卵翼の恩
『後宮茶華伝 仮初めの王妃と邪神の婚礼』発売記念 はるおかりの書き下ろし番外編
「で、用向きはなんですか? まさか長公主さまともあろうおかたが、一介の騾馬の栄転祝いのためだけにこんな陋屋までいらっしゃったわけじゃないでしょう」
下座で気だるそうに蓋碗をかたむけているのは、この邸の居候――だと当人は言い張っている――にして皇后付き次席宦官の同淫芥だ。
ただし、この肩書きはあと数日で使えなくなる。来月から彼は敬事房太監と呼ばれることが決まっているからだ。
東廠による貪欲な三監の摘発は一定の成果をあげ、三監の勢力図が大きく変わった。その最たるものが司礼監入りを確実視されていた前敬事房太監の失脚である。彼は度の過ぎた収賄を糾弾され、家財を没収されたうえで流刑になった。
空いた敬事房太監の椅子に淫芥を推薦したのは、破思英の一件で手柄を立て、政敵だった司礼監掌印太監・棘灰塵と秉筆太監・泥梟盗を追い落とした東廠督主・葬刑哭である。葬督主は勝勢に乗じて全宦官の頂点たる司礼監掌印太監に昇進するかと思われたが、自身の後任が見つからないことを理由に現職にとどまり、自分と懇意にしている秉筆太監を司礼監の長に推した。
新司礼監掌印太監は己が弟子である皇后付き首席太監を敬事房太監に推薦したが、当人が辞退したため、次席宦官である淫芥にお鉢がまわってきたのだ。
もっともこのような煩雑な手順は、官僚の真似事をしたがる宦官たちによる茶番にすぎない。淫芥が敬事房太監に就任することは、その椅子が空いた時点で――あるいはそれ以前から――内定していたのである。
――寒嫣雨の正体を暴いたのは淫芥だったのね。
皇后付き首席女官・寒嫣雨は、怨天教団の幹部・破思英だった。
東廠により公表されたその事実が淫芥の栄転と結びついた。彼の敬事房太監就任は内廷の綱紀粛正がもたらした偶然の産物などではなく、彼の働きぶりに対する評価なのではないかと。
かねてより淫芥は褐騎ではないかと疑っていた。彼自身はおくびにも出さないし、褐騎とはそういうものなのだが、宦官の養女として育った永恩長公主・高夏瑶には直感でわかるのだ。なぜなら亡き養父・易銅迷も褐騎だったから。
養父本人からその稼業について聞かされていたわけではないけれど、養父にはなにか秘密があるのだと察していた。暴かれれば一巻の終わりになるような重大な秘密が。
機密にかかわる者には特有の気配がある。他人とのあいだに張った煙幕のにおいが芬々と香ってくるのだ。
淫芥にもおなじものを感じる。養父の弟子であった淫芥とは物心つくころからの付き合いだが、なんとなく親しみがわくのは、養父がまとっていたものと同様の翳が彼の言動から感じられるせいだろう。
「お願いがあるのよ」
香り高い龍頂茶で喉をうるおし、夏瑶は意を決して口をひらいた。
「わたくしの出自について教えてほしいの」
夏瑶は拾い子である。すくなくとも養父からそう聞かされていた。
「ある日、大門の前に籠が置いてあった。なにが入ってるんだとなかをのぞいてみると、丸々と太った赤子がのんきそうに寝息を立てていた。それがおまえだよ」
養父は「天からの授かりものだ」と思い、赤子を燕燕――夏瑶の幼名である――と名づけ、養女に迎えたという。
「俺も年を食って手持ち無沙汰だったんだ。如才なく生きてきてずいぶん銀子もたくわえたが、独り者じゃあ張り合いがなくてな。ちょっとした信心を起こして、おまえみたいな可愛い娘を授けてくれと神仙に祈ったのさ。まさか天に通じるとは思ってなかったが、玉皇も粋なことをなさるもんだな。おかげで俺はおまえの養い親になれたよ」
養父は燕燕を実の娘のように大切にしてくれた。休沐のたびに日がな一日、遊んでくれた。好奇心旺盛な燕燕がしつこく質問攻めにしてもうるさがらず相手をしてくれた。熱を出して寝込めば大金を払って名医を呼んでくれたし、夜中に悪夢を見た燕燕が泣きながら寝床に押しかけたときは童宦時代の失敗談を話して笑わせてくれた。
燕燕がよいことをすれば大いに褒めてくれ、悪いことをしたらそれのなにが悪いのか幼子にも理解できる易しい言い回しで教えてくれた。
養父と一緒にいて楽しくなかったことはないし、安心できなかったこともなかった。実の父のように慕っていた。ずっと養父と暮らせると思っていた。大人になった燕燕が花嫁衣装をまとって邸を出ていくその日までは。
別離は予想していたよりも早く訪れた。
宣祐二十九年八月、賞月の変。
王朝転覆をもくろむ怨天教団による九陽城襲撃事件で、養父は宣祐帝――当代の太上皇――を守るため賊兵に斬られ、重傷を負った。
宣祐帝の恩情でとくべつに太医の診察を受けたものの、傷が深すぎて手の施しようがなかった。せめて死に目には会えるようにと宣祐帝は急いで燕燕を皇宮に呼び寄せたが、養父はとうとう意識が戻らないまま、事件の翌日に息を引き取った。
養父の忠節に深く感じ入った宣祐帝は孤児になった燕燕を憐れみ、養女に迎えた。さらに公主の身位を与え、とこしえに皇恩を賜るという意味をこめて永恩の封号を、笄礼のおりには夏瑶という字をつけた。
宦官の養女でありながら公主になったことでさまざまな苦労もあったが、周囲の人びとの厚情に恵まれて何不自由なく成長し、昨年――嘉明七年秋、夏瑶は権門宰家の嫡男・宰忠飛に降嫁した。
これは望まない縁談ではなかった。それどころか、幸福な結婚そのものだった。夏瑶と忠飛は婚約のために引き合わされた際、互いにひと目惚れしていたからだ。かくて恋しい人と結ばれ、幸せな新妻となった夏瑶は、少女らしい心で夢見ていた蜜月よりも甘くやさしい日々に酔いながら、胸にきざした不安を拭い去ることができずにいた。
――わたくしのほんとうの両親は、いったいどんな人なの?
