牝狼の戴冠


 
その日、アルタナで三十頭の羊が(ほふ)られた。
 三十頭、すべて族長シリンの羊である。
 客人の唐突な来訪に、男たちは放牧に出していた羊を急ぎ捕まえ、潰して(さば)いた。女たちは肉や血に内臓、果ては脳まで余すところなく調理して大皿に盛った。次々に出来上がる料理に器が追い付かず、子等は各家のユルタを巡って皿をかき集めなくてはならなかった。
 病人を除いた集落の全員が、夜に開かれる宴のために立ち働いた。
 支度は料理だけに留まらなかった。宴場となるシリンのユルタには村中の上等な(じゅう)(たん)が持ち込まれ、幾枚も重ねて敷かれた。南からの客人は、本国では床に座らず椅子に腰かける。せめて絨毯くらい重ねてやらねば、すぐに尻や腰の痛みを訴えるだろう。
 一面ぐるりと、()(しゅう)上手と評判の女たちが仕上げた壁掛けで覆った。中央奥に据えられた族長席の背後を飾るのは、真っ赤な太陽紋一つのみがあしらわれた大胆な構図のものだ。ほかにも図案化された花や狼、羊や馬の精巧な刺繍が、壁という壁を鮮やかに彩る。
 夕刻に会場の支度が整うと、列になった子等の手から手へと大皿が引き渡され、いくつも運び込まれていった。ユルタの中が湯気で(けむ)り、肉の匂いが充満する。
 シリンは()(ぜわ)しく動き回る人々を眺めながら、族長席で頬杖をついていた。手伝ってやりたいのは山々だが、長というのはこういう時に財だけ惜しまず出し、あとは(ろう)()の首飾りをぶら下げ悠然と座っているのが務めなのだと、この十数年で学んでいた。
 所狭しと並べられた料理のほとんどは、羊肉の塩茹でだ。山と積まれた肉の合間には、血の腸詰や内臓の煮込み、汁物なんかも見える。味付けはいずれも岩塩のみである。新鮮な肉を使った料理に、余計な味は必要ない。肉料理以外には何かないのかと見回せば、(かん)(らく)(にゅう)(らく)が目に入る。いずれも家畜の乳から作られたものだ。乳を煮立たせて液と固まりとに分離させ、太陽の下で乾かしたものが乾酪、()して(かめ)で寝かせたものが乳酪である。どちらも舌にのせれば濃厚な味が口全体に染みわたるが、見かけはただの白い塊でしかない。
 一つ言えるのは、並んだ料理のどれをとっても、今夜迎える客人が普段口にするような(ぜい)を凝らした一品ではないということだ。
 しかし今夜のもてなしは、草原において最上のものである。
 この土地の饗宴において肝要なのは「量」だ。客人のためにどれだけの羊を潰したか、つまりどれだけの財産を相手に捧げたかが重視される。あまりに少なければ客人は面目を潰されたと怒り、家の主人は恥をかくことになる。反対に肉の量が多ければ多いほど、客の顔は立てられ、主人の豊かさと気前の良さを示すことができるというわけだ。
 そして今夜の肉の量は、圧倒的であった。
 特にここまでの量の内臓は、アルタナの人間でさえ滅多に拝めるものではない。肉や胃、肺は干して保存用に回すことができるが、脳や眼球、心臓ではそうはいかない。屠ったその時にしか口にできない特別な()(そう)である。
 肉の山を眺めていると、「族長」と声がかかった。視線を上げれば、ユルタの中は万事が整っていた。シリンが一つ(うなず)くと、いよいよとばかり、客人が呼び込まれる。
 宴が始まる。
 中央に座すシリンを除き、草原の人間と(ひん)(きゃく)たちはユルタの左右に分かれ、(あい)(たい)して座った。アルタナ側には叔父ハルガンや従弟(いとこ)のザナトにその弟たち、さらには彼らの妻子まで、(おも)だった人間すべてが顔を揃えた。
 表情は両者共に硬い。見ようによっては、河を挟んで対峙する二国の軍勢のようだ。もうもうと湯気を上げる肉の皿の大河を挟み、二つの勢力が(にら)み合っている。
「歓待に、感謝する」
 先に口火を切ったのは一人の男だった。
 客人側で最も上座を占める、(らん)国皇帝──(よう)(てい)(ぎょう)(けい)である。発されたのはただの一言であったが、ユルタ中の視線が彼に向けられた。親の目を盗んで早々につまみ食いをしようとしていた子供でさえ、手を止めて皇帝を見やった。なにしろその顔も声も、濫の民でさえ一生に一度拝めるかどうかというものである。草原の人間たちははばかりもせず、珍しい毛色の山羊(やぎ)でも見るように、その男の顔を眺めた。
 皇帝が草原に姿を見せたことは、アルタナに衝撃をもたらした。
 草原において「長」と名の付くものは、常に集団の先頭に立つ。狩りや戦に交渉、万事においてそうだ。シリンも例外ではない。それができない者に、長の座に就く資格はない。しかし濫は違う。長たる帝は宮城の奥深くに(こも)り、城下にすら滅多に姿を現さない。彼らの慣習を、草原は臆病者のすることだと(わら)う。
 しかし今この場に座す男は、その常識を覆した。草原を訪れたばかりか、妻まで伴ってきた。後宮にひしめく女の中から適当に()(つくろ)った妃ではない。皇后である。草原の人間は戦場にも前線手前まで妻を連れるが、濫の風習からしてみればあり得ない。
 いってみれば皇帝は、草原の流儀に合わせた振る舞いをしてみせたのだ。
 おそらくは皆、こう考えているのだろう。
──この帝がよほどの変わり者なのか、草原におもねらねばならぬほど濫は弱っているのか。あるいは、この女がそうさせるのか──
 中央に座すシリンには、人々の心中が手に取るようにわかった。一人宴から弾き出されたような席ではあるが、皆の顔を眺め回せることだけは悪くない。
