ある日のたまずさ


‌ 星空のもと、小高い山の緩やかな斜面に、大小の(どう)()が数えきれぬほど点在している。
‌ 敷地ばかりは広大なその寺──(もっ)(けい)()には、おそろしい(もの)()が複数、封印されていた。
‌ そのうちの一体とされる妖獣たまずさは、寺の宝蔵の扉前に長々と寝そべっていた。
‌ 夜目にもくっきりと浮かびあがる真白き身体は、馬ほどの大きさ。顔は狐に似ているが、細く長い尾は猫のようでもある。白い獣毛は長めで夜気を含んでゆらゆらと揺らぎ、まるで(かすみ)のようにその全身を覆っている。
‌ 目を閉じていると、長い毛に覆われた顔はつるりとした無貌となり、この世の生き物でないことがますます際立つ。そんな異形の獣に、何者が静かに近づいていた。
‌ 足音は一切、立てていない。が、たまずさは敏感に気配を察し、すうっと目をあけた。
‌ 切れ長の(がん)()の奥、糖蜜色の瞳に光がともる。その目が捉えたのは、この寺の()(しょう)に仕える(だい)(どう)()()(りゅう)の姿であった。
‌ 年の頃は十七、八歳。元服するか、僧になるべく(とく)()するか、どちらかに決めるべき年齢だが、大童子の彼はどちらも選ばず、髪は(わらし)のようにのばしたまま、後ろできっちり結んでいる。だからこそ、大童子と呼ばれるわけだ。
‌ 我竜はその手に木剣を握り、険しい目でたまずさを睨みつけていた。彼が放っているのは明瞭な殺気だ。夜中にこんな(けん)(のん)な気を放ちつつ近づいてこられたら、身の危険を感じるのが当然だろう。
‌ しかし、たまずさは動じずに、ふふんと長い鼻先で笑った。
‌「どうした、大童子。夜這いか?」
‌ 我竜の顔が怒気に(ゆが)んだ。
‌「(けが)らわしい妖物め。おまえが自由にのさばっていて、寺のためによいはずがない」
‌ 寝そべっているだけで圧倒的な迫力を放つ妖獣を前に、我竜は一歩も引いていない。
‌「勿径寺は()(ぎょう)の子らを幾人も預かっている。前途有望な若い修行僧も多い。おまえの存在は彼らに悪い影響を及ぼしかねない」
‌「とんだ言いがかりだな。われは何もしておらぬぞ」
‌ 殺気立つ我竜に、たまずさは長い尾を扇のごとく左右に揺らしながら悠然と応えた。
‌「むこうから寄ってきておるのだ。あの無邪気な(しら)(ぎく)(まる)もな、都におわす(はは)()()の代わりと思うておるらしい。なんと愛らしいことよ。どうして()()にできようか」
‌「()(べん)だ」
‌ 我竜は木剣を構えて腰を低く落とした。本気でたまずさと闘おうとしている。たまずさは、はあとため息をついた。
‌「やれやれ、頭の固い男よ。ずぼらでぐうたらな(じょう)(しん)和尚とは、まるで正反対よの」
‌「和尚さまを()(ろう)するな」
‌ 我竜が短く言い放ち、前に踏み出そうとした(せつ)()、緊張感のまったくない声がその場に響き渡った。
‌「はいはい、そこまで。そーこーまーでー」
‌ (もう)()と呼ばれる白い布をかぶった僧侶がひとり、満面の笑みをたたえてその場に現れたのだ。彼は呼ばれてもいないのに片手を高く挙げ、陽気に言い放った。
‌「はーい。定心和尚、四十八歳でーす」
‌ その年齢には見えない若々しさ、容貌も僧籍にとどめておくにはもったいほど端整で優美だ。彼こそが勿径寺を統括する定心和尚であった。
‌「酔っておりますね?」
‌ 酒のにおいをぷんぷんさせた師匠の登場に、たちまち我竜の闘気がしぼむ。彼は木剣を下ろすと定心に向き直り、怒りの対象をたまずさから和尚へと変更して()えた。
‌「また里で深酒をなさったのですか。今宵は読経に励むから邪魔をしないようにと仰せでしたのに、あれは真っ赤な嘘だったのですね?」
‌「嘘だなんて、とんでもない。ちょっとだけ、ちょっとだけの息抜きだよぉ。我竜だって、わたしの知らない間にたまずさと密会
‌「密会などではありません」
‌ ぴしゃりと言い返すと、我竜は定心にくるりと背を向けた。
‌「僧坊に戻ります。和尚さまも酔いが冷めましたら、お部屋にお戻りください。くれぐれもそのような赤ら顔を寺の者に見られませんように」
‌「はいはーい。了解、了解」
‌ 肩をいからせ去っていく我竜を見送ってから、定心はたまずさに言った。
‌「気を悪くしないでやってくれませんか。我竜はほら、若いから融通が利かないんですよねえ」
‌ どこかおどけた物言いに、たまずさはくすりと笑った。
‌「なんの、いい暇つぶしになったわ」
‌「なら、よかったよかった」
‌ うんうんとうなずきつつも、帽子の下で定心の目が一瞬、油断なく光る。
‌「それに、寺の者に手を出したら、わたしが黙っていないからね」
‌「ほう。定心和尚と本気でやり合うか。それはそれで面白かろうのう」
‌ たまずさは臆するどころか、定心との対戦を待ちかねていたかのように舌なめずりをした。だが──
‌「だが、いまはいい。面倒だ」
‌「ですよねえ」
‌ 定心もその返事を待っていたのか、大きく両手を広げた。
‌「そうしましょう、そうしましょう。何事も起こらぬのがいちばん、いちばん」
‌ だが、それでは退屈に過ぎるよのうと、たまずさは思ったが、言うのも面倒になって大きくあくびをした。妖獣の口の中は(したた)る血のごとく真っ赤で、尖った歯は人間の首ひとつ簡単にもぎ取れそうなほど鋭かった。

‌【おわり】