夏瑶の降嫁から半月後、整斗王妃・孫月娥連れ去り事件が起こった。
これにより、茶商・孫報徳の養女として育った孫月娥の実父が怨天教徒であったことがあきらかになった。むろん公表されてはいない。けっして他言しない約束で月娥本人から聞いたのだ。
「私、不義の子だったんです。実父は怨天教団の幹部で、若いころ許閣老の亡妻と私通していたと……その結果、生まれた子が私らしくて……」
当惑気味に語る月娥の苦衷を慮りつつ、夏瑶の胸底に疑問が生じた。
――わたくしの両親は、どういう事情でわたくしを手放したのかしら。
赤子のときに捨てられていたのだから、やむにやまれぬ事情があったはずだ。もし両親が――そのどちらかが――夏瑶に肉親の情を抱いていたなら泣く泣く別れたにちがいない。困窮していて子を育てる余裕がなかったのかもしれないし、うしろ暗い出生ゆえに手もとに残すことができなかったのかもしれない。
単に疎ましくて捨てた可能性もある。世のなかには子を愛さない親が存在することを、十年におよぶ後宮生活で学んだ。夏瑶の生みの親も血をわけたわが子に情を感じない人間なのかもしれない。
――なんにせよ、わたくしは出自を知らなければならないわ。
知るのが怖いという気持ちはある。ひょっとしたら夏瑶は、月娥のように不義の子なのかもしれないし、怨天教徒の娘なのかもしれない。あるいはもっと恐ろしい罪人の血を引いているのかも。悪い想像が次々に浮かんできて足がすくむけれど、事実から逃げてはいけない。知らなければならないのだ。たとえどんなに忌まわしい真実だとしても。
「出自? なんで急にそんなことを?」
蓋碗を茶卓に置き、淫芥はいぶかしそうに首をかしげた。
「べつに知らなくてもいいことじゃないですか。いままでだって支障はなかったでしょう」
「いままではね。出自なんて気にしてなかったわ。お父さまの作り話を無邪気に信じていればよかった。……だけど、そういうわけにはいかない事情ができたの」
夏瑶はやや気恥ずかしくなって、茶卓越しに隣席の夫を見やった。忠飛は誇らしげに頬をゆるめ、卓上に置いた夏瑶の手をあたたかい手のひらでそっとつつむ。その様子を見ていた淫芥がぽんと膝を叩いた。
「あ、わかりましたよ。ご懐妊でしょう」
懐妊という言葉にいまさらながら羞恥がこみあげてくる。婚礼から半年ほど過ぎているのだから身ごもるのはふつうのことなのに、こそばゆくてしょうがない。
「……以前から出自のことは気になっていたんだけど、考えないようにしていたわ。でも、懐妊がわかって、どうしても無視できなくなった。怖いのよ。自分が何者なのかわからないまま、人の親になることが」
己の身体に流れる血がだれにつながっているのか、子を産む前に知っておきたい。
事実を受けとめる行為が痛みをもたらしたとしても、耐えられる自信がある。なぜなら忠飛がそばにいてくれるから。
「実はね、あなたを訪ねることを決心するまで何日も迷ったの。このままにしておこうかとも思ったわ。いままでみたいに見て見ぬふりをすればいいんだわって。……でも、夫に相談したら――」
夫という単語を口にしたとたん、頬が赤くなるのを感じた。
「はっきりさせておいたほうがいいって言われたの。心に靄がかかったような状態でお産にのぞむべきじゃないって。きっとわたくしが浮足立っていたせいね。出生のことから気持ちをそらそうとするあまり苛々していたから忠飛さまが心配してくれて……」
「『さま』は不要ですと何度も言っているじゃないですか、長公主さま。俺は駙馬なのですから、敬称は要りません」
忠飛が口を挟んでくるので、夏瑶は唇をとがらせた。
「忘れたの? 婚礼の夜に話したでしょ。わたくしは身位を鼻にかけたくないの。もともとは宦官の養女なんだもの、生まれながらの皇族でもないのに威張ったってむなしいだけだわ。お父さまが望んでいたように、ふつうの妻として生きたいの。世間では妻は夫を敬うでしょ? だから『さま』は必要だし、あなたはわたくしを字で呼ばなきゃだめなのよ。『長公主さま』じゃなくて『夏瑶』って呼ばなきゃ。はい、やりなおし」
「同公公の前で長公主さまを字で呼ぶのは憚られます」
「だれの前でも字で呼んで」
「いけません。礼節は守らなければ」
「礼節なんかどうでもいいの。わたくしが字で呼んでと言っているんだから、そのとおりにしてよ。秋霆兄さまがおっしゃっていたわよ。夫は妻の願いを叶えるものだって」
「また整斗王ですか。長公主さまは事あるごとに整斗王と俺をくらべますが、それは夫を敬う行為とは言いがたいですよ」
「なによ、あなただってわたくしを孫妃とくらべるじゃない。孫妃のほうがしとやかだとか落ちついているとか。ふん、そんなに孫妃がよければ彼女を娶ればよかったのよ」
「馬鹿なことをおっしゃらないでください」
夏瑶が手を引っこめようとすると、忠飛が強く握って引きとめた。
「俺が娶りたいと思った女人はあなただけです」
「……や、やめてよ、こんなところで」
「どんなところでも堂々と言いますよ。俺はひと目であなたに心を奪われた。あなた以外の女人と結婚することなど、想像する気も起きません。夫婦になってもなお、あなたのことばかり考えているのに、ほかの女人に目移りしたなどと誤解されては心外です」
「……わかったから。その話は終わり。ええと、どこまで話したかしら」
「勝手に終わらせないでください。誤解されたままでは今後の生活にさしつかえます。いい機会ですから、俺があなたをどれほど愛しているかお話ししますよ。まずは――」
「も、もういいわよ! ほら、見てみなさい。淫芥が困ってるわ」
「困ってませんよー。主上と皇后さまのおそばに四六時中、侍ってますからね、おふたりのいちゃつきを見慣れてるもんで、苦にはなりません」
淫芥は茶卓に頬杖をついてにやにやしている。
「ささ、どうぞどうぞ。お好きなようにいちゃついてください。あ、そうだ。俺でよければ相談に乗りますよ。その道にはくわしいんで、なんでも訊いてくださいよ。たとえばそうだなー、懐妊中に巫山の夢を見る方法はご存じです?」
「懐妊中に……? 太医がそれは禁忌だと言っていたぞ。お産がすんで、長公主さまのお身体が回復するまで共寝はひかえるようにと」
「太医の言うことを真に受けちゃいけません。やつらは不親切ですからねえ。ほんとうはちゃんと方法があるんですよ。御子も長公主さまも傷つけない、安全なやりかたがね」
「いったいどんな方法なんだ?」
忠飛が身を乗り出して尋ねるので、夏瑶は「馬鹿!」と夫の腕を叩いた。
「ふたりとも話の腰を折らないで。大事な話をしてるんだから。真面目に聞いてよね。ええと、どこまで……あっ、そうそう、お父さまから聞かされていた拾い子説、うさんくさいと思ってたの。だって矛盾してるんだもの」
いくらわが子を持て余したとしても、宦官の邸の門前に捨てるのは不自然だ。
廃物のように処分したければ道端や川べりにでも捨て置けばよいわけで、わが子に多少なりとも情があるなら月娥の場合のように慈悲深いことで有名な人物の邸か、寺観や養済院の門前に捨てるはずだ。
燕燕を捨てた人物は、なぜわざわざ易銅迷邸の門前に赤子の入った籠を置いたのだろうか。その邸が宦官のものだと知らなかった可能性はない。易銅迷邸は三監の豪邸がたちならぶ振鷺坊に在るのだ。易銅迷邸の門前に捨てたのなら、それは意図的な行動ということになる。
わが子を三監の養女にしようとしたのだろうか?
三監が養子や養女をとることはある。前者は浄身させたり科挙に及第させたりして己の後継者にするため、後者は寵姫や女官にして栄華の手駒とするためだ。
三監の養女になれば入宮は容易になり、後宮で賜る位階も保証される。
庶民の娘として後宮に入るよりもたやすく天寵に近づくことができるのだ。三監に乳飲み子をさしだす利は十分にあるが、あいにく養父は燕燕を権力の道具にするつもりはないと公言していた。
「うちの燕燕を後宮に閉じこめるなんざ、冗談じゃねえよ。あそこはまともな人間が暮らすところじゃねえ。脂粉にまみれた魑魅魍魎の住処だぜ。可愛い娘を連中の餌食にさせるもんか。燕燕にはいずれ良縁を見つけてやるさ。男ぶりがよくて、羽振りがよくて、燕燕を宝玉のようにあつかう上等な花婿をな」
養父が燕燕に受けさせた教育は一般的な女子教育の範囲を超えておらず、年配の寡婦を招いて熱心に教えられたのは煮炊きや針仕事などの家政で、入宮する際に有利になる歌舞音曲や書画などの芸事はふくまれていなかった。
これは養父が燕燕の嫁ぎ先として皇家を想定していなかったことを示している。もし入宮を前提として燕燕を育てていたなら、市井の少女が学ぶ家事ではなく、貴人を楽しませる技芸を身につけさせただろう。
当人の言葉どおり、養父は燕燕を宗室に嫁がせる気がなかった。ならば、三監の養女にするため燕燕を易銅迷邸の門前に置き去りにしたという推察が成り立たない。
また、邪な目的で易銅迷邸に近づいたのだとしても、家主に黙って赤子を置いていくとは考えにくい。養女として売りこみに来たならば、相応の対価を期待しているはずだ。赤子の代金を受け取るまでは立ち去らないだろう。
金品のやりとりがあったことを養父があえて伏せていた可能性もあるが、もしそうなら養父はかねてから単に愛情を注ぐためだけに赤子を探していたことになる。だが、養父の弟子たちの話によれば、養父は菜戸を持ったこともなく、子ども好きでもなかったらしい。大半の宦官がそうであるように蓄財と豪遊が生きがいで、家族を持つことには無関心だった。そんな人物がなんの下心もなく乳飲み子を買い求めるだろうか?
