あなたの退職、代行します! ~見習い退職代行の業務録~

「頼むよ!」
 私の前で、顔だけはいいロクデナシが必死に手を合わせている。
 彼は村雨むらさめ久利生くりゅう。私の雇い主で、ここ、退職代行ムラサメの所長だ。
 なにしろこの人は所長のくせに働かない。放っておけば一日中スマホに向かいソシャゲをしている。売り上げがなければ事務所の家賃が払えませんよ、とさりげなく水を向けたら、どこからかおびふうのついた札束を持ってきた。なんなんだ、それは。
 そんなの経理として処理ができません、どこから出てきたお金なんですか? と聞いた私に「まあいろいろ」と答えた所長のぼんやりとした顔は今でも忘れられない。ちなみに札束は、粛々しゅくしゅくぎょうぬしかりで処理をした。
「これ、経費で落として!」
 目の前にかざされた所長のスマホには、ずらりとゼロが行進してる数字が並んでる。
 思わず暗算したくなる職業病を抑えて、私は淡々と首を横に振る。
「ダメです」
「そこをなんとか」
「ダメなものはダメです。ソシャゲのガチャ代は経費になりません」
「爆死しちゃったんだよ。ふくこうせいにできない?」
 できるわけないだろ。そう、瞬間的に心の声で反応する。
 けれど、雇い主にそこまではっきり言うのもはばかられたので、私は何重にもオブラートに包んだ返事をすることにした。
「今から福利厚生費の定義を読み上げて差し上げましょうか?」
ゆみさんさあ、最近冷たいよね」
「ソシャゲ以外のかんじょうもくについてなら温かく話を聞きます」
「えー
 所長が上目遣いで私を見る。
 本当に、顔だけは文句ないんだけどな。くっきりした並行ふたの目も、通った細い鼻筋も、どちらもかんぺきで地雷系の女の子がうらやましがりそうな感じ。なのに、あごだけは少しがっしりしてるのも男っぽくて逆にいい。ついでに言えばスタイルも悪くない。手足が長くて、ほどよく鍛えられてる自称182cm。
 でも、その美点をすべて打ち消すくらい、この人は残念な人でもある。見た目とのギャップと、それを知った時のがっかりが服を着て歩いてると言ってもいい。その様はまさに残念なイケメンだ。
「そんな目で見てもわけは変わりませんよ」
「じょしハラ反対」
「じょしハラ?」
「上司ハラスメント。上司をいじめる部下のこと」
「初めて聞きました」
「今、俺が作ったからね」
わけわかんないことしてるんなら仕事してくれませんか?」
「やることない」
「いいですね。私はげつけっさんで忙しいです」
「あ、俺も忙しいよ。今、ゲームのイベントがきょうだから」
「そういうことを一生懸命働いてる部下に言わないでください。勤労意欲がげます」
「俺だって一生懸命やってるんだけどなー」
 むー、と不服そうに口をとがらせて、所長が自分のデスクに戻っていく。
 とはいっても狭い事務所だ。なにをしてるかの気配はしっかり伝わってくる。もちろんスマホでのソシャゲだ。
 所長が座っているスチールのを後ろからくるくると廻してやりたい。
 ふと、頭に浮かんだ考えを、わたしは慌てて打ち消す。あんなのでも上司、上司、顔を見たら給料だと思え。
 でもなあ。もう少し広い事務所で、所長室が別にあればこんなこと考えないですむのかなあ
 今の事務所は二十つぼほど。いちばん奥の窓際に所長のデスク、その周りに資料がぎっしりと入ったキャビネット、キャビネットにかくされるような形で私の事務机がある。そんな風にただでさえ資料でいっぱいの部屋なのに、出入り口のドアすぐのところに、来客用のソファセットもあるので余計に圧迫感がある。正直に言えば、狭い。
 所長に頼まれて買ったばかりのテレビも、来客用のスペースを侵食している。置き場所がなくて専用のテレビ台も使えず、きゅうの策の壁掛けだ。もちろん、インテリアとしてレイアウトを考えたおしゃれな壁掛けではない。キャビネットやたなすきになんとか場所をいだして設置した、なんとも雑然としたもの。テレビなら私が昼休みのお弁当を事務所で食べたりするときにも使えるから、いつもみたいにきゃっできなかったけれどよく考えたら、暇つぶしはスマホでYouTubeとか見てればいいんだし、早まったな。
 事務所が入居してるビルは、よくあるビジネス仕様のテナントビルの三階だ。
 ワンフロアに二つの事業所が入居し、給湯室やお手洗いはフロアの隅に設置されている共同のものを使う。どちらも業者さんがきちんと手入れしてくれていて、清潔で使いやすい。大家さんがとても優しいおばあちゃまなのだ。入居者の私たちにわざわざおちゅうげんとおせいをくれるくらい。
 ただそれだけよくしてくれるのは空室率が高いからつまり、事務所の立地がちょっと微妙なのが大きい。
 まあそれはいいとして。とにかく、私は職場環境そのものは気に入ってる。建物はきれい、給料は平均的。残業はほぼなし。有休も取りやすい。問題は働かない所長だけだ。
 その問題は、ぎいぎいと椅子を揺らしながら一心不乱にスマホの画面を見つめている。
 指が画面の上をせわしなく動くのが、少し離れたところでPC作業をしている私にもはっきりと確認できた。
 ヤツは。
 ああ、思わず本音が出てしまった。
 ヤツじゃない。所長は、ソシャゲの鬼課金ユーザーだ。以前聞いたところによると、複数のソシャゲを掛け持ちし、それぞれでランカーになっているらしい。
 それには課金だけでなく、長い長い時間が必要なのは、すごく暇な時にパズルゲームくらいしかやらない私にもわかる。
 でもなあ。
 ソシャゲで百億ゴールドかせいでも事務所には一銭も入らないんだけどなあ
 所長に見せびらかされた画面を思い出した私は、ふう、とため息をつき、キーボードを打つ手を止めて考える。手元のパソコンには、先日受けた依頼の詳細と、それにともなう売上が途中まで記録されている。
「弓子さん」
 そのヤツが、スマホの画面から顔を上げてこっちを見た。
 なんで私が手を止めた瞬間を狙いすましたようにするかな。いつも働けとお説教してる分、気まずい。でもここでひるんだら負けだ。私は、なんでもない顔をして所長に答える。
「なんです?」
「ココア飲みたいからウーバー頼もうかと思うんだけど、弓子さんもなんか飲む? おごるよ」
「え、悪いですよ」
「ココア一個持ってきてもらう方が悪い。フラペチーノ、好きじゃなかった? 季節限定の新しいの出てるよ」
「好き、です
「決まり。じゃ、注文」
 所長が次に言おうとした言葉はたぶん、「する」だったんだろう。
 でも、結果として、このウーバーの注文が事務所に届けられることはなかった。
 所長がアプリの決済をする前に、突然事務所のドアが開いたからだ。
 インターホンも鳴らさず訪れた来訪者に、私が立ち上がる。
「あの、ここが退職代行ムラサメですか?」
 それが、今回の依頼人の第一声だった。

 すけがわ、と名乗った依頼人の前に、私はコーヒーのカップを置く。
