暁闇/亡霊

『後宮彩華伝 復讐の寵姫と皇子たちの謀略戦』発売記念 はるおかりの書き下ろし番外編

暁闇


 墨を流したような闇がどこまでもひろがっている。口を開けば喉まで真っ黒になりそうなその()(いん)を、皇帝付き首席(かん)(がん)(しつ)(じゃ)(もう)(てん)(ぜん)と眺めていた。
 (きゅう)(よう)(じょう)の正門たる()(もん)の城楼、明黄色(にちりんいろ)(いらか)をふいた屋根が重たい影を落とす南側の走廊(そうろう)に邪蒙の主君たる(きん)(じょう)()明帝(めいてい)は無言でたたずんでいた。
 今日は嘉明二十六年一月十五日。
 仁宗(じんそう)皇帝((こう)(じゅん)(てい))に次ぐ仁君と(ほま)れ高かった今上を一夜にして残忍無比な暴君に変貌させた陰惨な事件、(ねん)(とう)(へん)からちょうど九年目の(げん)(しょう)である。
 元宵に(とう)(ろう)を飾ることが禁じられてからもおなじ歳月が過ぎた。燃灯の変以前は無数の灯籠がさんざめき、光の錦を織りあげていたが、あの光景はもう遠い昔の夢のように思われる。熱に浮かされて幻でも見たのだろうと言われれば、そうかもしれないと(しゅ)(こう)してしまうほど、現実味の薄い記憶になり果てていた。
(しゅ)(じょう)はお変わりになった」
 いつだったか、()(れい)(かん)(しょう)(いん)(たい)(かん)葬刑哭(そうけいこく)()(じゅう)(おも)()ちでそうつぶやいた。首を縮めた亀のように何事にも消極的な老宦官が下手をすれば今上を中傷したと糾弾されかねない苦い言葉を吐くのはめずらしいことだった。
 刑哭に限らず、官民はしきりに今上の変容を嘆いた。
 最愛の(おう)皇后を(うしな)ったことは悲劇ではあったが、悲しみに任せて(ぎゃく)(せい)をしくのは横暴が過ぎる、高徳の英主として(せい)()に名を残すはずだったのになんたる(てい)たらくであろう、これがあの誉れ高い聖天子のお姿かと。
 彼らの際限なき悲嘆に一定の理解を示すことはできる。たしかに彼らの目には、今上が突如として仁君の(ころも)を脱ぎ捨て、暴君の衣をまとったように見えるのだろう。遠く離れていれば、舞台で役者がなにをしているか、つぶさには見てとれまい。だから彼らは()(ごと)のように「主上はお変わりになった」と言うのだ。
 邪蒙はひねもす今上のそばにいる。東宮時代からだから三十年以上もその役目をつとめていることになる。長年(つか)えていれば主君への情がわくというが、邪蒙にはそれらしいものがない。そもそも邪蒙は当時()(こう)()()に仕えていた師父(しふ)に命じられ、監視役として今上付きになった。(いん)(ぎん)な態度はくずさなかったが、それは責務に徹していたからで、(あるじ)に親しみを抱いていたからではない。なお、邪蒙の事情は今上も先刻承知である。知っていながら素知らぬふりをしていた。互いに仮面で接する主従なのだ。
 それでも長い年月をともに過ごしてきたことに変わりはない。邪蒙は観客席からではなく舞台袖から今上を見てきた。なればこそ、余人には見えないものが見える。
 今上は仁君の衣を脱いで暴君の衣をまとったのではなく、仁君の衣を脱いで暴君の衣をあらわにしたのだ。つまり、はじめにまとっていたのは暴君の衣であり、それを仁君の衣で覆い隠していたということになる。
 もとより正当な方法で玉座にのぼった人物ではない。
 今上(こう)(れい)駿(しゅん)は先帝の皇八子だ。生母は一()(しょう)にすぎず、(ちょ)()からは遠いところにいた。何事もなければ、分不相応な野心を抱くこともなく、一親王として生涯を終えただろう。だが、礼駿には儲位を目指す理由があった。
 彼が七つのときに母妃が不審な死を遂げた。その悲劇から(ぼう)(りゃく)のにおいをかぎとった礼駿は、いつの日か母妃の仇を討つことを誓い、不勉強で(がん)()()い童子であった自分と決別してだれもが理想とする皇子を演じ、父帝の歓心を買った。策をめぐらせて(いん)皇后の養子におさまったのは、(かん)(れい)とともに立太子されるための布石だった。
 母妃の横死の真相があきらかになったあとも、(たい)(じん)の風格をそなえた非の打ち所がない世継ぎの仮面をかぶりつづけ、官民に景仰された。そして先帝の譲位を受けて(せん)()し、聖賢の書から抜け出してきたような有徳の君主となった。
