ツジセンの独白

岡本先生に嫌われているかもしれない。
そうようやく自覚できたのは、一昨日の金曜。きっかり18:42のことだ。
18:10
期末テストの採点も落ち着いて、珍しく職員室は、まだ十八時を過ぎたばかりにも拘わらず、教員たちが続々と帰宅し出していた。
「この後、サッカー観に行きません? こないだのスポーツバーで」
部活動の日報を終え、隣の席へ、いつもの調子で声をかける。
「七時半から準々決勝なんですよ。前のメンツも来るみたいで」
「えっ、準々って今日なんですか」
卓上カレンダーを確認してから、彼は残念そうに眉を下げた。
「すみません、今日はちょっと先約があって……。前、教えていただいたイタリアン。あそこを予約してるんです」
「あ、デートですか?」
「はは、いつもの友人です」
大学の時の友人がこの近くに勤めているらしく、以前誘った時もバッティングした。
「道なりだし乗っていきますか? バス停からだと結構歩きますよね?」
提案に、彼は恐縮したように首を振る。
「待ち合わせは駅なんです。向こうの仕事の都合で約束も七時半過ぎなので、少し仕事をして時間を潰します」
「ああ、そうなんですね」
軽く応じながら、前にもこんなやり取りをしたなとうっすら記憶が蘇る。
確か以前は、「駅は反対方向だけど別に車ならなんてことない」と付け加えたが、同じように『時間の調整』というような返答が、何か違う言葉で返された気がする。今日はこちらから聞くまでもなかった。
「じゃあお先に」とまた同じように会話を切り上げかけ、引き出しに仕舞いっぱなしのクーポンの存在を思い出す。
「これ期限もうすぐなので、よかったら」
二カ月程前に彼と食べに行った時にもらった、ワインのサービス券を差し出す。
「え、いいんですか?」
「元々、先生に渡し損ねただけなんです。すっかり忘れてました」
「ありがとうございます。相手が呑む方なので、では有り難く」
ごく自然な形で『サッカーは準決勝にでもまた』という流れで会話は終わり、特に何の疑問も違和感も抱くことなく、職員室を後にした。
18:15
車に乗り込んだ途端、自然と溜息が漏れた。
さっきまで気分はすっかり、大画面で見るサッカーと生ビール一色だったのに、急に家で観ればいいかという気分に変わる。
誘いのLINEに断りを入れ、何か適当に買って帰ろうと車のキーを回す。
イタリアン。
最後に食べたのは二週間前に彼と行った時で、とにかくピザがおいしかった。生地がしっかりしていて、ソースも薄味なのにコクがあって、
『デリバリーのも好きだけど、これは全く別物ですね』
そう岡本先生も喜んでいた。友人とまた行こうと思うくらい気に入ってくれたのなら、誘ったこちらとしても二度嬉しい。
無性にあの味が恋しくなるが、あの店はテイクアウトはやってないし、食べて帰るには道なりといえ、さすがに十九時半のキックオフには間に合うか怪しい。
敷地内をノロノロと車を徐行させながら、確か駅前のデパ地下にもイタリアン料理があったことを思い出す。
カーナビの時計を見れば18:15。
帰路からは回り道にはなるが、駅はここから十分程度。さっさと買って帰れば試合には間に合うだろう。
ウィンカーをいつもとは反対側へと光らせて、校門を出た。
18:40
直感だけで商品を躊躇いなく選んでいった甲斐あって、買い物自体は十五分ほどで済んだ。学校を出てからまだ三十分もたっておらず、キックオフまで、まだ十分に余裕があった。
助手席にテイクアウトの紙袋を慎重にのせ、デパートの立体駐車場を出る。
駅ロータリーの交差点に差し掛かると、車を二台ほど挟んだ前で、バスが停車していた。
客の降車を待ち、車の流れが一旦止まる。
順々にバスから降りてくる人の中に、見覚えのある姿があった。
「岡本先生……?」
バスから降りてきた彼は、前の人に続いて一直線に駅へ向かい、改札をくぐっていった。
思わず、手元の時計とカーナビを見比べる。時刻はどちらも『18:42』と表記されていた。
プッと後ろから軽くクラクションを鳴らされ、我に返る。バスは既に時間調整のためかロータリーの中央あたりに既に移動していた。
慌てて、アクセルを踏み込む。
