蒿里の曲
『後宮彩華伝 復讐の寵姫と皇子たちの謀略戦』発売記念 はるおかりの書き下ろし番外編

聞き慣れた足音が背後で響き、東廠督主・独囚蠅はふりかえった。
着古した道袍に継ぎの当たった披風を羽織り、色褪せた烏角巾を頭にいただく老人が倦んだ目でこちらを見ている。その粗末な身なりは世捨て人のようだが、やつれた面貌に白髯がないことから、彼が老爺ではなく老宦官であることが見て取れる。
「葬太監」
「ずいぶん熱心に供養しているんだな」
宦官二十四衙門の首、司礼監掌印太監・葬刑哭は立ち上がろうとした囚蠅を視線で制し、こちらに歩み寄った。
「四人分ですから」
囚蠅は銀盤に紙銭をくべながら答えた。
清明節。人びとが先祖の墓参りをする日に囚蠅は亡き兄弟子、同淫芥の墓を詣でていた。真新しい塚の下には淫芥の義妹だった爪香琴も埋葬されている。天涯孤独の身である囚蠅にとって、淫芥は兄のような、香琴は姉のような存在だった。いわば身内の墓参なので、供養もおざなりにはできない。
手伝おう、と言って、刑哭はとなりにかがみこんだ。
「意外だったな。淫芥がこんなかたちで世を去るとは」
ため息まじりの言葉が落ちた。
「そうですか? 私にはいかにもあのかたらしい幕引きのように思われますが」
昨年、嘉明二十五年除夕(大晦日)。囚蠅は司礼監秉筆太監として大儺(鬼やらい)の儀式に参列していた。
儺々の声が響きわたるにぎにぎしい席に、当時東廠督主であった淫芥の姿がないことを不審には思わなかった。特務機関たる東廠には除夕も元日もない。彼らは餓えた野犬のごとく明け暮れ獲物を探してそこらじゅうを嗅ぎまわっている。諜報や不穏分子の摘発という特殊な職掌ゆえに、本来なら三監は出席しなければならない宮廷行事も欠席することが許されているのだ。廠衛(東廠および錦衣衛)を率いて怨天教徒狩りに奔走する淫芥が宮中の催しに顔を出すことはめったになく、どうせまた怨天教教主・破思英の足跡をたどってどこかに出かけているのだろうと気にもとめなかった。
方相氏や十二神獣に扮した者たちが勇壮に舞うさまを漫然と眺めていた囚蠅のもとに、一人の童宦がやってきた。童宦は淫芥の弟子だったので何事かあったのかと問うと、一通の文をさしだした。文の差出人は香琴だった。白檀が奥ゆかしく香るたおやかな手跡は「これから淫芥を道連れに死ぬつもりだ」と語っていた。
勘違いしないで。これは情死ではなく、単なる殺人よ。
私はあの人を殺して死ぬの。本音を言えば〝情死〟にしたかったんだけど、あの人は破思英の処刑に立ち会うつもりだったから一緒に死にましょうと言っても承知してくれないでしょ? だから薬で眠らせて、その隙に全部片づけるわ。私は邸に火を放ってから服毒する。確実に死ねるように断腸草を用意してあるの。この文があなたに届くころには、あの人の邸から火の手があがっているはずよ。中城兵馬司の火兵がすぐに駆けつけるでしょうけど、救火作業が滞っていたらあなたが指揮してね。延焼して被害が拡大することは望まないわ。
淫芥が死ねば、主上は後任の督主にあなたを指名なさるでしょう。そうなれば忘蛇影の処遇はあなたの胸三寸よ。曼鈴を妹のように思っていた私にとっても忘蛇影は憎い仇。やつには相応の報いを受けさせてちょうだい。一時の功名心にそそのかされて自分がどれほど愚かなことをしたのか、あの傲慢な騾馬に思い知らせてやるべきだわ。
最後におずおずとした筆致で、「もしよければふたりの亡骸をおなじ墓に埋葬してほしい」と記されていた。
文を読み終えるや否や、囚蠅は直属の上官である刑哭に事情を話して淫芥の邸に駆けつけた。どうしてそんなことをしたのかわからない。香琴の書きぶりからは、もはや事は成っていると予想された。いまさら急行したところで状況を変えられるとは思えない。頭のどこかでもう手遅れだと知りながら軒車を急がせたのは、間に合ってほしいという願望のせいだろうか。
現場は火の海だった。紅蓮の炎がなにもかもをのみこんでいた。にもかかわらず、焼け跡から見つかった二人分の亡骸の状態が割合よかったのは奇妙だった。それはまるで彼らを包んだ激しい情火がいずれかの心残りで水をさされたかのようだった。
遺体を調べた検屍官は両名とも毒死であること、毒物は遺体のそばにあった荷包のなかの薄荷飴にふくまれていたことを断言した。
「どうして飴なのかなあ? 棺に入ってから服毒するにしても、飴みたいなかたちのあるものより酒や茶みたいな飲み物のほうがいいと思いませんか? 飴だったら途中で吐き出してしまうかもしれないでしょう。確実に死ぬつもりなら、一思いに飲み干せるもののほうがいいのになあ」
検屍官はしきりに首をかしげていたが、囚蠅はなんの疑問も抱かなかった。
いつだったか、めずらしく深酒した香琴が生娘のように頬を上気させて話していた。
「淫芥がはじめて私に声をかけてきた日ね、あの人、あの人、飴をくれたの。ほら、あの人って小腹がすいたときのために薄荷飴を持ち歩いてるでしょ。あれよ。あのころの私は性悪の主にこき使われる婢女で、いつも食事を抜かれて空腹だったから甘露のように甘く感じたわ。この世にこんなにおいしいものが存在するのかしらと涙が出たほどよ。……後日、おなじ飴を食べる機会があったんだけど――淫芥が寝てるときにひとつ盗んだのよ――がっかりしたわ。あんまりふつうの味だったから。甘さも風味もふつうで、そこらの店で売っているなんの変哲もない薄荷飴だった」
酔いのせいか、香琴はひとりでころころと笑い転げた。
