玉塵
『後宮史華伝 すべて夢の如し』刊行記念 短編集既刊『白き断章 すべて雪の如し』収録短編 全文特別公開
雪色に染めあげられた石畳の道を華輦(妃嬪専用の輿)が進んでいく。
先導する宦官たちが持つ提灯は雪明かりの中でぼうっと光を放ち、華輦にさしかけられている絹傘は雨だれのように連なった房飾りを物憂げに揺らしながら、絶え間なく降りつづく玉の塵をうけていた。
十数名の宦官が担ぐ華輦に揺られている美人は、二年前に皇子を産んで敬妃となった呉彩燕である。
呉敬妃は快活で男勝りな婦人だ。
武門として名高い呉家に生まれ、幼きころより兄弟たちとともに武芸を学んできたせいか、竹林を吹きぬける緑風のようにこざっぱりとした人柄が天稟の麗質をいっとうあざやかに輝かせている。
しかしながら、この十日のあいだ、呉敬妃のおもてには生来の明るさがない。いま、こうして華輦に揺られている花のかんばせには、憂愁の色が濃くあらわれていた。
仁啓九年、冬。
今上の寵愛を一身にうけていた方柔妃が皇子を産み落として薨去した。
皇帝の悲しみは尋常ではなかった。方柔妃の亡骸から片時も離れず、後宮から一歩も外に出ることなく、朝議もひらいていない。御年二十四にして早くも名君と称されている仁啓帝が十日間も朝堂に姿をあらわさなかったのは、これがはじめてのことだ。
方柔妃は主上の魂を連れて黄泉路を渡ったのではないかと、高官たちは囁きあった。主上は二度と朝堂にお出ましにならないのではないか、譲位して隠居なさるのではないかと言う者もいた。
妃嬪侍妾たちは方柔妃の死を嘆くふりをしながら、その実、快哉を叫んでいた。浅ましくも二夫にまみえた淫婦に天罰が下ったのだと、哄笑する者もいた。
だれもが無責任に揣摩臆測する中、皇帝は沈黙していた。金烏殿(皇帝の寝殿のひとつ)にこもり、生母の班太后さえ追い払って、ひねもす方柔妃の亡骸と過ごしていた。
「主上と話してみてちょうだい。きっとあなたの言うことなら耳をかたむけてくださるはずだから」
皇帝の叔母にあたる飛翠大長公主に頼まれて、彩燕は皇帝のもとへ向かっている。
「あなただけが頼みの綱よ。ほかのだれも主上の御心に寄り添うことはできないわ」
飛翠大長公主はそう言って彩燕を送りだしたが、彩燕は自分にそれほどの力があるとはみじんも思えなかった。実際、彩燕は何度も金烏殿を訪ねたが、そのたびに追いかえされ、皇帝は姿も見せなかった。
(みなが噂しているように、姉さまは主上の御心を抱いたまま、九泉へ旅立ってしまわれたのかもしれない)
方柔妃は皇帝より一つ年上の二十五であった。入宮したのは彩燕のほうがさきだが、方柔妃は彩燕より四つ年上であっただけでなく、入宮を経験するのが二度目だった。それをあてこするつもりはなかったが、彩燕は親しみをこめて彼女を姉さまと呼んでいた。
方柔妃は名を華枝という。
中級士人の娘で、美貌を謳われて至興帝の後宮に入り、寧妃となった。芳紀まさに十六。桃花の魂が人の形をなしたかのような愛らしい美姫であった。
華枝は入宮後まもなく至興帝に気に入られ、寵愛をうけることになるが、おなじころ、彼女を見初めた男性がもう一人いた。
皇太子・高嵐快――のちの仁啓帝である。
当時、嵐快は十五になったばかり。春爛漫の後宮の園林で、ふたりはめぐり会った。
ふたりがどのようにして恋を育んだのか、くわしい経緯は知らない。
彩燕が華枝から聞いて知っているのは、華枝の懐妊が発覚すると同時にふたりの関係が班皇后――のちの班太后――の耳に入り、激昂した班皇后が秘密裏に華枝に堕胎薬を飲ませ、胎の子を始末したことだ。
「あの子は主上の御子ではなかったのです」
いつだったか、華枝が白い面をますます白くして打ち明けてくれた。
「まちがなく、先帝の御子でした」
皇太子時代の嵐快は華枝と関係を持っていなかった。
恋という言葉を知らぬ少年少女がそうするように、ふたりはならんで花を眺めたり、たわいないおしゃべりをしたり、ささやかな贈りものを交換したりしていただけだった。
純粋な恋だったのだ。あまりにも清く、あまりにもあえかな。
美しいものは壊れやすい。あるいは、壊れやすいがゆえに、美しいのか。
ふたりの恋は終わった。班皇后が断固として許さなかった。否、天下のだれも許すはずがなかった。
嵐快は義理の母を愛したのだ。華枝は義理の息子を愛したのだ。
それは不義という一言では片付けられないほど、おぞましい大罪であり、この世界への恐ろしい裏切りだった。
ふたりが出会い、恋に落ち、別れた年の暮れのこと。
至興帝が崩御した。
翌年、嵐快は燦然ときらめく黄金の龍衣をまとって至尊の位にのぼった。
仁啓元年、早春。
華枝は喪服姿のまま、ほかの妃嬪侍妾たちとともに皇宮をあとにした。それぞれの行く先はいずれも道観だった。
皇帝が崩御すれば、子を持たぬ妃嬪侍妾は道観に入って女道士となり、先帝の御霊を慰めるためだけに残りの人生を費やすことになっている。
むろん、再嫁など許されない。ほかの男に心を移すことは、先帝の生前と変わらず密通と見なされ、処罰の対象となる。
古い時代は殉死を命じられていたそうだから、それにくらべればいくらか恩情のある措置ではあるが、若く美しい盛りの女人たちが後宮から出ても目に見えぬ掟に縛られ、墨絵のような余生を送らねばならないのだから、幸福とは言いがたいであろう。
しかし、当の華枝は女道士として過ごした墨絵の日々を「幸福だった」と述懐した。
「失うことを恐れずにすんだからです」
はらはらと舞い散る桃花の下で、華枝は微笑んでいるような、泣いているような表情をしていた。
まばたきをした瞬間に消えてしまいそうな立ち姿は、すでに不吉な未来を予期していたかのように玉響の静寂をまとい、春が描きだした千紫万紅の借景を、弱々しい墨筆で書いた道釈画のように見せていた。
「主上を……主上のぬくもりを失うことを恐れずにすみました。なぜなら、はじめから、わたくしのものではありませんでしたから。それはわたくし以外の女人たちのものでした。なれど、わたくしもその女人たちのひとりとなって……恐れるようになりました」
昨年、朝廷は嵐に見舞われた。皇帝が女道士となっていた華枝を還俗させて入宮させると言いわたしたからだ。
高官たちはこぞって反対した。父帝の妃嬪を後宮に迎えるなど、人の道にそむく汚らわしい行いだ、後世に汚名を残すことになろうと、入れかわり立ちかわり皇帝を諫めた。
高官たちだけでなく、班太后も柳眉を逆立てて息子を叱責した。たかが女ひとりのために道を誤ってはならぬ、内乱(十悪のひとつ、近親相姦)の罪を犯した天子がいったいどうやって天下万民に訓戒を垂れるつもりかと、勘気をあらわにした。
幾万の諫言も一朶の恋のまえでは無力である。
皇帝は反対を押し切って華枝をふたたび入宮させた。華枝は寧妃よりひとつ上の柔妃に封じられ、慈晶殿を賜った。
華枝の再入宮後、後宮に咲くあまたの美姫はなきにひとしいものとなった。
