて殻をむいておいた卵を加えた。スプーンで煮汁をかけながら、数分ほど火にかければ、ようやく完成だ。
「すばらしい……!」
都はうっとりしながらつぶやいた。
「きれいな色だし、香りも最高。やるじゃないですか都さん!」
満足のいく料理ができたときは、自画自賛であろうと自分を褒めることにしている。至らない点を反省するのも必要だけれど、いいところはしっかり褒めて、気分を上げていくのも大事なことだ。
鍋の中に入っているのは、都の大好物でもある豚の角煮。圧力鍋があれば時間を短縮できるのだが、この家にはなかったので、普通の鍋で煮込んだ。
豚バラ肉のかたまりは、フライパンで焼き色をつけてから下茹でを行い、余分な脂肪を落としている。それから肉を切り分け、煮汁と一緒に煮込んだため、できあがるまで二時間以上もかかってしまった。もちろんこれだけに集中していたわけではなく、同時進行でほかの料理もつくっていたけれど。
家事代行といっても、都の会社では専門が分かれているため、一般的な家政婦のようにすべての家事は行わない。都は料理専門のスタッフなので、羽鳥家でも掃除や洗濯には手を出さず、その日の昼食と日持ちがするおかずをつくることに集中していた。
都が羽鳥家で働くようになってから、はやいもので七か月半。角煮は手間も時間もかかるため、この家の台所でつくったのははじめてだ。そして明日は、自宅のアパートでも同じものをつくろうと決めている。
(そろそろいいかな)
粗熱がとれたところで、都はうきうきしながら、豚バラ肉をひとつ小皿にのせた。半分に切った煮卵も添えて、箸をとる。
「よし! じゃ、いただきまーす」
角煮に箸を入れると、じっくり煮込まれた肉がほろりと崩れた。下準備が甘かったり火加減が強すぎたりするとかたくなってしまうのだが、その心配はなさそうだ。
時間をかけて下茹でしたおかげで、豚バラ肉には特製の煮汁がすみずみまで染みこんでいた。脂身もつややかで、見るからにやわらかそうだ。
「……!」
口に入れて噛んだとたんに、煮汁を含んだ豚肉の旨味があふれ出した。肉汁はジューシーでほんのり甘く、脂身は舌の上でなめらかにとろける。下茹での段階で余分な脂を落としているから、さっぱりした後味でもたれにくい。黒砂糖を使うことでコクが深まり、豊かな味わいに仕上がっている。
「ああ、もう……」
―――おいしい!!
心の中で叫びながら、都は久しぶりに食べる角煮の味に酔いしれた。好物ではあるのだが、簡単につくれるものではないし、頻繁に食べられるものでもないから(金額面でも健康面でも)、幸福感がより高まる。
(あー、白いご飯がほしいなぁ)
角煮を噛みしめながらそんなことを考えていると、出入り口の暖簾がめくられた。深緑の着物に羽織姿の男性が顔を見せる。
「都さん、すみませんがお茶を一杯……なんですかその締まりのない顔は」
「一成さん!」
台所に入ってきたのは、都の雇い主である羽鳥一成だった。
都よりも五つ年上の彼は、北鎌倉に建つこの屋敷の持ち主だ。受注専門の和菓子をつくる職人で、屋敷の裏庭に菓子工房「ことりや本舗」を構えている。
季節の移り変わりを和菓子にこめ、美しく表現することを至上としている一成は、常に和装で無表情だ。マイペースでめったに笑わず、どこかミステリアスで浮世離れした雰囲気は、世間から隔絶された桃源郷のようなこの屋敷によく似合う。愛想が皆無のため客商売には向いていないが、見た目ほど気むずかしい人ではないとも思っている。
「そうだ。一成さんも味見しませんか?」
「味見?」
「豚の角煮! おいしくできたんですよ。煮卵もあるのでぜひ」
「いただきます」
卵と聞いたとたんに、一成は即答した。表情はほとんど変わらなかったが、いそいそと近づいてくる(ように見えた)。
角煮と煮卵をのせた小皿を渡すと、一成はお礼を言って受けとった。まずは煮卵に箸をつけようとしたが、メインはそれではないと思い直したのか、先に角煮を味わう。
「これは……たしかにおいしいですね」
「でしょう!」
「脂身は多いのに、さっぱりしていてコクがある。それにこの甘さは……。もしかして黒砂糖を使ったのでは?」
「正解です。さすが一成さん」
「黒砂糖には独特の風味がありますから。豚肉ともよく合いますね」
満足そうにうなずいた一成は、煮卵もぺろりと平らげた。「白米が食べたい」というつぶやきを耳にして、都は思わずほくそ笑む。どうやら煮卵だけではなく、角煮も気に入ってもらえたようだ。
「角煮のつくりかたは、学生時代にバイトをしていた小料理屋の大将から教えてもらいました」
「ああ、東京にあるというお店ですか」
「お品書きにはのってない裏メニューなんですけど、常連さんたちには人気でしたよ。わたしも大好きで、いまでも半年に一度は食べに行ってるんです」
都がバイトをしていたのは、調理師専門学校に通っていた二年間。ひとり暮らしをはじめたばかりで不安もあったが、あの店の家庭的な賄い料理は、そんな都の心を優しく癒してくれた。就職を機に東京を離れてから六年近くが過ぎていたけれど、あの店の味が忘れられず、定期的に通い続けている。
「大将の奥さんがつくる角煮も、すごくおいしいんですよ。奥さんは別の仕事に就いてるから、お店には立たないんですけど、一度だけごちそうになったことがあって」
幸せな記憶がよみがえり、都の顔が自然とゆるむ。大将が手がける角煮とはまた違った味わいで、何年たっても忘れられないようなおいしさだった。
「レシピは結婚したあと、大将のお母さんから教わったそうです。お嫁さんになった人だけに伝えたかったとかで」
だからどれだけ頼んでも、俺には教えてもらえないんだよと、大将は笑いながら言っていた。そうやって受け継がれていく家庭の味があるのも素敵だなと思う。
(わたしもいつかは、自分が考えたレシピをだれかに受け継いでもらえるような日が来るといいなあ……)
そんな願いを胸に秘めながら、都はできあがった角煮を保存容器に移し替えた。
「たくさんつくっておいたので、恭史郎さんとふたりで食べてください。年末年始のお供にしていただければ」
「ありがとうございます」
「わたしも明日は、家で角煮をつくる予定なんですよ。大掃除が終わったあとに」
都はにっこり笑って続けた。
「大晦日の習慣なんです。大きなブロック肉を買ってきて、大好きな角煮をたっぷりつくる! 年に一度の贅沢です」
「ひとりで食べ切れるんですか?」
「楽勝ですよー。でもまあ、お正月明けにはしっかり太りますけどね。そのあとはしばらく質素な食生活になるまでがセットです」
「なるほど。では、一月は和菓子の試食をお願いするのも控えましょうか」
「うっ!? い、いやその、それは別腹と言いますか……」
視線をそらし、もごもごする都の様子がおもしろかったのか、一成がかすかに笑う。
「わかりました。そちらはいつも通りということで」
「はい!」
顔を上げて答えると、思いのほかやわらかな表情の一成と目が合った。
「来年もよろしくお願いします」
「―――こちらこそ!」
もうすぐはじまる、あらたな一年。
これからも一成がつくる和菓子を食べられるのなら、きっといい年になるだろう。
【おわり】