「こんなどこにでもある飴で餌付けされたんだと思うと、私ってどれだけ安い女なのよって腹が立ってきてね。むしゃくしゃしたから、薄荷飴を生姜飴にすりかえてやったわ。淫芥は中身が変わっていることに気づいて『生姜は嫌いだ』とかなんとか、ぶつぶつ文句を言っていたけど、結局その後は生姜飴を持ち歩くことにしたみたい」
彼女は笑いすぎて目じりからあふれた涙を気だるそうに手巾で拭った。
色事に疎い囚蠅は香琴が放った調子はずれの笑いの意味も手巾に染みた涙のわけも、なにひとつ理解できなかったが、自身が玉梅観の道姑・宰曼鈴と恋仲になり、さまざまなしがらみによって生木を裂かれる結果になってからは、あの晩の香琴の笑い声が哀傷をともなって反芻される。
――思い出の品をほかの女に奪われまいとしたのだろう。
香琴にとって薄荷飴は淫芥と自分をつなぐ一本の紙縒りだった。
淫芥は大勢の情人を持つ身で、彼女はその一人にすぎなかった。自分の立場が儚いものであることを十分に自覚していたからこそ、香琴は淫芥との縁を必死で守ろうとしたのだろう。淫芥がほかのだれかに薄荷飴をわたすことは、彼女が後生大事に抱えている記憶を汚されることだ。かるがゆえに飴をすりかえたのだ。恋しい騾馬を独占できぬ代わりに、いとおしい過去だけは何者にもあけわたすまいと。
色の道にあかるい兄弟子が香琴の稚拙な策略を見破らなかったはずはないが、明確に拒絶することもなく、なかばあきらめたように受け入れていた。
――馬鹿な人だ、あなたは。
囚蠅は声に出さずに淫芥を罵った。淫芥がなぜ香琴を拒みきれず、彼女と夫婦同然の生活をしていたのか、重々承知しているから。
「なんだ、これは」
「あのかたが俺にたくしていた香琴宛の文です」
囚蠅は懐から出した文を刑哭に手渡した。
「これをごらんになれば、あのかたが大馬鹿者だったことがよくわかりますよ」
「故人の文を盗み見るのは気が進まぬな……」
「司礼監掌印太監ともあろうかたがなにをおっしゃいます」
奏状の検閲を主管する司礼監の長が死者の書簡に目を通すのに二の足を踏むのは滑稽なことだ。
「これは私信だろう? 香琴に宛てたものなら恋文のたぐいだろうし、いくら淫芥があけすけなやつでも私に読まれたくはあるまい」
「では故人の供養だと思ってごらんください。あのかたが遺した想いに哀悼を捧げるためと解釈すれば、うしろめたいことはないでしょう」
囚蠅が銀盤で躍る炎を見つめながら言うと、刑哭はためらいがちに文をひらいた。その長い書簡は兄弟子らしい乱雑な手跡で急き立てられたかのように記されていた。
香琴、俺にはどうしてもおまえを菜戸にできない理由があるんだ。この秘密はあの世まで持って行くつもりだったが、この文がおまえの目にふれるころには俺はくたばっているだろうから、まあ死人の戯言とでも思って聞いてくれ。
俺が淫乱道姑の息子だってことは話したよな? 生まれ育った道観が淫売宿だったことも。よく知られていることだが、范東省にはその手の道観がごろごろある。俺を孕んだ女もあちこちの道観をふらふら渡り歩いて、身重のときに流れついた道観でそのまま産んだってわけさ。
あの女は子を産んでも乳を与えたことはねえ。当人が訳知り顔でそう言っていた。生きるさだめなら母親なんかいなくても育つし、死ぬさだめなら母親がどんなに可愛がっても死ぬ。すべては天がおさだめになることで、母親が乳を与えるかどうかなんて関係ないんだとさ。
その理屈が正しければ、俺は「生きるさだめ」だったってことになる。腹をすかせて泣きわめく嬰児を憐れんだ石女の道姑が――むろんこの女も淫売だぜ――山羊の乳で俺を育ててくれたからな。
聞けば、俺を産んだ女は俺の前にも何人か子を産んでいたらしい。兄か姉かは知らねえが、そろいもそろって死んじまったんだと。あの女に言わせれば、「死ぬさだめ」だったってことだ。それが不運なことだとは思えねえ。俺も「死ぬさだめ」だったほうがよかったかもしれねえな。生きていたせいであんなことをしでかしたわけだから。
件の道観では客をとるのは道姑だけじゃねえ。道姑が産んだ子も母親とおなじ生業につく。早い者は四、五歳、遅くても七、八歳には客をとるようになる。俺は前者で、物心ついたころから狒々爺や年増女の慰み物になっていた。胸糞悪い話だが、年端もいかねえ餓鬼をどうこうするのがめっぽう好きな乱人はたいてい金持ちでな、富商や高官、郷紳やその奥方連も俺の馴染み客だった。
俺は連中を腹の底から気色悪いと思っていたが、やつらの相手をしねえと飯を食わせてもらえねえからほかにどうしようもなかった。
まだ仕事に慣れねえころ、乱人どもの面を見るのがいやになって道観を飛び出したことがある。まともな親のいねえ五尺の童子が街に出てなにをすると思う? 腹が減っても懐には一文もねえとなると、かっぱらうしかねえだろ。しょせんは餓鬼のすることだ。たちまち胥吏にとっ捕まって、さんざんな目に遭わされた。殴られ、蹴られ、屎尿をかけられて寒空の下にほうりだされたとき、骨身にしみたんだ。「これなら客をとったほうがましだ」ってな。客がすることと胥吏にされたことは似たり寄ったりだが、客はおあしをくれる。胥吏はなんもくれねえ。それなら客の相手をしたほうが〝得〟だって気づいて道観に戻った。
その後は真面目に働いたぜ。俺は生まれつき要領がいいから、客あしらいのこつもすぐにつかんだ。できるだけ楽に稼ぐ方法を身につけてからはつとめも苦にならなくなった。なんといっても慣れさ。どんな醜行も慣れちまえば日常の一部になる。
とはいえ、自分の力だけで渡世してきたと胸を張るつもりはねえよ。俺は運がよかったのさ。兄弟たちが――道姑が産んだ子どもはみんなひっくるめて兄弟姉妹としてあつかわれていた――怪我や病でばたばたと死んでいくなか、楊梅瘡にもかからず、どれだけ働いても三日以上寝つくことなく、生きのびたんだからな。
