君を怨み君を恨み君が愛を恃(たの)む

『後宮茶華伝 仮初めの王妃と邪神の婚礼』発売記念 はるおかりの書き下ろし番外編

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‌ 敬(けい)事(じ)房(ぼう)の女官・爪(そう)香(こう)琴(きん)が皇帝付き次席宦(かん)官(がん)・独(どく)囚(しゅう)蠅(よう)邸の門前に立ったとき、晩冬の日(にち)輪(りん)は中天に達しようとしていた。
‌「あの人はいる?」
‌ 香琴が問うと、取り次ぎに出てきた老僕は苦笑いした。
‌「いらっしゃいます。昨夜はお疲れだったようで、まだ臥(しん)室(しつ)からお出ましになりません」
‌「そんなことだろうと思ったわ。いまから叩き起こすから、朝(あさ)餉(げ)……いえ、昼(ひる)餉(げ)の支度をお願いできるかしら? 簡単なものでかまわないわ」
‌ かしこまりました、と老僕は如(じょ)才(さい)なく首(こうべ)を垂れる。
‌ 彼も家主の囚蠅とおなじく宦官だ。老齢になって第一線で働けなくなった宦官は浄(じょう)軍(ぐん)に落とされるのが通例。老身に浄軍のつとめは過(か)酷(こく)すぎるから、数年もしないうちに寿命が尽きるのが落ちだ。三(さん)監(かん)と呼ばれる上級宦官の邸に仕えるのはある種の救済といえるが、三監のなかには同類を酷(こく)虐(ぎゃく)することを好む残忍な輩(やから)もいるので、どのような人物に拾われるかで彼らの晩年が穏当(おんとう)なものになるか、悲惨なものになるか決まってしまう。
‌ この老僕はあきらかに前者だった。
‌ 囚蠅は九(きゅう)陽(よう)城(じょう)では用をなさなくなった老宦官を邸に引き取り、終(つい)の棲(すみ)家(か)と軽易な仕事を与えている。囚蠅の彼らへの態度は骨肉に対するものように情味にあふれており、ここに仕える老宦官たちはみなおだやかな余生を送っている。
‌ 正房(おもや)は静まりかえっていた。それもそのはず、囚蠅は九陽城で今(きん)上(じょう)の御前に侍(はべ)っている時分なのである。
‌ ――こんなにすれちがっているのに契(けい)兄弟(きょうだい)疑惑がささやかれるなんて、女官たちはよほど噂(うわさ)話(ばなし)に餓えているのね。
‌ 破(は)思(し)英(えい)の奸(かん)計(けい)により住まいを失った皇后付き次席宦官・同(どう)淫(いん)芥(かい)が囚蠅の邸に転がりこんでから早三月。
‌ 後宮では暇を持て余した女官たちがひとつ屋根の下で暮らす彼らの熱(、)愛(、)ぶ(、)り(、)を絵や小説にあらわして楽しんでいるが、彼女たちは囚蠅と淫芥が邸で食卓を囲む機会さえないことを知らない。片や皇帝の、片や皇后の側(そば)仕(づか)えであるばかりでなく、褐(かっ)騎(き)として秘密の任務にも追われているのだから、断(だん)袖(しゅう)の癖(へき)にふけっている暇などない。
‌ ――それにしても、あの人の寝(い)穢(ぎたな)さはどうにかならないのかしら。
‌ 客(きゃく)房(ぼう)の閨(ねや)に入り、香琴は小さく息をついた。窓かけの隙(すき)間(ま)から愛(あい)日(じつ)がそろりと顔を出しているのに、寝間の主はなおもすやすやと夢を貪(むさぼ)っている。
‌ 淫芥はひどく寝つきが悪いが、いったん寝入るとなかなか目覚めない。このありさまでは刺(し)客(かく)に襲われたらひとたまりもなかろうと案じたこともあるが、熟睡中でも殺気には敏感らしく、寝首を掻(か)こうと侵入してきた刺客を幾度か撃退している。しかし、香琴が牀榻(しんだい)に近づいてもいっかな反応がないところを見ると、香琴からは殺気が発せられていないのだろう。たとえ右手に皮(ひ)鞭(べん)を握っているとしても。
‌ ――こうでもしないと起きないあなたが悪いのよ。
‌ 牀榻のそばに立ち、香琴は勢いよく衾褥(ふとん)を引きはがして皮鞭をふりおろした。
‌「うわっ、なんだっ⁉」
‌ 淫芥が仰(ぎょう)天(てん)して飛び起きる。せわしない視線で香琴をとらえ、渋(じゅう)面(めん)になった。
‌「……んだよ、おまえかよ。朝っぱらからなんの用だ」
‌「いつまで朝のつもり? もう昼よ」
‌「真っ昼間になんの用だよ」
‌「あなたを起こしに来てあげたのよ」
‌「起こしてくれと頼んだおぼえはねーよ。だいたいなんだよ、その鞭(むち)は。なんだってそんなもんを持ち歩いてるんだよ」
‌「護身用よ。京師(みやこ)はすっかり物騒になったわ。か弱い女の身じゃ、武器のひとつやふたつ持っていないと外も歩けないのよ」
‌「鞭を持ち歩いてる女のほうが怖えーよ」
‌ 黒い清水のような髪をかきあげ、淫芥は恨みがましい目つきでこちらを睨(にら)んだ。
‌「なんの用だか知らねえが、今日はせっかくの休みなんだ。ゆっくり寝かせてくれ」
‌ 衾褥をつかもうとのばされた手を皮鞭でぴしゃりと打ち据える。
‌「休みだから起こしに来たんじゃない」
‌「おまえの相手をしろっていうのかよ? 冗談じゃねえぜ。寝床で鞭をふりまわす暴力女にはこれっぽっちも食指が動かねえよ」
‌ 淫芥は叩かれた手を痛そうにさすっている。
‌「くだらないことを言っていないでさっさと着替えて。あなたの家に行くわよ」
‌「俺の家はここだ」
‌「ここは独内(ない)監(かん)の家でしょう」
‌「俺の家でもあんの」
‌「そう思ってるのはあなただけよ。独内監がぼやいていたわ。あなたがここにいると女官たちの噂がひどくなる一方だから、一日も早く出ていってほしいって」
‌ 淫芥がいっこうに出ていかないと囚蠅に相談を受けた。
‌「例の噂にはほとほと参っているんです。このまま居座られたらますます醜(しゅう)聞(ぶん)が飛び交いますよ。いまですら、女官たちに妙な目つきで見られてうんざりしているのに……」
‌ なんとかしてくれないか、と泣きつかれたのが約半月前。
‌「独内監がかわいそうだから、あなたに代わって家探しをしてあげたわ。費用は支払ってきたし、調度はひととおりそろえたから、すぐに家移りできるわよ」
‌「いくら払ったんだよ?」
‌ 香琴が金額を言うと、淫芥はおどけたふうに口笛を吹いた。
‌「へえ、おまえもけっこう貯めこんでるんだな。一女官にしてはなかなかやるじゃねえか。よほどいい金づるを見つけたな。うまい話を知ってるなら俺にも教えろよ」
‌「なに言ってるの。あなたのお金で払ったのよ」
‌「……は?」
‌「あなたの家を買うのに私の手持ちを使うわけないでしょ。私は一(いち)文(もん)も出してないわよ」
‌「俺の金ってどういうことだよ? そんな金、出したおぼえはねえぜ」
‌「でしょうね。あなたが知らないうちにすませておいたから」
‌「知らないうちにって……おい、まさか……⁉」
‌ 淫芥は血相を変えて布製の枕をつかんだ。なかから方形の小箱を取り出す。
‌「……ない! 俺の、宝(ほう)鈔(しょう)が、一枚も!」
‌ 小箱をひっくりかえしたが、なにも出てこない。匣(こう)中(ちゅう)におさめられていた宝鈔(紙(し)幣(へい))のぶ厚い束はそっくりそのまま新居購入の費(つい)えに消えたのである。
‌「枕の分だけじゃ足りなかったから、ほかの隠し場所からも回収しておいたわ」
‌「『回収しておいたわ』じゃねえよ! 他人の金を無断で持ち出すな! そういうのはな、盗みっていうんだぞ!」
‌「ご高説ね。独内監の銭包(さいふ)から銀子をくすねてる騾馬(らば)に言われたくないわ」
‌「俺のは小銭、おまえのは大金! 金高がちがいすぎるだろうが! 同列に語るな!」
‌「あなたのために使ったのよ。着服したかのように非難されるのは心外だわ」
‌「そういう問題じゃないだろ!」
