ニコラシカはこの瞬間

脳天に雷が落ちるような、衝撃的な一目惚れでなかったことは確かだ。例えるなら、ボールが階段を転がり落ちていく感じ。もう自力では元の場所に戻れない。だから今、高三で部活を引退したとき以来の全力疾走をしている。
なあ、大学に入学したころの俺。おまえは、志摩和馬は、好きな子に会いたくて走る、なんてドラマの主人公みたいな真似を、三年後にはするようになるんだ。想像もしてなかっただろ。
一体いつからこうなったのか、今の俺にもわからない。最初に転がり落ちた段差は? そうだ、あの夏だ。食堂で声をかけられた、あの一年の夏。
〈大学一年生・夏〉
向かいに座る彼女のトレイにのっているのは、シーザーサラダと何かの竜田揚げ、コンソメスープ、そしてお冷。
ダイエット、なら揚げ物は選ばないか。米なしで食べづらくないんだろうか。俺が相手の昼食のメニューを見ているのと同じように、向かいに座る彼女、秋尾茜も、俺がテーブルに置いたトレイを見ていた。
「ラーメン、私もこの前食べた。味噌じゃなくて塩だけど。食堂のけっこう美味しいよね」
糖質制限というわけでもないらしい。秋尾が胸の前できっちり手を合わせるのを見て、俺も倣って、いただきます、と口にする。
――志摩くん、ここ座る? 昼時、食堂で空いている席を見つけられずにいた俺に声をかけてくれたのは、先週のグループプレゼンをともに乗り越えた同級生だった。いっしょに昼食をとるはずだった友人に急用ができたから、確保した席が空いているのだ、と。
「秋尾、米とかいいの?」
「んー、前もこのくらいの量で十分だったから」
口ぶりからして、炭水化物を抜くのはそれほどめずらしくないのだろう。秋尾とは今学期に選択した講義がよく被っているので、わりと仲がいいほうだと思う。しかし食事をともにするのは、これがはじめてだった。
彼女の箸や器を持つ手つきは綺麗でよどみなくて、自然と目がいく。サラダを食べるのに、箸の先を一センチも使ってないんじゃないだろうか。適切な一口の量は、当たり前かもしれないが俺より格段に少ない。
なんとなく気になったことを尋ねてみようと、口を開いたときだった。第三者の声が、俺たちのテーブルに割り込んできた。
「あっ、志摩。ちょうどよかった」
テーブルを一列挟んだ向こうから、見知った顔が近づいてくる。俺と秋尾は顔を見合わせた。この大宮も、先週同じグループでプレゼンをしたうちの一人だった。
「おつかれ。どうかした?」
食べていた手を止めて見上げると、まっすぐ俺に向かってきた大宮は、顔の前に片手を立ててみせた。そして口を開く。
「よかった、連絡しようと思ってたんだ。悪いんだけどさ、明後日のご飯、行けなくなっちゃって。日ずらしてくんないかな?」
言われたことを嚙み砕くより前に、「うん?」と無防備な声が喉から漏れる。秋尾が目を瞠っているのが、視界の端に見えた。
一年生の必修講義では、好きなテーマ別で発表するための班を分ける。だから二年になったとき、全員似たようなゼミを希望する可能性が高い。そのことを踏まえて、班分けされた当初「プレゼンが終わったらみんなでご飯行こうよ」と提案したのは俺だった。これからも関わることになるかもしれないし、親睦を深めておけたらいいな、と思ったのだ。それにせっかくの縁だから、ふつうに仲よくなりたかった。
しかしいざ始まってみると、発表資料の作成は難航を極めた。グループは俺を含めて五人。秋尾は順調に、どころか余裕をもって作業を進めてくれた。もう一人の女子は講義とバイトを詰めまくっているから時間がかかるかも、と前もって謝ってくれたが、こちらも特段大きな問題はなかった。ただ、大宮含む残りの男子二人が……少々ルーズなタイプだったのだ。資料作成は予定より大幅に遅れ、結果、五分割したはずの作業の半分以上を俺と秋尾の二人がこなして、ぎりぎりで間に合わせることになった。
それでもなんとか無事に終わり、いろいろあったけど、最後はいい感じに締めくくりたい、と、俺は改めて四人を打ち上げに誘った。自然に俺が主動で店などを探すことになって、みんなのスケジュールや希望を聞いたのだが……これがまあ合わない。空いている日を教えてもらおうにも、バイトのシフトが確定しなかったり、別の用事が入ったり、中華は苦手だから替えてほしいという要望が来たり。あっちに配慮するとこっちに問題が起きて、となかなか話がまとまらず、変更に次ぐ変更の末、ようやく店と日にちが決定したのは、つい三日前のことだ。あとは店を予約しておくだけ、とほっと息をついていたのだけども。
まさか、ここまで来てこんなイレギュラーが起ころうとは。確かに行けなくなるのは仕方ない、そういうこともあるだろう。しかし、ずらしてくれ、はさすがに予想外すぎる。
「……えーっと、日にちずらすのは……。みんなの都合もあるし」
「うん、ごめんねまじで」
会話が微妙に成り立たなくて閉口する。面と向かって話しているはずなのに、俺だけ置いてきぼりを食らっている気分だ。ごめんってつまり、もう一回みんなのスケジュール確認する手間を取らせてごめん、ってことだろうか。いよいよいやな汗をかいてきた。
「あ、さっき佐藤と授業いっしょだったんだけどさ、あっちもなんか用事ができたって言ってたよ」
「……あ、あー、そっか……。まじかー……」
そう言われて、はは、となんでか笑ってしまう。というか、もう笑うしかなかった。
大宮は申し訳なさそうにしている。悪いやつではない、ということは知っていた。講義で筆記用具を忘れた友達に、貸してあげているところを見たこともある。だからこれは悪意からくるものではなくて、ただ彼の中に選択肢がないだけだ。自分だけ抜けるとか、自分が他のメンバーに連絡するとか、そういうことを単に思いつかないだけ。お願いすればしてくれるはず、と俺が思われているだけだ。