そうこうしてるうちに、俺を産んだ女がまた子を産んだ。今度は女児だ。はじめのうちは例の石女が乳を飲ませていたんだが、石女が病にかかって寝ついちまってからは俺が赤ん坊の世話をしなきゃならなくなった。
俺はせいぜい五つだったんだぜ。道観で下働きをしてた婆さんが手伝ってくれたとはいえ、一日じゅう泣いたりわめいたりしてる嬰児の面倒を見なきゃならねえのは厄介だった。さっさと死んでくれりゃあ手間がはぶけるのにと思ったことは一度や二度じゃねえ。でも、ふしぎなものでな、乳を飲ませたり襁褓を取り替えてやったりしているうちに情が移っちまったんだ。妹が四つになるころには、こいつより可愛い生きものはこの世にいねえだろと思うまでになっていた。
……さっきも言ったが、道観で暮らす子どもは早ければ四、五歳で客をとりはじめることになってる。妹は運悪く器量よしだったから、童女好きの常連に目をつけられちまった。俺はどうしても妹にはこの稼業をやらせたくなかった。あいつだけはきれいな身体でいてほしかった。妹が乱人どもの玩具にされるのは我慢ならなかったんだ。
俺は無い知恵を絞って妹を病人にした。疫病にかかったことにして客どもから隠したんだ。深刻そうな面をして妹の病がどれだけ重いかを語り、病のせいで生来の美貌が見る影もなくなったと言いふらした。年がら年中淫行に励んでいるくせに、客どもは呪詛や幽鬼のように病を恐れている。客が幼子を好むのは、幼ければ花柳病とは無縁だろうと踏んでいるからだ。疫病にかかった童女は連中にとって安全な遊び道具じゃねえのさ。
おかげで妹は乱人どもの毒牙にかからずにすんだ。すくなくとも死ぬ直前までは。
……結局、俺のしたことは正しかったのかどうか、いまだに判じかねている。
客から遠ざけるためとはいえ、俺はあいつを小さな窓しかねえ部屋に閉じこめた。妹は俺と下働きの婆さん以外にはだれとも会ねえし、外に出ることもできねえ。俺が持ってくる画集や挿絵入りの小説を眺める――文字どおり眺めていたんだ。あいつは字が読めなかったからな――だけだ。ひもじい思いをしないように食事は欠かさなかったし、ときどき湯浴みもさせてやった。夏は氷を、冬は炭を届けてやった。
すこしでも慰みになればと、妹に会いに行くたび面白おかしい話を聞かせてやった。廟会の様子や流行りの講談や巷でよく聞く噂話……なかでも妹が好んだのは芝居の話だった。俺が見てきた芝居について話すと、妹は前のめりになって聞いていた。売れっ子女優の姿絵を買ってきてやったら飛び上がって喜んだぜ。姿絵に描かれていた髪型を結おうとして、髪がからまって大泣きしたこともあったな。役者の真似事をして一人で舞や唱の稽古をしたり、自分で考えた芝居の筋をまくしたてたり、棒きれをふりまわして立ち回りだと言い張ったり……見たこともねえのに芝居に熱中してたよ。
一度だけ、見る機会があった。ある年の暮れのことだ。近所に蘭劇の一座がやってくるらしいという話をしたら、妹がどうしても見に行きたいとせがんだ。妹は八つになっていた。かれこれ四年も部屋にこもっていたわけだ。外に出すのは恐ろしかった。どこかで客の目にとまるかもしれねえからな。心配がなかったわけじゃねえが、一度くらいはいいだろうと思った。穴倉みたいなところに閉じこめられている妹が不憫だったし、大好きな芝居を見せてやりたかったんだ。
……これが過ちだったと気づいたのは、年が明けてからのことだ。
ともあれ、あの晩はふたりで楽しいひとときを過ごした。戯楼は大混雑で、子どもだけで席をとるのに難渋したが、劇班の用心棒だという髭面の大男が顔に似合わねえ親切な野郎で、俺たちのためになかなかいい座席を確保してくれたんだ。
妹は寸刻もじっとしていられないほど大はしゃぎしていた。目に映るものがなんでもめずらしかったんだろう。あれはなんだこれはなんだと、しつこいくらい質問してきた。俺が答えている最中に次の質問が飛び出してくるんで、ほとほとまいっちまったぜ。
芝居がはじまると、妹は息をするのも忘れて見入っていた。ちゃんと息をしろよと何度言ったかわからねえほどさ。大きな玉みたいな目をきらきら輝かせて、舞台で演じられる恋物語に夢中になっていた。俺は色恋の芝居なんざに興味はなかったが、妹の喜びようを見ているとなんだかこっちまで愉快な心持になった。
その晩だった。妹が劇班に入りたいと言い出したのは。髭面の用心棒が俺たちの様子を見てなにかを察したのか、劇班に入らないかと誘ってきたんだ。餓鬼のころから芸を仕込めば十年後には立派な役者として舞台に立てるようになる、劇班は興行のために国じゅうを回るから、ただで旅ができるぜと用心棒は言った。妹はすっかりその気になってついていきたがったが、俺は気乗りしなかった。用心棒のことがどうも信用できなかったんだ。こいつは俺たち兄妹を騙してどこかに売り飛ばすつもりじゃねえかと疑った。
……まあ、正直に言えば臆病風に吹かれたのさ。いまの暮らしだってろくなもんじゃねえけど、外に出ればもっとひどい目に遭うかもしれねえ、それならこのまま道観にいたほうがましじゃねえかってな。
考えてみれば、あの用心棒はほんとうに親切なやつだったんだろうぜ。だってそうだろう? 俺たちを騙すつもりなら、いったん帰すはずがねえ。面白いものを見せてやるとかなんとか口車にのせて連れ出し、とっつかまえて縛りあげりゃそれでしまいだ。わざわざ俺たちを無事に帰したことが、あいつが悪人じゃねえ証拠さ。
