君を怨み君を恨み君が愛を恃(たの)む
『後宮茶華伝 仮初めの王妃と邪神の婚礼』発売記念 はるおかりの書き下ろし番外編
敬事房の女官・爪香琴が皇帝付き次席宦官・独囚蠅邸の門前に立ったとき、晩冬の日輪は中天に達しようとしていた。
「あの人はいる?」
香琴が問うと、取り次ぎに出てきた老僕は苦笑いした。
「いらっしゃいます。昨夜はお疲れだったようで、まだ臥室からお出ましになりません」
「そんなことだろうと思ったわ。いまから叩き起こすから、朝餉……いえ、昼餉の支度をお願いできるかしら? 簡単なものでかまわないわ」
かしこまりました、と老僕は如才なく首を垂れる。
彼も家主の囚蠅とおなじく宦官だ。老齢になって第一線で働けなくなった宦官は浄軍に落とされるのが通例。老身に浄軍のつとめは過酷すぎるから、数年もしないうちに寿命が尽きるのが落ちだ。三監と呼ばれる上級宦官の邸に仕えるのはある種の救済といえるが、三監のなかには同類を酷虐することを好む残忍な輩もいるので、どのような人物に拾われるかで彼らの晩年が穏当なものになるか、悲惨なものになるか決まってしまう。
この老僕はあきらかに前者だった。
囚蠅は九陽城では用をなさなくなった老宦官を邸に引き取り、終の棲家と軽易な仕事を与えている。囚蠅の彼らへの態度は骨肉に対するものように情味にあふれており、ここに仕える老宦官たちはみなおだやかな余生を送っている。
正房は静まりかえっていた。それもそのはず、囚蠅は九陽城で今上の御前に侍っている時分なのである。
――こんなにすれちがっているのに契兄弟疑惑がささやかれるなんて、女官たちはよほど噂話に餓えているのね。
破思英の奸計により住まいを失った皇后付き次席宦官・同淫芥が囚蠅の邸に転がりこんでから早三月。
後宮では暇を持て余した女官たちがひとつ屋根の下で暮らす彼らの熱愛ぶりを絵や小説にあらわして楽しんでいるが、彼女たちは囚蠅と淫芥が邸で食卓を囲む機会さえないことを知らない。片や皇帝の、片や皇后の側仕えであるばかりでなく、褐騎として秘密の任務にも追われているのだから、断袖の癖にふけっている暇などない。
――それにしても、あの人の寝穢さはどうにかならないのかしら。
客房の閨に入り、香琴は小さく息をついた。窓かけの隙間から愛日がそろりと顔を出しているのに、寝間の主はなおもすやすやと夢を貪っている。
淫芥はひどく寝つきが悪いが、いったん寝入るとなかなか目覚めない。このありさまでは刺客に襲われたらひとたまりもなかろうと案じたこともあるが、熟睡中でも殺気には敏感らしく、寝首を掻こうと侵入してきた刺客を幾度か撃退している。しかし、香琴が牀榻に近づいてもいっかな反応がないところを見ると、香琴からは殺気が発せられていないのだろう。たとえ右手に皮鞭を握っているとしても。
――こうでもしないと起きないあなたが悪いのよ。
牀榻のそばに立ち、香琴は勢いよく衾褥を引きはがして皮鞭をふりおろした。
「うわっ、なんだっ⁉」
淫芥が仰天して飛び起きる。せわしない視線で香琴をとらえ、渋面になった。
「……んだよ、おまえかよ。朝っぱらからなんの用だ」
「いつまで朝のつもり? もう昼よ」
「真っ昼間になんの用だよ」
「あなたを起こしに来てあげたのよ」
「起こしてくれと頼んだおぼえはねーよ。だいたいなんだよ、その鞭は。なんだってそんなもんを持ち歩いてるんだよ」
「護身用よ。京師はすっかり物騒になったわ。か弱い女の身じゃ、武器のひとつやふたつ持っていないと外も歩けないのよ」
「鞭を持ち歩いてる女のほうが怖えーよ」
黒い清水のような髪をかきあげ、淫芥は恨みがましい目つきでこちらを睨んだ。
「なんの用だか知らねえが、今日はせっかくの休みなんだ。ゆっくり寝かせてくれ」
衾褥をつかもうとのばされた手を皮鞭でぴしゃりと打ち据える。
「休みだから起こしに来たんじゃない」
「おまえの相手をしろっていうのかよ? 冗談じゃねえぜ。寝床で鞭をふりまわす暴力女にはこれっぽっちも食指が動かねえよ」
淫芥は叩かれた手を痛そうにさすっている。
「くだらないことを言っていないでさっさと着替えて。あなたの家に行くわよ」
「俺の家はここだ」
「ここは独内監の家でしょう」
「俺の家でもあんの」
「そう思ってるのはあなただけよ。独内監がぼやいていたわ。あなたがここにいると女官たちの噂がひどくなる一方だから、一日も早く出ていってほしいって」
淫芥がいっこうに出ていかないと囚蠅に相談を受けた。
「例の噂にはほとほと参っているんです。このまま居座られたらますます醜聞が飛び交いますよ。いまですら、女官たちに妙な目つきで見られてうんざりしているのに……」
なんとかしてくれないか、と泣きつかれたのが約半月前。
「独内監がかわいそうだから、あなたに代わって家探しをしてあげたわ。費用は支払ってきたし、調度はひととおりそろえたから、すぐに家移りできるわよ」
「いくら払ったんだよ?」
香琴が金額を言うと、淫芥はおどけたふうに口笛を吹いた。
「へえ、おまえもけっこう貯めこんでるんだな。一女官にしてはなかなかやるじゃねえか。よほどいい金づるを見つけたな。うまい話を知ってるなら俺にも教えろよ」
「なに言ってるの。あなたのお金で払ったのよ」
「……は?」
「あなたの家を買うのに私の手持ちを使うわけないでしょ。私は一文も出してないわよ」
「俺の金ってどういうことだよ? そんな金、出したおぼえはねえぜ」
「でしょうね。あなたが知らないうちにすませておいたから」
「知らないうちにって……おい、まさか……⁉」
淫芥は血相を変えて布製の枕をつかんだ。なかから方形の小箱を取り出す。
「……ない! 俺の、宝鈔が、一枚も!」
小箱をひっくりかえしたが、なにも出てこない。匣中におさめられていた宝鈔(紙幣)のぶ厚い束はそっくりそのまま新居購入の費えに消えたのである。
「枕の分だけじゃ足りなかったから、ほかの隠し場所からも回収しておいたわ」
「『回収しておいたわ』じゃねえよ! 他人の金を無断で持ち出すな! そういうのはな、盗みっていうんだぞ!」
「ご高説ね。独内監の銭包から銀子をくすねてる騾馬に言われたくないわ」
「俺のは小銭、おまえのは大金! 金高がちがいすぎるだろうが! 同列に語るな!」
「あなたのために使ったのよ。着服したかのように非難されるのは心外だわ」
「そういう問題じゃないだろ!」
「うるさいわね。この程度の額で大騒ぎしないで。皇后付き次席宦官なんだから、いくらでも稼げるでしょ。そんなことより顔を洗ってきて。そのあいだに着替えを用意しておくから。細かい荷物は後日、取りに戻るとして、今日のうちに家移りをすませてしまいましょう。じき荷運びの人が来るわ。それまでに支度をしておかなきゃ」