 所長も私も、飲み物が飲みたい時は自分で用意する。でも、お客さまに飲み物を出すのは私だ。
 これは私が女だから、とかそういう理由じゃない。所長がお茶出しをすると、まずコーヒーの準備段階でその辺にコーヒーの粉をこぼす、そして運が悪ければカップを割る。運よく無事にコーヒーを出せたとしても、今度は給湯室で後片付けをしている時にカップを割る。所長はとにかく家事に向かないのだ。かといって、ウーバーで頼むと待ち時間がある。ならば、私がやればいいというだけだった。適材適所である。
「お気遣いありがとうございます」
 下を向いたまま、視線だけ上げて助川さんがそう言った。
 来客用のソファセットに座った助川さんは、二〇代の半ばくらい。肩までのセミロング姿のおとなしそうな人だ。色の白い顔に、かっちりした形のオフホワイトのワンピースがよく似合っている。ワンピースのプリーツはプレスがいているし、きっと真面目まじめな人なんだろう。しちたけそでが透け感のあるレースなのも、初夏の今の季節らしくていい。
「友人に、ここなら難しい案件でもうまく退職させてくれると聞いて」
 助川さんは、うつむきながら細い声でそう言う。
 助川さんの向かいに腰を下ろしていた私は、思わず身構えた。退職代行は電話でも受け付けている。それをわざわざ面倒な対面で依頼してくるお客さまは、複雑な事情を抱えていることが多い。
 自分のデスクからのそのそと移動してきた所長も、私の隣に腰掛ける。
 私が声をかける前にお客さまのところに来るなんて、所長のくせにやる気あるじゃん! と心の中でめ、隣に座る所長に目をやるとヤツはまたゲームを始めていた。
「所長! お客さまが話してるんですよ!」
「ごめん、今、しょくばいマラソン中だから」
「仕事が終わったらホノルルでもボストンでもマラソンしてきてください! てか、触媒マラソンってなんなんですか!」
「キャラクターのレベルアップに必要な触媒アイテムをゲットすること。ずーっとやってるのが走り続けるフルマラソンみたいだから、触媒マラソン。ほら、俺たち、同じ面を繰り返すことをマラソンって言うし」
「つまりソシャゲのイベントなんですね?」
「うん」
 ソシャゲ。正式にはソーシャルゲーム。一人でも、オンライン上のメンバーと協力してでも遊ぶことができるネットゲーム。パズルゲームからRPGまでジャンルはにわたり、ソーシャルの名前の通り、メンバーとの協力プレイがゲームにハマる一因でもある。スマホのアプリになっているものも多い。そんな、Wikipediaに載ってそうな説明文が私の頭をぐるぐるする。
 確かにソシャゲは楽しいよ? ピンチの時に仲間の協力でゲームがクリアできたりすると嬉しいし、自分の分身のキャラクターがレベルアップすれば充実感がある。でも、その前に、所長は
 仕事しろ。
 俺はちゃんと説明したぞ! みたいな顔で私を見るな。
「わかりました。所長がなにをしてるかは理解できました」
「それはよかった。弓子さんは理解が早いね」
「全然よくありません。お客さまの前です。ゲームしてないできちんとしてください。ほら、スマホを置いて」
 ふざけたことを抜かす所長の手から、スマホを取り上げようとする。すると、するりと所長の体が逃げた。こんなときにまで体幹の強さを発揮するのが忌々いまいましい。
「耳は向けてるからさ。大丈夫大丈夫、しらかわぶね
 大船に乗ったつもりで、と言いたいんだろうか。完全に間違ってるけど。
「あの、かまいません。友人から所長さんのことも聞いてます。ええと自由な方だと」
 助川さんがやっと顔を上げた。そこには、気の弱そうな微笑ほほえみが浮かんでいる。
「申し訳ありません。あ、私はアシスタントのなつ弓子と申します。こちらが所長の村雨久利生です。所長にはあとでよく言っておきますので、お先に助川さんのご依頼の件を聞かせていただけますか?」
「はい。私は薬剤師で、わかめ薬局という調剤薬局チェーンに勤めています。もともとは病院の薬剤師だったんですが、病院が閉院してしまったので薬局に転職しました」
「なるほど。わかめ薬局さんでしたら、このあたりにもありますね。市道沿いに
 私はメモ帳代わりに手元のノートパソコンのテキストファイルを開く。
 経理やその他事務に使っているデスクトップとは別のこれは、簡単なワークフローや出先で必要になりそうな情報が入っている。所長との兼用だけど、所長が使っているのは見たことがない。
「ええ。その市道沿いのわかめ薬局です。正式には、わかめ薬局みなみまち店と言います」
 助川さんの説明に、私はおぼろげな記憶からわかめ薬局の場所を引き出す。あそこなら、ここから歩いて二十分くらい。場所は、ロードサイドてんがいくつも並ぶにぎやかな通りだ。
「ところがその薬局に、ちょっと気性の激しい女性がいて」
 お、これは要注意だ。会社を辞めたい人間の「ちょっと」は時々、宇宙破滅級の重さを持ってる。
 あんじょう、助川さんのまゆが困ったように垂れ下がった。
「その方が気に入っていた男性が、中途採用の私に優しくしてくれたんです。そうしたら、その女性の態度が急に変わって」
 男女関係のもつれ。単純だけど、エスカレートすると傷害や殺人に発展するから怖い。
 でも、それがどんな風に変わったのかが大事だ。おつぼねさま的ないびりとか
「その人が、私にセクハラ発言を繰り返すようになったんです」
「あれ、お相手は女性だったのでは?」
 意外な発言をされ、反射的に尋ねてしまった私に、助川さんが困り眉のままで微笑んだ。
「はい、女性です」
「弓子さん、今は同性同士でもセクハラは立派に成立する。あとで資料を渡すよ」
 スマホの画面に目を落としたままの所長が、すっと人差し指を持ち上げた。その人差し指をぺちんとはたき、私は助川さんに不勉強をびた。
「申し訳ありません。知識不足でした。以降、男女間以外にもセクハラが成立することをきもめいじさせていただきますので、続きを聞かせていただいても大丈夫ですか?」
「お気になさらず。代行屋さんもそう思いますよね。私も自分が直面するまでは考えたこともありませんでした。でもあれは、セクハラとしか言いようがない
 助川さんの目が一気に潤んだ。やわらかい黒の虹彩が、過去を思い出すように遠くを見る。
「『私の妹はお前と同じ年齢でもう結婚して家も建てたのに、お前はなにをしてるんだ』『行き遅れ』『男に色目を使ってばかりいるからだ』あの人は顔を合わせればそればかり。もう耐えられません」
ひどい」
 私は、それ以上の言葉が見つけることができなかった。
 どれも令和どころか、平成、昭和だって許されるものじゃない。ハラスメントを超えて、ただの悪口じゃないか。
 それに、いちばん引っかかったのは「私の妹」という部分だった。どうして、仕事の同僚をののしるのに、自分の身内を引きあいに出すんだろう。
「あのその方の妹さんと助川さんはなにかご関係が?」
「ないです」
 ないの?! なのにそんなわけのわかんないこと言うの?!