用心棒の厚意を俺はふいにしちまった。地獄みたいな生活から抜け出すいい機会だったのに、あいつを頼っていればべつの道がひらけたかもしれねえのに、肝心なところで怖気づいて最初で最後の好機をふいにした。妹には「あの用心棒は人さらいにちがいねえよ」と吹きこんで、どこにも行かないのが正しい選択だと諭した。
やりなおせるものならやりなおしたい。あのときの俺はどうかしていた。道観を抜け出して胥吏どもに痛めつけられた経験がよほどこたえていたんだろう。逃げるべきだったのに逃げなかった。そのせいで妹は死に、俺は……今生ではけっして償うことができない大罪を犯してしまった。
あれは年が明けて間もないころのことだ。あの女――当時は母さんと呼んでいたが、金輪際そう呼ぶつもりはない――がなれなれしく近づいてきて、俺を食卓につかせた。食卓にはうまそうな料理がずらりとならんでいた。
「今日はおまえの誕辰だからね、たんとおあがり」とあの女は言っていたが、俺はその日が自分の誕辰だなんて知らなかったし、自分の誕辰ってものを気にかけたこともなければ、気にかけてもらったこともなかった。いったいどういう風の吹き回しかといぶかったが、あの女に世話を焼かれ、料理を勧められたり、酒をつがれたりするのはいたく心地よかった。それまで一度も実母に世話をされたことがなかった。淫売道姑のなかにはわが子をひどく可愛がる者もいて、そういう女が息子や娘のために手ずから食事を作っていたから、俺は子ども心にうらやましく思っていた。
俺に乳を飲ませてくれた石女は俺が乳離れすると興味を無くした。どうやら乳飲み子しか可愛がれない女らしい。石女に見捨てられちまってからは厨から残り物を盗んだり、ほかの子どもの食い物を盗んだりしてなんとか飢えをしのいでいた。
他人から奪わなきゃ食えないのがふつうだったから、あの女に手料理をふるまわれてすっかり気がゆるんじまった。あの女が俺を気遣ってくれることがうれしかったんだ。
ひょっとすると、これからは毎日こんなふうに飯を作ってくれるかもしれねえ。それなら一生懸命に働いてしっかり孝行するぞと心底から思った。
ああ、俺も〝孝〟というものをおぼろげながら知っていたのさ。芝居のなかによく出てくるからな。われながら傑作だ。孝なんて上等なもんが俺みたいな虫けらとすこしでもかかわりがあると本気で考えていたなんてな。
料理はうまかった。うまかったんだと思う。正直言ってあんまりおぼえてねえ。野良犬みたいにがっついたのは間違いない。満腹になってからの記憶は途切れ途切れだ。
いつからか夢を見ていた。夢のなかで俺は女を抱いていた。慣れたもんさ。十のころからやってることだからな。妙に生々しい夢だった。腐った花みたいな女のにおいや、ねっとりと湿った肉の感触がいまでも記憶にしみついている。
目を覚ましたとき、いったいなにが起こったのかわからず混乱した。俺はたしか、あの女が用意してくれた料理を食っていたはずだ。どれもこれもうまかった。実際にはたいした味じゃなかったのかもしれねえが――あの女が料理上手だったなんて話は聞いたことがねえ――母親が俺のためにこしらえてくれたものだという意識が舌を麻痺させていたんだろう。
そうだ、俺は飯を食っていたんだ。なのに気づくとそこは寝床の上で、俺は丸裸だった。となりにはあの女がいた。俺を産んだ女が、内裙すらつけない姿で。「あんたもすっかり一人前になったわね」と、あの女は化粧が剥げた顔で淫らに笑った。
「こうしているとあんたの父親を思い出すわ。あんたの父親はね、どこかのえらい道士だったの。いえ、文官だったかしら。あ、郡王だったかも。だれだっていいけど、一日じゅう見てても飽きない、惚れ惚れするような美男子でね、あたしは一目で恋したわ。あの人はあたしを何度も抱いてくれた。あたしたちは愛し合っていたの。夫婦約束までしたのに、あの人は病にかかって死んでしまった。ううん、事故に遭ったの。軒車にはねられたのよ。ちがうわ、刺客に殺されたんだったわ。陰謀に巻きこまれて……なんだっていいけど、とにかくあの人は死んだ。あたしを置き去りにして」
あの女は甘ったるいため息をついて俺にしなだれかかってきた。
「あんたを孕んだと知ったとき、ほんとうにうれしかった。あの人の子にちがいないって確信があった。産んだら可愛がるつもりだったんだけど、赤ん坊のあんたを見ていやけがさしたわ。だって、あんたはちっともあの人に似てなかったんだもの。あの人はあんたみたいに小さくなくて、獣みたいにぎゃあぎゃあ泣かなかったわよ。でも、近ごろはあの人に似てきたわね。あと三、四年もすれば瓜二つになりそう」
ねえ、とあの女は気味の悪い猫なで声でささやきかけた。
「ここはまるで掃きだめだわ。他人の餓鬼どもが虫みたいにうじゃうじゃいてうっとうしい。あんたもそう思うでしょ? ふたりでここを出て、どこか遠いところに行きましょうよ。あたしたちのことを知る人がだれもいない場所で一からやりなおすの。あたし、いい奥さんになるわ。これでも煮炊きや洗濯はひととおりできるのよ。あんたはなにか仕事を見つけて稼いできてちょうだい。そうね、役者になるといいわ。あんた、とびっきり顔がいいからすぐに売れっ子になるわよ。子どもは何人欲しい? あたしは男の子と女の子を一人ずつ――」
あの女はくどくどとしゃべりつづけていたが、それ以上なにを言っていたのか、おぼえていない。俺は突然、嘔気をもよおして胃の腑のなかのものをぶちまけた。意識を失う前、無我夢中で食ったものを全部。吐くものがなくなってからも嘔気がおさまらなかった。臓腑という臓腑を吐き出してしまいたい気分だった。