それで俺は、彼の想定通り断ることができない。悪気はないのだと知っているからこそ、冷たく突っぱねるのは難しかった。
あー、また一からやり直しか。脱力感を隠すように苦笑して、わかった、とうなずこうとした、そのときだった。
「じゃあ私が栗林さんの日程聞くから、大宮くんは佐藤くんに確認してくれる? お店は志摩くんが探してくれたとこでいいよね」
これまで黙っていた秋尾が、箸を置いてスマホを操作しはじめた。俺と大宮は揃って彼女に目を向けたが、秋尾は画面に向けた視線を一度も寄越さない。
提案された大宮は、本当にその発想がなかったらしい。ぱちぱちまばたきしている。
「厳しい?」
「あー、言ってもそんなには絡みないからさ……志摩のほうが仲いいでしょ」
これまでと一転歯切れの悪い返答に、秋尾はスマホを伏せる。そして、なんでもないことのように言った。
「んー……。じゃあやめよう、もう」
強い語気でもなかったし、冷たいどころかやわらかく凪いでいたが、だからこそ揺るがなさを感じる声色だった。秋尾は大宮ではなく俺のほうを見て、少し眉を下げる。
「ごめんね、せっかく企画してくれたのに。いい?」
その顔が本当に罪悪感を抱いているひとのそれで、そんな顔する必要はない、と、俺はついうなずいてしまった。秋尾は少し安堵したように頰の強張りを解き、大宮くんを見上げる。
「私たちでスケジュール替えられないならやめとこうよ。もうこれ以上は、志摩くんの負担なだけだし。また機会あるよ」
これはもしかして、秋尾、怒ってるんだろうか。聞きながら少し焦って、テーブルの下で拳を握った。少なくともこの数か月で、彼女が感情的になるところは見たことがない。ほぼ二人で作業することになったときも、愚痴を言うでもなく淡々とこなしていたから、落ち着いた子、という印象が強かったくらいだ。
名前に「さん」とか「くん」とか付けるのに慣れない俺に気づいて、「呼び捨てでいいよ」と唯一言ってくれた、穏やかな同級生。それが今、一切相手を咎める言葉を使わずに、俺を守ろうとしてくれている。
一貫して微笑みを絶やさない秋尾に、大宮はばつが悪くなったようだった。「じゃあ、またそのうち遊ぼっか。ほんとごめんね」と首をすくめ、去っていく。みんながその「またそのうち」がもう来ないことを察しているような、定型文をなぞっただけのお別れの台詞だった。
大宮の姿が見えなくなったころ、秋尾は座ったまま、俺に頭を下げた。
「……ごめんね、せっかくいろいろ考えて、予定とか調整してくれたのに……」
「いやいやいや」
沈んだ様子で謝罪され、俺のほうが慌ててしまう。
「いやまじで、正直……ほんっとに参ってたから、助かった」
そうだ、俺、けっこう参ってたんだ。口にして気づくと、なんだか胸がすっと軽くなる。今までそこに何かがわだかまっていたことにすら、気づいていなかった。
「ううん、私だって志摩くんに丸投げしてたのに、とやかく言う資格ないんだけど」
「そんなことないよ。秋尾はすぐに空いてる日とか教えてくれて、協力してくれたじゃん。それに俺こういう幹事みたいなことすんの、ふつうに好きだし。今回はちょっと、ダメージ食らったけど」
というかそもそも、秋尾が乗り気でなかったことを、俺は無意識に察していたのだと思う。なのに気づかないふりをして、無理しなくていいよ、と言ってあげられなかったのは俺のわがままだ。今回のプレゼンでお疲れさま、とちゃんと言い合えるのは、秋尾しかいなかったから。
「それより秋尾、元々食細いなら、ご飯行くのも……無理させてたよな?」
今日の食事の様子からして、他のメンバーとの関係以前に、小食なために参加に消極的だったのかもしれない、と気づいたところだった。聞きそびれたことをおそるおそる尋ねると、「誘ってくれてうれしかったよ」と秋尾は肯定も否定もしなかった。
「他の二人には私から言っておくね」と再度スマホを手に取るので、俺から連絡するから、と止めようとしたが、「言い出したの私だから。そこまで志摩くんが責任負うことじゃないよ」とスマートに断られてしまう。
秋尾はあっさりグループトークにメッセージを送った。その内容が大宮たちの欠席を理由にするようなものではなくて、そんなところもなんだか、彼女らしかった。いや、まだそんなに深く、そのひととなりを知っているわけではないけれど。
空気に少しぎこちなさを残したまま、食事を再開する。さっきよりやわくなった麵を咀嚼していると、向かいの秋尾が耳に髪をかけながら笑った。
「プレゼン、頑張ったね。私たち」
つい今しがたスマホを操作していた指先が、すっきりと綺麗だった。爪は自然な長さで、ベージュのポリッシュが塗られている。
箸を手に取ったまま、深くうなずいた。
「うん、頑張ったよな」
「ね」
同じくうなずいてくれる秋尾に、なんだか気恥ずかしくなって、薄い叉焼を口に放り込む。
「見つけた店さ。学生も気軽に行けるビストロなんだけど、ビュッフェのコースあったよ。いつか……またなんか機会あったら、行こうよ」
ふつうに誘いたかったのに、なんかこれナンパみたいじゃないか? と不安に襲われて、「インスタで、誕生日のサプライズとかの写真上がってたんだけど。ケーキも美味そうだった」と早口で続ける。
秋尾は水の入ったグラスを手に、「いいね」と笑った。それは誘ってもいい、ということだろうか。そうだったらいいな。他愛ない、口約束にも満たないようなその「いつか」が来ればいいなと、ラーメンのスープを啜りながら思った。
〈大学二年生・春〉
「マスターのお酒は美味しいから。ぜひぜひ飲んでほしいんだよ。奢るから」
「申し訳ございません、先ほどもお伝えした通り、未成年ですので……」
薄暗い店内でもわかるくらい赤くなっている頰を見る限り、かなり酔いが回っていそうだ。サラリーマン風の常連客は満面の笑みで俺に一杯を勧めてくれるが、あいにく俺は法を遵守するタイプの人間である。
