経理 松岡沙世

「名鉄の株を持ってると、リトルワールドの入場招待券が貰えるんですよ」
水戸研磨工業の経理、松岡沙世は請求書を起こしながら言った。
九月には感じられた夏の名残も次第に秋へと置き換わり、十月ともなればすっかり紅葉が燃えている。社屋へ差し込む日射しは柔らかで、そして丸かった。夏には暑い会社のブルゾンが、今の時期には丁度よい。
同じブルゾンを着た、社長の水戸友子が松岡を見た。
「株主優待? いいじゃない」
友子の反応に、いやあでも、と松岡は渋い顔を作ってみせる。
「正直、ちょっと持て余すんですよね。そう何枚もあっても困るっていうか」
「贅沢ねえ。ていうか、松ちゃんって名鉄の株主なのね」
「あ、株を持ってるのはうちの父です。優待は私が勝手に使ってるだけで」
「ちょっと。ただで貰っといてあれこれ言うんじゃないわよ」
社長にじっとりと睨まれ、へへ、と経理は頭を搔いた。
向かいの事務机では、税理士が黙々と作業をしている。月に一度、こうして会社の帳簿や請求書をあらために訪うのだ。
会話の発端もそもそも、会社が百貨店から購入した商品について、彼女が友子に尋ねたことがきっかけだった。そこから友子と松岡の間で百貨店の話が始まり、名鉄百貨店を経由して、気付けば名鉄の話に変わっている。
「友子さん、よかったらいりますか?」
「リトルワールドねえ。嬉しいけど、今は行ける状態じゃないし」
友子が残念そうに肩をすくめるのを見て、松岡は笑顔を引っ込めた。そうだった。確かに今、友子にそんな余裕はないだろう。
窓の外で空が高く遠く、ひつじ雲を吹き流している。秋口に水戸研磨工業の事件を書き立てたマスコミも、近頃は別の話題へ流れていったものの、会社も友子も、まだまだ慌ただしい渦中にいる。
無神経ですみません、と松岡が小さく謝ると、友子は笑って受け流した。
「私のことは気にしなくていいから。松ちゃんが楽しんできたらいいじゃない」
「そう、ですかね。でも、行くにしたって一人はちょっと」
「友達を誘ったらいいでしょ」
「みんな結婚してたり県外だったり、あとダイエット中だったりで捕まらないんです。リトルワールドって今、世界のスイーツ展をやってますから」
「世界のスイーツ展」
不意に、正面から鸚鵡返しが届いた。
税理士の鮫島桐子だ。
彼女の方を振り向くと、相手もパソコンのモニターから顔を上げていた。身長一八六センチ。座っていてもその背は芍薬のように高く伸びている。表情の薄い顔立ちの中で、切れ長の双眸が今日も鋭い。
鮫島はこの数か月、会社にまつわる一連の出来事を、全てその目で見抜いてきた。ポーカーフェイスの快刀乱麻は同性から見ても恰好よく、松岡は内心密かに憧れている。
ただ、今の鮫島はポーカーフェイスというほど無表情でもなく、心なしかどこか色めいているように見えた。
——はて?