翌日、俺はようやく道観を出る決心をした。もちろん妹を連れていくつもりだった。妹にも話をして、ふたりで計画を練った。例の劇班はとっくによそへ行っただろうが、いまから追いかければ間に合うはずだ。すぐにでも飛び出していきたかったが、逃げるには先立つものが要る。俺はすこしばかり無茶をして働き、路銀を作った。そのあいだも、あの女は何度も俺に言い寄ってきたが、無視しつづけた。あんなことは二度とごめんだった。寝込みを襲われないため、あの女が毎晩飲む酒に眠り薬を入れておいた。言うまでもないが、あの女が寄越した食い物や飲み物は一切口にしなかった。
まとまった金ができるまで半月ほどかかった。もっと長く働けばもっと稼げただろうが、一日も早く外に出たかったんで、そのへんで打ち止めにした。俺としては目いっぱい急いだつもりだ。……だが、遅かった。すでに手遅れだったんだ。
金を持って妹の部屋に行ったが、もぬけの殻だった。妹が俺に無断で外に出るはずはねえ。だれかに連れ去られたんだ。俺は道観じゅうを捜しまわり……客の部屋で妹を見つけた。正確には、ついさっきまで客がいた部屋でだ。
寝床にいた妹の様子を見て、妹を買った客の正体がわかった。
そいつは女を痛めつけるのが好きな下種野郎で、十に満たない童女をことさら好んでいた。俺はあいつの好みからはずれるから買われたことはねえが、やつに買われてさんざんな目に遭わされた娘を何人か見たことがある。やつのやりかたは禽獣そのものだ。いいや、禽獣よりも下劣だ。地獄で亡者を痛めつける獄卒どもだって、あの鬼怪の所業を見たら眉をひそめるはずだ。やつに買われるとたった一晩で娘は壊れちまう。ああ、これは売り物にならなくなるって意味じゃねえよ。人として……って意味だ。これは気取った比喩なんかじゃない。文字どおり、身体のいろんな部分が破壊されちまうんだ。
思い出すだけで反吐が出る。
……妹はもう虫の息だった。駆けつけるのがあとすこし遅かったら、俺が見つけたのは亡骸だっただろう。俺は急かされでもしたように妹を抱えて客の部屋を出た。こんなおぞましい場所には寸刻たりとも妹を置いておきたくなかったんだ。
いつもの部屋に戻るなり、世話係の婆さんに金をわたして薬を買いに行かせた。自分で行ったほうが早かっただろうが、妹のそばを離れたくなかった。
俺はずっと妹の枕辺にいた。片時もその場を離れなかった。……妹が事切れるまで。
死に際、妹はなにか言おうとして必死で口を動かしていた。しかし聞こえてきたのはうめき声で、言葉じゃなかった。話したくても話せなかったんだ。舌を嚙みちぎられていたから。筆談もできなかった。妹が字を知らねえからじゃねえ。もし妹が字を書けたとしても――そのころの俺が字を読めたとしても――結果はおなじだった。妹は両手の指のうち半分を折られ、半分を切り落とされていた。もう二度と、好きな戯曲の頁をめくることもできない。お気に入りの女優のように髪を結うことも。
妹の前で俺は何度も頭を下げた。こうなったのは俺のせいだ。あの日、戯楼からの帰り道……いや、用心棒に話を持ちかけられた時点で道観には戻らないと肚をくくるべきだったんだ。
俺が臆病風に吹かれたばかりに妹は怪物の餌食にされちまった。どんなに恐ろしかったろう、どんなに泣き叫んだろう。きっと必死で俺を呼んだはずだ。ちょうどそのころ、べつの部屋で狒々爺の慰み物になっていた役立たずの兄貴を……。
いくら詫びても無駄だ。やりなおしはできない。妹に起こったことをなかったことにはできねえんだ。恨み言ひとつ言うこともできず、俺の目の前で妹は息を引き取った。これから先、味わうはずだった人並みの幸せにふれることもないまま。
せめてもの罪滅ぼしにちゃんと埋葬してやりたかったんだが、手持ちがなかった。気が動転していて、有り金を世話係の婆さんにわたしちまったからな。あいつは血も涙もねえ盗人だったぜ。妹と一緒に生き地獄から逃げ出すために俺が死ぬ思いで貯めた全財産を持ち逃げしやがった。思えば馬鹿なことをしたもんだ。妹が助からねえことは一目でわかったはずなのに、薬を買いに行かせるなんてな。あの金が手もとにあれば、妹にきれいな死に装束を着せて棺に入れてやることもできたってのに。
仕方ねえから、妹が気に入っていた衣を着せて道観の近くに埋めた。埋葬を終えて墓前で紙銭を焚いていると、あの女が近づいてきた。おしろいを塗りたくった汚ぇ面でにたにた笑いながら。
「これでお荷物はいなくなったわね」
あの女がそう言い出す前に、妹を人でなしにあてがったのはこいつだと気づいていた。あいつは俺と駆け落ちしたがっていた。しかし俺は妹を連れて逃げるつもりだった。あの女にとって妹は邪魔者だったわけだ。だから妹を餓狼の前に突き出した。妹が――自分の娘がどんな目に遭わされるか知りながら。
妹の墓の前であの女は俺に抱きついてきやがった。怒りに任せて突き飛ばさなかったのは考えがあったからだ。その場ではあの女に話を合わせておいて駆け落ちの相談をした。翌日、俺はあの女と道観を出た。街に行こうとするあの女を騙して人気のない道に誘い出した。あとはどうなったか、察しはつくだろ。俺はあの女を絞め殺した。いや、殴り殺したのかもしれねえ。あるいはめった刺しにしたか。具体的にどうやったのか思い出せねえが、死体を焼いたことははっきりとおぼえている。あの女がよみがえらないように念入りに焼いて、骨を砕いて、谷底に捨てた。
その後、俺はごろつきどもの仲間になり、いろいろあって浄身した。刀子匠に一物を切り落としてもらったのは、過去と決別するためだ。あの女と――実の母親とまぐわった事実を捨て去ろうとした。騾馬になればすこしはましな生きかたができるかもしれねえと期待したが……結果は見てのとおりだ。
ここまで話せば、なぜ俺が菜戸を持たなったかわかるだろう?