やっぱり、酒を飲めないのにバーで働くのは厳しいものがある。頭の中でサークルの先輩に文句を言うと、脳内の先輩は両手を合わせて肩をすくめた。
先輩からバーでバイトしてくれないかと頼まれたのは、一か月前のことだ。就活でバイトを辞めるため、ずっと後任を探していたらしい。現在ぎりぎりの人数で回しているから、一人抜けるだけでもシフトがきついのだ、と。そこで勝手に白羽の矢を立てられたのが、コンビニ夜勤辞めたんすよね、と漏らした俺だった。
「まだ誕生日来てないから酒飲めないですよ」と主張したものの、「飲めなくても働くのはできるって」と先輩も譲らなかった。「それにかしこまったとこでもないよ、ダイニングバーだから。おしゃれな居酒屋で接客やる感じ! 給料もわりといいし、俺のシフトはそんなに夜遅くまでじゃないし」と断る理由を潰していくように勢いよく説得され、俺は結局先輩の後釜に収まることになった。我ながら押しに弱い。
だがいかに強引な勧誘に強く出られなくとも、譲れない一線はある。
「みんなこっそり飲んでるもんだよ」
なおも言い募る客の相手をしつつ、ちらりとカウンターのほうに目をすべらせる。だめだ、マスターも別のひとと話してる。
「本当に飲めないので……」
諦めてくれ、という念を込めて固辞しながら、このじりじりと追い詰められていく感覚に、一年の夏を思い出していた。こういうとき、秋尾ならもっときっぱり断るんだろうか。さすがにお客さんには言わないかな。
思い出すだけで真似はできない俺に、客は焦れたように一度唇を引き結んだ。眉を下げて笑う。
「真面目だなあ」
俺は苦笑だけを返した。うまい言葉が見つからなかった。
嘲笑というより、哀れみなのかもしれない。窮屈な部屋にいるひとを、窓の外からのぞく感じ。その部屋の役割や、勝手に外に出ないことの意味を、考えない人間の声音だった。
でも俺は、窓を壊したり床下を掘ったりすることなく、ちゃんと鍵を開けて扉から出たいんだ。そう伝えたいのに、俺の口は笑みを保ったまま動いてくれない。
こういうひとたちになんて言うだろう、秋尾なら。
「仲村さん、飲ませたほうが捕まっちゃうんですよ?」
俺と常連客は、同時にそちらを見た。間に入ってくれたのは、同じくバイトの絵未里さんだった。
歳は俺より一つ上、と聞いている。切りそろえた前髪には三か所、濃い青のメッシュが入っていた。小柄で色白なのも相まって、第一印象は着せ替え人形みたいなひと、だった。でも喋ると妙に迫力がある、ちょっと不思議な女性。
「新人の子なんです、やめてあげてください」
ちらりと俺を目だけで見た彼女の言葉に、常連客こと仲村さんはそこでようやく、俺が本当に困っていることに気づいたようだった。
「そっか。残念だなあ……。ごめんねぇ、きみ」と謝られて、恐縮して首を横に振る。通じるんだ、と少し驚いた。言っても聞かないひとかと思ったら、ちゃんと伝わりさえすれば、わかってくれるタイプだったらしい。
キッチンに入るタイミングでお礼を言うと、彼女は「いいえ?」とにやりと笑った。エミリさんは、よくこういう笑い方をする。自然とそうなってしまうのか、何か含みがあるからこその笑い方なのか。未だに摑めていないし、摑める気もしなかった。
「さっきはすぐ助けに行けなくてごめんねぇ、和馬くん」
五十手前のマスターは、かなり気さくで明るい性格のひとだ。働く前は、バーのマスターというとてっきり寡黙で職人気質というか、渋い紳士を想像していたのだが。実際に会った彼はよく笑いよく喋る、自然と周囲にひとを集めるような華のあるひとだった。もちろん、紳士でもある。
「和馬くん、最後までいるのはじめてだよね? せっかくだから一杯作らせてよ。あ、モクテルにするからね。ジンジャーエール好き?」
ほぼ息継ぎなしに喋りながら、マスターはすでにてきぱきとグラスを用意しはじめていた。少々面食らったものの、お言葉に甘えてありがたく一杯いただくことにする。今日のシフトはマスターとエミリさんと俺、そして調理担当のひとだけだが、彼は用事があるとかで早々に帰ってしまっていた。
「シャーリー・テンプルにするね」
マスターの声は明るいが、掠れて深みがある。彼の口から出るカクテルの名称は、魔法使いが唱える呪文のような響きを帯びていた。
ロンググラスに氷を入れ、逐一使うものを説明しながら、マスターは直接グラスにカクテルを作ってくれた。
グレナデンシロップとレモンジュースを少し入れてからしばらくかき混ぜ――これをステアというそうだ――、溶けた分の氷を足す。それから注いだのは、マスターおすすめだというクラフトジンジャーエールだ。また何回かステアして、混ぜたことで炭酸が抜けたため、さらにジンジャーエールを追加する。
最後にスライスしたレモンを飾ってくれたそれは、薄い赤色のノンアルコールカクテルだった。
召し上がれ、と差し出されたグラスを手に取ると、しっかり冷えている。一口、そっと咥内に流し込んだ。
モクテルは、お酒の味を模したノンアルコールカクテルのこと、らしい。マスターの手によって作られたそれは、今まで飲んできたジュースやソフトドリンクのどれともちがった。炭酸が利いていて爽やかなのに、舌触りはとても繊細で、風味が口の中にふわっと満ちる。味も香りも舌に触れる感じも、すべてがこれを飲むことに集中したい、と思わせるものだった。
「お酒飲めないとか飲みたくないってときにバー連れていかれたら、これとかシンデレラとか頼むといいよ。アルコールだめなんだなーってこっちに伝わるから。シャーリー・テンプルは、店によっちゃアルコール入りなとこもあるから注意だけど」
俺が感想を言う前に、表情でもうわかってしまったらしい。マスターはうれしそうに頰をゆるめながら、「エミリちゃんはいつものね」と二杯目を作りはじめた。