「荷運びだと!? なんでおまえがそんなものを手配してるんだ!?」
「さっきも言ったでしょ。独内監に頼まれたからよ。これは決定事項なの。ぐだぐだと言い訳しても無駄。今日中に立ちのくと独内監に約束してるんだから。抵抗するなら、縄で縛りあげて軒車にほうりこむわよ」
「横暴だ! おまえに家移りを強要される筋合いはねえぜ!」
「ふーん。あくまで抗戦するってわけ。じゃあ、鞭に物を言わせるしかないわね?」
香琴が右手をふりあげると、淫芥はびくりとして首をすくめた。
「……わ、わかったよ……! おまえの言うとおりにするから、鞭はやめてくれ!」
「自分の立場を理解したなら、とっとと顔を洗ってきなさい」
「行くよ、行ってくるから……鞭はかんべんしてくれよ!」
おっかなびっくり牀榻からおりて、脱兎のごとく駆け出す。途中で香几に蹴躓きつつ、ふりかえりもせずに部屋を出ていった。
その情けない背中を見送り、香琴は櫃から外套と冬物の道袍を出して衣桁にかけた。着替えの支度をするのに淫芥付きの奴僕を呼ぶ必要はない。どこになにがしまってあるのか、わが家のように承知しているのだ。
「まるで菜戸のようね」と同僚の女官たちはからかう。彼女たちの笑い声に皮肉の棘がひそんでいることには、香琴も気づいている。
――どれほど深い仲になっても、私は義妹どまり。
宦官の恋人を義妹、妻を菜戸と呼ぶ。
建国間もないころは祖法によって宦官の私通が禁じられており、妻帯はおろか、情人を持つことさえ厳禁であった。禁を破った者は親族ともども棄市(さらし首)に処されたが、それもいまや古くさい昔語り。
当節では菜戸を持たない宦官のほうがすくなく、九陽城の底辺で苦役に従事する浄軍の宦官でさえ、素肌をあたため合う相手がいるという。
廟堂の大官たちと渡り合う三監ともなれば、十指にあまる妾をたくわえているのがふつうだ。なかには皇族よりも多く美女を侍らせる者さえいて、三監の猟色は彼らの欠けた肉体に宿る野心と同様にすさまじい。
弟弟子の囚蠅をして色魔と言わしめる淫芥もあちこちで浮名を流しているが、同時に複数の義妹を持つことはあっても、なぜか菜戸を持ったことはない。
「菜戸なんざ、わずらわしいだけだ」
当人は面倒くさそうに言うが、本心だろうか。
ほんとうの理由は「わずらわしさ」以外のものだという気がする。たとえば、過去に言い交わした女人がいた、というような。彼女はもう亡くなっている、あるいはほかの男に嫁いでいるのではないか。淫芥は旧情を忘れられず、独り身を貫いているのでは。
――あの人がそんなに純情なはずないじゃない。
ひとりの女人に赤心を捧げるなど、淫芥に限ってありえない。菜戸を持てば彼女の妬心に漁色を制限されるので、気楽に生きていたいというだけのことだろう。
きっとそうだ。……そうであってほしい。ほんのすこしでも考えたくないのだ。彼の心に住みついて離れない女人が存在するなどとは。
――どうかしているわ。あんな人に本気になるなんて。
はじまりは打算だった。
手ごろな三監を出世の足がかりに利用しようとしただけのこと。香琴には野心があった。いつか権力を手に入れ、傲慢で非情な主を圧倒し、わが足下にひざまずかせるという切なる願いが。野望を果たすために必要だったから淫芥と慇懃を通じた。野心がなければ宦官に近づきはしない。
香琴だって娘時分にはまっとうな男と結ばれて子をもうける未来を夢見ていた。世間から騾馬と呼ばれて蔑まれる宦官に肌を許すことは、賤しい家婢にとっても恥辱にほかならない。なぜならその行為は、禽獣に辱められることと変わりないからである。ゆえに宦官と情交を結んだ女は騾妾と呼ばれ、親族ともども白眼視されるのだ。
なにもかも覚悟のうえで、目的のために貞操を捨てた。世人に嘲弄されることさえ受け入れた。非望が実を結びさえすれば、水火も辞さない覚悟だった。
それなのにどうだ、このありさまは。
――あの夜がなければ、こんな気持ちは知らずにすんだでしょうね。
十年前、淫芥とはじめて言葉をかわした日のことをいまでもときおり思い出す。
たおやかな風が頬を撫でる春の夜だった。
香琴は――当時は嬉児と名乗っていた――東宮のはずれにある廃園をさまよっていた。主に蝋梅を一枝、手折ってくるよう命じられたからだ。
実家でそうしていたように、主は退屈しのぎに嬉児を虐げた。
それは粗末な食事をぬくことであったり、女官に命じて体罰を与えることであったりもしたが、もっとも頻繁に行われたのは理不尽な用命だった。
「明日の朝までに綬帯鳥の刺繍を仕上げてちょうだい」
「風箏が屋根に引っかかったわ。のぼってとってきなさい」
「池の水が汚いわね。いますぐきれいにして。ただし、水を取り替えずに」
一睡もせずに刺繍を仕上げても、出来が悪いと難癖をつけられて打擲された。屋根にのぼってやっとの思いで風箏をつかめば、梯子をはずされておりられなくなった。池のほとりで必死に藻をすくい取っていると、背中を蹴りつけられて水中に落とされた。
口答えなどできるはずもない。
嬉児は婢女。主の持ち物なのだ。使い古しの梳き櫛や縫い取りがほころびた手巾のように、主の気分しだいで生かされ、殺される。
それでも捨て身になれば抵抗することもできただろう。
一生虫けらのように踏みにじられるのなら一思いに死んだほうがましだとすべてをあきらめれば、一矢報いることもできただろう。
さりとて嬉児には弟がいる。嬉児が主に反逆すれば、主家で奴僕としてこき使われている弟の身が危険にさらされてしまう。酷虐に拍車がかかるだけですめばいいほうで、最悪の場合、嬲り殺しにされかねない。
両親亡きあと、弟は唯一の肉親だ。弟を守ってやれるのは嬉児しかいない。だから耐えるしかないのだ。血も涙もない主にどれほど虐用されても、怨みを押し殺して耐え忍ぶよりほかに道がない。
真冬ではない。車軸を流すような雨が降っているわけでもない。心地よい春の晩に一枝の蝋梅を手折ってくるよう命じられただけだ。ふだんの無理難題とくらべれば、はるかに楽な仕事であるはずだった。指定された廃園が曰く付きの場所だとしても。
「あの廃園には幽鬼が出るんですって。婢女が何人も襲われているらしいわよ」
主は嬉々としてそんなことを言ったが、嬉児は真に受けなかった。ほんとうに存在するか否かわからない怪異より、確実に存在する冷血な主のほうがはるかに恐ろしい。
廃園で蝋梅を探しているときもうしろをふりかえりはしなかったし、臆病風に吹かれて足がすくむこともなかった。
道に迷ったのは、足もとを照らしてくれるはずの月光が弱すぎたからだ。主は「おまえに彩灯なんてもったいないわ」と言い捨て、嬉児に明かりを持たせなかった。