皇帝は慈晶殿に通いつめ、五爪の龍が輝く龍輦(皇帝専用の輿)は一陣の空風のごとくほかの殿舎の門前をとおりすぎた。
三千の寵愛を一身にうける華枝はしかし、つねに憂わしげだった。寵愛をうければうけるほど、花と見紛うその横顔は心細げに曇り、硝子細工のような目元には幽愁の色が濃くなっていく。
「いつの日か主上のぬくもりが離れてしまうときが来るのだと、あのかたを求めてのばした手が虚しく空をつかむようになってしまうのだと……水のようにあふれてくる不安に溺れて、むしょうに悲しくなります」
「主上が姉さまをお見捨てになることなんてありませんよ」
彩燕は脈打ちながら痛む心を必死に抑えこんで、華枝を慰めようとした。
「姉さまは主上のたったひとりの恋しいかたです。主上の御心は未来永劫、姉さまのもの。ほかのだれも、横取りすることなんてできません」
華枝がふたたび妃嬪となるまえ、仁啓帝の後宮で寵妃と呼ばれていたのは彩燕だった。皇帝は彩燕をともなって狩りに出かけ、たびたび龍床に召し、身籠ったのちも何度か夜伽させた。
彩燕は決して寵愛に浮かれたりしなかった。それがひとときの夢であることは、はじめからわかっていた。
皇帝は勇猛な武将である呉将軍を引き立てるために、彼の妹の彩燕を寵愛しているにすぎなかった。そこにあるのは、恋でも愛でもない。政の駒としての寵妃の座に、彩燕がたまたまあつらえ向きだったというだけの話だ。
夜ごとくりかえされる睦言にひとかけらの恋情も存在しないと知りながら、彩燕は仁啓帝の寵妃を演じてきた。それが彩燕のつとめであり、天子の妻となった女の宿命だった。
愛されたいと願ったことはなかった。真実の恋を語りたいと思ったことはなかった。
たとえ希ったところで無益だと知っていた。内廷と外廷をつなぐ絢爛華麗な銀凰門をくぐった時点で、あらゆる希望は塵芥と化してしまうのだから。
あくまでも政で結ばれた関係だと理解していた。
なんの期待もしていなかったし、皇帝の情を求めたこともなかったはずなのに、華枝の再入宮により、寵妃の座から転落したことを思い知らされたときは、予期せぬ喪失感に襲われた。
あたかも、自分が皇帝に愛されていたかのように打ちひしがれた。裏切られたとさえ思った。もともと愛されていなかったくせに、なにもかも戯れ事でしかなかったのに、欺かれ、打ち捨てられ、奪われたかのような錯覚に陥った。
すべてははじまるまえからわかっていたことだ。遠からずこんな日が来ると予見していたはずだ。
自分はかりそめの寵妃の役を割りふられているにすぎないと承知のうえで、芝居に付き合っていたのではなかったか。来るべき時が来たというだけだ。うろたえる必要も、嘆き悲しむ必要もないはずである。
それなのになぜか、龍輦が自分の殿舎の門前をとおりすぎる音を耳にするたび、ひたひたと涙が忍びよってきた。泣くまいと思えば思うほど、焼け落ちてしまいそうなほどに瞳が虚しい熱をおびた。
いつしか、この胸には期待が巣食っていたのだ。
嘘がまことになるのではないかと、戯れ言が真実になるのではないかと、本物の寵妃になれるのではないかと、愚かな夢を見ていたのだ。
銀凰門をくぐるときに捨てたはずの希望が知らず知らずのうちにこの体を蝕んでいた。それは涙となって頬を濡らし、ほの暗い炎となって胸を焼き、でたらめに心を引きちぎって、煮え滾るうつろを注ぎこんだ。
「いいえ、主上の御心はわたくしのものではありませんわ」
華枝は日差しに目を細めた。まるでそれが人生の終末に見る陽光であるかのように。
「主上の御心は天下の――天下万民のものです。どれほどおそばにいても、愛していただいても、御心をひとり占めすることはできません。もし、天下かわたくしか、いずれかを守るためにいずれかを切り捨てねばならないときがきたとしたら、主上は必ずや、わたくしの手をお離しになるでしょう」
さびしげな、それでいて晴れ晴れとした表情がひろがり、花の唇がふうわりとほころんだ。
「また、そうでなければならないのですわ。わたくしはただの女にすぎず、国と引きかえにできるほどの宝ではないのですから。天下を捨てて女を選んだとあっては、主上の御名が汚されてしまいます」
なぜ華枝がこんな話をするのか、彩燕にはわからなかった。
華枝は身籠っていた。
寵幸を一身にうけ、帝胤をその身に宿し、前途洋々であるはずなのに、あたかも死に臨んだ人のように、彼女は危ういすがすがしさを漂わせていた。
「妹妹、あなたはいつまでも主上のおそばにいてくださいね」
妹妹とは年下の女人に対する呼びかけである。華枝は彩燕を妹のようにかわいがってくれた。
「どんなときも、なにがあっても、主上に寄り添っていてください。あなたは主上のいちばんの理解者なのですから」
「主上がそばにいてほしいと願うのは私ではなく、姉さまですよ」
「わたくしではだめです。わたくしのような弱い女は、主上のとなりに立ち、おなじ未来を見据えることはできませんもの」
私だって弱い女です、と言おうとしてやめた。恨み言をこぼして華枝を困らせたくなかった。
「史官がこの国の歴史をつづるとき、誇らかな筆致で主上の御名を書き記すことができるように、どうか主上を支えてくださいね」
彩燕はひざまずいて深々と頭を下げようとする華枝をとめた。
「私の力だけではだめですよ。ふたりで主上を支えていきましょう」
華枝はなにも言わなかった。
切なげに微笑んで、彩燕の手をそっと握った。春の日差しの中にあっても冬の息遣いを残したような、ひんやりとした手のひらが言葉よりも雄弁に彼女の心を物語っていた。
それがいかなる決意を秘めているのか、あのときの彩燕には読みとれなかったけれども。
やがて華輦は静永殿の門前で止まった。そこには空の龍輦と担ぎ手の宦官たちがいた。
彩燕は宦官に手をとられて華輦からおりた。あわただしく雪を掃いたらしい道を踏みしめながら大門(正門)をくぐり、外院に入る。
以前の女主であった楊順妃が薨去してから、ここは無人である。
手入れの行き届いていない外院は降り積もった不香の花で覆い隠され、葬儀がはじまる直前のようにひっそりと静まりかえっている。
垂花門(中門)をくぐって内院に足を踏み入れると、すっかり葉を落とした裸の花樹が寒そうに雪の衣をまとっていた。雪をかぶるとなにもかもが美しくなる代わりに、なにもかもが死んでしまう。
あるいは死んでいるからこそ美しいのかもしれない。死んだものは醜くなりようがない。美しいまま時が止まり、さまざまな感傷の白粉で丹念に化粧をほどこされて、永遠の命を与えられる。
(死んだのが私だったら……)
もし華枝ではなく、彩燕が死んでいたら、皇帝は朝議を中断して駆けつけてくれただろうか。十日も後宮にひきこもって、彩燕の亡骸を抱いて嘆き悲しんでくれただろうか。
考えるまでもないことだ。
