感情は誰にも勘定できない

藤村税理士事務所は、銀座の路地裏にある雑居ビルの二階に看板を出している。
ドアを開ければデスクが三つと、簡単な衝立に仕切られた応接セット、年季の入った観葉植物、資料やファイルが並ぶ本棚のみの、古くてせまい部屋が目に入る。
籍を置く税理士は、所長の藤村と、辻本陽菜。
繁盛しているとは言わないまでも仕事は途切れず、何とか二人でまわしている。十一月の今は、年末からの繁忙期を前に、嵐の前の静けさとでもいうべき平穏さだった。
五科目の税理士試験に合格し、税理士名簿に名前が載ってから一年。
自分でいれたお茶を飲みながら、陽菜はしみじみと感慨にふけった。
「あっという間だったなぁ~」
子持ちの先輩税理士が退所して早々、所長の藤村が倒れて長期入院となった。おまけにそのタイミングをねらったかのように、初めての相続手続きの依頼が来た。
樋口家の件は、愛子側との不当利得返還請求の話し合いがスムーズに終わり、何とかうまくまとめる目処がついた。
年末調整のバタバタが始まる前に落ち着いて本当によかった。陽菜はのんびりとお茶をすすった。
本日、所長の藤村は所用で外出中である。今この事務所にいるのは、陽菜ともうひとり。――否、もう一体と言うべきか。
幽霊の飯田敏明はいつものようにソファーに座り、電子書籍の自動ページ送り機能を使って読書中である。
陽菜から二メートル以上離れられないとはいえ、自在に宙に浮かべるくせに、なぜかきちんと椅子に座っている。まだ人間の時の癖が抜けていないのか、あるいは生来の硬い性格ゆえか。
端整な顔に、いかにもシゴデキな高そうなスーツ。そこだけ切り取ったなら上等だが、怜悧に輝くメガネが常々顔を隠してしまっている。誠に遺憾である。
ずず、とお茶をすすった時、電話が鳴った。
「はい、藤村税理士事務所でございます」
『江東南税務署、資産課税部門の片岡と申しますが、税理士の辻本先生は――』
受話器から聞こえてきた「税務署」の単語にちょっと姿勢を正した。
「辻本は私です」
『そうでしたか。どうも、片岡です。あの――横山ミツさんの遺産相続の件で、息子の保二さんからご連絡が入ったのですが、聞いていらっしゃいますか?』
思いがけない名前を耳にして、陽菜は「え?」と返す。
「確かに現在、私が横山ミツさんの遺産相続の手続きをさせていただいておりますが、まだ申告も終わっていませんし……」
陽菜にとって二回目の相続案件である。が、まだ遺産の内容をまとめている段階だ。
申告の手続きを終えて、納税して。税務署から連絡が来るとしたその後のはずだが。
(どうしてこんなタイミングで?)
内心首を傾げていると、電話の相手は「やっぱりな」とでも言いげに続けた。
『保二さんは、ミツさんが長男の圭一さんに生前贈与をくり返していたと主張し、税務調査をと訴えてこられたのですが――』
「えぇっ⁉」
思わず大声を上げた。聞いていない。完全に寝耳に水だ。
横山保二はミツの次男で、相続人のひとり。つまり陽菜にとっては依頼人である。
その依頼人が、勝手にそんなことをした理由に心当たりは――
(……ある)
陽菜は早口でまくしたてた。
「そういえば先ほど留守電にメッセージが入っていたようでした。そのことかもしれません。ちょっとこちらで確認してからまた折り返します。申し訳ありません、また後ほど。失礼しますー」
ひと息に言いきり、相手の反応を待たずにガチャンと電話を切る。
すると頭上で、心底不思議そうな声がした。
「税務調査?」
飯田だ。電話の受け答えから、何か感じ取ったのだろう。宙に浮いてこちらを見ている。
彼の前で陽菜は頭を抱えた。
「あぁぁ……っ」
