払暁前夜――嚆矢、北方より


‌「また、双子の妃か」
 長い黒髪を結い上げた男は、そう言って顔をしかめた。()(けん)に寄った(しわ)に、青い影が生まれる。
‌ 男は、美しいと評されるに足る(よう)(ぼう)を備えていた。切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇。それらすべてが、あるべき場所に収められている。しかしその美貌には、どこか(かげ)りが付きまとっていた。
‌「お前はそう言うと思っていたぞ。(ぎょう)(けい)
‌ 向かいに座った男が笑い声を立てた。暁慶と呼ばれた男とは対照的に、陽の気を放つ男である。黒い瞳は星のごとく輝き、声は()()ぜる火のように明るい。
‌「笑い事ではないでしょう、(えん)(らん)兄上」
‌ 暁慶は大げさに溜息を吐き、(ひたい)に手をやった。
‌「礼部はいったい、どれだけの双子を後宮に押し込めたら気が済むのだ?」
‌「そう言うな。春官たちの要望はできる限りきいてやるのがよかろう。ただでさえ、父上と違って我らが礼部を軽視していると不満に思っているのだから」
‌ 軽視も何も、と暁慶は(いら)()たしげに卓子(つくえ)を指先で叩いた。
‌「父上の代が異常だったのです。我らはただ、礼部に割く予算を先々代の御代と同程度に戻そうというだけのこと」
‌「人は一度栄華を味わうと、元には戻れんというからなあ」
‌ 燕嵐は(おう)(よう)に笑ったが、暁慶は一緒になって笑う気にはならなかった。
‌ 暁慶と燕嵐は容貌こそ似ていないがれっきとした双子であり、どちらもこの(らん)国の皇帝である。
 二人の(みかど)が同時に並び立つなど、他国ならばあり得ない。しかしこの濫国では、それがまかり通る。
‌ 濫では、国作りの祖神として双頭の蛇神が(たっと)ばれている。天帝が創世を命じ地上に遣わしたのがこの(そう)(じゃ)であり、国中の(あま)()(びょう)(まつ)られている。双蛇は、創世を終え(たお)れた後も、()(こう)(よう)(こう)という二又の大河と化して濫に恵みを与えていると信じられている。
‌ そして濫国に生まれる双子は、この双蛇の生まれ変わりであるとされる。
‌ 双子の皇子の誕生を、人一倍信心深かった先帝は(こと)の外喜んだ。双子の息子たちは双蛇神の祝福の(あかし)であり、自らの退位後は濫に二帝が立つと(のたま)った。
‌ その言葉どおり、双子の皇子は(そろ)って玉座に昇った。
‌ 二人の皇帝は、それぞれに後宮を持つ。そこに住まう()(ひん)の内、最も位の高い四夫人も皆双子である。
‌ そして今また一組の双子を(めと)ろうという話が持ち上がっていた。
‌「双子となれば、下級妃として迎えるわけにもいかないだろう。いったいどれだけの金が国庫から出ていくことになる? そんな金があるのなら、直接(かん)(ぜい)()いてやった方がずいぶんましというものでしょう」
‌ 数カ月前、冠斉という街を魏江の氾濫が襲った。冠斉は北の草原と国境を接する交易の要所だが、いまだ復興の途上にある。
‌ そこで、先帝の代から(えい)(ねい)(きゅう)に仕えるまじない師が『魏江の氾濫は双蛇の怒りだ。鎮めるためには、新たに双子の妃を娶る必要がある』と言い出した。
‌ 暁慶は反対したが、春官たちの『双蛇神をなにより尊んだ父帝ならば、必ずやそうされたでしょう』という言葉に押し切られてしまった。父帝は自らの信心に従い、礼部を重用し国中に廟を乱立させた。その影響を、年若い二帝は未だ排しきれていない。
‌「暁慶の言うことはもっともだ。だが世の中は、(じつ)によってのみでは動かない。特にこの永寧宮ではな。おまけに、すでに双子の妃を求めるという(ふれ)(がき)は出されている」
‌「触書など、いくらでも撤回すればよろしいでしょう」
‌ その時、(へや)の扉を叩く者があった。入れ、と暁慶が(こた)える。
‌「陛下。ところがそうもいかなくなってしまったのですよ」
‌ そう言いながら現れたのは、暁慶に仕える(かん)(がん)(ろう)(さん)だった。捧げ持った盆から茶器を下ろし、手際よく二人分の茶を()れる。
‌「どういうことだ?」
‌ 狼燦は二人の前に(ひざ)を付き、両(そで)を合わせて拝礼した。
‌「(つつし)んでご報告いたします。双子の妃を求める触書に応じる者がございました」
‌「そんな者はいくらでもいるだろう。どこの小役人の娘だ? 娘が双子であれば、またとない出世の機会だからな」
‌「おや、暁慶様。私がそのような、ものの数にも入らぬ野心(あふ)れる田舎者の話を持ち出すとでもお思いですか?」
‌ 暁慶は眉間の皺を深くした。
‌「まわりくどい言い方をするな。いったいどんな(やから)が手を挙げたというのだ? 目ぼしい貴族や大臣たちに、双子の娘はもういないはずだぞ。すでに後宮に迎えた四夫人で(しま)いだろう。それともまさか、(りゅう)家が先日生まれたばかりの双子を寄越すと言ってきたか? ならば()(じょ)ではなく、()()を用意せねばならんな」
‌ いくらなんでも赤子を後宮に引き取るわけには参りません、と狼燦は口元を緩めた。
‌「求めに応じたのは、濫国の者ではございませんよ」
‌「なに?」
‌ 狼燦は燕嵐をちらと見やった。
‌「草原の一氏族、アルタナ族長からの使者が今朝到着しました。使者によれば、族長が自身の娘たちを我らに差し出す用意があると」
‌ 沈黙があった。
‌ 狼燦の淹れた茶の(かぐわ)しい香りばかりが、辺りに立ち上っていた。
‌「草原の、姫か」
‌「異民か」
‌ 燕嵐と暁慶が口を開いたのは、同時だった。二人の視線が空中でかち合う。
‌「兄上、わかっておられますか? 草原の姫を迎え入れるということは、彼奴(きゃつ)()と手を結ぶということです」
‌「もちろんだ。向こうから申し出てくれるとは、願ってもない。魏江の氾濫で弱った冠斉に、草原から攻め込まれてはたまらないからな。その上、冠斉の安全が約束されればもっと交易も栄えるだろう。さすれば復興も早まろうというもの」
‌ 北の草原と濫国とは、はるか昔から争い続けてきた間柄だ。その草原の氏族が娘を濫帝に寄越すというのだから、和平を結ぶ意志があるということだろう。燕嵐の言うとおり、こちらから頭を下げることなく向こうから願い出てくれるとは、(せん)(ざい)(いち)(ぐう)の好機だ。
‌ しかし、暁慶には一つの懸念があった。
‌「兄上、一つ確認したい。よもや、以前に草原で見かけたという少女が嫁いでくるかもしれないなどと期待してはおられませんね?」