‌「うるさいわね。この程度の額で大騒ぎしないで。皇后付き次席宦官なんだから、いくらでも稼(かせ)げるでしょ。そんなことより顔を洗ってきて。そのあいだに着替えを用意しておくから。細かい荷物は後日、取りに戻るとして、今日のうちに家移りをすませてしまいましょう。じき荷運びの人が来るわ。それまでに支(し)度(たく)をしておかなきゃ」
‌「荷運びだと!? なんでおまえがそんなものを手配してるんだ!?」
‌「さっきも言ったでしょ。独内監に頼まれたからよ。これは決定事項なの。ぐだぐだと言い訳しても無駄。今日中に立ちのくと独内監に約束してるんだから。抵抗するなら、縄で縛りあげて軒車(くるま)にほうりこむわよ」
‌「横暴だ! おまえに家移りを強要される筋合いはねえぜ!」
‌「ふーん。あくまで抗戦するってわけ。じゃあ、鞭に物を言わせるしかないわね?」
‌ 香琴が右手をふりあげると、淫芥はびくりとして首をすくめた。
‌「……わ、わかったよ……! おまえの言うとおりにするから、鞭はやめてくれ!」
‌「自分の立場を理解したなら、とっとと顔を洗ってきなさい」
‌「行くよ、行ってくるから……鞭はかんべんしてくれよ!」
‌ おっかなびっくり牀榻からおりて、脱(だっ)兎(と)のごとく駆け出す。途中で香几(こうづくえ)に蹴(け)躓(つまず)きつつ、ふりかえりもせずに部屋を出ていった。
‌ その情けない背中を見送り、香琴は櫃(ひつ)から外(がい)套(とう)と冬物の道(どう)袍(ほう)を出して衣(い)桁(こう)にかけた。着替えの支度をするのに淫芥付きの奴僕(げなん)を呼ぶ必要はない。どこになにがしまってあるのか、わが家のように承知しているのだ。
‌「まるで菜戸(つれあい)のようね」と同僚の女官たちはからかう。彼女たちの笑い声に皮肉の棘(とげ)がひそんでいることには、香琴も気づいている。
‌――どれほど深い仲になっても、私は義妹(いもうと)どまり。
‌ 宦官の恋人を義妹、妻を菜戸と呼ぶ。
‌ 建国間もないころは祖法によって宦官の私(し)通(つう)が禁じられており、妻帯はおろか、情人を持つことさえ厳禁であった。禁を破った者は親族ともども棄(き)市(し)(さらし首)に処されたが、それもいまや古くさい昔語り。
‌ 当節では菜戸を持たない宦官のほうがすくなく、九陽城の底辺で苦役に従事する浄軍の宦官でさえ、素肌をあたため合う相手がいるという。
‌ 廟(びょう)堂(どう)の大官たちと渡り合う三(さん)監(かん)ともなれば、十指にあまる妾をたくわえているのがふつうだ。なかには皇族よりも多く美女を侍らせる者さえいて、三監の猟(りょう)色(しょく)は彼らの欠けた肉体に宿る野心と同様にすさまじい。
‌ 弟弟子の囚蠅をして色魔と言わしめる淫芥もあちこちで浮名を流しているが、同時に複数の義妹を持つことはあっても、なぜか菜戸を持ったことはない。
‌「菜戸なんざ、わずらわしいだけだ」
‌ 当人は面倒くさそうに言うが、本心だろうか。
‌ ほんとうの理由は「わずらわしさ」以外のものだという気がする。たとえば、過去に言い交わした女人がいた、というような。彼女はもう亡くなっている、あるいはほかの男に嫁(とつ)いでいるのではないか。淫芥は旧情を忘れられず、独り身を貫いているのでは。
‌ ――あの人がそんなに純情なはずないじゃない。
‌ ひとりの女人に赤(せき)心(しん)を捧げるなど、淫芥に限ってありえない。菜戸を持てば彼女の妬(と)心(しん)に漁(ぎょ)色(しょく)を制限されるので、気楽に生きていたいというだけのことだろう。
‌ きっとそうだ。……そうであってほしい。ほんのすこしでも考えたくないのだ。彼の心に住みついて離れない女人が存在するなどとは。
‌ ――どうかしているわ。あんな人に本気になるなんて。
‌ はじまりは打算だった。
‌ 手ごろな三監を出世の足がかりに利用しようとしただけのこと。香琴には野心があった。いつか権力を手に入れ、傲(ごう)慢(まん)で非情な主を圧倒し、わが足下にひざまずかせるという切なる願いが。野望を果たすために必要だったから淫芥と慇懃(いんぎん)を通じた。野心がなければ宦官に近づきはしない。
‌ 香琴だって娘時分にはまっとうな男と結ばれて子をもうける未来を夢見ていた。世間から騾馬と呼ばれて蔑(さげす)まれる宦官に肌を許すことは、賤(いや)しい家婢(かひ)にとっても恥(ち)辱(じょく)にほかならない。なぜならその行為は、禽獣(けだもの)に辱(はずかし)められることと変わりないからである。ゆえに宦官と情交を結んだ女は騾(ら)妾(しょう)と呼ばれ、親族ともども白(はく)眼(がん)視(し)されるのだ。
‌ なにもかも覚悟のうえで、目的のために貞(てい)操(そう)を捨てた。世人に嘲(ちょう)弄(ろう)されることさえ受け入れた。非望が実を結びさえすれば、水(すい)火(か)も辞さない覚悟だった。
‌ それなのにどうだ、このありさまは。
‌ ――あの夜がなければ、こんな気持ちは知らずにすんだでしょうね。
‌ 十年前、淫芥とはじめて言葉をかわした日のことをいまでもときおり思い出す。
‌ たおやかな風が頬(ほお)を撫(な)でる春の夜だった。
‌ 香琴は――当時は嬉児(きじ)と名乗っていた――東(とう)宮(ぐう)のはずれにある廃園をさまよっていた。主に蝋(ろう)梅(ばい)を一枝、手(た)折(お)ってくるよう命じられたからだ。
‌ 実家でそうしていたように、主は退屈しのぎに嬉児を虐(しいた)げた。
‌ それは粗末な食事をぬくことであったり、女官に命じて体罰を与えることであったりもしたが、もっとも頻(ひん)繁(ぱん)に行われたのは理不尽な用命だった。
‌「明日の朝までに綬(じゅ)帯(たい)鳥(ちょう)の刺(し)繍(しゅう)を仕上げてちょうだい」
‌「風箏(たこ)が屋根に引っかかったわ。のぼってとってきなさい」 
‌「池の水が汚いわね。いますぐきれいにして。ただし、水を取り替えずに」
‌ 一睡もせずに刺繍を仕上げても、出来が悪いと難(なん)癖(くせ)をつけられて打(ちょう)擲(ちゃく)された。屋根にのぼってやっとの思いで風箏をつかめば、梯子(はしご)をはずされておりられなくなった。池のほとりで必死に藻をすくい取っていると、背中を蹴りつけられて水中に落とされた。
‌ 口答えなどできるはずもない。
‌ 嬉児は婢女(はしため)。主の持ち物なのだ。使い古しの梳(す)き櫛(ぐし)や縫い取りがほころびた手巾のように、主の気分しだいで生かされ、殺される。
‌ それでも捨て身になれば抵抗することもできただろう。
‌ 一生虫けらのように踏みにじられるのなら一思いに死んだほうがましだとすべてをあきらめれば、一矢報いることもできただろう。
‌ さりとて嬉児には弟がいる。嬉児が主に反逆すれば、主家で奴僕としてこき使われている弟の身が危険にさらされてしまう。酷(こく)虐(ぎゃく)に拍車がかかるだけですめばいいほうで、最悪の場合、嬲(なぶ)り殺しにされかねない。
‌ 両親亡きあと、弟は唯一の肉親だ。弟を守ってやれるのは嬉児しかいない。だから耐えるしかないのだ。血も涙もない主にどれほど虐用されても、怨(うら)みを押し殺して耐え忍ぶよりほかに道がない。
‌ 真冬ではない。車軸を流すような雨が降っているわけでもない。心地よい春の晩に一枝の蝋梅を手折ってくるよう命じられただけだ。ふだんの無理難題とくらべれば、はるかに楽な仕事であるはずだった。指定された廃園が曰(いわ)く付きの場所だとしても。
‌「あの廃園には幽(ゆう)鬼(き)が出るんですって。婢女が何人も襲われているらしいわよ」
‌ 主は嬉々としてそんなことを言ったが、嬉児は真に受けなかった。ほんとうに存在するか否かわからない怪異より、確実に存在する冷血な主のほうがはるかに恐ろしい。
