第一章[1]

公開処刑は、庶民に対する見せしめと娯楽である。
ゆえに犯罪を扱う刑部では、事前に日時を掲示板等で大々的に告知し、当日は朝から銅鑼を高らかに鳴らすなどして執行を喧伝する。刑場となる刑部前広場には朝から幟が立ち並び、一時辰(二時間)前にもなれば出店が軒を連ね、物見高い暇人達が良席を得ようと集いだすのだった。
執行まで小時辰(一時間)を切れば、広場にはすでに人垣ができている。一番前の特等席を得た者は、地べたに胡坐をかいて饅頭などを食らいながら談笑していた。寒露が過ぎたばかりのこの時季は、早朝や夜はともかく昼間はまだ暖かい。
「今日はなかなか盛況ですよ」
下働きの僕童が興奮しつつ控室に入ってきたとき、劉秀は斬首刀の刃の最後の確認をしていた。緊張の糸を切られたことでたちまち表情を険しくする秀に気づいた助手が、あわてて僕童を追い払う。
「いつも言っているだろ。仕事前の劉大哥に話しかけるんじゃねえ」
「別に刽子手(特に斬首を行う死刑執行人)に言ったわけじゃ……」
言い訳がましく文句を言う僕童を、助手が野良犬にするように追い立てる。そのやりとりも煩わしい。忌々しげに舌を鳴らした秀に、助手はあわてて、僕童を引きずるようにして外に出ていった。
まったく、やかましい奴らだ。
劉秀。歳は二十九。刑部に所属する、死刑執行人だ。日に焼けた端整な面差しと無駄なく引き締まった体軀は、普通に街を歩けば若い娘達の目を惹いていただろう。あいにく腕利きの首切り役人として顔が知られている彼にむけられる眼差しは、嫌悪と侮蔑、よくても畏怖でしかない。
気を取り直して、かざした斬首刀をもう一度確認する。窓から差しこむ光を受けて、鋼は目を細めるほどまばゆい輝きを放つ。磨きあげた刃先は、触れればそれだけで皮膚を切り裂いてしまいそうなほどに鋭利である。
しばしの時間をかけて矯めつ眇めつして、秀はようやくその仕上がりに納得した。昨日長い時間をかけて研いだ甲斐がある。これなら罪人を苦しめることなく一太刀で首を落とすことができるだろう。何人もの婦人を辱め、そのうち二人を鶏の首を絞めるようにためらいなく殺した凶悪犯を、楽に死なせてやりたいと思っているわけではけしてない。罪状を考えれば凌遅刑でも甘い極悪人だ。けれど大理寺(裁判所のような組織)がそう判決を下したのなら、処刑人は従うのみである。
処刑は感情ではなく、法の決定のもとに下される行政処分なのだ。
それに一振りで処刑ができなければ、傷ついた罪人は苦しさと恐怖からもだえる。その姿を目にするのは憂鬱である。喉の奥からしぼりだされる、およそ人のものとは思えぬ悲鳴に呻き声、そして怨嗟の声。恐怖にかられた彼等は拘束を逃れようと暴れるから、斬りそこなった部分から血潮が飛んで、それが目に入れば染みて痛むし、口に入れば錆を嘗めたようで気色が悪い。
あの感触が嫌すぎて、斬首のさいは一撃で済むよう秀は細心の注意をはらう。
かつて武官として勤めていた時分、戦場では自身を守るための攻撃しか考えておらず、敵兵の苦しみや痛みなど気にかけたことはなかった。彼等は敵兵というだけで罪人ではなかったのに、刃を下ろすことにいっぺんのためらいもなかった。それが極刑を受けるような極悪人にこんなふうに気を配るとは、なんとも滑稽な話である。
銅鑼の音がふたたび鳴る。処刑一刻(三十分)前だ。
外に出ようと戸に手をかけた矢先、もとから騒々しかった広場の喧騒がいっそう激しくなった。市中を引き回されていた罪人が戻ってきたのだと、すぐに分かった。聞くに堪えない汚い言葉での罵声や怒号にかき消されて、本来であれば聞こえるはずのないがらがらと車の回る音が聞こえてくる気がした。
獄舎は刑部の中にあるが、執行前に囚人は護送車で街に連れ出される。もちろん、これも見せしめだ。木枠の檻に押し込められた囚人は、石や水の他にもあらゆる汚物をぶつけられてものすごい悪臭を放っていることだろう。想像するとうんざりする。執行時はもちろんだが、処刑が終わったあとの遺体を処置するのも自分達の役割だったからだ。
気を取り直して、秀はもう一度刀に目をむける。
さあ、仕事だ。
鋭利な刃先を視界に捉えた瞬間、すっと気持ちが固まる。石英のごとく固くなった心には、いま手にしているこの鋼でさえ傷をつけることは敵わない。
古びた戸を押し開くと、一枚板を隔てて聞こえていた観衆の叫びが荒波のような勢いで押し寄せてくる。広場から少し離れたこの場所にいても人々の怒りは伝わってくる。複数の女を凌辱し、そのうち二人を殺めた鬼畜である。どれほど非難されようと同情には値しない。むしろ一太刀で決めたりしたら、こちらが罵倒されるかもしれない。この極悪人をもっと苦しめろと人々は思うだろう。だが、あいにくそんなことはこちらの知ったことではない。むやみに処刑を長引かせれば、そのぶんこちらが疲弊する。
そのために仕事の前に磨きあげた刀を見て、心を石のように固めるのだ。
「劉大哥」
助手が近づいてきた。まとわりつく僕童を首尾よく追い払ったらしく一人である。
