【特別レポート】新井素子と桑原水菜 が誘う『コバルト』の世界
コバルト文庫の1980年代を代表する新井素子と、1990年代を代表する桑原水菜が「あの頃」を語るとっておきのトークイベント。2025年10月18日に開催された、コバルト文庫50周年プレイベント「新井素子と桑原水菜が誘う『コバルト』の世界」の内容をダイジェストしてお届けします!

嵯峨 ナビゲーターを務める書評家の嵯峨景子と申します。本日は新井素子さん、桑原水菜さんと一緒にコバルトの世界、そしてお二人の作品についていろいろ深掘りしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
新井 新井素子と申します。かなり長いこと、人生の半分じゃないどころの年数、作家をやっております。デビューはコバルトじゃないんですけれども、デビュー後しばらくの間、コバルトにはかなりお世話になりました。ただ、考えてみると私の中でコバルトの時代って20数年前なんだよね。どのくらい覚えてるかちょっと不安ですが、今日はよろしくお願いいたします。
桑原 桑原水菜です。今日は本当にお集まりいただきありがとうございます。私は生粋のコバルト出身作家なんですが、素子先生の小説を読んで、コバルトを把握した人間なので、今、ものすごく緊張してます。今日は一緒に楽しくあの頃を振り返っていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
嵯峨 今回のトークイベントでは、コバルト外部のSF新人賞のご出身で80年代から活躍している新井素子さんと、コバルトの新人賞からデビューした90年代を代表する作家の桑原水菜さんにお声がけしました。お二人はそれぞれ、コバルトと関わった時代や経緯が違いますので、重なるところと違うところを、お二人のお話を通じてお見せできればなと思っています。
実はお二人はお会いするのが2回目ということで、同じコバルト作家といえども、これまでそれほど交流がなかったとのことです。今日は「新井さんのファンをしている桑原さん」という貴重なものも見られるかなと楽しみにしております。
前半は新井素子さんのお話を中心に、時折桑原さんにもお話をお聞きしながら、80年代のコバルトについて見ていきます。
新井素子さんは、77年に第一回奇想天外SF新人賞に『あたしの中の……』が佳作となり、作家デビューされました。その後、どういった経緯でコバルト文庫とお仕事をされるようになったのでしょうか。

新井 もともと、私は「奇想天外」という雑誌で書かせていただいていました。高校生でデビューしたので結構取材を受けたのですが、取材以外で最初に連絡してくれた編集さんが、集英社の方だったんです。ただ、その方はコバルトではなく文芸の方で。「今の自分の部署だと新井さんの本は出せないんだけど、うちにコバルトというのがあるから、そっちの編集者に紹介してあげようか」って言ってくださって、それで当時のコバルトの石原編集長にお会いしたのがきっかけです。
嵯峨 新井さんの最初のコバルト作品は、書き下ろしの『いつか猫になる日まで』。文庫一冊を書き下ろすのは、それまでの仕事とは違うご苦労があったんでしょうか。
新井 「300枚ぐらい書いていい」って言われたから、喜んでお受けしました。『あたしの中の……』は、60枚以上90枚以内という規定の中で、ジャスト90枚なんですね。私は長く書くのが好きで、それ以前に「奇想天外」へ原稿を持ち込んでいた時は、100枚でって言われたら200枚になるような作風だったので、300~450枚書かせてくれるコバルトは大変ありがたかったです。
嵯峨 『星へ行く船』シリーズは、もともとは学研の雑誌の連載でしたよね?
新井 学研の「高1コース」でした。6回連載だと聞いて、頭抱えちゃって。学習誌だから、原稿が伸びたら絶対まずいわけですよ。高2コースに引き継ぐわけにいかないんだから(笑)。すごく困って、しょうがないから頑張って、第1回の締め切りの前に全部書いて、6分割したんです。これなら絶対に長くならない。
嵯峨 どういった経緯で、あのシリーズがコバルト文庫から出版されることになったのでしょうか。
新井 多分、『いつか猫になる日まで』がそれなりに売れてくれたので、編集部に「もうちょっと書いてみない」と言われまして。それで、「『星へ行く船』はまだ話の半分くらいだから、続きを書いてもいいですか」と訊いてみた。
最初の『星へ行く船』の次に書いた『雨の降る星 遠い夢』という第2話が、自分としてはかなり気に入っていて、シリーズにしたいなと思ったんです。その時に、全5冊の構想は作っていたのですが、コバルト編集部にその話をしたら「いいよ」って言ってもらえたので書きました。
嵯峨 当時のコバルトでは『星へ行く船』シリーズとはいわれてなかったですよね。
新井 最初は『あゆみちゃんシリーズ』でした。コバルトって、女性キャラで打ち出したいところがあったから。確かに、物語の基本ラインはあゆみちゃんの成長記なんだけど、私的にはあれは『太一郎さんシリーズ』でしたね。
桑原 太一郎さん、最高です。今、『太一郎さんシリーズ』と聞いて、もう100万回頷きました。あの飄々としたスタイルでありつつもあゆみちゃんに寄り添うようにいてくれる太一郎さんが最高で。『星へ行く船』シリーズを読むときは、彼の台詞を広川太一郎さんの声をイメージして読んでいたので「あゆみちゃんになりたい」といつもうっとりしていました。

嵯峨 創作スタイルについてお聞きします。『星へ行く船』シリーズは、プロットをしっかり立てて書いたのか、キャラクターになりきって書いたのか、どんな風に執筆されたんですか?