「感謝など。それを述べるべきはこちらの方だ。我らは直々の訪問を受けた上、働きに見合わぬほどの(ほう)(しょう)を受けた」
 濫帝から贈られたのは王号ばかりではなかった。(けん)(しゃ)には絹や茶に香辛料、銀の宝飾品や(しょく)(だい)、玉が惜しげもなく()め込まれた冠まで、考えつく限りの財宝が詰め込まれていた。
「謙遜を。族長殿は()(きょう)を解放するに留まらず、太子を我が元に帰してくださった。その大恩は玉や錦であがなえるものではない」
「息子が世話をかけたのは、こちらも同じではないか」
 シリンは慎重に言葉を選んだ。シリンと暁慶は、今この場に草原王と濫国皇帝としてある。あくまで自分は皇帝と対等であるという姿勢を示さねばならない。王号が帝から下されたものとはいえ、草原は濫に従属するのではなく、並び立つものであると。
「何を言われるか。族長殿の子息は大層な働きぶりであったと聞き及んでいる」
「しかしその結果は、貴国に利するものではなかったようだが」
 皇帝はわずかに口元を引き上げた。
「では、褒賞には貴殿らにこれから一層の働きを期待する意味も込めよう。それならば固辞される理由もあるまい。なに、受け取ってもらわねば困るのだ。荷が重すぎると不平を漏らす人馬に、帰りはすっかり置いてくるのだからと()(しょう)()(しょう)運ばせた品だ。これで帰路も変わらぬ重みとなれば、余は無事に都へ帰りつけるかもわからん」
 シリンは声を立てて笑った。しかし追従して笑う者は誰もなかった。
「では、有難く受け取るとしよう。この借りが高くつかぬよう、早々に動かねばな」
 シリンは客人たちに視線を巡らせた。
「遠路はるばる、()(よう)な辺境までよくぞお越し下さった。我らはすでに、いがみ合う敵同士ではない。西の山向こうを根城とする獣に抗する同志である。共に同じ甕の酒を飲み、我らの土地の草を食んだ家畜の肉を食い、協約が永劫のものとなることを祈ろう」
 (さかずき)を上げると、草原の男女がそれに(なら)った。濫の人々も、皇帝に続いて杯を(かか)げる。
「我らの土地の(あん)(ねい)に」
 シリンは盃を満たした蒸留酒を一気に飲み干した。喉元を焼け付くような熱さが通り抜けるが、頭は冷えたままだ。程度の差こそあれ、草原の人間は総じて酒に強い。
 シリンが盃を置いたのを合図に、皆料理に手を伸ばした。(さじ)(はし)の代わりに小刀を渡されてまごつく客人たちに、ザナトや子供等が「こうやるんだ」と羊の肉を骨から()ぐのを実演してみせる。
 賓客が不器用ながらも小刀を振るって肉にありついた頃、楽の音が耳を撫でた。濫の(がっ)()たちが、()()や笛を奏で始めたのだ。
 音色の懐かしさに目を細めたのも(つか)()、草原の誰かがかき鳴らしたドゥタールと呼ばれる(ばつ)(げん)楽器に、笛や琵琶の音はかき消された。楽戸たちに対抗しようとでもいうのだろうか。しかし楽戸は手を止めることなく、琵琶の撥を激しく動かし、顔を赤くして笛に息を吹き込んだ。ふたたび濫の音色が優勢となると、草原側の奏者も二人に増えた。
 濫と草原、どちらからともなく手拍子が上がる。二者の演奏はぶつかり合うように激しさを増した。ユルタの中に異様な熱気が籠る。国を異にする調べが肉の匂いと混じり合い、人々の耳と鼻から入り込んで体中を満たす。やがて手拍子に留まらず、歓声と野次が飛び交い始める。今や宴の中心は楽戸たちだった。
 やれやれとシリンは息を吐いた。しかしこれくらいは(いさ)めるほどのものではない。ある意味では合奏と呼べなくもないし、双方共に楽しんではいる。しかし楽でここまで白熱できるのなら、馬競(うまくらべ)なんか催した日には頭に血が上って倒れる者が続出するだろう。もっとも馬競では、濫と草原では勝負にならないだろうが。
 皆が演奏に夢中になっているのをいいことに、シリンはかつての夫の顔を盗み見た。盃を一息に空けた暁慶の顔は、やや赤らんでいるように見える。この場で潰すわけにはいかないし、あまり呑ませない方がいいだろう。しかしそう思った矢先、盃が空いたのを()(ざと)く見つけた濫の侍女が酒を満たしてしまった。
 これは気が利くというべきか利かないというべきか、と侍女の白い顔をちらと見やった。視線の意味を取り違えたか、彼女はシリンの方にもつつと寄って、酒の満ちた甕を「いかがでしょうか」とばかりに傾けた。
「もらおう」
 盃を差し出すと、侍女はこう答えた。
「どうぞ、(きょう)()様」
懐かしい呼び名に、シリンは弾かれたように顔を上げ、まじまじとその顔を見た。
もしや、(こう)(かく)か」
 侍女はほっとしたように口元を(ほころ)ばせた。
「覚えていてくださって嬉しゅうございます。お仕えしたのは一年きりでしたのに」
 しばし言葉を失う。
 かつて濫の後宮でシリンに仕えた侍女は、暁慶の隣に座す皇后(げつ)(りょう)の顔を見上げた。
「杏妃様が濫を去られてからは、皇后様のお世話になっております。此度の旅路に、無理言って加えていただきました」
驚いたな。まったく陛下といい月凌様といい、お前たちは私を驚かすのがよほど好きと見える。せっかくの酒を取り落としかけた」
 香鶴の目にふと、寂しげな色が差した。シリンの口調が昔のようなものには戻らないせいだろう。しかしここにはアルタナの主要な人間が居並んでいる。かつての侍女相手といえど、親しく話すことはできない。あれから、それだけの時が過ぎた。けれど香鶴と(かん)(せい)の街で別れた時は、もう二度と会うことはないだろうと思っていたのだ。それがこうして、再び顔を合わせることができた。それもまた、時の経過のなせる(わざ)である。