この三十分の間に急に予定が変わっただけだろう。それか、ただ待ち合わせの場所が駅から変更になったとか。
三十分あれば、こうしてピザにサラダ、ちょっとしたつまみに、デザートの固めのプリンまで調達できるのだから。
帰路を走りながら、そう自分に言い聞かせてみるが、かえって疑問が生まれる。
18:42着のバスに乗るためには、少なくとも自分と別れた直後には、予定変更の連絡がきて、学校から少し距離のあるバス停に急いで向かった。ということになる。
別にあり得ない話じゃない。ちょっと不自然ってだけで。
そして、そのちょっとした不自然は、今思い返してみると、決して初めての感覚ではなかった。
『断る理由にされたすごく急いでいた資料が、後々自分もやる時になってそこまでは急ぎの期限ではなかったこと』とか、『何回か二人で飲みに行った後に、実はお酒があまり得意ではないと自分だけに打ち明けてくれたけど、職場の飲みの席では割と勧められるがまま平然と飲んでたよな』とか。
よくよく考えれば、食事だって、誘うのはいつも自分で、三回に二回くらいは断れている気がする。
こんなにも次々と思い浮かぶのに、今まで全く気にしたことはなかった。
三回に一回の食事だったとしても、その一回で、彼が心の底から楽しんでいるように見えていたから。
『いつから』『なにをきっかけ』に、彼に嫌われてしまったのか分からない。思い当たる節がないことが何より怖かった。
自分はまた無自覚に人を傷つけているんじゃないかと。
「中学の時の保健室登校をきっかけに教職を志しました。自分の辛かった経験を踏まえ、生徒の気持ちに少しでも寄り添えるよう、尽力して参ります」
二年前の春。赴任時の挨拶で、彼はそう述べた。
淡々とした声だったけど、瞳には強い意志が宿っていた。
大学の時も、スクールカウンセラーや養護教諭のコースなら、学校生活が辛かったという動機で学校関係者を志す人間はいた。前の彼女もそうだった。
でも教職自体では、圧倒的に部活なり学校生活自体が楽しかったからという奴がほとんどだった。
衝撃と、尊敬。そして、本能的に怖いとも思った。
自分の全てを、過去を見透かされてしまう気がして。
特に避けていたつもりはないが、受け持っていた学年も違っていた為、彼との関係は挨拶を交わす程度。プライベートはもちろん業務上すら関わりはなかった。
急速に距離が近づいたのは、今年になって互いに同じ一年生を受け持ってからだ。
きっかけは不登校児へのプリントだった。
「岡本先生の熱意は分かりますけど、この対応は過剰でしょう」
一学期の終わり。夏休み前の学年会議で彼は学年主任の教員から叱責を受けていた。
「この対応が標準と保護者に思われたら、他の先生方にも、来年の対応についても支障が出ますから」
主任は厚い唇を歪め、机に置かれたプリントを粗雑に叩く。
プリントは、うちのクラスの清水真理のために作成されたものだった。
彼女は入学してすぐ、五月の連休明けから学校に来ていない。いじめなどの明確な理由は話してくれず、勉強面なのか人間関係なのか分からないまま、学校側で所謂、『中一ギャップ』だろうという見解で片づけられている。
不登校児へのマニュアル対応としては、保護者へのお知らせや、授業で用いた各教科のプリントは担任を通じ、二週間に一度、自宅へ届けるフローとなっている。
一年の社会科を担当する彼は、授業で用いたプリントとは別に、その答えと、授業内で教師が説明した内容や、参考となる資料集のページ番号を加筆したプリントを新たに作成していた。
風邪などで数日休んだような生徒にも、活用できるよう、校内の共有フォルダーにも格納されていた。
確かにその方が、自主学習も進みやすいかと思い、自分もできる時は真似て、アップするようにしていた。他の先生も何人かそうしていた。
が、一部の先生方からは、そこまでする必要があるのかと指摘を受けた。
「教科書は配布されているわけですし、教材に差が出るのは、ちゃんと登校してきている生徒に対して不公平でしょう?」
不公平……なのだろうか。学校で授業を受けれていない時点で、平等とはなんだろう。途方もない問いが頭を覆う。
「そうですね。自分の考えが甘かったです」
岡本先生は一言も反論することなく、ひどく後悔しているような顔つきで俯いた。