どこかで心境の変化があったとも考えられるが、あまり現実的ではないと思う。もっと現実的な推論は「養父はだれかに燕燕をたくされた」というものだ。
〝だれか〟にはよんどころない事情があり、燕燕を手もとで育てることができなかった。そこで旧知の仲であった養父にわが子を育ててくれるよう頼んだ。養父は知音との約定を果たすために燕燕を実の娘同様に養育した。
そう考えれば、養父が燕燕を拾い子と言い張ったことにも得心がいく。〝よんどころない事情〟のせいで、事実をありのままに語ることができなかったのだ。
「へえ、なかなか鋭いですね」
夏瑶が推論を話すと、淫芥は感心したふうにうなずいた。
「さすがは師父の娘御だ。目の鞘がはずれていらっしゃる」
「お世辞はいいから、正解を教えてよ。あなたは知ってるんでしょ。わたくしがお父さまの娘になった経緯について」
淫芥は養父がとくに目をかけていた弟子だ。頻繁に邸に出入りしていたし、もっとも古い記憶のなかで彼は二十歳前後だったから、夏瑶の出生の秘密を知らないはずはない。
「師父には話すなって言われてましたけど、まあいいでしょう。たぶん長公主さまが大人になったら打ちあけるつもりだったんだろうし、師父の代わりに話しますよ」
もったいぶった調子で言い、淫芥は茶請けに出された飴がけの胡桃を口にほうった。
「ある晩のことです。あれは秋だったか冬だったか……」
「どっちでもいいから早く進めて」
「急かさないでくださいよ。昔話なんですから、思い出すのに時間が……ああ、たしか雨の晩だったそうですよ。滝のような雨が邸の屋根を叩く夜、平生どおり五日分の賄賂を数えた師父が湯殿に行こうとしていたら、老僕があわてて駆けこんできたんです。なんでもご婦人が訪ねてきて師父に会いたいと言っていると」
門前払いしてもよかったが、老僕から婦人の名を聞いて養父は顔色を変えた。
「ご婦人は柳貞麗といいましてね、曲酔の老舗妓楼・香英楼の名妓なんですよ。いや、名妓だったというべきかな。そのころにはとある文官に身請けされて妾になってましたから。あ、柳は本姓じゃないですよ。香英楼ではかの豊始帝が親王時代に寵愛していた名妓・柳青艶にあやかって、いちばんの売れっ妓に柳姓を継承させるのが慣例でしてね。本姓は張だか周だか忘れましたが、貧しい農村の生まれで、食い扶持を減らすために三つか四つで女衒に売られて曲酔の門をくぐったとか」
幼くして妓籍に入った少女の大半がそうであるように、貞麗は纏足をほどこされた。
「噂で聞いたことはあるけど……纏足ってすごく痛いのよね?」
「痛いなんてもんじゃないですよ。親指以外の指を足裏に折り曲げて、布でぎゅうぎゅうに縛りあげるんですから」
「どうしてそんなことするのよ?」
「商売のためですね。小さな足は三寸金蓮と呼ばれて、その道の愛好家に貴ばれるんですよ。要するに纏足してる妓女のほうが高値で売れるってことです。纏足していない妓女は大足と蔑まれて玉代も安くなりがちなんですよ。まあ、ずば抜けた美貌や才気があれば大足の妓女でも名妓になれますけど。その場合は大足じゃなくて天足って言うことが多いですね。こっちは大足とちがって『天然の足』っていう美称なんです」
貞麗は三寸金蓮を引きずるようにして養父の邸の門前に立っていた。
「大雨のなか傘もささずに歩いてきたらしくてね。師父は大急ぎで大門まで出向いて、柳貞麗が事情を話す前に彼女を抱きかかえて湯殿に連れていったそうです」
湯殿では湯浴みの支度がととのっていた。むろん養父のための支度である。養父は童宦たちに彼女を湯浴みさせるよう命じ、自分は湯殿を出た。
「師父の自制心には感服するなあ。俺だったら童宦どもを追い出して、自分で湯浴みの世話をしてあげますよ。だってずぶ濡れの美女が目の前にいるんですよ? ふつうはふたりであたたまるでしょ。ましてや湯殿にいるんだから、ねえ? 師父にこの話を聞いたとき、自分は湯殿から出たなんて絶対嘘だあと思ったんですけど、老僕や童宦に訊いてみたらほんとうだって言うんですよ。しかも師父はその足で厨に行って柳貞麗のために粥を作ったそうで。いやあ、驚きましたね。長公主さまがお生まれになってからはべつですけど、俺が知る限り、師父が邸で料理をするなんてことはなかったですよ。皇帝の側仕えは主上に軽食をさしあげることがあるから師父も料理の腕を磨いていましたが、あくまで職務のためで、邸じゃ面倒くさがって厨に入ることもなかったですね」
夏瑶が知る養父はよく厨に立って食事を作ってくれていたので意外に思った。
「そこまでするということは、初対面じゃないのよね? 馴染みの妓女なの?」
「師父の敵娼ですよ。一時は身請けを打診するほど入れ込んでいらっしゃいました」
「なぜ身請けしなかったの?」
「師父曰く『ふられた』そうです。まあ、仕方ないといえば仕方ないですね。師父と柳貞麗は三十も年が離れていましたから」
貞麗には想い人がいた。それが彼女を身請けした文官だという。
「名妓を落籍するくらいだから大金持ちだったの?」
「いやいや、せいぜい小金持ちってところですよ。曲酔通いが過ぎて、だいぶ家産もかたむいていたみたいですし、たいして余裕はなかったんじゃないかなあ。そんなやつが柳貞麗を落籍できたのは、師父のおかげなんですよ」
養父は貞麗の身請け金が下がるよう裏で手を回した。
「仮母に話をつけて、身請け金の八割を支払ったんです。ただし、自分の名が表に出ないよう細工をしてね」
よほど惚れてたんでしょうねえ、と淫芥は蓋碗をかたむけながら述懐した。
「惚れた女が自分を選んでくれないなら、好いた男と一緒になれるよう内々に取り計らってやる。侠気ってやつですかねえ。なかなか真似できることじゃないですよ。俺なら絶対やらねえな。そんなこんなで、柳貞麗は袖にした宦官が力添えしてくれたとも知らず恋しい男に身請けされ、大団円ってわけです。ま、これが芝居ならね」
「大団円ではなかったのね」
「嫁ぎ先の正妻がたいそう嫉妬深い女でして。柳貞麗は腰を低くして従順に仕えていたらしいんですが、正妻からすれば妾なんてどんなに従順な女でも目障りなものですよ。ましてや曲酔一の名妓と謳われ、美貌や才気では自分をはるかにしのぎ、おまけに夫の寵愛をひとりじめしているとなりゃあ、憎い仇にしか見えないでしょうよ」
正妻は朝な夕な貞麗を虐げたが、夫は見て見ぬふりをした。
「官職を得るのに岳父に口添えしてもらったから、正妻に頭があがらないんですよ。恐妻家ってやつですね。もともと肩身が狭かったのに妓女を妾にしたものだから、ますます気まずい立場になったんでしょう。妬心を滾らせた正妻が柳貞麗を婢女同然にあつかって責めさいなんでも、夫はおろおろして逃げまわるだけでした」
「わかったわ。柳貞麗は頼りない夫に愛想をつかして家出してきたのね」
「いえいえ、家出したんじゃなくて邸から追い出されたんですよ」
落籍から半年後、貞麗は身ごもり、正妻は激怒した。
「ほかの男の胤に決まってるって言われたそうです。落籍される前に文官以外の客の子を身ごもっていて、その事実を隠したまま嫁いできたんだろうって」
