親王画眉/夕化粧
『後宮茶華伝 仮初めの王妃と邪神の婚礼』発売記念 はるおかりの書き下ろし番外編
親王画眉
「待って、顔を洗う前にもう一回見せて」
整斗王妃付き首席女官・周巧燕は拝むように夫を見あげた。
「……さんざん見ただろう」
「最後に一回だけ。ね、いいでしょう?」
甘えるように腕にしがみつくと、整斗王妃付き首席宦官をつとめる夫――魚奇幽はいつも折れてくれる。夫は心底から巧燕に惚れこんでいるのだ。多少のわがままは快く許してくれると知っているから猫なで声で頼む。
「可愛い菜戸の頼みなのよ、あと一回でいいから」
「……しょうがないな。これが最後だぞ」
奇幽はいかにもしぶしぶこちらを向いた。凱ではめずらしい褐色の肌と彫りの深い目鼻立ちは南国の神仙かと疑われるほど端麗で、気を抜くと見惚れてしまいそうになるが、それは彼の美貌にまともな眉が存在している場合の話だ。
「……おい、いくらなんでも無礼だろうが。人の顔を見るなり噴き出すなど」
「だっておかしいんだもの! あんたのその眉! うねうねしてて、二匹の蛇がならんでるみたい! ん? 蛇というより蚯蚓かしら? あっ、あれよあれ、水面に立つさざ波にも見えるわ。そう、さざ波よ! さざ波眉!」
巧燕が腹を抱えて笑うので、奇幽は不機嫌そうに口をねじ曲げた。
「夫を指さして笑うな」
「ふふっ、もうだめ、やめてったら……! その顔で睨みつけるなんて反則よ! 笑いすぎて死んじゃうわ」
堰を切ったように笑いがこぼれて涙が出てくる。
「こんなに大笑いしたのはひさしぶりだわ。殿下に感謝しなくちゃね!」
整斗王・高秋霆がふたりを内々に召し出したのは、七日ほど前のことだ。
「眉を描く稽古をさせてほしい」
皇族一の堅人として知られる秋霆は真面目腐った面持ちで口を切った。
「ふたりはもう知っているだろうが、孫妃――いや、月娥に眉を描いてほしいと頼まれた。なんでも主上が汪皇后の眉を描いていらっしゃると耳にしてからずっと、その行為にあこがれていたらしい。妻が望むことならなんでも叶えてやりたいと思うのが夫というものだ。そこで思い切って挑戦してみたのだが、これがなかなかの難業だった。筆で文字を書くのとは勝手がちがう。素人ながら懸命に挑んでみたものの、思ったように描けず不格好な眉が出来上がってしまった。それでも月娥は喜んでくれたが……」
憂わしげにため息をつき、秋霆は真剣そのものの表情でつづけた。
「このままでは私の気がすまぬ。再度、挑戦して今度こそ美しい眉を描いてやりたいと思う。しかし、いまの腕前ではたいへん心もとない。化粧にはまったくの門外漢だからな。私には指導者が必要だ。ついてはおまえたちに協力を仰ぎたいのだが」
政にかかわる重大な任務を与えるとでも言うような口ぶりだった。
巧燕と奇幽は笑い出しそうになるのを必死でこらえつつ、「なんなりとお申しつけください」と答えた。
「ありがたい。とても助かる」
色よい返事を聞いて、秋霆はほっとしたふうに頬をゆるめた。
「ではさっそく画眉の練習台に……」
「そのことですが、殿下。はばかりながらお願いしたいことがございます。練習台には周老太ではなく、私をお使いいただけないでしょうか」
奇幽はおずおずと口をひらき、気恥ずかしそうに笑んだ。
「恥ずかしながら私もときおり菜戸の眉を描いております」
「ほう、おまえもか。ひょっとして周老太の今日の眉は……」
「これは自分で描いたものですわ。魚公公は不器用で、お世辞にも画眉がお上手とはいえませんから、たいていは描きなおすことになりますの」
巧燕が笑みまじりに否定すると、秋霆は自分が責められたかのように「なんだ、そうなのか」とつぶやいた。
「周老太は気難しいので、黛の濃淡や眉尻の角度にあれこれと注文をつけ、私が描いた眉ではなかなか満足してくれません」
「苦労するな。ただでさえ化粧に慣れぬ男にとって画眉は難物なのに」
「まったくです。さりとて、私も人の夫です。周老太の眉を描くことができるのは――周老太本人と女官仲間をのぞけば――夫たるこの魚奇幽だけだと自負しております。ほかのだれにもその役目を譲りたくはないのです。おそれながら、殿下にも……。賤しい騾馬ごときが一人前の口をきくと、殿下はお笑いになるかもしれませんが」