 意味不明を超えて、恐怖さえ感じる。てか、そんなん言う人、ヤバすぎる。今までいろいろなハラスメントについて聞いたけど、その中でもゴールデンにヤバい。
 ひきつりそうな顔面をなんとか微笑の形に保ちながら、私は助川さんに尋ねた。
「では、その薬局への退職代行を我々にご依頼なさいますか。セクハラ被害なら、会社都合退職での退職願いも通るかと思いますよ」
「弓子さんの言う通りだね。こういう件で退職するなら会社都合の方がいい。失業保険はすぐに下りるし、期間も長くなる。国保の支払い軽減も可能。なにより、会社が各種助成金を受け取れなくなる可能性が大きい。仕返しにはちょうどいい」
 相変わらずスマホを見つめたままとうとつに話に入ってきた所長を、私は片腕で押しとどめる。
「そういう言い方はお客さまには。ただ、所長の言うことは間違ってはおりません。その線でお進めしてよろしいでしょうか」
「ありがとうございます。でも、ダメなんです」
「ダメ?」
 この件はあからさまなセクハラだ。これで通らなかったら会社の方が間違ってる。
「私、上司に何度か相談しちゃったんです。こんなセクハラを受けてつらいって。でも上司は、女同士だし勘違いじゃないかとか、彼女なりのコミュニケーションなんじゃないかとか、そんな風にすまされてしまいました」
 見開かれた助川さんの目のふちに、水滴が盛り上がった。そのまま、助川さんのほおを、涙が滑り落ちる。
「そうしたら、上司に相談していたことがその女性にばれて、私が社内の和を乱す不良社員だから辞めさせてほしいと社長に直電されてしまって
「社長? なんで?」
 驚きの余り敬語が取れてしまった私に、助川さんは泣き笑いで答える。
「その人は創業時からの社員で社長のお気に入りなんです。社長はその人を信じました。私は自己都合退職しろと迫られています。社内に味方はいません」
 私はもう、声も出ない。
 あまりにも理不尽なことを聞かされると、人は反応もできなくなる。それを、私は今、身をもって体験していた。
 ちらりと隣の様子をうかがうと、うつむく所長のけんには深いしわが寄っていた。一瞬だけ、スマホの画面から外れた鋭い視線が助川さんに向かう。ただそれは、助川さんを責めている感じじゃない。怒りを奥底に押し込めているように見えた。
 助川さんが、ワンピースの袖で涙を拭いた。
「今日も、もうすぐたなおろしだからと、私だけ休日出勤させられました。でもさすがにくやしくてもうあんな会社は辞めてもいいんです。だけど、所長さんの言う通り、会社に爪痕を残すために、絶対に会社都合退職にさせたくて。できれば、私にしたことを少しはこうかいもしてほしくて。それでムラサメさんのところに来たんです」
「そうだったんですね。それは大変な思いをされました。こちらのティッシュ、よろしかったらお使いください」
「すみません」
 ややこしい退職の話をしていると、感情がたかぶってしまう人もいる。怒り出す人も、泣く人も。そんな人のための備えが、今日も役に立った。
 助川さんが目元と鼻の辺りをティッシュで押さえるのを見ながら、私はこんな提案をする。
「ならば、セクハラ発言をボイスレコーダーで録音して、ろうに廻すのはいかがでしょう。労基までは私が付き添います。そういった実績を作ったのちに、所長の村雨が会社都合退職の申し出代行をいたします。さらに損害賠償請求などもなさりたいのなら、当所が提携している良心的な弁護士をご紹介することも可能ですよ」
 べんこうとの兼ね合いもあるので、私たちは助川さんのご意向の申し出しかできず申し訳ありません、と私が頭を下げると、助川さんは「いいんです」と笑ってくれた。
「それでも、力を貸してくださるのが嬉しいです。そのやり方なら、会社は少しはダメージを受けてくれますか?」
「労基から指導やちょうばつが入れば、それなりの影響は受けるはずです。なにより、会社のイメージダウンにもつながりますね。ひどいセクハラを放置した上、社員に無実の罪を着せるなんて! 信じられませんよ。そんな会社、ぎゅっと言わされたらいいんです」
 私が思わず本音を口にすると、助川さんがまた笑った。おとなしそうな人だけど、笑うとふんわり可愛かわいい。助川さんに優しく接したという同僚男性の気持ちが、私にもなんとなくわかった。
「ありがとうございます、代行屋さん。もうあんな発言聞きたくないけど、我慢して録音します。そうしたらまたご連絡すればいいですか?」
「そうですね
 私が手元のノートパソコンに視線を落とし、「複雑な依頼受注フロー」を確認する。こういった場合はこのやり方でOK。あとは依頼書にサインをもらおう。
 その時だった。
「いいや、まだまだだね」
 所長の声が、事務所に響いた。
「所長?」
 ようやくスマホから目を離した所長が、助川さんをじっと見る。その横顔は理想的なEラインを作っていて、本当にソシャゲさえなければ割とかっこいいのになと、瞬間、私の胸をよぎった。
 ううん、それより。
 まだまだってどういうこと?
 非弁行為、平たく言うと、弁護士的行為はできない私たちが表立ってできることの中では、これ以上ない案を示したはずなんだけど
「保険調剤薬局は複雑なシステムで動いている。悪意の人間なら抜け穴を見つけるのも易しい。そんなタチの悪いトップダウン式の薬局なら、不正をしていても不思議じゃない。助川さん、その薬局は混合した薬の作り置きをしてますか?」
 所長がスマホをソファに置いた。
 さきほどちらりと見せた怒りはもうない。その代わり、これまでとは打って変わった真剣な表情を所長は浮かべていた。
 助川さんが、少し目を見開く。所長の言葉に心当たりがあるんだろうか。
「いいえ。塗り薬も飲み薬も、患者さんからしょほうせんを受け取るたびにお作りしてます」
「なるほど。せいを利用しての不正請求はしていない。薬の作り置きをしないということは、めんで受けている薬局ですか?」
 助川さんの答えを聞いて、所長が軽く片眉を上げる。助川さんが所長に向かって身を乗り出した。
「所長さんはお詳しいんですね。面ではないです。てんです」
「二人とも、何の話をしているんですか?」
 と、そこで、悪いけど私が割り込ませてもらう。情けないことに、二人の話していることがさっぱりわからないのだ。てか所長、なんで薬局系の専門用語で話してるの? この人は本当に底が知れない。
「調剤薬局の業務形態の話だよ。点は医療機関の近くに開業して、その医療機関からの処方箋を受けるのがほとんどの業態、面はそれ以外だね。よく病院の向かいなんかに建ってる薬局は点分業で、ドラッグストアに併設されてるような薬局は面分業だ」
「へえ
 すらすらと所長に説明され、私は頭の中に自分のイメージする薬局の姿を思い浮かべる。確かに、病院の近くにある薬局も近所のドラッグストアの中にある薬局もどちらもある。
「点だとあのやり方があるなあ。助川さん、薬局チェーンにお勤めだそうですが、何店舗くらいのチェーンです?」
「三店舗です」
「各店舗の規模は」
「私がお勤めしている店舗が一番大きくて、あとは一人調剤のところとか小さめですね」
「いい感じになってきた。助川さんの店舗では、処方箋は月何枚くらい受けてます?」
「評判のいい病院の門前なので、だいたい月三千枚ちょっとでしょうか」
「点ならば、ほぼそこからの処方箋ですか」
「体感、九割以上だと思います。他院の処方箋はほぼ見たことがありません」
 ふむふむ、と所長がうなずいた。
 あれ? 助川さんは自分がお勤めしてる薬局がチェーンだなんて言ったっけ?