「準備はできたか?」
「はい。刻限になれば台上に引きあげます」
「余裕を持って準備しろ。大の男が暴れまくって抵抗すれば、数人がかりでも押さえるのに苦労するぞ。暴れればそれだけ執行に手間取り、自分の苦痛が増すだけだと本人にも言い聞かせておけ」
職業的無表情を貫く秀に助手はうなずきはしたが、小さな声で「苦しませたほうが妥当ですよ」とぼやくのを忘れない。罪状を考えれば同意だし、なぜこんな凶悪犯が死刑の中では比較的恩情があるとされる斬首で済むのか甚だ疑問である。
「ああ、でもそうしなければいけません」
助手は言った。
「実はいましがた連絡がありました」
怪訝な顔をする秀に助手は告げた。
「今回の遺体は腑分けに回すとのことで、できるだけ損傷しないようにとのお達しでございます」
「腑分け?」
秀はつぶやいた。
なるほど。凌遅刑ではない理由に、それで合点がいった。
国の医薬業務を司る行政機関は医官局だが、最高学府は官立の太医学校である。
二つの機関は両輪として、さまざまな医業の発展に貢献してきた。その彼等の長年の課題で未だ完成を見ていないものが、外科手術に使える安全な麻酔薬だった。紆余曲折と試行錯誤を経て、いまは動物実験の段階に至っている。ちなみにもうひとつの課題であった痘苗の恒常的な生産は、あらかた解決している。しかも近年では西洋から入ってきた、より安全なものを生産するに至っている。
ここに加えてもうひとつ、近年になって研究が盛んになっている分野がある。
正確で緻密な解剖学書の作成だった。
もちろん、これまでも解剖学書は存在していた。ただしこれは治療よりも、むしろ法医学の観点から重要だった。従来の医療は内科が中心で、外科といえば鍼灸や按摩、接骨、あるいは皮膚潰瘍の処置等が主な手技だったので、臓腑や神経の位置よりも、経絡と四肢の筋骨の構造のほうが重要だった。
加えて現状の解剖学書は、当時の印刷技術もあって図が稚拙であることも否めない。
人体の正確な構造を理解しなければ、たとえ麻酔が完成しても外科手術に挑めない。麻酔の完成が現実味を帯びてきたからこそ、上がってきた課題だった。
一応こちらも西洋から緻密な解剖図譜を輸入し、翻訳本もすでに刊行はされていた。
とはいえ原書の発行が古く、また翻訳の稚拙さからよく伝わらない箇所も多々あったので、国内産の解剖学書を刊行しようという気運になっているのだった。
正確な解剖図を得るために、人体解剖は絶対に不可欠。さりとてありていに言えば遺体を損壊する行為だから、献体を申し出る者はそうはいない。必然、死刑囚の遺体が対象となる。なにしろ彼等の大半はその遺体の引き取り手がない。政治犯や思想犯は別として、死刑を下される者はほとんどが殺人犯である。そんな輩の遺体は、たとえ家族であっても引き取りたくない。あるいは元から身内がいない者も多い。結果として執行後の遺体の行き場がなくなり、その場合は刑部が無縁墓地に雑に埋葬する。
こうした遺体が、いつから解剖に回されるようになったのかは知らない。秀が処刑人になった七年前からたまにはあったが、近年は確実に増えている。解剖学書刊行計画の影響だと思う。
もちろんいくら罪人だからといって、死刑という刑を受けた者、つまり相応の罰を受けた者の遺体を自由に献体に出してよいはずもない。死してもなお罪を償えぬゆえに街中にさらすべしという重罪人以外は、丁寧な埋葬と供養、あるいは家族に手紙を渡す等のなんらかの条件を引き換えに献体を申しださせているのだ。
「生きて切り刻まれるより、死んでから切り刻まれるほうを選んだというわけか」
吏舎の火炕(オンドル)で茶を飲みながら秀は言った。
執行は小時辰前に終わった。すでに顔と身体をさっぱりと拭きあげ、血飛沫で汚れた官服も青い長襖に着替えている。
本日の死刑囚は、罪状を鑑みれば凌遅刑に値する。しかし献体と引き換えに、斬首とあいなったのである。
「まったく運のいいやつだ」
中年の獄卒が忌々しげに言う。薄暗い居間には、彼の他にもう一人別の獄卒がいて、昼食の饅頭を頬張っていた。
「処刑の手段もだが、劉さんのような腕利きに執行してもらうんだからなあ」
「まったくだ。頸椎と頸椎の間をすぱっと確実に斬るからなあ」
「いや、今日も見事だった」
「きゃつ、自分の首が飛んだことも気づかないまま逝ったんじゃねえの」
「極悪人を簡単に死なせるなとか、四肢を叩き折れとか叫んでいた奴らも、首が落ちた瞬間は絶句していたな」
「すげえよなあ。さすが元武官……」
言いかけた獄卒ははっと口をつぐむ。もう一人が〝馬鹿〟というように肩を小突く。秀は気づかなかったふりをして茶杯を傾けた。
「一撃で仕留めないと、そのあとが面倒なんですよ」
気さくに返す秀に、獄卒達はほっとしたようだった。
「ちがいない。特に今回のような腑分けに回すぶんは─」
「ごきげんよう」
陰気な吏舎には不似合いな、凜とした女の声が響く。