新井 私の中であれは『太一郎さんシリーズ』なので、彼に任せました。作中であゆみちゃんが「私は今まで自分は運がいいのが取り柄だと思っていたけれど、運が悪い」って言い出した時に、太一郎さんが「やっぱりあんたは運がいいんだよ」「だって俺とお知り合いになれたじゃない」って答える会話があるんですが、当時できたばかりの地下鉄有楽町線、池袋駅の改札を通るときに、太一郎さんのその声が聞こえたんです。
それを聞いた瞬間に、その後がどうなるかはまったく分からなかったけど、「これでできた」と思ったし、本当にできあがりました。
嵯峨 新井さんはすごくユニークな創作手法ですね。桑原さんはどうやって創作するのでしょうか。キャラからですか?
桑原 私もキャラが動く方が先ですね。特に、コバルトで書いていた頃はそうでした。
素子先生は、ぬいぐるみが大好きで、ぬいぐるみとお話されるじゃないですか。私も同じで、よくぬいぐるみでドラマをやってたんですよ。そうしたらぬいちゃんたちにキャラクターができて、関係性ができてってなりますよね。それを小説でやってる感じです
新井 なりますなります! わかってくれる人、あんまりいないけれど。書き方がすごく似てる!
嵯峨 『星へ行く船』で、思い入れの強いキャラや巻について。新井さんの中では、やっぱり太一郎さんですか?
新井 このシリーズに限るとそうですね。思い入れのある巻というと、単純に完成度でいうと『通りすがりのレイディ』が一番いいと思うんだけど、シリーズが終わってみたら、やっぱり『ちゃんと終わってくれた、よかったな』という気持ちが大きかったです。
嵯峨 シリーズものの方が書きづらいのでしょうか。
新井 私は書くのが遅いので、小説の中で1年経つ間に実生活で5年経ったりしちゃうという大変大きい問題がある。それから、同じものを書いてるよりも、違うものを書く方が楽しい。
嵯峨 ところで、新井さんの作品って、タイトルがどれもこれもすごく印象的で好きなんです。
新井 私はタイトルをつけるのがすごく不自由な人で、なかなかつけられないんですよね。デビュー作の『あたしの中の……』のタイトルも、友達につけてもらいました(笑)。
『いつか猫になる日まで』は、「これは小説のタイトルですか」って言われました。あと、当時はこんな長いタイトルなかったから、「これがギリギリだ、これ以上長いと背表紙に入らない」って言われましたね。当時のコバルト文庫を並べてみるとわかるんだけど、画期的に長いタイトルなんです。
嵯峨 今のオンライン小説に慣れた身からすると「……長い?」って感じますが、時代が見えて面白いですね。
次に、執筆のペースについて。当時のコバルト作家は、特にコバルトの新人賞出身の作家さんは結構早いペースで書かれるイメージがありましたが、新井さんは執筆ペースについては自由だったんでしょうか。
新井 生え抜きの方と違って、私は完全に外様なので、扱いが「お客様」でした。だからあんまり無理は言われなかったです。
嵯峨 一方で、生え抜きコバルト作家の桑原さんは『炎の蜃気楼』の第一部を、3年間で13冊出しているんですよね。それ以外にも雑誌に番外編書いていらっしゃいましたし。
桑原 デビューが決まった時点で「3ヵ月に一冊書いてね」って言われました。当時はそれが当たり前だったので。同期の三浦真奈美さんが「女工哀史」だって言ってました(笑)
嵯峨 3ヵ月に一回、300枚の本を出すってしんどいですよね。80年代の久美さんとか氷室さんも、3ヶ月に1冊書かれてる。さらに、私がリアルタイムでコバルトを読んでた時期って須賀しのぶさんや真堂樹さんが3ヵ月連続刊行されてて、ちょっと恐ろしいペースだったなと。ファンとしては「毎月読める」と単純に喜んでましたけど、大人になってみると「ごめんなさい」という気持ちになります。

桑原 若いから、体力と気力があったから、というのもあると思うんです。あれにはかなり鍛えられました。とにかく出さなきゃいけないから、完璧主義でいられないんですよ。とにかく書いて、ひとつできたら出すというのを、マラソンのように続ける。その点、私はキャラが勝手に動くという書き方で、プロット立てて伏線張って書くより早く書ける。あの刊行ペースでやり方を身につけた感じがします。
嵯峨 次に、新井さんの『ブラックキャット』シリーズのお話です。天才的に不器用なスリの広瀬千秋、虫も殺せぬ殺し屋の黒木(明拓)、走れない泥棒キャットの3人組の物語ですが、怪盗ものを着想したのはどういうきっかけだったんですか?