 メモ帳代わりにしていたパソコンの画面を見直して、私は自分のやらかしに気づく。
 言ってた。ちゃんとお話を聞いてたつもりなのに、ソシャゲやりながら聞いてた所長以下のけいちょうりょくとか、私ももっと修行しなきゃ。
 私は、テキストファイルの中の『チェーン』という文字に目立つ色でマーカーを引き、あとで詳しく調べたい、『点』とか『面』という言葉にもついでにマーカーを引く。
「処方箋を、後で古参の薬剤師や事務がどこかへ持っていくのを見たことは?」
「そういえば、古い事務さんが、時々処方箋の入った箱を車に載せて運んでいます」
「ますますいい」
 所長が組んでいた足を組み替える。声にはしっかり張りがあって、もうすっかり、ソシャゲの世界からは戻ってきたみたいだ。頬にもよそ行きの笑みが浮かんでいる。所長の残念な面さえ知らなければ、その笑顔は文句なくれいに見えるはずだ。
「助川さん、あなたはこれまでずっと病院薬剤師で、調剤薬局の歴は短いですね?」
「は、はい。転職して三か月です」
「では、処方箋集中率についてはご存じない?」
「ごめんなさい、あまり詳しくありません。調剤薬局に勤めるからには、保険のことも勉強しなければいけないのはわかっているんですが、なかなか取り掛かれなくて
「致し方ないことです。あなたに余裕を与えない相手が悪い。処方箋集中率は調剤基本料を決める大切な率です。調ちょうとか調ちょういちとかの文字なら、薬局の中で見たことがありませんか?」
 助川さんが、なにかを考えるように、目線をちょっと上に向けた。そして、それを所長に戻す。
「それならあります。ええと、なんの書類だったかな調一と書いてありました」
 所長が、今度はにやりと笑った。さっきまでとは違う、尖った犬歯がよく目立つどうもうな笑い方だ。だけど、ばやに繰り出される質問に答え続けてる助川さんは、そこまで気づかないみたいだ。
「そちらの薬局では、毎日の処方箋受付枚数を記録していますか?」
「事務さんが日報メールを書いて、毎日、本部に送っているはずです。面倒だとぼやいていたのを聞いたことがあります」
「わかりました。助川さん、今日はお一人で休日出勤だとおっしゃっていましたね。ならば職場のかぎもお持ちでしょう。今から一度、薬局に戻ってください。南町にある店なら、それほど遠くはありませんね?」
 いきなりの質問に、思わず所長の顔を見直した。急になにを? 私の中に疑問が浮かび上がる。そう感じたのは助川さんも同じだったんだろう。
「遠くはないです。でも、私、やっと今日の仕事も終わったばかりで」
 初めて、助川さんがNOに近い言葉を口にする。
 わかるよ。嫌だよね。仕事が嫌いじゃない私だって、退勤後に職場に行くのは気が進まない。それを、いつもセクハラされてる場所に戻れだなんて。
 でも所長も退かなかった。助川さんに向かって、穏やかな表情を作り、微笑ほほえみを返す。
「そこをなんとか。誰もいない内でないと確認しづらいことなんです。それに、嫌がらせのはずだった休出が、敵を叩きのめす手段になると思えば、多少は気も晴れませんか?」
「どういうことですか?」
 助川さんが首をかしげる。
 私も、意味がわからず、思わず所長の顔を見つめていた。
 所長はそんな私たちには構わず、ゆったりとソファに背を預けた。
「おそらく、勝てますよ、あなたは」
 私と助川さんが、思わず顔を合わせた。勝てる? なんで? どこがどうなってそうなるの?
「いいですか。月二千回以上の処方箋受付回数で、同一医療機関からの処方箋集中率が八十五パーセントを越えれば、算定できる保険点数は調二、調剤基本料二の二十六点なんです。調一の四十二点じゃない」
 私にはさっぱりわからない所長の説明を聞いて、助川さんが両頬に手を当てた。
「そういうこと!」
 その仕草には、少なくとも怒りや悲しみは込められていなかった。もっと言えば、なんらかの答えにたどり着いた人の、喜びの仕草にも見えたかもしれない。
「あの、所長」
「なに?」
「聞いてもいいですか」
 お客さまの前で何度も質問するのはかっこ悪いけど、背に腹は替えられない。わからないことをわかったふりするよりはいい。
「どうして助川さんが勝ち確なんです」
「簡単な話。その薬局が保険の不正請求をしてると俺は考えてる。本来算定できる点数より、ワンランク上の点数で保険請求をしてね」
「でも、どうやって」
 今度は助川さんが身を乗り出す番だった。
 不正請求? 私も身を乗り出してしまいたいのをぐっとこらえて所長の言葉を待つ。
 所長が、たん、と目の前のテーブルを指先で叩いた。それから、その指をぴんと伸ばし左右に動かす。
「そこで大きなヒントになるのが、どこかに運ばれていく処方箋です。レセコンを調べてみてください。レセプト上の月次受付枚数と日報の処方箋枚数に差異が出るはずです。その差異の数だけ、他店舗に処方箋が運ばれていると思っていい」
 ここで、私にもわかる話になってきた。助川さんのお店で受け付けた処方箋を、ほかの店舗が受け付けたことにして、処方箋の枚数をごまかしてるってことだよね。
「一人調剤で処方箋受付枚数の少ない店舗に、二千回を越えた分の処方箋を取り付けているんですよ。そうすれば、助川さんのいる店舗は四十二点が算定できる。調二の約二倍だ」
「たった四十二円ですか?」
 思わず声にしてしまった私に、所長は「わかってないねえ」と首を振る。
「保険点数の計算は末尾にゼロをつけて考える。四十二点なら四百二十円。百人で四万二千円、助川さんの言う通り千枚単位で処方箋が来るなら、四十二万円だ。それを十二か月と考えたら、なかなか魅力的な数字じゃないか」
 助川さんがほーっと息をついた。助川さんは現場の人だ。たぶん、私より所長の話が身に迫ってきてるに違いない。
「そういうわけで、先ほどお願いしたように、お勤め先に戻ってください。そこでレセコン上の処方箋枚数と、事務さんの日報の処方箋枚数を突き合わせてみてください。おそらく、日報の方は日々カウントしている不正のない枚数を書いているでしょうから。レセコンの立ち上げはできますか?」
「できます。レセコンが動かせないと仕事にならないので」
 いやレセコンってなに。
 そんな私の疑問が伝わったのか、所長は私の方を向いて、小さな子どもをさとす口調で言ってくれた。
「レセコンはレセプトコンピュータ。複雑な保険点数計算を自動でしてくれる便利な機械だ。処方箋のスキャンや薬の在庫管理にも使うよ」
「所長さんはお詳しいんですね。薬局関係の方なんですか?」
 助川さんが嬉しそうに所長に尋ねる。
ありがとうございます。私も聞きたかったことを聞いてくれて。
 でも、それに対する所長の答えは、まったく予想外のものだった。
「まあ、そうとも言えるかなあ依頼されて、薬局を一軒潰したことがあるんですよ」
 所長の口の端がくっと持ち上がる。両目も弓なりに細められた。
 イケメンが浮かべるそれは、かんぺきな形の微笑なのにどこか背筋が冷える。
 でもそれは、すぐに所長のいつもの表情に溶けた。綺麗だけど、とらえどころのないぼんやりした顔だ。
「なんてね、冗談です。冗談、冗談」
「あ、冗談ですか、よかった」
 ほっと息をついた助川さんが胸元に手を当てた。そのまま、胸をとんとんと叩く。
「一瞬、本当かと思ってびっくりしました」
「これは申し訳ない。俺はジョークが下手へただと部下にもよく𠮟しかられます」
「そ、そうですよ! こんなときに変な冗談言わないでください。助川さんをこれ以上困らせちゃダメですよ」
「ごめんごめん。そうだ、弓子さん、助川さんが薬局に戻る時に送っていって差し上げたら? 弓子さんの車は同乗者保険がついてるから安心だし」
 所長に突然水を向けられて、助川さんの肩がびくんと跳ねる。
 薬局の人らしい白い手が、何度か顔の前で振られた。
「そんな、悪いです。歩いていけます」