墨を流したような視界のなか、香りを頼りに蝋梅の木を探していると、近くで物音がした。嬉児は反射的に身をかたくした。幽鬼を恐れたわけではないが、耳をそばだて様子をうかがう。するとなにかが夜闇を微妙に震わせた。それが媚びもあらわな女の甘い吐息だと気づくまで、寸刻とかからない。
「だめよ。すぐに戻らなきゃ」
「すこしくらい遅れてもいいだろ」
「このあいだも主の目を盗んで抜け出してきたのよ。怪しまれるわ」
「大丈夫だって」
「もう、だめって言ってるでしょ。主は病的な宦官嫌いなの。側仕えの私があなたとこういうことをしてるって知ったら、きっと激怒して……」
抗う女の声が途切れ途切れの嬌声に取って代わられる。どうやら宦官と女官の情事の現場に居合わせてしまったようだ。めずらしいことではない。皇宮で夜歩きしていれば、ひと晩に数回はこのような場面に出くわしてしまう。
――こんなところで情事にふけるなんて不潔だわ。
胸にきざした不快感には無視できないほどの嫉妬がまじっていた。女官だけでなく、婢女にも宦官とねんごろになる者は多い。彼女たちの年齢はさまざまだが、共通しているのは器量がよいということだ。
――私みたいな醜女には騾馬でさえ言い寄らない。
かつて、嬉児は容姿に恵まれていた。けっしてうぬぼれではない。主の父親――薄氏一門の当主――に「おまえがわが娘であったなら」と惜しまれたほどだ。
身に余る賛辞が災いを招いてしまった。十人並みの容色しか持たない薄家の令嬢は自分よりも器量のよい家婢を妬み、嬉児の顔に烙鉄で醜い傷痕を刻みつけたのだ。
爾来、嬉児を美人だと褒めそやす者はいなくなった。しつこく嬉児に言い寄っていた奴僕たちでさえ見向きもしなくなった。
ただでさえ食うや食わずの生活と苛酷な労働を強いられていれば、娘らしい瑞々しさはどんどん削り取られていく。髪は艶を失い、頬はこけ、肌は干からびて、唇はひび割れてしまう。そのうえ片側の頬がおぞましく焼け爛れているのだから、だれもが嬉児を見るなり目をそむけるのも道理であろう。
女色に餓えているはずの下級宦官でさえそうなのだから、三監は言うまでもない。三監を籠絡して主を凌駕する権力を手に入れようともくろんでいた嬉児は、主の悪意によって野心を叩きつぶされ、絶望の淵に立たされた。
――私は死ぬまで小姐に飼い殺しにされるんだわ。
主の憂さ晴らしの道具として使いつぶされる一生。
だれにも相手にされず、ひとかけらの慰めにすらありつけずに、この身に課せられた非運を嘆きながら年老いていく。多情な女官たちのように色恋に胸をときめかせることもなく、みなに足蹴にされ、侮蔑され、呪わしいほどの悔しさが満身を打ち震わせているうちに老婆になってしまうのだ。
どうして、と思わずにはいられなかった。あんな主の持ち物にさえならなければ、嬉児はべつの人生を歩むことができたはずだ。それはいまよりずっとましなものだったにちがいない。だれかに求められ、愛されていたにちがいない。
いつの間にか、嬉児はその場にうずくまっていた。立っていられなかったのだ。空腹で、疲労困憊していて、なにより孤独だった。
――ひとりでいい、たったひとりでいいから、だれかが私のそばにいてくれたら。
嬉児にやさしいまなざしを向けてくれ、そっと肩を抱いてくれて、女として愛してくれる人がたったひとりでもいてくれたら。彼がだれであれ、どんな身分であれ、嬉児は彼を愛すだろう。餓えた猫が食べ物を与えてくれる人間になつくように。
声を押し殺してひとしきり泣き、そうしたことを悔やんだ。無益な行為だ。いくら嗚咽したところで、この渇いた身体がいっそう干上がるだけ。
涙をのみこんで立ちあがろうとしたが、力が入らない。蓄積した疲れとひもじさが四肢を萎えさせていた。いつまでもうずくまっているわけにはいかないのに。早く蝋梅を手折って主に届けなければ。主は帰りが遅すぎると苛立っているだろう。嬉児にどんな罰を与えようかと、冷酷な目をぎらつかせているだろう。
両手を地面について足に力をこめたときだった。その声が降ってきたのは。
「おまえ、怪我でもしてるのか?」
それが自分に向けた問いだと気づくのにしばし時間を要する。
先ほどまで女官と情事にふけっていた宦官だ。女官もまだそばにいるのだろうか。もう帰ったのだろうか。
いずれにせよ、視線をあげなかったのは賢明だった。嬉児のおもてが視界に入れば、だれもが顔をしかめる。汚らわしいものを見たせいで嘔気をもよおしたと言いたげに。
嬉児は首を横にふった。言葉を発しなかったのは視界の端に蟒服の裾が映りこんだからだ。三監は蟒蛇が縫いとられた官服をまとうが、位階によって色がちがう。太監は紫紺、内監は紅緋、少監は群青。嬉児の視界に入ったのは群青の蟒服だった。
――こんなときに少監と出くわすなんて。
三監は市井で暴君のごとくふるまっていると聞くが、皇宮内でも似たようなものだ。彼らの大半が虫こなしに目下の者を横虐する。
その対象にはもちろん婢女もふくまれている。容姿が美しければ慰みものにされ、醜ければ笑いものにされる。彼らの目にとまることは災厄にほかならない。一刻も早く彼らが自分に興味をなくして立ち去ってくれることを祈るばかりである。
だから声を発しなかった。声を聞かれれば若い女だと悟られて勝手に期待されてしまう。気まぐれに頤をすくいあげれば、花も恥じらう麗しいかんばせがあらわれると。
「怪我じゃないなら、なんでそんなところに座りこんでるんだよ?」
少監が地面にかがみこんだので、嬉児は身を縮めた。
――また唾を吐きかけられるかもしれない。
体調が悪かったのに、主の命令で遠出する羽目になったときのことだ。仕事をすませて帰る途中、ふらついて転んだ。
たまたま通りかった少監が親切そうに声をかけてきて、手をさしのべてくれた。うかつにも嬉児は彼の手につかまって立ちあがろうとし、おもてをあげてしまった。嬉児の顔を見るや否や、少監は糞土にでもさわったかのようにぎゃっと叫んで手をふりはらい、「鬼怪め」と罵るついでに唾を吐きつけた。
これは最悪の出来事ではない。桶いっぱいの屎尿を浴びせられ、恭桶のなかに押しこめられ、吐瀉物を食べさせられることにくらべればはるかにましな部類だ。
嬉児が三監のなかでも少監をもっとも恐れているのは、主付きの少監が事あるごとに嬉児を責めさいなむからだ。
主の歓心を買うためにそうしているのだろうが――汚物まみれになった嬉児を見ると主は上機嫌になるのだ――あきらかに少監自身もその行為を楽しんでいた。
度重なる辱めに恐怖心を植えつけられ、嬉児は少監に出くわすと逃げ出すようになった。彼らの視線が怖い。声が、しぐさが、足音が、嬉児を震えあがらせる。