新井 キャラクター自体は最初から「いた」んですけど、その前に太一郎さん主演で、現代日本で探偵ものをやろうと思ってボツにした企画があったので、現代日本ものをやろうと思ったんじゃないかと(笑)。
嵯峨 『星へ行く船』シリーズは年に1冊ぐらいのペースでコンスタントに出ましたが、このシリーズはかなり断続的で、巻と巻の間が9年空いたり、結構ロングスパンでしたね。
新井 『星へ行く船』の頃は、コバルトからしか依頼されなかったんだけど、だんだん仕事が増えて、依頼されると「はい書きます!」ってやっちゃうタイプなので、気がついたらすごい仕事がたまってて! 順番にこなしてったらあの順番で間が開いちゃったんです。
コバルト生え抜きだったらあり得ないペースですよね。というか、当時は生え抜きだったら、他社で書けなかったんじゃ……?
桑原 確かにそういう縛りはあって、ほぼ専属でしたね。私は2000年代に入ってから他社で書くようになりましたが、最初は漫画雑誌で軽く短編を連載するとか、ちょっと遠回りしました。おそらく当時は「○○先生の作品が読めるのはコバルトだけ」っていう風にしたかったんじゃないかな。今はまったくそんなことはないですけどね。
嵯峨 桑原さんは、雑誌「活字倶楽部」2000年夏号のインタビューで、「小説を書き始めたのはコバルト文庫の新井素子さんの影響」と発言されています。ぜひ詳しい話を教えてください。
桑原 私が素子先生の本を知ったのは、姉の本棚でした。姉が本好きで、私はどちらかというと体育会系で、あまり本を読まなかったのですが、姉がすごく楽しそうに読んでるから、気になって。姉からも「読んでみる?」と勧められて読んでみたら「これは、私たちの小説だ!」と強く感じたんです。それまで小説というと、我々とは遠いところにあるもので、教科書とかで読むようなイメージがあったんですが、素子先生の作品は、自分たちの心、センス、感覚などがそのまま小説になっていて「こんな小説あるんだ!」とすごく嬉しかったんです。そこから虜になりました。装丁もお洒落で『星へ行く船』で竹宮(恵子)先生のイラストを見て、「こういう本を手元に置いておきたかったんだ!」と、感動した。それがきっかけでした。それからはクラスの中で回し読みをして、その小説の話で盛り上がるのも日常でした。
新井 藤花忌(氷室冴子さんを偲ぶ会)に参加している皆さんも同じことを言いますね。みんなで氷室さんの本持ち寄って、「私は高彬が好きだ」とか盛り上がって。
桑原 素子先生の本との出会いを通して、そういうコミュニケーションや楽しみを教わりました。あと、ひとつ言っていいですか? 私は『・・・・・絶句』の一郎さんが大好きで! 以前パーティでお会いした時に、興奮しながら素子先生に「一郎さんが大好きなんです! 黒服で黒いネクタイ、喪服が大好きなんです!」って訴えたんですよ。そしたら素子先生がちょっとドン引いて、「なんだこいつ」っていう顔をされてました(笑)。
嵯峨 『炎の蜃気楼』の直江がスーツ姿じゃないですか。それは一郎さんにインスパイアされたところがあるのでしょうか。
桑原 一郎さんが源流になって、そこから本格的にスーツ萌え喪服萌えになってしまったのではと。
嵯峨 「Cobalt」90年2月号には、桑原さんのデビュー作『風駆ける日』が掲載されてます。『風駆ける日』は、89年下期のノベル大賞で読者大賞を取った作品で、北海道・日高を舞台にした馬小説です。
コバルト史的に見ると、桑原さんは読者大賞の第1回というすごく重要なポジションにいらっしゃる。コバルトに投稿したきっかけは何だったんですか?