笑うものか、と秋霆は力強くうなずく。
「気持ちはよくわかるぞ、魚公公。私も同意見だ。眉を描くということは、その女人と差し向かいで見つめ合うということだ。愛する妻とのそんな親密な行為を、ほかの男に許してはならない。これは夫だけが所有すべき特権なんだ」
「おっしゃるとおりで」
奇幽と秋霆はしみじみうなずき合った。
「案ずるな。もとより、周老太を練習台にしようとは思っていない。周老太には私の横にひかえて画眉を指導してもらいたい。練習台は魚公公に頼もう」
かくて親王殿下による画眉の稽古がはじまったわけだが、だれの目にもあきらかなほどに前途多難だ。なにしろ、何度も描きなおして最終的に出来上がったものが〝さざ波眉〟なのである。
「おまえのせいだぞ、巧燕」
念入りに顔を洗って黛を落としたあと、奇幽は横目でこちらを睨んだ。
「殿下がいっこうに上達なさらないのはおまえの指導が悪いからだ」
「あら、上達なさっているわよ。最初は墨汁を塗りたくったような野太い眉をお描きになっていたけど、いまでは〝さざ波眉〟だもの。どんどん腕をあげていらっしゃるわ」
「まともな眉を描いてくださるようになるまで、いったいどれくらいかかるんだ?」
「そうねえ、殿下は勤勉なかただから一月もあれば十分でしょ」
「一月だと⁉ 一月ものあいだ俺を笑い者にしようというのか?」
「いまさら文句を言わないの。そもそも、あんたが自分で招いた事態でしょ。わざわざ『菜戸の代わりに私を練習台にしてくれ』なんて言うからこんなことになるのよ」
「じゃあ、おまえをさしだせばよかったのか? 私の妻をご自由にお使いくださいと?」
冗談じゃない、と吐き捨てるように言い、奇幽は巧燕の肩を荒っぽく抱いた。
「おまえはだれにもわたさない。たとえ千金を積まれても、命を奪うと脅されても、けっして譲りわたすものか」
夫の口からほとばしった情熱的な言葉に、巧燕は頬が熱くなるのを感じた。二世の契りを結んで十年経つのに、奇幽が予告もなく甘ったるい台詞を吐くと、いまだ色事に不慣れな小娘のようにどぎまぎしてしまう。
「そんなこと、いちいち言わなくてもわかってるわよ」
赤くなったおもてを見られたくなくて、夫の腕のなかから抜け出す。
「あんたはあたしのことで頭がいっぱいだもの。あたしをだれかに奪われはしないかと、心配でしょうがないのよね。あんたのそういう小胆なところ、嫌いじゃないけど――」
棚から化粧盒を取り出し、巧燕はちらと奇幽をふりかえった。
「これだけはおぼえておいて。あたしだって、もし殿下に画眉の練習台になってほしいって頼まれたら、なんとか口実をつけて断ったわよ」
「巧燕」
「だって殿下の腕前はあんたよりひどいもの」
「……理由はそれだけか?」
眉を剃り落とした顔で、奇幽は渋い表情をする。すねた子どものような顔つきに微笑をこぼし、巧燕は化粧盒から黛を出した。
「もうひとつの理由は……今夜話すわ」
「いま聞きたい」
「だめよ。そろそろ王妃さまのおそばに戻らないといけないんだから。さあ、そこに座って。眉を描いてあげるわ」
「格好良く描いてくれよ。おまえが惚れなおすように」
馬鹿ね、と巧燕は繍墩に座った奇幽の鼻をつまんだ。
「とっくに惚れなおしてるわよ」
【おわり】
夕化粧
「いつまで鏡と見つめ合っているんだ?」
うしろから声をかけられ、整斗王妃・孫月娥ははっとしてふりかえった。夜着姿でこちらを見おろしているのは、整斗王・高秋霆――月娥の夫である。
「眉がうまく描けなくて……」
「それなら私が描いてあげよう」
秋霆が手をさしだすので、黛をわたす。彼に眉を描いてもらうようになって二月以上経つのに、こうして真正面から向き合うことにはいっこうに慣れない。頤をそっとつかまれるだけで、怖いくらいに鼓動が高鳴ってしまう。
「どうかな? 気に入らないなら描きなおすが」
月娥が鏡をのぞきこむと、うっすらとおしろいを塗ったおもてに遠山の眉があざやかに映えていた。