死んだのが彩燕だったら、皇帝は訃報を聞いて「そうか」と答え、何事もなかったかのように朝議をつづけただろう。早々に葬儀をすませ、日常にもどっただろう。ときどき気まぐれに彩燕を思い出しても、心をかき乱されることはないだろう。わずかな思い出さえ、年をふるごとに薄れて、ついには遺された姿絵を見ても、なにも感じなくなるのだろう。
皇帝にとって彩燕は後宮に咲く花のひとつにすぎなかった。
どれほど華麗に咲こうともいずれは無残に散りゆき、いずれは忘れ去られていくさだめの、有象無象の一輪であった。
華枝はちがう。
彼女は皇帝の心に咲く、唯一無二の花だ。いつまでも色あせず、いつまでも美しいまま甘くにおい立つ久遠の一朶。
くらべるべくもない。彩燕は華枝に勝てなかったし、これからも負けつづけるだろう。
(主上……)
わけても心許なげな若木のまえに、黒い外套を羽織った青年が立っていた。
長い黒髪を結いもせずに背に流し、側仕えの宦官がさしかけた油紙傘の下で寒々しい枝ぶりをぼんやりと眺めている。
その姿は一天万乗の君というにはあまりに透明で、この世の洞という洞が寄り集まって人の形をなしたものが冬ざれの内院に置き去りにされているかのようだった。
(お痩せになった)
皇帝はおもやつれしていた。無理もないことだ。この十日というもの、まともに食事もとらず、ろくに寝ていないらしい。生きていることが罪だとでもいうように、呼吸すら惜しんで亡き愛妃を悼んでいる。
もし、いま刺客があらわれて皇帝を弑そうとしたら、彼は自ら進んで白刃のまえに身を投げだすだろう。もし、いま目のまえに毒杯があったら、迷わずあおるだろう。
皇帝は死を望んでいる。
自分がいまここで生きていることになんの価値も見出していない。だれの目にもそれは明らかだった。物寂しく凍りついた龍顔には、蜉蝣の翅のようなごく淡い生者の気配を透かして、薄明るい死の息遣いが色濃くあらわれていた。
「ここは主上と姉さまがお別れになった場所でしたね」
彩燕の言葉が白い小さな霧となって消えた。
皇帝が眺めているのは白木蓮の木だが、もともとそこに植えられていたのは桃の木だった。
皇太子時代の嵐快は、春の盛りを少し過ぎはじめた桃木の下で、先帝妃時代の華枝と別れた。
ふたりの別離については華枝から聞いている。人目を盗んで訪ねてきた嵐快を見るなり、華枝は泣きだしてしまったのだという。
「申し訳ございません……殿下」
涙でにじんだ視界に、途方に暮れたように立ち尽くす嵐快が映っていた。
「主上の御子を産みたくなかったから、あなたの子だと申したのです」
嵐快の子を身籠ったのではないかと班皇后に詰問され、華枝はうなずいた。
嘘をついたのだ。至興帝の御子を産みたくなかったばかりに。
産んでしまえば、自分は嵐快の弟妹の母となってしまう。名実ともに至興帝の妻になってしまう。ささやかな抵抗のすえ、彼女はその身に宿った命を殺めた。
「お許しください、殿下……。わたくしは……殿下の弟妹を殺してしまいました」
許されない罪を犯したという自覚が華枝の心を千々に引き裂いていた。
彼女は夫の息子に恋しただけでなく、その身に宿した夫の子を自らの意思で殺めたのだ。
不義密通、そして皇族殺し。到底、現世では償いきれない大罪を犯してしまった。
罪の意識が四肢を戦慄かせているのに、嵐快への恋情はつのるばかりだった。彼に抱きよせられ、「すまない」と囁かれたときには、このまま死んでしまいたいと願った。
「すまない……許してくれ……」
嵐快も震えていた。全身を駆けめぐる血という血が痙攣するかのように。それは父帝を裏切った罪悪感によるものか、母后への怒りによるものか、避けられぬ別離への悲しみによるものか、華枝にはわからなかった。
「来世では……あなたの妻になりたい」
罪深い言葉だと知りながら、声にせずにはいられなかった。
もし、華枝が入宮したとき、黄金の玉座に君臨していたのが高嵐快だったら、ふたりの恋には、なんの障害も裏切りも罪悪もなかったのに。
だれにはばかることなく逢瀬を重ね、唇を重ね、ぬくもりをわかちあって、恋心を育んでいくことができたのに。
どうしてまちがったときにめぐり会ってしまったのか、どうして出会うときを選べないのか、行き場のない憤りが胸を焼き、頬を焼いた。
華枝の入宮は早すぎたのだ。
嵐快の即位は遅すぎたのだ。
あと少しだった。あと少しだけ、条件がそろっていれば、ふたりはなんの罪も犯さず、愛しあうことができたのに――。
「ここで華枝に約束したんだ。生まれ変わったら、花婿として彼女を迎えにいくと」
皇帝は独り言のようにつぶやいた。
「来世では必ず鴛鴦の契りを結ぼうと約束して、別れた」
音もなく降りつづける玉塵が孤独な枝をますます白く、寒く染めあげていく。
「思えばあのとき、彼女との縁は切れていたんだろう。……いや、はじめから縁など結ばれていなかったのか」
いらえを求めるように、皇帝は暗く乱れた雪空をふりあおいだ。
「再会するべきではなかった。還俗させるべきではなかった。俺の後宮に入れるべきではなかった。あんなに愛すべきではなかった。慈晶殿に通いつめるべきではなかった。われを忘れて彼女に溺れるべきではなかった……」
抑揚に乏しい声は凍てつく虚空に吸いこまれるようにして消えていった。
「華枝が不幸になったのは、俺と出会ったからだ。俺に愛されたからだ……」
白いものがぱらぱらと間断なく舞い落ちてくる。それは雪というより、天がばらまいた礫に見えた。
「ご自分を責めないでください」
月並みな慰めしか出てこない。
では、ほかになんと言えばいいのか。私が姉さまの代わりになりますとでも? そんなことは不可能だとわかりきっているのに。
「姉さまがここにいらっしゃったら、主上を責めたりなさらないはずです」
「華枝はだれも責めはしない。そういう女じゃない。……だからこそ、自ら毒を飲んだんだ」
静けさが飛沫をあげて砕け散った。
「……毒を飲んだ? どういう……ことですか?」
途切れ途切れに尋ねながら、わかってしまった。華枝の晴れ晴れとした表情や、彩燕に向けられた言葉が、なにを意味していたのか。
「皇子を産んだあと、華枝は薬湯ではなく、毒を飲んだ」
淡々とした答えが耳に突き刺さった。
「太医や側仕えが必死でとめたそうだが、彼女は頑として譲らなかった。自分が生きていれば、俺のためにならないと……」
「わたくしがふたたび入宮してから、主上を悪しざまに言う声が日増しに大きくなっています。朝廷でも後宮でも、だれもかれもが主上を悪く言います。まるで主上が暗君であるかのように……。わたくしは、それが耐えられないのです」
華枝は皇帝が名君たることを願っていた。天下万民に尊崇されることを願っていた。高嵐快の名が史書の中で燦然と輝くことを願っていた。
女狐に惑わされる暗主として人々の記憶に残ることは、彼女の望みではなかった。
「わたくしは主上の妃嬪にふさわしくない女でした。先帝に仕えた身でありながら、主上の後宮に入るべきではなかったのです。どうして再入宮前に命を絶たなかったのかと、幾度も後悔しました。もし、あのとき、わたくしが死をもって主上をお諫めしていれば、主上は世人の非難にさらされずにすんだのに……」