「香鶴一人か? (りょく)(しん)はどうした」
 シリンが濫から草原へと帰るのを見送った侍女は、この香鶴ともう一人いた。しかし酒宴の間を蝶のように縫って歩く侍女たちの中に、それらしき顔はない。
 ふと不安に駆られる。緑申は当時ですでに四十を越えていたはずだ。万一のことがあってもおかしくはない。月凌か香鶴のいずれかが「実は」と今にも切り出すのではないかとシリンは顔を曇らせたが、香鶴は「ご安心ください」と微笑んだ。
「緑申さんもお元気ですよ。ですが長旅に耐えられる自信がないと、(えい)(ねい)(きゅう)でお待ちです」
「ずいぶん迷っていたけれど、歳が歳だからね。杏妃に会えたらくれぐれもよろしくと言付かっている」
 そうだったか、と思わず表情を緩めた。
 それを見た月凌が、顔に垂らした薄絹の陰からふふと笑いを漏らす。
「杏妃、駄目だよ。皆の前でずいぶん立派な族長をやってるみたいだったのに、侍女一人のことでそんな風に表情を変えては」
 シリンは慌てて(じゅう)(めん)を作ったが、月凌は続けてささやいた。
「今は皆、演奏に夢中だ。しかめつらしい顔や喋り方をしなくたって、誰も気づきやしないよ。せっかくこれだけ御馳走も用意してくれたんだし、楽しもう」
 シリンは一つ、溜息を吐いた。
かないませんね。月凌様には」
シリンが羊の内臓の塩茹での山に手を伸ばすと、月凌も続いた。
「濫の方の口には合わないのでは。内臓でなく、肉もたんとありますよ」
「いや、これでいい。ここでしか食べられないものが食べたい」
 そう言って月凌は、肝臓の切れ端をおそるおそる口にした。しばらくは(しか)められていた表情が、次第にほどけていく。
「生臭いかと思ったけど、そんなことはないね。新鮮だから? 知らない味がする」
 月凌は今度は心臓をつまみ上げた。つくづく貴人らしくない人である。そういうところは皇后となった今も昔と変わらないらしい。
「陛下も召し上がればよろしいのに。おいしいですよ」
 ちびちびと酒ばかり舐めている暁慶に月凌が肉を勧めると、「これでも気を張っていたのだ」と赤くなった顔でつぶやいた。
「お前はこの状況で、よく平気で食えるな」
「皮肉は結構です。酒だけ飲まれては、酔いの回りが余計に早くなりますよ」
暁慶は渋々ながら、月凌と同じ内臓煮込みの皿に手を伸ばした。手にした部位がなんであるか確かめもせず、一口かじる。しばし()(しゃく)し、やがて眉間に皺を寄せたかと思うと、手にした肉塊と、シリンの顔を見比べた。
「これは何の肉の、どこの部位だ」
「羊の睾丸ですね。去勢前の牡羊を潰した時にしか味わえぬ珍味です」
 シリンが答えると、暁慶は凝視していたそれから目を()らし、大口を開けて残りを口に収めた。眉間に刻まれた皺はさらに深まり、今やまるで峡谷のようである。
「味については、草原の者でも好みが分かれるところです。私は好きですが」
 暁慶はほとんど噛まず、喉を鳴らして飲み下した。口元をしきりに(ぬぐ)い、赤らんでいた顔が元通り白くなったようにも見える。
「そういうことは、食す前に言ってほしいものだ」
 暁慶が溜息を吐いたのと同時に、ジャン、と琵琶とドゥタールが一際大きくかき鳴らされ、演奏は終わった。奏者たちに(かっ)(さい)が贈られ、酒が勧められる。盃を取った二人は互いの健闘を称えて盃を掲げ合った。それを真似るように、あちこちで盃が上がる。
 シリンも暁慶と月凌に向かって同じようにした。月凌はすぐに応じてくれたが、暁慶はそうする代わりに立ち上がった。
「女王殿に、もう一つ受け取っていただきたいものがある」
 そう言うと、ユルタの外から従者を一人呼び寄せた。
 何事かと注目がシリンたちの元へ戻り、緩みかけていた場の空気がふたたび締まる。
 進み出た従者がうやうやしく差し出したのは、一対の()(すい)の腕輪だった。翡翠が嵌め込まれているのではない。腕輪そのものが翡翠から削り出された、持たずともずしりとした重みが伝わってくるような(しろ)(もの)だ。内側に、(そう)(じゃ)の紋様が彫り込まれているのが見える。
 シリンはかつてこれと同じものを目にしたことがあった。十七の冬、濫の永寧宮に輿入れし、婚儀を終えたその夜のことである。新たに入宮した妃があればこの腕輪を贈る決まりになっているのだと、香鶴がシリンの腕にこれを通した。まるで()(かせ)のように思えた重さ冷たさが、両手首によみがえるようだった。
「これは、受け取れない。すでに私のものではない」
シリンは濫を去る日、この腕輪を一つずつ、香鶴と緑申に下げ渡した。
 しかし暁慶は「誤解しないでいただきたい」と目を細めた。
「一度下げ渡されたものを、侍女から取り上げるような真似はしていない」
 ではこれは、わざわざ新しくあつらえたものだとでもいうのか。
 ざわめきに満ちていた場が静まり返りかえる。まるで羊肉の山から立ち上る湯気さえ動きを止めたかのように、ユルタの中の空気が澱んだ。
「皇帝陛下に、一つお尋ねしたい」
 真っ先に声を上げたのは、シリンではなかった。さっきまで楽戸の女に口笛を鳴らしていたザナトだ。
「陛下は今でもうちの族長が、ご自分の妻だと思ってらっしゃるので?」