‌ 廃園で蝋梅を探しているときもうしろをふりかえりはしなかったし、臆病風に吹かれて足がすくむこともなかった。
‌ 道に迷ったのは、足もとを照らしてくれるはずの月光が弱すぎたからだ。主は「おまえに彩灯(ちょうちん)なんてもったいないわ」と言い捨て、嬉児に明かりを持たせなかった。
‌ 墨(すみ)を流したような視界のなか、香りを頼りに蝋梅の木を探していると、近くで物音がした。嬉児は反射的に身をかたくした。幽鬼を恐れたわけではないが、耳をそばだて様子をうかがう。するとなにかが夜闇を微妙に震わせた。それが媚(こ)びもあらわな女の甘い吐息だと気づくまで、寸刻とかからない。
‌「だめよ。すぐに戻らなきゃ」
‌「すこしくらい遅れてもいいだろ」
‌「このあいだも主の目を盗んで抜け出してきたのよ。怪しまれるわ」
‌「大丈夫だって」
‌「もう、だめって言ってるでしょ。主は病的な宦官嫌いなの。側(そば)仕(づか)えの私があなたとこういうことをしてるって知ったら、きっと激怒して……」
‌ 抗(あらが)う女の声が途切れ途切れの嬌(きょう)声(せい)に取って代わられる。どうやら宦官と女官の情事の現場に居合わせてしまったようだ。めずらしいことではない。皇宮で夜歩きしていれば、ひと晩に数回はこのような場面に出くわしてしまう。
‌ ――こんなところで情事にふけるなんて不潔だわ。
‌ 胸にきざした不快感には無視できないほどの嫉(しっ)妬(と)がまじっていた。女官だけでなく、婢女にも宦官とねんごろになる者は多い。彼女たちの年齢はさまざまだが、共通しているのは器量がよいということだ。
‌ ――私みたいな醜(しこ)女(め)には騾馬でさえ言い寄らない。
‌ かつて、嬉児は容姿に恵まれていた。けっしてうぬぼれではない。主の父親――薄(はく)氏(し)一門の当主――に「おまえがわが娘であったなら」と惜しまれたほどだ。
‌ 身に余る賛辞が災(わざわ)いを招いてしまった。十人並みの容色しか持たない薄家の令嬢は自分よりも器量のよい家婢を妬(ねた)み、嬉児の顔に烙鉄(やきごて)で醜(みにく)い傷痕を刻みつけたのだ。
‌ 爾(じ)来(らい)、嬉児を美人だと褒(ほ)めそやす者はいなくなった。しつこく嬉児に言い寄っていた奴僕たちでさえ見向きもしなくなった。
‌ ただでさえ食うや食わずの生活と苛(か)酷(こく)な労働を強(し)いられていれば、娘らしい瑞々(みずみず)しさはどんどん削り取られていく。髪は艶(つや)を失い、頬はこけ、肌は干からびて、唇はひび割れてしまう。そのうえ片側の頬がおぞましく焼け爛(ただ)れているのだから、だれもが嬉児を見るなり目をそむけるのも道理であろう。
‌ 女色に餓えているはずの下級宦官でさえそうなのだから、三監は言うまでもない。三監を籠(ろう)絡(らく)して主を凌(りょう)駕(が)する権力を手に入れようともくろんでいた嬉児は、主の悪意によって野心を叩きつぶされ、絶望の淵に立たされた。
‌ ――私は死ぬまで小姐(おじょうさま)に飼い殺しにされるんだわ。
‌ 主の憂(う)さ晴らしの道具として使いつぶされる一生。
‌ だれにも相手にされず、ひとかけらの慰めにすらありつけずに、この身に課せられた非運を嘆(なげ)きながら年老いていく。多情な女官たちのように色恋に胸をときめかせることもなく、みなに足(あし)蹴(げ)にされ、侮(ぶ)蔑(べつ)され、呪わしいほどの悔しさが満身を打ち震わせているうちに老(ろう)婆(ば)になってしまうのだ。
‌ どうして、と思わずにはいられなかった。あんな主の持ち物にさえならなければ、嬉児はべつの人生を歩むことができたはずだ。それはいまよりずっとましなものだったにちがいない。だれかに求められ、愛されていたにちがいない。
‌ いつの間にか、嬉児はその場にうずくまっていた。立っていられなかったのだ。空腹で、疲(ひ)労(ろう)困(こん)憊(ぱい)していて、なにより孤独だった。
‌ ――ひとりでいい、たったひとりでいいから、だれかが私のそばにいてくれたら。
‌ 嬉児にやさしいまなざしを向けてくれ、そっと肩を抱いてくれて、女として愛してくれる人がたったひとりでもいてくれたら。彼がだれであれ、どんな身分であれ、嬉児は彼を愛すだろう。餓えた猫が食べ物を与えてくれる人間になつくように。
‌ 声を押し殺してひとしきり泣き、そうしたことを悔やんだ。無益な行為だ。いくら嗚(お)咽(えつ)したところで、この渇(かわ)いた身体がいっそう干上がるだけ。
‌ 涙をのみこんで立ちあがろうとしたが、力が入らない。蓄積した疲れとひもじさが四(し)肢(し)を萎(な)えさせていた。いつまでもうずくまっているわけにはいかないのに。早く蝋梅を手折って主に届けなければ。主は帰りが遅すぎると苛(いら)立(だ)っているだろう。嬉児にどんな罰を与えようかと、冷酷な目をぎらつかせているだろう。
‌ 両手を地面について足に力をこめたときだった。その声が降ってきたのは。
‌「おまえ、怪我(けが)でもしてるのか?」
‌ それが自分に向けた問いだと気づくのにしばし時間を要する。
‌ 先ほどまで女官と情事にふけっていた宦(かん)官(がん)だ。女官もまだそばにいるのだろうか。もう帰ったのだろうか。
‌ いずれにせよ、視線をあげなかったのは賢明だった。嬉児のおもてが視界に入れば、だれもが顔をしかめる。汚らわしいものを見たせいで嘔(おう)気(き)をもよおしたと言いたげに。
‌ 嬉児は首を横にふった。言葉を発しなかったのは視界の端に蟒服(ぼうふく)の裾(すそ)が映りこんだからだ。三(さん)監(かん)は蟒蛇(うわばみ)が縫いとられた官服をまとうが、位階によって色がちがう。太監(たいかん)は紫(し)紺(こん)、内監は紅(べに)緋(ひ)、少(しょう)監(かん)は群青。嬉児の視界に入ったのは群青の蟒服だった。
‌ ――こんなときに少監と出くわすなんて。
‌ 三監は市(し)井(せい)で暴君のごとくふるまっていると聞くが、皇宮内でも似たようなものだ。彼らの大半が虫こなしに目下の者を横(おう)虐(ぎゃく)する。
‌ その対象にはもちろん婢女もふくまれている。容姿が美しければ慰みものにされ、醜ければ笑いものにされる。彼らの目にとまることは災(さい)厄(やく)にほかならない。一刻も早く彼らが自分に興味をなくして立ち去ってくれることを祈るばかりである。
‌ だから声を発しなかった。声を聞かれれば若い女だと悟られて勝手に期待されてしまう。気まぐれに頤(おとがい)をすくいあげれば、花も恥じらう麗(うるわ)しいかんばせがあらわれると。
‌「怪我じゃないなら、なんでそんなところに座りこんでるんだよ?」
‌ 少監が地面にかがみこんだので、嬉児は身を縮めた。
‌ ――また唾(つば)を吐きかけられるかもしれない。
‌ 体調が悪かったのに、主の命令で遠出する羽目になったときのことだ。仕事をすませて帰る途中、ふらついて転んだ。
‌ たまたま通りかった少監が親切そうに声をかけてきて、手をさしのべてくれた。うかつにも嬉児は彼の手につかまって立ちあがろうとし、おもてをあげてしまった。嬉児の顔を見るや否や、少監は糞(ふん)土(ど)にでもさわったかのようにぎゃっと叫んで手をふりはらい、「鬼怪(ばけもの)め」と罵(ののし)るついでに唾を吐きつけた。
‌ これは最悪の出来事ではない。桶(おけ)いっぱいの屎(し)尿(にょう)を浴びせられ、恭桶(べんき)のなかに押しこめられ、吐(と)瀉(しゃ)物(ぶつ)を食べさせられることにくらべればはるかにましな部類だ。
‌ 嬉児が三監のなかでも少監をもっとも恐れているのは、主付きの少監が事あるごとに嬉児を責めさいなむからだ。