不意をつかれて驚く獄卒達の間で、秀はうんざりとして顔をそらす。戸口に立っていたのは、緑色の比甲を着けた婦人だった。すらりとした長身で、少し中性的な趣のある佳人である。杏仁形の大きな眸から放たれる光は冷ややかで、ひとかけらの情すらない水晶玉のように見える。もっとも世間には賤業と蔑まれ、刀を振れば冷血と囁かれる処刑人相手に温かいまなざしをむける女などいるはずもないが。
「素中士」
彼女の名を呼びながら、獄卒の一人が腰を浮かす。しかし彼が近寄る前に、彼女はずかずかと部屋に入りこんできた。他人の職場。まして男ばかりの吏舎に対して遠慮したふうもない。盛年の婦人とは思えぬ、お気に入りの玩具を見つけた男児のような躊躇のなさだった。
「時刻前に押しかける形となり、誠に申し訳ございません。心待ちにするあまり、このような非礼をいたしました」
半ば押し入っておきながら、物言いだけは不自然なほど丁寧だった。
「いや、あの俺らに謝られても……」
獄卒はちらりと秀を見る。秀は不機嫌な表情で茶を飲み干した。そんな秀の心境などかまわず、無遠慮に彼女は話しかける。
「ごきげんよう、劉大哥。昼食はもうお召しになられましたか?」
要は仕事に移れるか、という意味だ。小時辰前に斬首を執行した人間への言葉だとは思えないが、彼女はいつもこうだ。荒事に慣れている獄卒達もさすがに辟易した顔をしている。彼等でさえこの反応なのだから、戸口で申し訳なさそうな顔を並べている若い医官達はなおさらのことだ。彼等は素中士の同僚、太医学校の医官である。
素若蘭。年齢は二十七歳。太医学校で研究職にある女子医官だ。
中士とは医官の官職名である。医官の位は、上から大士、中士、少士となる。ちなみに医官も最上位の大士は別として、それ以下の中士、少士は中級官吏である。それでも属吏の獄卒より地位は上だし、ましてそれより下の処刑人など身分的に足元にも及ばない。
彼女─若蘭は、こたびの解剖学書刊行企画の主事だった。
献体と解剖を介して面識のあるこの女医が、秀は以前からひどく苦手だった。
「まだですが、かまいません。よければいまからいきましょう」
秀は腰をあげた。もとより食事を摂るつもりはなかった。処刑のあとは、さすがに食欲が失せてしまう。夜になればなにか摘まむ程度には回復するが、半日は無理だ。
「感謝します」
言葉遣いこそ丁寧だが、彼女の表情は少しも動かない。秀の労力をとうぜんのように受ける若蘭とは対照的に、後から入ってきた他の医官達は一様に申し訳なさそうな顔をしている。
「あの、なんかすみません」
赤の比甲をつけた若い男性医官が言った。下位から赤、緑、紫の比甲が、医官の官服である。同じく赤の比甲を着た若い女子医官も無言のまま頭を下げる。気遣いも遠慮もない上役にほとほと疲れ果てているようで、秀は彼等に同情した。本日は彼等のほかに水色の比甲を着けた者達もいる。太医学校の学生である。
「お気になさらず。早く済ませてもらったほうが、こっちも助かりますから」
素っ気なく答えてから、前方を見る。若蘭はすでにだいぶ先を行っていた。遺体の安置所にむかう足取りは、傍目にもはっきりと弾んでいた。これから実施する解剖に、期待に胸を膨らませているにちがいない。なにしろ景京では久しぶりの献体である。
帝都・景京の治安は比較的良好だが、いわゆるごろつきと呼ばれる輩同士での喧嘩や刃傷沙汰からの殺人はしばしば起こる。殺人の刑罰は基本的には死刑だから、比例して処刑件数も一定数ある。だから秀もそこそこ裕福な暮らしができている。処刑人は名目上は刑部の役人だが、事実上は歩合制の職人のようなものだった。
しかし処刑数が多くても、献体に回される数は比例しているわけではない。遺族や友人が引き取りを希望すれば、もちろん解剖には回せない。引き取り手がなくても罪人が希望しなければ同じことである。死してなお罪を償えという状況でもないかぎり、処刑を受けた段階で彼等は罪を償っている。
刑部官衙の奥に、遺体安置所はある。献体を太医学校まで運ぶことも、刑部官衙まで戻すことも厄介なので、解剖は医官達が安置所まで来て行うことになっていた。安置所は検死を行う場所でもあるので、解剖を実施するのに適している。ちなみにだが検死官は刑部の役人で医師ではない。
身体髪膚――すなわち親からもらった身体を傷つけてはならないという倫理観も影響して、この国の医学は内科を中心に発展した。それゆえ医師が解剖に慣れる土壌が育たなかった。身体の中に病巣があり、それは内服ではどうにもならず、皮肉を切開して取り除かなければならぬことは分かっていても、手をこまねいているしかできない。
西域では古い時代から外科手術が試みられているが、麻酔もなく死亡率も非常に高いというので、敢えて取り入れようという動きも見られなかった。開腹や開胸を伴わない外科的処置、たとえば脱腸(鼠経ヘルニア)や兎唇(口唇裂)あたりの事例はあるが、普及しているとはとうてい言えなかった。
秀が安置所に着いたとき、若蘭はすでに扉の前にいた。さすがに一人で勝手に入ることは遠慮したらしい。
「よく場所を覚えていましたね」