 いかに瑶帝が「双蛇嫌い」で知られていようとも、双蛇が濫の象徴であることに変わりはない。また濫国において、双蛇の意匠は帝とその子と妃にのみ許されたものである。
 つまり皇帝が双蛇紋の刻印された腕輪を贈ることは、「草原の王は未だ濫の妃である」という表明とも受け取れる。妃は皇帝の()()である。常人より遥かに貴い身分であるとはいえ、皇帝の所有物には違いない。それを是とすれば、濫と草原は対等ではないとみすみす認めることになる。
 ザナトの父であるハルガンも苦々しく口を開いた。
「シリンはとうに草原へ帰った。すでに貴殿の妃ではない。すなわち、草原もまた濫の妻ではない」
 (しも)()に続く男たちも揃って険しい顔を向け、皇帝の返答を待っている。返事如何(いかん)によっては、協約を破棄、あるいはここで帝の首を獲り、胴体だけを都に帰らせようとする者がないとも限らないような──そんな空気が酒の香に混じって漂った。
 (けん)(のん)な視線を一身に受け、しかし暁慶は口元を引き上げてみせた。
「安心するがよい。そのような意味はこの腕輪にない。族長殿が当然に持ち帰るべきであったものを宮城に置き忘れてゆかれたので、こうして持参した次第だ」
 当然に持ち帰るべきであったものってなんだ、とザナトたちが顔を見合わせ、首をひねる。草原の人間は(ちょく)(せつ)な言葉を好み、濫人の、特に暁慶のようなもってまわった言い回しには慣れていない。しかし彼らよりは暁慶の話しぶりに慣れたはずのシリンにも、「持ち帰るべきであった腕輪」には心当たりがなかった。与えられた腕輪は、己の意志で二人の侍女に与えた。話はそれで(しま)いではないのか?
「陛下、族長殿が困惑しておられます。相変わらず、言葉の足りないことで」
 月凌が助け舟を出すと、なに? と暁慶が眉尻を上げた。
「ここまで言葉を尽くしても、まだわからぬと言われるか。よく(あらた)められるがよろしい」
 そう言って暁慶は腕輪の一つを取り、シリンの眼前に突き出した。
「内側だ。なぞってみられよ」
 暁慶の言うとおりにすると、双蛇の刻印が指に触れる。そのまま指先を滑らせていくと、覚えのない突起に引っかかった。
 双蛇ではない何かが彫られている。
 シリンは腕輪を持ち上げ、灯にかざした。
これは」
 小さな(すい)(れん)の花が、蛇の尾の下に彫り込まれていた。双蛇の刻印が流麗な職人技で彫られているのに対し、睡蓮はどこかたどたどしい素人臭い線で浮き上がっている。
 思わず暁慶の顔を見た。そうだ、と暁慶は小さく頷く。
「兄上が(すい)()に贈った腕輪だ」
 睡妃。亡き()(てい)(えん)(らん)が愛したその妃は、草原を故郷とする者である。
亡骸(なきがら)と共に葬ろうかとも考えた。しかし腕輪なりとも故郷に帰すべきと思い、今日まで保管しておいたのだ」
 ナフィーサ、と誰かがつぶやいた。
 この十数年、その名を呼ばわる者はほとんどいなかった。彼女は草原で愛された少女だったが、今やその名は忌まわしい記憶を(まと)ったものへと変わり果ててしまっていた。
 ナフィーサは特別な娘だった。草原の人間が「娘」に求めるものすべてを具えていた。人に好かれ馬に好かれ、羊に好かれた娘だった。それは、草原にあるすべてが彼女を愛したに等しかった。
 一時(いっとき)、ユルタに集った面々は揃って一人の娘、一つの場面のことを思い返した。
 アルタナが季節ごとに営地を移す際、隊列を率いるのは屈強な男ではない。皆に選ばれた未婚の乙女が先に立って人々を導く。先頭に華やかな娘を据えることで日輪を喜ばせ、旅路の加護を得ようというのが由来だ。しかしそれは後付けで、実際は「誰もが愛する娘を先頭に据えれば、旅路の苦労も少しは軽くなろう」くらいのものだったように思う。
 しかしとにかく、先導の役目は栄誉あるものだった。娘の中の娘しか果たせないものだった。そして十二になった歳から、ナフィーサはいつもその栄誉に与った。
 晴着で着飾った彼女は、しゃらしゃらと耳飾りを鳴らしてシリンの前を歩いた。子供たちから捧げられた花冠を戴いた姿は、春を呼び込む精霊のようだった。シリンはすぐ後ろからその背中を見ていた。顔はそっくりでも、シリンが先導役に与ったことはなかった。シリンは「娘の中の娘」ではなかった。
 けれど時折振り返るナフィーサに笑いかけられると、胸の奥でかすかにくすぶるいじけた気持ちや(うらや)ましさは、どこかへ消えてしまった。残るのは誇らしい気分だけだった。
 私の美しい半身を見て、もっと褒め称えて。
 その一心で馬上にナフィーサを押し上げ、自ら(くつわ)を取って馬を()いたものだった。
 十数年、押し殺していた記憶が鮮やかにあふれ出す。涙もろい老人の目には光るものが見え、共に育った同年代の者たちは(うつむ)いた。
 シリンは暁慶に向き直り、ずいぶん久しぶりに濫式の挨拶──両袖を合わせ、頭を下げる──の姿勢を取った。
感謝を。姉は濫の妃として死んだ。アルタナに遺品を分けていただく道理はない。にもかかわらず手ずから送り届けてくださったこと、礼のしようもない」
「不要だ。本来であれば、もっと早くに届けるべきであった品だ」
 その上で言う、と暁慶はユルタに集った面々を見渡した。
「これでかつての()(こん)をすべて水に流せとは言わない。()(せい)となった者の死に(いきどお)るのは、(とむら)いに必要なことでもある。しかし一時、ただの一時でいい」