「いいんですよ。うちみたいな中小企業はサービスが命です。それに、南町の辺りまでは、歩けば二、三十分かかるでしょう。その分の時間を弓子さんが短縮してくれると思えば」
 ね? と所長が私の方を向く。
 言ってることは間違ってない。間違ってないけどさっきまでソシャゲに夢中だった人に言われるとちょっとくやしい。でもまあ、さっきまで泣いてた助川さんを一人で行かせるのも心配だし、二十分歩かせるのも悪いし、私が車を出すのがいいんだろうな。ここまで、私、なにも役に立ててないし。
 というわけで、私は明るく笑顔を作る。
「私なら、喜んで」
「ほら、本人もこう言ってます」
「じゃあ、お言葉に甘えて
 助川さんがえんりょがちに言いながらカバンを手に取った。
「私もたくをしてきます」
 免許証や車の鍵を取りに、自分の机に戻る。それから、入り口のドアのところで私を待っていた助川さんを駐車場へと促す。
 所長が「いってらっしゃい」と気軽な様子で手を振る。その所長が、とりあえずはスマホを手に取らずにパソコンに体を向けるのを見届けてから、私は事務所のドアを閉めた。

 助手席に助川さんを乗せ、私はゆっくりと車のアクセルを踏む。
 毎日おなじみの光景がどんどん後ろに流れていく。
 うちの事務所の入居してるビルは、小さな在来線の地下鉄駅から歩いて十分のところにある。あまり栄えてる場所ではないけれど、近くには小規模な商店街、向かいにはコンビニがあって、立地的に私はなに一つ文句はない。こうやって市道まで出れば、そこそこ大きなお店もあるし。ただ、私の住むアパートは便が悪いので、事務所まで車通勤をしなければいけないことだけが難点だ。でもこれは、私個人の事情なので致し方ない。
「すみません、代行屋さん」
「いいんですよ」
 助手席から軽く頭を下げられる気配がして、私は前を見たままそれに応じた。
「私の方こそ、すみません。所長があんなので」
 そう言うと、助川さんがくすりと笑う。
「いえ、薬局のことにも詳しい方で安心しました。ところで、薬局を一軒潰したっていうの、本当に冗談ですよね?」
「たぶん
「た、たぶん?」
 あ、ヤバい。
 思わずこぼれてしまった言葉に、私はハンドルから片手を離して口を押さえる。ちょうどよく、信号が赤になった。私は停止線に合わせて車を停めながら、うっかり者の自分をいましめる。
 やっちゃった。助川さん、不安そうな顔してるじゃん。
 所長がちょうにいたころの話はなかったこと。これは暗黙のお約束。
「いや、たぶんじゃなくて絶対です。あの人、笑えない冗談をよく言うんですよ。私もよくからかわれてます」
「仲がいいんですね」
「どうなんでしょうね。特にケンカする理由もないから、その程度ですよ」
「その、ケンカする理由がないっていうのがすごいことですよ。私も転職して、前職がどれだけ人間関係に恵まれていたかわかりました」
「前職は病院でしたよね」
「ええ。院長が高齢で亡くなられて、跡継ぎも事業継承する方もいなくて閉院したんです。それで、少しは世間の風に触れようと調剤薬局に転職したんですが
 助川さんが語尾をにごす。赤信号にかこつけてちらりと見たその横顔には、深いうれいが刻まれていた。
「所長さんには内緒ですが、夏生さんが所長さんにきちんと意見されているのを見て、こちらなら大丈夫と思ったんです。私の昔の職場を思い出しました。部下の言うことを素直に受け入れる所長さんもいい人だなって」 
 いい人ものは言いよういや、助川さんは純粋な好意で言ってくれてるんだ。ここはひとつ、にっこりと笑おう。
「そう言っていただけて良かったです。所長も言動はアレですが、仕事はきちんとやりますのでご安心ください」
「信用してます」
 助川さんがちょっとはにかむ。
 もしかして、私に足りないのはこの素直さなんだろうか。でも、あの所長と一緒に仕事をしてたら、そうもいかないんだよなあ。素直に言うことを聞いていたら、わけわからんものまで経費にされて、税務調査待ったなし。
 私は、税務署に立ち入り調査されてきょうかんになる事務所を想像する。いやその場合叫喚するのは私だけで、きっと所長はその辺でソシャゲやってるんだろうなあーあ
 本能的に、私のまゆが寄っていくのがわかる。
 そんな私には気づかず、助川さんが付け加えた。
「本当は、今だって職場なんかに戻りたくないんです。でも、あの所長さんの説明を聞いて、必要なことなんだって納得しました」
「ありがとうございます。その助川さんは穏やかな方なんですね」
「そうですか? 私、職場では言うことを聞かない跳ね返り扱いですよ。うちさんあの人に嫌われてるから」
「その、名内さんって人はどういう人なんですか? 助川さんと対抗しようってことは同年代ですよね」
「いいえ。名内さんは六十代です」
 六十代?!
 マジで?
 六十代が恋しちゃいけないって言いたいわけじゃない。それより、そんなふんべつのついた年齢なのに、新入社員にしつこくセクハラしていることに私は驚いていた。
 年齢って、人を進化させる最大の薬だと思ってたけど、そうじゃない人もいるんだ。
 あれ、でも、そのヤバいヤツがその年齢なら、二人の真ん中の男は?
「あの、その方のお気に入りの男性はおいくつくらい?」
「三十代です。私より、少し年上」
 助川さんがちょっとだけ白い歯を見せた。
 私はさらにがくぜんとする。
 なにがどうなってそうなるのか、もう全然わからないし、自分なりに描こうとした頭の中の人物相関図はごちゃごちゃになっていく。
 一つ確かに言えるのは、その会社はとんでもない、ということだ。
「でも私、今日は嬉しかったんです」
 助川さんがほんのりと微笑んで話を続ける。
「夏生さんも所長さんも、私のこと疑わないでいてくれたでしょう? 会社では、男好きのバカだと思われてるから毎日そう言われてるから
 かすれた声が気になって、私は隣の助川さんに目をやる。いつもならイライラする長い赤信号も、今日は気にならない。
 ひどいことを口にしてるのに、助川さんは笑っていた。
 それがひどく痛ましくて、私はなにを言えばいいかわからなくなる。
 ようやく信号が青く色を変えた。少し名残なごり惜しかったけど、ひとまず私はアクセルペダルに足を移し、前を向き直す。
「お二人に信じてもらえてよかった。しかも手助けしてもらえるなんて。私の味方なんて、もうどこにもいないと思っていたから。だんだん、自分でも、私が悪いんじゃないかと思っていたところだったんです」
「いいえ! 助川さんは悪くないですよ! 悪いのはセクハラするヤツです!」
 思わず語気が荒くなる。
 運転中だから冷静に、そう自分に言い聞かせても、怒りがせりあがるのが抑えきれない。自分の欲のままに生きてるヤツに、普通に生きてる人が踏みにじられるなんて、あってはいけないはずなんだ。
「ありがとうございます」
 助川さんが、優しい声でそう返してくれる。
 いら立ちは収まらないけど、その声は私を落ち着かせてくれた。
 助川さんのためにも、絶対今回の仕事は成功させよう。私はそう強く強く決意する。
「助川さん、証拠、必ず持って帰ってきてくださいね。助川さんをいじめたヤツらを痛い目にあわせてやりましょう!」
「頑張ります。でも、あの痛い目とかそういう過激なことは。私は会社都合退職できればそれでいいので。乱暴なことはなさらないでくださいね」
「すみません。つい、興奮して。もちろん、暴力に訴えたりはしないのでご安心ください。代行屋としての仕事をきっちりとこなさせてもらいます」
「よろしくお願いします」
「いえいえ。あ、お勤めの薬局はここの角ですか?」
 事務所から車で十分ほどのところ、私も見たことがあるわかめ薬局の辺りで、ナビが音を立てる。その音で、私はそれまでの会話をいったん止めた。
 市道沿いには、薬局と似たような大きさのロードサイト店が何軒も立ち並んでいる。にぎやかな郊外の通りだ。
 ナビは「ここだよ」と訴えているけど、いちおう助川さんにも確認を取らないと。
「そうです」