‌ 燕嵐は皇太子であった頃、見聞を広めるために西(さい)(いき)や草原に出向いた。燕嵐は数々の土産(みやげ)話を暁慶に語って聞かせたが、その中で幾度も繰り返されたのが、草原で出会った少女のことだった。出会ったとはいうものの、話から察するにどうやら燕嵐が一方的に見かけただけのことらしい。だというのに、燕嵐は西方の珍しい風物よりもよほどその少女に心()かれたようだった。暁慶は色恋に明るい方ではなかったが、どうやらこれはそういうことらしいと察せられるほどだった。
‌ 当時の暁慶は兄を哀れに思った。
‌ 皇太子の燕嵐にはすでに複数の妃がいた。いずれも美しい女たちばかりだ。だというのに、決して後宮に迎え入れることのかなわない少女に心奪われてしまった。
‌ ままならないものだと、暁慶は燕嵐の輝く瞳を眺めながらひそかに溜息を吐いた。願わくば、自分にはそんなことが(えい)(ごう)起こらないようにと、柄にもなく天に願ってみたりもしたものだった。
‌ 燕嵐は(ほお)から笑みを消し、()()から身を乗り出した。
‌「それで、姫たちの名は?」
‌ 暁慶の問いには答えず、狼燦にそう(たず)ねた。
‌「さあ、まだ名までは。まずは使者にお会いになられるかどうかをお()きしようと思いまして」
‌ 暁慶は狼燦を(にら)んだが、涼やかな笑みが返ってきた。
‌「では、お会いになるということでよろしいですね?」
‌ 暁慶はぐっと言葉に詰まった。
‌ まじない師の言葉に従い双子妃を迎えるというだけなら、反対のしようもある。しかし、それに乗じて草原と手を結べるのなら、突っぱねる理由はない。おまけに、燕嵐はどう見ても乗り気だ。結局春官たちの言いなりになるのは(しゃく)だったが、そんな理由で首を横に振り続けるわけにもいかない。
‌ 暁慶はまだ熱い茶を一息に飲み干すと、「では明朝、使者とやらを呼べ」と言い置いて房を後にした。
‌ 暁慶の背中を見送ると、狼燦は苦笑した。
‌「あのようにご機嫌を損ねられなくてもよろしいのに」
‌「そう言うな。暁慶には暁慶の考えがあるのだ」
‌ 狼燦は燕嵐から空になった茶器を受け取り、卓子の上を片付けた。
‌「変わられましたね、暁慶様は」
‌「そうだろうか?」
‌ そうですよ、と狼燦は独り言のようにつぶやいた。
‌「昔はとても可愛(かわい)らしい方だったではありませんか」
‌「今でも可愛い弟だぞ、暁慶は」
 ふ、と狼燦は噴き出した。
‌「そうですね。燕嵐様にとっては、今でもそうなのでしょう」
‌ 狼燦はそう言うと、遠い過去に思いを()せるかのように、窓の外に目をやった。

‌ かつーん、と冷たい音を立てて面が舞台の上に落ちた。
‌ 先刻まで華やいでいた場の空気は一瞬にして温度を失い、列席した一同の顔は凍り付いた。
‌ まるで時が止まったかのようだった。
‌ 皆、落ちた面を凝視して大いに(あぶら)(あせ)をかいた。首を動かすことさえはばかられ、互いに顔を見合わすこともできなかった。彼らにできるのはただ、事の成り行きを(かた)()()んで見守ることだけだった。
‌ 屋根の下での人間たちの(ろう)(ばい)などつゆ知らず、中院(なかにわ)では桃花が芳香を放っている。梅花から盛りを譲り渡されたばかりの桃花は、ここ永寧宮に春の訪れを高らかに告げていた。
‌ 三月の末、春を迎えた(きゅう)(じょう)では、双子の皇子である燕嵐と暁慶の九つの生誕節が(もよお)されていた。
‌ (よわい)三つを越えた皇子の生誕節では、皇子本人が一年の鍛錬の成果を父帝と臣下に披露するのが習いとなっている。
‌ 双皇子の九歳の祝いの席に帝自らが選んだのは、『双蛇』と呼ばれる舞の演目だった。
‌ この演目は、二人の人間が蛇面をかぶり、双蛇神と化して舞う。
‌ その最中に、双子の片割れが面を取り落とした。
‌ 面を結んでいた(ひも)が解けたのだ。
‌ 当の皇子は、舞うことも忘れ、床に落ちた面を(ぼう)(ぜん)と見つめている。
‌ 面を拾えばいいのか、それとも落としたことなどなかったことにして舞い続ければいいのかわからず、その場から動くこともできないでいる。
‌ ──またか。
‌ 汗で衣を濡らした人々は、舞台上に立ち尽くす皇子を(うら)めしく見やった。
‌ 失態を演じた皇子は、名を暁慶といった。いま一人を、燕嵐という。
‌ 彼ら双子の皇子をひそかに評する時、人は皆「天帝は、二人に与える天分を測り間違えられた」と言う。燕嵐にあまりに多くを与えたがために、暁慶に授けるものがなくなってしまったのだと、彼らは嘆息した。
‌ 楽人たちの奏でる楽ばかりが、宴席に流れ続けている。
‌ 暁慶にとって、冷汗が背中を垂れ落ちていく感触だけが確かだった。
‌ 落としたのがただの面ならば、暁慶も迷いなく舞い続けただろう。
‌ しかし、顔からすべり落ちていったのは、祖神たる双蛇の面だ。
‌ 燕嵐と暁慶の双皇子は、天が遣わした双蛇の現身(うつしみ)とされている。それは、生まれながらに神の化身たる振る舞いを求められるということでもあった。
‌ 双蛇神の面を、よりによって生誕節で取り落とすことなどあってはならなかった。その「あってはならない失態」を、九歳になったばかりの暁慶は犯してしまった。
‌ 宴席の中央に座した帝が、苛立たしげにぱちりと(おうぎ)を打ち鳴らした。
‌ 暁慶の肩がびくりと跳ねる。細い眉が下がり、黒い瞳が潤んだ。
‌ まずい、と誰もが息を呑んだその時、舞台の上を動く影があった。
‌ その小さな影は、人々が制止する間もなく落ちた面のもとへと駆け寄った。
‌ 落ちた面と一対となる(へび)の面をかぶったその影は、双子の片割れ、燕嵐であった。
‌ 燕嵐は面を拾い上げ、弟に向かって投げた。
‌「さあ、続きだ!」
‌ 燕嵐はなんでもないことのようにそう言った。
‌ 暁慶は飛んできた面を()(かっ)(こう)に空中で(つか)むと、急いでかぶり直し、きつく紐を結んだ。
‌ その時を待ち受けていたかのように、笛の音が(ひと)(きわ)高く響き渡る。
‌ 暁慶はぎこちなく、しかし再び舞い始めた。
‌ 燕嵐は満足げに笑うと、自らも(ほう)の袖を(ひるがえ)した。
‌ 凍り付いていた観衆から、吐息が漏れる。
‌ 面の落ちたことなどなかったかのように元通りになった舞台を見ながら、人々は横目でおそるおそる皇帝の顔色をうかがった。
 帝は眉間に皺を寄せてはいたが、ひとまず声を荒らげて怒り出す気配はないようだった。
‌ 臣下たちはほっと胸を()で下ろし、無言の内に目配せし合った。はたしてこの皇子たちの舞が終わった時、賛辞を口にすべきなのか、それとも黙って手を叩くだけに留めるべきなのかを、なんとか探ろうとしたのだ。しかし、誰も正解など知りはしなかった。
‌ 双蛇神の面を取り落とすなど、(ただ)(びと)が犯せば(じょう)で打たれることを(まぬが)れない罪である。しかし、その失態を演じたのが双蛇の生まれ変わりである皇子であった場合、いったいどうなるのか?
