今生の別れじゃあるまいし


 ママの倒れ方はギャグだった。店の床で大の字になって右手に酒瓶、左手にグラス。溢れ出したヘネシーは髪と赤いニットにおおよそ吸収され、ママの全身がヘネシーの香り袋になったみたいだった。
 面白さが勝って、十八歳の私はちょっと笑った。自分の笑い声ですぐ我に返り、ママの手を握って脈を探し、119番にかけた。
 ママは私の恩人だ。路頭に迷いかけたとき、ママのスナックの求人にありついた。お腹を空かせていた私にママが作ってくれたソーセージたっぷりのナポリタンはそれはもうおいしくて、あれに命を救われたと言っても過言ではない。
 救急車で病院に運び込まれたママは(のう)(そっ)(ちゅう)()(かい)(よう)を併発、血液検査では複数の異常値を弾き出した。
「こんなに悪いってこたあ、今に始まったことじゃないんだろ」
 意識を取り戻したママは異常判定だらけの検査結果を手にしても(ひる)まなかったが、私は不安になった。ママのにおいは去年死んだ私の母親のにおいにそっくりだった。明け方まで飲んだくれて日が暮れてから活動を開始する人はみんな同じようなにおいになるのかもしれないが、ママよりずっと若かった母親が内臓を傷めて死んだことを思うと、ママが生きているのが不思議なくらいだった。
 私は「ママを死なせない」作戦を開始した。わずか三日で(とん)()した。酒と煙草を取り上げようとしたら「余計なことすんなら店から追い出すぞ!」と怒鳴られた。私は作戦を切り替えた。今度は「ママを綺麗に死なせよう」作戦。
 綺麗に死ぬというのは立つ鳥跡を濁さずのニュアンスだ。私の母親はそれがまるきりできていないどころか、むしろ死んでからが本番だった。家賃滞納によりアパートを追われた私の前に現れた「お前の母さんとは古い縁だ」と主張する男は、私を歓楽街に連れていき、雑居ビルの一室でなんらかの面接を始めた。トイレと大声で叫んでアパートに逃げ帰ったら今度は別の男がドアの前に座り込み「エミちゃんに金貸してたんだけど」と黄色く濁った目で私を見上げた。そんなのは序の口でいまだにママの遺影に手を合わせたくない日がある。だけど手を合わせなければ、死ぬとわかってからしおらしい態度を取り始めた母親の、「こんなお母さんでごめんね」とか言ったときの弱々しい声や、私の手に触れたかさかさの手を思い出してしまうから始末が悪かった。
 命の恩人であるママにはそんなふうになってほしくなかった。そのための「綺麗に死なせよう」作戦である。
「次ママが倒れたら誰に連絡する?」
「病院にぶち込んだらほったらかしで構わない」
「ママが死んだらこの店どうする?」
「放っておきゃあそのうち競売にかけられんだろ」
「ママの保険証ってどこにあるの」
「こないだから財布もろとも見当たらないのさ」
 ママはきわめて非協力的で、財布は数日後にトイレのタンクの中から発見された。ママ曰く、二日酔いで嘔吐しまくっていた明け方、高いパイソンの財布を汚したくない一心で、泥舟から赤子を逃すかのようにタンクの中へと放り込んだようだ。
「そんなに大事ならもっと一生懸命探しなよ」と呆れる私に「本当に縁があるなら出てくるんだよ」とママは言った。私は保険証をラミネート加工して紐をくっつけ、ママの首からぶら下げてあげた。財布と保険証は縁どうこうではなくただの必携品だ。
「いいなあ。シゲミちゃん、俺にもやってよ」
 見ていた常連のタツさんが言った。シゲミは私の源氏名だ。
「タツさんも保険証ぶら下げたい?」
「そっちじゃなくて連絡先どうこうのほう、独り身だから不安なのよ」
「ふーん、いいよ」
 むしろ大歓迎だった。せっかく作った緊急連絡網や重要書類リストもママが非協力的なせいで無駄になりそうだったのだ。
「タツさん、元カノのみよこは連絡先から外そう。もう結婚して子どももいるんでしょ?」
「ミヨちゃんには知ってほしいのよ、なんとかならんもんかね」
「それはタツさんのエゴだね。それより地元の弟さんに連絡したら」
「長い間連絡とってないもんだから」
「私が電話してあげるよ。ママー! 電話かして」
 これみよがしにママの目の前で連絡網を作っていると、他の常連さんが「俺も」「(わし)も」と言い出した。タダ働きさせちゃ悪いと言ってお駄賃をくれる人が現れ始めたころには、私はお酒づくりそっちのけでみんなの人生を整頓する係になっていた。タツさんは弟さんと再会を果たした。秋田から出てきた弟さんを仕事のあるタツさんの代わりに東京駅まで迎えにいってスナックで二人を引き合わせた。兄弟の縁の復活を喜んだ弟さんは「おめ、天使様だじゃー」と私をおがんだ。