結局会議は、『公立学校として統一的な対応を』という耳触りのいい結論で終了した。
なんだかやり切れない気持ちを抱えながらも、ひどく気落ちした様子の彼にどう声をかければいいか分からなかった。
が、翌日の放課後。自席で訪問の準備をしていると、彼はA4の茶封筒を手渡してきた。
中を覗くと、明らかに昨日注意を受けた不登校児用のプリントが入っていた。
しかも、分厚い量からはおそらく二学期分全ての単元だった。
「いいんですか……?」
慌てて再びプリントを封筒へ押し込み、声を潜めて訊ねる。
彼は少し迷うような素振りを見せてから、
「ダメでしょうね」と平然と微笑む。
「だから、お願いしにきました」
懇願というには、強い眼差しにドキリとした。
この人は、大人しそうに振る舞うのが得意なだけで、実は物凄く気が強いのだと悟ると同時に、今まで漠然と抱いていた畏怖と尊敬は、ただ知りたいという欲求に変わっていた。
生徒への親身な対応の一方で、人一倍厳しい面もあった。
部活動でも使っている体育館倉庫で、テニスボールやバトミントンのシャトルなどの備品がプラスチックの筒ごとなくなるという事態が起こった。確証はないが、かなり似た出品物がフリマサイトで販売されていると判明した際、
「警察に被害届を出しましょう」
と提案したのは彼だった。
「もちろん犯人を捕まえるためというわけではなく、被害届を出した事実を生徒に伝えるためです。窃盗はれっきとした犯罪であることを教えるべきだと考えます」
彼の意見は間違ってはいないとは思った。でも正しいのかは自分には分からなかった。他の先生も同様だったようで、
『中学生相手に過剰』
『まずは改心するチャンスを与えるべき』
『校内に漏れるのは対外的にもまずい』
といった批判の波が徐々にざわめき出すと、彼はまたすぐに、
「自分の考えが甘かったです」とあっさりと引き下がった。
会議は、堂々巡りの議論を繰り返した後、
『鍵の貸し出し規則を徹底する』
『ケースに学校名を記載する』
『貼り紙を強化する』
など現状とそう変わりない対策が募られていくが、岡本先生はさも名案だと言わんばかりにしきりに頷いていた。
以前のプリントのこともあったので、多分、全然納得はしていないんだろうと思うと、彼が集団に適応しようとする姿は、やや過剰すぎるようにも自分には思えた。
その後、対策の甲斐あってか、テニスボールとシャトルが筒ごと消失する頻度は低くなった。
が、今度はバレーボールの数が合わなくなっていて、結局また来週の会議の議題に挙がっている。
先生が予約のイタリアンに行かず、18:42着のバスで直帰していた一件から週明け。
「勝ちましたね」
朝、出勤するなり、彼はいつも通り人当たりのいい笑顔で、向こうから話題を振ってきた。
「どうしても気になってしまって、帰ってからアーカイブ配信で観ました」
「ほんと接戦でしたよね」
本当はリアルタイムで観たんじゃないかという疑念が、反射のように浮かんでくる。
「イタリアンはどうでしたか?」
必死の何気なさを装って、訊ねる。
「週末だと結構混んでましたか? 実はあの後、無性にピザが食べたくなっちゃって、駅前のデパ地下まで買いに行ったんですよ」
「へえー、そうだったんですか」
彼の表情に動揺はなく、あくまでも軽い驚きだった。
「そういえば、クーポンありがとうございました。今度一杯ご馳走しますね」
「そんな全然」
やや不自然に質問の回答が逸れたことに違和感を抱きながらも、笑みを返す。
結局、行ったのか行ってないかすらよく分からない。
もはや彼が断る際に口にする友人が本当に存在するかさえ、疑っている自分がいた。
「先生ってオカジュンと、ご飯よく行くって本当ですか?」
授業開始前の十分休憩に、教卓で授業ノートをめくっていると、寄って来た女子生徒から質問された。
「こらー、先生って言いなさい」
「じゃあ、オカジュン先生」
あだ名呼びの注意は適当に流され、弾んだ声で彼女は問いを重ねる。
「休みの日も一緒に遊んでるって聞いたんですけど」
少し前、高校の時の旧友たちとのフットサルチームに勧誘して、すごくやんわり断れた記憶が過り、苦笑いで首を振る。