逃げたい。少監の視界から消えてしまいたい。さもなければまた汚辱を与えられてしまう。罵倒され、唾を吐きかけられる。彼の機嫌が悪ければ蹴り飛ばされるかもしれない。怪我はしたくないのに。先日受けた杖刑の傷がまだ癒えていないのに……。
「ほんとに具合が悪そうだな。どこの殿舎に仕えてるんだ? 送ってやろうか」
嬉児が首を横にふると、少監が焦れたように肩をつかんできた。
「黙ってないでなんとか言えよ。まさかしゃべれないってわけじゃねえだろ? おい、どうなんだ? しゃべれないなら――」
少監がつづきを打ち切る。雲間からもれた月明かりが嬉児の面輪を照らしたからだ。
身がまえた。突き飛ばされ、罵言を浴びせられるだろう。だからといって抗う力もなければ、抗うという選択肢もない。どれほど非道なあつかいを受けても、婢女にはささやかな抵抗さえ許されない。
浄軍が全宦官の底辺なら、婢女は皇宮で暮らす女の最底辺。
尊厳などない。意思など持ってはいけない。蹴りあげられた石ころがなすすべもなく溝に落ちるように、されるままになっていなければ。嬉児に許された自衛の手段はあらゆる害意にそなえて心身を強張らせることだけ。
たったひとつの武器で自分を守ろうとしたが、予想していたことは起こらなかった。
「ああ、そうか。薄秀女の婢女なんだな、おまえ」
少監はこともなげに言って、嬉児のひたいに覆いかぶさっていた髪をそっとはらった。驚愕が全身を駆けめぐった。なぜならそのやさしいしぐさは、嬉児が毎日受けている仕打ちとは似ても似つかないものだったので。
「噂じゃ、薄秀女はとんだ鬼女らしいな。その傷も主につけられたんだろ。ひどい仕打ちに耐えかねて逃げてきたのかい? それとも用事を言いつけられてここに来る羽目になっちまったのか? 逃げてきたんなら悪いことは言わねえから戻ったほうがいい。宮正司が逃亡奴婢の取り締まりを強化してる。やつらに捕まっちまうと、主の癇癪のほうがましだってくらいの罰を食らうぞ。用事を言いつけられたんなら、さっさとすませて帰れ。ここは浄軍どもの溜まり場だ。俺が追い払ったんでいまはいねえが、じきに戻ってくる。やつらも身の程はわきまえてるから女官には手を出さねえが、婢女相手なら見境なく取って食おうとするぜ。おまえみたいないい女がひとりでふらついてると危ねえよ。狼の巣穴に兎が迷いこんでくるようなもんだぜ」
いい女、という言葉が胸に刺さる。嬉児にそんなことを言う者はいない。
「あー……ひょっとしてあれか? 世を儚んで死に場所を探しに来たってわけか? やめとけやめとけ。こんなところで死んだってつまらねえよ。そこらで首でもくくって死んでみろ。おまえの骸を最初に見つけるのは浄軍どもだぞ。連中が婢女の死体になにをすると思う? およそ口には出せねえことさ。やつらは四六時中、女に餓えていやがるからな、女体がそこらに落ちていれば生きていようが死んでいようが関係ねえ、食えるものは食えるうちにいただくってわけだ。苦労して死んでまでそんな目に遭うんなら、死んだかいがねえだろ。ま、そもそも死ぬ価値もねえんだけどな、この濁世には」
少監はいかにも大儀そうに地面にあぐらをかいた。
「なにがあったのか知らねえが、そう思いつめるなよ。生きていればろくなことはねえさ。かといって死んでも変わらねえよ。どうせ地獄に落ちて獄卒どもに責め立てられる毎日だろ。いまとなにがちがう? 畢竟、生きるも死ぬもおなじことだ。どっちが楽か、なんてくだらねえことを考えてる暇があったら、とりあえず生きてみろよ。あと一日、あと三日、あと十日って具合に。どうしても我慢ならなくなったら、そのときはしょうがねえな。俺を訪ねてこいよ。俺がおまえを殺してやるから」
膝の上に頬杖をつき、少監はこちらに視線を投げてよこした。
「自分で自分を殺すより、他人に殺されるほうがいくらか気が楽だぞ。浄軍どもの玩具にならねえように骸の始末もつけてやる。安心しな。俺はこういうことに慣れてるんだ。つまり、女を殺して死体を片づけるのにな。おまえがもう我慢ならねえ、いますぐ死にたいって気持ちになったら、俺が助けてやるよ。だからそれまで生きてみな。生きてりゃいいこともあるなんて嘘八百は言わねえが、この世で幸せになれねえやつはあの世でも福運とは無縁だ。死んだらいい思いができるなんて甘い考えは捨てろ。今生から逃れても地獄に囚われるだけだ。どっちに転んでも囚人に変わりねえのさ、俺たちは」
言下にごそごそと懐を探って包みを取り出し、なかから小さなひし形のものを出す。
口をあけろよ、と少監が言うので、嬉児は怖気立った。言われたとおりにすれば、なにかを口腔に押しこめられる。きっとそれは汚物か、それに準じた代物だ。思わず吐き出すと、横面をしたたかに殴りつけられる。いままでの悲惨な経験が走馬灯のように脳裏に浮かび、嬉児は歯を食いしばって震えをおさえこもうとした。
「心配するなって、妙なものを食わせようってんじゃねえから。ほら、ただの薄荷飴だ。先に俺が食ってみせるぜ。見てろよ」
少監はさわやかな翠色の飴を月光にかざし、自分の口にほうりこんだ。
「小腹がすいたときのために持ち歩いてるんだ。宮仕えをしてりゃ、飯を食う機会を逃しちまうことはざらにあるからな。こんなもんでもないよりはましさ」
おまえにもやるよ、ともうひとつの飴を嬉児の鼻面につきつける。
つやつやと光る翠色のかたまりからは甘ったるい水飴のにおいがした。おそるおそる唇をひらくと、思いのほか丁寧に飴を口に入れられる。舌の上にぽとりと落ちたひし形の粒の甘みをじんわりと感じたとたん、視界が涙でゆがんだ。
――あのときの月餅みたいに甘いわ。
まだ両親が生きていたころ、父が薄家当主からさげわたされた甜点心を家族四人で分け合って食べた。それはたったひとつの小ぶりな月餅で、四等分するとほんのひと口分になってしまったが、甘露のような味わいだった。生まれの賤しさも、肌身に染みついた侮言も、蓄積した疲労も、なにもかもを吹き飛ばしてくれた。
あのころは幸せだった。
慕わしい父がいて母がいて、可愛い弟がいた。どんなに忙しくても一日に一度は家族の顔を見ることができた。嬉児はひとりではなかった。
それなのに当時は不満でいっぱいだった。両親にもっといいものを食べさせたかったし、弟にもっとあたたかい衣を着せてやりたかった。
だから薄家当主に色目を使った。枕席に侍って妾室に迎えられれば、家族の暮らしを楽にしてあげられる。若く美しい家婢が生まれながらのさだめに抗おうとすれば、色香を武器にするしかない。
そのもくろみは失敗に終わったばかりか、夫人と令嬢の反感を買う結果につながった。嬉児は以前にも増して酷使され、両親への酷虐も輪をかけてひどくなった。やがて父と母が相次いで病に斃れ、弟は孤児になってしまった。