再入宮の話が出たとき、華枝は何度も拝辞したのだ。一度、道観に入った身で皇帝に嫁ぐことはできないと。
彼女を説得したのは、ほかならぬ彩燕である。
皇帝が華枝を入宮させたがっていることを知り、彩燕は華枝が暮らす道観を訪ねた。
世俗を離れた証として髪を切り、地味な灰色の衣に身を包んでいても、華枝は蒼天に照り映える桃花のように美しかった。
「主上のおそばにいてください」
彩燕は華枝の足もとにひざまずいた。
「主上にはあなたが必要なんです」
皇帝に頼まれたわけではない。ただ、そばにいればわかるのだ。彼の心がなにを求めているか。彩燕を抱いていてもなお、どうして空っぽなのか。
可能なら、彩燕自身が彼の虚ろを埋めてあげたかった。彼が生きる意味になりたかった。本物の睦言を囁き、互いのぬくもりに包まれて眠りたかった。
それは叶わぬ夢だった。
皇帝が渇望しているのは――玉座と引きかえにしてでも手に入れたいと望んでいるのは、先帝の妃嬪・方華枝なのだった。
「お願いします。どうか主上の後宮に入ってください。私が目障りだとおっしゃるなら、なにか理由をつけて退宮します。おふたりの邪魔をしないようにします。ほかにご希望があれば、おっしゃってください。なにもかも、あなたの御望みにどおりにしますから、どうか……主上のおそばに」
高嵐快は一言でいうなら、冷血な皇帝だった。天子というものは往々にしてそうかもしれないが、血の通わない声音と、人を人とも思わぬ非情な微笑を兼ね備えていた。
だれかに恩情をほどこしているときですら、彼は人間らしいぬくもりを感じさせなかった。彼の手が与える聖恩は、長らく慈雨に恵まれていない枯れ草のようにかさかさと乾いていて、うかつにふれれば、ぱりぱりと無味乾燥な音を立てて壊れてしまうような気配があった。
それは玉体に巣食う空虚な宿痾の発露であるのかもしれなかった。
華枝と再会してから、皇帝は明らかに変わった。
冷え冷えとした眼差しがぬくもりを帯びはじめた。感情の伴わない笑みが減った。ふだんならすげなく切り捨てるものを手にとって吟味するようになった。玉座に熱を奪われ、冷たく凍りついていた心がほどけていくさまを、目のあたりにした。
はじめ、彩燕は――まだそのころには華枝のことを知らなかったので――皇帝の変化の理由をはかりかねていた。使用人たちは彩燕が身籠ったからだろうと追従を言ったが、得心がいかなかった。かりそめの寵妃が身籠ったくらいで、皇帝が抱える洞が埋められるとは思えなかった。
そのくせ、周りの阿諛追従に流されている感もあった。もしかしたら、かりそめの寵愛が真実に変わるときが来たのかもしれないと、愚かしい幻にひたることさえあった。
やがて皇帝がとある道観に通いつめていることを知った。そこが先帝の寧妃・方華枝の住まいであること、皇帝は皇太子時代に方華枝と密通事件を起こしていることを知り、夫の好ましい変化の理由をようやく悟った。
彩燕ではなかった。
彼を変えたのは、彩燕ではなかった。
だからなんだ。それがどうした。
瓦解した夢の破片を蹴散らして、気にとめないふりをした。皇帝の道ならぬ恋の噂でもちきりだった後宮で、彩燕はつとめて素知らぬ顔をしていた。
妃嬪たちは華枝のことを妖婦だと悪しざまに中傷していたが、陰口の誘いには乗らなかった。まったく動じていないふうを装って、いつも以上に明るく楽しく能天気に過ごしていた。
そうすることで信じこもうとしたのだ。
自分は皇帝を愛していないと。皇帝がほかのだれを愛そうと、自分にはかかわりのないことだと。恋情に溺れるために後宮に入ったわけではないのだと。
浅ましい努力のすえ、自分以外のすべてを騙すことに成功した。
それを誇るべきか、恥じるべきかはわからないけれど、華枝にふたたび入宮してほしいと願っていたのは本心からだ。
しかし、そこに打算がなかったとは断言できない。
華枝を説得して再入宮させれば、皇帝が恩を感じてくれるのではないか。華枝以上の存在にはなれなくても、ほかの妃嬪たちよりは彼女に近づけるのではないか。卑しい計算が働いたことはまちがいない。
引き裂かれた胸の痛みのせいか、欲得ずくの行為へのうしろめたさのせいか、いつしか涙がこぼれていた。
前者ならば愚かしいことだ。後宮に入った時点で、恋は命取りになるとわかっていたはずなのだから。
後者ならばさもしいことだ。罪悪感が流させた涙ほど、汚らわしいものはない。
いずれにせよ、彩燕は華枝の説得に尽力した。皇帝をしのぐほどに道観に通い、とうとう彼女が折れて、再入宮のはこびとなった。
それがいかなる悲劇を生んだのかは、あらためて語るまでもないことだ。
(……私だったんだ……)
彩燕は呆然と立ち尽くした。
(姉さまを殺したのは……私だ)
彩燕が説得したから、華枝は禁を犯してふたたび入宮した。再入宮したからこそ、華枝は「父と子をたぶらかした妖婦」と朝廷でも後宮でも悪罵された。皇帝は先帝の妃嬪を奪った内乱天子と嘲笑われた。
彩燕のせいだ。彩燕のせいで彼女は妬まれ、恨まれ、憎まれた。愛する皇帝の名誉を守るために、自ら命を絶たねばならなかった。
華枝に毒をのませたのは、ほかのだれでもない、彩燕だ。
全身を槍で貫かれたかのように動けなくなった。
視界を染めつづける玉塵の帳さえも、膠に押し固められたかのように動かない。風はなく、音もなく、ただ色だけがあった。棺にかぶせる布のような、うらさびしい白が。
「華枝から君に遺言があるそうだ」
皇帝は雪空を見上げたまま動かない。
「約束を忘れないでくださいね」
「……姉さま……」
彩燕はその場にくずおれた。
「約束とはなんだい?」
「……どんなときも、なにがあっても、主上に寄り添っていてほしいと頼まれたんです。史官が凱の歴史をつづるとき、誇らかな筆致で主上の御名を書き記すことができるように……主上を支えてほしいと」
骨という骨が氷にすりかわってしまったかのように、総身が冷え冷えとしていた。自分で自分を抱くようにしながら、戦慄く体を押さえこもうとする。
「あのときは、まさか、こんなことになるなんて……」
なぜ見過ごした。なぜ気づけなかった。なぜ止められなかった。
自分を責め立てても答えはない。すべては終わったことだ。いまさら悔いたところで、なにももどりはしない。
「誇らかな筆致で、俺の名を……か。そんなことのために死んだのか」
皇帝は六花の衣をまとった梢に視線を落とした。
「華枝は俺を買いかぶりすぎている。俺は名君などではないし、かりそめにもそう呼ばれる資格はない。いったい明主になりたいと志したこともないんだ。皇帝にすら、なりたくてなったわけじゃないんだから」
弱々しい風がほんの一瞬、皇帝の髪を揺らした。
「どんなことがあっても俺を支えてほしいなんて、君も無理難題を押しつけられたものだね。わからないな。こんながらんどうの君王を支えて、なんになるというんだろう」