「素敵ですわ。殿下のほうが私よりお上手ですね」
「稽古に励んだかいがあったな。魚公公には迷惑をかけてしまったが」
秋霆が苦笑するので、月娥もつられて笑ってしまう。整斗王付き首席宦官の魚奇幽は秋霆の頼みで画眉の練習台になってくれていたのだ。はじめのうちは慣れない秋霆に――悪気はないのだが――奇天烈な眉を描かれており、なんとも不憫だったけれども、彼の協力が功を奏して秋霆の画眉の腕前は格段にあがった。
「奇幽には毎日お礼を言っているんです。私が殿下に眉を描いていただけるのはあなたのおかげよって」
「そのとおりだ。魚公公と周老太の力添えなくして今日の私はなかった。ふたりにはなにか礼物を贈っておこう」
「めずらしい食材がよいのでは? 奇幽は巧燕に手料理をふるまうのがなによりの楽しみですから」
そうしよう、と秋霆がうなずく。
「ところで、いつになったらそなたは鏡台から離れてくれるんだろうか? 私は待ちかねているのだが」
貪るような視線を注がれ、燃えるように頬が熱くなる。夕化粧を仕上げたら、いつものように秋霆と床に入る。それから朝までふたりきりで過ごすのだ。
「すぐに行きますわ。臙脂をさしたら……」
黛を化粧盒にしまい、抽斗から臙脂が入った合子を取り出そうとしたときだ。奪い去るように抱きあげられた。
「臙脂はいらないだろう? どうせ、すぐにとれてしまうんだから」
「……殿下」
きっと耳まで赤くなっている。それこそ臙脂を塗ったみたいに。
「今夜は長公主さまからいただいた臙脂をさしてみるつもりでしたのに」
「明日の朝にしてくれ。今夜は十分待たされた。これ以上は耐えられそうにない。そなたが鏡と見つめ合うのに夢中で私が寝間に入ってきたことにも気づかないから、いっそ鏡をとりあげてしまおうかと思ったほどだ」
「だめですわ、鏡をとりあげるなんて!」
褥におろされるなり、月娥は秋霆の袖を引っ張った。
「自分で眉を描けなくなってしまいますわ。殿下に見ていただくために装っているんですから大目に見てください」
あわてふためいて反駁したせいか、「冗談だよ」と秋霆は軽く噴き出した。
「鏡はとりあげないから、気がすむまで使いなさい。眉を描いているそなたを盗み見るのは私のひそかな楽しみでもあるからな」
「盗み見るって……そんなに頻繁にごらんになっているんですか?」
「機会があればいつでも」
悪びれもせずに答える夫の顔を見ていられなくて、うつむく。
「……恥ずかしいので、化粧をしている姿はごらんにならないでください」
「なぜだ? 毎朝そなたの眉を描いているのは私だぞ」
「……朝化粧は見られてもいいんです。人に会うためにするものですから」
頬紅をささなくても色づいた頬を隠すように、月娥は秋霆の胸に顔をうずめた。
「夕化粧は殿下のためだけにほどこすものですから、きれいに仕上がったところをごらんになっていただきたいのですわ」
承知した、と秋霆は笑みまじりに月娥の背を撫でる。
「今後はそなたがよいと言うまで寝間には入らないようにしよう。しかし、忍耐とは苦痛を伴うものだ。苦痛に耐えた見返りに褒美をもらえないと割に合わないな」
「褒美? なにをさしあげればいいんですか? 私の持ち物はほとんど殿下にいただいたものですわ。さしあげられるものなんて……」
実家から届いた新茶をあげようか。ちょうど一緒に飲もうと思っていたものがあるから、と言おうとしたとき、焦れたような低いささやきが降った。
「私が欲しいものをくれればいい」
「……殿下が、欲しいもの?」
秋霆は物欲と縁遠い人だ。皇兄という高貴な身分でありながら、暮らしぶりは清廉な道士のように質素で、身のまわりに贅沢な品は置いていない。
彼の持ち物でいちばん高価なのは――王府をのぞけば――皇宮に出かける際に身にまとう衣冠なのだ。それとて天子から下賜されたものを大切に使っているだけで、彼自身が王禄を乱費してこしらえた代物ではない。奢侈に流れがちな皇族のなかで泥中の蓮のような彼がなにを欲しがるのか、皆目見当もつかない。
「わからないか?」
素直にうなずけば、耳朶に吐息が落ちる。
「そなたの口づけだ」
【おわり】