生前、両親は嬉児の愚挙を責めなかったが、嬉児のせいでふたりが横死したことはまぎれもない事実だ。償わなければならない。せめてもの罪滅ぼしに弟を守らなければ。
死にたいなんて考えてはいけない。これは罰なのだから。主がどれほど嬉児をむごくあつかっても耐えなければ。汚泥にまみれても生きぬかなければ。
恥辱がなんだ。孤独がなんだ。
その程度の苦難も乗り越えられずに贖罪の道を歩めると思っているのか。
前進するしかない。弟を守るために、罪を償うために――。
「下を向くな」
ふいに肩を抱き寄せられ、嬉児は目をしばたたかせた。
「どん底にいるときこそ上を向くんだ。見てみろよ、あの月を。あんな真っ暗な天の果てで磨いた鏡みたいに輝いていやがる。あいつを見ているとむしゃくしゃしてくるだろ」
「……むしゃくしゃ?」
尋ねかえすと、少監は嬉児を抱いていないほうの手でこぶしを作って夜空にかかげた。
「お高くとまっていやがるからさ。俺たちが牛馬よろしくこき使われて死にそうになってるときも、ああやってすました顔でこっちを見おろして悦に入ってるんだぜ。腹が立つだろ。童宦時代は毎晩のようにあいつを睨んで悪態をついたもんさ。『いまに見てろよ、そのうちこの俺が天まで届く梯子をかけて貴様の横面をぶん殴ってやる』ってな」
ぶん殴って、の箇所で月を殴りつける動作をする。そのしぐさが本気で憎らしそうなので、嬉児はわれにもなく口もとをゆるめた。
「変な人だわ、あなた」
こんな台詞は、平生はけっして口にしない。声に出したが最後、相手から酷烈な報復を受けるとわかっているからだ。けれどこのときは自然に言葉が滑り出た。奇妙な安心感につつまれていたせいだろう。彼の腕のなかでは、なにを言っても許されるという――。
「そいつは誉め言葉だな」
少監は軽やかに笑い飛ばした。
「殴られれば痛え、蔑まれれば気落ちする。それがふつうさ。濁世を生きるのはたいそう難儀だ。生きていれば生きているほどくさくさしちまう。たいていのやつはうんざりして死にたくなる。しかし俺みたいな変人は殴られれば殴られるほど、蔑まれれば蔑まれるほど奮起するんだ。月にむかって唾を吐き、地面を踏みつけて長い夜をやり過ごす」
指先で月を弾き、まぶしそうに目を細める。
「現世では生きているやつが勝者だ。どん底にいても、生きてさえいれば逆転の目がある。それを自分から捨てちまうやつは馬鹿だよ。みんないつかは死ぬ。だれもが忘れがちだが、永遠には生きられない。いまこの瞬間の苦痛も屈辱も、過ぎてしまえば一炊の夢だ。だったらうなだれてねえで、月の野郎をぶん殴って憂さを晴らして、明日に立ち向かえよ。明日もどうせろくな一日じゃねえが、力尽きて今日死んじまったやつを追い越して前に進んだ分、そいつには勝ってるってことさ。どんな勝ちでも勝ちは勝ちだ。胸を張っていろよ。自分は汚泥まみれの現世にのまれちまうような敗犬じゃねえって」
薄荷の香りが胸にすっとしみていく。
「おまえもやってみろよ」
少監は嬉児の手をつかんで夜空に突き出した。
「月の横面を殴ってみろ。すっきりするぞ」
言われるままにこぶしを作り、春の夜空にかかった朧月を殴りつける。なんの手ごたえもないのに、少監は「いいぞ」と膝を打った。
「その調子だ。もっと殴ってやれ。あいつがおまえのいちばん憎いやつだと思って」
おだてられて何度か月にこぶしを叩きこみ、香琴は爆ぜるような笑みをこぼした。
「もうできません。腕が疲れてしまいました」
「じゃあ今夜はこれくらいにして、残りは明日にするか。また俺が付き合ってやるよ」
「……あなたが?」
どういう意味なのか、はかりかねて戸惑う。これでは会う約束をしているみたいだ。嬉児のような醜い婢女に、少監が会いたがる理由はないはずなのに。
「会う約束をすれば、おまえは明日まで生きているだろう?」
「……どうして」
私なんかにそこまで、と言おうとして言えない。ついうっかり頭をあげてしまったからだ。このときはじめてまともに少監の顔を見た。すみずみまで精緻な線でかたちづくられたその面輪は月の絵筆で彩られ、天の御物かと疑われるほど美しかった。
「理由は秘密にしておくよ。今夜のところは」
いたずらっぽく笑い、少監は立ちあがって嬉児に手をさしのべた。
「そろそろ帰ったほうがいい。さもないと明日まで命がもたないぞ。いまごろ、おまえの主はかっかしてるだろうからな」
なんのためらいもなく、嬉児は男のそれほど無骨ではなく女のそれほど頼りなげでもない手につかまる。知っていたのだ。彼が自分の手をふりはらうことはないと。
「あっ、あの……私、まだ用事がすんでいないんです」
送っていこうと促され、嬉児はあわてて言った。
「主の言いつけで、蝋梅を一枝、手折って帰らないといけなくて……」
用事を片づけるまで待っていてくれるだろうか。先に帰ってしまうだろうか。言いよどんでいるうちに、少監は手を離して立ち去った。暗がりにひとり残され、嬉児はうなだれる。舌に残った薄荷の香りが苦く感じられたが、失望は長続きしなかった。
「これでいいかい?」
おぼろな月が照らす視界に黒い長靴が戻ってきた。弾かれたように顔をあげると、一朶の蝋梅がさしだされた。
「きれいなのを選んで手折ってきたんだが、おまえの主は気に入るかな」
「ええ、きっと喜んでくださいます」
嘘だ。主は満足しないにちがいない。嬉児がすることはなんでも癇に障るのだから。主の反応は予想できたが、嬉児は宝物をおしいただくように蝋梅を受け取った。それはまるで少監が嬉児に贈るために手折ってきてくれた花のようだった。
「ありがとうございます、少監さま」
「『少監さま』はやめてくれ」
彼が苦笑するので、嬉児はあわてて謝った。
「ごめんなさい。宦官のかたは『公公』とお呼びするのが作法でしたね」
「公公と呼ばれるほど上等な騾馬じゃねえよ。淫芥でいい。品性のかけらもない名だが、俺はけっこう気に入ってる」
淫芥さま、と嬉児は彼を見つめたままつぶやいた。
――あの邂逅がなければ、私はとうに死んでいたかもしれない。
いや、そんなことはないともうひとりの自分が言う。淫芥はかねてより嬉児に目をつけていた。女としてではなく、褐騎候補として。のちに彼自身が打ちあけてくれた。あの晩、偶然出会わなくても、べつの機会を見つけて嬉児に声をかけたと。
「おまえみたいに餓えた目をしてるやつは褐騎に向いてるんだよ。いずれこの道に引きずりこもうと思って様子をうかがってたのさ。あの日、会えてよかったよ。いちいち手はずをととのえて『出会い』を演出する面倒がはぶけた」
乱れた褥に寝転がり、億劫そうに煙管をくわえながら淫芥はたわいない噂話をするように語った。