松岡は眼鏡をかけ直した。
「先生、どうかしました?」
「いえ。失礼しました」
そう答えるものの、明らかにそわついている。
未知の反応を前に、松岡の頭の中で疑問符が乱れ飛んだ。鮫島といえば、機械よりも精確に資料を捌くクールビューティー。感情が表に出ているところなど見たことがない。
——いや違う。ある。
松岡はかぶりを振った。前に一度、特大パフェを笑顔で平らげているところへ通りかかったことがある。見なかったことにしていたので忘れていたが、あの時の様子と今の様子は、なんとなく重なる気がした。
もしかして、もしかするのだろうか。
松岡は冗談半分、期待半分で言葉を投げた。
「先生、よかったら一緒に行きませんか?」
「お願いします」
なんと、即答。
バッグからいそいそと手帳を取り出し、いつがよいでしょうか、と鮫島が尋ねる。予想を超えた反応に松岡は呆気に取られ、へえ、と気の抜けた返事をした。
あとは早いもので、来週末に日取りを定め、互いの連絡先を交換するまでに二分もかからなかった。手帳と携帯をしまった鮫島は、それから何事もなかったかのように税理士の仕事へ戻っていく。
松岡はというと、静かな感動で動けずにいた。自分は鮫島から、休日に一緒に出掛けてもよい相手だと認識されているらしい。もはや仲良し、ほぼ友達ではないだろうか。
「……んふ」
思わず声が漏れ、友子が不気味そうにこちらを見る。いけない。松岡は咳払いで誤魔化そうとした。
だが、顔がにやけるのまでは、誤魔化せそうになかった。
*
愛知県犬山市にあるリトルワールドは、世界の文化や暮らしをテーマとした野外民族博物館だ。名鉄グループが運営しており、敷地面積およそ百二十三万平米。東京ディズニーランドとユニバーサル・スタジオ・ジャパンがすっぽりと収まるほどの広さを誇る。
雰囲気としては、博物館というよりも公園だろうか。屋外の道に沿って世界各地の建物が展示される様は、ちょっとした万国博覧会のようでもある。
迎えた翌週末は、からりとした秋晴れだった。鮫島に名古屋駅で拾ってもらい、車に揺られること四十分。リトルワールドの駐車場に、二人は開館きっかり五分前に辿り着く。
松岡は助手席から降りると、一つ伸びをした。風がそよそよと木々をなびかせ、軽やかに葉を躍らせている。
「いやあ、着きましたね。先生、運転ありがとうございました」
「いえ。招待券をいただいたんですから、これくらいは」
「今更ですけど、車の中で私、うるさくなかったですか?」
「いえ。楽しかったです」
道中はほぼ、松岡のお喋り劇場と化していた。鮫島相手に語りたいことが尽きず、昨日の夕食の献立から今ハマっている漫画の推しどころまで、とにかく話していたと思う。
今日の鮫島は、白いブラウスにデニムのパンツを合わせていた。歩きやすい恰好でお願いします、とあらかじめ松岡が伝えておいたこともあり、足元はスニーカーだ。
——やっぱ足、長いなあ。
彼女を見て、松岡は心の中で呟いた。相手の股下と、自分のへその位置がほぼ同じ高さにある。『小股の切れ上がった』という表現は、なるほどこういう人に使うのかもしれない。衣装を着せたらさぞ似合うだろう。
松岡は期待に胸を膨らませた。
リトルワールドは、現地の伝統料理を味わう食体験と、民族衣装を着る衣装体験に力を入れている。食体験としてグルメイベントも定期的に開催されており、鮫島が反応した世界のスイーツ展もその一つだ。
そして、松岡が先週から今日まで楽しみにしていたのは、実は衣装体験の方だった。自分が着るのはもちろん、何より鮫島に着せてみたい。モデル顔負けの知り合いの衣装姿など、そうそう見られるものではない。
眼鏡の奥に邪な好奇心を携え、松岡は鮫島と入口ゲートへ向かった。
丁度、開館時刻を迎えたところのようだ。混み合うチケット売り場をとばし、招待券をスタッフに渡してゲートを抜ける。聞いたことのない海外の歌が、エントランスのスピーカーから流れていた。
歩きながら、松岡は館内マップをガサガサと開く。
「さあて、どうやって見て回りましょうか。やっぱり近場から順番かな」
「いえ。まずはアフリカに行きたいです」
