もののけ寺に朝が来て
東の空が微かに白み始め、今日も勿径寺に朝がやってきた。
数えで十二歳の小坊主、知念は褥の中でぱっちりと目をあける。誰かに起こされたわけでもない。夜明けが迫ってくる時刻になると、自然に目が醒めるように、いつの間にやらなっていたのだ。
「ふわぁ……」
知念は夜具の中で大きくのびをすると、元気よく跳ね起きて衣を羽織った。この寺の修行僧の中でも最年少の彼は、いち早く起きて朝餉の支度をしなくてはならなかったのだ。
まだまだ眠くはあったが、これも修行の一環。お務めとして真摯に励まなくてはと、部屋を出て厨へと向かい……かけたのだが。
そこで知念は、寺稚児の白菊丸──呼び名は白菊──とばったり鉢合わせになった。
この寺には、若い修行僧たちの他にも、元服前の少年たちが十名ほど、寺稚児として預けられている。彼らは皆、都の上流貴族の子息で、ここで仏典やら和歌、絵画などを学び、やがては出家得度して名だたる大寺院の僧侶ともなる身であった。
知念は農民の子で、近隣の村から口減らしも同然に寺へとやられた身。貴族出身の寺稚児たちとは、最初から立ち位置が異なる。
ましてや、白菊は寺稚児たちの中でもさらに別格だった。華山中納言の庶子というのは表向きで、実際は今上帝の御落胤。それもひた隠しにされてきた第一子なのである。
大きな目にふっくらとした頬も愛らしい白菊は、知念とばったり出くわして、ばつの悪そうな顔になった。知念はそれに気づかず、彼に声をかける。
「あれ? おはようございます、白菊さま。ずいぶんとお早いですね」
「あ、うん。おはよう」
たまたま早くに目が醒めた、というだけではなく、もう外に出られるような恰好になっている。いままで、こんなに早くに起きてきたことはなかったはずなのに、どうも妙だなと感じた知念は、ためらわずにその疑問を口にした。
「しかも、しっかり水干をお召しになって。こんな早朝にどちらへ?」
「ち、知念こそ」
「わたしは皆さんの朝餉の支度がありますから、これくらいの時分にはもう起きておりますよ」
「そうなんだ。大変なんだね」
白菊は居心地悪そうに視線を泳がせていたが、やがて観念して「実は……」と言いにくそうに切り出した。それによると──
勿径寺の周辺では、去年、悪い病が流行り、多くのひとが命を落とした。その供養のため、来月、桜が咲く頃に大規模な法要を執り行うことが決定していた。
法要では、定心和尚が読経するだけではなく、寺稚児が雅楽の『胡蝶』の舞いを披露することになっていた。白菊はその舞い手のひとりとして選ばれたのである。
ところが、本人は舞うのも初めて。しかも、物心ついたときから中納言邸の奥で何者かからひた隠すかのように育てられてきたため、ろくに外出もしたこともなく、体力は並み以下。そのため、他の舞い手の動きにまったくついていけず、汗みずくになってへたばってしまったというのだ。
これでは最後まで舞いきることもできず、他の舞い手にも迷惑をかけてしまうのではないかと、白菊は大層、気に病んでいた。とりあえず、知念もそんな彼に慰めの言葉をかけておいたのだが、当人はその後もずっと悩み続けていたらしい。
「それで、体力作りのために、朝早く境内を走ってみようかなって。とりあえず最初は歩くぐらいにしておいて、少しずつ走れるようになれば理想かなって」
「なるほど、そういうことでしたか」
納得し、知念はふむふむとうなずいた。
それにしても、生真面目なかただなと改めて思う。帝の子という立場に甘えず、早く寺のみんなと馴染もうと努力を怠らない。今回も、おのれの体力のなさをただ嘆くだけでなく、なんとか対策を講じて実行に移そうとしている。
知念は白菊の身のまわりの世話をするようにと、和尚から直々に申しつけられていた。最初こそ、また仕事が増えるのかとげんなりはしたが、実際に白菊と顔を合わせてみると、そんな気持ちはたちまちなくなり、素直な白菊のために働くのが楽しくさえなった。いまも、おのれの体力のなさをどうにかしようとする白菊に、力を貸してやりたくなる。しかし、