‌ すべては帝の(さじ)加減一つだった。
‌ 楽が止んだ時、結局人々は無言で拍手することを選んだ。余計なことを口にして、(とが)めがあってはたまらない。
‌ 暁慶は、人々の視線から逃げるように舞台を後にした。舞台を悠然と横切り、女官たちに手を振ってみせる余裕さえある燕嵐とは、舞姿どころか去る姿すら対照的である。
‌ なぜこんなにも、と観衆は嘆息する。
‌ なぜこんなにも、双子の間に差があるのか。
‌ 二人の皇子がたった今披露した『双蛇』は、双蛇神の足跡を(たた)えるものだ。二人の舞手を要するこの演目は、双蛇の面をかぶることからわかるとおり、双蛇神と一体化することを求められる。それがゆえ、この『双蛇』の演目を舞うことが許されるのは、皇帝と皇太子、もしくは双子として生まれた者のみである。
‌ そのような演目が、双蛇の現身といわれる双子の皇子によって舞われるとなれば、人々が色めき立たないはずはない。なにせ、まだ年少の皇子たちにこの演目を任せる帝の思惑は、あらためて彼らを太子とする意図に揺らぎがないことを示すものに他ならなかったからだ。
‌ しかし、皇子に近しい者たちは、帝の決定に不安を覚えずにはいられなかった。
‌ (うれ)える彼らの頭に浮かぶのは、暁慶の顔だった。
‌ 双蛇神の間に優劣は存在し得ない。
‌ どちらがより創世に貢献したということはなく、どちらかがより天帝の信頼を勝ち得ていたということもない。彼らは常に対等であり、対称を成すものでなくてはならない。
‌ それは、双蛇の化身たる双子の皇子にしても同じことだった。
‌ だからこそ、帝は双子の皇子たちの扱いに差があってはならないと定めた。二人が生まれてすぐ、食べ物や着る物、髪や爪の長さから乳母の身分にいたるまで、成人するまですべて同じくせよとの(ちょく)(れい)を発したほどだった。
‌ 二人がまだほんの赤子の頃はよかった。帝の命を皆、()(ちょく)に守ることができた。
‌ しかしそれはすぐに難しくなった。
‌ 立ち上がるのも歩き始めるのも、言葉を話し始めるのも、すべて兄の燕嵐が先だった。
‌ 何をやらせても、暁慶が燕嵐に優るどころか、肩を並べることさえなかった。
‌ 暁慶が不出来な皇子だったわけではない。同い年の貴族の子弟と比べれば、十分に秀でているといえた。しかし、燕嵐の輝きの前では「凡庸な優秀さ」は意味を為さなかった。
‌ 周囲の人間たちは燕嵐を褒めそやしながら、暁慶の存在も無視するわけにはいかなかった。それがため、燕嵐には本心からの賛辞が、暁慶にはなんとか(ひね)り出した世辞が贈られることになった。
‌ 暁慶は、周りに(はべ)る者たちが口にする言葉に真のないことに、幼くして気がついていた。それは暁慶の自尊心をずいぶん傷つけた。しかし、彼らに本心で接せよと迫るのも理不尽であると理解できる程には、暁慶は賢かった。
‌ だから暁慶は口をつぐんだ。
‌ 周囲の(うそ)くさい笑みや、耳触りのいい言葉に(かん)(しゃく)を起こすこともなく、小声で礼を述べた。
‌ 子供らしからぬ物分かりの良さは、大人たちの目には世辞を本心と信じる(おろ)かさと映った。それは余計に暁慶を(あなど)る材料となった。暁慶は侮りさえも正しく察し、ますます自分の(から)()もるようになっていった。
‌ 母は息子を案じたが、心配すればするほど、暁慶は母の悩みの種である自分をより恥じるだけだった。母にできることは、()(びん)な息子を黙って抱き締めてやることだけだった。
‌ 舞台を降りた暁慶を迎えた人々の目には、(らく)(たん)がありありと見えた。燕嵐に向けるそれには、純粋な賞賛と、暁慶のせいで演目が失敗に終わったことへのねぎらいがあるように思われた。
‌ どちらも、まだ九歳になったばかりの暁慶には耐え難いものだった。
‌ 一度は自席に戻ったものの、暁慶はすっくと立ち上がった。
‌「暁慶? どうしたのですか」
‌ 母や侍女の呼び声を振りきり、暁慶は(うたげ)の席を後にした。

‌ 顔を(ぬぐ)うと、手の甲に薄く血が伸びた。
‌ (やみ)(くも)に走るうちに、(たけ)(やぶ)で頰を切ったらしい。
‌ つくづく自分の鈍さが嫌になる。
‌ 目のふちに(にじ)んだ涙をなかったことにしたくて、暁慶は乱暴にこすった。
‌ 鼻をすすり、空を見上げる。(あかね)色に染まり始めた空を、(からす)たちが群れをなして飛んでいく。山のねぐらへ帰るのだろう。暁慶も無性に自邸に帰りたくなったが、意に反して足は動かなかった。
‌ 暁慶は一人、ぎゅっと膝を抱えた。
‌ 暁慶が座り込んでいるのは、後宮のとある妃の庭、その竹藪の中である。母が燕嵐と暁慶を伴ってよく訪れるこの庭は、勝手知ったるものだ。自邸の庭ではすぐに見つかってしまいそうだし、かといって見知らぬ場所にうずくまる勇気もなかった。
‌ しかし、夕暮れの色に染まる後宮の庭は、まるで知らない場所のように見える。
‌ 後宮では、日没後に出歩くことは禁じられている。この時刻は、常であればすでに自邸にいる。
‌ 次第に影を濃くする庭や、風にざわめく竹藪に、なんだか恐ろしい心地がしてくる。いつもは陽光を照り返して白く輝く池も、今は水面が(だいだい)色の光の粒を(たた)えるばかりで、底の方は真っ暗だ。完全に日が沈めば、ぽっかりと地面に空いた穴のように黒く染まるだろう。
‌ 遠く、侍女や宦官たちが自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
‌ 今すぐに立ち上がって、声の方へ駆けていきたい気がする。
‌ だけど、同じくらい出ていきたくない。
‌ 誰かが竹藪をかき分けてやってきて、見つけてくれたらいい。
‌ けれどいったい誰が、広い後宮の片(すみ)で、竹藪に座り込んでいる子供を見つけてくれるだろう。それに、探してくれている侍女や、(やしき)で待っている母だって、本当は自分が帰ってこない方がほっとするのかもしれない。今日だって、燕嵐が一人で舞っていれば、皆安心して宴を楽しんでいたはずだ。父や母も、心から笑っていられただろう。自分がいたせいで、(なご)やかな時間が冷えきったものに変わってしまった。