素直な驚きから秀が言うと、若蘭は「以前にもうかがいましたから」と答えた。だとしても前の解剖から数か月が経っているし、安置所は刑部官衙の中でもかなり奥の分かりにくい場所にある。遺体を置く場所だからとうぜんだが、部外者がすいすいと迷いなく行ける場所ではなかった。
重い扉を開いた先の、安置室の中は暗い。格子窓の隙間から差しこんだ光が室内にまだらな陰影を刻みはしているが、火の気のない室内は底冷えして太陽の恵みはいっさい受けられない。
部屋の中央には、寝台ほどの大きさの台が二つ置いてある。手前の台上にはなにもなかったが、奥の台には献体がある。小時辰前に秀がその首を落としたばかりの罪人だった。執行のあと、助手達がここまで運んだのだ。市中引き回しのさいにぶつけられた汚物で汚れた囚人服はすでに脱がされて全裸にしてある。献体は首と胴をくっつけて安置しているから、一瞥したかぎりでは斬首刑を受けた遺体には見えなかった。
けれどその顎の下にある、黒くこびりついた血の輪に気づいて不覚にも胸が疼く。そんな自分の軟弱さに腹立たしさを感じながら、秀は献体を乗せた台の前で手をあわせた。
ふと人の気配を感じて顔をあげると、若蘭が彼の横をすっと通り抜けたところだった。
彼女は献体の傍らに立ち、ひるんだ様子もなくしげしげとのぞきこむ。この段階で黙祷はおろか、手をあわせる気配もいっさいない。
――こういうところが苦手である。
若蘭からは、献体への敬意が微塵も感じられない。
直接的にその命を奪った奴がなにをと言われかねないが、秀は遺体を扱うときは必ず手をあわせている。すでに光を失った死人の眸が自分を恨みがましく見ているようで、本当は近づきたくもないのだが。
極悪人をかばうつもりはない。世の中にさんざん迷惑をかけ、数多の人々の血涙をしぼってきたのだから、せめてこれぐらいのことで世の役に立てという言い分はもちろん分かる。けれど自分の手で断った命への憐憫の情は消せない。被害者と遺族の気持ち、自分の立場を考えれば偽善ではないかと疑う部分があるにしても、秀は自分が手を下した罪人達に感情を寄せることを止められない。
やがて若蘭は顔をあげ、ふりかえって秀を見た。あまり感情を出さないその顔はいきいきとしている。
「手技が熟練していらっしゃるので、損傷がほとんどありませんね」
古着を買い取るような物言いだけでも辟易するのに、そのうえ彼女は奇妙な比喩をつづける。
「断面が均質で、まるで西瓜を切ったあとのようです。これは観察をする上で非常に助かります」
言わんとすることは分かるが、人の首の断面を西瓜の切り口に喩える感性はいかがなものか。赤の果実という色彩も手伝って、生々しさと気持ち悪さが増してしまう。しかも悪趣味な冗談ではなく、本人はいたって真面目な顔で言っている。
あとから入ってきた若い医官の一人が、木箱を抱えて若蘭のそばに走り寄った。解剖の道具が入った箱だ。十数年前に外国製の高価な品を買い入れ、腕利きの職人に模倣させたとのことだ。おかげで一定数が流通するようになり、いまは検死のさいもこれを使っている。検死官から直接聞いたから間違いない。
「はじめます」
若い医官達に若蘭は宣言する。いま気づいたが、いつのまにか彼女は袖付きの前掛けをつけていた。前掛けは未晒しの粗末な亜麻布で、あちこちに落としきれない染みが残っている。彼女がそれだけ解剖を重ねてきた証である。
「その前に――」
刀子を手渡そうとした医官を遮り、若蘭は献体の頭を無造作につかんだ。少し離れた場所で眺めていた秀はぎょっとする。若蘭はそれこそ本当に西瓜でも抱えるように頭部をひっくり返し、切断面を上にむけた。頭頂部は平面ではないので、支えがなければ位置を保てない。ゆえに別の医官に持たせて、学生達を呼び寄せる。
「この首の骨に囲まれた太いものが神経。首の骨を折って全身が麻痺するのは、骨が折れたからではなく中の神経が損傷されるからです」
「これが食道でその前面のこれが気管。口腔から二つに分離するけど、これだけ距離が近ければ誤嚥が起こるのも分かるでしょう」
ずいぶんと初歩的な説明だが、学生相手であればいたしかたない。
おそらくだが彼等より熟練の処刑人のほうが人体の構造には詳しい。凌遅刑などは詳しくなければ、うっかり五刀目くらいで致命傷をおわせてしまう。この酷刑は殺すことよりも苦しめることが目的だから、そんな事態になれば執行人の失態になる。秀自身は凌遅刑を手掛けたことはないが、首席処刑人からそんなふうに聞いたことがある。
このあと開腹して臓腑を、他に頭部、四肢と数日間に渡って解剖は実地される予定である。この時季だから耐えられる。夏場は腐乱が進んでとてももたない。検死官はそんな遺体でも根気良く調べるから、あの根性と執念はすごいと思う。ちなみに刑部の安置室なので、検死もここで行う場合が多い。
埋葬は解剖後になる。斬首と解剖で損壊された遺体は、助手達の手で体裁よくつなぎあわせて墓地まで運ぶ。それが生前に罪人と交わした献体の条件だった。