 暁慶の視線が、一人一人と目を合わせるように、集った人間の顔の上を辿(たど)る。
「貴殿らが、濫と意志を同じくすることを願う。私はそのためにここへ来た」
 暁慶は最後に、中央のシリンへ顔を向けた。
 シリンは笑みで皇帝を迎えた。
「濫帝よ。その言葉に対する答えを我らはすでに示している。()(せん)へ息子を送り出した時、(はら)は決まっていた。それは私一人の意志ではなく、アルタナのみの意志でもない。草原の総意である。我らにしてみれば、半年前の親書にようやっと返事を受け取ったようなものだ」
 そうだな? とシリンは上座から草原の面々を見やった。
 否の声を上げる者はなかった。
 すでに濫との協約は結ばれた。今さら異を唱えようと覆ることはない。しかし「あんな国と結ぶなど」と苦々しく思う者も少なくないのが事実だった。
 しかしこの夜、アルタナの人間の多くが協約について腹落ちした。
 濫帝は、前族長が兄帝を(しい)したことを声高に言いつのらなかった。どころか同胞の遺品を携え、自ら草原へと足を運んだ。自らの口で語りかけた。
 草原が伝統的に重視するものがある。力と面目だ。
 濫帝はどう見ても武に()けた男ではない。しかし草原の面目を最大限守る振る舞いをした。シリンが客人の顔を立てるために、数多くの羊を潰したのと同じように。
 宴が始まった時とは、皇帝を見る目は変わっていた。それはつまり、()()()()()()()()()()()()()という意味も変わったということだ。
 では、と暁慶は香鶴から新たな盃を受け取って持ち上げた。
「あらためて、よろしく頼む。女王殿と、その民に」

 夜も()け宴がようやく終わった頃、シリンと暁慶、月凌の三人は客人用に急遽建てられたユルタの中にいた。
 あの後、暁慶は草原の男たちに勧められるまま盃を空け続けた。その報いとして、すでに静かな寝息を立てている。
「歓待をありがとう。良い宴だった。この方が安らかに眠るのを見るのも久しぶりだな」
 月凌の言葉に、シリンはほほ笑んだ。
(むつ)まじく暮らしておられるのですね」
「そうだね。杏妃が去ってから、私たちはずっと良き友人だった。時が過ぎる内に、何の秘密も持たずに話せるのはお互いくらいしかいなくなってしまったし」
 月凌の言葉は陰りを含んでいた。しかしシリンが口を開く前に、それよりも、と月凌は(こと)(さら)に明るい声を張った。
「君のことをいつまでも杏妃と呼ぶのはおかしいな。これはもう古い名だ。草原の名で呼んでも?」
「もちろんです」
「ありがとう。ではシリン?」
 シリンと月凌は目を見交わし、ふ、と互いに笑みを漏らした。
「本当の名一つ呼ぶのに、ずいぶん時間がかかったものだね」
「私、月凌様が杏妃と呼んでくださるのも好きでしたよ。永寧宮にいた頃は、あれもたしかに私の名だったのです」
「嬉しいことを言ってくれる」
 そうだ、と月凌は持参品の山から留め金付きの箱を引っ張り出した。
「久しぶりに一局どうかと思って持ってきたんだ」
 開かれた箱の中に見えたのは、(しゃん)(ちー)(ばん)(こま)だった。
「懐かしい。初めてお会いした時のことを思い出します」
 シリンが眉を下げると、承諾の返事と見たか、月凌は嬉々として絨毯の上に盤を広げ、駒を並べ始めた。
「スレン殿が伽泉に来た時も、一局付き合ってもらったんだ。嬉しかったな。打ち筋がまったく一緒で、まるで君と打ってるみたいだった」
 盤を挟んで向かい合った月凌は、顔の前に垂らしていた薄絹を取り去った。懐かしい顔がようやく目の前に現れる。
「さて、どうしよう。私の駒を減らそうか? それともシリンが先に三手打つか」
 月凌とシリンの腕の差は歴然である。後宮にいた頃は、実力の差を埋めるため大抵そうして月凌に不利な条件を付けて打った。
「不要です。このまま打ちましょう」
 いいの? と月凌が悪戯っぽい目をしてシリンの顔を覗き込む。
「よいのです。久方ぶりに、虎に喉笛を食い千切られてみたくなりました」
「虎って、私がか?」
「月凌様の(やしき)に虎の描かれた(つい)(たて)があったでしょう。盤上での月凌様の強さはまるでこの虎のようだと、遠い昔に思ったのです」
 シリンは思わず笑みを零した。
「私、草原では狼と呼ばれているんですよ。虎と狼の戦いなんて、ずいぶんな見物ではありませんか」
 虎に狼、と月凌は自身とシリンを指差し、呵々(かか)と笑った。
「いいね。では獣同士、真っ向から戦おうか」

 勝敗はすぐに決した。もちろん虎の完勝である。
 狼は脱力し、後ろに倒れ込んで(ぎょう)()した。虎はこれくらいの無作法を(とが)める人ではない。
 その証拠に、くすくすと笑いながら顔を覗き込んでくる。
「あまりに容赦がない
「シリンが言ったんだ、手加減なしでと」
 それにしたって、と恨み言を口にしたところで、いつの間に目覚めたのか、覗き込む顔が二つに増えた。
「なんだ、駄々をこねているのか。狼の名がすたるな」
「そんなことはしておりません」
 シリンはむっとして体を起こした。
「もうお目覚めですか。ずいぶん無理をされたようですから、まだ眠っておられた方がよろしいのでは。車に揺られて吐き戻しでもしたら、臣下に示しがつきませんよ」
 暁慶はシリンの言葉を無視し、勝敗の決した盤面を覗き込んだ。
(ひど)いな。ここで行われたのは戦いではない。(さつ)(りく)だ。私だってここまでの負け方はしたことがない」