‌ 誰も、自分のことなんて待ってはいない。
‌ 一度そう思うと、その考えは暁慶の中にどっかりと座り込んで動かなくなった。
‌ うつむくと、鼻の奥が熱を持ってつんと痛んだ。
‌ その時、地面に落ちた竹の葉を踏みしめる音がした。
‌「やっぱり、ここだった」
‌ 顔を上げると、子供の影がそこにあった。逆光に塗りつぶされたその顔は、確かめるまでもなく、双子の兄のものだった。
‌「兄上」
‌ 今は一番見たくない顔だった。けれど、暁慶はどこかで燕嵐が迎えに来てくれることを予感していた。
‌ 本気で誰も見つけに来てくれないと思っていたのなら、きっと逃げ出すこともできなかった。(しゅう)()に耐えながら、うつむいたまま母のかたわらで宴の時が行き過ぎるのを待っていたに違いない。
‌ 自分の浅ましさに、暁慶は頰を熱くした。
‌ そんな暁慶に、燕嵐はまっすぐに手を差し出した。
‌ 丸い指先を眺めながら、似ていない、と暁慶は思う。
‌ 双子だというのに、自分とこの兄はまったく似ていない。
‌ 燕嵐は暁慶の手を、強い力で摑んで引いた。
‌「もうじき日も落ちる。早く帰ろう」
‌ 燕嵐の手を振り解くこともできず、暁慶はよろよろと立ち上がった。
‌「あの、兄上
‌「行こう」
‌ 燕嵐は暁慶の言葉を聞かないうちに歩き出した。
‌ 山際へと落ちていく日に、二人分の影が細く長く道の上に伸びていた。黙って手を引かれながら、どこまでもついてくるその影を、暁慶は睨むように見ていた。
‌ 歩くうちに、茜色の世界が滲んだ。
‌ 暁慶が鼻をすすり上げても、燕嵐は振り返らなかった。
‌ ただ、(つな)いだ手に力がこもって、痛いほどだった。

‌「兄上、ありがとうございました。舞台の上でも先ほども」
‌ ようやく燕嵐に礼を言うことができたのは、邸に戻り、侍女たちの小言を聞き、(しょう)にもぐり込んでからのことだった。
‌ 燕嵐は宴に供された(まん)(とう)をひそかに(ふところ)に忍ばせていたらしく、今まさに大口を開けてかじりつこうとしたところだった。
‌「こんなところで饅頭を食べたら、(しか)られますよ」
‌「見つからなければ怒られない!」
‌ 燕嵐はにっと笑った。
‌「それに、礼はいらない! だが、母上には謝った方がいいな。暁慶が姿を消して、(きも)(つぶ)されたご様子だった」
‌ ごめんなさい、と暁慶はか細い声で言った。言いながら、一時は悲しまれても、結局は自分がいなくなった方が母の心も安らぐだろうという考えは去らなかった。
‌「母上には、明日きちんと謝ります。それに、舞の老師にも。あんな失敗を、よりによって本番で仕出かすなんて
‌「面が落ちたのは、暁慶のせいじゃない。ただの偶然だ」
‌「でも、面を落とした後、動けませんでした。頭が真っ白になってしまって」
‌ そこまでだ、と燕嵐は懐からもう一つ饅頭を取り出すと、暁慶の口に突っ込んだ。
‌ 話すどころか呼吸をすることさえ難しくなり、暁慶は必死に饅頭を()(しゃく)した。
‌「俺たちは無事に舞を終えたじゃないか。この口は、どうしてそんなに俺の弟を悪く言う?」
‌ 燕嵐は饅頭で膨らんだ暁慶の頰をつついた。
‌「無事、でしたでしょうか」
‌ 口の中に残った饅頭を飲み下すと、暁慶は苦い声を出した。
‌ 今日の舞は、ひどい出来だったという自覚があった。たとえ面を落とさなかったところで、それは変わらない。練習の時はもう少しましな動きができている気がするのだが、たくさんの人や父帝を前にし、燕嵐と共に舞うのだと思うと、それだけで手足が縮こまってしまう。
‌「無事だ! 見事最後まで踊りきった!」
‌ でも、そうだな、と燕嵐は饅頭をかじった。
‌「たしかに暁慶はもっと上手(うま)く舞える。練習したとおりのものを、皆や父上にも見せたかったなあ」
‌「練習のとおりだったとしても、兄上には及ばないのですから。同じことですよ」
‌「そんなことはない! お前の舞は美しい」
‌ 暁慶はいたたまれなくなって、(ふとん)にもぐり込んだ。目だけを出して燕嵐を覗き見る。
‌「世辞など、兄上らしくもない」
‌「世辞なものか。俺は生まれてこのかた、一度もそんなもの口にしたことはない!」
‌ 胸を張った燕嵐に、暁慶は目を細めた。
‌「でも、兄上以外に、私の舞を褒める者などおりませんよ」
‌「母上がおられるではないか」
‌「母上は、たとえ舞台に上がったと同時に転げても褒めてくださるでしょう」
‌ 燕嵐は笑い声を上げた。
‌「とにかく、私のことはよいのです。兄上の舞はいつもながら見事でした。共に舞うのではなく、舞台の下から見上げたかったほどです」
‌「寂しいことを言ってくれるな。それに俺だって、二月前の生誕節での(こう)(がい)兄上に比べたらまだまだ見劣りするだろう」
‌ 晧垓というのは、燕嵐と暁慶の三つ年上の皇子である。二人にとっては異母兄にあたる。母が二人を伴ってよく晧垓の母の邸を訪ねるので、自然に晧垓とも親しくなった。暁慶が座り込んでいた竹藪は、晧垓の母の庭のものだった。
‌ 晧垓は、燕嵐に優るとも劣らない秀でた皇子である。おまけに、父帝にとっての第一皇子だ。燕嵐と暁慶が双子に生まれなければ、晧垓が立太子されていただろう。それを思うたび、暁慶の胸は針で突かれるように痛んだ。燕嵐と晧垓が双子だったなら皆納得しただろうと思ったのも、一度や二度ではない。
‌「そんなことはありません。晧垓兄上もたしかに立派なお姿でしたが、燕嵐兄上だって負けていませんでしたよ」
‌ 燕嵐は(そう)(ごう)を崩したかと思うと、暁慶の隣にもぐり込んだ。
‌「兄上の牀はあちらですが」
‌ 暁慶は房の反対側を指差したが、燕嵐は動こうとしなかった。
‌「今日くらいはいいだろう」
‌ 暁慶と同じように、燕嵐も目だけを衾から出して弟を見た。