「おまえほど落としやすい女は久方ぶりだったな。帯を解くまで十日とかからなかったからなあ。やっぱりそのご面相のせいで色に餓えていたのかい。それとも生まれついての淫婦なのかい」
故意に嬉児を――このころには香琴と名乗っていた――傷つける言葉を選んでいると直感した。なぜならこれは、淫芥の習性だから。
情を交わしてから数年も経つと、淫芥はあからさまに香琴を疎んじるようになった。甘い口説が減り、愛撫がぞんざいになり、逢瀬の間隔がどんどんひらいていく。もっとも香琴に限った話ではない。すべての女に対して、淫芥は同様の態度をとった。
熱っぽく睦言をささやき、柔肌をもてあそび、嬌声の雨を浴びても、彼はけっして女を愛さなかった。あの手この手で女たちを誘惑するくせに、彼女たちが本気になって心を捧げはじめると、うっとうしそうに背を向けて立ち去ってしまう。彼にとってはどの女もひと晩の褥にすぎず、だれもみな、遠からず捨てられるさだめなのだ。
とうとうこの日がやってきたのだと、香琴は鏡台の前で髪をくしけずりながら肩を強張らせた。つい先刻まで彼に抱かれて熱を帯びていた身体が雪風にさらされたかのように冷え冷えとしている。
別れ話を切り出すとき、淫芥は決まって女を侮辱する。これまでの付き合いは彼にとって退屈しのぎにすぎなかったこと、彼女を味わい尽くしてとっくに飽きが来ていることをあけすけに話したうえ、彼女の欠点をあげつらって嘲弄し、刃物じみた言葉で心を引き裂く。女が紅涙を絞ってすがりつき、旧情に訴えて引きとめようとすれば、淫芥は彼女のみじめな姿を尻目にかけて、あたらしい義妹を抱きに行くのだ。
――私がどれほど愛しても、この人は私を愛してくれない。
いつか突き放されるとわかっていた。淫芥が見限った女にどのような仕打ちをするか、いちばん近くで見てきたのだから。予想どおりの展開になっただけで、驚くことはなにもないはずなのに、これまでほかの女に向けられてきた冷ややかな悪意が自分に向けられたとたん、髪をくしけずる手が止まった。
知らず知らずのうちに慢心していたのだ。自分は彼に使い捨てられてきた女たちとはちがうと。そしてその思い上がりを粉みじんに打ち砕かれ、愕然としている。
淫芥は香琴を求めていない。香琴が彼を求めているようには。
女としての香琴はもういらないのだ。彼の配下として十分な働きをすれば、肌をあたため合う必要はない。もとより淫芥にとって情事は女を操る手段にすぎない。色欲を満たす行為ですらないのだ。
彼自身はなにも言わないけれど、幾度も枕を交わしているうちに気づいてしまった。
密か事の最中ですら淫芥はどこか冷めている。その行為を軽蔑しきっているようですらある。春を売るふしだらな道姑と、獣欲のはけ口として彼女を使った男とのあいだに生まれ、物心つくころには色を売っていたという生い立ちがそうさせるのだろうか。
彼は過去を語りたがらないので浄身前の生活についてくわしいことは知らないが、幼少時代に口を糊するため色事を強いられた経験が彼の骨身に本質的な嫌悪感を刻みつけたのかもしれない。
香琴に手をつけたのはそうする必要があったからだ。香琴を思いどおりに動かすにはそれがもっとも手っ取り早い方法だったからだ。はじめからとくべつな情などなかった。香琴もまた、彼の人生を彩ってきた花のなかの一輪にすぎなかった。たとえばそう、彼が手折ってきてくれた、一朶の蝋梅のような。
容赦なく現実を突きつけられ、かすかな夢を叩き壊されてもなお、香琴は泣きわめいたりしなかった。そんなことをすれば、彼は完全に自分を見限ってしまうから。
「なにがおかしいんだ?」
香琴が肩を揺らして大笑いしたので、淫芥はふしぎそうにこちらを見やった。
「あなたがおめでたいからよ」
くしけずった髪を簡単にまとめ、香琴は刷毛を手に取った。面脂でととのえた肌に、水で溶いた翡翠粉のおしろいを塗っていく。
「女を利用したつもりで、逆に利用されているんだもの」
「どういう意味だ?」
「わからない? あの晩、あなたに会ったのはたしかに偶然だった。でも、私にとっては千載一遇の好機だったわ。同淫芥という宦官が婢女にも見境なく手を出すことは噂で聞いていた。だから廃園で女官と情事にふけるあなたに出くわして、渡りに船だと思ったの。あなたが女官と別れるまで待って、地面にうずくまった。あなたなら声をかけてくると踏んだわ。主に虐げられて弱っているふりをすれば、甘い言葉をささやいてくるってね。結果はどうだった? 私の読みが的中したわ」
「俺はおまえを口説いているつもりで、その実、口説かれていたってことかい?」
「いまごろ気づいても遅いわよ。私は婢女で一生終わりたくなかった。出世したかったのよ。皇宮の底辺から這いあがるため、手づるとして三監を使おうと考えていた。もし私が傷物じゃなかったら、あなたよりもっと有望な騾馬を狙ったわ。太監や内監に近づいたでしょうね。あいにく私の容色には傷があるから、あなたみたいな下手物食いの少監に狙いをさだめるしかなかったの。ただそれだけのことなのに、あなたったら一方的に私をもてあそんだ気になって悦に入ってるんだもの。とんだ笑い話だわ」
おしろいで素肌を隠すように、きらびやかな嘘の衣で本心を覆い隠す。真実を語ってはいけない。胸の奥からあふれてくる裸の言葉は彼を遠ざけるだけだ。
「まあ、それくらい許してあげてもいいけど。あなたを使ったおかげで私は女官になれたし、敬事房に役職をもらえた。ほかの三監にも顔をつないでいるから将来は安泰ね」
おしろいを塗り終え、桃花粉をうっすらと肌にのせる。
「褐騎として独り立ちしたら、もうあなたに用はないわ。そろそろ潮時なのかもしれないわね、私たち。これ以上つづけていても、お互いに得るものがないから――」
螺子黛で眉を描いていると、淫芥が香琴のうしろに立った。
だらしなく夜着をまとい、腰の低い位置で縄帯を締めたその姿は、網巾をつけずにほつれるままにした髻とあいまって、巫山の夢の残り香を色濃く感じさせた。
「臙脂をさしてやろうか」
「けっこうよ。自分でやったほうが早いわ」
「遠慮するなって。美人にしてやるから」
「このあいだもそんな大口を叩いていたけど、ふざけて変なさしかたをしたじゃない。おしろいを塗るところからやりなおさなきゃいけなくなって迷惑したわ」
「今日はちゃんとやるよ。ほら、こっちを向け」
勝手に紅筆をつかみ、筆先で合子の臙脂を取って、空いた手で香琴の頤をとらえる。彼がいつになく真摯なまなざしを注いでくるので、抵抗せずにされるままになっていた。
「できたぞ。どうだ、うまいだろ」
「そうかしら。色をかさねすぎたんじゃない?」