「休みまではなかなかないよ。仲が良くても同僚っていうのは、そんなものなんだよ」
彼女に答えながら、まるで自分を慰めているような気分になる。告白もしてないのに、勝手に振られた的な。
「え、じゃあまさか、夏休み箱根に二泊三日の温泉旅行に行ったっていうのもデマなんですかっ?」
なぜか驚いたように問われ、こちらの方が驚いてしまう。
「まさか」
彼女が見る自分たちには何かフィルターでもかかっているかのようだ。
「はい。回答料」
もう話を切り上げたくて、クラス分の返却ノートを彼女に押し付ける。
「そんな……」
押し付けられた雑務か、回答自体なのか、彼女はひどくショックを受けたようにトボトボと、教壇を離れていく。
ノートの返却は全て、近くにいた男子生徒に再委託されていた。
『二年生への進級を保留にしてほしい』
と清水さんの保護者から留年の相談があったのは、三学期に入ってすぐの年明けのことだった。
丸一年学校に行けていないことによる、学習の遅れが一番の理由だったが、それだけでなく、人間関係を新たにリセットできる面でも、学校に行くきっかけになると考えたためだ。
現に清水さんも、もう一度一年生をやり直すことに関しては意欲的な姿勢を示しているという。が、
『特別扱いはできない』
それが学校としての回答だった。
「義務教育の基本は同一年齢の進級、進学の年齢主義です。将来、就活の際の履歴書の一年のズレなど後々困るのは彼女ですから」
教頭は穏やかな声で、一年生に原級留置できない理由を教員たちに語りかける。
「人間関係に関しては、クラス替えで配慮を行うということで、進級の形で勧めましょう」
最初から決まっていた結論で、次の議題へ移りかけた時、
「しかし現実問題として、彼女は二年生としてやっていけるのでしょうか」
異論の声に、教員の視線が一斉に岡本先生へと集まる。
「授業を受けたのは、入学から五月途中の一カ月ちょっと。自宅学習といっても定期テストを受けたのは中間だけです。現状二年生の学習についていけるとは……」
「学習に関しては、休んでいた分、人一倍努力してもらうしかありませんね」
まるで定型文のように、さらりと告げられる。
「休むという選択をした以上、それ相応の責任を伴うことを本人も保護者にもご理解いただかねばなりません」
出席日数が足りない責任は、高校なら有無を言わさず留年。でも、中学校においては、碌に授業に出ていなくても、強制進級。たった数年で責任は対極に逆転する。
「しかし、二年の勉強についていくために、一年の学習を同時並行で行うのは現実的とは思えません」
「では、私立への転校を勧めるより他ありませんね」
単調な声が静かに響く。
「義務教育は、税金で学んでいるのですから。特別扱いはできません」
「ですが、」
尚も彼は食い下がる。
「今はもう高校も無償化になりました。彼女が学ぶことは義務と同時に権利であるはずです。その理由では保護者の方も納得できないのではないでしょうか」
彼にしては珍しく好戦的な言い方だった。しかし強い物言いとは裏腹に、その声は微かに震えていた。
「岡本先生は特別な思い入れがおありでしょうから、力んでしまうのは分かります」
溜息混じりに、教頭が目を細める。
「保健室登校を含めて、別に逃げること自体を否定しているわけではありません。ただこれが、現状の公立学校としての在り方です」
『丁寧な説明により、保護者にご理解いただく』
というあくまでも相手側が認識を改めるという結論で締めくくられ、会議は次の議題へと移っていく。
『自分の考えが甘かった』
今回ばかりは岡本先生はそう言わなかった。いつもの様に、他の先生の発言に頷いたりもせず、じっと何かに耐えるように口を噤んでいた。
「明日、ここ行きませんか?」
会議終わり、隣で黙々と書類仕事をこなす先生に、スマホを差し出し、口コミ式のグルメサイトを見せた。
あの日以来も、先生とは変わらず食事に行っている。三回に一回という自分の仮説が正しければ、この前、駅前のラーメンを食べたばかりけど、誘わないことにはカウントは増えないし、何より今日の彼の様子は、少し気がかりだった。
「鹿肉を出す店で、色々かわった料理が食べられるみたいなんです」
「へえ、鹿肉……」