‌「我らももう九つだ。じきに父上が成人の儀のお話を出されるかもしれない」
‌ 暁慶の心臓はぎくりと(きし)んだ。成人の儀を終えれば、正式な立太子も間近となる。
‌ 恐ろしかった。
‌ いずれこの兄と名実共に並び立つ日が来ることを、今はまだ考えたくなかった。
‌「そうなれば、邸も別々になる。父上が何もかもを同じにせよと言われたのは、成人の間までのことだから」
‌ 燕嵐は寝返りを打ち、暁慶の方を向いた。大きな目から放たれるまっすぐな視線を受け止め難く、暁慶は目を()らした。
‌「そうでなくとも、俺たちの身体(からだ)ももっと大きくなる。そうなったら、同じ牀どころか、同じ房にいても(きゅう)(くつ)に感じるようになるかもしれないな」
‌ 燕嵐は衾から()い出ると、房の(あか)りを吹き消した。
‌ 辺りは真っ暗になり、燕嵐の姿も見えなくなる。
‌ 暁慶、と暗闇の中で呼ぶ声があった。声にはいつもの張りがなく、まるで燕嵐の口を借りて魔がささやいたように聞こえた。
‌「なんですか」
‌ 応えはなかった。ただ、隣に戻ってくる体温があった。目を向けると、燕嵐の寝転んだ場所だけ、闇が濃くなっていた。
‌ ずいぶん時間が()ってから返事があった。
‌「時が、なるべくゆっくり過ぎるといいなあ」
‌ 燕嵐の声は、闇に溶けてやがて消えた。
‌ その意味を考えていたはずが、いつしか思考は眠気に塗りつぶされ、暁慶は眠りに落ちていった。

‌ (とんび)がはるか上空を飛んでいく。
‌ 荒い息を吐きながら、暁慶は(ぎょう)()してそれを見送っていた。
‌ 生誕節の翌日、暁慶と燕嵐の二人は、晧垓と共に自邸の中院で剣術の()(ほど)きを受けていた。同じ鍛錬をしているというのに、息が上がって転がっているのは暁慶一人だ。土と草の匂いが、荒い呼吸をする度に()(こう)を満たす。無様な姿を(さら)すのは恥ずかしくてならないが、身体が言うことを聞かないのだからどうしようもない。
‌ 燕嵐と晧垓の二人は、かたわらで雑談に興じている。話は、いつしか昨日の舞についてのことに差し掛かっていた。耳を塞ぎたかったが、腕を上げることもままならず、暁慶はそのまま二人の話に耳を傾けることになった。
‌「二人とも、去年よりもずっとよかったな」と晧垓は二人に笑いかけた。
‌ 無理に褒めずともいいのですと言いたかったが、息が整わずそれもかなわない。つくづく(みじ)めな気分を()めていると、燕嵐が得意げに胸を張った。
‌「晧垓兄上。暁慶は、先日の兄上よりも俺の方が良かったと言っていましたよ」
‌「なんだ、暁慶。俺の舞は退屈だったか」
‌「そうは、言って、おりません!」
‌ なんとか声を振り絞って否定すると、思わず()き込んだ。わかってるさ、と晧垓は笑い声を上げる。
‌「実際、燕嵐はよくやった。女官や(かん)()たちもずいぶん話題にしていたぞ」
‌ ようやく暁慶が体を起こすと、晧垓が水の入った竹筒を差し出した。ありがたく(のど)を潤すと、ようやくまともに話せるようになった。
‌「燕嵐兄上については、そうでしょうね」
‌ 暁慶がため息を吐くと、晧垓は表情を硬くした。
‌「まあ、一部ありがたくない話も聞こえたがな」
‌ どういう意味ですか、と暁慶は晧垓を見た。
‌「燕嵐、暁慶が落とした面を投げただろう。あれが双蛇神に対して不敬だとかで立腹した春官もいるらしくてな」
‌ 暁慶は、(けい)()で温まったばかりの体の芯がさっと冷えるのを感じた。
‌「そんな。燕嵐兄上はただ、私を助けてくださっただけなのに。元はと言えば、私が面を落としたせいでしょう」
‌「そんなことは、連中だって当然理解してるだろう。ただ、奴らは双蛇神のこととなると、当たり前のことが当たり前に考えられなくなるのさ。あるいは、双蛇を熱心に(あが)めておられる父上へのおもねりか」
‌「父上は、どのようにおっしゃられているのですか」
‌「何も。生誕節の後も、いつもどおり一人で祖廟に籠もられただけだ。どうお考えなのかはさっぱりだ」
‌ 暁慶はぎゅっと袍の(すそ)を握った。
‌ 自分の愚鈍さが呪わしい。
‌ (しゅう)(たい)を晒し、母に恥をかかせただけでは飽き足らず、燕嵐まで悪く言われる元凶となってしまうとは。
‌「これで、わかったろう!」
‌ 突然中院に響いた大声に、暁慶は肩を震わせた。
‌ 声の主である燕嵐は、さっと立ち上がった。その表情は、不思議なほどに明るかった。
‌「何がわかったって?」
‌ 晧垓が尋ねると、燕嵐は暁慶をくるりと振り返った。
‌「人の評価など、そんなものだ! ささいなことでたやすく変わる」
‌ ずんずんと距離を詰めてきた燕嵐の顔が、暁慶の間近に迫る。額と額がぶつかりそうなくらいの近さで、燕嵐が言った。
‌「そんなものに振り回されるなど、つまらないとは思わないか?」
‌ 燕嵐の顔は、年相応に幼い。暁慶と同じ、九つになったばかりの子供にすぎない。しかし確信を持って語るその様は、ともすれば父帝よりも帝らしく見えた。
‌ やれやれと晧垓は首を横に振った。
‌「たしかにお前の言うとおりだよ、燕嵐。だけどなあ、気にするなって言って気にしないで済むもんでもないだろ」
‌「でも、俺は嫌なんです。弟のことをよく知りもしない人間が、まるでその価値すべてを知っているかのような口ぶりで話すのが!」
‌ 暁慶は燕嵐の怒声に目を(またた)いた。声が大きいのはいつものことだが、こんな風に他人のことをはっきり悪く言うのは、初めて耳にした気がする。
‌ しっと晧垓が唇の前で人差し指を立てた。
‌ 見ると、帝の側仕えの宦官が、回廊の向こうからこちらへやって来るところだった。
‌宦官は三人の前で膝を折り、両袖を合わせた。
‌「燕嵐殿下。(しゅ)(じょう)がお呼びです」
‌ 仕草ばかりが(いん)(ぎん)な、感情の籠もらない声だった。
‌「ほら来た。燕嵐お前、きっと怒られるぞ」
‌「わからないではないですか! お褒めいただけるのかもしれないでしょう」