「アフリカ?」
鮫島を見上げた。
エントランスを抜けた先には、緑生い茂る散歩道が伸びている。一周およそ二・五キロメートルのこの道沿いに、各地域の景観が整備されているのだ。マップによると、アフリカエリアはなんと敷地の最奥にあった。
「なんでアフリカなんですか?」
「今回のスイーツ展の目玉に、ダチョウの卵のパフェがあるそうです。どんなものか、気になりませんか」
確かに、イベントチラシにはそんな写真が載っていた気がする。
「はあ、まあ。それが、アフリカエリアで売ってるんですか?」
「ええ。ただし、一日十食限定です。遅れてしまうと食べられません」
「えっ、少なっ」
松岡の反応に、鮫島は頷いた。歩調を早め、きびきびと道を進んでいく。置いていかれまいと、松岡も早歩きになって横に並んだ。
「間に合いますかね」
「どうでしょう。ですが、行かないことには始まりません。館内の回り方は、パフェを食べてから決めましょう」
「なるほど、分かりました」
前を歩いていた家族連れを追い越し、鮫島は更にペースを上げる。歩幅が違いすぎるせいで、こちらはもはや駆け足状態だ。
明日の筋肉痛は避けられそうになかった。
一キロメートル以上走っただろうか。やがてアフリカエリアに到達し、黄色い家屋の前で、鮫島は立ち止まる。アフリカ各地の文化を紹介する展示場、アフリカンプラザだ。彼女の隣で、松岡は膝に手をついて息を弾ませた。
「ここです。どうやら、私たちが一番乗りのようです」
「ひい、やりましたね」
松岡が呼吸を整えるのを待ち、鮫島は入口のガラス扉を引く。
建物の一角に、フードコートのような飲食店があった。鮫島が注文口でパフェを二つ頼むかたわら、松岡は壁に掲示されたメニューをちらりと眺める。
ワニの唐揚げ、エミューのコロッケ、カンガルーの串焼き。強烈な字面がメニューに並ぶ。なんと、知っている肉が一つもない。
「うわあすごい。こんなのもあるんだ」
「ユニークですね。味の想像がつきません」
「ちょっと気になるなあ。でも食べたことがないから、これがワニです、って言われて鶏肉が出てきても気付かないかも」
「いつか、現地でワニを食べた時に気付くでしょうか」
まるでウミガメのスープだ。松岡は手近なテーブルの椅子を引きながら笑った。
「先生は海外旅行って行きますか?」
「いえ。長いこと行っていません。フランス、ベルギー、スイス。行きたい国は多いのですが。松岡さんはいかがですか」
「実は私、飛行機が苦手なんですよ。ほら、乗ると耳が変になるじゃないですか。落ちたら怖いし。だから私も海外はあんまりです」
前田ちゃんはよく行ってたんですけどね、と言いかけ、咄嗟に言葉を変える。
「前だ、ったか、沖縄に行きたくて。でも飛行機は嫌だから、よっしゃフェリーで行ってやる、って乗ったことがあるんですけど」
「ええ」
「そしたら、今度は船酔いしました」
「それは、ままなりませんね」
席で話しながら、それから五分ほど待っただろうか。いよいよ受け渡し口で番号を呼ばれた。鮫島が代表して立ち上がり、トレイを二つ持って戻ってくる。
——でかっ。
テーブルに置かれたパフェを見るなり、松岡は目を剥いた。
上半分を割り取られた巨大な卵が、でんとトレイの上に居座っている。これがダチョウの卵か。ハンドボールくらいのサイズ感で、鳥よりもティラノサウルスが生まれてきそうなインパクトがあった。
卵の殻をそのまま容器に見立て、ナツメヤシなどのアフリカンフルーツがパフェらしく盛られている。その下に見えるのは、ダチョウの卵のプリンだ。
「すごっ。先生これ、めっちゃでかいじゃないですか」
松岡は興奮して携帯のカメラを構えた。
「本当ですね。実物は私も初めて見ました」
「先生は写真、撮らないんですか?」
「ええ。見て楽しむだけで十分です」
撮る時間すら惜しむように合掌し、鮫島はいそいそとスプーンに手を伸ばす。いただきます、と唱えてパフェを掬い、一口。
彼女の顔からきつさが消えた。
目尻が緩み、柔らかい笑顔が浮かぶ。まるで魔法のようだった。ギャップが大きすぎて少し怖い。夏にパーラーで見かけた時も、鮫島はこんな笑顔だった。そうだ。確かあの日は、前田ともばったり会ったのだったか。