「仕方ないでしょう、草原での相手は息子しかいなかったのです。腕も落ちようというもの。ひきかえ、陛下は皇后様と打たれる機会も豊富にあったでしょう。そのようにおっしゃるからには、一度くらいは月凌様の将を打ち取られたことがおありなのでしょうね?」
 暁慶は黙り込んだ。痛いところを突かれたのだろう。
「シリン、それならちょうどいい」
 ()ねた顔の暁慶とは裏腹に月凌は表情を明るくし、荷物をごそごそやったかと思うと、象棋の盤と駒とが収められた箱を四つ五つと目の前に積み重ねた。
「何ですか、これは」
「個人的な贈り物だ。草原の人にも象棋を(たしな)んでもらいたいと思ってね。アルタナだけでなく、是非ほかの氏族にも伝えてくれ。そして我こそはと思う者は永寧宮を訪ね、私に挑んでほしい」
「お前は宮城を茶館か何かだと思っているのか。城下の人間が茶飲み友達と店先で打つのとはわけが違うんだぞ」
 やれやれと暁慶は頭を振ったが、酒が回って気分が悪くなったのか、すぐに止めた。
「私はただ、草原の人も我らと同じものに親しみ、気軽に濫を訪ねるようになればよいと思っただけです。私たちは言葉も風習も、何もかもが違う。けれど盤の上では生まれがどこであろうと関係ない。私とシリンがそうだったように、ここでなら育めるものもあるのではないでしょうか」
 ここ、と月凌の指は盤上を指していた。
「本心か?」
 暁慶に問われると、月凌はにこりと笑んだ。
「ええ、もちろん。そしていずれ生まれる強者からの挑戦を受けたいというのもまた、本心からの言葉です」
 そういうわけで、と月凌はシリンへ向き直った。
「受け取ってくれるね?」
「有難く頂戴いたしますが、それにしても」
 シリンは苦笑した。
「草原にまで強者を求められるとは。濫に月凌様を(しの)ぐ打ち手はいないのですか?」
「濫は広いからね。捜せばどこかにはいるだろう。もう少しで私を負かしそうな者なら、永寧宮にもいたし」
「それはよろしゅうございました。臣下の誰かでしょうか?」
 いや、と月凌は笑みを曇らせた。
「娘だ。打ち続ければ私を超えたかもしれないが、あの子は象棋にはこだわらなかった。私は盤上にのめり込んだが、娘は同じ境遇にあってももっと遠くを見ていたようだ」
 月凌と暁慶の娘。廬郷で、スレンと共にいた少女の顔が脳裏に浮かぶ。色白で華奢な娘だったが、瞳に宿った光は不釣り合いに力強かった。
「私が愚かだったんだ。あの子は(さと)い。手元にいつまでも留め置けるわけがなかった」
「公主様は、いまどちらに」
「廬郷を出てサドキアに向かったらしい。護衛にあとをつけさせてはいるがもし道中で出会うことがあれば、どうか娘を守ってやってほしい」
「濫には連れ戻されないおつもりで?」
「本音を言えばそうしたいさ。けれどあの子に対して、これ以上罪を重ねることはできない」
 月凌が頭を下げると、暁慶もそれに倣うように目を伏せた。
「承知しました。子の無事が確信できぬのは、何より辛いことですから」
「そういえば、お前の息子は。姿が見えぬようだが」
「あの子も旅立ちました。我らはもはや若者が行くのを止めることも、追うこともできない。歳を取りましたね。今は立場があり、子等のようには自由に駆けられない」
「ですが」とシリンが続けたのと、「けれど」と月凌が言ったのは同時だった。そして、言葉の続きは暁慶が引き受けた。
立場を手に入れたからこそ、叶うこともある」
 円座となった三人は、互いに目を見交わした。
「我らが濫と草原の(いただき)にあるのを、必ず意味あることに」
 誰からともなくそう言うと、三人は頷きあった。それ以上の言葉は必要なかった。
「しかし不思議ですね。これだけの時が経ってから、しかも濫ではなく草原で、初めて三人で一堂に会すとは」
 シリンの言葉に、暁慶と月凌は顔を見合わせた。
「そういえばそうですね。陛下の話は時々シリンとしたから、そんな気がしなかったけれど」
「どうせ陰口を叩いていたんだろう。足を運ばない後宮なんか潰して騎射場にすればいいとかなんとか。気が滅入るから聞かせるな」
「そんなことは言いませんよ。ただ少し、陛下は風変りな方だと話しただけのことです」
「そうですよ。お会いしたばかりの陛下の印象ははっきり言って最低のものでしたが、月凌様が取りなしてくださったのです」
 やっぱり陰口ではないか、と暁慶は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「陛下だって月凌様のこと、象棋狂いとおっしゃったじゃないですか」
「それは嫌味じゃない。本当のことだろうが」
「ならば私たちだって、事実をお話ししたまでのことです。後宮に足を運ばない皇帝が、変わり者以外の何だというのです?」
 言い合うシリンと暁慶に、月凌は笑い声を漏らした。
「私たち、同じだったんだなあ」
 月凌は口の端に笑みを残したまま言った。
「同じとは?」
「私と陛下も、シリンの話をよくしたんだ。君が去った永寧宮で」
「私の、どのような話を」
「なに、他愛のないことだよ。杏妃は昔こんなことを言った、あんなことをした。濫に来た日はこうだった、特に好んだ菓子はなんだったああ、()(よう)(せつ)の騎手がシリンだったと聞いた時は驚いたな」
 美しい思い出ばかりを二人で語らった、と月凌は目を細めた。
「魏帝陛下が()(まか)られて、永寧宮は否応なしに変化を求められた。(らん)(れい)たち()(えん)(きゅう)の人々が去り、朝廷の勢力図は書き換えられ、私は皇后の位に昇り目まぐるしい日々の中で、思い出だけは姿を変えずにいてくれた」