「方さん、ご覧になりますか?」
若蘭が声をかけたのは、医学生達から少し離れた場所に立つ小柄な青年だった。二十歳を少し越したくらいに見える。痩せた身体に地味な襖と褲を着け、死んだ魚のような目をしている。おそらく遺体安置所ではそのほうが普通で、てきぱきと喋りつづけている若蘭のほうがおかしいのだが。
「そうですね」
せつなの思案のあと、方氏は献体に歩み寄った。
「以前に描いたものと現実に相違がないか、念のために確認させてください」
そう言って方氏は、折りたたんだ紙を広げた。秀からは見えないが、おそらく詳細な解剖図が描いてあるのだ。彼は太医学校が雇用した絵師だと聞いている。あるものをそのまま写し取ったような写実的な絵の技術には定評がある。
花鳥の絵でも描いたほうが需要はある気がするが、黙々と臓腑や筋骨の写生をつづけている。余談だがこのような精密な絵を印刷供給できるようになったことも、解剖学書の新装版を出す後押しになった。
方氏は身をかがめて切断面をのぞきこむ。自身の絵としばし見比べた後、彼はしみじみと言った。
「この断面はみごとな平面で、とても見やすいです」
「劉大哥の手技が良いからです」
そこで若蘭は秀のほうを見て、同意を求めるような顔をする。反応に困る。しかし口ごもる秀のことなど若蘭は気にしたふうもない。彼女は常に己の志趣に従っているだけで他人など気にしていないので、自分が言いたいことを言ってしまえばそれで終わりという人間だった。
「これを見ればわかります。この人は、きっと苦しむことなく逝けたのでしょう」
「多少苦しんだほうが、罪状には比例していると思いますけどね」
ぼそりと誰かが言った。おそらく医官か学生の誰かだろう。心情的には秀も同意だ。けれど斬首は司法が決めた判決である。だから処刑人達は大義名分を持って人を殺められるのだ。司法が斬首と決めたのだから、それ以上のこともそれ以下のこともできない。
「その発言は、医師として適切ではありません」
若蘭が言った。
「彼が苦しまなかったから、私達はいまこうして充実した腑分けができているのです」
「稚拙な処刑人が請け負って、首を落とすのに何度も刃を落とさなければならなかった遺体は、断面どころか血管も神経も著しく損壊されて、観察に適したものではなくなってしまいます。ごらんなさいな。このきれいな筋層と頸骨を。並大抵の技量ではこんな見事な断面にはなりません」
言葉としては秀の処刑人としての技量を褒めちぎっている。それでも、やはりこの女はどこかおかしい。苦しむことなく逝けた、という言葉に一瞬でも彼女の気遣いを感じた自分が馬鹿だったと心から思った。
「ほら、なにが起きたのか分からないような顔で死んでいるから」
若蘭のその言葉に、秀はつい視線を向けてしまった。そう。彼女が指差した生首の顔面に。その瞬間、目があう。閉ざされもしていない目はとうぜん光を失っていて、まるで洞穴のようだった。足元から奈落に吸いこまれそうな感覚を覚える。ばくばくと鼓動が速まり、首筋に嫌な汗がにじむ。半開きにした唇から、浅い呼吸が漏れる。
「では、今日は帰ります」
内心の動揺を押し隠し、声音の平静を保って秀は言った。通常の処刑であれば遺体の埋葬までその日のうちに済ませるのだが、今回は解剖終了後になる。
「終わったら、吏舎に報告をお願いします」
「分かりました。どうもお世話さまでした」
若い医官の言葉にも、秀は小さくうなずくのがやっとだった。早鐘のように打ちつづける鼓動で、心臓が破裂しそうに胸が苦しい。安置所を出た秀はよろよろと裏に回り、人の目を避けるように植込みの陰にしゃがみこんだ。
秀が刑部を出たとき、日はずいぶんと西に傾いていた。
官衙街の通りを南下すると、石造りの古い牌坊がある。その先が市街である。さまざまな店が軒を連ねる大通りは、老若男女あらゆる階層の者達が行きかっている。夕食の買い出しにきた主婦や仕女。職人や商人。閉庁時間を少し過ぎたので、自前の軒車を持たぬ中級以下の官吏達が帰路につく姿も見られる。夕餉の店を吟味する者。一杯ひっかけていこうかと、徒党を組んで店を物色している集団もいる。店の者と思しき子供達が、人込みを縫うようにして走り回っている。
大通りから西に曲がり、小路に入る。秀は吏舎ではなく、戸建てに住んでいる。もちろん高級官僚が住むような一等地ではなく、せいぜい中級の官吏が住まう借家だが、それだけの収入を処刑人は得ることができた。
西日の眩しい通りを目を細めながら進んでいると、やがて自宅の門前に佇む人影に気づく。逆光で姿が良く見えないので、誰だろうと思いつつそろそろと近づいてゆく。
「師匠」
潑剌とした声に「しまった」と思ったときには、もう彼は駆け寄ってきていた。浅藍色の袍を着た青年は、その色にふさわしい爽やかで整った風貌の持ち主だった。ここまできて気がついたが、少し離れた場所に立派な栗毛と綱を引いた馬丁が立っていた。
「若様……」
「御無沙汰しております。とつぜん訪ねてきてすみません」