差し出したスマホ画面を岡本先生は一目すると、「ぜひ」と即答した。
誘っておきながら少し驚く。
「結構遠いですよ」
「先生の運転が大変でなければ」
「僕もまだ行ったことがないんで、お店の雰囲気とか、味も本当にウマいのかもよく分からないんですが……」
また無理をさせているのではと不安で、保険をかけるように確認を重ねてしまう。
「今回はやめておきますか……?」
急に気後れしたこちらの気配を察するように、岡本先生に問い返され、慌てて俺は首を振る。
「いえっ、先生が大丈夫であれば、ぜひぜひ。鹿鍋は一番小さいのでも二人前からなので、助かります」
付け足した言葉に、岡本先生がようやく微笑む。
「紅葉鍋なんて久しぶりだから、嬉しいな」
そう言った彼の顔は、本当に心から楽しみかのようで、ひどく頭が混乱する。きっとジビエ料理が好きなんだ、となんとか自分に言い聞かせる。
「じゃあ、明日に」
努めて同じくらいの温度感で笑顔を返しながら、すぐに席だけ予約した。
翌日、急ぎでない仕事は全部週明けの自分へと託し、互いの部活指導が終わってすぐ車に乗り込んだ。
運転席に座ると、条件反射的に口が寂しくなったが、以前、煙草を吸った時、助手席の岡本先生が一瞬眉を顰めたように見えたことを思い出し、代わりにタブレットからガムを口に放り込んだ。三十分ほど、車を走らせ到着すれば、店は週末ということもあってか、ほぼ満員で、予約しておいて正解のようだった。
隣との境が布で仕切られていて半個室のようになっているが、通路を挟んで向かい側に関しては、丸みえになっている造りだった。
ウーロン茶二杯と、とりあえずで頼んだ一品料理がテーブルに並ぶ。
「たくさん食べてくださいね」
お通しの鹿肉の煮込みに和えられたヒヨコ豆たちを彼の小鉢へと移す。
「はは、子供じゃないんですから」
先生は笑って、揚げ物に添えられた全てのパセリと、刺身の菊までも、こちらの取り皿にのせてきた。
政治と宗教以外の、でも天気よりはまだ立ち入った、『授業の進捗』とか『互いの部活のこと』とか『J1の試合』など、いつも通りの当たり障りのない雑談をする中で、
「うちの地元では、くじらを食べるんです」
鹿肉のヒレカツを齧った先生が、ふと思い出したように呟いた。
「少し似てる感じがします」
「へえー」
ピンクの断面の薄いカツに箸を伸ばし、口に含む。くじら肉には馴染みがないためよく分からないが、牛とも豚とも違う独特の癖があった。
「クジラもこんな感じなんですか」
「ええ、赤身は結構あっさりしてるんです。ベーコンとかしゃぶしゃぶ鍋のは脂っこくて、鯨油なんだなって実感するんですけど」
「食べてみたいな」
率直に述べた感想に、
「俺はそんなに好きじゃなかったです」
と先生は曖昧に笑う。
「そういえば、三丁目の熱帯魚の店って最近シャッターしまってますね。年中でめきんすくいやってたのに」
やや強引に話題が変わる。
「なんか駐車場にしちゃうらしいですね」
生徒から聞いた情報を返し、彼の故郷についての話はそこで終わった。
鍋のための陶器製のコンロがテーブルの真ん中に置かれ、蝋燭に似た固形燃料に店の人がチャッカマンで火をつけた。
すぐに土鍋も運ばれてきて、白ネギや赤身の肉が投入されていく中、背後からやけに大きな笑い声と掌を叩く音が響いた。
振り返って、視線をやると入口付近の座敷で、サラリーマンと思しきスーツ姿の団体客が騒いでいるのが見えた。
脇にキャリーケースが固められていて、大方出張先で羽目を外しているのだろう程度の関心で、また自分のテーブルへ向き直ると、岡本先生は座敷の方をじっと見つめたまま硬直していた。
「お知り合いでも?」
何気なく聞いた問いに、彼は我に返ったように、視線を外し、「いえ」と首を振った。
「少し知り合いに似ていて、でも違いました」
早口にそこまで言い切ると、忙しなくメニューを開き出す。
「やっぱり少し飲んでいいですか?」
「でも、なんか顔色あんまよくないですよ」
「全然ダイジョウブです」
すみません、と先生は即座に店員を呼び止め、ビールを頼む。
気軽に愚痴れないレベルで、あまり会いたくなかった知り合いがいるのではないか。と根拠もなく感じた。
店員に席を変えてほしいと頼もうかと思ったが、見渡す限り、混み合った店内に余分な席はなさそうだった。