‌ 主の歓心を買うためにそうしているのだろうが――汚物まみれになった嬉児を見ると主は上機嫌になるのだ――あきらかに少監自身もその行為を楽しんでいた。
‌ 度(たび)重(かさ)なる辱(はずかし)めに恐怖心を植えつけられ、嬉児は少監に出くわすと逃げ出すようになった。彼らの視線が怖い。声が、しぐさが、足音が、嬉児を震えあがらせる。
‌ 逃げたい。少監の視界から消えてしまいたい。さもなければまた汚(お)辱(じょく)を与えられてしまう。罵(ば)倒(とう)され、唾を吐きかけられる。彼の機嫌が悪ければ蹴り飛ばされるかもしれない。怪我はしたくないのに。先日受けた杖(じょう)刑(けい)の傷がまだ癒(い)えていないのに……。
‌「ほんとに具合が悪そうだな。どこの殿舎に仕えてるんだ? 送ってやろうか」
‌ 嬉児が首を横にふると、少監が焦れたように肩をつかんできた。
‌「黙ってないでなんとか言えよ。まさかしゃべれないってわけじゃねえだろ? おい、どうなんだ? しゃべれないなら――」
‌ 少監がつづきを打ち切る。雲間からもれた月明かりが嬉児の面(おも)輪(わ)を照らしたからだ。
‌ 身がまえた。突き飛ばされ、罵言を浴びせられるだろう。だからといって抗う力もなければ、抗うという選択肢もない。どれほど非道なあつかいを受けても、婢女にはささやかな抵抗さえ許されない。
‌ 浄軍が全宦官の底辺なら、婢女は皇宮で暮らす女の最底辺。
‌ 尊厳などない。意思など持ってはいけない。蹴りあげられた石ころがなすすべもなく溝(みぞ)に落ちるように、されるままになっていなければ。嬉児に許された自衛の手段はあらゆる害意にそなえて心身を強(こわ)張(ば)らせることだけ。
‌ たったひとつの武器で自分を守ろうとしたが、予想していたことは起こらなかった。
‌「ああ、そうか。薄秀(しゅう)女(じょ)の婢女なんだな、おまえ」
‌ 少監はこともなげに言って、嬉児のひたいに覆(おお)いかぶさっていた髪をそっとはらった。驚(きょう)愕(がく)が全身を駆けめぐった。なぜならそのやさしいしぐさは、嬉児が毎日受けている仕打ちとは似ても似つかないものだったので。
‌「噂(うわさ)じゃ、薄秀女はとんだ鬼女らしいな。その傷も主につけられたんだろ。ひどい仕打ちに耐えかねて逃げてきたのかい? それとも用事を言いつけられてここに来る羽目になっちまったのか? 逃げてきたんなら悪いことは言わねえから戻ったほうがいい。宮(きゅう)正(せい)司(し)が逃亡奴(ぬ)婢(ひ)の取り締まりを強化してる。やつらに捕まっちまうと、主の癇(かん)癪(しゃく)のほうがましだってくらいの罰を食らうぞ。用事を言いつけられたんなら、さっさとすませて帰れ。ここは浄軍どもの溜まり場だ。俺が追い払ったんでいまはいねえが、じきに戻ってくる。やつらも身の程はわきまえてるから女官には手を出さねえが、婢女相手なら見境なく取って食おうとするぜ。おまえみたいないい女がひとりでふらついてると危ねえよ。狼の巣穴に兎が迷いこんでくるようなもんだぜ」
‌ いい女、という言葉が胸に刺さる。嬉児にそんなことを言う者はいない。
‌「あー……ひょっとしてあれか? 世を儚(はかな)んで死に場所を探しに来たってわけか? やめとけやめとけ。こんなところで死んだってつまらねえよ。そこらで首でもくくって死んでみろ。おまえの骸(むくろ)を最初に見つけるのは浄軍どもだぞ。連中が婢女の死体になにをすると思う? およそ口には出せねえことさ。やつらは四六時中、女に餓えていやがるからな、女体がそこらに落ちていれば生きていようが死んでいようが関係ねえ、食えるものは食えるうちにいただくってわけだ。苦労して死んでまでそんな目に遭(あ)うんなら、死んだかいがねえだろ。ま、そもそも死ぬ価値もねえんだけどな、この濁(じょく)世(せ)には」
‌ 少監はいかにも大(たい)儀(ぎ)そうに地面にあぐらをかいた。
‌「なにがあったのか知らねえが、そう思いつめるなよ。生きていればろくなことはねえさ。かといって死んでも変わらねえよ。どうせ地獄に落ちて獄(ごく)卒(そつ)どもに責め立てられる毎日だろ。いまとなにがちがう? 畢(ひっ)竟(きょう)、生きるも死ぬもおなじことだ。どっちが楽か、なんてくだらねえことを考えてる暇があったら、とりあえず生きてみろよ。あと一日、あと三日、あと十日って具合に。どうしても我慢ならなくなったら、そのときはしょうがねえな。俺を訪ねてこいよ。俺がおまえを殺してやるから」
‌ 膝の上に頬(ほお)杖(づえ)をつき、少監はこちらに視線を投げてよこした。
‌「自分で自分を殺すより、他人に殺されるほうがいくらか気が楽だぞ。浄軍どもの玩具(おもちゃ)にならねえように骸の始末もつけてやる。安心しな。俺はこういうことに慣れてるんだ。つまり、女を殺して死体を片づけるのにな。おまえがもう我慢ならねえ、いますぐ死にたいって気持ちになったら、俺が助けてやるよ。だからそれまで生きてみな。生きてりゃいいこともあるなんて嘘八百は言わねえが、この世で幸せになれねえやつはあの世でも福運とは無縁だ。死んだらいい思いができるなんて甘い考えは捨てろ。今生から逃れても地獄に囚われるだけだ。どっちに転んでも囚人に変わりねえのさ、俺たちは」
‌ 言下にごそごそと懐(ふところ)を探って包みを取り出し、なかから小さなひし形のものを出す。
‌ 口をあけろよ、と少監が言うので、嬉児は怖(おじ)気(け)立(だ)った。言われたとおりにすれば、なにかを口(こう)腔(こう)に押しこめられる。きっとそれは汚物か、それに準じた代(しろ)物(もの)だ。思わず吐き出すと、横(よこ)面(つら)をしたたかに殴(なぐ)りつけられる。いままでの悲(ひ)惨(さん)な経験が走(そう)馬(ま)灯(とう)のように脳裏に浮かび、嬉児は歯を食いしばって震えをおさえこもうとした。
‌「心配するなって、妙なものを食わせようってんじゃねえから。ほら、ただの薄(はっ)荷(か)飴(あめ)だ。先に俺が食ってみせるぜ。見てろよ」
‌ 少監はさわやかな翠(すい)色(しょく)の飴を月光にかざし、自分の口にほうりこんだ。
‌「小腹がすいたときのために持ち歩いてるんだ。宮仕えをしてりゃ、飯を食う機会を逃しちまうことはざらにあるからな。こんなもんでもないよりはましさ」
‌ おまえにもやるよ、ともうひとつの飴を嬉児の鼻面につきつける。
‌ つやつやと光る翠色のかたまりからは甘ったるい水飴のにおいがした。おそるおそる唇をひらくと、思いのほか丁(てい)寧(ねい)に飴を口に入れられる。舌の上にぽとりと落ちたひし形の粒の甘みをじんわりと感じたとたん、視界が涙でゆがんだ。
‌ ――あのときの月(げっ)餅(ぺい)みたいに甘いわ。
‌ まだ両親が生きていたころ、父が薄家当主からさげわたされた甜点心(おかし)を家族四人で分け合って食べた。それはたったひとつの小ぶりな月餅で、四等分するとほんのひと口分になってしまったが、甘露のような味わいだった。生まれの賤(いや)しさも、肌身に染みついた侮(ぶ)言(げん)も、蓄積した疲労も、なにもかもを吹き飛ばしてくれた。
‌ あのころは幸せだった。
‌ 慕わしい父がいて母がいて、可愛(かわい)い弟がいた。どんなに忙しくても一日に一度は家族の顔を見ることができた。嬉児はひとりではなかった。
‌ それなのに当時は不満でいっぱいだった。両親にもっといいものを食べさせたかったし、弟にもっとあたたかい衣を着せてやりたかった。
‌ だから薄家当主に色目を使った。枕(ちん)席(せき)に侍って妾(しょう)室(しつ)に迎えられれば、家族の暮らしを楽にしてあげられる。若く美しい家婢(かひ)が生まれながらのさだめに抗おうとすれば、色香を武器にするしかない。