邪気のない表情に秀は困った。安置所の裏で動けなくなってから落ちつくまでさほど時間はかからなかったが、ぶり返しの不安はまだある。だから今日は早く家に帰って、ゆっくりと心身を休めようとようようにして戻ってきたのだ。
他の者なら出直してきてもらう。不意の訪問者にはその対応でも問題はない。さりとて侯爵家の若様を、門前払いするわけにはいかなかった。
「師匠、どうなさったのですか? お顔の色が悪いようです」
秀を師匠と呼ぶこの若者の名は、孟征洋。年は十八。
父親は先帝の駙馬(娘婿)・享和侯。母親は早世した皇帝の同腹の妹・和宝長公主。彼女は皇帝の生母、喬皇太后の娘であり、つまりこの青年は皇帝の甥で、皇太后の外孫にあたる大変に高貴な若者だった。
その彼が卑賤の処刑人を『師匠』と呼ぶのには、もちろん理由がある。
秀は最初から、卑賤だったわけではない。
「もう、その呼び方はお辞めください」
作り笑いを浮かべながら秀は言う。すると征洋はぶんっと頭を振る。
「いいえ。どのような境遇であろうと、あなたが私の師匠であることに変わりはありません」
目を輝かせて訴えるそのさまは、自分の言動に酔っているようにしか秀には思えなかった。かろうじてなりをひそめていた不安がまたさわさわと蠢きだそうとする。秀はぎゅっと唇を結び、意志の力でなんとかそれを抑えようとした。けれどにわかに苦しくなった呼吸が反射的に唇をこじ開ける。吸いこんで肺にまで到達するはずの息が、喉を通るどころか喉頭のあたりで留まってしまう。
立っていられない。
「師匠、どうなさいました」
青ざめる秀に、征洋が不安と驚愕を交えた表情でのぞきこむ。しかし秀は答えることすらできずにしゃがみこむ。生汗が全身ににじみ、意識が朦朧としかけている。
「師匠!」
すぐそばであがったはずの征洋の悲鳴が、ひどく遠くで聞こえたような気がした。大丈夫。いつもの発作だ。しばらくしたら落ちつく。だから、そんなに喚くな。そう諫めたかったが、唇が思うように動かない。
「誰か!」
ああ、もう。みっともないから、こんなところで叫ぶな。物見高い隣近所の連中が集まって、泣く子も黙る刽子手が人並みに苦しんでいるよ、と笑いものになる。いっそ意識を失ってしまえば楽だろうが、あいにく人間は感情だけでは簡単に失神しない。そういう病を発症している場合は別として、都合よく気を失う連中の大半は、その場から逃げたいゆえの演技なのだと思う。
中途半端に保たれた意識の中で、足音が近づいてきたのを感じる。ついに近所の連中が聞きつけてきたのか。本当にこの若様の独りよがりの善意には困ったものだ。
「そっちを抱えてください」
叱りつけるような女の声が、意識の靄を切り裂いた。秀が顔をあげるより先に右脇からぐいっと身体を持ちあげられる。少し遅れて左脇の下にも支えが入った。
(なんだ?)
訳が分からぬまま顔をあげると、右隣にいたのは若蘭だった。
え? と目を白黒させる秀を通り越して、彼女は左隣に立つ征洋に言う。左脇を抱えていたのは彼だった。
「ここが、この人の家ですか?」
「そ、そうです」
「では、とりあえず中に」
なにが起きているのか分からない。秀は抗いかけたが、立っているのもやっとという状態では窮鼠程度の反抗もできない。浅く短い息を吐きながら二人に脇を抱えられて門をくぐる。騒ぎを聞きつけたのか、ちょうど様子を見にきた僕童の小景が「旦那様」と悲鳴をあげる。今頃出てきやがって、本当にこの役立たずには苛立たせられる。
若蘭と征洋の二人に抱えられて居間まで入り、火炕に身を横たえる。少しずつ呼吸が落ちついてきて、意識もずいぶんと明瞭になってきた。とはいえ「大丈夫ですか?」と泣きそうな顔で言うだけの小景に、優しい言葉をかけてやる余裕はまだなかった。
おろおろと案内をしただけの小景は、使用人としてあまりにも気が利かない。門前からここまでのそこそこの距離と段差の間、秀を抱えることを、女の身でありながら若蘭はものともしなかった。確かに彼女は婦人にしては長身だが、それでも特別たくましい体軀でもない。むしろ細身である。
相対的に非力な婦女子の若蘭にも、名家の子息・征洋にも主人を抱えるという荒仕事を代わろうと申し出なかった小景が、宮廷の採用試験に落ちたことは合点がゆく。立身出世を夢見た親に自宮(刑罰ではなく、自ら望んで宦官になること)を受けさせられたと聞いているが、いくらなんでももう少し資質を見極めるべきだった。死ぬような思いで浄身術(宦官になるための施術。つまり男性器切除)を受けても、然るべきところに採用されなければただの骨折り損である。いや。そんな軽い言葉で片づけるには、自宮の代償はあまりにも大きい。
「いいから、お客様に茶をお出ししろ」
「私はけっこうです」
秀の命に踵を返そうとした小景を、まるでその場に留めるように若蘭は言った。そして火炕に横たわる秀を見下ろし「一度きちんと医者にかかったほうがいい」と告げた。
思いがけず真っ当な忠告に、ぽかんとした直後だった。