「どうやって懐妊したことを半年も隠すのよ? とんだ言いがかりだわ」
「言いがかりでもなんでもよかったんですよ。夫が夢中になってる妓女上がりの妾を叩き出せるなら」
「叩き出すって……まさか離縁したの?」
「正確には『売りに出した』ですね。長公主さまには関わりのないことなので――駙馬どのは妾室などお持ちにならないでしょうから――ご存じないでしょうが、妾ってのは正式に婚姻してるわけじゃないんで、簡単に売り買いできるんですよ」
奴婢の売買と同様のあつかいなので、妾を家から出すことを離縁とは言わないという。
「文官はなにをしてたの? 身請けするくらい好きだったんでしょ? いくら正妻に頭があがらなくても、自分の好きな人を売りに出すことは許さなかったんじゃないの」
「許したんですよ、それが。このころには縁談が持ちあがっていましてね。正妻が男児を産めないから妾室を迎えようって話になっていたらしいです。候補にあがったのは正妻の遠縁の娘で、正妻が強く薦めていたんですよ。文官は当初渋っていましたが、妾候補の娘に引き合わされてからはすっかりのぼせあがっちまったそうで」
娘は初々しい美人で、なにより処女だった。
「垢じみた襤褸みたいに汚らわしい売笑婦なんかお捨てになって、生絹のようにまっさらな乙女をあなた好みに教育なさったら?」
正妻のささやきにあだし心を刺激されたのだろう。旧情を訴えてすがりつく貞麗の手をふりはらい、文官は正妻が彼女を売りに出すのを黙認した。
「柳貞麗を買ったのはさる三監だったんですが、こいつは嗜虐趣味のある下種野郎でね。女を痛めつけるのが大好きなんですよ」
とりわけ孕み女をね、と淫芥が言うので、夏瑶は忠飛の手をぎゅっと握った。
「このままじゃわが子ともども殺されると思った柳貞麗は邸へ連れていかれる道すがら隙をついて軒車からおり、夕闇にまぎれて逃げ出したんです」
天を覆う黒雲が大粒の雨を吐き出しはじめたのは、貞麗にとっては幸運だった。雨の帳に身を隠しながら追っ手をかわし、必死の思いで振鷺坊を逃げまわる途中でかつての馴染み客である易銅迷の名を思い出したという。
「師父が熱心に口説いていたから、望みをかけたんでしょうね。これが大正解でした。たまたま師父が在宅だったのもよかったですが、たとえ留守だったとしても老僕がなかに入れてくれたでしょう。柳貞麗は師父の邸でもよおされる宴にもたびたび興を添えていましたので、老僕も顔見知りだったんですよ」
なんとか易銅迷邸にたどりついた貞麗は凍えた身体を震わせながら門扉を叩いた。
「というわけで冒頭に戻りますよ。師父は柳貞麗を湯殿に運び、自分は厨に行って彼女のために粥を作った。ここまでは話しましたね?」
湯浴みをすませた貞麗に粥を食べさせ、養父は事情を聞いた。
「柳貞麗は出産まで家婢として邸に置いてほしいと頼んだそうです。寝床と食事さえ与えてもらえるなら、どんな仕事もこなすからと。言っておきますが、この『仕事』には炊事や洗濯以外のものもふくまれてますよ。なんだかわかります? 掃除? 繕い物? 庭院の手入れ? その程度の仕事は童宦で間に合いますよ。手掛かりをあげましょうか。柳貞麗にしかできないことです。師父が落籍を考えるほど惚れこんでいた元妓女だからこそ提供できるもの。はい、そうです。十四ではじめて客をとってから十年、春をひさいできた柳貞麗は自分の売り物がなんなのかよく理解していました。子を産むための仮の宿を手に入れるには、どんな代償を支払わなければならないかということをね」
それは三十も年上の宦官に肌身を捧げることだった。
「柳貞麗は覚悟して師父を訪ねたんだと思いますよ。なんといっても件の下種三監よりは百倍、いや、千万倍ましですからね。師父は変な性癖なんか持ち合わせてなかったし、女を手荒にあつかったこともなく、どちらかと言うと色の道には淡白でしたから。とはいえ、好きな相手じゃないですからね、元妓女だから慣れているとしても身重の――」
「同公公、その話は省略したほうがよいのではないか? 長公主さまには……」
いいえ、と夏瑶は忠飛の言葉をさえぎった。
「細大漏らさず話してちょうだい。どんなことでも知りたいの。……事実を知ったことで、お父さまに抱く感情が変わってしまったとしても」
養父が貞麗の苦境に付けこんだかもしれないと思うと、胸の奥がちくちく痛む。しかし、隠し立てされるのはいやだ。自分が何者なのか知るためにここに来たのだから。
「お望みなら包み隠さず話しますけど、期待されても困りますよ。残念ながら、みなさんが想像するような艶本めいた展開は一切ありませんでした」
養父は貞麗を邸に滞在させたが、彼女に〝仕事〟はさせなかった。
「柳貞麗のために侍女を数名雇い入れてかいがいしく仕えさせていましたよ。童宦たちには彼女に炊事や洗濯をさせないよう厳命していたし、朝の身支度から夜の寝支度まで侍女たちが付きっきりで世話をしていました。まるで妃嬪のような暮らしぶりでしたね。あんまり至れり尽くせりなので気詰まりになったんでしょう。柳貞麗がせめて簡単な家事くらいはさせてほしいと申し出たそうで」
負担にならない程度という条件付きで、養父は彼女の要求をのんだ。
「妓女は料理なんか教わらないので当然ですけど、柳貞麗は煮炊きが下手でね。彼女の手料理はお世辞にも上等なものとは言えなかったんですが、師父は休沐のたびに喜んで食べていましたよ。柳貞麗お手製の蒸し料理――肉でも魚でも野菜でも一緒くたにして蒸しちまうんですよ――を味わうのがなによりの楽しみでしたので」
ふたりの仲睦まじさはさながら夫婦のようだったと淫芥は語る。
「師父が邸にいるときはいつもふたりで食卓を囲んでいましたよ。散策したり、碁を打ったり、絵を描いたり、芝居を見たり、琴を弾いたり、時間の許す限り一緒に過ごしていましたね。湯殿と臥室以外では」
ある日、貞麗は竈の火加減を見ながら淫芥に身の上話をした。
「それがさっき話した柳貞麗の来歴ですよ。いろいろ聞きましたが、いちばん印象に残ってるのは師父とのなれそめですね」
妓女としてはじめて客をとる水揚げの数日前のこと、貞麗は香英楼から脱走した。
「水揚げが恐ろしくなったそうです。花街ではありがちなことですよ。水揚げ前の雛妓は先輩妓女から手取り足取り床入りの作法を教わりますが、そのあけすけな指導に恐れをなして逃げ出す雛妓が一定数います。たいていの場合、すぐに捕まりますけど」
纏足しているのだから、脱走が不首尾に終わるのも無理からぬことだ。
「男装して逃亡したらしいですが、纏足じゃ速く走れません。追手が迫り、もはやこれまでとあきらめ、近くを流れていた水路に身を投げたそうです」
死ぬつもりだったわ、と貞麗は言った。
「春をひさぐくらいなら死んだほうがましだと思った。……けれど死ねなかったの。あのかたが……易公公が私を助けてくださったから」
養父は大勢の妓女を侍らせて舟遊びに興じている最中だった。
「そこへ私が流れてきたものだから、舟に引っぱりあげてくださったらしいの。水を飲んで気を失っていた私が目をさましたとき、濃い脂粉のにおいが鼻をついたわ。装いをこらした妓女たちがめずらしい生き物でも見るように私の顔をのぞきこんでいたのよ」