 シリンはなんとなく気恥ずかしくなって、月凌から目を逸らした。しかし逸らした先には暁慶がいて、やはりシリンを見ていた。
「楽しかったことばかり何度でも思い返しては話して、何度でも撫でさすった。撫でる度に、記憶は輝きを増すようだった。日々が灰に塗れたと思えても、そこだけは光る。陛下と私にとって、シリンのいた一年はいわば黄金の記憶になった」
 暁慶はまたしても顔を顰めた。
「よくもまあ、本人を前にして臆面もなくそんなことを言えるものだな」
「言うべきことは、言える時に言わなくては。次いつ会えるのかもわからないのに、口を噤んでいかがします。陛下はただでさえ言葉の足りぬ方ですのに」
昼間、同じことを杏妃にも言われた」
「陛下、もう杏妃ではありません。草原の名でお呼びになればよろしいでしょう」
 シリンは暁慶を見た。知らず、視線に期待がこもったかもしれない。
「まったく何なんだ、お前たちは」
 暁慶は眉間の皺を深くした。しかし、シリン、とたしかにその名を呼んだのだ。

 土産を抱えて自分のユルタに戻ると、宴の後始末を終えたカウラが先に帰っていた。
「おかえりなさい。飲む?」
 鍋で温めた馬の乳を勧められたので、頷く。カウラとシリンは隣り合い、しばらく無言で馬乳をすすった。
「濫の人たちと、密談でもしてきた?」
「似たようなものだ」
 カウラはわずかに肩を竦め、シリンの持ち帰った象棋の木箱を見やった。
「寂しいこと。私にとってシリンとの出会いは人生を決定づけるものだったけれど、あなたは私と会う前に、そういう大きな出会いをすでに済ませてしまっていた」
 シリンは小さく笑った。
「向こうにいたのはたった一年だ。カウラとは、もうその何倍の年月を過ごした?」
 やれやれ、とカウラは立ち上がって鍋に残った馬乳を自分の器に空けた。
「わかっていないわ、まるで」
「この返答では不満?」
「ええ。今この場合、『あの頃は過ぎた季節、今はお前と息子が一番の宝だ』。それが正しい答えに決まってるわ」
なるほど。次は必ずそう答える」
 カウラは哀れむような視線を向けた。
「そう都合よく次なんか来ない。時を逃した言葉は、たいていそのまま消えてしまう」
 それは、先刻月凌が暁慶に言ったことと同じ意味に思えた。
「まさか私が、あの方と同じ言葉でたしなめられる時が来るとはね」
 シリンがくつくつと笑うと、カウラに上目遣いに睨まれる。「悪い」と謝ろうとしたその時、おもてで甲高い羊の叫び声がした。
 シリンよりも早く、カウラがすっと立ち上がる。
「見てくる。急いで放牧地から羊を戻したから、はぐれたのがいたかもしれない」
 私も行こうか、とシリンは尋ねたが、カウラは首を横に振った。
「一人でいい。シリン、ずっと気を張っていたでしょう。先に休んでいて」
 そう言い置くと、カウラは夜闇に吸い込まれていった。
 言われて初めて、肩に力が入ったままだったことに気がつき、首元を軽く揉んだ。
 一人になると、(かまど)で爆ぜる火の音ばかりが耳に残った。
 馬乳を口に含み、舌の上で転がす。シリンはなんとなし、ユルタの中央に吊るされた鹿角を見上げた。
 静かだった。こんな静かな場所に身を置いたのは、ずいぶん久しぶりだった。口内の馬乳を飲み下すと、喉の上下する音がやけに大きく耳に届いた。
 しかしその(せい)(じゃく)は、不調法者によって破られた。
「よう、女王陛下」
 呼び声に、思わず顔を顰めた。垂布をめくり上げて入ってきた男が声を上げて笑う。
「なんだよその面は。実際、王になったんだろうが」
「気色の悪い呼び方はやめろ。事実がどうあれ、お前に陛下なんて言われると寒気がする」
 ザナトはにやにや笑いながら、どさりと腰を下ろした。
「いや、俺は濫の皇帝を見直したね。まさか我らが族長に王の称号まで下さるとは」
 宴席でもさんざん飲んでいたはずだが、まだ飲み足りないのか、ザナトは甕を抱えていた。
「よかったな、族長殿。これでアルタナの人間は二度とごちゃごちゃ言えねえ。なにしろお前が王になるなら、アルタナは晴れて名実共に草原の盟主だ」
ザナトはさっそく甕から直接酒をあおった。
「お前が族長だからこそ、濫帝は直々にやって来て王号を下さったんだからな。俺や親父が族長だったらこうはいかねえって、年寄り共にもやっと理解できただろ」
「気に食わないな」
 シリンはザナトの甕を奪い、まだ馬乳の残る器に酒を注いだ。
「その言い草じゃ、まるで私が皇帝を惑わしたみたいだ。私がしてきたことは、濫帝に認められなければ意味のないことだったか?」
 満たした盃を傾けると、やけに旨かった。
「上物だな。お前、宴の酒を掠めただろう」
ザナトはそれには答えず、心外だとばかりに肩を竦めた。
「がめてきたんじゃねえよ。この酒は俺のとっておきだ。ドルガ襲撃の前夜にでも飲もうかと思ってたが、前倒しだ。お前の即位祝いに」
 シリンが器を置くと、「祝い酒だ」とザナトはどぼどぼと酒を注ぎ入れた。
「ったく、言わなきゃわかんねえか? 濫の皇帝陛下に認めていただかなくたって、お前はとっくに俺たちの長だ。今さらほかの誰に務まるってんだよ」
 ザナトは(ひげ)をしごくと、まあなんだ、ともごもご言った。