最初の相続の案件で精神をゴリゴリと削られたこともあり、陽菜としては、相続は積極的に受けたい仕事ではない。が、親戚からどうしてもと頼まれ、断れずに受任した。
それがとんでもない案件だったのだ。
亡くなったのは横山ミツという女性。五年前に夫を見送っての、八十三歳の大往生。
相続人は息子が二人。長男で大手メーカー社員の圭一と、次男で地元のスーパーに勤める保二。特に財産分与に関する遺言はなかったことから、本来であれば均等に二分割されるはずだった。
だが。
どうも被相続人であるミツは生前、圭一にだけたびたび高価な物を買い与えていたようで――例えばオーダーメイドのブランドスーツ、外国製の家具、趣味のゴルフ用具一式など、保二の主張が正しければ総額は一千万円ほどになるとかで、生前贈与として計算すべきというのだ。
とはいえ話を聞くと、それらはもう四十年近く前から続いていたとのことで。陽菜としても、五年前に夫が亡くなった際の財産リストと、それ以降の贈与に関しては把握しているが、それよりも前となると、なかなかチェックしきれるものではない。
よって、ひとまず五年前までの件のみ生前贈与として計上し、それ以外の遺産を二等分するはどうかと提案した。
遺産分割協議の初回のことである。その時だけ兄弟が顔をそろえた。
圭一はそれで問題ないとの答えだったが、保二は猛然と反対したのだった。
『全部と言ったら全部です! こうなったら弁護士に頼んで銀行に開示請求してでも、母の預金の動きについて調べます!』
その時の鬼気迫る形相を思い返し、陽菜はしょっぱい気分になる。
「預金の出し入れなんて日々たくさんあるわけだから、お兄さんへの贈与だけ見つけるのは大変な作業ですよとか、そもそも銀行や圭一さんの協力がなければなかなか証明できませんよとか、忠告はしたのですが、まったく聞く耳を持たず……」
現在保二は勝手にあちこち動きまわり、母親から兄への贈答に使われた金について、血眼になって探しているという。
飯田も遺産分割協議の様子を思い出したのだろう。「あぁ、あれか」とつぶやいて思案顔になる。
「なぜそこまでこだわるんだろうな?」
「恨みでしょう。本当に、ただそれだけだと思います」
「それにしたって……」
「故人のミツさんは、長男の圭一さんは甘やかし放題だったのに、次男の保二さんには特に大きなプレゼントはしなかったそうで。『絶対に許せない』と」
「だからって……もう二人ともいい歳だろう」
どちらも五十代後半なのはまちがいない。陽菜はうなずいた。
「おまけに保二さんだって、決してお金に困っているふうではないんですよね。子供は自立して、夫婦でのんびり暮らしていると話していましたし……」
「で、自力で故人の預金を調べるのは結局うまくいかなかったんだろうな」
「でしょうね」
昔は、今ほどクレジットカードでの支払いが一般的でなかったと記憶している。
故人の預金口座には日々多くの入出金があったはずだ。それらを四十年分遡り、兄への贈与に使われたと思われる出金だけを探し当てるなど、そうそうできるものではない。探し当てたところで、それを証明する証拠も残っているかどうか。
本人もついにそう悟り、「兄が多額の生前贈与を隠して相続税の申告をしようとしている。本来の遺産はもっと額が大きかったはず」と税務署に密告して税務調査をしてもらおうと考えたのだろう。
「勘弁してくださいって感じです。ほんと……」
陽菜はぼやきながらハンドバッグを開き、スマホを取り出した。
相続手続きにおける税理士の報酬とは、遺産総額の〇.五パーセント~一パーセントが相場である。つまり仮に税務調査が入り、多額の生前贈与が認められて遺産総額が目減りでもした場合、
税理士である陽菜に支払われる報酬も減る!