養父は貞麗とおなじくずぶ濡れになっていた。
「私を引っぱりあげるときに勢い余って水に落ちたんですって。危うく溺れ死ぬところだったとぼやきながら、しきりに道袍の裾を絞っていらっしゃったわ」
貞麗がゆかしげに笑ったのを淫芥は見逃さなかった。
「私が香英楼の者だということに気づいた妓女がいたの。それであのかたは水上の宴をおひらきにして、私を送り届けてくださったのよ」
貞麗が身投げしたことにはふれず、養父は香英楼の仮母にたんまりと銀子をわたした。
「舟遊びをしていたら川べりに美童がいたので、酌でもさせようと思って舟に誘ったんだが、荒っぽく腕を引っ張ったせいか怖がらせてしまったらしい。美童は逃げようとして水に落ちた。急いで引きあげたので命に別状はないが、この一件のせいで客を怖がるようになったんなら商売にさしつかえるだろう。こいつはすくないが、詫びの印だ。頼むから美童を叱ってやるなよ。乱暴にあつかった俺が悪いんだ」
仮母がほくほく顔で銀子を受け取り、「これは美童ではなく雛妓ですよ」と言うと、養父は興味深そうに目を丸くした。
「そいつは願ったり叶ったりだ。ひと目で気に入ったよ。流連が明けたら俺に回してくれ。ほかのやつには譲るなよ。妓になったこの娘をだれよりも先に抱きたい」
水揚げから一月のあいだは水揚げの相手をつとめた嫖客が居続けする。これが流連で、その期間はほかの客をとることができない。流連明けから妓女として本格的に仕事をすることになる。つまり養父は妓女・柳貞麗の最初の客になると申し出たのだ。
「碁は打てるか?」
流連明けに先陣を切って登楼した養父は、酒肴もそこそこに貞麗に尋ねた。
「明けがた近くまで碁を打っていたのよ。ただそれだけ。私には指一本ふれなかったわ。変な人よね。妓になった私をだれよりも先に抱くとうそぶいていたくせに」
二度目の登楼では翠曲の清唱を聴かせろと言われ、その次は墨絵を描けと言われ、さらにその次は舞が見たいと言われた。
「あんなに足しげく通っていたのに、閨の仕事をさせてくださったのは私が二十歳を過ぎてからほんの数回だけ。そのころには私も経験を積んでいたから、色香にも床あしらいにも自信があったわ。三監のお客もたくさんとっていたし、みんな私に夢中だったのよ。それなのにどうしてかしら、あのかたは私に溺れてくださらなかった」
いたらない点があるなら教えてほしいと貞麗は養父を問い詰めた。
「お気に召していただけるように努めますわと言ったら、あのかたは意地悪そうに笑っておっしゃったのよ。『おまえには無理だよ。俺には上等すぎるから』って。意味がわからなかったけど、なんとなく癪だったわ。だって褒められている気がしないでしょう? 妓女に向かって『上等すぎる』なんて。いやみにしか聞こえないわ。釈然としないまま時が過ぎて、気づけばあのかたの足が香英楼から遠のいていた。よその妓楼に通っているという噂は聞かなかったから、きっと職務に忙殺されていらっしゃったのね」
おなじころ、貞麗はのちの夫である若い文官とねんごろになった。
「あのかたほど年上ではなかったし、難解な人でもなかった。ふつうの人だったの。どこの妓楼にもいる男。強引に肩を抱いて、甘く睦言をささやいて、口づけの途中で急くように帯をとく……その単純さが心地よかったのよ。なにも考えずにすんだから」
貞麗は文官と恋に落ち、逢瀬をかさねた。
「いま思えば、あれは熱病だったのね。うぶな生娘よろしく恋に酔っていたの。彼に身請けされることを夢見るようになったわ。妓女ならだれだって一度は夢見るのよ。好きな相手に落籍されることを……。だけど、彼が私の身請け金を支払うのは夢のまた夢。私が名妓と呼ばれていたせいよ。妓楼は売れっ妓の身請け金をどんどんつりあげるの。売値が高ければ高いほど、楼の名があがるから」
貞麗は駆け落ちすることさえ考えたが、文官は乗り気ではなかった。
「ここで気づくべきだったのよね。この人がもっともらしく語る愛情は空疎な言葉で組み立てた張りぼての城にすぎないと」
恋の病が膏肓に入るころ、久方ぶりに養父が登楼した。
「私を落籍したいとおっしゃったわ。ものすごく遠回しに」
自分はとうに五十の坂を越えているし、さんざん不摂生をしてきたから長生きはしないだろう。あくせく働いて一財産を築いたが、あの世に銀子は持っていけない。妻子がいないので、せっかく貯めこんだ金銀も自分が死ねばお上にとりあげられてしまう。これではなんのために苦労してきたのかわからない。家産をもらい受けてくれる者が必要だ。
まどろっこしい長口上のあとで、養父は弁解するようにつづけた。
「そろそろ菜戸を迎えようと思う。彼女には全財産を遺すし、俺の死後は再嫁してもかまわない。進んで騾馬の妻になる妓女は多くないが、もし俺がその幸運にありつけるなら、残りすくない余生は彼女のために使いたい」
奥歯に物が挟まったような言い回しが貞麗を苛立たせた。
「意地悪をしたい気持ちになったの。あのかたをもてあそんでやりたいような」
お慶び申しあげますわ、と貞麗はあでやかに微笑んだ。
「易公公に見初められるなんて、そのかたはよほど福運に恵まれていらっしゃるのね。ご婚礼にはぜひ私をお召しくださいませ。お祝いの席に歌舞で興を添えますわ」
養父は苦笑いしたが、なにも言いかえさなかった。平生どおり緑酒をあおって美肴を楽しみ、にぎやかな音曲に手拍子を打ち、幇間たちのお追従を笑い飛ばし、仮母がもみ手をする暇もないほど銀子をばらまいて帰った。貞麗の寝間には立ち入りもせずに。
「それからしばらくして私の評判が落ちはじめたわ。とある八卦見が『香英楼の柳貞麗は妖狐だ』と言いふらしたせいよ。たまたま私の馴染み客のひとりが急逝なさったから、それを私のせいだと言いがかりをつけてきたのよ」
妖狐妓女をひと目見ようと嫖客が押し寄せたが、香英楼で不吉な出来事が立てつづけに起こると、しだいに客足が遠のくようになった。
「楼は私を持て余して、身請け金も下がったわ。でも、結果的にはよかったのよ。悪評のおかげで、あの人でも――元夫でも支払える値段になったから」
身請けされてからのことはあまり語りたがらなかった。
「いい思い出がないから。望んでいた暮らしとはちがっていたわ。だけど、とてもうれしいこともあったの。なんだと思う?」
懐妊したことよ、と貞麗は晴れやかに笑った。
「妓楼では懐妊が怖くてたまらなかったけど――堕胎するしかないから――妓籍を離れてからはそんなこと気にしなくていいんだもの。いいえ、むしろ喜ばしいことなのよね。あの人も喜んでくれたわ。はじめのうちは」
正妻が夫の子ではないと言い張り、貞麗は懐妊した状態で身請けされたのだと執拗に騒ぎたてると、夫は疑心暗鬼になり、あからさまに貞麗を疎んじるようになった。
「疑われるのはつらかったわ。だって彼のことを愛していたのよ。熱病のような恋だとしても、ほんとうに愛していたの」
すがりつく貞麗の手を、夫はうるさそうにはらいのけた。