手柄顔の淫芥に一瞥を投げ、香琴は鏡をのぞきこんだ。
「やっぱり濃すぎるわよ。これじゃ宣祐年間の化粧だわ。もっと淡くないと……」
「嬉児」
名を呼ばれる。思わずふりかえったときには唇を奪われていた。
「当世風になっただろう?」
昨夜の記憶をよみがえらせる口づけのあとで、淫芥は臙脂が移った唇に笑みを刻んだ。そこでようやく悟る。こうするために、わざと濃く臙脂をさしたのだと。
「なんだよ、この手は」
香琴がたなうらを上にして手を突き出すと、淫芥は怪訝そうに眉をひそめた。
「銀十両払って」
「銀十両!? たかが口づけにそんな金高をとるのかよ」
「口づけじゃなくて臙脂の料金よ。この臙脂はね、西域からの輸入品で、とっても高価なの。小さな合子ひとつ分で銀十両は下らないのよ。もったいないからすこしずつ使っていたのに、よくもまあ湯水のように使ってくれたわね。あなたが無駄遣いしたせいで合子の底が見えているわよ。弁償してもらわなきゃいけないわね」
「もともと残りすくなかっただろ」
「上手に使えばあと四、五回はゆうにもったのよ。でも、これじゃ、せいぜいあと一、二回しかもたないわ。あなたのせいよ。責任をとって銀十両出してちょうだい」
香琴がしつこく手を突き出すので、淫芥は舌打ちした。
「この状況で金勘定かよ。色気のねえ女」
「色気だって銀子とおなじよ。無尽蔵じゃないの。出す相手は選ばなきゃ」
高慢な笑みを浮かべて挑むように淫芥を見あげながら、香琴は内心震えていた。
――お願いだから私を捨てないで。
そんな台詞を口に出したが最後、淫芥は冷めた目で香琴を射貫き、うっとうしい羽虫から逃れるようにきびすをかえすだろう。香琴が追いすがっても、彼は立ちどまってくれないだろう。ひとたび去ってしまえば、二度とふたたび戻ってこないだろう。
淫芥は香琴なしでも生きていけるが、その逆はありえない。彼がいない人生に戻りたくない。それは自分の爪先さえ見えない漆黒の闇だ。
あの場所にまた突き落とされたと思うだけで悪寒がする。一日だって乗り越えられない。絶望の淵に引きずりこまれて月をあおぐこともできない。彼は香琴を現世につなぎとめる唯一無二の存在なのだ。
にもかかわらず、その事実を伝えることさえできない。ほんとうは泣き叫びたいのに。あなたなしでは生きられないと。
――私は病におかされているんだわ。どんな神医も癒すことができない、春怨の病に。
なにもかもがまちがっている。本心さえ打ちあけられない相手に、身を千々に引き裂かれるほど恋い焦がれているなんて。
「わかったよ」
淫芥はふっと口もとをゆるめ、香琴を抱きあげた。
「銀十両分、寝床で働いてやるからそれで手を打て」
「馬鹿なことを言わないで。もう朝よ。身じまいをすませて家に帰らないといけないの。弟が私塾から帰ってくるんだから、食事の支度を……」
褥におろされると、自分が頼りない生き物になったような心地がする。宦官らしからぬ彼の上背のせいかもしれないし、閨中で翻弄されてきた経験のせいかもしれない。
「嬉児……」
口づけと口づけのあわいで淫芥がものくるおしげにつぶやくのを聞いた。
「……すまない」
それがなんに対する謝罪だったのか、いまでもわからない。けれど香琴はほとんど間を置かずに「いいのよ」と答えていた。
「赦してあげるわ」
夢中で彼にしがみつきながら、溺れているのは淫芥のほうだという感じがした。なぜか彼が泣いているように思えたのだ。香琴に抱かれて、嗚咽しているような――。
「いつまでそこに隠れているつもり?」
香琴が鋭い視線を投げると、落地罩の向こうからこちらの様子をうかがっていた淫芥が大げさにびくりとした。
「いやあ、機嫌はなおったかなぁと思ってさ」
「見てのとおり、とってもご機嫌よ」
「おいやめろって、鞭をふりまわすな! 床に傷がついたら囚蠅が怒るぞ!」
「独内監の許可はとってあるわ。『先輩をとっちめてくださるなら部屋のひとつやふたつ、どうなろうとかまいません』ですって」
「……あいつ、他人事だと思って余計なことを……」
「ぶつぶつ文句を言っていないで、さっさとこっちに来て着替えて。髪も結わなきゃいけないんだから、もたもたしてる暇はないわよ」
「もたもたしてるんじゃなくてびくびくしてるんだよ。おまえがそんなもんを持ってるからだぞ! 頼むからそいつをしまってくれよ」
はいはい、と香琴が皮鞭を長裙の隠しにしまうと、淫芥はようやく寝間に入ってきた。大あくびをしながら、だらだらと囲屏のむこうに行く。衣擦れの音で彼が夜着を脱いでいるのがわかるが、手伝いには行かない。
宦官は同類以外に裸体を見せることを嫌う。閨事の最中でも絶対に裸体をあらわにせず、湯浴みや着替えの際は老宦官や弟子に世話をさせる。彼らは病的なほどに己の肉体を恥じ、同類以外の者の視線を恐れているからだ。
少数ではあるが、女人に湯浴みや着替えの世話をさせる者もいる。彼らのほとんどは自他ともに認める愛妻家で、菜戸に全幅の信頼を置いているがゆえに、彼女に己が恥をさらすことをいとわないという。
香琴は淫芥の着替えを手伝わない。なぜなら彼の愛妻ではないから。自分の役割はわきまえている。香琴は彼の配下で、義妹で、友人。配役のなかに菜戸の二文字はない。
――ああ、怨めしい。
夜ごと淫芥の菜戸になれたらと夢想する。生涯をともにしたいと乞われ、彼のために婚礼衣装をまとうことができたら……。
三十路にもなって少女じみた希望を持つ自分にいやけがさす。褐騎としていろんな男や宦官に身を任せてきたくせに、愛しい人の唯一の女になる夢をあきらめられないなんて、みじめすぎて笑い話にもならない。
やり場のない怨めしさを抱えつつも、望みを捨てきれないのだ。心のどこかで期待してしまうのだ。いつの日か、淫芥が香琴の夢を叶えてくれるのではないかと――。
「香琴、来てくれ」
囲屏の陰から淫芥がしきりに呼ぶので、香琴はそちらに足を向けた。
「縄帯がからまった。ほどいてくれ」
「あきれた。皇后さまの側仕えが縄帯ひとつ満足に結べないなんて」
「寝不足でぼんやりしてるんだよ。おまえが叩き起こすからだ」
「朝起きられないのは夜遊びが過ぎるからでしょ。あなたもいい年なんだから、生活をあらためたほうがいいわよ。いつまでも若いころみたいに無茶をしてると――」
道袍の上でからまった縄帯をほどいて結びなおしていると、だしぬけに腰から抱き寄せられた。視線がぶつかり、どちらからともなく唇がかさなる。
――こんなことしなくていいのに。
淫芥は女を嫌悪している。女の色香も柔肌も嬌声も、女を構成するすべてのものが彼にとっては嘔気をもよおす代物だ。なればこそ彼は女を口説き、さまざまな手段でもてあそび、その気にさせたあとで弊履のごとく打ち捨てるのだ。