俺は人並みじゃない。騾馬になる前から人間じゃなかった。俺はあの女を母親だと思っちゃいねえが、世間の連中は俺を口汚く罵るだろうぜ。実母と交わり、実母を殺した外道だってな。世人の非難に弁明しようとは思わねえ。俺が外道であることは事実だからな。
それに、妹に申し訳ねえと思うんだ。
俺のせいでこの世の地獄を味わって死んだ妹が、俺が菜戸を持ってのんきに暮らすことを赦してくれるはずはねえだろ。今生で、俺は一瞬たりとも幸せになるわけにはいかなかった。自分だけが幸せになるのは妹に対して罪をかさねることだ。だからおまえを菜戸にはできなかった。
おまえにはすまないと思っている。おまえの願いを叶えてやれねえくせに、きっぱりと関係を断つこともできなかった。手を切ったほうがおまえのためになっただろうに。おまえはいい女だ。菜戸に迎えたい宦官はごまんといる。俺と別れれば、だれかほかのやつがすぐにでもおまえを娶りたいと申し出たはずだ。
俺のせいでおまえは一生を棒にふっちまった。いまさら詫びてもなんの足しにもならねえだろうな。
しかし、これだけは伝えておきたい。
もし俺がうしろ暗い過去を持たないまっとうな騾馬だったら、おまえを――爪香琴という女を菜戸にしていた。おまえ以外にはありえねえんだ。俺にとっておまえは家そのものだった。外でどんな目にあっても、おまえのもとに帰れば心身をやすめられた。自分の家というものに餓鬼のころからあこがれていた。そこに帰ればありとあらゆる痛みや苦しみが癒えていく場所、そんなものが俺にもあればいいのにと何度思ったか。
おまえは俺の夢を叶えてくれた。俺はおまえの夢を叶えてやれねえのに。
ああ、ほんとうに申し訳ない。俺に来世というものがあるなら――親殺しの大罪人にも何千年後かにやりなおす機会が与えられるなら――今度こそおまえを妻に迎えて一生大事にする。死ぬまでおまえだけを愛し抜くと誓う。
虫のいい話だが、来世での償いに免じて、どうか今生での不義理を赦してくれ。
「馬鹿なやつだ」
読み終えると、刑哭は文を囚蠅にかえした。
「ええ、まったく」
囚蠅は淫芥の文を銀盤にくべた。紙銭を食らって躍る炎があっという間に厚い書簡をのみこんでいく。
検屍官の見立てでは、香琴が先に毒入り飴を食べ、その後、淫芥が同様に服毒して死んだのではないかという。絶命するまでの仔細は不明だが、死ぬ意志が強かったのが香琴であることは疑いの余地がないので、淫芥は彼女のわがままに付き合うかたちで黄泉路をわたったのだろう。
事の真相を知った直後はなにかの間違いではないかと疑ったが、かねてより淫芥からあずかっていた香琴宛の長い文を読んで腹に落ちた。
「俺が死んだら、この書簡を香琴にわたしてくれ」
自分でわたせばいいでしょうと一度は突きかえしたが、例によって淫芥の口説でけむにまかれ、かれこれ十数年もあずかる羽目になってしまった。
――うらやましいなんて言いませんよ、先輩。
おなじ棺のなかで死んだふたりにいささかの妬みも感じないと言えば嘘になる。囚蠅は曼鈴とおなじ墓に入ることができない。彼女の亡骸は宰氏一門の墓に埋葬されている。曼鈴の父にあたる宰家当主、義国公・宰鼎臣は囚蠅を疎んじているので、墓参りにも行けない。ゆえにこうしてひそかに紙銭を焚いて供養しているのだ。
死ねば会えるだろうかと思うこともあるが、あちらで再会できるという確信は持てない。曼鈴は二度と囚蠅に会ってくれないかもしれない。彼女が無残な死を遂げたのは、ほかならぬ囚蠅のせいだから。
燃灯の変の翌年、曼鈴を密告したのは彼女に仕えていた婢女だった。
「宰道姑が東廠に連行されれば独太監が助けに来ると思ったんです!」
なぜこんなことをしたのかと難詰する囚蠅に、婢女は泣き叫びながら弁明した。
「以前、そういうことがあったでしょう? あの事件のあと、おふたりは恋仲になったじゃないですか。あたし、考えたんです。宰道姑がまた連行されたら、独太監は絶対に助けにいく。そうしたら、おふたりはまた恋仲に戻るはずだって。宰道姑は独太監に愛されて幸せに暮らせるようになるって……。だからあたし、宰道姑が半金烏を持ってるって嘘の密告を――」
婢女が言う〝以前〟とは、嘉明七年のことだ。
あの年、のちに怨天教団を率いることになる破思英の策略により、曼鈴は怨天教徒の疑いをかけられて連行された。急報を受けた囚蠅は一計を案じ、当時の督主代行を騙して曼鈴を救出した。拷問され、傷ついた彼女を何度も見舞ううち、かねてから抱いていた好意がいよいよつのり、おさえきれなくなった。気づけば、曼鈴と心を通わせ、他人から恋仲と見なされるようになっていた。
曼鈴を義妹と呼ぶとき、囚蠅の胸は得も言われぬ喜びで満たされた。
なにがかくも囚蠅を有頂天にさせたのかといえば、曼鈴自身が囚蠅の義妹と呼ばれることを望んでいたという事実だ。
「あなたに義妹と呼ばれるたび、空を飛べそうなくらい身体がふわふわするの」
曼鈴が恥ずかしそうに微笑むから、囚蠅は彼女を抱き寄せずにはいられなくなった。
ふりかえってみれば、夢のような日々だった。互いに忙しくて会えないときは文を送り合った。時間があるときはともに食卓を囲んだ。休日は朝から晩までふたりで過ごした。曼鈴のそばにいると、自分が世間から白眼視される賤しい騾馬であることを忘れた。彼女が囚蠅を一人前の男としてあつかってくれたからだ。
かつて少年時代に夢想した未来を生きているような心地になった。若くして金榜に名を掛け、栄達の道をひた走りながら、人生の伴侶となる聡明な佳人と出会い、互いに惹かれ合う――けれども、その先を考えようとすると、にわかに心が重くなる。
いくら曼鈴が囚蠅を男としてあつかってくれても、囚蠅の肉体はとうに男のものではなくなっている。どれほど曼鈴を愛しても子をなすことはできない。彼女に不孝の罪を背負わせることに踏ん切りがつかず、菜戸になってほしいと言い出すことができないまま、ずるずると関係をつづけているうちに宰家当主、義国公・宰鼎臣から横やりが入った。
「娘をもてあそぶのはやめてくれ」と鼎臣に言われたときはすかさず「もてあそんでいない」と反駁した。「ならば娶るつもりなのか」と問われた際は、返答に窮した。
「曼鈴が騾妾(宦官の妻妾の蔑称)になるなら、金輪際、宰家には立ち入らせない。宰姓を名乗ることも許さない。娘は死んだものとする」
鼎臣が険しい面持ちで断言しても、囚蠅は反論できなかった。