「淫売の言うことなど信用できるか」
刃物じみた言葉が貞麗の胸をずたずたに切り裂いた。
「たしかに私は春をひさいでいた。だけど、それは過去のことよ。あの人に連れられて曲酔の門を出た瞬間から、私は彼だけの女になった。あの人は客ではなく、私の夫になったのよ。……私はそう思っていたけど、あの人にとって私は、あいかわらず妓女だった。たくさんの客を閨でもてなしてきた賤しい売笑婦にすぎなかったの」
正妻の命令で売りに出されたときは、恋しい男の心変わりに頭が真っ白になっていたので、わが身のゆくすえまで考えがおよばなかった。
「正気に戻ったのは、自分を買ったのが件の残虐な宦官だと知ったときよ。あの宦官の悪評は曲酔に轟いていた。殺されると直感したわ。でも、怖くなかったの。絶望が深すぎて。恋を失って自棄を起こしていたのね。身ひとつだったら、たぶん逃げ出さなかったわ。みじめな人生を終わらせることができるならなんでもいいと投げやりになって、むざむざと残忍な禽獣の餌食になっていたでしょう」
この子がいたから、と貞麗は大きくふくらんだ腹を大事そうに撫でた。
「逃げなければと思ったの。私が死ねばこの子も死んでしまう。死ぬわけにはいかない、なんとしても生きのびなければって。身ごもったのははじめてなの。十年も春をひさいでいたのに。私は石女なんだと思っていたわ。孕まない女は花街では重宝されるけど、世間では……。でも、こうして子を宿した。私も母親になれる。いいえ、もう母親なのよ。自分のことだけを考えているわけにはいかない。この子を守らなければ」
車輪がぬかるみにはまって軒車が止まった隙に、貞麗は外に飛び出した。
「あのかたの――易公公のお邸を目ざして必死で走ったわ。弓鞋のなかで両足が切り刻まれるように痛んだけれど、けっしてあきらめなかった。大粒の雨をかきわけるように駆けて、なんとかたどりついた。老僕が取りついでくれて、あのかたが大門までおいでになったとき、私……やっとわかったのよ。嫁ぐ相手をまちがえたと――」
貞麗はここで話を打ち切った。養父が帰宅したことを童宦が伝えに来たからだ。彼女は蒸しあがった料理をいそいそと器に盛り、内院の亭に運ぶよう淫芥に頼んだ。値千金の春宵を楽しむため、貞麗が亭に食卓を用意させていたのだ。ふたりの団欒を邪魔せぬよう、淫芥は料理を運んですぐに養父の邸を辞した。
「柳貞麗はお父さまの菜戸になったの?」
「いえ、あくまで客分でした。すくなくとも師父はそうおしゃっていました。一度、柳貞麗を太太と呼んだことがあるんですが――だって邸の女主のように遇されていましたからね――師父に叱られましたよ。『彼女は俺の客人だ。菜戸じゃねえ』って」
それ以降、淫芥は彼女を「柳どの」と呼ぶようになったそうだ。
「どうして菜戸にしなかったの? 話を聞いていると、柳貞麗はお父さまのことを嫌っていないみたいだわ。彼女さえ承諾してくれるなら、娶ってもよかったんじゃない?」
「俺もおなじことを師父に言いましたよ。『柳どのは師父に惚れてますぜ。いま口説けばうまくいきますよ』ってね」
馬鹿を言うな、と養父は一蹴した。
「この状況で言い寄れるかよ。俺の菜戸にならなけりゃ追い出すぞって脅してるのと変わらねえだろうが」
医者や産婆を手配してお産にそなえつつ、養父は貞麗のあたらしい夫を探していた。
「どこかの商家に後妻として嫁がせるため根回ししてたみたいですね。妾室じゃ、また売りに出されるかもしれないから嫡妻にしたかったんでしょう」
「柳貞麗がそうしてほしいと頼んだの?」
「師父の独断ですよ。彼女自身は望んでなかったんじゃないかな。もし生きていたら――」
喉につかえたように、淫芥は言葉をのみこんだ。
「……あんなことがなければ、柳どのは師父の菜戸になっていたと思いますよ」
「柳貞麗は――お母さまは、どうして亡くなったの?」
貞麗が産み落とした赤子こそ、夏瑶だった。
「お産から数月後、柳どのは安産祈願で有名な鴬水観に詣でました。無事に出産を終えたことを神仙に報告し、赤子の――長公主さまの健やかな成長を祈るために」
参拝を終えて参道をくだる途中、侍女が落とし物をしたことに気づいて騒ぎ出した。とても大事なものらしく狼狽しているので、母は侍女をなだめ、拝観の際に見てまわった場所を童宦たちと手分けして捜すことにした。
落し物はほどなく見つかったが、今度は母の姿が消えてしまった。
「その晩、師父が人を遣って捜させたところ……鴬水観付近の川べりで亡骸が発見されました。林の斜面で足を踏み外して川に転がり落ち、そのまま溺れたようです」
「事故だったの?」
ある種の願望をこめて問うたが、淫芥は首を横にふった。
「残念ながら……。柳どのの亡骸は片方の弓鞋を履いていませんでした。師父は川床をさらわせ、林の斜面をしらみつぶしに捜索させましたが、見つからなかったんです」
「……下手人が持っていたのね」
事故でないなら、母は殺されたのだ。
「師父が手を回したので、東廠が捜査に乗り出しました」
東廠は鴬水観を家探しした。そして見つけたのだ。当日、母が履いていた――養父が母に贈った弓鞋の片割れを。
「弓鞋を持っていたのは五十がらみの奴僕でした。そいつはしらばっくれていたんですが、鬼獄に連行され、拷問具を見せられたとたん洗いざらい白状しましたよ」
奴僕は母を目当てに香英楼に通いつめていた嫖客のひとりで、以前は羽振りがいい商人だったが、大尽遊びが過ぎて家産を食いつぶしたうえ、酒色に溺れて生業をおろそかにしたせいで破産して物乞いにまで身を落とした男だった。債鬼から逃げ惑い、往来で行き倒れかけていたところを鴬水観の慈悲深い老道姑に拾われ、奴僕として働いていた。
奴僕は聖母殿のそばで母を見かけ、激情に駆られてあとをつけたという。
「あいつは噂どおりの妖狐だ! 色香で私を惑わし、財産を搾り取った! おかげで私は無一文になったばかりか莫大な借財を背負わされた! 妻子に見放され、親族から絶縁され、債鬼から逃れるため物乞いに扮する羽目になったのだ!」
忌まわしい女狐め、と唾を吐き、奴僕は薄汚れた顔を憎々しげにゆがめた。
「あの女、私が近づいても昔の馴染み客だと気づかなかった。とうに忘れていたのだろうよ。醜業婦に情けなどないからな」
気づかれないのをいいことに、奴僕は親切を装って話しかけた。
「落とし物を捜していると言うので、それならあちらで見かけたと偽って林のなかに連れていった。馬鹿な女だ。人気のない場所で男とふたりきりになるとは」
奴僕は母に襲いかかった。しかし殺すつもりはなかったという。
「いい女だからな。一度で始末してしまうのは惜しい。これから何度も楽しむはずだった。どうやって? 私たちの関係をばらすと脅すのだ。あの淫売を囲っている騾馬にな。自分の女を男に寝取られたことを知ったら、さぞや怒りくるうだろうな。やつの欠けた身体ではけっしてできないやりかたで、自分の女が満足させられたと知ったら――」
奴僕に組み敷かれた母は死にものぐるいで抵抗した。
「私の頭を石で殴りつけたのだ! さんざん男をくわえこんできた売女のくせに!」