のである。
(保二さんの気がすむ以外に誰も幸せにならないんです、とも言えないし……どうするかなぁ……)
悩みながら、陽菜は登録してある横山保二の番号をタップした。
『どうも、辻本先生』
けろりと挨拶をしてくる相手に、まずは苦言を呈する。
「横山さん、私に何も言わずに税務署に連絡しましたね? 勝手をされては困りますよ」
だが向こうは堂々と言い返してきた。
『そんなことを言ったって、母と兄のやったことは、言わば脱税じゃないですか』
「でももしこの件が本当にミツさんの資産の申告漏れと判断された場合、相続税も上がりますし、横山さんが支払う税金の額も上がるんですよ? それって損じゃないですか」
『いいえ。そうすれば兄が払う税金も上がって、兄も損するんですよね? それでかまいません』
「かまいませんって……」
陽菜はあ然とした。どうやら手に入る金の損得よりも私怨が勝るようだ。
『ご心配なく。先生への報酬は、きちんと色を付けてお支払いしますよ』
「いえ、そういう問題ではなくてですね……」
近くまで寄ってきて、聞き耳を立てていた飯田が「この男、頭大丈夫か?」と辛辣に言い放つ。まったくである。
それだけ恨みが深い――何はともあれ兄に嫌がらせがしたいのだろう。だが。
「税理士として、顧客に損をさせることを見過ごすわけにはいきません」
『ですから、私がそれでいいって言っているんです』
「横山さん……」
陽菜は声に力を込めた。
「どうか税務署への訴えを撤回していただけませんか」
『できません』
「ですが――」
『しょうがないじゃないか!!』
突然、耳元で響いた怒声に、陽菜は肩をびくりと震わせた。
『それ以外にあいつに思い知らせる方法はないんですよ! この悔しさをぶつける方法が他にないんですよ……!』
「――――……」
剣幕に圧倒されてしまい黙り込む。否。言葉を失ったのはそれだけではない。
『どうせあなたも、私の頭がおかしいって思っているんでしょうね……』
自嘲まじりに吐き捨てられた言葉に、陽菜は「いいえ」と首を横に振った。
「きっと何か――そうせずにいられない事情があるんだろうな、と……今、気がつきました」
『…………』
「まぁ、そうですよね。そんな事情でもなければ、一円でも多く相続したいと考えますよね」
『……みっともないと思っているでしょう』
「横山さん」
『でも他に方法がないんです……』
「…………」
沈黙が降りる。受話器からは時折、車が通る過ぎる音や、人の話し声が聞こえてきた。保二は外にいるようだ。
ややあって陽菜は口を開いた。
「……お兄様と、何かトラブルがあったんですか?」
『いえ、兄とは特に』
「え?」
『三つ違いだし学校も別、互いに自分の部屋にこもるタイプだったので、昔からあまり話したこともなく。ただ……』
保二の声が震える。
『薄々お気づきかもしれませんが……母は兄だけを愛していたんです。長男だから。出来がいいからって。昔からそうでした。次男の私は何をやっても月並みで、彼女の目に入らなかったんです……』
泣いているのかとも思ったが、ちがうようだ。声が揺れているのは、おそらくやり場のない怒りのせい。
それから保二は滔々と語った。
生まれてから五十年以上、いかに母親が長男だけをかわいがり、自分をないがしろにしてきたか。長男についてあれこれ人に自慢した後、「その分次男は平凡で」とこき下ろしてオチをつけるのを、いつもどんな思いで聞いていたか。長男に物を買い与えたと聞き、自分にもと言いに行った時「自分で何とかできないの?」と言われていかに傷ついたか。エトセトラ、エトセトラ。
堰を切ったように保二は話し続けた。背後の雑音からするに、彼は外を歩いていると思われるが、そんな中でも憤懣やるかたない様子で訴えてくる。
約一時間にわたり続いた五十年分の恨み言を受け止め、相槌の種類も尽きてきたと思われた頃、ようやく保二は我に返ったように『すみません』とつぶやいた。
『辻本先生にこんなこと話してもしかたないのに……』
「いえ、その……横山さんのお気持ちはよくわかりました」
『こう言っては何ですが、おかげでだいぶスッキリしました! こんなにぶっちゃけたのは初めてです。物心ついてからずっと飲み込み続けてきた感情の塊をごっそり吐き出したといいますか……』
やけにさっぱりした口調で言い、保二は『んー』とうめく。伸びでもしているのかもしれない。
陽菜はハッとひらめいた。
(チャンス!)