本気で愛しているかのようにやさしく口づけするのは、香琴がそれを望んでいるから。適当に餌を与えて女を操るのが彼のやり口だ。そのたくみな策略が功を奏さないことはないけれど、香琴には不必要な詐術といえるだろう。たとえどんなに手ひどくあつかわれても、香琴は彼にすがりついて離れないのだから。
「新居にはおまえの部屋もあるのか?」
思いがけない問いに、香琴は目をしばたたかせた。
「どうせ宿代わりに使うんだろ。だったらはじめからおまえの部屋をつくっておけよ」
「……いいの?」
おそるおそる尋ねると、淫芥は甘ったるい目もとに微笑をにじませた。
「いいもなにもおまえが買った邸だろ」
「あなたの銀子で買ったのよ。私のものじゃないわ」
――言えたらいいのに。あなたは私のものよ、と。
「いいや、おまえのものさ。というか、そうしてくれたほうが好都合なんだよなあ」
「どういう意味?」
「棘太監の件で主上が激怒なさってるのは聞いてるだろ? 三監の蓄財が度を越えているって。今後は取り締まりが厳重になるらしくてさ、邸を俺の名義にしておくと、いろいろまずいことになりそうなんだ」
破思英の夫だった棘灰塵は震怒をこうむり、罷免されたうえで九陽城から追放された。怨天教に入信した事実は認められなかったので命までは奪われなかったものの、長年の宮仕えにより築いた財産は一文残らず没収されることになった。その金高が歳入の五年分をゆうに超えていたため、今上は「宦官の涜職は目に余る」と憤り、内廷の綱紀粛正のため、貪婪な三監を摘発するよう勅を下した。
勅命を奉じたのが宦官組織である東廠だったので、日ごろから蛇蝎のごとく宦官を忌み嫌っている官僚たちは「東廠に同類を厳正に裁くことなどできるはずがない」と苦言を呈したが、「宦官の罪は宦官に始末をつけさせる」と今上は譲らなかった。
今上の狙いは宦官たちの団結力を削ぐことだろう。
〝兄弟牆に鬩げども外その務りを禦ぐ〟とはよくいったもので、年がら年じゅう権力争いに明け暮れていても、密接な師弟関係で結ばれた彼らの紐帯は非常に強い。
都察院などの官僚組織が宦官の涜職摘発に乗り出せば、宦官たちは一致団結して立ち向かう。廟堂は官僚率いる清流派と宦官率いる濁流派にわかれ、熾烈な闘争がくりひろげられて政道は混乱をきわめるであろう。
一方、東廠が「悪役」になれば、宦官同士の結束はもろくも崩れ去る。疑心暗鬼になった彼らは保身のために師弟や朋輩を密告し、あるいは讒訴して互いにつぶし合う。
泥仕合になるとわかっていても、今上から直々に勅命を受けている以上、東廠は一定の成果をあげなければならない。官僚たちが危惧するように手心をくわえれば、督主をはじめとした東廠幹部の首が飛ぶだけだ。
「破思英の件でもたついてるからまだ表立った動きはないが、じきに東廠が本腰を入れて貪婪な三監の摘発とやらに動き出すんで、どいつもこいつも財産隠しに奔走してる。だから俺もここに居座ってたんだぜ。囚蠅のねぐらにいれば俺は家屋敷を持たない居候だろ? これほど手ごろな隠れ蓑はねえよ」
「弟弟子を矢面に立たせて嵐をやり過ごそうとしてたのね。見さげ果てた人」
香琴が胸を小突くと、淫芥はその手をつかんでにやりとした。
「囚蠅はたいして溜めこんでねえから、どうせ追及されねえよ。それより俺のほうが苦しい立場なんだぜ。おまえが買った邸のせいで鬼獄にぶちこまれちまうかもしれねえよ。かといっていまから売却しようにも買い手はつかねえだろうな。三監どもは綱紀粛正に震えあがってる。こんなときに下手な買い物をする馬鹿はいねえぜ」
「馬鹿で悪かったわね。私は独内監のために一肌脱ごうと――」
「いやいやいや、おまえを非難してるわけじゃねえって。おまえは女官だからな」
「……なるほど、そういうこと」
邸の名義を香琴にしてほしいというのだ。東廠が摘発するのはあくまで三監だから。
「悪い話じゃないだろ? おまえは自分の邸を持てるし、俺が居候としてそばにいるから思う存分〝充実した夜〟を過ごせるぞ」
「なにが充実した夜よ。あなた、夜な夜な外をほっつき歩いてろくに帰ってこないじゃない。たまに帰ってきたと思えばみっともなく泥酔して、その辺に転がって寝入るんだもの。寝床に引っ張っていくのにどれだけ苦労しているか」
「今後は心を入れかえるよ。朝な夕な、まめまめしくおまえに奉仕するからさぁ」
猫なで声で嘘をつく淫芥の手をつねり、香琴はするりと彼の腕のなかから逃れた。
「あなたの改心なんてあてにしてないけど、居候させてあげてもいいわよ。私の邸に」
ただし、とふりかえって淫芥を睨みあげる。
「だらしない生活は許さないわよ。朝寝していたら叩き起こす……あら? ないわ」
長裙の隠しに手を入れたものの、そこにあるはずの皮鞭がない。
「さては盗んだわね⁉ かえしなさい!」
「やだね。こんなものをおまえに持たせてたんじゃ、命がいくつあっても足りねえや。身の安全のために俺があずかっておくぜ」
かえしなさいよ、とつかみかかろうとしたが、ひょいとかわされる。追いかけては逃げられ、ぎりぎりまで距離をつめて手をのばしても、すんでのところでつかみそこねてしまう。そのうち馬鹿馬鹿しくなって背を向けると、淫芥がそろりと近づいてきた。
「むくれるなよ、香琴。鞭なんかなくてもおまえの可愛い手でぴしゃりと叩いてくれれば一発で目を覚ますぜ。なんなら口づけで起こしてくれても――あ」
「油断したわね」
一瞬の隙をついて皮鞭を奪いかえし、香琴はにんまりとした。
「さて、遊びは終わりよ。髪を結ってあげる。そこに座りなさい。さもないと」
「す、座るよ! 座ればいいんだろ。ほら、これでいいかい?」
淫芥はびくつきながら繍墩に座り、軽く両手をあげて降参の意を示した。香琴は彼のうしろに立ち、女のもののようにつややかな黒髪をくしけずる。
――居候じゃなくて、夫になってほしいの。
喉まで出かかった言葉を胸の奥にしまいこむ。怨んでも怨み足りないけれど、無いものねだりで時間を浪費したくない。人生が一炊の夢なら、最高の夢を見なければ。どうせいつかは覚めるのなら、夢のなかだけでも幸せにひたらなければ。
紛い物でいい。真実など要らない。嘘に嘘をかさねて、自分自身すら騙して、偽物の果報を貪る。現世では生きている者が勝者だと淫芥は言った。香琴ならこう言うだろう。「女の世界では愛されている者が勝者よ」と。その自覚が空想の産物だとしても、愛されている女はだれよりも美しくきらめく。
言うなれば、愛は紅おしろいだ。女の醜さを覆い隠す極上の粉黛なのだ。
かるがゆえに香琴は淫芥を愛する。彼に愛されているつもりで。この愚かな夢が叩きつけられた玻璃細工のように粉々に砕け散ってしまうまで。
【おわり】