‌ 兄上、と暁慶が青い顔で声をかけると、燕嵐は歯を見せて笑った。
‌「待っていろ、暁慶! 父上から褒美に菓子を(たまわ)ったら、二人で分けて食べよう!」
‌ どたどたと足音を立てて去っていく背に、晧垓が「俺にはくれないのかよ」とこぼした。その言葉に暁慶が弱々しく笑うと、晧垓は異母弟の頭をくしゃくしゃと撫でた。
‌「暁慶、あまり気に病むなよ。燕嵐は燕嵐、お前はお前だ」
‌ 暁慶は返事をしなかった。いや、できなかった。
‌ 晧垓は暁慶の手を引き、池のほとりに座った。暁慶にも、隣に座るように示す。暁慶が黙って腰を下ろすと、「言いたいことは今のうちに言っておけ」と池に向かってつぶやいた。
‌ 話したいことなど別に、と言いかけた暁慶の肩を晧垓は小突いた。
‌「ここには俺とお前しかいない。遠慮は無用だ」
‌ 暁慶はしばらく何も言わずに池の(みな)()を眺めていた。風もなく、水面は()いでいる。
‌ 晧垓は辛抱強く待った。この気弱な弟から本音を引き出すには、待つのが一番なのだと彼はよく知っていた。
‌「私は、燕嵐兄上のことが好きです」
‌ ぽつりと落ちた言葉が、水面に波紋をつくった。
‌「うん、俺も好きだよ。燕嵐はいい奴だ」
‌「燕嵐兄上はすごいんです。馬にももう乗れるし、剣も、詩も、書も、やることすべて老師たちが褒めます」
‌「そうだな。あいつは何でもできる」
‌「それに、誰にでも優しいし、物()じだってしない。間違ったことが嫌いで私が困っていたら、必ず助けようとしてくれます。さっきも、私のために怒ってくれた」
‌「うん。お前の言うとおりだ」
‌ しばしの沈黙があった。ここからが本題なのだろうと、晧垓にはこれまでの経験でわかった。
‌ 暁慶はかすかな息を吐いた。
‌「でも時々、嫌いになる。嫌いだと思う自分のことは、もっと嫌になる」
‌ 暁慶の吐息は、九歳になったばかりの子供のものとは思えないほど湿ったものだった。
‌「私は燕嵐兄上のようにはなれない。たとえ何倍もの時間をかけて兄上と同じことをできるようになっても、その間に兄上はもっと多くのことを習得している。持てるものが元々違うんです。私と燕嵐兄上にこれほどの差があるのに、双蛇の現身だなどと誰が信じるでしょうか。皆、父上がそうだと言われたからそのように振る舞っているだけです。父上の他には、そんなことを信じている者は誰もいない。母上だって」
‌「誰もいないと、本当にそう思うのか?」
‌ 暁慶は、顔を膝頭に埋めるようにして(うなず)いた。
‌「よし」
‌ 晧垓は立ち上がると、暁慶の(えり)元を摑んだ。
‌「出かけるぞ。ついてこい」
‌「今からですか? でも午後は、詩の老師がいらっしゃると」
‌「後のことは、全部この晧垓が引き受ける。大丈夫、お前が怒られるようなことにはしないさ」
‌ そう言うと、晧垓は暁慶の首根っこを引きずるようにしてその場を後にした。

‌ 数多の人の話し声が、(だく)(りゅう)となって暁慶の耳に流れ込む。鼻の中では、肉の焼ける匂いや小麦の蒸される甘い香り、牛馬の臭い、線香を()く匂い、その他種々の()いだことのない匂いが(こん)(ぜん)一体となって渦巻く。
‌ 目の前には、人々の背、背、背である。
‌ 人の波が、小さな暁慶の体をあちらへこちらへと押し流そうとする。少しでも気を抜けば、はるか遠い場所へ連れ去られてしまいそうだった。
‌「手、放すなよ! 絶対!」
‌ 押し合いへし合いする群衆の中で、握り締めた晧垓の手だけが頼りだった。暁慶は、返事の代わりにその手を強く握った。
 濫の都、()(せん)の街に暁慶と晧垓は立っている。この地で生まれたというのに、暁慶は輿(こし)や車の上からしか街を見たことがなかった。上から見下ろすのと、実際に歩くのとでは目に映るものがまったく違う。地に下りて見る伽泉は、まるで見知らぬ街のようだ。匂いも音も景色も、何もかもが鮮明で、空っぽだった暁慶の中に容易(たやす)く入り込んでくる。ざわめきや臭気で体中が満たされて、溢れそうなほどだ。
‌「着いたぞ、暁慶」
‌ 晧垓が足を止めたので、暁慶はようやく息を吐いた。
‌ いつの間にか、二人は廟の前に辿(たど)り着いていた。どうりで線香を焚く匂いが強いはずだ。双蛇を祀る廟へと続く参道は、様々な屋台や参拝客で賑わっている。それだけでもかなりの人出だが、廟の門前に建てられた急(ごしら)えの舞台を、さらに多くの人々がぐるりと取り囲んでいた。どうやら晧垓はこれを目指してきたらしい。
‌「ちょっとごめんよ」
‌ 晧垓は器用に大人たちの脇や足の間をかいくぐり、舞台の目の前まで移動した。お前も来い、と暁慶を手招く。暁慶は周囲の人間に、すみません、ごめんなさい、といちいち謝りながらなんとか晧垓の隣に辿り着いた。
‌「晧垓兄上は、こんな風に城下によく来られるのですか?」
‌「そうだな。永寧宮の中ばかりにいると息が詰まるだろう」
‌ 会話の続きは、舞台上に現れた男の声にかき消された。
‌「お集まりいただき、感謝する! さて、昨日、燕嵐殿下と暁慶殿下のお二人がめでたく(おん)(とし)九つを迎えられた!」
‌ わっと人波から(かっ)(さい)が上がり、口笛が吹かれる。
‌「永寧宮では生誕節が盛大に催された。双蛇神もさぞお喜びだろう」
‌ 男が手招くと、双子なのだろう、そっくりな顔をした童子が二人舞台に上がった。
‌ 暁慶は、自分と燕嵐のまるで似ていない容姿のことを思わずにはいられなかった。双子というからには、やはりあれくらい似ていて(しか)るべきだ。
‌「二人の皇子殿下は、生誕節の宴でかの『双蛇』の舞を披露されたそうな! それは見事な舞であったと伝え聞く!」
‌ じくりと胸が痛むのを感じた。
‌ 誰も、表立って暁慶の犯した失態のことなど口にできないのだろう。そのせいで、城下の民にはあれほど立派に舞ってみせた燕嵐と、とんでもない失敗をした暁慶が同じであるかのように伝わってしまっている。