「お前は強えんだ。いいか、普通に考えりゃ、お前がまだ生きてること自体が奇跡なんだよ。何度も死んでておかしくない局面はあっただろ。濫から帰ってくる時、狼狩り、アルタナ内のごたごた、他氏族共との小競り合い、数え上げたらきりがねえ。初陣で矢を受けた時なんか、もう絶対に死んだと思ったね。でもお前は生きて、今も俺たちを率いてる。恐いくらいの強運だ。どれだけ強くて立派な()(じん)でも、運に見放されてる奴は王になれない。逆に言や、お前はそういう星の元に生まれついてんだ。だから濫帝だって王号寄越したんだろ。その名を使って草原まとめ上げて、(かん)()()が二度とこっちの土地に欲出さねえように蹴散らし叩き潰せ、お前にはそれができるから、そういうこったろ」
 シリンはザナトの珍しく長い口上に目を丸くした。
「意外に頭が回るな。そこまで理解していたか」
「お前、俺のこと土撥鼠(タルバガン)並みの頭しかねえと思ってんだろ」
 怒るな、冗談だ、とシリンは祝い酒を有難く頂戴した。
「たしかに王号は好都合だ。干陀羅の脅威を前にして、草原の結束はあまりに(もろ)いのではないかと以前から(うれ)えていた。濫が私に王と名乗ることを許すなら、利用しない手はない」
「ああ。これを機に干陀羅だけじゃなく、揉め事ばっか起こす氏族共も制圧しちまおうぜ」
「血の気が多いな。当面の獲物は干陀羅だけに絞れ。逸ると何もかも射損じるぞ」
「草原の男で、血の気が少ない奴なんざいないね」
しかしなんだよあいつ、なあ、とザナトは酔いに任せてシリンの背中を叩いた。
「まーったく、何が『濫と意志を同じくすることを願う』だよ、『そのためにここへ来た』だよ。かっこつけやがって」
 ザナトがぶはあと酒臭い息を吐く。
「正直に言えってんだ、惚れた女の顔が見たくなったから来ましたって。その方がシリンだって嬉しいに決まってんのによ」
「ザナトお前、飲み過ぎだ。いい加減にしろ」
 盃を取り上げると、ザナトは取り返そうとしばらくもがいたが、やがて大人しくなって寝転がった。うなるような声を上げて目を閉じる。
「シリンお前よかったなあ」
 何が、と問う間もなく、ザナトの目に涙が玉となって浮かび、おいおい泣き始める。
「どうした、腹でも痛むか。万病に効くって薬をこの間行商に押し付けられたが、試すか」
「違うわ馬鹿野郎。感極まってんだよ。シリンが族長になってからいやその前からか。とにかくお前の身の上にはひでえことばっかり起きた。なんでお前だけがこんな目にって思うくらいだった。俺はな、シリンが、お前の十数年が、ちゃんとした名前で報われて嬉しいんだよ」
 言わすなこんなこと、とザナトは派手な音を立てて洟をすすった。
そう酷いことばかりじゃなかったさ」
 なにしろ、とシリンはザナトを見下ろして笑った。
「私にはこうして泣いてくれる右腕がいる。強く育った息子は旅立ち、家はカウラが守ってくれる。奇跡的に生き延びて、懐かしい人たちにも会えた」
 ザナトが驚いた顔で見上げてくる。
「今日はずいぶん殊勝なこと言うじゃねえか」
「カウラに言われたんだ。言うべき時を逃したら、次の機会なんかないって」
 ほら起きろ、泣いている暇ないぞ、とシリンはザナトを引っ張り起こした。
「私の王号は、まだ自称にすぎない。ほかの氏族たちがそう呼んでこそ、王足り得る」
「では陛下、まずはどうなさいますか」
 ザナトは乱暴に涙を拭い、()りずにそう言った。
「さしあたり、濫より贈られた品々を分配する。すべての氏族たちに(かたよ)りなく配れ」
「おいおい、濫の連中はお前にってくれたんじゃないのかよ」
「違うね。あれは私が王号を受けたことを知らしめるための材料だ。手ぶらで訪ねて『今日から私が草原の王だ』と言ったって、いったい誰が聞く耳を持つ? わかったら早速年寄り共を集めて、何をどこの氏族へどれだけやるか、一切の異論が出ないようになるまで話し合わせろ。結論が出るまでユルタから出すな」
「承知した。で、俺たちは?」
「決まってる。今度こそドルガに向かう支度だ。お前の言うとおり強運も王に求められる資質の一つに違いない。だがここは草原だ。武勇こそがすべてを黙らせる。私が真に王となるのは、ドルガを奪回した時だ」
ザナトはにやっと口の端を持ち上げた。
「お供しましょう、陛下」
「何度も言わせるな。その冗談は好かない」
「冗談じゃねえって。俺は狼狩りでお前に完敗した。あの時から俺はお前の臣下だ。負けを認められねえ奴は、三流の戦士にも数えらんねえからな」
ザナト」
「なんだ」
「ありがとう」
 ザナトは(きょ)()かれたように目を見開き、しばらく黙り込んで、言った。
「王様は、滅多なことで臣下に礼なんか言っちゃいけねえんだ」
「うん。だからこれが最後だ。濫から帰った時、お前は私を殺して狼牙の首飾りを奪うことだってできた。だけどそうしなかった。馬鹿正直に私と真っ向から狼狩りで競った。勝敗に従って、今日まで族長と呼び続けてくれた。ありがとう。感謝している。もう口にはしないが、思うことはこれからも変わらない」
 シリンは立ち上がり、寒風が吹き込むのにも構わずに垂布を捲り上げた。
 そこには月もなく、闇ばかりがある。
 けれどシリンの目には、そうでないものが映っていた。
 黄金。黄金の夜。いつか記憶となる夜。
 予感があった。
 今目の前に広がる闇は、いつか記憶となってシリンの中に眠り、時々揺り起こされては撫でさすられる、光り輝く夜となる。
 その輝きをまぶたの裏に閉じ込めるように一度目を閉じ、すぐに開いた。
 そして言う。草原の王は宣言する。
「行くぞ。王太子ミクダムの首は私が獲る」

【おわり】