夢のあと

ありがとう!集英社オレンジ文庫9周年フェア『双蛇に嫁す』(氏家仮名子)スペシャルショートストーリー


 (とう)(ぎょう)(きゅう)はひっそりと静まり返っていた。人々は声をひそめて話し、(きぬ)()れの音にさえ気を配った。‌
 (げつ)(りょう)は、自邸で(しゃん)(ちー)の盤を見つめていた。盤上には、天帝が作りかけで放り出してしまった星座のような、中途半端な棋譜が再現されていた。‌
 白い指が新たに(こま)を置くと、ぱちりと乾いた音が鳴った。‌
 控えた(とし)(かさ)の侍女が、小さく咳払いする。‌
 月凌は顔を上げ、自邸の窓から、よく晴れた空を見上げた。‌
「静かだなあ」‌
 零れた声に、しばしの沈黙を挟んで侍女が答えた。‌
多くの方が、(えい)(ねい)(きゅう)を去られましたから」‌
 そうだね、と月凌は感慨のこもらない声で応える。‌
 空気はすでに湿り気を帯び、夏の暑さを予感させるに十分だった。だが、今年は()(よう)(せつ)も開かれない。ただ一人の皇帝となった(ぎょう)(けい)によって、すでに中止が言い渡されていた。祝祭の華やいだ空気は、たしかに今の永寧宮には似つかわしくない。しかしこの沈んだ空気の中にこそ、祭りの賑々(にぎにぎ)しさが必要な気もした。‌
「本当に、静かだ」‌
 月凌は盤面をそのまま残して立ち上がり、扉へ向かった。‌
「どちらへ?」‌
 侍女の問いには答えず、「この静けさには、もう飽いたよ」とだけ言った。‌

