決意の日
白蓮宮は皇城外にある、宗室の離宮である。
深淵潭潭とした巨大な湖。ふんだんに植えられた柳や松等の樹木。山水画のごとく静謐なこの宮殿に、譲位をした太上皇が移り住んだのは三年前のことだった。若い皇太子が即位をして新帝となり、もろもろが落ち着いたのを見計らってからの移住であった。
僅かに残っていた妃達は、それぞれに邸と十分な禄を賜って皇城を出た。上皇は四十を過ぎてから新たに妃嬪や侍妾を迎えることはなかったから、当時の後宮に残っていた者はほんの二、三人に過ぎなかった。
天子の最大の使命は皇統を絶やさぬこと。ゆえにある程度の年齢となっても美貌を持つ若い娘達を入宮させるのが一般的だし、周りもそれを勧める。しかしこの段階で上皇には皇太子も含めて四人の男子と三人の女子がいたし、先年には皇太子妃がめでたく男児を産んでいたので、特に諫言を受けることもなかったのだ。この件にかんして人々の注目は、すでに皇太子のほうにむけられていたのである。
自由にせよという上皇の言葉に、妃嬪達は素直に従った。後宮には、天子の養母である皇太后が一人残っただけだった。生涯を一夫に尽くすという世の流れに従えば、ましてそれがかつて皇帝であった相手なら、出家でもしないかぎり共に離宮に移ることが筋と思えたが、彼女達は誰一人抵抗をせずに宮殿を出ることを受け入れたのだという。
(まあ、よほど鈍感な婦人でなければ、そうなるでしょうね)
二十一歳の范琳杏は、紫檀の卓のむこうで茶を喫する父上皇の顔を見ながらそう思った。
上皇という隠居した身にありながら、その容貌はまだ若く、美丈夫と呼んでもなんら差しつかえなさそうである。然り。五十にもならぬ年齢は隠居というにはやや早すぎた。まして父が譲位をしたのは三年も前なのだから、まだまだ働き盛りであっただろうに。
「なんだ、食べぬのか? そなたが好きだというからわざわざ作らせたのだぞ」
卓上の菓子に目をやり、上皇は最愛の娘に目をむける。心持ち消沈した表情に琳杏はあわてる。
「もちろんいただきます。大好物ですから」
菓子を手に取ると、父親はたちまち相好を崩す。五つや六つの子供ではないのにと思うが、こんな姿を見ると父親、いや上皇に対して本当に無礼なのだが、可愛らしいと思ってしまう。
「あら、来ていたのね」
琳杏が菓子を食べ終えた頃、紗の内暖簾をかきわけて母・范珠里が入ってきた。この国ではじめて正式に認められた女医である彼女は、父の譲位と時期を同じくして、務めていた女子太医学校の校長職を退いた。父より二歳下の彼女もまた、働き盛りであったというのに、後進が立派に育ったから憂いはないと言って。ちなみに母は琳杏に自分と同じ道を進むようにとは一度も言わなかった。ゆえに琳杏は医師ではない。
母は父の横に腰を下ろし、空になっていた茶杯に新しい茶を注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
両親がたがいに向けあう眼差しは、相手への情愛と尊敬にあふれている。しかし自分という子供をもうけながら、両親はついに結婚をしなかった。
天子という立場であれば、力ずくで母を自分の後宮に入れることは可能だったのに、父は最後までそれをしなかった。母もどれほど仕事で苛酷な状況に陥っても、父の妻になりたいとは言わなかった。
だからこそ二人は、夫婦という言葉だけで表せない特別な絆で結ばれている。天子としての務めから、父は幾人もの妻を娶った。そして彼女達に立場上の誠意を尽くした。けれど女性としても人間としても、母以上に父の心を占めた者はいなかった。
だから妃達は、全員が父のもとを去ったのだ。
父が離宮に移れば、校長の職を辞した母が侍医として侯うことは分かっていたから、そんな光景を日常的に目の当たりにするなど自尊心が許さなかったのだろう。夫婦という言葉が軽く思えるほど、二人は特別な絆で結ばれている。
もっともそれは、二人の立場に立てばの話である。多数の人間に気を配らねばならぬ天子がそんな関係をたった一人の誰かと築けば、その陰で嫌な思いをする者が多数出てしまうことは否めない。ましてそれが異性だからよけい感情が入り乱れる。
自己中心的と言えばそうかもしれない。後宮に仕える女達の想いを踏みにじったと言えば聞こえは悪い。けれど両親はそれ以上に自分自身の想いを踏みにじって茨の道を進んできた――それぞれの責務と志のために。それらは世のために必要なことだったから、放り出すわけにはいかなかった。そしてそれがある程度達成されたところで、共に後進に道を譲ったのだ。彼等のこれまでの功績を考えれば、人生の後半を自分達のためだけに生きることを誰が責められよう。
ゆえに二人の娘として、今の生活を守ってあげたいと思う。
半年過ぎてもなお宮中を騒がせているあの騒動に、二人を巻きこみたくなかった。新しい帝の即位からすぐに起きた陰惨な事件の要因を、天子の若さに求める者も少なくない現状は父の耳にも入っているだろう。それに少なからずとも心を痛めているはずだ。
「お父さま、お母さま」
すっと背筋を伸ばして、琳杏は言った。
「私、入宮します」
両親は目を円くした。それはそうだ。天子は琳杏の異母兄である。ゆえにもちろん妃としてではない。
「尚宮として後宮を治めてくれないかと、主上から依頼を受けました」
後宮には六局一司と称される、女官の組織がある。六局とは、食を扱う尚食局。儀礼をつかさどる尚儀局。服飾の尚服局。燕寝の尚寝局。女工を監督する尚工局。そしてこれらを総括し、かつ全ての出納文書を管理する尚宮局である。
尚宮というのは、この尚宮局の長官のことだ。ちなみに一司とは責罰をつかさどる宮正司のことで、こちらは宦官が主として構成される内廷警吏局も含まれている。
これらの女官の組織に加え、皇后ないしはそれに準ずる上位妃の手腕により後宮という巨大な組織は維持されていた。
だがその平穏は、いま大いに揺らいでいた。
半年ほど前に起きた、のちに『安南の獄』と称される事件は、四人いる妃のうち一人を自害に追いこみ、他三人の妃が処刑。共謀した内定廷警吏官の宦官達は凌遅刑に処されるというすさまじい顛末で終わった。自害に追いこまれた妃は、皇太子妃時代に男児を産んだ皇后候補筆頭の者だった。
即位から三年もたたぬうちにこのような事態に面した新帝はすっかり参ってしまい、若く位も低い嬪・侍妾ばかりが残った後宮も統制が取れなくなって混乱していると聞く。信頼を完全に失墜した内廷警吏局は、もはや機能しなくなっている。
これ以上の混乱がつづくようであれば、上皇として父が腰を上げざるを得なくなる。だから琳杏は兄帝の依頼を引き受けた。世に貢献しつづけた二人がようやく得た、自分達の時間を奪いたくなかった。
公主としての身分こそないが、上皇が誰よりも鍾愛する娘である自分に、たいていの者は従うはずだ。そのあたりを兄帝は見込んでくれたのだろう。
とはいえいきなり尚宮というのも、なかなか重責ではある。
「大丈夫なの?」
不安げな顔で問う母の横で、父も眉を曇らせている。
対して琳杏はきりっと表情を引き締め、自信を持って告げた。
「大丈夫です。私はお二方の娘ですから」
【おわり】