桑原 当時、自分でノートに書いた小説を友達に見せて……ということしかやってなかったので、そろそろ、もうちょっと大勢の知らない方々に読んでもらいたいなと思ったのがきっかけです。
嵯峨 読者大賞を受賞した『風駆ける日』、主人公は青葉という女の子なんですが、友巳という少年の屈折した孤独な感じに、読者は感情移入したのかなと感じました。
ちょうど桑原さんの頃から少年主人公ものが増えていくんですよね。誌面に掲載された二作目『ピーターパンの誕生日』という作品は、少年主人公ものでしたよね。桑原さんは、その頃から少女主人公より少年主人公ものがお好きだったんですか?
桑原 というか、自分を出しやすかった気がします。女性である自分にちょっと屈託がある10代を過ごしてきたので。男子として書いた方が自分の気持ちも書きやすいというか。素子先生はそういうことはありませんでしたか?
新井 私は男性視点で書くの楽しいと思えるようになったのは、かなり歳取ってからだったから。若い頃は男の子が何を考えてるか全然分からなかった。
桑原 私も男子の考えてることは分からないんですが、「自分を男子に仮託する」感じなんです。少女が主人公であるのが少女小説と言われたら、私が書いてるのは少女小説じゃなくなっちゃうんですけど、「少女の心」で書いてるので、あれも少女小説だと考えています。
嵯峨 『風駆ける日』と同じ号の「Cobalt」に新井さんの「普通で幸せなぬいぐるみライフ」というエッセイが載ってるんですよね。
桑原 この号の表紙に、素子先生と自分の名前が一緒に載ってるでしょう。それだけで、もうえらいことになったーめっちゃ嬉しい!って思って、この号はちゃんと取ってあります。本当に嬉しかったです。
嵯峨 ここから『炎の蜃気楼』の話に入っていきましょう。新井さんがデビューされたのは17歳でしたが、桑原さんはデビューされた時、おいくつだったのでしょうか?
桑原 確か大学3年だったので、21歳でした。
嵯峨 1巻が出た時の反響はどうでしたか?
桑原 敵役として出した武田信玄ファンから怒りの手紙が来ました。
嵯峨 武田信玄も人気がある武将ですからね。序盤から直江と高耶で盛り上がったわけではなかったのでしょうか?
桑原 東城先生の絵がとても男らしいので。まるでジャンプ作品のようだって言われましたね。コバルト文庫のポップなイラストの中では毛色がちょっと違うように見えて、それが新鮮に思えた層が読んでくださったのかなという気はします。
嵯峨 確かに、当時のコバルトの中に並べるとすごいインパクトがありますね。それまでのコバルトの少年って、もうちょっと細身で、少女漫画の男の子みたいな感じでしたね。当初は何巻ぐらいの予定だったのでしょうか。
桑原 5巻まで続けばいいね、ぐらいの感じだったのを覚えています。
嵯峨 そこから本編は40巻というすごい長編シリーズになっていくわけです。物語の肝である主人公の仰木高耶と直江信綱の400年にわたる愛憎関係が大きな見どころだと思いますが、それぞれのキャラクターへの思い入れや、書いていて筆が乗ったエピソードなど、ぜひ教えてください。
桑原 男性同士の愛憎というのは、コバルトからは極北にあるなという感じがしていたので、最初は編集部を騙し騙し書いていったんですよ。そうしたら、読者が結構ついてきてくれる。「いいね、みんな来てくれる、これなら大丈夫だ!」と思ったので5巻あたりからばーんと出したら、すごい勢いでみんなが来てくれて。「なんだ、みんなこういうの大好きだったんじゃない!」となりました。
嵯峨 高耶と直江それぞれのキャラへの思い入れについて、改めて伺えませんか。

桑原 直江の「黒服の男」というイメージには素子先生の一郎さんがいて、そこから社長秘書、主従関係といった要素を入れながらだんだん厚みができてあのキャラになっていったんだと、今本当にそう思いました。素子先生を前にして。ああそうだ、源流だった!って。直江の源流は素子先生です。
新井 失礼だけど私この『炎の蜃気楼』は拝読してなかったので、その話を聞くと読んでみたいような、読みたくないような。
桑原 「ぜひ読んでください」って言いたいところなんですが、それを「待て」って止めるもう一人の私がいます。お読みいただく前に、心の準備をさせていただければ。
嵯峨 高耶はどうですか?