店を出るにも、鍋はくつくつと炊き出したばかりだし、何より本人がいいと言っているから、どうやったって不自然になる。
「席替わってもらえませんか」
悩んだ結果、岡本先生に直接言った。
エアコンの風が強くて少し冷えてきてとか最もらしい理由を探したが、むしろ暑いくらいだったので、
「僕の座高的にアレとちょうど目が合ってしまって、なんだかちょっと」
店の首だけが飾られたシカのはく製を指す。岡本先生は首だけ小さく振り返り、
「確かにちょっと気になりますよね」
と少し笑って腰を上げた。
席が反対側になっても、やっぱり岡本先生はどこか落ち着かない様で、いつになくよく喋った。
「ほうじ茶はカフェインレスだと思って、夜に飲むようにしてたのに、実は緑茶と同じくらいのカフェイン量らしくて、すごくショックでした」とか、
「枕の高さをバスタオルを重ねて、自分好みにカスタマイズしようと、日々タオルを足したり、引いたりしていたんですが、だんだん心地いい高さも固さもよく分からなくなってきて、今はもう枕なしで寝てるんです」とか、
「走った後や目が疲れた時、空気の泡みたいなのが見えるのは、これは理科でいうところのなんという現象なんですか」など、アルコールのペースが加速するに応じ、彼にしては珍しく脈絡のない会話がマシンガンように展開される。
若干の戸惑いを感じながらも一方で、長年の気心知れた友達になれたような気分にも浸れ、正直そんなに悪い気はしなかったが、さすがに、
「フットサルは初心者でも本当に大丈夫なんでしょうか」
と今まであれだけ頑なに避けてきたフットサルチームについてまで、妙に明るい声で話し出した時には、この人は今、平常でないことだけはよく分かった。
自らに課した『酒が苦手』という初期設定すら忘れてしまったかのように、ハイボールに日本酒、ワインまで次々とグラスを空にしては、追加注文する。
一方で料理にはほとんど箸を付けないので、結局、紅葉鍋はほとんど自分が平らげることとなった。
「そろそろ出ましょうか」
ようやく料理があらかた片付いたところで、声をかけた途端に、岡本先生は早押しクイズのように、テーブルの端に伏せられた伝票のバインダーを半ばひったくるように引き寄せた。
「連れてきていただいたわけですし、それに、いつもお世話になっているので」
反応に少し驚く。
今まで、端数は適当にしろ支払いは必ず折半にしていた。
おごりおごられをしだすと、こちらも誘いづらくなるし、向こうもおごってもおごられても次の約束が発生してしまうためか、頑なに避けている節があった。
ちらりと入口付近のレジを見ると、会計は二組ほど並んでいて、少し混んでいるようだった。
当然、座敷の客はまだまだ帰る気配はない。
「申し訳ないんですが、先にエアコンをつけといてもらえませんか」
キーを取り出すと、岡本先生は少し怪訝そうな顔をした。
「効きが悪くて。あと、煙草用の小銭を作りたいんです」
念押しすれば、「分かりました」と再び伝票をテーブルに置いた。
「私は大分飲んでしまったので」
そう言って、財布ごと渡そうとするので、半ば強引にキーを彼の掌に押し付ける。
「後できっちり請求しますので」
先生はコートを手に抱え、忙しなく店を出ていった。
少し俯きがちに見えたのは、自分の邪推なのかは分からないが、そうだといいと思った。
会計を済ませ、駐車場まで戻ると、運転席で岡本先生がぼんやりしているのが見えた。
窓ガラスを指でノックする。はっとしたように先生は身を起こし、助手席に移動する。
「飴もらっちゃいました」
レジでもらった飴を一つ彼に渡す。色の違う小さなキューブが並んで二つ入っている。
「ああこれ、懐かしいですね」
先生は目を細め、透明の飴の袋をしばらく眺めると、なぜかこちらのコートのポケットに突っ込んできた。かなり酔っているのかもしれない。
「家の近くまで送りますよ」と申し出るが、
「駅で大丈夫です」と断られた。
「帰りに薬局で買うものがあって」
付け足された言葉に、それ以上食い下がるほど、酩酊状態という感じでもなかったので、カーナビの履歴を起動し、彼の自宅付近の駅をセットした。
居酒屋とは一転し、岡本先生はほとんど何も喋らなかった。