機を逃さず、さらりと提案してみる。
「それはよかったです! では税務調査は必要なしと税務署に伝えても――」
『は? いいえ、それはやってもらいましょう』
「あ、そうですか……」
同じくらいあっさりとした返事が戻ってきてがっかりする。
まぁ、するかしないかを判断するのは税務署なのだが。
それからの多少の説得にも保二は頑として折れなかったため、陽菜はしかたなく折り返し税務署に電話をし、事情を説明した。
先方は明らかに面倒くさそうな反応だった。何十年分もの個人間の贈答品について調べるなど、実際やりたくないにちがいない。どこからが生前贈与で、どこまではそれに当たらないかの判断も微妙になる。
税務署と話し合い、結局直近十年間の、額の大きな贈与についてのみ陽菜が調べて計上することで同意した。それでもまずまずまとまった額になったため、予想していた通り相続税は当初の予定よりも上がり、圭一も保二も、その分余計に税金を支払うことになる。
その結果を圭一側に伝えに行った日、ふいに保二が藤村税理士事務所に顔を見せた。
彼は事務所に入ってくるなり、挨拶もすっ飛ばして笑顔で訊ねてくる。
「どうでした⁉ 兄はどんな様子でしたか⁉」
「え?」
本日は自分のデスクにいる藤村だけでなく、陽菜までもがきょとんとしてしまう。
保二は焦れたように詰め寄ってきた。
「今日、兄に会って相続税の決定について説明したんですよね⁉」
「はい、ですが圭一さんは弁護士を立てていらっしゃるので、私は弁護士の方とお話ししただけです。ご本人は現在シンガポールへの短期出張中で、お仕事が非常に忙しいので弁護士にお任せという感じのようです」
「……………………」
保二は笑顔のまま硬直している。その笑顔から少しずつ力が失われていく。
「短期出張、ですか……。知らなかった……」
「弁護士さんによると、圭一さんはこちらの決定をすべて受け入れると仰っているそうです。その代わり今後は恨みっこなしで、と」
「……………………」
保二は呆然としている。気持ちは分かる。間に立っただけの陽菜ですら、圭一の認識が軽いと感じてしまう。
五十年以上募り募った恨みが、そう簡単に「恨みっこなし」になるはずがない。
そうは言っても、ひたすら内にこもった分、周りが理解していなかった私怨をこれ以上どう理解しろというのか、とも思う。雰囲気からすると保二は長いこと、兄とほとんど親交がなかったようだ。
受け止めろというほうが無茶だろう。
保二は来客用のソファに、どすんと腰を落とした。しばらく呆けた末にぼんやりした口調で言う。
「……『モンテ・クリスト伯』って小説があるじゃないですか。私あれ大好きなんです」
「あぁ、確か……復讐の物語……」
「どこがいいって、悪いことをした奴らが全員、主人公に復讐されたと気づいて、憤怒の中で死ぬところなんですよ。もし悪者が復讐に気づかず、一瞬も怒らないで殺されたら、全然おもしろくないですよね」
「…………」
(何か今めちゃくちゃ怖いこと聞かされてる?)
宙に浮かぶ飯田と目を合わせる。どうしようこれ。とりあえず離れろ。距離を取れ。目線だけで伝え合い、陽菜はそろそろと後ずさった。
事情が分からないなりに不穏な空気を察したらしい藤村が、「何? 何? 何なの?」と言いたげな眼を向けてくる。
そんな中で保二は、すっかり毒気の抜けた表情で天井を仰いでいた。
「自分の持つ感情と、同じ感情が相手の中にないなんて、空しいだけなんですよ……」
放心したように、しばしそうしていた保二は、やがて腰を上げて、持っていたブリーフケースの中からA4の封筒入りの書類を取り出した。
封筒には「藤村税理士事務所」の文字。おそらく昨日渡した、相続税の申告書の写しだろう。
それを、彼は陽菜にずいっと押しつけてきた。
「寄付します。これ、困ってる子供とか、病気の人のために使ってください」
「横山さん」
「こうなったら何か、意味のあることをしたい。――じゃあ」
言いたいことだけ言って、彼はそそくさと踵を返す。事務所のドアを開けて去っていこうとした、その背中を慌てて呼び止めた。
「待ってください、横山さん!」
陽菜は追いかけて、封筒を相手に差し出す。
「これ、寄付には使えないのでひとまずお返ししますね」
寄付をしたいのであれば、後日自分の口座に遺産が入ってからまた相談してほしい。――陽菜の説明に、彼は顔を赤くして封筒を受け取った。
「最後までカッコつかないな……」
「いいえ。なかなか普通の人にはできない、立派な選択だと思います」
笑顔で力強くそう伝えると、保二は目に涙をにじませる。
「ありがとうございます、辻本先生……」
声を震わせ、彼は自分のスーツの胸元をつかんだ。
「確かにここにある気持ちを、辻本先生だけが否定せずにいてくれました。――ありがとう」
そう言うと、静かに一礼して去っていく。
「――――……」
お礼の言葉が胸に沁みる。陽菜はちょっと誇らしい気分で保二を見送った。
その頭上で飯田がぼそりとつぶやく。
「やはり相続案件は面倒が多いな」
それは確かにそうだ。法律を知っているだけでは対応できないことも多々出てくる。でも。
陽菜は事務所のドアを開け、肩越しの笑顔を浮かべて応えた。
「大変だけど……、でももし機会があれば、またやってみたいかもです」
【おわり】