‌「我らは殿下の舞姿を直接拝することはかなわぬゆえ、今日はこうして舞の名手と名高い二人に来てもらった!」
‌ 双子の童子は、喝采に応えるように揃って宙返りした。
‌ 割れんばかりの拍手が巻き起こる。一瞬、暁慶も(じく)()たる思いを忘れて手を叩いた。
‌「さて、それでは秘伝中の秘伝たる『双蛇』をご覧に入れよう」
‌ 男の声に、(かす)れた笛の音が鳴り響く。二人の童子が揃って踊り出すと、人々は声を上げ、二人が飛んだり跳ねたりする度、競うように小銭や菓子を投げた。
‌ 暁慶は二人が舞う姿をじっと凝視していた。
‌ 童子は最後に再び揃って宙返りをし、見事に着地した。やんやの喝采が送られ、舞台は幕を閉じた。人々は興奮で頰を紅潮させて帰路につき、後には口上を務めた男が小銭を拾い集める姿だけが残された。
‌ 散り散りになる人波に紛れて、暁慶と晧垓も廟の前を離れた。
‌「どうだった? あの二人の舞は」
‌ 晧垓の問いに、暁慶は答えに窮した。
‌「いえ
‌ 困ったように眉尻を下げた暁慶に、晧垓はからからと笑った。
‌「結構、下手(へた)だっただろ?」
‌ そんな、と暁慶は口にはしたが、たしかに晧垓の言うとおりだった。
‌ 下手というか、そもそも『双蛇』の舞として成立していなかった。舞の難所では必ず元の動きは省かれ、宙返りや側転などの派手な動きに置き換えられていた。見た目は華やかだが、元の舞の方がはるかに厳しい鍛錬を要する。
‌「な、燕嵐も俺も噓は言ってなかっただろ。お前は全然下手じゃないさ。ただ、俺や燕嵐と見比べられたら分が悪いってだけで」
‌「でも、これはこれで面白かったです。皆すごく喜んでいましたし」
‌「そうだよ、これでいいんだ。ここで本物の『双蛇』を舞ったって、きっと皆退屈するだろうさ」
‌ だから、なんていうか、と晧垓は鼻をこすった。
‌「要は、その時どこにいて、誰を相手にするかによって、必要とされるものは簡単に変わる。燕嵐の言いたかったことも、たぶんそういうことなんだろう」
‌ 暁慶が黙ると、街のざわめきが沈黙を埋めた。晧垓は暁慶の手を引き、背を向けたまま続けた。
‌「民は皆、お前と燕嵐が実際にどんな人間かなんて知りもしない。でも、こうやって毎年勝手に生誕節を祝ってる。俺や父上のものは祝わない。お前たちのだけだ。どうしてだかわかるか?」
‌「私と燕嵐兄上が、双子だから」
‌「半分だけ正解だ」
‌ 半分? と暁慶は首を(かし)げた。永寧宮の北門が見えてくると、二人の周囲から次第に人影が消えていく。
‌「もう半分は、お前たちが希望だからだ。双蛇の現身である皇子たちが無事に成長し、いずれ玉座に昇ることが、民の希望だ。神の化身が治める国はきっと素晴らしいものに違いないって、無邪気に信じてるのさ。燕嵐がどれだけ優れていても、一人では意味がない。お前たちが双子だから、民はここまで喜ぶんだ」
‌「でも、本当のことを知ったら、あの人たちだってきっとがっかりします。私がこんなに不出来な皇子だとわかったら」
‌ 晧垓は初めて暁慶を振り返った。
‌「本当のことなんて、城下の者がどうやって知るんだ?」
‌ え、と暁慶は絶句した。
‌「民は皇子と直接触れ合う機会なんて永遠にないだろう? (うわさ)くらいは流れるかもしれないが、確かめることは誰にもできない」
‌ だから、と晧垓は続けた。
‌「お前ができることはただ、双蛇として帝になることだ」
‌「それは
‌「嫌だろう? ただの数合わせみたいに玉座に座るのは」
‌ 暁慶は思わず頷いた。
‌「それなら、自分にできることを考えるしかないな」
‌「私にできることなんて、あるでしょうか」
‌「逆に考えるんだ。お前は、燕嵐にできないことをすればいい」
‌「燕嵐兄上にできないことなんか、一つもないですよ」
‌「いいや、必ずある。できないっていうか、燕嵐には見えないことって言った方がいいか。燕嵐は天帝に愛された子供だ。でも、(ちょう)()にはそうでない者のことはわからない。もちろん、燕嵐はいい奴だから、そうじゃない奴の気持ちもちゃんと考えるだろう。でも、考えるのと、実際にそういう立場に置かれるのは、絶対に違う。想像は体験に及ばない」
‌ それに、と晧垓は笑った。西日に照らされたその顔は、見知らぬ誰かのようにも見えた。
‌「世の中には、持たざる人間の方がずっと多いのさ」
‌ 見上げると、北門はもう目の前だった。
‌「(あきら)めろ、暁慶。俺たちはこの血からは逃れられない。それより、どうしたら自分の心に(かな)うのか考えろ」
‌ もしお前がそうしたいなら、と言うと、晧垓は門の前でひたりと立ち止まった。
‌「俺も手伝う。といっても、俺にできることなんて、舞や剣の練習を見てやることくらいだけどな」
‌ 十分です、と暁慶はうつむいた。前を向けば、涙の滲んだ目を見られてしまうだろうと思ったからだ。
‌ 晧垓や燕嵐の優しさが、これまで自分を()()してつけてきた傷にひどく染みた。
‌「よし、まずは来年だ。父上も大臣たちも燕嵐も驚かせてやろう」
‌ 暁慶は強く頷いた。
‌ では帰ろうか、と晧垓はそのまま門をくぐろうとした。
‌「待ってください。宮城を出た時のように、抜け道を使わなくてよいのですか? このまま進んでは門番に見つかります」
‌「大丈夫だ。まあ見てな」
‌ 晧垓はそう言って笑うと、まっすぐ門に向かって進んでいった。
‌ 門番の一人と、正面から目が合う。暁慶は身を(すく)めたが、晧垓は足を止めなかった。
‌「本日もお勤めご苦労」
‌ 晧垓が妙にえらぶって胸を逸らすと、(いか)めしい顔つきの門番が苦笑した。
‌「殿下、こう(ひん)(ぱん)に城下に下りられては、いずれ陛下の目に留まるやもしれませんよ」
‌ しかも今日はこのように暁慶殿下までお連れして、と門番は嘆息した。
‌「なに、心配ない。父上は廟の外のことにはそれほど関心をお持ちではないからな。それに、お前は俺がここを通らなくなったら商売あがったりで困るだろう」