 うなずいた助川さんの視線の先には、「わかめ薬局」という大きなそでかんばんのついた建物があった。白を基調とした、清潔な見た目の平屋一戸建てだ。大きさは戸建ての広めのコンビニくらい。
「駐車場はどこに停めても自由なので。停めやすいところにどうぞ」
 助川さんが指し示した場所には、ロードサイド店らしい広い駐車場が広がっていた。車を停められる台数はぱっと見だけど十台以上ある。
「じゃあ入り口に近いところにしますね」
「なら、あそこが従業員入り口です。表の患者さん用の入り口とは別なんです」
「わかりました」
 私は、従業員入り口に車を近づける。とは言っても、あまりベタ付けするとガラガラの駐車場の中では目立つので、ちょっとだけ距離を開けた場所で車を停めることにする。結果的に、駐車場の入り口とは離れた、端の目立たない場所に駐車することになった。
「本当は、中までご一緒したいくらいですけども」
「そうですね。だといいんですが、私もまだいちおう職員なので。部外者を入れないという規定を守ります。所長さんに指示されたものを見つけたらすぐ戻るので、少し待っていてください」
「わかりました。お気をつけて」
 助川さんが軽く手を振って従業員入り口へと向かっていく。
 私は、その後ろ姿を見送りながら、所長に現場到着の報告連絡をした。
「所長、今つきました。無事です」
『よかったねえ。じゃあ帰りにココア買ってきて』
「は? お客さまを乗せてるんですよ。あとで普通にウーバー頼んでください」
『弓子さん、お客さんがいるときにウーバー頼むと怒るじゃん』
「じゃあ今のうちに向かいのコンビニに行けばいいじゃないですか」
 私は、スマホ越しの所長の軽口に、いつもの調子で返す。この人は本当にぶれない。あとココアのこと忘れてなかったんだ。
『コンビニ行くのめんどくさいんだよねえ。助川さんの様子はどう? 平気そう?』
「しっかりとされてました。大丈夫だと思いますよ。私よりしっかりしてる? 今後、ウーバーで頼んだ飲食費は一切経費で落とさないんでご覚悟ください」
『え、やめてよ。ダメ。絶対にダメ』
「それはこっちの台詞せりふです。経理めないでください」
 またくだらないことを言い出した所長の話をさえぎり、電話を切ろうとしたとき、視界の隅でミニスカートを穿いた中年の女が動いた。
「あれ? いえ、あの」
 駐車場の端にいた女は、こちらにどんどん近づいてくる。
 ヤバい。
 私はとっに体を下に滑らせる。
 ウインドウから自分の体が見えないように。
「ちょっとまずいです。助川さんの同僚かもしれません。いったん切ります。あとでまた連絡しますね!」
 私はそのまま、運転席の足元にうずくまるようにする。でも、車の中をのぞき込まれたらおしまいだ。
 どうか、どうか、このまま行き過ぎてくれますように
 祈る、祈る。手の中のスマホが汗で滑った。

「日報のスマホ転送終わり。次は月次資料ね」
 レセコンを立ち上げた助川が、画面をぱちぱちと操作していく。
「月次と、それから念のため年次も印字して
 静かな薬局の中に、プリンタが紙を吐き出すごうごうという音だけが聞こえる。その間、助川は辺りを見回し始めた。事務員が車で運んでいる、おそらく不正分のしょほうせんが入っている箱を探しているのだ。
「どこかなあ、あった! この箱、いつも事務さんが車に載せてた箱!」
 資料を抱えた助川が、月次資料が入っていたのとは違う小ぶりな箱に目を留める。段ボール箱が積み上げられている薬局の隅に隠されていたようなそれは、注意深く目配りをしていなければ見逃してしまいそうだった。
 箱のふたを開けて中に処方箋が入っていたことを確認した助川が、スマホのカメラを箱に向けた。
「これもきっと証拠になる。写真、撮っておこう」
 打ち出された月次資料と年次資料を抱えて、助川は何度もシャッターを切った。
「あと、必要なものは
 そこまでひとりごちて、助川は動きを止める。
 ドアの開閉する音がしたからだ。
 助川の目が大きく見開かれる。
 弓子は絶対に無断では局内に立ち入らないと言っていた。なら
 床を踏む足音がする。それは次第に助川に近づく。助川が歯をぎゅっとみしめた。
 弓子でないのなら、ここに入ってくるのは、薬局の関係者しかいない。
 だとすれば、誰?
 上司、同僚、それとも一番、会いたくないあの人?
 急いで助川が箱を元の位置に戻す。入ってくるのが誰だとしても、見られてはいけない光景なのは確かだ。
「だ、だれ」
 箱を戻し終えた助川は、震える声を上げながらなんとか振り向いた。
あ、名内さん」 
 助川が目を見開く。
 そこにいたのは、助川に仕事を押し付けて、休みをまんきつしているはずの名内だった。
 助川の胸が、針を刺されたように痛む。
 フラッシュバックするのは、投げかけられたひどい言葉の数々だ。
 怖い、会いたくない。そう思う助川にはかまわず、つかつかと名内は歩を進める。
「あら、助川さん、まだいたの」
 名内がうっすらと笑みを浮かべる。作り笑いなのがありありとわかる、相手を見下した笑いだ。
「すっ、すみません! その、バラじょうの計数に時間がかかって。な、名内さんこそ」
「忘れ物したのよ。財布をね。いくらキャッシュレスでも、財布本体がないのは困るでしょう」
「そうなんですね」
「それより、作業に時間かかりすぎじゃないの? 生活残業して、男にみつぐお金でも作るつもり?」
「手早くやろうとはしてるんですが、一人なので
 名内が、調剤台の上に置き忘れられた財布を手に取った。
「一人になるのは助川さんに協調性がないからよ。普通なら、こんな時はみんな協力してくれるの。でも、助川さんは自分のことばっかり。せっかく男性にいい顔したのに、それも無駄だったみたいね」
 くくっとのどにこもった声で名内が笑う。
「彼も、今日は出勤してくれなかったじゃない。大好きな人にも見捨てられてどんな気持ち? 男好きのくせにひとりぼっちなんて、みじめねえ」
「あ、あの人はただの同僚です。好きとかそういう気持ちはありません。それに、そういうの、今は関係ないじゃないですか」
「なんですって?」
 めずらしく助川にはんばくされ、名内が顔をしかめる。普段なら、こんな時に助川は黙ってうつむいてしまうだけだった。けれど、今の助川はその先を続ける。
 弓子や村雨と話したことで、小さくても芯のある想いが助川の中に生まれていた。
「私があなたのお気に入りと親しくなったからって、こんなこと」
「なに言ってるの」
「確かに私はあなたに嫌われてます。でも、仕事はきちんとやっています。まだ三か月目ですが、みなさんが嫌がるこんごういっぽうも進んでやっています。変なことを言うのはやめてください。私は職場に私情を持ち込んだりはしません」
「へえ、そう
 名内がひくひくと口元を震わせる。助川の思いもよらぬ発言は、彼女の顔をみにくく歪ませていた。
「口先だけはご立派ね! そうやって彼をたぶらかしたの? 私よりちょっと若いくらいで! あなたなんかいくらでも替えのきく歯車なのよ。それとも行き遅れが男をはべらして、ここで好き勝手やろうと思ってたの? 残念ね。そんなこと、私が許さないわよ」
 助川が唇を嚙む。
 違う。違う。嫌だ。
 これまで、喉元で押し込めてきた言葉がまたせりあがる。
「ん? なにを持ってるの? 処方箋類は持ち出し禁止よ。まさか、横流しとか」
 今ならわかる。
 名内がこんなことを言うのは、自分たちが処方箋の付け替えをしているからだ。
 助川は、力が抜けそうな足を必死で踏みしめる。
 でも、もう負けない。
 そのために、勇気を出してムラサメに行ったんだから。
「違います。在庫しているお薬の名前を打ち出して覚えて、少しでも発注に生かそうと思ったんです」
「ふうん
 名内が、た視線で助川の全身をじろじろと見る。
「今さら、ねえまあ、どこにお勤めしても発注は必要になるからいいんじゃない? 男をたぶらかす以外の特技もあった方がいいものね」