鮫島と目が合う。松岡は慌てて意識を引き戻した。
「美味しいです」
「え、あ、よかった。急いだ甲斐がありましたね」
「ええ。松岡さんも召し上がってください」
「はい。いただきます」
携帯からスプーンに持ち替え、松岡はパフェのプリンを掬う。アフリカンフルーツのトロピカルな香りとともに、薄黄色のカスタードがふるりと震えた。いざ食べると、濃厚なミルクの味わいが口一杯に広がる。
「えっ、うまっ」
「見た目重視で大味なのかと思いきや、全然違うでしょう」
「これは、はい。そうですね。高いプリンの味がします」
話しながら二口目、三口目をスプーンで掬った。卵のサイズのとおり、パフェはかなり大きいのだが、上に盛られたフルーツがアクセントになっていて食べ飽きない。
「先生は甘い物、お好きなんですか?」
「ええ。大好きです。世界中のスイーツが食べられるなんて、今日は夢のようです」
「なんていうかその、意外でした」
「自分から言うのも恥ずかしいですから、普段は伏せています。ですが、甘い物を食べている時が一番幸せです」
「そういえば前、うちの会社からお中元のクッキーを貰って帰ってましたよね」
「ええ。実はあの時、嬉しくて小躍りしてしまいました」
松岡は思わず吹き出した。
月次訪問で会う時はクールな高嶺の花のように思えていたのだが、こうして話していると人間味があり、親しみやすい。パフェの底が見えだした頃には、笑顔の先生って可愛いな、と思うようにすらなっていた。
空席だった店内も、徐々に埋まってくる。
周りが賑やかになってきた。やはり目当てはダチョウのようで、パフェはありますか、という声が注文口から度々聞こえてくる。やがて店員の手によって『ダチョウの卵完売』の貼り紙が出されると、今度は悲鳴が上がるようになった。
パフェを食べ終えた鮫島は、既に仏頂面に戻っている。松岡が最後の一口を味わったところで、彼女は丁寧に手を合わせた。
「ご馳走様でした」
「ご馳走様でした。ふう、満足満足」
「ええ。さて、次は何をいただきましょうか」
「え、ちょっちょちょちょ」
グルメイベントのチラシを広げた税理士を、松岡は慌てて止める。
「どうしましたか」
「先生、ちょっと間隔空けましょうよ。お腹が破れます」
「そうでしょうか。この調子で、全部のスイーツを巡れたらと思ったのですが」
「いやいやいや。パフェ、結構ボリュームありましたし全部はきついですって。とりあえず、ちょっと衣装体験でもしてから次に回りませんか? お腹を休ませないと」
現状、パフェが胃の半分を占めていた。まだ開館したばかりだというのに、このペースで食べて回るとなると早晩、吐きかねない。
鮫島は黙り、しばし考えているようだったが、やがて頷くとチラシをしまった。
「承知しました。どこの衣装にしましょうか」
「やったっ。じゃあ、トルコはどうですか」
アフリカエリアへ向かう途中、トルコエリアを通り過ぎていた。中東のエキゾチックな衣装に身を包んだ鮫島を、松岡は是非とも拝みたい。
「承知しました。では、向かいましょう」
こちらの邪念など露知らず、鮫島はバッグを持って立ち上がる。少し重くなった腹部をさすりながら、松岡もあとに続いた。
アフリカンプラザから、来た道を引き返すこと数百メートル。木立を抜けると、イスラーム建築らしい、ドーム屋根の建物が見えてくる。
衣装の貸し出しコーナーは、その隣の建物にあった。トルコ絨毯の敷かれたオリエンタルな空間の中で、そこはさながらアラビアンナイトの衣装店だ。
オスマン帝国の宮殿衣裳や舞踊衣装、小物の類がずらりと並んでいた。基本的にどれも色鮮やかで、金の刺繍で飾り立てられている。
スタッフに料金を支払い、各々好きな衣装を選ぶ。基本的に、今着ている服の上から着用するお手軽体験なので、着替えにさほど時間は要しない。
「……おお」
そばに置かれている姿見に体を映し、松岡はしみじみと声を漏らした。カフタンと呼ばれる豪奢なビロードのガウンを纏った姿は、なかなかどうしてサマになっている。手が隠れるほど長い袖がエレガントで、トルコのお嬢様といった気分だ。