「なぜこんなになるまで放っておいたのです? 刽子手なら稼ぎは十分でしょう。それに劉大哥ほどの腕利きなら、禄だけではなく賂も弾んでもらえるでしょう」
あらゆる方面で失礼な発言に、こめかみが引きつるのを自覚した。返事をしないでいる秀に、若蘭はほんのせつな怪訝な面持ちを浮かべたが、特に気にした様子もなく部屋を出ていった。内暖簾がぱさりと落ちたあと、はっと思いついたように征洋が言う。
「そのほうがいいです。すぐにうちの侍医を使わします」
「けっこうです」
少し強い口調で秀は言った。申しわけないからとか、おかまいなくとかの婉曲な表現を使っても、この若様には通用しない。気圧されたようになる征洋に、秀は力なく首を振った。
「享和侯家の侍医に、処刑人のような卑賤の者を診察させてはいけません」
「師匠!」
征洋が声を大きくした。部屋の隅でおろおろする小景に、秀は「さっさと茶を持ってこい」と命じて追いだした。本当にどこまでも気が利かない奴だ。うんざりとする秀の枕元で征洋は声を震わせた。
「私は師匠のことを、卑賤などと思ったことはありません」
征洋がそう思っていなくても、世間的に処刑人はまちがいなく賤業である。
いや、征洋も処刑人が賤業だとは思っているだろう。だから彼は折りにつけ、そして今日も言うのだった。
「師匠が復職できるよう、父に頼んでいます」
「お父上を困らせるものではありません」
秀はもはや冷笑しか出てこなかったのだが、征洋の目には自嘲の笑みにでも映ったようだった。
「師匠のような優秀な武人を、このまま埋もれさせておくなど、わが国の軍部における大きな損失でしょう」
征洋は情熱的に訴えるが、弓や剣術の腕が立つ者など他にいくらでもいる。そもそもその武器自体が時代遅れになりつつある。西洋諸国の戦争では、すでに一兵卒が一挺の銃を持って戦っているのだ。
将来を嘱望された若き武官として派遣された留学先で、その実態を目の当たりにしたときは、すぐにでも上層部に進言しようと張り切って帰国した。そのときは、まさか父親が流刑に処せられて家族が離散しているとは夢にも思わなかった。報告の文と秀の帰国が入れ違いになってしまっていたのだ。
土木を担当する工部の官僚の地位にありながら、治水工事費を着服して手抜き工事を招いたのだから、処刑にならなかっただけで儲けものだった。不幸中の幸いは、手抜き工事が梅雨の前に発覚したことで、損害が出る前に早急に対応されたことだ。堤防の決壊などを招いて被害が出ていたら、それこそ父は凌遅刑に処されていたかもしれない。
十二年前のことだった。
不幸中の幸いというべきか、当時母親はすでに他界していた。そして二人いた父の側室達は、こちらも幸いなことに離縁扱いとなり処分は下されなかった。
嫡子である秀も、免職で終わった。恩情である。普通ならともに流刑になっている。征洋の父・享和侯の口添えがあったのだと思う。直属の上官であった彼は、息子の武術の指導者に選ぶほど秀を買ってくれていた。
ただし嫁ぎ先から離縁された姉は、秀が帰国したときにはすでに自害していた。そして父は、流刑地にむかう途中で亡くなっていた。険しく遠い道のりに、弱った身体が耐えられなかったのだろう。留学から戻ったら婚礼をということで決まっていた、秀の婚約は破談になった。
秀は、十七歳にして職も家族も名誉もなにもかも失った。
行くあてもなく茫然自失していた秀に声をかけてきたのは、当時腕利きの刽子手として有名だった劉氏だった。
『儂の助手にならぬか』
もちろん最初は断った。人を殺めることを忌避したわけではない。なぜなら当時の秀はすでに武官として何度か戦場に赴き、敵兵を打ち果たした経験があったからだ。莉国では外国との大きな戦争は長らく起きていなかったが、辺境付近での夷狄との紛争はしばしば生じていた。
正義のために人を殺める、という点では敵兵を殺すことも罪人を処刑することも同じだと秀は考えている。だからはじめて敵兵を殺めたときも、数日で衝動から立ち直ることができた。自分の行為を正当化することができたからだ。
とはいえ処刑人が賤業だということにちがいはない。主に首切り役人を指す『刽子手』という言葉が、人非人の比喩として使われることがその証左である。だから敢えてそれを生業にしようとは思わなかった。
ただ現実問題として、あの当時は身の立て方が思いつかなかった。父の罪により家財産はほとんど取りあげられ、残った金は自害した姉の葬儀をあげるために使い果たしてしまった。ひと目のある景京を出て、地方の都市で仕事を探そうと思っていたが、旅に出る費用すら工面できなかった。
それで当面の生活費と旅費を稼ぐために、劉氏の助手となった。その段階で汚職官僚として世間に周知されていたかつての姓ではなく劉姓を名乗るようになり、名も変えた。それでも人の口に戸は立てられないもので、吏舎で獄卒が口を滑らせたように、秀の過去はなんとなく知られているようだった。あれこれいやみっぽく言われたことがないのは彼等の良心なのだろう。