奴僕が痛みにうめいている隙に、母は逃げ出した。
「童女のような足でいったいどこに逃げると言うのだ。つくづく馬鹿な女だよ。おとなしくしていれば死なずにすんだばかりか、ひさしぶりに生身の男の陽物を――騾馬どもが使う拵え物など、しょせんは偽物じゃないか――たっぷりと味わえたのに」
獣欲をむき出しにして追いかけてくる禽獣から逃れようとして、母は足をすべらせてしまった。母の身体は小石のように斜面を転がり、なすすべもなく川に落ちた。
「急いで引きあげようとしたが――もったいないだろう? あれほどの上玉をむざむざ魚の餌にするのは――どんどん流されていくのであきらめるしかなかった。ふと川べりを見ると、置き土産があったのだ。そうだ、弓鞋が落ちていた。片方だけだったが、まだあたたかかった。ついさっきまで、あの女の三寸金蓮をつつんでいたからな」
奴僕は弓鞋を持ち帰り、嘔気をもよおさずにはいられない下劣な行為にふけった。あたかも弓鞋の持ち主を辱めるかのように。
「その卑劣漢は報いを受けたの?」
憎しみをこめて問うと、淫芥は「それなりにね」とうなずいた。
「罪の重さに見合う報いだったかどうかは解釈する人しだいですが、獄死しましたよ。およそ一月にわたり拷問されて」
律令に裁かれていれば、奴僕は斬刑になっていた。その程度の刑罰では、母が強いられた恐怖と苦痛と絶望に見合わないと判断したのだろう、養父は奴僕の身柄を東廠の拷問官にゆだねた。その拷問官は東廠内でもすこぶるつきの残虐な人物で、あたらしく開発した拷問具の有用性を試すため、実験台となる罪人を探していた。奴僕は彼の研究に寄与し、ありとあらゆる惨苦を堪能したのち、一月後に事切れた。
「師父は柳どのを手厚く葬りました。さる商家の後妻として」
「どうして冥婚しなかったの?」
死後に結ばれる婚姻を冥婚という。死者同士であることが多いが、生者と死者のあいだに結ばれることもある。養父と母が夫婦同然に暮らしていたなら、幽明境を異にしたあとでもかまわないから、冥婚して偕老同穴の契りを結べばよかったのに。
「俺も勧めてみたんですけどね、師父にその気はなかったみたいです」
「なぜ? お母さまのこと、好きだったんでしょう? お互いに想い合っていたのなら」
「想い合っていたことを当人たちは知らなかったんですよ」
養父は母が自分を頼ってくれるのは子を守るためだと考えていた。母は養父が自分にやさしくしてくれるのは同情しているからだと考えていた。
相手が愛情を抱いているとは互いに露ほども思わなかった。
「師父は自分が騾馬で、柳どのより三十も年上だってことを引け目に思っていたんです。身請け話を断られたのがよほどこたえたんでしょうね。それに師父から関係を迫れば、柳どのの立場では拒否できません。彼女が本心から応じてくれているのか、強いられて泣く泣く従っているのか、師父には区別がつかない。柳どのを大事に想えばこそ、踏み出せなかったんですよ。師父は柳どのに何事も強要したくなかったんです」
有史以来、宦官は蔑みの対象だ。天子のかたわらに侍り、蟒服の裾をひるがえして禁中を闊歩し、煌京の一等地に豪邸をかまえて贅沢をほしいままにしようとも、その事実は寸毫も変わらない。
悪意を隠さない者は宦官の妻を騾妾と呼ぶ。これは騾馬の妾という意味の蔑称で、宦官本人だけでなく彼につらなる人びとも嘲弄の対象となることを示している。欠けた者と卑しめられながら五十年近く宮仕えをしてきた養父には、宦官の伴侶に向けられる世人の冷眼の鋭さが骨身にしみていたにちがいない。
それでも養父は意を決して落籍を持ちかけた。母がもどかしく感じるほど迂遠な言いかたしかできなかったのは、言葉つきで母を威圧したくなかったからだろう。あくまで母の意思で選んでほしかったのだ。
仕事柄、男よりも宦官とかかわることのほうが多いためか、女官は菜戸になることにさほど抵抗感を持たないが、両者とまんべんなくかかわりを持つ妓女は男の客と宦官の客を天秤にかけ、たいていは前者を選ぶ。
母の場合も同様で、養父は選ばれなかった。
すでに一度、拒まれているのに、ふたたび思いのたけを打ちあけることは容易ではない。ましてや母が妓楼にいたころよりも弱い立場になり、養父の庇護下に置かれているならば、なおいっそう難しい。養父が抱くひたむきな好意が母にとっては逃れようのない恫喝になることもあるのだ。
菜戸になれと強要することなど造作もなかったのに、養父は母を「客分」と言い張っていた。身請けの相手に自分を選ばなかった母の決断を尊重していたからだ。それほどに養父は母を大切にしていた。弊履のごとく母を打ち捨てた元夫や、母を辱めようとした鴬水観の奴僕のように、しょせんは春をひさいできた女だと蔑んでいなかった。
養父にとって母は、最大限の敬意をはらわなければならない婦人だった。母の尊厳を守るためなら、自分の感情を犠牲にすることさえいとわなかった。
「柳どのにも負い目がありました。師父を袖にしてほかの客に身請けされ、元夫の子を身ごもった状態で転がりこんできたんですからね。いまごろになって菜戸になりたいと言えば、子を養う環境を手に入れるために算盤を弾いたようにしか聞こえません。柳どのの想いが純粋であればあるほど、軽々には口にできませんよ。元夫に『淫売』と呼ばれた過去が柳どのを臆病にさせていたんでしょう。心底愛した男が自分を賤業婦と蔑んでいたんです。おなじことがくりかえされない保証はない。師父は柳どのの好意を素直に受けとらないかもしれない。好意の裏に打算があると疑うかもしれない――」
妓女は色を売って世をわたる。なまめかしい微笑は客の気をひくたくみな作り笑い、しなだれかかるしぐさは客を夢中にさせる手口、甘い声でつむぐ言葉は客から銀子を引き出すための噓八百。
妓女として十年、勤めあげた母も傾城の手練手管を身につけていた。なればこそ、思いのたけを打ちあけられなかったのだ。無垢なる恋慕が欲得ずくの誘惑と誤解されることを恐れ、本心を隠したまま客分に甘んじるよりほかなかった。
「悔やんだはずよ。お互いに……どうして胸のうちをあかさなかったのかって」
いつしか夏瑶は涙ぐんでいた。
川の流れにのまれ、なすすべもなく溺れていく母が感じたであろう悔しさが胸のなかで逆巻いている。母の亡骸と対面した養父のやるせない思いが胸を締めつけている。死に別れる前に本心を伝えるべきだったと、ふたりはわが身を責めたにちがいない。時をさかのぼることができたらと、過去を怨んだにちがいない。
「永の別れが目前に迫っていることをおふたりがご存じだったなら、結果はちがっていたでしょうが……」
ひょうきん者の彼らしくもなく、淫芥は重い口調でつづけた。
「禍福は流転します。季節が移り変わるように。気まぐれな天運に逆らうことができない以上、われわれにできることは、いまわが手につかんでいるものを愛おしむことくらいですよ。いずれ失うとわかっているもののぬくもりをしかと記憶に刻みつける――そうするよりほかにどうしようもありません」
人の命は露のように儚い。それなのに人は千年生きるかのようにふるまってしまう。