ミキシンググラスを氷で満たし、ドライ・ジンとドライ・ベルモットを注ぐ。そこへあるべき場所に収めるように、するりとバースプーンが差し入れられた。指に支えられた華奢なスプーンが、軽やかに回りはじめる。
くるくる、グラスの中で氷が回る。アルコールに濡れてつやめく氷は、メリーゴーランドのように規則正しくなめらかに、グラスの中をすべりつづけた。詰まった氷の山は崩れたりせず、たまに小さくしゃりん、と氷とグラスが触れ合う音が聞こえるだけで、店の照明を吸い込み、反射させながらとても静かに回転をつづける。
やがて、カクテルグラスにとろとろと中身が注がれた。カクテルピンを刺したオリーブが、最後に一切の音を立てずグラスに置かれる。
「どうぞ、ドライマティーニです」
エミリさんはあのにやりとした笑い方ではなく、小さな子どものように目を輝かせてグラスの脚を摘まんだ。
そんなエミリさんに目元を和ませたマスターは、今しがた使ったジンの瓶を顔の横まで持ち上げてみせた。
「和馬くんも飲めそうだったら、いつかお酒作らせてね。お友達も連れておいでよ、サービスするから。今の若い子たち、バーは怖いってあんまり来ないでしょ?」
否定できずううん、と唸る俺に、「ほらー」とマスターは大袈裟に肩を落とす。
「うちはオーセンティックバーじゃないから、ラフな格好もウェルカムだし。お酒詳しくないなら遠慮せず聞いてほしい。言ってくれればそれに合わせておもてなしするのが、こっちの仕事なんだからさあ」
唇を尖らせつつブランデーグラスを取り出したマスターに、「今日けっこうお客さんと飲んでませんでした? また奥さんに怒られるんじゃない?」とエミリさんが釘を刺す。マスターは額と顎にぎゅうと皺を作り、グラスをしまった。しかしすぐに、あっと妙案を思いついたような顔をする。
「せっかくだから、ちょっと変わり種のカクテル見せてあげる。ちょうどレモンもあるし」
「飲むんだ」
「ちょっとだけね、うん」
マスターはささっと、今度はリキュールグラスを取り出した。背後の棚からブランデーのボトルを手に取る。
「これはそんなに香りを楽しむカクテルじゃないから、安いブランデーでもいいんだけどね。今日はちょっと贅沢、愛しのヘネシーVSOP、プリヴィレッジちゃん」
一度俺たちにずいっとラベルを見せてから、メジャーカップでグラスにブランデーを注ぐ。そしてナイフを軽やかに操り、レモンをさっきよりも厚めの輪切りにした。刃の根本で種を取り除いたそのレモンを、まるで蓋をするようにブランデーを入れたグラスの上に置く。
何これ、絞って入れるってこと? と怪訝な顔をしてしまう俺の前で、マスターは鼻歌を歌いながら、そのレモンの上に匙ですくったグラニュー糖をさらさらとかけた。
「日本じゃ上白糖使うひとのが多いかな。でもボクはさっぱりした甘みが好きだから、グラニュー糖派。上白糖のほうがね、見栄えはいいんだけどね。形作りやすいから。うまくやれば帽子みたいになって可愛いんだよ」
はあ、とうなずきつつ、これであとどうするんだろう、とマスターの手元を注視していたのだが、マスターは笑顔のまま、紹介するように開いた両手でグラスを強調した。
「はい、これで完成。未完成で完成のカクテル、ニコラシカでーす」
俺は反応のお手本を確認しようとかたわらのエミリさんを盗み見たが、彼女は無言でカクテルピンに刺さったオリーブをかじっていた。
「どう飲むんですか? これ」
「これはね、飲むときに口の中で完成させるカクテルなんだよ」
そう言うやいなや、マスターはグラスの蓋にしたレモンを手に取ると、グラニュー糖を挟むようにレモンを折りたたみ、自身の口の中へ押し込んだ。そのまましばらく咀嚼したのち、おもむろにグラスを手に取ったと思ったら、中のブランデーを一気に飲み干す。
「……くーっ、最高」
おそらく咀嚼したレモンの皮も飲み込んでから、マスターはたまらない、というふうに目を瞑った。
「これもカクテルなんですね、分類的には」
「そうだよ。シェイカーでシャカシャカするだけじゃないんだよ、カクテルって」
「これ、ほぼストレートでしょ。度数えぐくない?」
マティーニを飲み終わったエミリさんが、摘まんだカクテルピンの先でボトルを指す。
「うん、だからまあ、ニコラシカは覚悟を決めて飲むお酒というか。覚悟決めたいときの一杯だね」
「なんの覚悟決めたの?」
マスターはふっと切なく微笑んだ。
「奥さんにね……レミーマルタンの記念ボトル買ったのをね……まだ話してなくてね……」
エミリさんが無言で合掌した。俺は会ったことないけど、マスターの奥さんはあの、あれだ……しっかり者なのかもしれない。
エミリさんが住むアパートの付近まで、送るのを申し出たのは俺からだった。今日は助けてもらったし、何よりもう深夜だから。
「エミリさんって、いつからあそこで働いてるんですか?」
バイトを複数掛け持ちしているというエミリさんは、俺の問いに少し考えるそぶりを見せた。俺が彼女について知っていることは、今二十一歳であることと、美大を目指し、現在浪人していることくらいだった。
「大学辞めてからだから、今二年目? か」
「え、一回大学入ったんですか」
「うん、経済学部。でも、私がしたいことってこれじゃないなーって気づいて辞めた。気づくの遅いってんだよな」
スプリングコートの前を閉めながら、エミリさんは唇に自嘲の笑みを刷く。
「俺の高校の友達も、美術予備校行ってました。二年三年浪人する覚悟だって」
「ありふれてるからね、美大浪人。私は次受からなかったら、大人しく就活するけど」
エミリさんが大股で歩くたび、細そうな髪がその横顔を見せては隠した。夜の町明かりが、ゆるやかに視界を流れていく。
鬱陶しそうに髪を耳にかけた指は、深爪になっている。油絵を描くから、絵の具が爪の隙間に残ったりしないよう気をつけているのだと、以前聞いた。