「わたしもできれば、お付き合いしたいのですが、朝餉の支度がありますので……」
「大丈夫だよ、ひとりでも。まだ暗いけれど、もうすぐ陽が昇るんだし」
じゃあ、行ってきますと、白菊は笑顔で外に出て行った。
見送った知念はいったん、その足で厨に向かい、煮炊きを開始しようとしたものの、
(……駄目だ。気になる。ちょっとだけ、ちょっとだけ白菊さまの様子を見てこよう)
結局、朝餉の支度を中断させ、白菊を追って外に飛び出していく。
なだらかな小山の斜面に広がる勿径寺の境内は、これがなかなか広い。堂宇の数も多いうえ、あちこちに竹藪や雑木林が繁っている。高低差もそれなりにあって、急に崖になっているような場所すらある。
まだこの寺に来て日の浅い白菊が、夜明け前の薄暗い中、うっかり足をすべらせて怪我でもしたりはしないだろうかと、知念は心配性の母親のように気を揉みつつ、彼を捜しまわった。
(どこだろう。どこに行かれたのだろう。ここが普通の寺だったら、わたしだってこうまで心配はしないのだけれど……)
何しろ、勿径寺は普通の寺ではない。
力ある伝説の物の怪たちが、複数、封印されている特別な寺だ。
定心和尚の類い稀なる法力により、物の怪たちは寺の敷地内に抑えこまれているものの、いつなんどき力を取り戻し、再び暴れ出さないとも限らない。白菊のような純粋無垢で可憐な稚児は、真っ先に餌食にされてしまいそうだ。
現に、たまずさと名乗る、ふわふわの白い妖狐とはすでに接触済みだ。害意はなさそうに見えるが、相手はあの九尾の狐ではないかと目される邪悪な女狐。白菊の警戒心を解き、隙を見て食い殺そうとしている可能性は捨てきれない。
(ああ、やっぱり朝餉の支度なんぞは誰かに押しつけて、白菊さまに付き合えばよかったんだ)
悪い想像で頭をいっぱいにしていた知念だったが、寺の表玄関とも言うべき山門まで来たところで、やっと白菊をみつけた。それもひとりではなく、寺稚児の不動といっしょにいる。
不動はその名の通り、不動明王のように体格がよく、知念や白菊と同じ、数えの十二歳にはとても見えなかった。腕っぷしも強く、いつも寡黙。寺稚児たちの中でもひときわ美しい、千手丸の取り巻きのひとりで、さながら警固の武士のごとく常に千手を守護している。
千手はその美貌と聡明さ、内大臣の子息という血筋のよさから、寺稚児たちの間でも特別視されていた。そこへ帝の御落胤である白菊が突然、現れたのだ。当然、むこうも意識しているに違いない。
白菊のほうは千手と仲良くなりたくて仕方ないのだが、どうもまだうまくいっていないようなのだ。そんな千手の取り巻きと、いったい何をしているのやら……。
(もしかして、『おまえ、新参のくせに生意気だぞ。千手さまのほうが格上だとわからせてやろうか』とかなんとか、ここぞとばかりに因縁をつけられている?)
知念は山門の柱に隠れ、ハラハラしながらふたりを観察した。
不動は木刀を握り、無心に素振りをし続けている。白菊は両腕を胸の前で交差させ、肩幅よりも広めに開いた両足を上下に屈伸させている。いわゆる、下半身強化の筋トレの一種、ワイドスクワットの動きなのだが、知念にはそれがわからない。
首を傾げるも、身体を鍛えるための動きを肉体派の不動に教わっているのだろうなということは、なんとなく想像がついた。
(なんだ、よかった……)
そういうことならば、邪魔をしては申し訳ない。知念はふたりに気づかれないようにそっと山門から離れ、来た道を引き返した。
(早く厨に戻って、自分は自分の仕事をしなくちゃ。それにしても──よかった)
走る知念の口もとに、無意識に笑みが浮かんでくる。頭上の空も刻々と明るくなっていく。
朝日が射しこみ始めた勿径寺の境内では、そこかしこで小鳥たちが陽気にさえずり始めていた。
【おわり】