‌ そのもくろみは失敗に終わったばかりか、夫人と令嬢の反感を買う結果につながった。嬉児は以前にも増して酷(こく)使(し)され、両親への酷(こく)虐(ぎゃく)も輪をかけてひどくなった。やがて父と母が相次いで病に斃(たお)れ、弟は孤児になってしまった。
‌ 生前、両親は嬉児の愚挙を責めなかったが、嬉児のせいでふたりが横(おう)死(し)したことはまぎれもない事実だ。償わなければならない。せめてもの罪滅ぼしに弟を守らなければ。
‌ 死にたいなんて考えてはいけない。これは罰なのだから。主がどれほど嬉児をむごくあつかっても耐えなければ。汚(お)泥(でい)にまみれても生きぬかなければ。
‌ 恥(ち)辱(じょく)がなんだ。孤独がなんだ。
‌ その程度の苦難も乗り越えられずに贖(しょく)罪(ざい)の道を歩めると思っているのか。
‌ 前進するしかない。弟を守るために、罪を償うために――。
‌「下を向くな」
‌ ふいに肩を抱き寄せられ、嬉児は目をしばたたかせた。
‌「どん底にいるときこそ上を向くんだ。見てみろよ、あの月を。あんな真っ暗な天の果てで磨いた鏡みたいに輝いていやがる。あいつを見ているとむしゃくしゃしてくるだろ」
‌「……むしゃくしゃ?」
‌ 尋ねかえすと、少監は嬉児を抱いていないほうの手でこぶしを作って夜空にかかげた。
‌「お高くとまっていやがるからさ。俺たちが牛馬よろしくこき使われて死にそうになってるときも、ああやってすました顔でこっちを見おろして悦(えつ)に入(い)ってるんだぜ。腹が立つだろ。童宦(どうかん)時代は毎晩のようにあいつを睨(にら)んで悪態をついたもんさ。『いまに見てろよ、そのうちこの俺が天まで届く梯子(はしご)をかけて貴様の横面をぶん殴ってやる』ってな」
‌ ぶん殴って、の箇(か)所(しょ)で月を殴りつける動作をする。そのしぐさが本気で憎らしそうなので、嬉児はわれにもなく口もとをゆるめた。
‌「変な人だわ、あなた」
‌ こんな台詞(せりふ)は、平生はけっして口にしない。声に出したが最後、相手から酷(こく)烈(れつ)な報復を受けるとわかっているからだ。けれどこのときは自然に言葉が滑り出た。奇妙な安心感につつまれていたせいだろう。彼の腕のなかでは、なにを言っても許されるという――。
‌「そいつは誉め言葉だな」
‌ 少監は軽やかに笑い飛ばした。
‌「殴られれば痛え、蔑(さげす)まれれば気落ちする。それがふつうさ。濁世を生きるのはたいそう難(なん)儀(ぎ)だ。生きていれば生きているほどくさくさしちまう。たいていのやつはうんざりして死にたくなる。しかし俺みたいな変人は殴られれば殴られるほど、蔑まれれば蔑まれるほど奮起するんだ。月にむかって唾(つば)を吐き、地面を踏みつけて長い夜をやり過ごす」
‌ 指先で月を弾き、まぶしそうに目を細める。
‌「現世では生きているやつが勝者だ。どん底にいても、生きてさえいれば逆転の目がある。それを自分から捨てちまうやつは馬鹿だよ。みんないつかは死ぬ。だれもが忘れがちだが、永遠には生きられない。いまこの瞬間の苦痛も屈辱も、過ぎてしまえば一(いっ)炊(すい)の夢だ。だったらうなだれてねえで、月の野郎をぶん殴って憂(う)さを晴らして、明日に立ち向かえよ。明日もどうせろくな一日じゃねえが、力尽きて今日死んじまったやつを追い越して前に進んだ分、そいつには勝ってるってことさ。どんな勝ちでも勝ちは勝ちだ。胸を張っていろよ。自分は汚泥まみれの現世にのまれちまうような敗(まけ)犬(いぬ)じゃねえって」
‌ 薄荷の香りが胸にすっとしみていく。
‌「おまえもやってみろよ」
‌ 少監は嬉児の手をつかんで夜空に突き出した。
‌「月の横面を殴ってみろ。すっきりするぞ」
‌ 言われるままにこぶしを作り、春の夜空にかかった朧(おぼろ)月(づき)を殴りつける。なんの手ごたえもないのに、少監は「いいぞ」と膝を打った。
‌「その調子だ。もっと殴ってやれ。あいつがおまえのいちばん憎いやつだと思って」
‌ おだてられて何度か月にこぶしを叩きこみ、香琴は爆(は)ぜるような笑みをこぼした。
‌「もうできません。腕が疲れてしまいました」
‌「じゃあ今夜はこれくらいにして、残りは明日にするか。また俺が付き合ってやるよ」
‌「……あなたが?」
‌ どういう意味なのか、はかりかねて戸惑う。これでは会う約束をしているみたいだ。嬉児のような醜(みにく)い婢(はした)女(め)に、少監が会いたがる理由はないはずなのに。
‌「会う約束をすれば、おまえは明日まで生きているだろう?」
‌「……どうして」
‌ 私なんかにそこまで、と言おうとして言えない。ついうっかり頭をあげてしまったからだ。このときはじめてまともに少監の顔を見た。すみずみまで精(せい)緻(ち)な線でかたちづくられたその面輪は月の絵筆で彩られ、天の御物かと疑われるほど美しかった。
‌「理由は秘密にしておくよ。今夜のところは」
‌ いたずらっぽく笑い、少監は立ちあがって嬉児に手をさしのべた。
‌「そろそろ帰ったほうがいい。さもないと明日まで命がもたないぞ。いまごろ、おまえの主はかっかしてるだろうからな」
‌なんのためらいもなく、嬉児は男のそれほど無骨ではなく女のそれほど頼りなげでもない手につかまる。知っていたのだ。彼が自分の手をふりはらうことはないと。
‌「あっ、あの……私、まだ用事がすんでいないんです」
‌ 送っていこうと促され、嬉児はあわてて言った。
‌「主の言いつけで、蝋(ろう)梅(ばい)を一枝、手(た)折(お)って帰らないといけなくて……」
‌ 用事を片づけるまで待っていてくれるだろうか。先に帰ってしまうだろうか。言いよどんでいるうちに、少監は手を離して立ち去った。暗がりにひとり残され、嬉児はうなだれる。舌に残った薄荷の香りが苦く感じられたが、失望は長続きしなかった。
‌「これでいいかい?」
‌ おぼろな月が照らす視界に黒い長(ちょう)靴(か)が戻ってきた。弾かれたように顔をあげると、一(いち)朶(だ)の蝋梅がさしだされた。
‌「きれいなのを選んで手折ってきたんだが、おまえの主は気に入るかな」
‌「ええ、きっと喜んでくださいます」
‌ 嘘だ。主は満足しないにちがいない。嬉児がすることはなんでも癇(かん)に障(さわ)るのだから。主の反応は予想できたが、嬉児は宝物をおしいただくように蝋梅を受け取った。それはまるで少監が嬉児に贈るために手折ってきてくれた花のようだった。
‌「ありがとうございます、少監さま」
‌「『少監さま』はやめてくれ」
‌ 彼が苦笑するので、嬉児はあわてて謝った。
‌「ごめんなさい。宦(かん)官(がん)のかたは『公(こう)公(こう)』とお呼びするのが作(さ)法(ほう)でしたね」
‌「公公と呼ばれるほど上等な騾馬じゃねえよ。淫芥でいい。品性のかけらもない名だが、俺はけっこう気に入ってる」
‌ 淫芥さま、と嬉児は彼を見つめたままつぶやいた。
‌ ――あの邂(かい)逅(こう)がなければ、私はとうに死んでいたかもしれない。
‌ いや、そんなことはないともうひとりの自分が言う。淫芥はかねてより嬉児に目をつけていた。女としてではなく、褐(かっ)騎(き)候補として。のちに彼自身が打ちあけてくれた。あの晩、偶然出会わなくても、べつの機会を見つけて嬉児に声をかけたと。
‌「おまえみたいに餓えた目をしてるやつは褐騎に向いてるんだよ。いずれこの道に引きずりこもうと思って様子をうかがってたのさ。あの日、会えてよかったよ。いちいち手はずをととのえて『出会い』を演出する面倒がはぶけた」
‌ 乱れた褥(しとね)に寝転がり、億(おっ)劫(くう)そうに煙管(きせる)をくわえながら淫芥はたわいない噂(うわさ)話(ばなし)をするように語った。