信号の手前で、「ここまででいいよ」とエミリさんはひらひら手を振った。「今日はありがとうございました」と大きめの声で改めて伝えた礼に、彼女は横顔が見える程度にふり向いて、にやりと笑った。
踵を返し、来た道を少しだけ戻る。春先の肌寒い風に目を閉じる。
彼女はどんな絵を描くのだろう。尋ねても、きっと写真一枚見せてはくれない、そんな気がした。たぶん一生、目にすることはないのだろう。
瞼を開く。きっと意地でも諦めたくないものを持っていることも、時が来たらその瞬間断ち切る準備をしていることも、なんだか眩しかった。俺にはできるだろうか。意地でも諦めたくないものなんて見つけられないまま、手ぶらで深夜の春を歩く。
〈大学二年生・秋〉
ゼミの新歓がおこなわれたのは、夏休みが明けてすぐだった。一年のとき近いゼミになるだろうと踏んでいた四人のうち、男子二人はまったく別の分野へ行き、一人は近くはないが繫がりのあるところを選んで、もう一人は隣のゼミになった。
その隣り合うゼミに所属した秋尾は、目の前のテーブルで院生のひとりと話している。三つのゼミが合同で開催してくれた飲み会は、現在二次会も終盤、複数のテーブルをみんなが行き来していた。
「何飲んでんの」
院生の先輩が離れたタイミングで、テーブルを移動して秋尾の隣に座る。友達の多くはだいぶ酔いが回ってきていて、つまらない思いをしていたところだった。
秋尾が赤ワインを飲んでいるのは見ればわかったが、会話のとっかかりとして聞いてみる。
「なんか先輩おすすめの、名前が長いやつ」
「ワイン好きなん?」
「ふつうかな」と言いつつ、グラスの脚を持つ指先は様になっていた。誕生日が早いんだろうか、すでに飲みなれているのかもしれない。成人する前から飲んでいたのかも、とは思わない。秋尾も俺といっしょで、きっと二十歳になるまでアルコールを摂取しないタイプだ。聞いてはいないが、確信がある。
秋尾とは取っている講義が被ることが多く、関わりは細く長く続いていた。ただいっしょに昼食をとったのは、あの夏の一回きりだった。
「友達?」
近いゼミでよかった、と言おうとするより先に、どこからかグラスを片手に女子がやって来た。そのまま腰を下ろした彼女と俺で、秋尾を挟む形になる。
秋尾は「一年のときプレゼンがいっしょだったの」とその子に俺を紹介したあと、俺にも同じように紹介をしてくれた。秋尾と同じゼミで、三井結衣というそうだ。
「あたしも三井でいーよ」と笑って以降、三井は話を広げるでもなくそのまま飲み続けた。やさしいんだろう。秋尾が俺に絡まれているんじゃないかと、心配して牽制に来たのだ。
「結衣ちゃん酔ってる」
「酔ってない。でもふわふわーっと気持ちよくてちょっと眠たい」
秋尾は肩をすくめた。三井が持つビールグラスの底を手で支えつつ、少し身を逸らして近くを通った店員を呼び止める。「お冷みっつお願いします」と指を三本立てた。
「……あ、もしかして志摩くん素面?」
「うん、俺まだ十九」
なので、もらったお冷を同じゼミで酔っているやつに飲ませてもいいか聞いてみる。秋尾は三井にグラスをわたしながら、「面倒見いいね」と小さく笑った。そっくりそのまま返す。
元いた席に戻り、プラモのバリ取りの話を語りつづける友達に水を飲ませていると、幹事の先輩が「そろそろ出るよー」と声を張り上げた。秋尾、三次会、行くかな。そちらをうかがえば、秋尾は散らかった皿を、てきぱきとテーブルの端に寄せていた。肩に寄りかかっている友達に話しかけながら、自身も水を飲んでいる。結露に濡れたグラスにおしぼりを当てる薄い手に、目がいった。グラスの中で氷が揺れる。
なし崩しに始めたバーでのバイトは、いろいろあって今も継続している。働く中で知ったのは、バースプーンでグラスの中身を混ぜるステアは、単純なようで難しい、ということだった。同じスピードを保って均一に中身を混ぜられるようになるまで、長い時間を費やしたとマスターは言っていた。一生修業中、とも。
秋尾の一つ一つの所作に、それと似たものを覚える。一朝一夕では身につかない、マナーと表現すると硬すぎる生活の仕種が、ひどく洗練されて見えた。育ちがいいというか、きっちり教育されて、ずっと実践してきたことがわかる動きだった。
カクテルを研究しつづけるマスターとか、美大を目指すエミリさんとか。こつこつと、一つのことを一途に続けているひとの雰囲気に近い。そういうひとたちだけが持つ、一種の清潔感のような空気がある。他者にプレッシャーをかけない美しさ、みたいなものを、彼らは香りのように身にまとっている。
そういうひとを見ると少し後ろめたくなりつつも、近づいてみたくなるのは、俺が持たない側だからだろうか。
ぼんやりして、見つめすぎていたらしい。目が合って、「ごめん、じろじろ見て」と笑って誤魔化す。
「育ちがよさそうだなーと。真似しなきゃって思って」
秋尾はテーブルの水滴を拭いながら、曖昧に笑って「ふつうだよ」と首を振った。
「たぶん志摩くんが思うほど、たいそうなことじゃないよ。志摩くんのほうがこのひと育ちよさそうだなーって、私よく思うもん」
「……ええ?」
本気で理解できなくて(もちろん親にきちんと育ててもらったとは思っているが)、理由を聞きたかったけれど、みんなが店を出るために移動を始めたせいでできなかった。俺は慌てて町田の頭をぱしぱし叩き、立ち上がらせる。薄手のカーディガンを羽織りながら秋尾が笑った。
「そういう、やさしいところとか」
……やさしいか、今の。上手く返せない俺を置いて、秋尾は座敷を出てしまう。結局三次会には行かず帰ってしまったようで、詳しいことを聞きそびれた。もっと早く声をかけたらよかったと、後悔はその夜以降もしばし続いた。
〈大学三年生・秋〉
「その文献なら改訂版出てるから、そっち使ったほうがいいよ」