「寝てもいいですから」
わざわざそう言うのも、なんだか妙な気がして、間を埋めるため、ボリュームを絞ってラジオをかけた。特に関係もない高速道路の交通情報が淡々と流れる。
「窓を開けてもいいですか?」
走り出して少し経ってから、細い声が問う。
「もちろん」
運転席側から自動開閉のボタンを押す。
後は好きに調整するだろうと、横目で隣を見た時、街頭の灯りに照らされた彼の顔がひどく青ざめていることにようやく気づいた。
「気分悪いんじゃないんですか?」
「少しだけ」
力ない声が返ってきて、慌てる。
「エチケット袋がボックスに入ってます。道広くなったらすぐ停めますね」
「すみません……」
青い顔の先生は、車の揺れに耐えるようなゆっくりとした動作でグローブボックスを開けると、パンダの顔が付いたエチケット袋を取り出し、ぎゅっと握り締めた。
車の流れが途絶えたタイミングで、すぐに脇道へ逸れ、路肩に停車する。
助手席のシートベルトを勝手に外して、リクライニングを少し後ろに倒す。
「大丈夫ですか? 車の匂いとか俺、全く気にしないんで、全然吐いちゃってくださいね」
「ありがとうございます……、大丈夫です。ちょっと酔っただけなので」
「トラベルミンもありますよ、幼児用ですけど、ちゃんと酔ってからも効くやつで。あ、寒くはないですか」
後部座席から、キティちゃんのブランケットを引っ張り出して、彼の膝にかける。
「ほんとすみません……」
居たたまれないように先生は体を小さくした。過剰すぎたかと後悔する。
「あ、こちらこそすみません。姉の子供がよく酔うんで、つい条件反射で」
「姪っ子さん、いくつでしたっけ……?」
「小二なので、八歳?」
「八歳……」
しばし先生は絶句する。
「お恥ずかしいです。いい歳して、みっともない」
「いやいや、何歳でも体調崩すことくらい誰だってありますよ」
人間なんですから。とフォローで言ったつもりが、なぜか岡本先生の目がひどく驚いたように見開かれる。
何かまずいことを言っただろうかと焦るが、
「そうですね」と今にも消え入りそうな声と共に、彼は目元を片腕で覆った。
「お水、買ってきますね」
途中、自販機を見かけたことを思い出し、返事を待たずに、車を降りる。
五分ほど歩いて、暗闇でぽつりと発光する自販機まで辿り着く。
ナタデココや桃ジュースなどちょっとレアなラインナップが並ぶ。
さっき崩した小銭を入れ、水と、缶コーヒーと、自分用にフルフルゼリーも買った。
両手に抱え、車に戻ると、ガラス越しに見えた彼は眠っているようだった。目を閉じ、規則的に胸が小さく上下する。
ドアの開閉で起こしてしまうだろうから、車から離れ、ガードレールに腰かける。ペットボトルと缶を足元に立て、煙草に火を付けた。
お互い明日は休みで、別に急ぐ理由もない。
彼が酔っていることにどこか安心している自分がいた。酒が強くないと言った彼の言葉が、嘘ではないと信じられるから。
どうしてここまで、自分が彼からどう思われているのかを気にしてしまうのか未だに分からなかった。もはや執着と呼べるほどに。
扉の閉まる音がして振り返ると、岡本先生が車から降りてきた。
「大丈夫ですか? 気分マシになりました?」
「はい、おかげ様で。迷惑かけてすみません」
弱々しく頭を下げ、彼は隣のガードレールに腰かけた。
「もらってもいいですか?」
彼の指が、自身の口の端を軽く叩く。
求められたのは初めてで、少し驚く。
「吸うんでしたっけ?」
胸ポケットから百円ライターと箱ごと差し出す。
「いえ、全く」
答えながら、先生は煙草を一本引き抜いて、箱が返される。
口にくわえて、慣れない手つきでカチカチとライターを鳴らすが、なかなか火は付かない。
引き取って、掌で覆うように風をよけて、火を差し出す。
「ああ、すみません……どうも」
どこか恐る恐るという感じで顔が近づいてきて、赤い灯りが煙草の先へと移る。
白い煙が弱く立ち昇り、彼がふっと息を吸い込んだ瞬間、ゴホゴホっと豪快にむせた。
「はは、なんか新鮮」
つい敬語を忘れ、素で笑ってしまうと、
「なんだか悪いことをしてる気分です」
と彼も笑った。
「もう、とっくに大人なのに」
唇の間に、また煙草が挟まれる。