桑原 高耶は、私と一緒に育ってきた人という気がします。他人とは思えず、肉親とも違うし、もう一人の私でもあるし、作家として一緒に育ってきた戦友のように今は感じています。
嵯峨 『炎の蜃気楼』本編が40巻、今の『遺跡発掘師』シリーズも巻を重ねていて、コンスタントに書き続ける力がすごいなと思います。
桑原 多分ほかにやることがないんだと思います。
嵯峨 根っからの作家!
桑原 目の前の締め切りへ向かって、そのゴールがあるから続けてこられた、それだけじゃないかなと思います。たまに自分はものを書くことを言い訳にしてるんじゃないかって思うこともあって、もうちょっと豊かな人生を送れたんじゃないかとも思うんですけれど、ずっとお仕事をいただくことができたからこそ、ということで、ありがたいです。
嵯峨 今は「聖地巡礼」という言葉が定着していますが、その言葉が生まれる前から、『炎の蜃気楼』ファンは小説に出てくる場所に津々浦々出かけていました。その手引きになったのが『炎の蜃気楼紀行』という本だと思うんですが、このエッセイはどういうきっかけで生まれたんですか?
桑原 最初は雑誌の単発企画で、上杉謙信のお城だった春日山城へ行こうというものをやったんです。それが好評だったので続けることになりました。
嵯峨 「ミラージュツアー」というのもありましたね。私は大学で講師をしてるんですが、若い大学生に「聖地巡礼」の元祖として『炎の蜃気楼』を熱く紹介しています。
『炎の蜃気楼』は本編が40巻ですが、その後邂逅編や幕末編、昭和編などが続きます。同じシリーズでも、本編と他のシリーズは違う感覚で書かれたのでしょうか?
桑原 キャリアを重ねるにつれ、自分も多少目が広くなって、もう少し時代感を出してみたいとか、独特の空気感を出すために頑張りました。
嵯峨 特に昭和編は、本編の最初に提示されていた、過去の景虎と直江の因縁を、美奈子という女性も含めて、改めて書くというものでした。その面白さと難しさをそれぞれ教えていただけますか。
桑原 なんで書きだしちゃったかな、と。時々悔いたくらい本当にハードな話でした。特に終盤は何の苦行をしているのかと思いました。
嵯峨 昭和編は舞台「ミラステ」というジャンルでの展開があり、『炎の蜃気楼』自体CDやコミカライズなど様々な形のメディアミックスがあって、いろいろな楽しみ方ができる作品ですね。
改めて、お二人にとってコバルト文庫とはどんな存在だったのかを伺えますか。お二人は長く活躍されて、今はいろんな出版社ともお仕事をされています。その中で、改めてコバルトとはどんな存在だったのかお聞きしたいです。
新井 私はコバルトでデビューしたわけでもないのに、初期の頃ずっと面倒を見ていただいて、とてもありがたかったです。初めてカンヅメを経験したのもコバルトでした。初期の頃にごはんに連れていってもらったり、サイン会で地方に連れていってもらったり、本当にお世話になりました。どうもありがとうございます。
桑原 私は本当に生え抜きなので「学校」ですね。だいぶ長くいちゃいましたけども、やっぱり作家として育ててくれて、いろんな苦労も教えてくれた。という意味で。その苦労があったおかげで、つけられた体力とか精神力もあったので、本当に「コバルト学校」でした。
嵯峨 まだまだお聞きしたいことはたくさんありますが、時間に限りがありますので、ここまでにしたいと思います。みなさん、今日はご参加くださってありがとうございました。


――講座を終えた新井素子さん、桑原水菜さんに、当日の感想と率直なお気持ちをお聞きしました!
新井 今日のイベントは、本当に楽しかったです。コバルト読者の熱量に改めて触れてみて、思い出して語る乙女心って熱いよね!と思いました。出席者の方は、少女の頃にコバルト読んだ方が多いわけで、「思い出し乙女」の熱量って太刀打ちできないものがある! 会場を見ていると、それこそ40代50代60代の方が、みんな乙女になっちゃう。乙女が乙女トーク始めちゃうとね、現役の乙女じゃない人間には太刀打ちできない熱量がありますね。
桑原 私の敬愛する素子先生のお話を聞きながら、一緒の時間を過ごせたのが本当に嬉しかった……! 素子先生は神なんですけれども、気さくでお優しいから、ずっと笑顔でお話を聞いてくださって感激しました。それから、本当に参加者のみなさんの熱気がすごくて、こんなに集まってくれたんだっていうのが嬉しかったです。もう、一生ものなんだなと思いました。10代の頃から触れてきて、一緒に人生を重ねてきたんだなと実感できて、本当に、コバルトも読者のみなさんも、人生の戦友(とも)なんだなと思いました。この先も戦友でいられるといいなと思います。