囚蠅が曼鈴を娶りたいと申し出れば、姪である曼鈴の身の上を案じていた今上は許可してくれるだろう。生母が謀反人であるがゆえに、曼鈴は縁談から遠ざかっていた。今上が強引に命じれば彼女を娶る者はいるだろうが、けっして歓迎されはしない。怨天教徒と結託した大罪人の血をひく娘をだれもが忌避した。彼女を一族に迎え入れることは未来の禍事を引き寄せることだ。それなりの門地の者が火種になりかねない花嫁を拒むのは理の当然。なればこそ曼鈴は将来を悲観し、入道したのである。
あつらえ向きなことに、囚蠅には守るべき家名はない。騾馬の身であるからこそ、彼女を娶るのに障害はないはずだった。子をなすことができないという欠陥に目をつぶりさえすれば。
だが、問題はそれだけではなかったのだ。
宰氏一門は建国以来つづく世家。優秀な武人を多数輩出し、あまたの武勲をあげてきたため、軍部の要職を歴任するほど天子の信頼が厚い。その証として頻繁に皇家から花嫁を迎えており、帝室の血脈を濃く受け継いでいるので、皇族に準じた待遇を受けている。金枝玉葉につらなる高貴な血筋の令嬢が宦官と縁づけば、宰氏一門のみならず、宗室の威信さえ傷つけかねない。鼎臣が家名を守るために曼鈴と親子の縁を切ると言い出すのは無理からぬことだった。
曼鈴と過ごす甘やかな時間に溺れるあまり、ふたりの関係がはじめから破綻していたことに気づかなかった。
煩悶の末、囚蠅は別れを切り出した。自分と添い遂げるために彼女を肉親と絶縁させるわけにはいかなかったし、宰家が閹族(騾妾を出した一族)と後ろ指をさされるようになることも望まなかった。囚蠅自身、幼くして肉親を亡くし、天涯孤独の身だ。この世に血縁がいないということの頼りなさはだれよりもよく知っている。曼鈴におなじ苦しみを味わわせることだけはどうしても避けたかった。
当時はこれが最善の選択だと思った。否、思おうとした。
曼鈴は囚蠅がいなくても生きていける。囚蠅がそばにいないほうが彼女は身ぎれいでいられる。すくなくともこれからは、「宰曼鈴は騾馬の慰み物だ」などと中傷されることはなくなるはず。
囚蠅は曼鈴のいない日々に慣れればいいだけだ。彼女と恋仲になる前のわびしい生活に戻るだけだ。曼鈴と過ごす時間のあたたかさを知ったあとで以前の暮らしに立ちかえるのは骨がきしむほどつらく、身にこたえたが、曼鈴を悪評から遠ざけ、肉親のもとに帰してやれたという満足感があったから耐えることができた。
それがいかにひとりよがりの偽善であったか、婢女の懺悔を聞いて思い知った。
「独太監と別れてから、宰道姑はずっとふさぎこんでいらっしゃいました。独太監からいただいた文を何度も読みかえしてはすすり泣いてばかりで……ほんとうにおかわいそうで、あたし、『独太監とよりをもどしたらどうですか』って言ったんです。宰道姑は入道なさっているんだからもうとっくにご実家とは縁が切れているじゃないですか、ご父君がなんとおっしゃっても関係ないですよ、ご自分の幸せを第一にお考えになるべきですって」
曼鈴は涙ながらに首を横にふったという。
「どうしようもないわよ。囚蠅さまがわたくしを菜戸にしたいと思ってくださらないんだから……」
囚蠅から別れを切り出されたことで、曼鈴はたいそう心を痛めていた。
「あのかたが望んでくださるなら、わたくしは宰家と絶縁してもかまわない。世間の人に騾妾と呼ばれ、罵言を浴びせられても平気だわ。でも、囚蠅さまは『そこまでしなくていい』とおっしゃった。恋情より肉親の情を大切にすべきだと……。あのかたがわたくしの身の上を案じてそうおっしゃったことはわかっているわ。断腸の思いで別離を切り出されたことも……。だけど、わたくしには、あのかたのお心遣いが恨めしくてたまらないの。あのかたは、囚蠅さまは、なにもかもを犠牲にしてまでわたくしを菜戸にしたいとはおっしゃってくださらない。わたくしが囚蠅さまを求めるようには、わたくしを求めてくださらない。……あのかたにとってわたくしはきっと重荷なのよ。これ以上、御心をわずらわせるわけにはいかない。想いを断ち切るしかないの。たとえ死ぬよりつらくても」
涙に暮れる女主を見ていられなくなった婢女は策を講じた。
「あたし、宰道姑のために密告したんです! 宰道姑が独太監の菜戸になっていつまでも幸せに暮らせるよう願って……! だから危険を冒して嘘の密告をしたのに、独太監は宰道姑を助けてくださらなかった!」
婢女の行動は善意からなされたものだったが、不運にも時宜を得ていなかった。
密告を受けて曼鈴の鞫訊を行ったのは、出世のためならいかなる非道も辞さない野心家の忘蛇影だった。婢女の計画では曼鈴救出に向かうことになっていた囚蠅は、勅命により監軍として急きょ北辺の戦地に赴いていた。蛇影の暴走を止められる唯一の人物であった淫芥は破思英の行方を追って煌京を離れていた。
折悪しく曼鈴を死地に追いやる条件がそろっていたのだ。
結果、彼女は身におぼえのない容疑で鬼獄に引きずりこまれ、筆舌に尽くしがたい拷問を受けた。曼鈴が獄中で味わった惨苦と絶望を想像すると腸が煮えくりかえる。善意からとはいえあまりにも軽率な行いをした婢女に憤らずにはいられなかった。愚にもつかない野心に駆られて曼鈴の肉体を破壊し尽くした蛇影を憎まずにはいられなかった。汚れ仕事をさせるため無法者を放置している淫芥を怨まずにはいられなかった。
しかしいまとなっては、だれにこの激情をぶつければいいのだろうか。
婢女は自責の念に堪えかねて自裁し、蛇影は数々の冤罪を生みだしたかどで処刑され、淫芥は香琴と情死した。怨敵と呼ぶべき人びとが次々に世を去り、囚蠅はなかば放心している。憎んでも憎み足りないと思っていた蛇影を凌遅に処し、怨望を晴らしたというのになんの爽快感もない。肩の荷を下ろしたという心持さえない。
その代わり、呪わしい鈍重な痛みが胸に残っている。自分は敵を見誤っていたのではないかと思うのだ。ほんとうの仇は婢女でも、蛇影でも、淫芥でもなく、曼鈴と添い遂げるという強い意志を持てなかった囚蠅自身ではないかと。囚蠅が逆風に怖気づいて彼女に背を向けなければ、結果はちがっていたのではないだろうか。曼鈴はいまも生きていたのではないだろうか。菜戸として囚蠅のかたわらにいてくれたのではないだろうか。
真実、曼鈴の仇を討つならば、この独囚蠅をこそ、殺すべきではないのか?