 冬暁宮の中で、その邸のある一画だけが騒がしかった。それがかつての邸の主人の性情を表しているようで、月凌は差し掛けられた傘の下でかすかに笑った。‌
「ああ、貴妃様」‌
 気忙しく立ち働いていた女たちの一人が、手を止めて月凌の元へと走り寄ってきた。‌
(こう)(かく)。忙しいところをすまないね」‌
「いいえ、とんでもないことです。わざわざご足労いただかなくとも、こちらからお持ちしたものを」‌
「ここにあるのを見ておきたかったんだよ」‌
 月凌はあらためて邸を見上げた。‌
 (きょう)()と呼ばれた月凌の友が、一年を過ごした邸である。主人を失った邸をいつまでもそのままにしておくことはできず、整理の手が入ることになった。‌
「そうでしたか。では、騒々しくて申し訳ありませんがこちらへ」‌
 香鶴に誘われ、邸の奥へと進む。片付けはまだ奥の間まで至ってはいないらしく、(まえ)(にわ)(けん)(そう)が嘘のようにしんとした(せい)(じゃく)(こご)っていた。‌
「こちらです」‌
 香鶴が指したのは、窓辺の小さな卓子だった。差し込む陽に照らされて、卓子の上に象棋の盤が鎮座している。‌
 月凌は歩み寄り、そっと盤の表面を撫でた。降り積もったほこりが、うっすらと掌につく。‌
 手入れが行き届かず申し訳ございません、と弾かれたように頭を下げる香鶴にむかって「いいんだ」と首を横に振り、月凌は盤の前に座った。‌
 あらためて盤に手を置くと、陽にぬくめられたそれは肌に温かかった。‌
 月凌の連れてきた年嵩の侍女にちらと視線を送ると、彼女は黙って頷き、香鶴を伴って房を出て行った。二人の足音が遠ざかっていってしまうと、おもての喧騒がかすかに耳に届くばかりになった。‌
 掌の下にある盤は、かつて月凌が杏妃に贈ったものだった。まだ、杏妃が言葉もおぼつかなかった頃の話だ。あの頃は、駒の行き来が会話代わりだった。‌
 なんとなく駒の一つを手に取り、盤の上に置く。その駒の上に、一つ、また一つと重ねる。唯一与えられた娯楽である象棋の遊び方さえ理解できなかった、幼い時分のように。‌
 やがて駒は安定を欠いて崩れ、音を立てて床に散らばった。拾い集めようと屈むと、盤の側面が目に入った。‌
 文字が刻まれていた。‌
『貴妃(おう)月凌様より賜る』‌
 (しゅ)(せき)(つたな)さから、盤を受け取った当人が彫ったものと知れた。‌
 月凌はしばし、駒を拾うのも忘れて文字に見入った。‌
 これを刻んだ人は、どうしているだろうか。‌
 故郷へはとうに帰り着いただろうか。やわらかな寝床を得て、懐かしい味で腹を満たせているだろうか? ‌
 そして今、何を思っているだろうか。‌
 軽く身震いする。‌
 考えずにはいられないのに、考えることが恐ろしかった。この場所から安寧を祈ることは、(ごう)(まん)に思えた。‌
 杏妃には、(らん)で出会った人々を思い返す暇などないだろう。彼女の前に道はなく、それでも走るしかない。愛しい思い出を取り出して眺めることは、痛みを伴う。月凌がそれをできるのは、失ったものがあろうとも、目の前に安穏たる日常が続いているからだ。‌
 指先が熱を持つ。‌
 その熱が(しゅう)()によるものだと気づくのに、それほど時間はかからなかった。‌
 ふと背後の扉に立った気配に、月凌ははっとして振り返った。‌
陛下」‌
 そこにいた顔に、驚きはなかった。そろそろ来訪がある頃だとは予想していた。‌
「邸に行ったら、ここだと言われた」‌
 歩み寄ってきた暁慶は盤を見ると、「お前は、また象棋か」と顔をしかめ、しかし盤を挟んで月凌の向かいに座った。‌
 杏妃はこうしてここに座り、向かい合ったこの人の顔を眺めたことがあったろうか。‌
 そう思うと、熱をもったままの指先がじんと痺れた。‌
 なぜ今ここに座っているのが彼女ではなく自分なのだろうと、不思議に思う。なぜ自分でも他の妃でもなく、ほかならぬ杏妃が、この人の前から去らねばならなかったのだろう。‌
永らくの留守を許せ」‌
暁慶がふうっと息を吐くと、盤に積もったほこりが舞い上がるのが見えた。‌
「陛下に詫びていただくようなことは、何もございませんよ」‌
 必要ないというのに、すまない、と暁慶は何に対してかもう一度詫びた。‌
「冬暁宮は、後宮本来の役目を取り戻さねばならない。血の(おり)としての役目を」‌
 血の檻とは、言い得て妙だった。帝の血を確実に残すために、(けん)(らん)な檻の中に女たちを囲う檻。それが後宮だ。‌
 冬暁宮に住む者は、これまでその役目を忘れて生きてきた。‌
 だがこの人は、自らその檻の中へ帰ることを決めたのだろう。‌
 ()(てい)()(まか)り、唯一の子が草原へと去った今、(こう)()を残すことができるのは暁慶一人だ。この頑固で()()()()な人は、その務めから逃れられない。それを自分に許すことができない。‌
「今さら虫のいい話だと、お前たちは思うだろうが」‌
 暁慶は床に落ちた駒を手ずから拾い上げ、月凌に手渡した。間近で見上げた顔は、ずいぶんやつれて見えた。‌
 己の手に目を落とすと、以前よりも骨張っているように思えた。もしかしたら自分もこの人と同じようにやつれて見えるのだろうかと思うと、微笑が漏れた。‌
 何がおかしい、という暁慶の問いには答えなかった。‌
「陛下。()(そん)ながら、願い出たいことがございます」‌
「珍しいこともあるものだ。いったいなんだ」‌
「私に、(きさき)の位を下さいませんか」‌
 思ってもみなかった言葉だったのだろう、暁慶は目を丸くした。‌
「なぜ、その地位を欲する。お前に限って、野心からではあるまい」‌
 言葉にするまで、これが本当に自分の望んだことなのかわからなかった。しかし一度言葉となって転がり出てしまえば、自分はずっとそのことを考えていたのだと、確かにそれを望んでいるのだと思えた。‌
「冬暁宮が後宮としての役目を取り戻すのならば、誰もが后の位を欲して争うでしょう。ただでさえ混乱をきたした朝廷にあって、それは陛下の望むところではないはずです。ならば、早々にその場所を埋めてしまえばいい」‌
 それに、と月凌は付け加えた。‌
「私が皇后に立っても、これまでの仕打ちを思えば、生家は復讐を恐れこそすれ増長するようなことはあり得ません。それなりの家柄でありながら、外戚の(せん)(おう)を恐れる必要がない。後宮に残る女たちの中で、私ほど都合のよい者はいないでしょう」‌
 違う、と暁慶は息を吐いた。‌
「私が『なぜ』と訊いたのは、お前の意図だ。后の地位など、お前の(いと)(わずら)わしさの最たるものではないか」‌
 ゆるしてほしい、と心中で詫びた。‌
 暁慶にではない。もうここにはいない友に対してだ。彼女は責めはしないとわかっているのに、それでも詫びずにいられなかった。‌
 胸中に去来するものを押し殺し、「口にすると(おも)()ゆいですが」と月凌は笑った。‌
「冬暁宮を、私が愛した姿のまま留めておきたいのです。以前とまったく同じというわけにはいかないでしょうが陛下が血の檻と呼ばれたこの場所が、私にとっては安寧の地でしたから」‌
 加えて、杏妃が草原で族長となった時、皇后という地位があれば助けてやれることもあるかもしれない。もちろん、ないかもしれない。けれど力が無ければ、最初から望みようもないことは多くある。‌
 それは口にしなかった。‌
 代わりに、「彼女がいた一年は、特に楽しかった」とつぶやいた。‌
「彼女を見送ったあの日、私の残りの人生は余生のようなものになるだろうと予感しました。ただ日々を溶かし舐めるような、そんな毎日を過ごすことになるのだと」‌
 でも、と月凌は窓の外に目をやった。外に降り注ぐ明るい光を見ると、房内が余計に暗く思える。‌
「彼女は余生どころか、濫を出て新たな人生を歩むことになる。その道は祝福に満ちたものではあり得ない。その時私は、ただ()()に日々を過ごしてよいものだろうかと、それで彼女に再び会えたその時に、はたして顔向けできるものだろうかと考えたのです」‌
 暁慶は閉ざしていた口を、(たい)()そうに開いた。‌
あれに再び会えると、お前はそう信じているのか」‌
「ええ。もう一度会えるその日まで、生きていればよいのです。象棋と同じことです。負けなかった者が、最後には勝つのですから」‌
 暁慶は呆れたように口元を緩めた。‌
「強者にだけ、許された言行だな」‌
 月凌は笑い返し、盤の上に散らばった駒を片付け、対局前のあるべき形に整えた。‌
「賭けをいたしませんか、陛下。私が勝ったら、願いを聞き届けてくださる。そして、彼女との再会を信じる。私と同じように」‌
「はなから結果のわかった勝負を持ち掛けるなど、虎らしからぬ臆病さだ」‌
 暁慶は鼻を鳴らしてそう言ったが、両目は盤面に落とされた。‌
「いいんだな。自分から持ち掛けたことだ、手加減などするなよ」‌
「もちろんです」‌