「そういうのどーやって知るんですか? ゼミ生に代々受け継がれてるんですか?」
「先生が最初に配ったレジュメ、もしかして読んでない?」
共同研究室に入ると、二年生たちが秋尾に発表資料の作成を手伝ってもらっていた。衝撃走る! みたいな顔で慌ててファイルを探しはじめる二年の大橋に、呆れたように笑う他の二年たち。「おつかれー」と声をかければ、口々に挨拶を返してくれた。秋尾も俺を見上げ、「おつかれ」と口元だけで笑った。
ゼミが同じ、もしくは近い三年生の間では、秋尾と言えば優秀な学生、とすでに周知されている。二年生間でも知れわたっているのかもしれない。自然に講義は被るようになるし、そのときの発表や教授への受け答えなんかで、そのひとの教養もだいたい読めてくるものだ。
秋尾は資料作りが丁寧で、レポートなんかもいつも期日よりかなり早く仕上げていた。「あんまり放置できないっていうか、癖みたいになってるだけ。心に余裕がないのかも」と本人は冗談めかして笑うけれど、寛容さを持たない人間は、こうして後輩たちの資料作成を手伝ったりはしないだろう。
結局俺も二年生の資料作りに参加することになり、みんながバイトだ講義だとはける夕方ごろには、研究室には俺と秋尾だけになった。
秋尾はごみ捨てをするために共研に来て、そこで二年生に助けを求められたらしい。ごみを捨てる当番は各ゼミの持ち回りだが、来ているのは秋尾一人のようだった。手伝うよ、と声をかけたら遠慮されたけれど、無理やりごみ袋を一つかっさらった。
「ここ突っ切ったらごみ捨て場まで近道」と、昨年発見したルートを通る。どこからか風にのって流れてくる音楽は、おそらくブラスバンドサークルのものだ。隣を歩く秋尾の横顔をちらりと見やる。微かに、数小節だけハミングしていたのが聞こえた。
「この曲好き?」
「好きってわけじゃないけど、流行ったよね」
遠くから聞こえるのは、昨年バズった恋愛映画の主題歌だ。やけに真剣な顔をしているから、映画を観たのかと思ったが。反応を見るにちがうらしい。
……秋尾に恋人がいる、みたいな話は聞いたことがないが、本人がそういうことを話すタイプでもない。もしかしたら大人びた彼氏とかいるのかも、と想像しかけたところで、俺の脳内の安全装置がすぐに妄想を中断した。
パートナーがいることを想定したくない、という時点で、けっこうぎりぎりだ。あともう一歩踏み出したら、戻れなくなるラインにいる。でも逆に言えば、まだ〝そこまで〟じゃない。
秋尾のことはもちろん好ましいと思うけれど、これが恋愛的な好意かと言われると、そこはどうも断言できなかった。ひととしての尊敬や憧れから、彼女を理想の人間像に当てはめて、一種の偶像化をしてしまっているんじゃないか。そんな自分への疑いが拭えないのだ。
それに仮に、好きになったとして。隣同士のゼミで恋愛ができるだろうか。別れでもしたら、卒業までずっと気まずい……。
「どうかした?」
「いやなんか、寝不足で目疲れて」
目頭を揉んだら心配されて、申し訳なくなる。つき合いもしないうちから別れたらとか考えたり、そもそも恋愛できるかとかこっちが選ぶ立場で考えたり。失礼だろう、こんなの。今心を読まれたら死ねる。
秋尾は首をかしげながら「無理はしないでね、一人で行けるから」と続けた。思わず眉間に皺が寄る。
「……秋尾、ごみ捨て押しつけられてない? 大丈夫?」
「あ、今日結衣ちゃんも来てくれる予定だったのが、法事で無理になっちゃったんだよ」
来てくれる予定だった、ということは、やはり秋尾のほうからごみ捨てのことを言い出したのだろう。気づいたひとがする、というシステムは、えてして負担が偏る。
手に提げたごみ袋に、踏み出した足の爪先が当たってしまった。がしゃ、と大きな音を立てて、中のごみの位置が変わる。
「真面目だよな」
言ってから、かつてバーで自分に告げられた一言が耳の奥でリフレインした。もっと柔軟にならないと、と揶揄するような声音を思い出して、俺は「あ、真面目って、あれだよ、別に皮肉ったとかじゃないから」とださい言い訳をした。本当に、そんな意味で言ったわけじゃない――けれど、わざわざ貧乏くじを引きつづける彼女に、もっと頼ってくれたらいいのに、と、変に拗ねた感想を抱いたことも否めなかった。
空いた手を振ってなんとか取り繕おうとする俺に、わずかに目を瞠っていた秋尾は、すぐおかしそうに笑った。
「わかるよ、それくらい」
オレンジ色の夕焼けが、彼女の頰や鼻の影を濃くして、代わりに瞳に光を集めた。俺たちが歩くたびにごみ袋は雑然とした音を立てて、聞こえてくるさっきとは別の曲に混ざる。
「言わないでしょ、そんな嫌味とか。だって志摩くん、真面目だもん」
秋尾は苦笑して、さっきより少しだけ大きくごみ袋を振った。
「ていうかさ、さっきの映画の曲、タイトルなんだっけ、わかる?」
「……え、もしかしてずっと考えてたん?」
「考えてた……。調べればいいことなんだけど、なんか負けた気がして……」
本当にずっと悶々としていたらしい秋尾が首をひねる斜め後ろで、「なんだっけね……」と考えるふりをする。口ではそう言いながら、頭の中は取っ散らかっていて、とても曲名なんて思い出せたものじゃなかった。思い出すのに集中して、ふり向かないでくれ。それだけを願った。俺、今きっと変な顔してる。
〈大学四年生・春〉
いけたんじゃないか。いけた気がする。だって、「あなたと働けるのが楽しみです」とまで言ってもらえたんだぞ。勝ち確だろ、これ。
空港から出発したバスの中、膝に置いたバックパックを抱きしめる。
就活というおぞましい地獄からこの前やっと這い上がってきた俺は、しかし何を血迷ったのか、再びその地獄へ身を投じることにした。最初に志望したところから内定をもらって、よし一段落、と息をついたあと、本当にこれでいいのか不安になって。