「先生、私どうですかね?」
「似合っています。お伽話の世界から抜け出してきたようです」
振り向く松岡の横に、異国情緒溢れる美人が現れた。
同じくグリーンのカフタンを纏っているのだが、本当に同じ服だろうか。頭身が高いおかげで、衣装の映え方がまるで違う。ガウンがゆったりとした美しいシルエットを作り、そこから長い足がすらりと覗いている。ベルトを締める腰の位置が高い。
その場に立っているだけで、トルコの笛と鐘の音が聞こえてくる気がした。
「やば。先生、エグいほど似合いますね」
「そうでしょうか。ありがとうございます」
「ちょっ、一緒に写真撮りましょう。写真。外に撮影エリアありましたから」
興奮のまま松岡は鮫島の手を引いて屋外へ連れ出した。大理石の敷かれた庭園で、噴水が静かな水音を奏でている。その前に彼女を立たせ、自身も隣に並ぶ。
携帯のインカメラを起動させると、松岡は腕を伸ばした。
「はい、撮ります。あ、先生の背だと見切れちゃうので、ちょっと屈んでもらえますか」
「こうですか」
「そうです。私にくっつく感じで。ついでにスマイル一つお願いします」
「笑っています」
口角が一ミリも上がっていない。
「先生、パフェの時の笑顔が欲しいです」
「すみません。意識して笑うのは難しいです」
「ぐぬぬ。まあ、まずは一枚、撮りますね」
かしゃり。
シャッター音が鳴り、写真が携帯に保存される。
きらびやかな宮殿衣装に身を包んだ、笑顔の松岡と真顔の鮫島。これはこれで面白いツーショットのような気がした。画面に表示された写真を二人で覗く。
「素敵ですね。雰囲気があります」
「へへ、眼福。やっぱり先生かっこいいなあ」
「松岡さんこそ。ただ、上から着ているだけですから、足元はそのままになってしまいますね。スニーカーが見えると、少しおかしいでしょうか」
「着やすさ優先ですから、仕方ないですよ。リトルワールドマニアともなると、撮影用に靴を別に用意するらしいですけど。でも、足元なんて全然気にならないし、先生、すごくいいです。ちょっと流し目な感じでこっちに視線貰えますか」
「こうですか」
——うひょ。
剃刀よりも鋭い眼差しがこちらを向く。冷え冷えする視線に松岡はぞくぞくした。
「いいですねえ。先生、いいですねえ」
携帯をアウトカメラに切り替え、松岡は鮫島を連写する。
「先生、今日は全部のエリアで衣装体験しましょうよ」
「それは、さすがに大変でしょう」
全エリアのスイーツ制覇を目論んでいた女が、一体何を言っているのだろう。
ここで折れてはいけない。松岡は食い下がった。
「じゃあ、一食一着。スイーツ一つ食べたら、一つ衣装を着るってことで」
「一食一着、ですか」
「はい。園内を回るペースとしても、いい感じじゃないですかね」
鮫島が顎に手を添えて黙考する。ややあってから、承知しました、と返事があった。
「では、このあとはハプサをいただきましょう」
「なんですかそれ」
「糖蜜を緩く固めたトルコのお菓子、でしょうか。私も食べたことはないのですが」
「へええ、分かりました。でもその前に、もう少し撮らせてください」
再びインカメラに戻し、松岡はレンズに向かってポーズを取る。隣に並ぶ鮫島が、笑顔ゼロのままピースをしてくれた。
かしゃり。秋の空に、シャッター音が軽快に響いて広がった。
*
「先生、中華エリアに行きましょう。チャイナドレスありますよ」
「松岡さん、近くで韓国のホットクが食べられます。是非ともいただきたいです」
「あっ、今度は中南米エリアどうですか。刺繍たっぷりふわふわメキシカンワンピース。これで踊ったら絶対可愛い」
「インドネシアでは、ティムスというスイートポテトを提供しているようです。これも気になります」
互いに希望を出し合いながら、松岡と鮫島はリトルワールドを巡っていく。
十時の開園から既に太陽は南中を過ぎ、入館者の数も増えてきた。思い思いに敷地を散策し、家族や友人とはしゃいでいる。
とりわけ、ヨーロッパエリアは賑わっていた。