ふっと小さく笑う。空風が枯れ木に吹きつけるような手ごたえのない笑いだった。
「玉座は俺が野心を燃やして勝ちとったものじゃない。俺が皇位についたのは、班太后が画策したからだ。自分が皇太后として権力をふるうために、俺に十二旒の冕冠をかぶせたというだけの話だ。俺自身は望みもしなかった。ぼんやりしているあいだに、手のひらに玉座が転がりこんできた。そんな不真面目な経緯で至尊の位についた天子が英主になるものか。聖君たろうと意気込んでいたにもかかわらず、道を踏み誤った皇帝は掃いて捨てるほどいる。明君たろうという野心すらない皇帝ならなおさら、賢主には近づけないはずじゃないか」
「ですが、主上はすでに名君と呼ばれていらっしゃいます」
「呼ばせるのは簡単だ。そのような評判が聞こえてくるように手を回せばいい。おおかた、班太后が裏で世評を操っていたんだろう。自分が担ぎあげている天子が中身のない愚物だとは喧伝したくないだろうからね」
皮肉を隠さない冷笑が雪明かりに反射する。
皇帝は憎んでいた。同時にあきらめていた。そして疑っていた。目に映るものも、映らないものも、耳に入るものも、入らないものも。この天下のなにもかもが、彼にとっては毒をふくんだ棘だった。
「しかし、世評を操るにも限界がある。華枝のことは市井にも聞こえているようだ。仁啓帝の名は醜聞とともに語られ、俺には内乱天子という結構な二つ名までついた。――内乱天子。なかなかいい得て妙だと思わないかい。空々しく〈名君〉と呼ばれるよりは、いっそ痛快だよ」
自嘲がいびつに肩を揺さぶる。礫のような雪はしだいに勢いを増していった。
「華枝は死ななくてよかったんだ。内乱天子のためなんかに、自ら毒をあおる必要はなかったんだよ。ああ、まったく徒爾だ。浪死だ。恨めしいほどに意義のない死だ」
「そんなことおっしゃらないでください。姉さまの死が無駄だったなんて……」
「じゃあ、なんと言えばいいんだ!? 華枝が死んでくれたおかげで俺は名君になれるとでも!? すこぶる有意義な死だったと言えばいいのか!?」
慟哭のような怒号が銀世界のしじまをつんざく。
「意義があろうとなかろうと、死は死だ。たとえどれほど有意義であろうとも、喪ったという事実に変わりはない。いったん鬼籍に入れば、永遠にもどりはしない。俺が英主になろうと内乱天子のままでいようと、あるいはもっと汚らわしい二つ名をつけられようと、華枝は生きかえらないんだ」
いよいよ雪が激しく降る。上から下へ上から下へと連綿とつづき、視界を白で覆いつくそうとしている。
「俺は華枝の死からなにも学べない。学びたいとも思わない。前へ進みたくないんだ。もうどこへも行きたくない。どこへ行っても華枝はいない。彼女がいなければ、生きる値打ちはない。国も玉座も蒼生も、すべては徒事だ。華枝なしでは……ありとあらゆるものに価値を見出せない」
引きちぎられるかのように声が途切れた。
「華枝の死になにかの意味を持たせたくない。そんなことをすれば、まるで彼女が死ななければならなかったみたいじゃないか。彼女の死が必然であったかのようじゃないか。華枝は死ぬために俺の後宮に入ったみたいじゃないか。彼女には生きるという選択肢がはじめから存在しなかったといっているようなものじゃないか」
矢のような寒風がいっせいに吹きつけ、玉塵の帳をかき乱した。
「俺は彼女と生きるために華枝を入宮させたんだ。ここで……この金光燦然とした監獄で、ともに生きるために。決して、彼女を殺めるために入宮させたわけじゃない。結果的にそうなってしまったとしても、これは……俺が望んだ未来じゃない」
若木が戦慄いた。雪まじりの風にもてあそばれ、頼りなげな細い枝を折れんばかりにたわませている。
「いつもこうだ。俺は望まないものばかり与えられる。東宮、玉座、権力、後宮……なにひとつとして、俺が望んだものはない。欲しくないものは次から次に押しつけられるのに、俺が心から欲しいと思ったものは――欲しいと思ったただひとつのものは、手に入らない。ほんの一瞬、つかんだと思っても、すぐに手のひらからこぼれてしまう……」
皇帝は片手で頭を抱えるようにしてうなだれる。それきり言葉は途絶え、だれかのすすり泣きのような風音ばかりが響いた。
まばたきをするたび、錐が突き刺さるように目がうずく。あふれているはずの涙は頬を伝う前に凍りついてしまう。
煮え立つ感情にどんな名をつければいいのか、考えあぐねていた。
(姉さま、あなたはこんなにも主上に愛されていたのに……)
悲しみの深さは愛情の深さである。
皇帝が生ける屍のように悲嘆の淵に立ち尽くしているのは、命を燃やし尽くすほどに彼が華枝を愛していたからだ。国や玉座や蒼生が――かりそめの寵妃であった彩燕が勝ち取れなかった天恵を独占していたからだ。
それほどまでに愛されながら、華枝は自ら命を絶った。死をもって皇帝を諫めたといえば聞こえはいいが、生きて彼を諫めることをあきらめたともいえる。
華枝はあまりに清潔すぎたのだ。
後宮で生きていれば、なにかしらの非難はうけるもの。毒をまき散らす誹謗中傷の嵐に見舞われることもあれば、ささいな瑕瑾をあげつらわれて嘲笑の雨に降られることもある。自分に非があってもなくても、四方から悪罵や呪詛が襲いかかってくる。
なぜならここは、嫉妬と怨憎の巷であり、現世にあらわれた地獄が綾羅錦繍をまとった姿だからだ。
後宮で生きるということは、自分を脅かすものすべてと闘うということだ。そして、勝ちつづけるということだ。
みなに愛され、いつくしまれ、親しまれ、称賛され、哀れまれながら、美しいもの、やさしいものだけにかこまれていたいなら、後宮には決して足を踏み入れてはならない。
闘わぬ者が生き残るすべは、ここには存在しないのだから。
華枝は闘うことを放棄した。
清潔な彼女は血や泥にまみれることができなかった。自分を罵り、憎み、呪う人々に打ち勝つため、己が身を穢すことをうけいれられなかった。
無傷のまま、無垢のままで勝利できるほど、生易しい戦場ではない。自らの身を血と泥に沈めなければ、悪鬼を倒すために自らが悪鬼となる覚悟を持たなければ、勝利できない。
勝たなければ、負けるしかない。
後宮における敗北は死と同義である。
華枝は勝てなかった。彼女は後宮に向いていなかったのだ。彼女はいわば、金色の籠の中で美しく囀る鳥だった。だれかに養われ、守られて、幸福の衣に包まれていてはじめて、きれいな声で歌うことができた。
獰猛な鷲や狡猾な烏とわたりあいながら大空を飛翔する野鳥のように、自らの力で日々の糧を得、自らの力でわが身を守り、艱難辛苦の衣をひるがえして前へ前へと羽ばたくことは、そもそもできなかったのだ。
しかし、その清潔さこそが皇帝の寵愛を独占した理由でもある。
血と泥にまみれて生きる女たちを見慣れている皇帝には、こんこんと湧きでる清水のように穢れを知らぬ華枝が星よりも月よりも輝いて見えたのだろう。