興味はあるけれど、そんなに大きな会社でもないし、収入の問題もあるし。そう悩んだ末に一度候補から除外したはずの会社の存在が、日が経つにつれ頭の中で大きくなっていたのだ。結果、このままでいるよりはと覚悟を決めた。未練を持ちつづけるより、当たって砕けておこうと。
なのになんだかうまくいっちゃった気がするし、しかも社風も面接官の印象もよかったし。会社から出るころには完全に、俺の心は傾いていた。
――真面目です。面接で自分が口にした三文字が、今さらこっぱずかしくなってくる。
あなたの長所を教えてください、という、バリエーションはあれど基本的にどこの企業でも聞かれる問いに、俺は当然答えを用意していた。耳触りがよく、なおかつ薄っぺらくはならないように、しっかり練った回答を準備できていたのだ。なのに面接時の俺は、一体何を思ったのか。変なアドレナリンが出ていたにちがいない。
昨年俺を真面目と評してくれた同級生が、就活が解禁されてすぐに内定を取った――という話は、ゼミ周辺にほぼ筒抜けだった。たぶん教授の世間話あたりから漏れたのだろう。数日前に会ったとき本人にも直接聞いてみたが、やはり噂は事実で、隠すことなくふつうに教えてくれた。
会社どの辺なの、と聞けば、本社があるのは縁もゆかりもない県だった。今内定をもらっている会社も今日受けたところも、遠くはないが隣り合うほどでもない、といった距離感のところだ。
……絶妙なラインなのだ、ずっと。同じ講義で班になったとか、ゼミが隣同士とか。もっと近ければ勇気が出せたかも、離れていたら諦めたかも、という距離感が、出会ってからおよそ三年、ずっと保たれている。
バスを降り電車を乗り継いで、やっと住んでいる町の近くまで来る。だが俺は住んでいるアパートに直帰せず、昨年末まで働いていたバーに足を向けた。
「あっ和馬くん! よかった、来てくれてうれしいよ」
マスターは俺の姿を一目見るなり、「黒髪も似合うねえ」とほがらかに笑った。
「お誘いありがとうございます……来ちゃいました」
一週間ほど前、カクテルの試飲会をするからよければ顔を出して、と声をかけてもらったのだ。その日はちょうど面接だから断ろうとしたのだが、疲れてなかったら飲みにおいで、と言ってもらえたので、ありがたく甘えることにした。それに面接が終わったとたん、ちょっと飲みたい気分になったし。
集まった常連さんたちに、久しぶり、と声をかけてもらう。仲村さんもその中にいて、美味しかったカクテルをおすすめしてくれた。
アルコールで盛り上がっているひとたちの中、バーカウンターに腰かけて静かに飲んでいるひとが一人、浮いている。俺が彼女に気づいたように、彼女もすぐ俺に気づいた。
「スーツ、キマってるじゃん」
俺の全身を眺めたエミリさんはにやりと笑って、カクテルグラスを傾けた。
俺よりおよそ一年早くここでのバイトを辞めたエミリさんは、現在は美大の油画科に通っている。
「今日講評が終わったから、美味しいお酒飲めるんだ」
エミリさんは画材の費用調達に苦戦しているらしく、結局バイト三昧だと笑った。マスター新作の、ギムレットをアレンジしたカクテルを飲みつつ、互いの近況なんかを話す。
そのうち、常連さんの一人がエミリさんに話しかけたタイミングでスマホを確認すると、いくつか通知が来ていた。町田からだ。
『五人で飲み会してる』『来られそうなら参加されたし』『二次会は生ハム目の前で切ってくれるとこの予定』――メッセージのあとに一枚、写真も送られている。
町田には今日面接に行くこと、夜には帰ることを伝えていたから、もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。俺の手応えがよくても悪くてもいいように。
インカメで撮ったのだろう写真には、五人の同級生が写っている。手前に町田、町田の向かいに三井。そして三井の隣にいたのは、秋尾だった。めずらしい。俺たちの学年どころか、ゼミ生みんなの中でも飲み会参加率の低さは五指に入る、あの秋尾が。
送られてきた店のURLを開いてみる。ここからそんなには遠くない。けど、今から向かったところで、という話だ。
「誰かから連絡?」
気づけば、すぐ背後にエミリさんが戻っていた。後ろめたいことは何もないのに、ついスマホを伏せてしまう。俺のとっさの行動に、エミリさんはにやりと笑って「彼女だ」と言った。
「いませんて」
「そ? まあ来年就職ってなったら、たいがい遠距離になっちゃうもんね。きついか」
カウンターの中で、マスターが新たにカクテルを作りはじめていた。一種の舞踏のように振られるシェイカーの音が、薄暗い店内で鮮やかだ。
「……遠距離恋愛って、やっぱきついと思います?」
俺の問いに、エミリさんはカクテルグラスの縁から、ぱ、と唇を離した。
「まず続かないね。諦めたほうがいい。お互い真面目なら、ミリ希望があるかなって感じ」
「ミリかー」
ですよね、という感想しか湧いてこない。へらへら笑いながら、町田に『むりそう』と片手で返信を送った。なお、面接は手応えがあった旨も一応伝えておく。
「遠恋すんの」
「いやあ」
つき合えてすらないです、という事実を口にするのも億劫だし、これ以上深掘りされるのも遠慮したかったから、笑って誤魔化した。流し込んだカクテルはきりりと辛く、喉が焼けるようだった。
一時間ほどお酒を交えてマスターたちと談笑したが、エミリさんがもう出るというので俺もお暇することにした。マスターは「いつでも飲みにおいで」と、常に清潔に保たれているバーテンダーの手を、やさしく振ってくれた。
すでに夜の十時を回っている。バーはこれからという時刻だが、女性を一人で歩かせるにはよくない時間帯だ。
「駅まで送りますよ」