 天使様。悪い気はしなかった。天使ごっこをしていたらママも気が変わるんじゃないかと期待した。でもママはその数日後、私に三万円握らせて店から追い出した。
「なんで⁉」
「あんたはもう天使様ごっこで食ってけるだろ。あたしんとこにはよそじゃやってけない子しかいらんのさ」
 三万円は(せん)(べつ)兼開業資金らしい。その日はとても寒く凍った路面で何度も滑って転びそうになった。ママのために天使になったのにひどい仕打ちだ。ママなんて()()れ死んじゃえと思ったあとで、やっぱりそれはダメだと思った。ママのナポリタンは私の命を救った。あの真っ赤なケチャップと半分にぶった斬られたソーセージが、死にそうな私に命を与えた。そんなものを提供しておきながら野垂れ死ぬほうがよほど許せない。
 天使を頑張った。私がもっと天使らしくなればママも頼る気になるだろうか。人が人を呼び、天使の()()(ごと)は少しずつ仕事としての体裁をなしていった。ママには()りずに連絡したが、「人間死ぬときゃ死ぬ」と耳を貸してくれなかった。ときどき思った。私は天使じゃなくて死神かもしれない。連絡網を作ってあげた翌日におばあさんが息を引きとり、一緒に不用品整理をしている最中におじいさんが倒れた。そんなことが続いた冬、私はどうしてもママのナポリタンを食べたくて数年ぶりに店を訪れた。
「ママ」
「シゲミか」
 ママは変わらず店にいた。ただしいつものカウンターの中ではなく、店の外側の閉じた扉に寄りかかり、片手にヘネシーボトルを(つか)み、両足を前に投げ出していた。
「入らないの?」
「入れないんだよ。首が回らなくなって締め出されたのにうっかり出勤しちまった」
 ママはほとんど(から)になったヘネシーに口をつける。今だ、と私は思った。
「ママ、行こう」
「どこへ」
「私のアパート。兼事務所。少し休んだら、頼れる人を探そうよ。ママの財産も整理してさ、どうしたらいいか考えよう」
 腕を引っ張られ、面倒くさそうに立ち上がったママの手は冷たくしわしわで、私の手は温かくふくよかだった。今ならママの天使になれる。そう確信したが、ママは私のアパートの電気ストーブの前でクノールのスープを一気飲みすると、すっくと立ち上がった。
「どこ行くの」
「帰るんだよ。家のほうはね、電気は止まってるけど屋根はある。酒買って帰って寝酒でもするよ」
 ママの顔は土気色で、寒いところで酒を入れたらどうなるか予想がつかなかった。もしママが私の母親だったら最後だけしおらしく甘えてきたあの人のような女なら、間違いなく私の手を掴んで離さないだろうに、ママは冷たいミュールに足を突っ込んで玄関のドアノブをがしりと掴む。
「死ぬよ、ママ」
 私は忠告した。今すぐドアノブを離して戻ってきて欲しかった。ママは私を振り返り、いつもの調子で言った。
「そんときゃそんとき。ずうっと前から言ってるだろう」
 頭がぐらぐらする。どうしてこうもかっこいい。ママはブレない。ピンチに陥ったからといって、急に手のひらを返したりしない。母親と比べたらダメだった。良し悪しなんて気にせず、自分らしく生きて自分らしく死んでいけるのがママだった。
「ママ、待って」
「まだなんかあるのかい」
「ナポリタン作って」
 私は冷蔵庫に駆け寄り、取り出したケチャップを(かか)げた。「しょうがないね」とママは肩をすくめ、ようやくドアノブから手を離し、代わりに包丁の柄を握る。
 ツナと玉ねぎだけのあり合わせでも、土気色の一文無しでも、ママの作ったナポリタンは生命力に溢れていた。なたね油と絡んだケチャップは命のように赤い。私にはこれが必要だった。本当の天使はきっと私じゃなくてママだった。ナポリタンを食べさせてくれたときから、ママは私の天使だった。
 私のアパートを去ったら、ママはお酒を買いに行き、冷たい部屋で死ぬか、あるいは消息を絶って行方がわからなくなるのかもしれない。
 引き止めるべきだろう。でもママは私の天使だから特別に見逃す。人間は立つ鳥跡を濁さず死ぬべきだって思うけれど、ママだけは濁しまくって死んでもいい。(しり)(ぬぐ)いくらいは私がしてあげられる。
「じゃあな」
 空になったお皿をシンクに突っ込むとママはアパートを出て行った。私はアパートの窓から、クラクションを鳴らす車に中指を立てながら横断歩道を渡るママを見送る。
 本当に縁があんなら出てくんだろ。
 パイソンの財布をなくしたママは言っていた。そうだとしたら、財布がトイレのタンクから発見されたように私はどこかでママに出会うだろう。
 だから今日から冷蔵庫にはソーセージを常備しておく。
 生きているママに会えたなら、またナポリタンを作ってもらう。

【おわり】