いずれにしろ姓を名乗った段階で、劉氏は秀を自分の後継者として考えていたにちがいない。しかし秀はある程度の貯えができたら景京を出るつもりでいたから、この段階で二人の思惑に齟齬はあった。
とはいえこちらは助手で、給与をもらっている立場である。斬首の技術を仕込もうとする劉氏を、秀が無視することはできなかった。元々の生真面目な性質もあいまって、彼は黙々と人の首を刎ねる修行に鍛錬した。助手は他にもいたが、彼等の技量は劉氏に抜擢されるほどではなかった。
『腕の悪い処刑人は、秩序を乱す世の害悪である』
斬首を主に扱う刽子手にかぎらず、あらゆる処刑人に共通する劉氏の信念だった。
処刑の目的は必ずしも死をもって罪を贖うわけではない。それだったら皆一律に吊るし首にすれば、費用も設備も必要ない。
凌遅刑や腰斬刑のような酷刑の目的は、死ではなく苦痛を与えることだ。見せしめ的な意味合いもある。
対して毒酒や斬首は、比較的苦痛の少ない恩情がある刑とされている。両方とも受刑者の証言が得られないので、本当のところは分からないが。
とはいえそのような建前がある中で、斬首刑となった者を刽子手のまずい手技で必要以上に苦しめては刑罰の秩序が保てなくなる。同じ理由で凌遅刑も百刀という判決が出たのなら、とどめを指すのは百刀目であって、九十九刀目までは生かしておかなければならなかった。でなければ刑罰という制裁の秩序が崩れてしまう。
劉氏はそのような信念を持った処刑人だった。
だから剣術の技量と知識を持つ秀に目をつけたのだと言っていた。
ある程度稼いだらすぐに辞めるつもりだったのに、結局十二年もここにいる。その間に劉氏は引退した。加齢により正確に刀を振り下ろすことができなくなった。磨きぬいた斬首刃を、骨の継ぎ目ではなく頸椎の突起にぶつけて刃こぼれさせたとき、彼は引退を決意した。秀が助手となって五年目のことだった。そのときは十分とは言えなくても、ある程度の貯えはできていた。けれど秀はあいからわず劉氏に仕えていた。あのときの自分の心境はいまでもよく分からない。
劉氏の引退を受けて、秀はなんの抵抗もなく刽子手の仕事を受け継いだ。
世の秩序のために刑罰が存在するのなら、処刑人の仕事は世に必要なもの。であれば誰かがやらなければならない。それは劉氏の誇りだったのかもしれない。
けれど秀の場合は、世に対しての義務感や己の誇りなどではなく、ただただ劉氏への恩義の気持ちが強かった気がする。
ここで彼の後継を拒否することは、劉氏が長年培ってきた誇りを少なからず砕く。どん底の自分に手を差し伸べてくれた相手に、そんな義理を欠く真似はできない。
「旦那様」
小景が声をかけた。油灯の上で炎が揺れている。すっかり暗くなってからあわてて明かりを灯しはじめるのはいつものことだった。最初こそ苛立ちはしたが、いまでは火事さえ起こさなければ良いという気持ちになっている。
「若様はお帰りになったか」
あれこれねばる征洋に、適当に取り繕って帰ってもらったのは少し前だった。具合が悪いことを理由に見送りを勘弁してもらい、出口まで小景に案内させた。なにもかもにおいて無能なので、なにか粗相がなかったか気にはなったが、なんのかんの鷹揚な征洋であれば些細なことで目くじらはたてぬだろう。
「はい。旦那様をよく世話するように、仰せつかりました」
どの立場でものを言っているのか。秀は布団代わりの綿入りの袍を引きあげた。火炕を稼働させるほどの気候では、まだなかった。
「食事はどうなさいますか?」
「準備はできているのか?」
「焼餅で良ければ。羊肉と青菜もあります」
小麦で作った焼餅に肉を挟むことは、ある程度余裕がなければできない。食欲はなかったが昼を食べていないので、さすがに空腹を感じてきた。
「そうだな、運んでくれ」
「承知しました」
小景は明るい声で言った。無能で僕童としてはまったく使えないが、素直で善良であることはまちがいない。十にもならぬうちに、親に強制的に自宮をさせられたという苛酷な過去を持つ少年が捻くれていても不思議ではないのに、彼はこうして時折寝込んでしまう主人を本気で心配している。そう考えると可愛げがある。役立たずを放りださないのには、それなりに理由があるのだ。
部屋を出ていこうとした小景は、はたと思いだしたように立ち止まる。そうしてあわてて戻ってきた。
「あのご婦人」
一瞬、誰のことかと思ったが、状況的に若蘭しか考えられない。油の集金にやってくる女将さんを〝ご婦人〟などと気取っては言わない。
「素中士か」
「名前までは存じませんが、こちらを旦那様に渡してくれと仰せつかりました」
小景は懐から折りたたんだ紙を取り出した。そういうのはすぐに渡せと閉口した。彼女が帰ってから、どれだけ過ぎたと思っているのだ。不満を抑えつつ受け取った紙を開くと、そこにはあまり覚えのない単語がぎっしりと記されていた。
――なんだ、これは?
一拍置いてから、それが処方箋であることに気がつく。羅列された生薬は、その分量も含めて丁寧な文字で記されていた。
【つづく】