「死ぬなよ」
ふいに老いた声が響いて、囚蠅ははたとわれにかえった。
「なんですか、急に」
「妙な考えを起こすなと言ったのだ」
刑哭は数枚の紙銭を火にくべて天をあおいだ。
「寿命が尽きていない者が死者を追ってはならない。どうせ、あちらでは歓迎されないからな。いつだったか、素氏が言っていた。もし自分が先に死んでも、けっして追いかけてくるなと」
素氏は刑哭の亡き菜戸だ。
「追いかけてきたら追いかえしてやるとも言っていた。天命が尽きる前に今生から逃げ出すような意気地なしの騾馬など、金輪際、顔も見たくないと」
女だてらに豪胆者だった素氏が筆勢に任せて描いたような濃い眉をつりあげ、ふくよかなおもてを怒りで紅潮させながら刑哭を睨みつけるさまが目に浮かんだ。
「素氏とあの世で相まみえるためにも私は生きなければならぬ。おまえもだ、囚蠅」
肩にのせられた手の重さがずっしりと骨に響く。
「歯を食いしばって命を燃やし、天命が尽きる瞬間まで生き抜けば、黄泉路の向こうでわれわれを待つ者が死者となったわれらをあたたかく迎えてくれるだろう」
たちのぼる煙が仲春の空にすいこまれていく。
――そのときが来たら、あなたも私を迎えてくれるだろうか。
曼鈴は待っていてくれるのだろうか。臆病風に吹かれて彼女の手を離してしまった、愚かな騾馬を。
その問いにこたえるように一陣の風が吹き抜けた。突風にまきあげられた無数の紙銭が白い花びらのようにはらはらと舞い散る。
「後悔していませんか?」
はじめて枕を交わした日の翌朝、囚蠅は曼鈴の髪をくしけずりながら問うた。なぜそんな愚問を口にしたのかわからない。曼鈴は泣き濡れていたわけでも、青ざめて部屋を出ていこうとしたわけでもなく、晴れやかな笑みを浮かべて鏡越しにこちらを見ていたのに。
「あなたは? 後悔していらっしゃるの?」
「いいえ、とんでもない。夢のようですよ。あなたとこうなることをずいぶん前から望んでいたので」
「ずいぶん前からって、どれくらい前のことかしら?」
「ええと、そうだな……」
囚蠅は言いよどんだ。こんなことを口に出すのは気障ったらしいのではないかと危惧したからだ。
「……前世からずっと」
「まあ、囚蠅さまったら、お顔が真っ赤ですわよ」
「そうですか? 変だな、そんなつもりはないんですが……」
へどもどしていると、曼鈴が立ちあがって抱きついてきた。
「わたくしも、あなたと結ばれる日を前世から待ち望んでいましたわ」
あのころと変わらぬ想いを鬼籍に入った曼鈴が持ちつづけてくれているかどうか自信はないが、刑哭の言うとおり、天命が尽きる前に黄泉路をくだっても彼女は囚蠅を歓迎してくれないだろう。一度ならず二度までも臆病風に吹かれ、自分がなすべきことから逃げ出したとあっては、彼女に顔向けできない。
「当分、死にたくても死ねませんよ」
囚蠅は散り落ちた紙銭を拾い集めた。
「先輩が道なかばで投げ出した仕事を引き継がなければ」
「おまえまで怨天教団を壊滅すると息巻くのではあるまいな?」
「さすがにそこまで無謀ではありません。邪教徒を皆殺しにするなんて百年かかっても無理ですよ」
人びとに怨みを忘れるなと説く忌まわしい邪教は凱の血肉に深く寄生している。連中を根絶やしにしようとするなら、国そのものを滅ぼすしかないだろう。
「俺にできることがあるとすれば、先輩の厄介な置き土産であるこの混迷を多少なりともおさめ、次代への道筋を作ることくらいです」
今上はまだ五十の坂を越えていないが、その余命はさほど長くはない。病状から推測するに、おそらくは七、八年――いや、五、六年のうちに死の床につくだろう。
天下に血の雨を降らせた暴君が世を去れば、あたらしい時代がやってくる。
来月、立太子される成端王・高才堅が玉座にのぼったあと、どのような治世をしくか、いまのところはっきりとしたことは言えないが、嘉明年間がもたらした傷跡がすこしずつ癒えていくことを願う。傷口から噴き出した血飛沫が海内を業火の色に染めてしまう前に。
狂虐の天子に蹂躙されてきた万民が未来に希望をつなぐことができるように、囚蠅は一働きしなければならない。皇宮の内外で禍の種がいまにも芽吹こうとしている。それらを全部摘み取ることはできまいが、王朝の息の根を止めかねない禍事を未然に防ぐことくらいはできるのではないだろうか。
「先は長い。途中で息切れせぬように休み休み励め」
「他人事のようにおっしゃっていますが、葬太監も道連れですよ」
「私を頭数に入れるな。とっくに華甲を過ぎた老いぼれだぞ」
「睿宗皇帝の寵臣だったかの名高き因公公は八十六まで生きたそうですよ」
かんべんしてくれ、と刑哭は笑う。
「因公公の時代とはすっかり様変わりした。長生きしたいと思う世ではない」
「それでも生きなければならない」
「たとえどれほど不本意でもな。黄泉路の向こうで愛しい者と再会する瞬間を夜ごと夢に見ながら」
それが供養になるのでしょうか、と尋ねようとしてやめた。死者のことを生者に尋ねたところで正確な答えが得られるはずもない。
「それにしても先輩はうまくやりましたね。やはり抜け目のない人ですよ」
愛しい女と手に手を取って黄泉路をくだった淫芥が恨めしく思われる。
「あいつはとんだ奸物だったからな。手もなく他人を出し抜き、おいしいところを横からかっさらっていく。われわれがしまったと臍を噬んだときには、やつはしたり顔で笑っている」
亡き兄弟子がにんまりする姿が目に浮かび、囚蠅は渋面になった。
「あの憎たらしい顔を思い出させないでください。供養する気が失せます」
ふいに耳もとで女の笑い声が聞こえた。鈴を転がすような美声は曼鈴のものだ。
「同公公と囚蠅さまは実の兄弟のように仲が良いのですね」と曼鈴に言われたことがある。とんでもないと囚蠅がしぶい顔をすると、曼鈴はくすくすと笑っていた。
あのころに戻りたいなどと願ってはいけない。失ったものを取り戻すのは不可能だ。失ったという記憶とともに前へ進みつづけるしかない。
――再会の日を指折り数えて待ちますよ、曼鈴。
濁世を駆け抜けたあとで、息せき切って彼女に会いに行こう。そして今度こそ伝えなければ。もう二度とあなたの手を離しはしないと。
【おわり】