やはりこの地域は人気があるのだろう。広場を中心にヨーロッパらしい木組みの家が並び、洋瓦の屋根は童話の世界を思わせる。周りをぐるりと眺めるだけでも楽しい。
フォトスポットもそこここに用意され、広場ではドレス姿の母親が、空腹を訴える小さな王子様そっちのけで自撮りをしていたり、友達グループで来たらしい大学生が、互いの衣装を撮り合ったりしていた。
貸し出しコーナーを訪ねたところ、取り揃えている服の数も段違いだった。伝統的な日用衣装から、スペインの火祭り、ブルガリアのバラ祭りといった祝祭衣装まで、他のエリアにはない充実ぶりに、松岡の口からため息が漏れる。
「すごい。やっぱり、衣装体験といえばヨーロッパですね。見てください。白雪姫みたいなドレスがありますよ」
「ええ。松岡さんなら似合うと思います」
「まさか。私は毒リンゴを食わせる衣装の方が似合いますよ。さあて、何にしようかな。先生は着てみたい服ってありますか?」
「では、この服はいかがでしょう。スニーカーを履いていても馴染むかもしれません」
鮫島が指差したのは、ドイツのディアンドルだった。白いブラウスに、デコルテの開いたジャンパースカートとエプロン。日本でも、オクトーバーフェスでしばしば見かけるものだ。もちろん、松岡に否やはなかった。
スタッフに伝えて衣装を試着すると、エプロンの紐で胴がきっちりと締められ、かなりメリハリの利いたシルエットとなる。スカートの裾がふわりと綺麗に広がった。自分で言うのも口幅ったいが、意外と悪くない。
隣の鮫島はというと、当然のように着こなしていた。やはり、背が高いと着映えする。
「やっぱり先生、何着ても似合いますね」
「ありがとうございます。松岡さんも可愛らしいです」
「へへ、ありがとうございます」
エプロンを揺らして広場に出た。どこで撮ろうかと、松岡は周りを見渡す。鮫島と二人で着ているため、気恥ずかしさは分散されるものの、賑やかな場所へ衣装姿を晒すのは、やはり少々こそばゆい。
建物の前も、クレープショップが隣接していてギャラリーが多そうだ。できるだけ静かで、それでいて絵になる場所はないものか。松岡はきょろきょろと首を回した。
ベンチで語らうカップル。犬を連れた夫婦。ベビーカーを押す家族連れ。場所を探すはずが、つい人の動きの方を見てしまう。クレープを持った男の子が、興奮して走り回っているのが目に留まった。
「お母さん、こっちこっちっ」
小学校低学年くらいだ。よそ見をしながら芝生を突っ切り、松岡の脇を走り抜ける。その線上には、鮫島の背中があった。
ぶつかる。
「危ないっ」
松岡は反射的に腕を伸ばし、子供の肩を摑んだ。
ぐっ、と腕に力がかかる。筋を痛めそうな思いをしながら、男の子を引き留めた。ぽとりと、弾みで子供の手からクレープが落ちる。
「松岡さん」
鮫島が声に気付き、こちらへ振り向いた。松岡を見、次いで子供と、そしてクレープを見る。それだけで状況を察したらしい。彼女は子供の目線にしゃがみ込んだ。
「僕。走ったら、危ないでしょう」
「……ひ」
おそらく、鮫島は優しく注意したつもりなのだろう。だが、いかんせん猛禽じみた迫力があった。肩を摑まれて呆けていた子供の目に、みるみる恐怖が浮かんでいく。
あ、泣く。そう思った時には遅かった。
「わあああああおかあさあああああんっ」
火が付いたようだった。なだめ方など松岡は知らない。泣きだした児童にあたふたしながらも、やっぱ先生って怖がられるんだな、と頭の一部はわりあい冷静だ。当の鮫島は、真顔のまま固まっている。
「ちょっと、うちの子に何するんですかっ」
そこへ、ガツガツとハイヒールを鳴らして女性が駆け寄ってきた。スウェットの上下に金髪。走る度に、肩に掛けたトートバッグが重たく跳ねる。
女性は松岡の手からひったくるように、強く子供を引き寄せた。
「変なことしないでちょうだいっ」
「いや、変なって、私は何も」
「警察呼びますよっ」
不審者と決めつけ、鼻息も荒く吠えたてる。どうしたものかと閉口したところへ、不意に芝生の影が長く伸びた。
鮫島が立ち上がったのだ。
「誤解です」
「は?」
「あなたのお子さんが私に突っ込んできたのを、彼女が止めてくれました」