‌「おまえほど落としやすい女は久方ぶりだったな。帯を解くまで十日とかからなかったからなあ。やっぱりそのご面相のせいで色に餓えていたのかい。それとも生まれついての淫(いん)婦(ぷ)なのかい」
‌ 故意に嬉児を――このころには香琴と名乗っていた――傷つける言葉を選んでいると直感した。なぜならこれは、淫芥の習性だから。
‌ 情を交わしてから数年も経つと、淫芥はあからさまに香琴を疎(うと)んじるようになった。甘い口(く)説(ぜつ)が減り、愛(あい)撫(ぶ)がぞんざいになり、逢(おう)瀬(せ)の間隔がどんどんひらいていく。もっとも香琴に限った話ではない。すべての女に対して、淫芥は同様の態度をとった。
‌ 熱っぽく睦(むつ)言(ごと)をささやき、柔(やわ)肌(はだ)をもてあそび、嬌(きょう)声(せい)の雨を浴びても、彼はけっして女を愛さなかった。あの手この手で女たちを誘惑するくせに、彼女たちが本気になって心を捧げはじめると、うっとうしそうに背を向けて立ち去ってしまう。彼にとってはどの女もひと晩の褥にすぎず、だれもみな、遠からず捨てられるさだめなのだ。
‌ とうとうこの日がやってきたのだと、香琴は鏡台の前で髪をくしけずりながら肩を強(こわ)張(ば)らせた。つい先刻まで彼に抱かれて熱を帯びていた身体(からだ)が雪風にさらされたかのように冷え冷えとしている。
‌ 別れ話を切り出すとき、淫芥は決まって女を侮(ぶ)辱(じょく)する。これまでの付き合いは彼にとって退屈しのぎにすぎなかったこと、彼女を味わい尽くしてとっくに飽きが来ていることをあけすけに話したうえ、彼女の欠点をあげつらって嘲(ちょう)弄(ろう)し、刃物じみた言葉で心を引き裂く。女が紅(こう)涙(るい)を絞ってすがりつき、旧情に訴えて引きとめようとすれば、淫芥は彼女のみじめな姿を尻目にかけて、あたらしい義妹(いもうと)を抱きに行くのだ。
‌ ――私がどれほど愛しても、この人は私を愛してくれない。
‌ いつか突き放されるとわかっていた。淫芥が見限った女にどのような仕打ちをするか、いちばん近くで見てきたのだから。予想どおりの展開になっただけで、驚くことはなにもないはずなのに、これまでほかの女に向けられてきた冷ややかな悪意が自分に向けられたとたん、髪をくしけずる手が止まった。
‌ 知らず知らずのうちに慢心していたのだ。自分は彼に使い捨てられてきた女たちとはちがうと。そしてその思い上がりを粉みじんに打ち砕かれ、愕(がく)然(ぜん)としている。
‌ 淫芥は香琴を求めていない。香琴が彼を求めているようには。
‌ 女としての香琴はもういらないのだ。彼の配下として十分な働きをすれば、肌をあたため合う必要はない。もとより淫芥にとって情事は女を操る手段にすぎない。色欲を満たす行為ですらないのだ。
‌ 彼自身はなにも言わないけれど、幾度も枕を交わしているうちに気づいてしまった。
‌ 密(みそ)か事(ごと)の最中ですら淫芥はどこか冷めている。その行為を軽(けい)蔑(べつ)しきっているようですらある。春を売るふしだらな道(どう)姑(こ)と、獣欲のはけ口として彼女を使った男とのあいだに生まれ、物心つくころには色を売っていたという生い立ちがそうさせるのだろうか。
‌ 彼は過去を語りたがらないので浄(じょう)身(しん)前の生活についてくわしいことは知らないが、幼少時代に口を糊(のり)するため色事を強(し)いられた経験が彼の骨身に本質的な嫌悪感を刻みつけたのかもしれない。
‌ 香琴に手をつけたのはそうする必要があったからだ。香琴を思いどおりに動かすにはそれがもっとも手っ取り早い方法だったからだ。はじめからとくべつな情などなかった。香琴もまた、彼の人生を彩ってきた花のなかの一輪にすぎなかった。たとえばそう、彼が手折ってきてくれた、一朶の蝋梅のような。
‌ 容(よう)赦(しゃ)なく現実を突きつけられ、かすかな夢を叩き壊されてもなお、香琴は泣きわめいたりしなかった。そんなことをすれば、彼は完全に自分を見限ってしまうから。
‌「なにがおかしいんだ?」
‌ 香琴が肩を揺らして大笑いしたので、淫芥はふしぎそうにこちらを見やった。
‌「あなたがおめでたいからよ」 
‌ くしけずった髪を簡単にまとめ、香琴は刷(は)毛(け)を手に取った。面(めん)脂(し)でととのえた肌に、水で溶いた翡(ひ)翠(すい)粉(ふん)のおしろいを塗っていく。
‌「女を利用したつもりで、逆に利用されているんだもの」
‌「どういう意味だ?」
‌「わからない? あの晩、あなたに会ったのはたしかに偶然だった。でも、私にとっては千(せん)載(ざい)一(いち)遇(ぐう)の好機だったわ。同淫芥という宦官が婢女にも見境なく手を出すことは噂で聞いていた。だから廃園で女官と情事にふけるあなたに出くわして、渡りに船だと思ったの。あなたが女官と別れるまで待って、地面にうずくまった。あなたなら声をかけてくると踏んだわ。主に虐(しいた)げられて弱っているふりをすれば、甘い言葉をささやいてくるってね。結果はどうだった? 私の読みが的中したわ」
‌「俺はおまえを口(く)説(ど)いているつもりで、その実、口説かれていたってことかい?」
‌「いまごろ気づいても遅いわよ。私は婢女で一生終わりたくなかった。出世したかったのよ。皇宮の底辺から這(は)いあがるため、手づるとして三(さん)監(かん)を使おうと考えていた。もし私が傷物じゃなかったら、あなたよりもっと有望な騾馬を狙ったわ。太(たい)監(かん)や内(ない)監(かん)に近づいたでしょうね。あいにく私の容色には傷があるから、あなたみたいな下(げ)手(て)物(もの)食いの少監に狙いをさだめるしかなかったの。ただそれだけのことなのに、あなたったら一方的に私をもてあそんだ気になって悦(えつ)に入(い)ってるんだもの。とんだ笑い話だわ」
‌ おしろいで素肌を隠すように、きらびやかな嘘の衣で本心を覆(おお)い隠す。真実を語ってはいけない。胸の奥からあふれてくる裸の言葉は彼を遠ざけるだけだ。
‌「まあ、それくらい許してあげてもいいけど。あなたを使(、)っ(、)た(、)おかげで私は女官になれたし、敬事房に役職をもらえた。ほかの三監にも顔をつないでいるから将来は安泰ね」
‌ おしろいを塗り終え、桃(とう)花(か)粉(ふん)をうっすらと肌にのせる。
‌「褐騎として独り立ちしたら、もうあなたに用はないわ。そろそろ潮時なのかもしれないわね、私たち。これ以上つづけていても、お互いに得るものがないから――」
‌ 螺子(らし)黛(たい)で眉を描いていると、淫芥が香琴のうしろに立った。
‌ だらしなく夜着をまとい、腰の低い位置で縄帯を締めたその姿は、網巾(もうきん)をつけずにほつれるままにした髻(もとどり)とあいまって、巫(ふ)山(ざん)の夢の残り香を色濃く感じさせた。
‌「臙脂(べに)をさしてやろうか」
‌「けっこうよ。自分でやったほうが早いわ」
‌「遠(えん)慮(りょ)するなって。美人にしてやるから」
‌「このあいだもそんな大口を叩いていたけど、ふざけて変なさしかたをしたじゃない。おしろいを塗るところからやりなおさなきゃいけなくなって迷惑したわ」
‌「今日はちゃんとやるよ。ほら、こっちを向け」
‌ 勝手に紅筆をつかみ、筆先で合(ごう)子(す)の臙脂を取って、空いた手で香琴の頤(おとがい)をとらえる。彼がいつになく真(しん)摯(し)なまなざしを注いでくるので、抵抗せずにされるままになっていた。
‌「できたぞ。どうだ、うまいだろ」
‌「そうかしら。色をかさねすぎたんじゃない?」
‌ 手柄顔の淫芥に一(いち)瞥(べつ)を投げ、香琴は鏡をのぞきこんだ。
‌「やっぱり濃すぎるわよ。これじゃ宣(せん)祐(ゆう)年間の化(け)粧(しょう)だわ。もっと淡くないと……」
‌「嬉児」