‌ 晧垓は笑いながら、門番の手にそっと銭を握らせた。
‌「殿下、今日の通行料は二人分ですよ」
‌ 門番が冗談めかして(てのひら)を広げると、晧垓はもう一枚銭を載せてやった。門番は銭の入った両手を握り合わせ、顔の前に掲げた。
‌「ありがとうございます! こんなことなら、いつでもお二人でどうぞ。私は秘密を守る男ですよ」
‌「わかってる。お前の口の堅さは伽泉一だ」
‌ 晧垓は門番に手を振ると、暁慶の手を引いて城内に入った。
‌「あの、晧垓兄上。今のはいったい」
‌ 晧垓は暁慶を振り返ると、内緒だ、と人差し指を口元にあてた。
‌「抜け道はいろいろあるってことだ。お前が望むなら、いくらでも教えてやるさ。永寧宮で生きていくためには必要なことだろう?」
‌ 暁慶は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。
‌「(けい)(べつ)したか?」
‌ 不安そうな(こわ)()に、ふ、と暁慶の口から笑いが(こぼ)れた。

‌ 草原からの使者との(えっ)(けん)を終え、宮中はにわかに騒がしくなった。正式に草原から妃を迎えることが決まったのである。
‌ 驚くべきことに、使者の告げた族長の娘の名は、燕嵐の記憶にある名と合致した。
‌ これではもう、暁慶に反論の余地は一分もない。
‌ (せわ)しない朝議を終えた暁慶は、珍しく(ほう)けた顔をした燕嵐に向かってつぶやいた。
‌「名でも考えましょうか」
‌「名?」
‌ 燕嵐は我に返ったように目を瞬き、鸚鵡(おうむ)返しに尋ねた。
‌「草原の姫たちが嫁いでくるのなら、濫での名が要るでしょう」
‌「なんだ、意外と乗り気ではないか」
‌ 暁慶は鼻を鳴らした。
‌「迎えると決まったのだから、今更あれこれ言っても仕方がないと諦めただけです」
‌ 燕嵐はすでに暁慶の言葉など耳に入っていないようで、「名か。ふむ」としばし考えに(ふけ)った。
‌「(すい)(れん)というのはどうだ? 彼女に似合いの名だと思う」
‌ たおやかで()(れん)な花だから、と燕嵐が言い添えるのを、暁慶は顔を引きつらせて聞いた。
‌「さて、私は当の姫の顔も知らぬのでなんとも。ですが、草原の女は皆、馬を駆り羊を(さば)く豪胆な者だと聞き及んでおりますが」
‌「彼女は馬に乗っても羊を切っても、なお可憐だろう」
‌ 暁慶はもうたくさんだと首を横に振った。
‌「兄上のお気持ちはよくわかりました。その娘にばかりお心を移されて、他の妃に恨まれぬようお気をつけください」
‌「わかった、彼女のためにも心に留めよう」
‌ 燕嵐は笑い、暁慶を見やった。
‌「して、お前は新たな妃になんと名付ける?」
‌「私は──」
‌ 暁慶は、先ほど聞いたばかりの姫の名を思い浮かべた。名はただの音で、それ以上の広がりがない。
‌「今は何も思いつきません。姫の顔を直接見てから決めるとします」
‌ 燕嵐と別れ、暁慶は自邸へと回廊を歩きながらつぶやいた。
‌「シリン、か」

‌ 同時刻、濫国の北。
‌ 草の海を、一頭の馬が駆けていく。
‌ 黒い馬体は、陽光を照り返して輝いていた。
‌ 馬を駆るのは一人の少女だ。
‌ 弓矢を負い、両耳から()げた大きな耳飾りがしゃらしゃらと音を立てる。
‌ 首元を吹き抜けていく風が、肌に浮かんだ汗を心地よく冷やした。草原の夏は短い。この一時の夏が過ぎ去れば、じきに彼方(かなた)の山々は白く染まり、湖は()てつく。
‌ 少女は短い夏を全身で(おう)()するように、風を切って走る。
‌ 馬に提げられた布袋には血が滲んでいる。仕留めたばかりの(うさぎ)が二羽、押し込められているせいだ。
‌ 少女は狩りから戻る途上にあった。
‌ やがて、少女の住む村と羊の群れとが見えてくる。ユルタと呼ばれる移動式の住居が点在する、簡素なものだ。少女は草原を移動する遊牧民であり、この地も冬を迎える前に離れることになる。
‌ 村の入り口に、人影があった。少女が馬で駆けてくるのに気がつくと、(あん)()したように微笑(ほほえ)んだ。
‌「シリン、どこへ行ってたの。ずいぶん探したわ」
‌「ごめん、ナフィーサ。ちょっと狩りにね」
‌ そう言うとシリンは、にっと笑って兎入りの袋を掲げてみせた。
‌「最近は物騒だから一人で遠出するなって、この間もお父様に言われたじゃない。忘れちゃった?」
‌ ナフィーサは言葉とは裏腹に笑い、シリンから袋を受け取った。
‌「忘れてたわけじゃないんだけど。でも、冬になれば狩りもろくにできないし。今のうちに干し肉を増やしておいた方がいいじゃない?」
‌ ナフィーサはじっとシリンの顔を見つめた。
‌ 二人の顔はよく似ている。瓜二つと言っていい。二人の容貌を分けるのは、瞳の色と表情の違いくらいのものだった。
‌ シリンはすいと視線を逸らし、愛馬ヨクサルの背をごまかすように撫でた。
‌「本当は、じっとしてると体がなまるから、ヨクサルと走りたくて。ごめんなさい」
 ふふ、とナフィーサは顔を(ほころ)ばせた。
‌「いいわ。それに、肉は少しでも多くあった方がいいのは本当だし。シリンが今朝やるはずだった(つくろ)い物は、午後一緒にやりましょう」
‌「ええ?」
‌ シリンが不服そうな声を上げてヨクサルから下りると、「それより」とナフィーサが付け加えた。
‌「お父様がお呼びよ。すぐにユルタに来るようにって」
‌「なに? 黙って狩りに行ったから、怒られるのかな」
‌「違うと思うわ。私も一緒に来るように言われたもの」
‌「ナフィーサも? じゃあ違うわね。ナフィーサが怒られるわけないもの」
‌ シリンはヨクサルを引きながらしばし考え、「そうだ」と声を上げた。
‌「もしかして、私たちに縁談が来たんじゃない?」
‌ ナフィーサの瞳の奥で、揺らぐものがあった。
‌ その時、南風が吹き寄せ、二人の長く編まれた髪を巻き上げた。
‌「もう、嫌な風」
‌ 二人は揃って南を見た。
‌ そこにはいまだ、どこまでも続く緑の海原だけがあった。

‌【おわり】