虎のお掃除

「ち、ちがうわ。わたくしは仙女じゃなくて、天岑の廟にお仕えする、ただの掃除婦なのよ!」
サリーナはあわてた声をあげる。
老婆は足元で跪き、どうかご慈悲を、仙女のお恵みを、と平伏している。
サリーナはおろおろと視線を迷わせる。
老婆から捧げられた両手いっぱいの牡丹を抱えて、牡丹よりも美しい顔を困惑にゆがめた。
「本当にちがうの、天岑に愛される仙女なんかじゃないのよ。だからそんな拝まないで……え、ええもちろん、お孫さんの病気がよくなるように祈念するわ。この街にはまだ滞在する予定だから、こんどは大麦団子より滋養のあるお供物をもって――あ、あの!」
ひとしきり祈った老婆は、安堵の表情で立ちあがる。
曲がった腰を丸めて去っていく後ろ姿を、サリーナは呆然と見送った。竹箒を腋にはさんだ姿勢で、胸元の牡丹を見おろした。
「……どうしましょう。善施にきたのに、わたくしがいただいてしまうなんて」
月鈴座の巡業で立ちよった、とある街。
二胡の奏者として得た投げ銭を元手に、いつものように善施として、貧しい民に食べ物や衣類を配りにきた。孤児たちに警戒されないよう、中原の民を見守る天岑の廟に仕える掃除婦のふりで、供物を配る体を装って。
今日は公演の予定がなかったので、ふと思いついて裏路地の小廟を清掃していた。そうしたらなぜだか花を抱えた老婆がやってきて、竹箒で路地を掃いていたサリーナの足元に額ずいてしまったのだ。
「へー、今年初めての牡丹か。南部のあたりじゃ開花が早いな」
「!」
サリーナは、ぎょっと肩をはねさせた。
背後から唐突に聞こえてきた声。
いつもどおり気配さえしなかった。反射的に牡丹を抱きしめ、蛾眉を逆立てて振りかえる。
「おどかさないで、あなたは足音がしないって言ってるじゃない。……なによ、そんなにじろじろと見て」
あらわれたのは、善施に同行していた月鈴座の曲芸師バヤル。
銀混じりの黒髪を揺らしてのぞきこみ、獣めいた琥珀の目で、バヤルは牡丹とサリーナを見くらべる。
粗末な頭巾に古びた長袍、あらいざしの前掛けに汚れた草鞋。そんな庶民風の装いも、雲鬢花顔と称される美貌を曇らせることはできない。玉の如き深紅の牡丹さえ、サリーナの眩しさに恥じいりうつむいているようだ。
バヤルは異国めいた彫りの深い顔に、ふーんと感心の表情を浮かべる。
「やっぱ綺麗だよなあ」
「え?」
「さすがは〝鳥冠宮から逃げてきた宮女さん〟だよなーってさ。あんたが微笑めば、地方長官どころか一国の王だって、その歓心を得ようと金両箱を詰みあげそうだ。なあ、あんたも働きづめだし、たまにはそれこそ仙女みてえに着飾るのもいいんじゃねえ? めかしこんで簪をさして、茶楼で優雅に蓮花糖でもつまんで、団扇を手に園林を散策する休日――とか?」
悪戯っぽく提案され、サリーナは戸惑う。
賊徒が侵入した鳥冠宮を追われ、身分を隠して逃げていたサリーナを拾ってくれたのはバヤルだ。気安くて軽口が多い彼は、不思議なとらえどころのなさがある。まるで猫の目の虹彩のように不確かで、どこまで本気かはわからないけれど。
「……そういうのは、もういいのよ」
サリーナは苦笑いで答える。
「公演のときに二胡の奏者として恥ずかしくない装いができれば、わたくしはもういいの。……贅沢は、じゅうぶんすぎるくらい経験してしまったから。身なりや遊興に使うお金があるなら、そのぶん、善施にまわしたいわ」
自嘲めいて告げると、胸元の牡丹に鼻先をよせる。
甘い芳香を楽しむサリーナを、やわらかく眺めたバヤルが不意に目を細めた。
「――……」
深紅の牡丹が、なにかを察したようにふるえた。
花弁が一枚、ひらりと落ちた。
バヤルは喉をひくつかせて笑った。
「……ま、こんなに〝虫〟がいちゃあ、たしかにやめておいた方がいいかもな」
「虫?」
サリーナは不思議そうな顔をする。
瑞々しい牡丹を見てから、竹帚で集めた枯葉の山に目をやった。季節は春。冬の名残の落ち葉がだんだんと減って、目覚めた虫たちが地中から出てくる時期ではあるけれど、それらしき影はない。
バヤルは、水路の方を立てた親指で示した。
「……あっちにまだ孤児がいそうだから、おれちょっと見てくるわ」
「あ、ええ」
うなずいたサリーナに片手をあげて、バヤルは身を返した。
しなやかな背中が生垣の裏に消えるのを待って、サリーナはあらためて周囲を見わたした。
大路から裏路地を入った先にある貧民街。
壊れかけた朽屋が立ち並ぶ一角で、バヤルと手分けして流民や孤児を探した。水路のあたりはサリーナが確認したけれど、バヤルは気配に敏い。旅芸人ならではの感覚なのか、彼をふくめた月鈴座の座員もみなそうだ。天幕の外にいるサリーナの存在に気づいたり、話しかけるまえに振りむいたり。鳥冠宮に生まれ育った自分とはちがう彼らの性質には、もう慣れた。
だからサリーナはさほど気にせず、前掛けをはずして牡丹を包んだ。
路地の端にいったん置くと、途中だった掃除を再開した。
――バヤルはまもなく帰ってきた。
綺麗に掃き清められた小廟の周囲を見やり、うん、と口の端をあげた。
「お疲れさん。終わったみてえだな」
「ええ。あなたの方はどうだったの?」
「こっちも〝終わった〟ぜ」
サリーナはきょとんとする。
己の質問に対するバヤルの返答が、よくわからない。孤児がいるかを確認しにいって、終わった、とはどういうことだろうか。
「終わったって……つまり、子供たちはやっぱりいなかった、ってこと?」
「まあな。綺麗な花の後をつけてきた、面倒な虫はいたけどよ」
「面倒な虫?」
それってどういう意味、とサリーナが問いかけようとしたとき、人の声がした。
視線を向けると水路の附近に街民が集まっている。彼らはどうやら、水路に落ちた人を引きあげようとしているらしかった。おい、しっかりしろ、酷い怪我だ、誰か役人を呼べ、との声が聞こえた。
サリーナは不安そうに蛾眉をよせる。
「いやだわ、なにがあったのかしら」
「さあねえ。酒でも飲みすぎて、うっかり虎の尾でも踏んじまったんじゃねえの?」
バヤルは適当に答えた。
掃除も終わったし帰るか、と歩きだした彼の頬には、水滴がついている。
空は晴天。
サリーナは牡丹を抱えてあとにつづいた。
赤い花弁のような血が水路に流れ、虎の尾の幻影が浮かんで消えた。
【おわり】