相手ははたと静かになった。こちらを見たので、松岡は何度も頷く。
みるみる、怒気が萎んでいくのが分かった。気まずそうな、勘違いに気付いたような表情。泣きじゃくる子供の声が、ざわざわとした喧噪の中に混じる。
松岡と鮫島が黙っていると、果たして彼女は誤魔化すように、息子の肩をさすった。
「やだ、もう。走っちゃだめじゃない。お姉さんたちに怒られちゃうの、怖いでしょ?」
あっち行こうね、と猫撫で声で立ち上がり、目線を逸らしたままそそくさとこの場を去ろうとする。
——いや、謝らんのかい。
松岡は半眼した。喧嘩腰でつっかかってきておいて、それはないだろう。もやつく思いを察したように、再び鮫島から声が上がる。
「待ってください」
母子の足が止まった。
「……なんですか?」
「走ってはいけないのは、私たちが怒るからではなく、危ないからでしょう」
「は? 何、いきなり」
「先ほどの態度は、松岡さんに失礼です」
「ウケる。ドレス着てはしゃぐ女から説教とか、きついんですけど」
「それは」
鮫島は言葉を切り、嘲弄する女を見る。
「あなたもですよね」
鋭利な視線に射貫かれ、相手は体を強張らせた。
「あたしも?」
「今、あなたが履いている靴ですが」
蛇が這うように、鮫島の視線がゆっくりと下っていく。
「その足元で、館内を歩き回るのは大変でしょう。衣装体験のために持ち込んだものを、履いたままなのではありませんか」
女性はハイヒールを履いた足で半歩後ずさった。
「別になん、だっていいでしょ」
「上下のスウェットにハイヒール。ちぐはぐな印象があります。元々の靴は、そのトートバッグの中でしょうか。バッグの口から黒い棒が覗いています。私には携帯用の簡易三脚に見えますが、衣装撮影はお好きですか」
「ぐ」
「レタッチに夢中で、お子さんが走り回っているのにも気付きませんでしたか」
淡々と詰められ、相手の顔が朱に染まった。図星なのだろう。高くそびえるような背丈を前に、女性は顔を赤くさせ、青くさせる。
やがて、子供の手を引いて駆け出した。
「あっくん、行こっ」
親子の姿が、雑踏に紛れて消える。鮫島は何事もなかったように、松岡へ向き直った。
「では、私たちも行きましょう」
「え、あ、はい」
呆気に取られつつ、こくりと頷く。一連の騒ぎのせいで、野次馬が多くなっていた。エプロンを翻し、揃ってその場を離れる。
改めて撮影場所を探しながら、もやついていた心はどこか晴れやかだった。
そして晴れやかな気持ちのまま、衣装体験後のスイーツタイムに突入する。
クレープショップで、二人はイベントメニューのクレームアンジュを注文した。淡雪のようにふんわりとしたレアチーズケーキだ。
空いている屋外席を見つけ、向かい合って腰を下ろす。早速一口いただくと、クリームチーズが口の中でしゅわっと優しくほどけた。無表情だった鮫島の目尻が緩む。
幸せ全開の彼女に、松岡は話しかけた。
「先生、さっきはよく分かりましたね。あの母親も、ドレス着てはしゃいでたって」
「松岡さんが、マニアは撮影用に靴を別に用意すると教えてくれましたから」
「だとしてもすごいですよ。やっぱり、見てるところが違うなあ」
「それを言うなら、松岡さんが走る子供を見ていたおかげで、ぶつからずに済みました。止めてくれなかったら、衣装をクレープで汚していたかもしれません。ありがとうございました」
「いえ、私なんてそんな」
松岡は頭を搔いて謙遜したあと、口をつぐんだ。
言っても、いいのだろうか。
俯き、クレームアンジュに視線を落とす。少し考えてから、松岡は言葉を紡いだ。
「実は、前田ちゃんのことがあってから、周りをよく見るようにしてるんです」
鮫島の手が止まる。
「前田さん、ですか」
「はい。何かあったら、すぐ動けるように」
楽しい話題ではないから、今日一日、できるだけ考えないようにしていた。だが、折に触れては思い出し、心に溜まってきたものを今、鮫島に聞いてもらいたかった。
「やっぱりあの時、私の体が動いてたら、色々と違ってた気がするんです」
「まだ、後悔していますか」