 いらつきを隠そうともしない名内に、黙って助川は目を伏せた。
 この人にはなにを言っても無駄だ。自分のプライドと、それを傷つけられたことしか考えていない。
「とにかく、仕事はきちんと終わらせますから」
「当たり前でしょう。もうタイムカードを切ってもいいくらいよ。私が切ってあげましょうか?」
「あの、あと少しなので」
「あっそう。じゃあさっさと頼むわね。まったく、社長も、なんでこんな子を雇ったのかしら
 苦々しげに言い放ち、名内が薬局を出ていく。
 しばらく、資料を抱えたまま固まっていた助川が、長い息を吐いた。
 あんのため息だった。
 とにかく、大きな一つの山を乗り越えることはできた。間違いなく、自分ひとりの力で。
 腕の中の資料がずっしりと重さを増す気がする。
 助川は、その重さに耐えきれるようになった自分を、ほんの少しだけ誇らしく思った。

「助川さん、大丈夫でしたか?!」
 私は、車の助手席のかぎを開けながら急いで聞く。
 女が薬局の出入り口から入った時に、まず感じたのは「まずい」だった。
 休業日なのに、迷わず従業員入り口に足を向けるのはきっと、薬局の職員に違いない。助川さんがかちあったら一番危険な相手だ。
 中で、所長の言う通りの証拠品を探している助川さんが怪しまれてしまったら助川さんは上司にも目をつけられている。おそらく、きつもんされるに違いない。
 だからといって、私が見つかるのはもっとまずい。
 私は運転席に隠れながらそんなことを考えていた。
 くやしいけど、私にできることはない。とにかくスマホをお守りのように握りしめて、時折あたりの様子をうかがう。
 それを何度か繰り返したところで、女が出入り口から出てきて、私は胸をでおろした。助川さんが一緒じゃないということは、きっと、あの女をうまくやり過ごせたということだ。
 それでも、助川さんと合流するまでは完全に気を抜くことはできない。ばくばくと脈打つ心臓をうるさく思いながら、私は助川さんを待つ。
 すると、助川さんが出入り口から出てきた。私は隠れるのをやめて助川さんに軽く手を振ってみるよかった、振り返してくれた。
 そして、場面は今に戻る。

「大丈夫です」
 助川さんが車に乗り込んでくる。緊張のせいだろうか、顔には細かい汗の粒が浮いていた。
「女の人が入っていったので心配しました。あやしまれませんでした?」
「はい。なんとか。あの女性が名内さんです。ちょっと不審がられたけど、言われたのはあやしまれるより嫌なことの方が多かったです」
「そんな
 助川さんを助けるための行動で、助川さんをまた傷つけてしまったの? つらい。
 それ以上言葉にならない私に、助川さんが慌てた感じで声をかけてくれる。
「気にしないでください。もう私は平気です。いくら社長のお気に入りだからって、あんな人のこと、なんで今まで怖がってたんだろうって思います」
 歯切れのいい声。初めて事務所に入ってきた時より、ずっと元気な。
「私、とてもきゅうくつな世界にいたんですね。変なの。名内さん以外の人もたくさん世界にいるのに。疲れて、視野が狭くなってたみたいです」
 助川さん。軽はずみなことは言えないけど、でも、よかった。うん。本当に、そう。名内とどんなやり取りがあったかは分からないけど、疲れてる人が疲れてるんだと自覚できたのは、とてもいい兆候だ。
「ここに所長さんに言われた資料もありますし、参考になりそうな画像もばっちり撮ってきました」
 助川さんが、肩から掛けたカバンを大事そうに撫でた後、笑ってガッツポーズする。
「私、負けませんでしたよ」
「すごいです。かっこいい」
められちゃった」
 シートベルトをしながら、助川さんがまた笑った。どこか吹っ切れたようなそれは、さわやかで気持ちのいいものだった。
「あ、村雨に連絡させてください。さっき、見つかりそうでヤバいって電話を切ったから、心配してると思います」
「あら、それはすぐに。無事だったとお伝えください」
「はい!」
 私は、握りしめていたスマホの画面を開いた。

「おかえりー」
 ソファに寝そべっていた所長が、私たちに向かって手を振る。大き目の二人掛けのはずのそこから、所長の脚はのびのびとはみ出していた。無駄にスタイルがいい。
 しかも手にはスマホまたゲームしてたな? どおりで私の電話に出るのが早いと思ったんだ、まったく。
「ただいま戻りました。言いたいことはたくさんありますが、まずは起き上がってください。お客さまの前です」
 のそ、と素直に所長が起き上がる。
「よかったね、弓子さん、心配したんだよ」
「心配してた格好じゃないですね」
「弓子さんならなんとかするって思ってたからね。信頼、信頼」
「本当ですかぁ?」
 助川さんをソファに座るよう促しながら、私も所長の横に腰掛ける。
 所長はどう見ても適当に「うん、うん」とうなずいていた。覗き込んだ画面には、きらめく財宝の山ができている。こいつめ。
 その上で何度か指を滑らせた後、所長はようやくスマホを手から離した。
「どうでした、助川さん、お願いしたものは手に入りましたか?」
 直球。
 でも、助川さんはその直球をきれいに受け止めて投げ返した。
「はい、こちら、月次と年次資料、こちらが日報のコピーです。所長さんの言う通りでした」
 助川さんが、カバンから取り出した何枚かの紙を所長に差し出す。
 所長がその紙を受け取る。目線が紙の上に落ちた。私もちらりと覗かせてもらったそこには、たくさんの数字がプリントされていた。
「おー、これはしっかりやってますねえ」
 紙の上で左右に視線を動かしながら、所長が指先で顎を撫でる。唇をきゅっと引き結んだ、真剣なのに満足そうな顔だ。
「はい! 事務さんの日報のしょほうせん枚数の合計と、レセコンの受付処方箋枚数が全然違います! 薬局の中を探してみて、『別店行き』って箱も見つけました。中には処方箋がぎっしり入ってました! これ、それをスマホで撮った画像です」
「お手柄です。かんぺきですよ」
 助川さんがきらきらした笑顔でかかげて見せたスマホも手に取り、所長がへたくそなサムズアップをする。
 念のため、助川さんのデータはうちのPCにも送っていただいて保存することにした。持ってきてくれた紙も、原本以外にスキャンを保存しておく。
「で、どうします? ただ退職するんじゃなくて、このままこのてんをぶっ潰しちゃいません?」
「え?」
 所長に問いかけられて、助川さんが首をかしげた。所長は、紙をひらひらと宙で動かす。
「あなたが持ってきてくれた証拠付きでこの件を厚生局に告発すれば、九割五分、店舗の保険薬局指定が取り消されます。期間は五年くらいかな。保険請求ができず、処方箋が受けられなくなるのは、調剤薬局としては致命的ですよ」
「そ、それは」
「お勤めしてる店舗がなくなっちゃえば、事業所の廃止で簡単に会社都合退職にできると思うんですよねえ」
 所長が、表情を消して言葉を続ける。まるで、なんでもないことを言うように。
 すると、それまできらきらしていた助川さんの顔が曇っていく。
「いい人も、いるんです。あの人に逆らえないだけで確かにダメージは受けてほしいけど、店舗がなくなるとかは
 淡いピンク色のリップが塗られた助川さんの唇が、ためらいがちに動いた。
「中途の私にていねいに仕事も教えてくれた人もいたし
「でも、あなたを追い詰めた」
 静かなのに揺るぎない宣告。こんな所長の声を聴くのは、久しぶりだ。
 助川さんが大きく目を見開いた。
 私の見間違いでなければ、戸惑いとかためらいとかが、いっぱいに込められたまなしだった。
「所長、過激すぎですよ」
 助川さんの選択には口は出さないつもりだったけど、思わず私はそう所長を制していた。店舗が一つなくなれば何人もの人間が路頭に迷う。そのことまで今の助川さんに背負わせるのはこくな気がしたからだ。それでなくても、助川さんはここまでたくさん傷ついてきたのに。
「弓子さん、これはきみの問題じゃないよ」