(私は、姉さまとはちがう)
彩燕は籠の中で囀る鳥ではない。闘うことをうけいれた者だ。血と泥にまみれることを恐れぬ者だ。自らの力で飛び立つ野鳥だ。
清浄たる声を持たない代わりに、風をつかみ、雲を切る両翼を持っている。力のつづく限り、飛びまわる自信がある。朝日が昇る場所や夕日が沈むところを目指すことさえ、できそうな気がする。
力強い翼と引きかえに清らかな歌声を失った鳥を、皇帝はきっと愛さない。彼にとってそんな女は有象無象の一人にすぎない。
けれど、それでもかまわない。
愛されない代わりに、彩燕には後宮で生きるしたたかさがある。どんな手を使っても生きのびてやる。この身が汚泥をかぶろうとも、鮮血で染まろうとも、銀凰門をくぐった以上、後宮で生きていくつもりだ。
華枝との約束を果たすために。
(私は姉さまとはちがうけれど、願うことはおなじだわ)
仁啓帝の御名が誇らかな筆致で後世に残ること――それが彩燕の望みだ。
彩燕は立ちあがった。衣服についた雪を払い、うなだれたままの皇帝を見つめる。
「方柔妃に毒を盛ったのは私だという噂を流します」
「なんのためにそんなことを?」
「主上の御為です。姉さまが諫死なさったということが明るみになれば、主上の君王たる資質が疑われることになります」
方華枝は無理やり後宮に入れられ、皇子を産まされたが、姦通の罪の重さに耐えかねて自ら命を絶った。
もし、そんな噂が流れれば、雲上人たちは囁きあうだろう。姦婦ですら恥を知っていたのに、主上はなにをお考えになっているのかと。寵妃を諫死させるほどわれを失っていらっしゃる主上に、天下万民を導くことができるのかと。
下手をすれば、いままで華枝に向けられていた非難までもが皇帝に集中してしまう。
「主上の面目を保つためにも、寵愛を奪われた私が嫉妬して姉さまに敵意を向けたことにすべきです。私ならどれほど中傷されても持ちこたえられます」
「……俺の君王たる資質が疑われる? ばかばかしい。そんなものは端から問題にならないよ。内乱天子にいったいなんの資質があるというんだい」
「その悪評も払拭せねばなりません。明日からは、朝堂にお出ましになってください。悲しみの色は押し隠して、以前と変わらぬふるまいを心がけてください。だれかが姉さまの話題を持ちだしても、決して御心を乱されませんように。ほんのささいな失策を見逃すまいと、群臣は鵜の目鷹の目で主上のお顔色をうかがっています。弱みを見せてはなりません。侮られてはなりません。何事もなかったかのように、威風堂々と、天子らしく……」
「天子などいない」
皇帝は顔を覆っていた手を落とした。
「言っただろう。玉座は俺が野心を燃やして勝ちとったものじゃないと。いま君の目の前にいるのは、天子と呼ばれるべき者ではない。天子の衣を着せられた、がらんどうだ」
「いいえ、天子です!」
彩燕は皇帝のそばへ歩みよった。彼がこちらを向かないから、彼の前に立つ。
「がらんどうでもなんでもかまいません。あなたが望んだ未来であろうがなかろうが知ったことではありません。あなたはすでに玉座にのぼったんです。十二旒の冕冠をかぶったんです。望もうと望むまいと、そうしたんです。あなたが即位なさったときは、国中の多くの民が祝福しました。あなたのお顔も、お声も、お人柄もなにも知らない者たちが、あなたを仁啓帝と呼んで崇めました。彼らにはあなたのお顔もお声もお人柄も関係ありません。あなたが新しく玉座にのぼった皇帝だから――あなたの御代になれば、いまよりももっと暮らし向きがよくなるだろうと、幸せになるだろうと、期待をたくしてお祝いしたんですよ」
「民は無責任に期待するものだ。皇帝が代替わりしたとたんに桃源郷があらわれるわけではないのに……」
「そんなことは民にだってわかっているはずです。ただ、夢を見たいんです。新しい皇帝が天恵を招いてくれることを。彼らの日常に景福をもたらしてくれることを」
「民の夢は民のものだ。俺とは関係ない」
「おおいに関係あります。あなたは彼らの夢を叶えなければならないんです」
「何度言えばわかるんだい。俺は望んで皇位についたわけではないと――」
「こちらこそお尋ねします。あなたはいつまで泣き言をおっしゃるおつもりですか。いったいいつまで、『望んで皇位についたわけじゃない』と言い訳なさるんですか。それがなんになるんです? 玉座を望まなかったと言えば、どんなばかげた失策も、どんな愚かしい罪も、なかったことになるんですか?」
返答に窮し、皇帝は押し黙った。
「はっきり申しあげます。あなたと姉さまがなさったことは姦通にほかなりません」
彩燕はその手助けをした。いわば共犯だ。
「朝廷の非難は至極もっともです。あなたは先帝の寧太妃を穢し、子まで産ませたんです。内乱天子とはよく言ったものですね。まさにそのとおりですよ。もし、父親の妾を汚した息子が訴えられたとしたら、あなたはどういう御沙汰をお下しになります? 息子はきっとこう言いますよ? 『主上のなさりようをまねただけだ』と」
彼が不義密通の罪を犯す前にとめられていたら、どんなによかったか。しかし、彩燕にその力はなかった。
それどころか、彼に罪を勧めさえした。
ほんとうに罪深いのはだれであろうか。
恋心を抑えられなかった皇帝か、恋情に打ち勝てなかった華枝か、ふたりの蜜月の余滴をすすろうと欲得ずくで罪をそそのかした彩燕か。
「天下の模範となるべきあなたが民に間違った道を示してしまった。先帝を辱め、姉さまを辱め、ご自身を辱めた。この大罪は後世にまで語り継がれます。それでもまだ、『玉座を望んだわけじゃない』とおっしゃるんですか? その一言ですべての過ちが帳消しになるかのように」
皇帝が玉座を望まなかったのは事実だろう。
彼の即位を熱心に推し進めたのは班太后だし、朝廷を牛耳っているのは班太后の弟である班丞相だ。彼自身、権力を掌握しきれていないところがあるのは否めない。
しかしそれでも、民にとっての天子は、班太后でも、班丞相でもなく、高嵐快である。
「繰り言はやめてください。あなたが望んだか否かにかかわらず、あなたは皇帝です。凱を統治する義務を負う者です。あなたの双肩には天下万民の希望がのしかかっています。その重みに耐えてください。姉さまの願いを叶えてください」
華枝の願いは蒼生の不変の願いでもある。どの時代のどこの国の民も、だれだって思いたいはずだ。われわれがいただいているのは、歴史に残る名君であると。
「華枝の死を徒爾にするなと言いたいのかい。彼女を踏み台にして……前へ進めと」
皇帝は途方に暮れたように立ち尽くしていた。帰り道がわからなくなった童子のような心もとなげな面持ちで、彩燕を見ている。
「どうしても進みたくないとおっしゃるなら、ここで自死なさればいいでしょう。黄泉におくだりになって姉さまと再会なさればご満足ですか? いったいどんな顔をしてお会いになるんです? 先帝の寧太妃を奪った姦夫として? 寵妃に殉じて国を放擲した暗君として? 己に課せられたつとめから逃げまわった挙句、浪死した負け犬として?」