「してます。先生のおかげで、避けられないことだったのかもって、思えるようにもなりましたけど、それでもやっぱり」
「そうですか」
「はい。あと、純粋に寂しいです」
やるせなさ混じりの、小さな笑顔を作る。
「前田ちゃんがいなくて、私は寂しい。私は一人っ子だから、あの子を妹みたいに思ってたんです。私にとっては、クソ生意気で、腹の立つ、可愛い後輩でした」
「私も、松岡さんと前田さんのやりとりが好きでした」
「ありがとうございます。友子さんには、こういうこと言えなくて」
やっと言えた。前田のいない社屋は広くて静かで、そして寂しい。だが、彼女のせいで大変な思いをしている友子には、口が裂けても言えないことだ。
「前田ちゃんには、いいところも悪いところもありました。どっちも前田ちゃんです。全部ひっくるめて、前田ちゃんでした」
「ええ。きっと」
鮫島の言葉が、松岡にそっと寄り添う。強い肯定や慰めを貰うよりも、不思議と心が温かくなる気がした。
芝生の上をさわさわと風が渡り、会話が途切れる。松岡はスプーンの柄を親指でなぞった。自分から話しだしたとはいえ、やはり湿っぽくなってしまった。空気を変えるべく、努めて明るい声を出す。
「まあでも、うじうじしてても始まらないので、新しいことでも始めて気持ちを入れ替えようと思ってます。何がいいかな。温泉巡りとか、登山とか?」
「悩ましいですね」
「そうだ。資格の勉強もしようと思ってるんですよ。税理士も興味があるんですけど、私も、先生みたいになれますかね?」
「ええ。松岡さんなら」
鮫島は頷いた。
「社会人になってから税理士を目指す人も多くいます。経理の知識があれば、試験にもとっつきやすいでしょう」
「試験って、どんなのですか?」
「会計科目と税法科目を受けます。会計科目は、簿記論と財務諸表論の二科目です。税法科目は、所得税法や法人税法といった七科目の中から、三科目を選んで受験します」
「合わせて五科目かあ」
「ちなみに、五科目同時に合格する必要はありません。五年かけて一科目ずつ合格しても税理士になれます」
「へええ」
「松岡さんは真面目ですから、勉強すればきっと、合格できると思います」
「本当ですか」
「ええ。友子さんには悪いですが、合格したら一緒に働きましょう」
「え」
鮫島を見上げる。彼女はスイーツに舌鼓を打っていた。
松岡は知っている。先生が冗談を言わないことを。お世辞も言わないことを。
本心から、自分を誘ってくれていることを。
クレームアンジュを口に運ぶ。嬉しくて、味がよく分からなかった。
*
「先生、今日はありがとうございました」
名古屋駅のそばで車から降り、松岡は運転席の鮫島へ声をかけた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「楽しかったですね。衣装もスイーツも。あ、撮った写真、あとで先生に送りますから」
「ありがとうございます。家まで送らなくて、本当によかったですか」
「はい、ちょっとこのあと、寄りたいところがあって」
「そうですか」
鮫島は頷くと、車のサイドブレーキを戻した。
「松岡さんとはまた今度、一緒に出かけられたら嬉しいです」
「私もです。今度は旅行もいいですね」
ではまた月次訪問の日に、と告げて鮫島はトールワゴンを発車させる。後部座席に、リトルワールドの売店で買ったお菓子の山が見えた。あれだけ食べたのにとんでもないな、と驚きを通り越してもはや呆れてしまう。
車の後ろ姿を見送り、それから松岡は車道を背にして歩きだす。資格学校へ寄れば、講座のパンフレットが貰えるだろう。
——税理士を、目指してみたい。
思い付いたばかりの、小さな夢だった。もちろん、会社を辞める気はまだまだない。だが不思議と、松岡の胸を高鳴らせる熱い夢。
もしも前田が知ったら、驚いただろうか。茶化しただろうか。くすくす笑いながら、松さんが鮫島先生みたいになったらウケますね、とか失礼なことを言ったかもしれない。大きなお世話だ。
背の高い、目つきの悪いあの人になった気持ちで道を行く。悪戯な秋の風が、松岡の背中を軽く押した。
【おわり】