‌ 名を呼ばれる。思わずふりかえったときには唇を奪われていた。
‌「当世風になっただろう?」
‌ 昨夜の記憶をよみがえらせる口づけのあとで、淫芥は臙脂が移った唇に笑みを刻んだ。そこでようやく悟る。こうするために、わざと濃く臙脂をさしたのだと。
‌「なんだよ、この手は」
‌ 香琴がたなうらを上にして手を突き出すと、淫芥は怪(け)訝(げん)そうに眉をひそめた。
‌「銀十両払って」
‌「銀十両!? たかが口づけにそんな金高をとるのかよ」
‌「口づけじゃなくて臙脂の料金よ。この臙脂はね、西域(さいいき)からの輸入品で、とっても高価なの。小さな合子ひとつ分で銀十両は下らないのよ。もったいないからすこしずつ使っていたのに、よくもまあ湯水のように使ってくれたわね。あなたが無駄遣いしたせいで合子の底が見えているわよ。弁償してもらわなきゃいけないわね」
‌「もともと残りすくなかっただろ」
‌「上手に使えばあと四、五回はゆうにもったのよ。でも、これじゃ、せいぜいあと一、二回しかもたないわ。あなたのせいよ。責任をとって銀十両出してちょうだい」
‌ 香琴がしつこく手を突き出すので、淫芥は舌打ちした。
‌「この状況で金(かね)勘(かん)定(じょう)かよ。色気のねえ女」
‌「色気だって銀子とおなじよ。無(む)尽(じん)蔵(ぞう)じゃないの。出す相手は選ばなきゃ」
‌ 高慢な笑みを浮かべて挑むように淫芥を見あげながら、香琴は内心震えていた。
‌ ――お願いだから私を捨てないで。
‌ そんな台詞(せりふ)を口に出したが最後、淫芥は冷めた目で香琴を射(い)貫(ぬ)き、うっとうしい羽虫から逃れるようにきびすをかえすだろう。香琴が追いすがっても、彼は立ちどまってくれないだろう。ひとたび去ってしまえば、二度とふたたび戻ってこないだろう。
‌ 淫芥は香琴なしでも生きていけるが、その逆はありえない。彼がいない人生に戻りたくない。それは自分の爪(つま)先(さき)さえ見えない漆(しっ)黒(こく)の闇だ。
‌ あの場所にまた突き落とされたと思うだけで悪(お)寒(かん)がする。一日だって乗り越えられない。絶望の淵に引きずりこまれて月をあおぐこともできない。彼は香琴を現世につなぎとめる唯一無二の存在なのだ。
‌ にもかかわらず、その事実を伝えることさえできない。ほんとうは泣き叫びたいのに。あなたなしでは生きられないと。
‌ ――私は病におかされているんだわ。どんな神医も癒(いや)すことができない、春(しゅん)怨(えん)の病に。
‌ なにもかもがまちがっている。本心さえ打ちあけられない相手に、身を千(ち)々(ぢ)に引き裂かれるほど恋い焦がれているなんて。
‌「わかったよ」 
‌ 淫芥はふっと口もとをゆるめ、香琴を抱きあげた。
‌「銀十両分、寝床で働いてやるからそれで手を打て」
‌「馬鹿なことを言わないで。もう朝よ。身じまいをすませて家に帰らないといけないの。弟が私塾から帰ってくるんだから、食事の支(し)度(たく)を……」
‌ 褥(しとね)におろされると、自分が頼りない生き物になったような心地がする。宦(かん)官(がん)らしからぬ彼の上(うわ)背(ぜい)のせいかもしれないし、閨(けい)中(ちゅう)で翻(ほん)弄(ろう)されてきた経験のせいかもしれない。
‌「嬉児……」
‌ 口づけと口づけのあわいで淫芥がものくるおしげにつぶやくのを聞いた。
‌「……すまない」
‌ それがなんに対する謝罪だったのか、いまでもわからない。けれど香琴はほとんど間を置かずに「いいのよ」と答えていた。
‌「赦(ゆる)してあげるわ」
‌ 夢中で彼にしがみつきながら、溺(おぼ)れているのは淫芥のほうだという感じがした。なぜか彼が泣いているように思えたのだ。香琴に抱かれて、嗚(お)咽(えつ)しているような――。
‌
‌「いつまでそこに隠れているつもり?」
‌ 香琴が鋭い視線を投げると、落地罩(まじきり)の向こうからこちらの様子をうかがっていた淫芥が大げさにびくりとした。
‌「いやあ、機嫌はなおったかなぁと思ってさ」
‌「見てのとおり、とってもご機嫌よ」
‌「おいやめろって、鞭(むち)をふりまわすな! 床に傷がついたら囚蠅が怒るぞ!」
‌「独内監の許可はとってあるわ。『先輩をとっちめてくださるなら部屋のひとつやふたつ、どうなろうとかまいません』ですって」
‌「……あいつ、他(ひ)人(と)事(ごと)だと思って余計なことを……」
‌「ぶつぶつ文句を言っていないで、さっさとこっちに来て着替えて。髪も結わなきゃいけないんだから、もたもたしてる暇はないわよ」
‌「もたもたしてるんじゃなくてびくびくしてるんだよ。おまえがそんなもんを持ってるからだぞ! 頼むからそいつをしまってくれよ」
‌ はいはい、と香琴が皮(ひ)鞭(べん)を長(ちょう)裙(くん)の隠しにしまうと、淫芥はようやく寝間に入ってきた。大あくびをしながら、だらだらと囲屏(びょうぶ)のむこうに行く。衣(きぬ)擦(ず)れの音で彼が夜着を脱いでいるのがわかるが、手伝いには行かない。
‌ 宦官は同類以外に裸体を見せることを嫌う。閨(ねや)事(ごと)の最中でも絶対に裸体をあらわにせず、湯浴みや着替えの際は老宦官や弟子に世話をさせる。彼らは病的なほどに己の肉体を恥じ、同類以外の者の視線を恐れているからだ。
‌ 少数ではあるが、女人に湯浴みや着替えの世話をさせる者もいる。彼らのほとんどは自他ともに認める愛妻家で、菜(つれ)戸(あい)に全幅の信頼を置いているがゆえに、彼女に己が恥をさらすことをいとわないという。
‌ 香琴は淫芥の着替えを手伝わない。なぜなら彼の愛妻ではないから。自分の役割はわきまえている。香琴は彼の配下で、義妹で、友人。配役のなかに菜戸の二文字はない。
‌ ――ああ、怨(うら)めしい。
‌ 夜ごと淫芥の菜戸になれたらと夢想する。生涯をともにしたいと乞われ、彼のために婚礼衣装をまとうことができたら……。
‌ 三(み)十(そ)路(じ)にもなって少女じみた希望を持つ自分にいやけがさす。褐(かっ)騎(き)としていろんな男や宦官に身を任せてきたくせに、愛(いと)しい人の唯一の女になる夢をあきらめられないなんて、みじめすぎて笑い話にもならない。
‌ やり場のない怨めしさを抱えつつも、望みを捨てきれないのだ。心のどこかで期待してしまうのだ。いつの日か、淫芥が香琴の夢を叶えてくれるのではないかと――。
‌「香琴、来てくれ」
‌ 囲屏の陰から淫芥がしきりに呼ぶので、香琴はそちらに足を向けた。
‌「縄帯がからまった。ほどいてくれ」
‌「あきれた。皇后さまの側(そば)仕(づか)えが縄帯ひとつ満足に結べないなんて」
‌「寝不足でぼんやりしてるんだよ。おまえが叩き起こすからだ」
‌「朝起きられないのは夜遊びが過ぎるからでしょ。あなたもいい年なんだから、生活をあらためたほうがいいわよ。いつまでも若いころみたいに無茶をしてると――」
‌ 道(どう)袍(ほう)の上でからまった縄帯をほどいて結びなおしていると、だしぬけに腰から抱き寄せられた。視線がぶつかり、どちらからともなく唇がかさなる。
‌ ――こんなことしなくていいのに。
‌ 淫芥は女を嫌悪している。女の色香も柔(やわ)肌(はだ)も嬌(きょう)声(せい)も、女を構成するすべてのものが彼にとっては嘔(おう)気(き)をもよおす代(しろ)物(もの)だ。なればこそ彼は女を口(く)説(ど)き、さまざまな手段でもてあそび、その気にさせたあとで弊(へい)履(り)のごとく打ち捨てるのだ。
‌ 本気で愛しているかのようにやさしく口づけするのは、香琴がそれを望んでいるから。適当に餌(えさ)を与えて女を操るのが彼のやり口だ。そのたくみな策略が功を奏さないことはないけれど、香琴には不必要な詐(さ)術(じゅつ)といえるだろう。たとえどんなに手ひどくあつかわれても、香琴は彼にすがりついて離れないのだから。