さくさく歩き出すエミリさんを追いかけると、彼女はサルエルパンツのポケットに手を突っ込んだままふり返った。前髪のメッシュがなくなった代わりに、緑のインナーカラーが入った髪が揺れた。
「紹興酒が美味い中華で、もう少し飲もうと思ってるんだけど。いっしょに来る?」
彼女はいつもの、あの笑みを浮かべていなかった。
バイトに入ったばかりのとき、俺を庇ってくれたひと。もし秋尾と出会うより先に彼女と知り合っていたら、俺はこのひとを好きになっただろうか。あの日食堂で助けてくれたのが秋尾ではなくて別の女の子だったら、その子のことを想うようになっていたのか。
「いかないです、すみません」
俺はエミリさんを尊敬していたから、はっきりと断った。エミリさんはほんのりと苦笑した。今までいっしょにバイトをしていたときは、知らなかった表情だった。
「俺、就活やり直したんですよ。エミリさん、大学の話、してくれたでしょ。それで踏み切れました。ありがとうございました」
バーで会ったとき、真っ先に言おうとしたのにその機会を逸していた。他のひとの前で言って、邪推されたり茶化されたりしたくなかったから。
しっかりと頭を下げる。顔を上げると、エミリさんはにやりといつもの笑い方をした。
「それじゃ、これからだ、お互い。楽しみだね」
はい、とうなずく。エミリさんはゆらゆらと手を振り、けだるげな空気をまとったまま、夜の町を歩いていった。
夜が似合うひとの背中を見送る。梅雨が近づく季節の、湿った空気のにおいを急に感じ取る。
先に会っていたら、ちがうひとだったら。たらればに対して、何ひとつ確度が高い未来を想像することはできなかった。ただわかっているのは、このままでは俺は秋尾茜というひとに、ちゃんとお別れを告げられない、という事実だけだった。
アルコールが全身をめぐる速度が、急に速まった気がした。耳や首筋がじわじわと熱を持つ。
踵を返し、大股で歩き出す。通りにタクシーが来る気配はまったくなくて、早足はどんどん自制を失って、とうとう俺は走り出した。
高三の夏、テニス部を引退して以来だ、こんなに走るの。一昨年流行った恋愛映画でも、こんなベタなシーンはなかったっていうのに。
間に合わないだろ、もう店を移動したに決まってる。それにいざ会ったとして、俺はどうしたいんだ。この期に及んで脳の奥でためらっている。このまま会えたとして、そこで告白でもするのか? 自分に聞いてみても、ただでさえ速く動いている心臓が、今度は動きを止めそうになるだけだ。
口の中が異様に渇く。革靴で蹴るアスファルトが硬く、歯を食いしばった。喉の奥がかっと焼けた心地がして、いつかの日にマスターが呷ったカクテルが脳裏をよぎる。
会って、それで――それで?
ぎゅっと一度瞼を閉じる。そして開いた視界を、夜がすごいスピードで流れていく。拳を握りしめた。
ああ、今、この瞬間だ。あのニコラシカが、ほしい。
次の角を曲がった先のはず――左折のためにスピードをゆるめた俺は、折れ曲がったあとそのまま減速して立ち止まった。自分の息がはあはあうるさいし、肺が一回り縮んだように苦しい。シャツの袖で額を拭う。
向かいの歩道を歩く、見知った影は四人。二次会のために移動中なのだろう町田たちの中に、やはり秋尾の姿は見つけられなかった。彼らの進行方向とは逆、さっきまで飲んでいたはずの居酒屋へと視線をすべらせるが、店の前にもその周囲にも、目視できる範囲で会いたかったひとの影はない。
急にふくらはぎが攣りそうになって、長く深いため息をなびかせるように、その場にしゃがみ込む。やっぱ、間に合わないんじゃん。
自嘲しつつ、ひっそり安堵していた。だってなんか、これで会えたら、告白以前にきっともう満足してしまっていた。何せ、ここまで来て未だに覚悟ができていないのだから。
整ってきた息の合間に、ふっと笑う。目元を手で覆う。なんだ。全然、好きだ。
「あ? 志摩ー?」
歩道にしゃがみ込んで息を整えていると、町田に気づかれたようだった。立ち上がれば、ガードレールからこちらに身を乗り出している姿が見える。
「なんだおまえ、どした? やっぱ面接死んだか? 元気出せよ奢ったるよ」
「……面接は問題ない、けど奢って! 俺も二次会行きたい」
道を横断すると、気のいい同級生たちは最初心配してくれて、次いで当たり前に歓迎してくれた。町田は奢ってはくれないらしい。
「え、走ってきたん?」
合流し、四人のいちばん後ろについた俺を三井がふり返ってくる。うなずくと、三井はすべったお笑い芸人を見たような顔になった。
「好きな子に会いたくてとか、アオハルかい」
「……え? わかる?」
思わず口元に手をやって焦ると、鼻で笑われる。
「わりと新歓のときからモロだったよ」
「まじ? え、ばれてる?」
「いやあたしくらいじゃない? 知らんけど」
知らんけどじゃ困る……と思ったが、それ以上は話してくれないらしい。代わりのように、「そういや」とわざとらしく続けられた。
「来月、茜ちゃん誕生日なんだって。もう来年はできないし、お祝いしよかなーって思ってる」
「それ俺も交ざっていい?」
食いぎみに頼んでしまい、遅れて気恥ずかしくなったが、三井からすれば想定内の反応だったのだろう。肩をすくめられた。
「茜ちゃん、飲み会でもあんま食べないじゃん? ビュッフェとかなら楽しめるかなーと思ってるんだけど」
「待って、店探すわ」
言いながら、あ、あそこいいんじゃないか、と一年の夏を思い出した。果たされなかった食事の約束、結局足を運ばないままのビストロ。縁起が悪いか? いやでも、あのとき「いつか」って言ったんだ。
約束とも言えない曖昧なそれを、俺が形にしてもいいだろうか。この一年で、きっぱり諦めるから。どうかぎりぎりのラインを踏み越える、その努力だけ、許されたい。
はあ、と吐いた自分の息は、微かな酒精のにおいがした。今度、マスターに頼みに行こう。覚悟が決まる一杯を。
【おわり】