あえて刃物のような言葉を選んだ。彼の体に巣食った洞を切り刻んでしまいたかった。
「ご自分のことばかりではなく、少しは姉さまのお気持ちをお考えになったらいかがですか。姉さまは自分の死が徒爾とされることを望んでいらっしゃるんですか? あなたが内乱天子のまま史書に記されることを望んでいらっしゃるんですか? あなたに国を、民を、責務を捨てさせるために、姉さまは死んでしまったんですか? もしそうだとしたら、これ以上の無駄死にがありますか? 姉さまの命は、いったいなんだったんです?」
「……もうやめよう、彩燕。話しても無駄だ」
「無駄にはしません! 寸刻も、姉さまの命も!」
きびすをかえそうとした皇帝の腕を、力いっぱいつかんだ。
「証明してください。姉さまの一生は決して徒爾ではなかったと。意義のある生涯だったと。姉さまは天子の衣を着たがらんどうにもてあそばれたのではない、歴史に名を遺す英主の寵愛をうけたのだと」
このままで終わらせるものか。彼を――彩燕の夫を内乱天子などと呼ばせるものか。
「あなただけなんです。姉さまの命に意味を与えることは、あなたにしかできません」
逆巻く激情が皇帝の腕をつかんだ手を震わせていた。
どうして伝わらないのだろう。どうしてわかってもらえないのだろう。いったいどうすれば、華枝と彩燕の想いを彼の虚ろに注ぎこむことができるのだろう。
「なぜ君がそこまで必死になるんだい」
焦燥に身を焼かれる彩燕とは裏腹に、皇帝は氷のように冷めていた。
「俺を奮起させれば華枝の代わりになれるとでも思っているのかい? 君の夢を壊したくはないが、君を華枝のように愛することはないよ。これまでもこれからも、俺が愛するのは華枝だけだ。君を寵妃にしていたのは政のためで、それ以上でも以下でもない。君に華枝のような愛情を感じたことは一度もないし、華枝とは――」
「そんなことはどうでもいいんですよ!」
火のような怒りをこぶしにこめて、怜悧な龍顔に叩きこむ。手加減せずに思いっきり殴ったため、皇帝は軽くよろめいた。
「うぬぼれはいい加減にしてください。あなたの愛にどれほどの値打ちがあると言うんです? 朝議にも出ないで、寵妃の亡骸にすがりついてめそめそ泣き暮らして、自分は好きで皇帝になったわけじゃないから、どんなばかな失敗をしでかしても大目に見てくれと言い訳ばかりしている昏君の愛に、いかほどの価値があると? 正直言って、銅銭一枚の価値もありませんよ。あなたの愛と、ひとつかみの雪を天秤にのせたら、まちがいなく雪のほうにかたむくでしょう。それほどに値打ちがないんです。暗君の寵愛なんて」
「……ずいぶん辛辣だね。さっき俺がひどいことを言ったから、意趣返しのつもりかい」
口もとににじんだ血を手巾で拭おうとした宦官を制し、皇帝は彩燕を見返した。
「うぬぼれるなと何度言わせるんですか? 私はあなたを怨んでないし、憎んでもいませんよ。ただただ、みっともないんです。恥ずかしいんです。あなたのような愚帝に嫁いでしまった自分が情けなくて仕方ないんですよ」
彩燕は力任せに皇帝の胸ぐらをつかんだ。
「私の名は内乱天子の妃嬪として記されるんですよ? それがどれほど不名誉なことかわかりますか。どれほどの屈辱かわかりますか。あなたの愚行のせいで、私の値打ちまで地に落ちます。私だけじゃない。後宮にいる妃嬪侍妾はみな、先帝の妃をもてあそぶしか能のない愚劣な皇帝の慰み者になってしまうんです。迷惑なんですよ。いい加減にしてほしいんですよ。あなただけが天下の笑い者になるなら放っておきますが、こっちにまで火の粉が飛んでくるから黙っていられないんですよ」
宦官がおろおろして止めに入ろうとしたが、彩燕は睨みつけて下がらせた。
「私が望むのは、あなたの愛じゃありません。凱を代表する英主の妃として歴史に名を刻むことです。姉さまもおなじでした。姉さまはあなたの愛なんか望んでいなかった。だって、そうでしょう? 姉さまがあなたの愛だけを欲していたら、自害しましたか? 寵妃のことしか考えられない腑抜けの暗主に愛されて満足していたら、死ぬ必要はなかったでしょう? 生きていれば生きているだけ、あなたが一文の値打ちもない愛を注いでくれたんですから」
雪まじりの風が皇帝の黒髪を荒々しくかき乱し、彩燕の髪飾りを引きちぎらんばかりにざわめかせた。
「あなたはおっしゃいましたね。俺は望まないものばかり与えられるって。東宮、玉座、権力、後宮……なにひとつとして、俺が望んだものはないって。姉さまもおなじですよ。姉さまがあなたの後宮に入ることを望みましたか? あなたの寵妃になって後宮中の嫉妬を一身に浴びることを望みましたか? 父と子をたぶらかした妖婦と悪罵されることを望みましたか? 毒を盛られる恐怖に怯えながら暮らすことを望みましたか? 望まない生きかたを強いられることがどれほどつらいか知りながら、姉さまにおなじことを強いたのはだれですか? 班太后があなたを皇宮に閉じこめたように、姉さまを後宮に閉じこめたのはだれですか?」
あらためて思う。
華枝を殺したのは彩燕だ。
彩燕もまた、彼女が望まない生きかたを彼女に強いてしまったのだ。
「そのうえ今度は、泉下の客となった姉さまに汚名を着せるんですね? 昏君と通じた淫婦と史書に記させるんですね? 性懲りもなく姉さまが望まないことを強いるんですね? ひとつかみの雪よりも軽いあなたの愛とやらで、姉さまの最後の願いを踏みにじるんですね? これからさきもずっと姉さまを苦しめつづけるんですね? それがあなた流の愛しかただというなら、姉さまがほんとうに不憫です。あなたと出会いさえしなければ、もっとましな人生を送れたのに。少なくとも、こんな形で死ぬことはなかったはずなのに」
いつしか、湯のような涙が頬を伝っていた。
彩燕は華枝を死に追いやった責任を取らなければならない。彼女の願いを叶えなければならない。
自分がなすべきことはわかっているけれど、うまく言葉にならない。
もどかしさが舌をもつれさせる。それでもなんとか、空っぽになった皇帝の心に一点の火をつけようと懸命に試みる。
「あなたには姉さまの死を嘆く資格もありません。姉さまの息の根を止めたのはあなた自身です。あなたの愛が……あなたの愚かしい愛しかたが姉さまを殺したんです」
皇帝はなにも言わない。蒼白のおもてを雪風にさらしたまま、虚空を見すえている。
「言いたいことは全部言いました。これ以上、話しても無駄でしょう。姉さまのあとを追いたいならご勝手に。朝議も好きなだけ欠席なさればいい。堕落なさりたければ、お気のすむまでどうぞ。だれも止めはしませんよ。皇帝の代わりなんていくらでもいます。あなたが使いものにならないとわかれば、班太后はさっさとあなたを廃位して幼い皇子を即位させるでしょう。なにしろ、あなたは内乱という大罪を犯していますからね。廃位するには十分な理由があります。廃帝になれば、思う存分、悲劇にひたっていられますよ。よかったですね!」
