雨夜のタルト


 梅雨の真っただ中の、小雨のぱらつくある水曜日の午後。
 森のカフェ〈ベイベリー〉のキッチンで、()()は見慣れない古いノートを見つけた。
 毎週水曜は、招待された客のみがランチを食べにくる特別な貸し切りの日なのだが、今週の予約客は急な予定が入ったとかでキャンセルになった。そのため時間をもてあまし、キッチンで拭き掃除をしていたところだった。
 食器棚の引き出しの奥にしまわれていたそのノートは、中を見るとレシピ帳だった。
 万年筆で書いたと思われる、青みがかったきれいな手書き文字。ところどころに見られる丁寧な図解も印象的だ。
 ページをめくってゆくうちに『雨夜のタルト』というお菓子の名前が目にとまった。現在は提供されていないデザートだ。
 レシピのおわりには「雨の夜にしか焼かないこと」と一行だけ、謎めいた文言が添えられている。
(雨の夜にしか焼いたらだめ?)
 なぜだろう。
 レシピに目を通してみると、タルトはカフェのシンボルツリーであるベイベリーの実を使ったものだった。
「めずらしいものが出てきたな。これは祖父が祖母に贈ったレシピだよ」
 (れい)(すけ)がやってきて、懐かしそうにノートをのぞきこんだ。いまは亡き玲介の祖父は、この洋館カフェの初代店主だ。
「カフェのメニューで祖母が気に入っていたものを、祖父がこれに書き残しておいたんだ。もしカフェがなくなってしまっても、だれかに作ってもらえるようにって」
「優しいですね」
 妻思いのひとだったようだ。そういえばベイベリーの木も、祖父が当時、遠距離恋愛だった祖母を思って植えたものだと聞いている。
「どうして雨の夜にしか焼いてはいけないんですか?」
 理由を知りたい。
「なんだったかな。祖父は、雨の日ならお客が少なくて暇だからとか適当なこと言ってたな」
適当なのは遺伝なんですね」
 萌衣は笑った。玲介にも適当な一面がある。そう見せているだけかもしれないけれど。
「でも祖母のほうは、雨の日にしかわからない香りがあるからだと言ってたよ。それを楽しむためなんだって」
「雨の日にしかわからない香り?」
 どんな香りなんだろう。にわかに興味がわいた。
 萌衣は窓の外に視線を移した。空は夜もおそらく雨模様だ。
「今夜、作ってみてもいいですか?」
 雨の日にしかわからない香りというのを実際に味わってみたい。
「いいよ。うちのベイベリーも食べごろだしね」
 カフェの入口に立つべイベリーの木は、ちょうど真っ赤な実をたわわにつけている。
「いまから採ってきます」
 萌衣はレシピ帳を閉じてさっそく下準備にとりかかった。とくにお菓子作りが上手いわけでもないけれど、嫌いではない。思い切って自分で焼いてみようと思った。

 その夜。
 昼間のうちに調理師の(かおる)やうららに手伝ってもらって作ったタルト生地を取り出し、チーズアーモンドクリームを丁寧に敷きつめてからベイベリーやブルーベリーなどのベリー類をのせ、キッチンの大きなクッキングストーブで静かに焼きはじめた。
 やがて炉内でタルトがほどよく色づき、ベリーの香りが室内に漂いだした。
「いい香りがするから見に来たんだ」
 住居スペースのある二階から玲介が降りてきた。
 熱気を逃すために窓を少しあけてみると、雨粒を含んだ森の匂いが店内に流れこんできた。
 濡れた葉や土の匂い、遠くの(こけ)が静かに息づくような香り。そこにベリーの焼ける甘酸っぱい果実の香りが混ざりあって胸をくすぐられるようだった。
 静かな夜更け。客のいないテーブル席で、ふたりで焼きたてのタルトを切りわけた。
「いただきます」
 そっとひとくちを口に運んでみる。
 さくりと()めば、あたたかくやわらかな酸味と甘み、焼けた生地の香ばしさがひろがる。
「おいしい
 生地とクリームチーズの風味がひとつにとろけたあと、鼻に抜けるベイベリーの酸味の()(いん)がどこか懐かしい。
「これ、なんて言い表したらいいんだろう、甘くてちょっと酸っぱくて、でも安心するいい香り
 言葉にはできない。
「そういえば、ふたりが出会ったのはこんな雨の夜だったらしいよ。で、そのとき喫茶店で食べたのがこれだったと祖母から聞いたことがある」
 玲介がフォークでタルトを示し、思い出したように告げた。
「そうだったの?」
 つまりこれは、ふたりの出会いを記念するお菓子だったのだ。
「あ、それなら雨の夜にしか焼かないようにという注意書きは、タルトをきれいに仕上げるためのものだったかもしれませんね。晴れた日に焼くと生地が乾いてヒビが入りやすくなるけど、雨の日ならしっとり膨らんでやさしく焼きあがるでしょ」
「なるほど。ふたりの思い出のタルトが割れてしまわないように?」
「そう」
 妻のためにそれを書き残したのだ。
 ずっと仲がよかったのだろう。想いを大切にしあっていたふたりの姿が(しの)ばれる。
 祖父たちの()()めを聞いたせいか、タルトの香りが心なしか甘みを増したように感じられた。静かな雨の夜更けに、だれもいないカフェで玲介とふたりだけで食べるというのがまたいい。
「これ、また食べたいと思ったら雨の日に焼いていいですか?」
 雨の夜にしか味わえない香りの正体が、萌衣にも少しわかりはじめてきた。
「もちろん。きみが焼くなら、きっと祖父たちも喜ぶよ」
 萌衣の問いに、玲介はほほえんだ。

【おわり】