「先生はいつから煙草を始めたんですか」
ふいに訊ねられて、間髪容れず回答する。
「もちろんお酒も煙草も二十歳になってからですよ……もちろん」
繰り返した念押しに、先生が軽く笑う。
「はは、そうじゃなくて、きっかけ的な」
「なんだ、そういう意味ですか」
釣られて笑って、いつだったかな。と記憶を辿る。
「元々親も喫煙者だったし、大学のサークルとか周りも吸ってたんでなんか自然と。税金も上がったし、やめたいんですけどねえー」
「なるほど」
「そういうのってありませんでしたか?」
携帯灰皿を差し出すと、
「なかったですねえ」
と彼は慎重な手つきで灰をトントンと落とす。
「大学の時はボランティアサークルだったんですけど、呑みとかは全然行ってませんでしたね。塾のバイトをフルで詰めてて」
「へえー、なんか先生っぽいですね」
「そうですか?」
「うん、真面目で一生懸命な感じが」
妙な間が開いて、一瞬会話が途切れた。
「車があると便利ですね。こんな遠くに行けて」
暗い空を見つめながら、岡本先生がぽつりと言った。
「夜中にふらっとなんて、子供の時には想像もできませんでした」
冷たい夜の風が彼の髪を揺らす。
『子供の時』と言った時の岡本先生の表情は、昨日の会議の時と少し似ていた。
「俺も買ってちゃんと練習しようかな」
ぼんやり呟かれた独り言に、
「どこにでも行きますよ」
と反射的に返していた。
『いつでも。どこでも』
そう続けかけて、ちょっと気持ち悪いかと思い直し、素っ気なく付け足す。
「都合が合えば」
「悪いですよ」
岡本先生はこちらを見ないまま、気怠げに煙を吐く。
推察するまでもなく、申し訳なさではなくて、面倒くさいということが丸わかりだった。
「僕は逃げじゃないと思います」
脈絡なく告げる。
「清水さんのことも、保健室のことも」
今なら、触れられる気がした。模範的な先生がひた隠したがる、もっと核の部分に。
瞳がこちらを見る。
『お前に何が分かんだよ』
彼の声が、体に響く。
『お前なんかに』
その目は、確かにそう言っていた。
「優しいな、ありがとうございます」
彼はいつもの人当たりのいい笑みを浮かべてから、視線は星もない濁った空へと逸らされる。
時々、この先生に洗いざらい何もかもを告白したくなる。
過去のことも、自分がどういう人間か、知られたくないと思っているのに、すべてを見透かされたくて、受け入れられたいのに、突き放してほしい。
幼さゆえの過ちだとか、誰でもありえる体験だとか、過ぎた時間を理由に正当化なんてせず、𠮟ってほしい。許されない過ちだと。
彼に嫌われていると自覚しながら、離れがたい理由を本当はもう知っていた。
この人の隣にいると安心する。自分がもう二度と間違えない気がするから。
「ねだっておいて、すみません」
先生が、まだ長い煙草を灰皿の革へと押し付けた。
「なんか急に、吸ってみたくなってしまって」
「全然、無理する様なものではないですから」
そう言いかけた矢先、彼の手がすっとこちらに伸びてきて、何の前振りもなく、コートのポケットに突っ込まれた。
声を出す間もなく、
「これって、味違うんでしたっけ」
先程、渡した飴が取り出される。やっぱり相当酔っているようだ。
「んー、どうでしょう。色的にはみかんとイチゴって感じですね」
「俺はミカンが好きです」
高らかに宣言するので、てっきりいちごの方をくれる流れかと思ったら、先生は飴の封を切ると、ドロップを二つとも一気に口に放り込んだ。
舐め分けているのか口を妙な形にもごもごさせる。
「どうですか?」
「似たようなもんですね」
生真面目な顔で答えながら、ゴミを持つ手は、今度は自分のポケットへ突っ込んでいた。
帰りの車の中では、互いにもう一言もしゃべらなかった。
FM放送のラジオから一度も聞いたことのない、何を伝えているのかも分からない、物憂げな洋楽が流れる。
彼はもう断りを入れることなく窓を開けて、フルフルゼリーの缶を手に、これといって何の変哲もない暗い外を眺めていた。
22:10
助手席から冬の冷たい風が差し込んでくる。
親し気に話していた居酒屋の時よりも、未だ距離を測りかねるこの息苦しさが、心地よく思えた。今はまだ。
【おわり】