 半刻も経たない内に、盤上の勝負はすでに決した。暁慶はまだ負けを宣言してはいないが、挽回はすでにあり得なかった。その証拠に、暁慶はさっきからかすかな呻り声を上げていた。‌
「陛下」‌
 暁慶が顔を上げる。月凌は意識して口角を引き上げ、しわの寄った眉間に向かって微笑んだ。‌
「きっと、私たちはよき友足り得ましょう」‌
 ほかの何になり得なくても、失ったものが私たちを結びつける。‌
月凌はその言葉を喉に留め置いた。‌
「皇帝とその后が、友か」‌
「おかしいでしょうか」‌
 いや、と暁慶は盤上に手を伸ばした。ぱち、と駒が悪あがきに盤を叩く。‌
「それも悪くはない」‌
 駒の立てた音は、静まり返った房に響いた。かすかな音は、静寂を強調する。ここにいるはずだった者の不在を叫ぶように。‌
 月凌はその不在を身に染み込ませるように、不要な時間をかけてゆっくりと打った。‌
 暁慶が唸る。‌
 夫であり友となったその人が次の手を打つのを、あるいは負けを認めるのを、月凌は待った。‌
 待つことは得意だった。幼い頃から、来るのかもわからない何かを、いつかを待ち続けていた。冷えた房の中で、あるいは盤の前で。‌
 私の負けだ、と暁慶が小声で言った。‌
 月凌は微笑む。‌
 これからだってきっと待てると、そう確信しながら。‌

【おわり】‌