七夕のふたり

夕暮れ時、授業を終えた夢乃が早都子と共に寄宿舎に戻ると、寮生たちがはしゃぎながら玄関先に集まっていた。
何事かと見れば、傘立てに使う素焼きの甕に、見上げる長さの笹が立てられている。
『英語の成績が上がりますように』『良縁に恵まれますように』『お祖母様のご病気がよくなりますように』『雑誌の懸賞に当たりますように』――少女たちの願い事を記した短冊が、青々とした葉の間に揺れていた。
「そういえば、今日は七夕だったっけ」
早都子が呟くと、脚立に登って短冊を吊るしていた寮母のキエさんが振り返った。
「さとちゃん、夢乃さん、おかえりなさい。談話室に短冊があるから、よかったら二人もお願いごとを書いてね」
「いいわね! 早都子もやろう?」
実家の屋敷でも、使用人たちが七夕の笹を立ててはいたが、夢乃はそこに『お稽古ごとが上達しますように』としか書けなかった。
将来の夢を自覚したあとでも、厳しい母の目があったために、『女優になれますように』と書くのは憚られた。
けれど今なら、織姫と彦星に心からの願いを託せる。
短冊に書くだけで夢が叶うなんて、子供じみたことを信じているわけではないが、こういった機会があるたびに、決意を新たにすることが大切なのだ。神社仏閣に立ち寄って手を合わせるのも同じ理由だ。
しかし。
「私はいい」
風呂敷に包んだ文箱を抱え、早都子は逃げるように二階に上がってしまった。
置きざりにされた形の夢乃は、眉間にむっと皺を寄せた。
(そうよね。あの子はそういう子だった)
先月の授業中の事件以来、早都子が小説を書いていることは同じ組の生徒には知られているし、寄宿舎内でも噂は巡っているらしい。
別に誰も馬鹿にしたりしないのに、早都子はいまだに小説を書くことをどこかで恥ずかしく思っているのだ。人目に晒される短冊に、『作家になりたい』などと堂々と書けるわけもない。
夢乃が談話室に向かうと、ちょうど他には誰もいなかった。
テーブルに置かれた短冊の束から一枚を取り、硯の墨を筆に含ませる。
『浅草オペラの歴史に名を残す、一流の女優になれますように』
力強く書き終え、墨が乾くのを待つ間に考えるのは、やはり早都子のことだった。
最近の夢乃は、ルームメイトである早都子が机に向かい、創作用の帳面を広げる姿を毎日見ている。誰にも読ませるつもりはないと言いながら、満足のいく作品にしようと何度も書き直し、四苦八苦しているのは伝わってくる。
(……ほんと、手間のかかる子なんだから)
夢乃は溜息をつき、仏頂面で新たな短冊に手を伸ばした。
その日の夜半、夢乃はふと目を覚ました。
夜風の流れを感じて顔を上げれば、暗い部屋の中、早都子が開け放した出窓のそばに立っていた。
三つ編みを肩に流した浴衣の後ろ姿が、月明かりに白く浮かび上がる。
早都子が見上げる夜空には、銀の砂を撒いたような天の川が広がっていた。
唇を引き結んだ真剣な横顔に、何かを祈っているのだとすぐにわかった。
「――この意地っ張り」
声をかけると、早都子はぎょっとしたようにこちらを見た。
夢乃はベッドを抜け出して隣に並び、出窓に頬杖をついて空を眺めた。
「都合よく流れ星が流れてきたりは……しないわよねぇ」
「なんなの、いきなり」
「でも大丈夫よ。早都子の願いは叶うから」
「だから、ねぇ、なんなの⁉」
声をひそめて叫ぶ早都子の横で、夢乃はふふっと笑った。
ここからでは見えないが、寄宿舎の玄関先には今も七夕の笹が飾られているはずだ。
夢乃自身の願いを書いた短冊に隠れるようにして、そこにはもう一枚の短冊が吊るされている。
『私の頑固なルームメイトが、自分の望みをちゃんと認められるようになりますように』
どんなに大きな夢も、荒唐無稽な願いも、己の心に素直にならなければ始まらない。
そのための一歩を、早都子の代わりに夢乃は祈った。
頑固で面倒で不器用な少女だが、そのすべてが気になって、どうにも放っておけないから。
「もう……意味わかんない」
追及を諦めたらしく、早都子は再び空を見上げた。
薄いそばかすの浮いた頬が、興奮か羞恥にか赤らんでいる。
凛々しさを感じる切れ長の目には、輝く天の川が映り込んでいた。
無数の星が封じられたその瞳を見つめながら、夢乃の耳には、二枚の短冊が重なって揺れるさやかな音が聞こえた気がした。
【おわり】