‌「新居にはおまえの部屋もあるのか?」
‌ 思いがけない問いに、香琴は目をしばたたかせた。
‌「どうせ宿代わりに使うんだろ。だったらはじめからおまえの部屋をつくっておけよ」
‌「……いいの?」
‌ おそるおそる尋ねると、淫芥は甘ったるい目もとに微笑をにじませた。
‌「いいもなにもおまえが買った邸だろ」
‌「あなたの銀子で買ったのよ。私のものじゃないわ」
‌ ――言えたらいいのに。あなたは私のものよ、と。
‌「いいや、おまえのものさ。というか、そうしてくれたほうが好都合なんだよなあ」
‌「どういう意味?」
‌「棘(きょく)太(たい)監(かん)の件で主(しゅ)上(じょう)が激怒なさってるのは聞いてるだろ? 三(さん)監(かん)の蓄財が度を越えているって。今後は取り締まりが厳重になるらしくてさ、邸を俺の名義にしておくと、いろいろまずいことになりそうなんだ」
‌ 破思英の夫だった棘灰塵(かいじん)は震(しん)怒(ど)をこうむり、罷(ひ)免(めん)されたうえで九陽城から追放された。怨(えん)天(てん)教(きょう)に入信した事実は認められなかったので命までは奪われなかったものの、長年の宮仕えにより築いた財産は一文残らず没収されることになった。その金高が歳入の五年分をゆうに超えていたため、今上は「宦官の涜(とく)職(しょく)は目に余る」と憤り、内廷(ないてい)の綱(こう)紀(き)粛(しゅく)正(せい)のため、貪婪(どんらん)な三監を摘発するよう勅を下した。
‌ 勅(ちょく)命(めい)を奉じたのが宦官組織である東(とう)廠(しょう)だったので、日ごろから蛇(だ)蝎(かつ)のごとく宦官を忌(い)み嫌っている官僚たちは「東廠に同類を厳正に裁くことなどできるはずがない」と苦言を呈したが、「宦官の罪は宦官に始末をつけさせる」と今上は譲らなかった。
‌ 今上の狙いは宦官たちの団結力を削(そ)ぐことだろう。
‌〝兄(けい)弟(てい)牆(かき)に鬩(せめ)げども外その務(あなど)りを禦(ふせ)ぐ〟とはよくいったもので、年がら年じゅう権力争いに明け暮れていても、密接な師弟関係で結ばれた彼らの紐(ちゅう)帯(たい)は非常に強い。
‌ 都(と)察(さつ)院(いん)などの官僚組織が宦官の涜職摘発に乗り出せば、宦官たちは一致団結して立ち向かう。廟(びょう)堂(どう)は官僚率いる清(せい)流(りゅう)派と宦官率いる濁(だく)流(りゅう)派にわかれ、熾(し)烈(れつ)な闘争がくりひろげられて政道は混乱をきわめるであろう。
‌ 一方、東廠が「悪役」になれば、宦官同士の結束はもろくも崩れ去る。疑心暗鬼になった彼らは保身のために師弟や朋(ほう)輩(ばい)を密告し、あるいは讒(ざん)訴(そ)して互いにつぶし合う。
‌ 泥(どろ)仕(じ)合(あい)になるとわかっていても、今上から直々に勅命を受けている以上、東廠は一定の成果をあげなければならない。官僚たちが危(き)惧(ぐ)するように手心をくわえれば、督(とく)主(しゅ)をはじめとした東廠幹部の首が飛ぶだけだ。
‌「破思英の件でもたついてるからまだ表立った動きはないが、じきに東廠が本腰を入れて貪婪な三監の摘発とやらに動き出すんで、どいつもこいつも財産隠しに奔走してる。だから俺もここに居座ってたんだぜ。囚蠅のねぐらにいれば俺は家屋敷を持たない居(い)候(そうろう)だろ? これほど手ごろな隠れ蓑(みの)はねえよ」
‌「弟弟子を矢(や)面(おもて)に立たせて嵐をやり過ごそうとしてたのね。見さげ果てた人」
‌ 香琴が胸を小突くと、淫芥はその手をつかんでにやりとした。
‌「囚蠅はたいして溜めこんでねえから、どうせ追及されねえよ。それより俺のほうが苦しい立場なんだぜ。おまえが買った邸のせいで鬼(き)獄(ごく)にぶちこまれちまうかもしれねえよ。かといっていまから売却しようにも買い手はつかねえだろうな。三監どもは綱紀粛正に震えあがってる。こんなときに下(へ)手(た)な買い物をする馬鹿はいねえぜ」
‌「馬鹿で悪かったわね。私は独内(ない)監(かん)のために一肌脱ごうと――」
‌「いやいやいや、おまえを非難してるわけじゃねえって。おまえは女(、)官(、)だからな」
‌「……なるほど、そういうこと」
‌ 邸の名義を香琴にしてほしいというのだ。東廠が摘発するのはあくまで三監だから。
‌「悪い話じゃないだろ? おまえは自分の邸を持てるし、俺が居候としてそばにいるから思う存分〝充実した夜〟を過ごせるぞ」
‌「なにが充実した夜よ。あなた、夜な夜な外をほっつき歩いてろくに帰ってこないじゃない。たまに帰ってきたと思えばみっともなく泥(でい)酔(すい)して、その辺に転がって寝入るんだもの。寝床に引っ張っていくのにどれだけ苦労しているか」
‌「今後は心を入れかえるよ。朝な夕な、まめまめしくおまえに奉仕するからさぁ」
‌ 猫なで声で嘘をつく淫芥の手をつねり、香琴はするりと彼の腕のなかから逃れた。
‌「あなたの改心なんてあてにしてないけど、居候させてあげてもいいわよ。私の邸に」
‌ ただし、とふりかえって淫芥を睨(にら)みあげる。
‌「だらしない生活は許さないわよ。朝寝していたら叩き起こす……あら? ないわ」
‌ 長裙の隠しに手を入れたものの、そこにあるはずの皮鞭がない。
‌「さては盗んだわね⁉ かえしなさい!」
‌「やだね。こんなものをおまえに持たせてたんじゃ、命がいくつあっても足りねえや。身の安全のために俺があずかっておくぜ」
‌ かえしなさいよ、とつかみかかろうとしたが、ひょいとかわされる。追いかけては逃げられ、ぎりぎりまで距離をつめて手をのばしても、すんでのところでつかみそこねてしまう。そのうち馬鹿馬鹿しくなって背を向けると、淫芥がそろりと近づいてきた。
‌「むくれるなよ、香琴。鞭なんかなくてもおまえの可愛(かわい)い手でぴしゃりと叩いてくれれば一発で目を覚ますぜ。なんなら口づけで起こしてくれても――あ」
‌「油断したわね」
‌ 一瞬の隙(すき)をついて皮鞭を奪いかえし、香琴はにんまりとした。
‌「さて、遊びは終わりよ。髪を結ってあげる。そこに座りなさい。さもないと」
‌「す、座るよ! 座ればいいんだろ。ほら、これでいいかい?」
‌ 淫芥はびくつきながら繍墩(こしかけ)に座り、軽く両手をあげて降参の意を示した。香琴は彼のうしろに立ち、女のもののようにつややかな黒髪をくしけずる。
‌ ――居候じゃなくて、夫になってほしいの。
‌ 喉(のど)まで出かかった言葉を胸の奥にしまいこむ。怨(うら)んでも怨み足りないけれど、無いものねだりで時間を浪費したくない。人生が一(いっ)炊(すい)の夢なら、最高の夢を見なければ。どうせいつかは覚めるのなら、夢のなかだけでも幸せにひたらなければ。
‌ 紛(まが)い物でいい。真実など要らない。嘘に嘘をかさねて、自分自身すら騙(だま)して、偽物の果報を貪(むさぼ)る。現世では生きている者が勝者だと淫芥は言った。香琴ならこう言うだろう。「女の世界では愛されている者が勝者よ」と。その自覚が空想の産物だとしても、愛されている女はだれよりも美しくきらめく。
‌ 言うなれば、愛は紅おしろいだ。女の醜(みにく)さを覆(おお)い隠す極上の粉黛(ふんたい)なのだ。
‌ かるがゆえに香琴は淫芥を愛する。彼に愛されているつもりで。この愚かな夢が叩きつけられた玻(は)璃(り)細工のように粉々に砕け散ってしまうまで。
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‌【おわり】
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