莉国の都・景京
珠華杏林医治伝 乙女の大志は未来を癒す 番外編
中原を支配する大帝国・莉王朝。
今上の即位より六年目のその日、この国に女子のための医学校が開校した。
太医学校は国家のための優秀な医師を育成するための官立の医学校である。その広大な敷地の片隅のささやかな面積にとはいえ、女子のための学び舎が設けられたのだ。妻として母として家族に尽くすべき女子に学問はもちろん職業など必要ないとされる世の常識の中で、画期的を通り越して衝撃的といってよい出来事だった。
ぐるりと塀で囲まれた中、正面に建つ牌坊には『女子太医学校』の看板が掲げられている。開け放った扉の奥に設けた石造りの照壁の刻まれているものは、医術の神とあがめられる女仙・莟鴬の像である。
門前でこの光景を眺めつつ、珠里は感慨に耽っていた。筒袖の上に着た比甲(袖無しの上着)は緑色。上から大士、中士、少士とされる医官の中で中士が着用する官服だ。珠里はこの国ではじめて、この官服を身にまとった女子であり、いまのところ唯一の存在である。けれどこの官服を着た女子は、これからもっともっと増えてゆくだろう。いや、増やさなくてはならない。そのための女子太医学校である。
「やっと、ここまできた」
嘆息交じりの言葉が漏れる。要した年月だけを言えば、そこまで長くはなかったかもしれない。世のため、未来のため、女医を育成するための学校が必要である。そのように珠里が願い出てから六年しか経っていない。苦節というには、少々微妙な時間だ。この年月でここまでたどりついたのは、むしろ順調すぎるほどだった。世のあらゆる事象を何十年、あるいはその生涯をかけ、苦労して切り開いてきた開拓者達が聞けば耳を疑う短い年月かもしれない。
皇太后の信頼が厚い、皇帝のお気に入りの女だからそんなことができたのだ。
傍から見ればそう映るだろうし、たぶんその通りだ。尊貴の二人の協力がなければ、費やした月日云々以前に、女子のための学校などこの国で開校できるはずがなかった。まったく女は楽でいい。医学校に入るために、学問に対してだけ努力をしていればよい男達はそうあざけるだろう。けれどそんな中傷は自分でも驚くほど気にならなかった。男に生まれたというそれだけで、医師を志す女からみれば圧倒的に得である。その幸運の自覚もないまま、的外れの嫉妬や軽蔑を抱く者達になにを思われようとかまうものかと、珠里は胸を張って門をくぐろうとした。
「范中士」
覚えのある呼びかけに、珠里は足を止めて振りかえる。そこにいた人物に表情を和らげたあと、彼の横に立つ連れに苦笑を浮かべる。
「戈大士。――と長公主さま」
「なによ、その微妙な間は」
「いえ、いえ。ご出産なされたあとだというのに、お元気そうですね」
「唱堂とお前が、二人がかりで養生を強制したからね。三か月も上げ膳据え膳でいたら、そりゃあ回復もするわよ」
「とうぜんです」
不満げに訴える莉香を、珠里はぴしゃりと返した。
「出産における母体の気血の消耗は、大事故で負傷したときと同じ程度なのです。この時期の養生を怠ると、若い方でさえあとを引きます。まして長公主さまはもう若くない――」
「大きなお世話よ!」
息を吐くように出る珠里の失言に、莉香はかみついた。とうぜんの権利である。二十六歳という年齢は世間一般ではややとうが立つとされているが、女人の身体がもっとも満ちるとされる二十八歳までまだ二年ある。
「わあ、すみません」
「っとに、お前はいつまでたっても失礼ね」
がなりたてる莉香を、まあまあと唱堂がなだめている。身分の関係であれこれ言われたが似合いの夫婦だと思う。というか莉香の手綱を握れる男など、国中を探したとて唱堂しかいない。
懸命に謝り倒した甲斐もあり、ようやく莉香は気を静めた。珠里が無礼であることは百も承知のうえで、莉香も三か月前に母となってから、少しは丸くなった気がする。
一息ついてから、珠里は言った。
「お元気になられてよかったです。この長公主さまの養生方法を、出産後の養生の指南書にしようと思っています」
だからといって貧しい家や農村部では、産後まもない婦人に労働を強いるだろう。その虐待が、生涯にわたっての女性の健康を苛むことなど考えもしない。嫁や妻は身を呈して自分達に尽くす存在だと考えているから。
それでも、それが正しい行為ではないと知らしめるだけでも一定の効果はある。これからこの学び舎から巣立ってゆく女医達がそのことを伝えてくれるだろう。
「ところで、なんの御用ですか?」
いまさらのように珠里が尋ねると、莉香の後ろから下僕が出てきた。子供の背丈ほどの若木を抱えている。
「杏の木だ」
唱堂は言った。
「庭に植えさせよう。この木が花をつける頃、何人の女医が巣立っているか、いまから楽しみだ」
気の利いた贈り物に、珠里は顔を輝かせた。医師の美称を杏林と言うように、杏は医療とかかわりの深い植物である。
明日、この学校に十二人の女子医学生が入学する。珠里は彼女達を指導し、その彼女達が医師となり、次の学生を導く。その積み重ねで、この国に女医は増えてゆくのだろう。そうなれば病で苦しむ婦人達が心置きなく診療を受けることができる。
「では、院子に」
珠里は門をくぐった。あとに莉香と唱堂、若木を抱えた下僕がつづく。照壁の前で、莉香は感心したように言った。
「これは見事な浮彫ね。医官局の莟鴬像より立派じゃない」
その言葉に珠里は足を止め、得意げに微笑んだ。
「気が付きましたか?」
「いや、こんなところにあるなら誰の目にもつくでしょ」
そう言って莉香は照壁を、上から下まで見下ろした。そして隅に刻まれた印を見て、はっとした顔をする。
「これ、陛下が?」
「はい。女子学生達がなにか面倒なことに巻きこまれたら、これを盾に私が彼女達を守ってみせます」
珠里はどんと胸を叩く。
色々言われているように、確かに自分は碧翔に守られてここまでくることができた。彼が珠里を守るという意志をあきらかにしてくれたから、珠里も彼女達を守ることができるのだ。それは女だけではなく、男をも守ることであり、同時にこの国を守ることになるのだと、この国の皇帝はありがたいことに知ってくれているのだ。
【おわり】