彩燕は皇帝の胸ぐらから手を放した。汚いものにでもさわったあとのように両手をはたいて、うやうやしく拝礼する。
「それでは失礼します、主上」
一度もふりかえらず、一度も立ちどまらずに、彩燕は静永殿をあとにした。雪なのか涙なのかわからないものが頬を覆っていた。
翌日、皇帝が十日ぶりに朝堂へ姿をあらわしたと聞いた。
仁啓帝はふたたび玉座にのぼったのだ。
「ここで君にひどく殴られたんだったな」
嵐快はため息まじりにつぶやいた。その声音には自分でも意外なほどに、懐かしさ以外のものは含まれていなかった。
「青あざができた顔で朝議に出たのをおぼえているよ。高官たちはぎょっとしていたな。だれもがあざの理由を訊きたがっている様子だったけど、質問する勇気のある者はいなかった」
高官たちが目を白黒させて嵐快の顔をちらちらと盗み見ていたのを思い出すと、笑いがこみあげてくる。
あの日もこんなふうに笑った。みっともない姿を衆目にさらした自分がおかしくて、かえって愉快な気分になってしまったのだ。
久しぶりの朝議はつつがなくすんだが、妙に上機嫌な嵐快が薄気味悪かったのか、高官たちはうろたえていた。
「あざができるほど力いっぱい殴ったつもりはないですよ。ちょっとだけ、ぺしっと殴っただけじゃないですか」
彩燕は大真面目な顔で大嘘をついた。
「あんなやさしい殴りかたであざができるなんて、軟弱すぎますよ」
「俺が軟弱なんじゃない。君が馬鹿力なんだ。まったく、龍顔をこぶしで殴りつけた后妃は陽化帝の李皇后以来だよ」
嵐快は肩を揺らして笑い、冬空の下で雪の花を咲かせる白木蓮の木を見上げた。
すでに若木ではない。それだけの年月がたったのだ。
嵐快は皇太子であった圭鷹に玉座を譲り、太上皇の位についた。圭鷹の母たる彩燕はいまや皇太后である。
ともに五十を過ぎた。昔日の艱難辛苦は時間の清水に洗われ、懐かしさの衣にくるまれて、忘れえぬ記憶としてのみ、その姿をとどめている。
雪化粧がほどこされた静永殿の内院。さまざまな懐旧の念をかきたてる白木蓮の枝ぶりを眺めながら、彩燕の肩を抱く。
「あれから三十年ほどたったわけだけど、君の考えは変わったかな?」
「私の考えって?」
「俺のような愚帝に嫁いでしまった自分が情けないと言っていただろう」
「いまも情けないと思っているかってことですか? 思ってますよ、当然」
彩燕がきょとんとしたふうに答えるので、嵐快は苦笑した。
「手厳しいな。君に恥をかかせないようにとつとめてきたつもりなんだけどね」
「努力は買いますが、完璧には程遠いですね。なにせ、あなたはこの年になってまだ椎茸ぎらいを克服できていない始末ですから」
子どものころから、嵐快は椎茸が大きらいである。
「年を取れば克服できるというものじゃないんだよ、あれは」
「言い訳ぐせも治っていませんね。腕ずくで矯正しないとだめかな」
不意打ちの一撃を食らってはたまらないと、嵐快はあわててあとずさった。
「君こそ、その悪癖をなおしなさい。皇太后ともあろう者が気安く暴力を行使するのはどうかと思うよ」
「大丈夫ですよ。私のこぶしは、あなた専用ですから」
彩燕はこぶしを握ってにっこり笑う。若かりしころと少しも変わらない溌剌とした笑顔につられて、嵐快は相好を崩した。
「君の口説き文句はいつも強烈だな」
「口説いているわけじゃないですよ。うぬぼれないでください」
「そうかな? 君の叱咤激励をうけるたびに、口説かれている感じがするけどね」
「太上皇さまってば、あきれたうぬぼれやですね」
彩燕はふたつのこぶしを細腰にあててふくれっ面をした。どうせ長続きしない。見つめあっているうちに、どちらともなく噴きだしてしまう。
「感謝しているよ、彩燕」
ほろほろと雪が降りだした。宦官から油紙傘をうけとって、彩燕にさしかける。
「今日の俺があるのは、君のおかげだ」
「感謝の念は行動で示すものですよ。残りの生涯で私に恩返ししてください」
「もちろん、そのつもりだよ。手始めになにをしようかな」
「そうですね、まずは氷嬉に付き合っていただきましょうか」
「また氷嬉かい? 昨日もやったじゃないか」
「今日はやってませんよ」
「雪も降ってきたし……」
「玉の塵に降られながら氷面鏡の上を滑るなんて、かえって素敵じゃないですか」
「君はいつまでも若いね」
「太上皇さまがじじむさいんですよ」
「舌鋒の鋭さも相変わらずだ」
声をあげて笑い飛ばし、嵐快は彩燕に手をさしだした。
「大恩あるご婦人の願いとあれば、氷面鏡でもどこでも、喜んでおともしよう」
彼女の手を握り、一本の油紙傘に守られながら、瑞花咲く小道を歩いていく。
長いあいだ、自分は華枝しか愛せないと思っていた。彼女が鬼籍に入ったからには、もう二度と、だれにも心動かないだろうと思っていた。心は死んだつもりでいた。華枝とともに黄泉へ下ったのだと。
しかし、それは誤りだった。
その証拠に、いまの嵐快は、彼女を――呉彩燕を愛しく思っている。
値打ちのない愛はいらないと突っぱねられかねないから、口には出せないけれども、華枝に注いだようなくるおしいほどの恋情とは異なる色形をしているけれども、胸を満たすあたたかなこの感情に名をつけるなら、愛というよりほかないだろう。
「なんですか、太上皇さま」
彩燕が胡乱げな目つきでこちらを見上げてきた。
「さっきからにやにやなさって、気味が悪いんですけど」
「にやにやじゃなくて、にこにこしているんだよ。君のそばにいるのがうれしくてね」
「ますます気持ち悪いですよ。熱でもあるんじゃないですか? そうでなきゃ、変なものでも食べたとか」
「ほんとうににこにこしているだけだよ」
「前々から思っていたんですけど、あなたの笑顔ってものすごくうさんくさいんですよ。詐欺師の顔つきというか」
「ひどいことを言うね」
「あー、ほら、それです、それ。完全に山師が人を騙すときの顔ですよ」
「でも、君はこの顔が好きなんだろう?」
「おまけに度しがたいうぬぼれや。ほんとにどうしようもないかたですね!」
彩燕に小突かれると、笑わずにはいられなくなってしまう。
「そのどうしようもない男が君の夫だ」
たわいない会話を重ねていくことがなにものよりも貴く感じられ、嵐快は強く彩燕を抱きよせた。
「あきらめておとなしく抱かれているんだね」
「いやですよ!」
彩燕はするりと嵐快の腕の中から抜けだした。
「私がおとなしくなるのは、死ぬときだけです。生きているあいだは好き勝手に駆けまわりますから、あなたは命ある限り追いかけてきてください」
ひらりと外套の裾をひるがえして、彩燕は小道を駆けていった。
置き去りにされた嵐快の背中を雪風が荒っぽく押す。
その勢いに任せて油紙傘を投げ捨て、六花の雨の中に身を躍らせると、青年のころにもどったような心持ちが軽やかに地面を蹴った。
【おわり】