「もっと早く打ちあけていればと責めたくなるお気持ちはわかりますが、恨み言を吐いても詮無いことです。考えたかたを変えてみてはいかがで? 事によると、こうなることははじめから決まっていたのかもしれませんよ」
母亡きあと、養父は夏瑶を養女に迎えたが、母親の素性はあかさず、拾い子だとふれまわった。世間はけっして寛容ではない。元妓女の娘であることを公表すれば、口さがない連中が陋劣な舌で露骨に誹謗する。姦淫の果てに産み落とした子だろうと悪しざまに言うことは目に見えている。一度娼門をくぐった者は、正式な手順を踏んで妓籍を抜けてからも世間から白眼視されつづけるのだ。
「拾い子ということにしておけば、出自はあいまいにできます。捨て子なんてめずらしくもないですから。窮民や流民の子は毎日どこかに捨てられていますので」
捨て子は憐みの対象であり、高貴な血筋ではないとしても邪淫の証と見下されることはすくない。ゆえに元妓女の娘という事実をふせて拾い子と偽ったのだ。
「あの事件が起こらなければ――柳どのがご存命だったなら、師父はだれに憚ることなくあなたを柳どのの娘だと公言したでしょうね。もちろん彼女を菜戸に迎え、ふたりで仲睦まじく育てたでしょう」
「そうしてほしかったわ。わたくし……」
淫芥は軽く手をあげて夏瑶の声をさえぎった。
「うかつなことをおっしゃってはいけません。おふたりが夫婦としてあなたを育てていたら、あなたはいまのあなたになっていましたか? 永恩長公主・高夏瑶さまに?」
返答が喉につかえる。
「あなたが元妓女の娘なら、太上皇さまはたとえ師父の忠節に感じ入ったとしてもあなたを宗室に迎えなかったでしょう。柳どのがご健在なら、母と娘を引き離すことはできませんから、あなたが公主の身位を賜ることもありません。あなたがた母娘の生活の面倒は見てくださったでしょうし、年ごろになれば良縁を授けてくださったはずですが、花婿は懐和侯・宰忠飛どのではなかったでしょうね」
宰家は高氏一門に次ぐ由緒正しい権門であり、皇家がもっとも信頼する一族だ。君臣の紐帯がそこなわれかねない曰く付きの縁談を強いることはできない。夏瑶は宰家とは無縁の青年に嫁ぐことになっただろう。忠飛もまた、夏瑶ではない娘を娶っただろう。ふたりは他人のまま、べつべつの場所で生きていただろう。
「長公主さまが駙馬どのと鴛鴦の契りを結ぶには、師父と柳どのにふりかかった凶事が不可欠だったんですよ」
そんな、と言いかけて口をつぐむ。
「すべてはつながっているんです。関係ないように見えても、思わぬところで」
「……塞翁みたいなことを言うのね」
そこまで年を食ってはいませんよ、と淫芥はおどけたふうに笑った。
「おふたりを憐れに思われるなら、ご自分を大切になさってください。師父と柳どのが守ろうとしたのは長公主さま――あなただ。おふたりはあなたが幸福に生きることを心から望んでいらっしゃった。その願いを叶えられるのは、長公主さまご本人だけですよ」
同淫芥邸からの帰路、軒車に揺られながら夏瑶は長いこと黙りこんでいた。
「夏瑶」
ふいに字を呼ばれる。となりを見ると、忠飛がおだやかに微笑んでいた。
「同公公はあんなことを言っていましたが――」
「あんなこと?」
「ご両親の願いを叶えられるのはあなただけだと言っていたでしょう。父君と母君のためにも幸福に生きなければならないと。たしかにそのとおりですが、十分ではありません」
力強く断言し、忠飛は夏瑶の肩を抱く。
「俺もあなたを幸せにします。あなたがご両親の願いを叶えられるように」
「……忠飛さま」
声が震えたが、夏瑶は笑ってごまかした。
「殊勝なことを言うじゃない。いつもは孫妃を見習って人妻らしくふるまうべきだとかなんとか、がみがみお説教するくせに」
「慎みを持ってくださいとお願いしているんです。先日だって危うくはしたない格好でお出かけになるところでしたし、年相応の落ち着きを身につけていただかなければ」
「はしたない格好じゃないわ。巷で大人気の長裙よ。裾をあげて足首まで出すのが当世風なの。足もとが軽くて歩きやすいし、動くたびに裾がひろがって可愛いわ」
「それがはしたないと言っているんですよ。足首をさらして往来を歩くつもりなんですか? そんなことをなされば、行きかう男どもが目を奪われて――」
夏瑶は口づけで夫の繰り言を封じた。
「あなたってほんとに小言が多いわね。口をひらけばあれがだめだの、これがだめだのと文句ばっかり。ときどきあなたが夫なのか小姑なのかわからなくなるわよ」
「夫だから小言を言いたくなるんですよ。あなたの足首をほかの男に見せたくないんです」
「足首以外なら見られてもいいの?」
「本音を言えば、あなたの髪の毛一本すら見られたくありません。可能ならあらゆる男から隠しておきたいですよ。でも、俺の不安を解消するために外出を禁止すれば、あなたは気鬱にかかってしまう。室内にじっとしていられないご婦人なのですから」
よくわかってるじゃない、と夏瑶が胸をつつくと、忠飛はその手をつかんだ。
「俺はあなたの笑顔が好きです。あなたにはいつも笑っていてほしい。ですから、外出は禁止しません。いつどこにお出かけになるのかは――家人に行き先を知らせること、護衛と側仕えを随行させることをお忘れなく――あなたの自由です。その代わり、約束してください。足首が見える長裙は邸のなかだけでお召しになると」
「仕方ないわね。譲歩してあげるわ」
「俺の願いを叶えてくださるんですね?」
「出かけるときは足首が隠れる長裙を穿くことにする。これでいいでしょ?」
心底ほっとしたふうに忠飛が眉をひらくので、夏瑶は思わず笑った。
「変な人。足首くらいで大げさね」
「大げさじゃないですよ。美しいものを衆目にさらすのは危険です。悪い男が目をつけるかもしれません。いや、人柄の良し悪しは関係ない。男というものは……もうやめましょう、こんな話。せっかくふたりきりなのに、よその男のことなど話したくない」
「あなたが勝手に話しはじめたのよ。行きかう男に足首を見せるなとかなんとか」
「そうだ、足首のことです」
忠飛は真剣そのものの面持ちでこちらを見つめてくる。
「俺にならいつでも見せてくださってかまいませんよ」
「……馬鹿」
真っ赤になった顔を逞しい胸にうずめて目を閉じた。夫の腕に抱かれていると、怖いものなどないという気がしてくる。いつだって忠飛がそばにいてくれて守ってくれる。夏瑶の気持ちをわかってくれて支えてくれる。やきもち焼きなところが玉に瑕だけれど、人一倍、夏瑶を愛おしんでくれている証拠だから許してあげる。
幸せだ、このうえなく。自分はいま、養父と母が望んだ未来を生きている。
――お父さま、お母さま。
夢のなかでいいから会いたい。血をわけた実子のように慈しんでくれた養父と、多難を乗り越えてこの世に産み落としてくれた母の顔を見て、ふたりに抱きついて、胸いっぱいの感謝の念を余すところなく伝えたい。
そして涙まじりの笑顔でこう言うのだ。
――来世でもわたくしの両親になってね。
かならず恩返しをするから。今生のぶんまで。
【おわり】