 所長の目線が冷たく尖る。昔の所長と同じだ。でも私だって、ここまで所長としゅをくぐってきたんだ。こんなの怖くない。私は、ためらわず所長の方に体を向ける。
「助川さんはもともと、ただの退職代行のご依頼に来てたんです」
こうかいさせたいとも言っていた」
「少しの後悔、です。お店を潰したいとまでは言っていません」
 しばらく、私と所長がにらみ合う。折れたのは、ううん、折れてくれたのは、所長だった。社長の目は、もういつものぼんやりしたものに戻っていた。
「じゃあ、助川さんのご希望をうかがいましょう。どういった形がよろしいですか?」
 助川さんがソファに座ったままうつむいて、左右の指先をくるくるとからませる。
「今後は二度と不正をしないと約束をしてくれれば。あと、穏便に会社都合退職ができれば
「本当にそれだけでいいんですか?」
 所長に重ねて聞かれ、助川さんが顔を上げる。そこには、これまでとは違う余裕がある。 
「はい。あの、私、正直言ってあの人たちを恨んでました。どうしてこんな目にあうのって思ってました。でも今日、お二人と話をして、こうして証拠を自分で手に入れて、もうそれだけでいい気がしたんです」
「諦めなら、する必要はありませんよ?」
「諦めじゃありません。なんて言えばいいんでしょうあんな人たちにこだわってるの、バカらしいなって。世界は広いんですから」
 私は、人の視線が光るのを初めて見た気がした。
 それくらい、今の助川さんの視線は強い。りんとした微笑もまぶしくて、泣き出しそうだった初対面のころとはまるで別人だ。
「だから、正々堂々とすっぱり縁を切りたいんです。退職という形で、あの会社からさよならしたいんです」
 そっか、と、小さく口にして、所長がソファに背を預けた。そして、納得したように何度かうなずいた。私には理解できない範囲で、所長の中でなにかが決まったらしい。
「わかりました。ではその路線で。ついでに、退職時の給料に多少上乗せさせませんか? 助川さんのご心労を考えたら、それくらいいいでしょう」
「あ、じゃあ、所長、弁護士さんを」
 私が口を挟むと、所長がこちらをちらりと見る。
「もちろん。弓子さん、紹介状を書いて差し上げて。うちと提携してる、安くて腕のいい弁護士を紹介しますよ。俺の友人なんで信用できる男です。労使交渉にも強い」
 所長の友人というのが信用できるポイントになるかは謎だけど、助川さんは所長の言葉に、笑いながら応じてくれた。
「そうですね。それなら」
「じゃあ、そいつに、給料の半年分くらい上乗せするよう伝えときます」
「そんな! もらいすぎです!」
「欲のない方ですねえ。では、三か月分では?」
それでお願いします」
 助川さんがこくっと首を縦に振る。そして、もう一度にこっと笑ってくれた。
「友人の言う通り、ここにお仕事をお願いしてよかった。ここなら絶対に親身になってくれるって、友人が言っていたんです

◇◇◇

「あそこのシェフ、また腕を上げたね」
「ええ。ランチとは思えない味でしたね」
 昼休み。私はランチを食べるために市道沿いの洋食屋さんまで車で足を延ばしていた。所長のおごりなので、今日は私が運転手だ。
 洋食屋さんは駐車場がないので最寄りのコインパーキングまで所長と少し歩く。梅雨つゆ入り前の空はからっと晴れていて気持ちいい。
 助川さんの一件は円満に解決した。
 めずらしく、所長が、ソシャゲに手を付けずにいた日のことだった。助川さんから聞いていたわかめ薬局の本部の始業時間きっかりに、所長が電話を鳴らす。

『はい、わかめ薬局統括本部、かくでございます』
「お世話になっております。こちら、退職代行ムラサメの村雨と申します。ええと、角田さま、助川紗緒理という方はそちらにご在籍ですか?」
『少々お待ちください。助川はい、当社の社員でございますが、なにかございましたか?』
「助川さまは、当事務所に退職代行の依頼に見えました」
『退職代行? どういうことでしょう?』
「それに関して助川さまからのご伝言をうけたまわっております。人事ご担当の方をお願いできますでしょうか」
なに言ってるんですか? 退職代行とか、いたずらですか?』
「いえ、真剣に話をしております。人事の方をお願いいたします」
『はあ? こんなうさんくさい電話、つなぐわけないでしょ。本当に助川からだったら本人を出してくださいよ。いるんでしょー? 助川さーん!』
「助川さまはおりません。代わりに私共が伝言をお伝えいたします。申し訳ありませんが、社員の退職についてお話しできる方を電話に出していただけませんか?」
『私が聞きますよ』
「いえ、ご担当者さまを」
『じゃあ私が担当です。これでいいでしょ? ほら、話してくださいよ。ったく、忙しいのに』
「角田さまは人事の方ですか?」
『あーもう、面倒くさいな。違いますよ。じゃあね!』

 こうして、所長の電話はガチャ切りされた。
 さすがの所長も、なんとも言えない顔で、回線の切れた電話機を眺めていた。
 でも、そんな、ある意味自信満々なわかめ薬局の本部の態度は、助川さんから提供された証拠によって変わった。助川さんの辞意を伝えるメールに不正の証拠の画像を添付して送ったらただ無言で張り付けただけで、交渉するような言葉は添えずにしばらくして、所長あてに電話がかかってきたのだ。
 所長から聞いた話だと、本部はものすごく慌てた様子で、助川さんの要望を全部んだんだそうだ。
 つまり、円満な会社都合退職と今後の不正の禁止。プラス、助川さんの弁護士と退職金の上乗せについて協議をすること。
 先方は、ムラサメを通して助川さんと交渉したいとも頼んできたみたいだけど、私たち退職代行サービスがそんなべんこうをするわけがない。そのために弁護士さんを紹介したのだ。それになにより、助川さんがゆずる筋もない。私たちは依頼人第一の退職代行ムラサメなんだから。
 結果、助川さんの意志はがっつり通された。
 半年ほど経った今では、助川さんは新しい薬局で元気に働いている。前の勤め先に近寄りたくなくて、わざわざ家から遠い薬局を選んだそうだ。でも、その分いい同僚に恵まれて毎日が充実していると、この前、事務所にメールで連絡してくれた。
 こういう時、私は退職代行業をしていてよかったな、と思う。確かに所長はやっかいな人だけど、仕事にはやりがいがある。平凡を絵にかいたような私でも、なにかができるのだと思わせてくれる。企業規模でも安定度でも群を抜いていた前職を、結果的にやめることになったのも、私は全然後悔していない。
あれ、あの薬局」
 パーキングまでの道すがら、私の目を引いたのは、見覚えのある薬局の入り口だ。そういえば、今日、ランチをした洋食屋さんはわかめ薬局南町店の近くだった。
「あそこ、助川さんがお勤めしてたところのはずえ、閉局?」
 昼間なのに薬局の入り口にはシャッターが降りている。そこに貼ってある紙に意外な文字を見つけて、私は足を止めた。
「そうみたいだねえ」
 のんびりと言って、所長も足を止める。
 近寄って貼り紙をじっくりと見てみる。そこには「保険薬局指定の取り消しを受けたため閉局いたします」としか書いていない。必要最低限の素っ気ない貼り紙だ。
「まさか、所長
 私は横に立つ背の高い人を見上げる。ちょうど逆光になって、その顔の表情は見えない。私の背中に、ぞくりとしたものが走る。
 所長の影が、軽く首を横に振った。
「なんのことかな」
「厚生局に告発したんですか」
「どうだろうね。でも、善意の通報は市民の義務だよ」
「だけど、この薬局は、もう不正をしない約束を助川さんとしたのに」
 私がそう言うと、ハ、とため息にも苦笑にも近い音が頭上から降ってくる。
「弓子さん、先に罪を犯したのはあっちだよ」
 所長の長い指が、閉じられた薬局のシャッターを指さす。
「悪は、必ず報いを受ける」
 その声はいつもとは違い、ようしゃのない強さを持っていた。

【おわり】

※作品は2024年3月時点での法令に基づいています。