 燃灯の変が起こるまで、今上は聖天子と呼びたくなるほどの名君だった。(せん)(ゆう)年間に()(かん)した(こう)()は粛正され、(こく)()を脅かす冗費は節減され、宗室の威勢はおさえられた。肥大化した宦官機構の権能に制限がくわえられ、とりわけ()(れい)(かん)(とう)(しょう)が強権をふるわぬよう監視が行き届いていたおかげで、だれもが思うさま天下国家を論じることができた。
 その輝かしい皇威(みいつ)だけを見れば、今上こそ天性の仁君だと感じただろう。
 さりとて、それは真実ではない。
 今上が天性の仁君などではないことを邪蒙はよく知っている。彼が儲位を求めたのは権力を得るためだ。(まつりごと)を動かす力なくして母妃の謀死の謎を暴くことはできないと考えたのだ。それは亡き母を慕う孝子として当然のなりゆきだが、私情につき動かされて権力を(かつ)し、私怨を晴らすため奇計を弄した者を聖人君子と持ちあげるわけにはいくまい。
 今上は人間である。人間の男である。二十四(りゅう)(べん)(かん)をかぶっても、(にち)(りん)(いろ)(りゅう)(ほう)をまとっても、彼の肉体が天上のものでないという事実は変わらない。
 神仙の力を持たない人間風情に、百官や万民が理想とする天子のひな型から(すん)(ごう)も離れることなく、だれから見ても完璧な君王を演じつづけることができるだろうか? 皇族の理想、文官の理想、武官の理想、商人の理想、工匠の理想、農民の理想人の数だけ理想があり、それらが矛盾せず融合することなど、けっしてありえないのに?
 聖天子の虚像がくずれずにすむのは、その治世が数年で終わる場合だけだろう。どんな()(せつ)()(じゅつ)もほんの一瞬なら()(きゃく)をあらわさずにすむ。しかるに玉座に在る時間が長くなれば、まやかしはほころび、仮面の奥に隠されていた素顔が見え隠れするようになる。
 燃灯の変以前から今上はときおり激することがあった。そのはなはだしい(しん)()は民を(しいた)げる(たん)(かん)()()や辺境を荒らしまわる()(てき)に向けられたもので、当時は好意的に評されていた。国と民を深く愛せばこそ不正や戦乱を憎んでいらっしゃるのだ、と訳知り顔の読書人たちは誇らしげに言い立てていたものだ。
 むろん、彼らの解釈は的外れではないのだが、(せい)(こく)を射ていたとも言いがたい。
 今上が不正や戦乱に義憤を燃やしたのは、それが〝仁君らしい〟行動だったからとも解釈できるからだ。
 今上は仁君を演じていたのではないだろうか。母妃の仇を討つため、だれから見ても十全な皇太子を演じていたのとおなじように。
 その証拠に、汪皇后が横死したとたん、今上は暴君の顔をむき出しにしたではないか。今上がまことの仁君であるならば、いかなる(わざわい)に見舞われても、絶望の淵に突き落とされても、仁道を見失うことはけっしてないはずだ。なぜならそれが仁者というものだから。
 今上は偽の仁君だった。ゆえに化けの皮がはがれ、復讐者の顔が露呈した。
 これが長年、舞台袖から今上を見てきた邪蒙の結論だ。
 さりながら、この()(まん)によって今上を(きゅう)(だん)しようとは思わない。邪蒙は君王のそばに侍る影である。影に主を(だん)(がい)する資格があるはずもない。主が万民に慕われる仁君であろうと、万民に恐れられる暴君であろうと、無言のまま付き従う。あたかもかたちに寄り添う影のごとくに。
 影は己の意思を持たない。持ってはならない。本来、宦官とはそういう存在だったはずだが、いつしか宦官は本分を忘れ、己の意思によって行動し、発言するようになった。彼らのような()(そん)な者たちに言わせれば邪蒙は(きゅう)(へい)騾馬(らば)なのだろうが、邪蒙は昔ながらのやりかたで主に仕えている。
 だからこうして今上が実に九年ぶりに午門の城楼にのぼり、城外を見晴るかす際も慎重に舌をしまいこんで、吹きすさぶ寒風にさらされつつ主のそばにひかえているのだ。息がつまるような夜陰のなか、今上がなにを思うのかは知りようがない。決断のときが迫っているのだろうということを、(うす)(らい)を透かして見る光のように感じ取ることができるのみだ。
「邪蒙」
 名を呼ばれてはじめて「はい」と声を発する。今上はこちらを見もしない。見る必要がないのだ。邪蒙はつねに彼のかたわらに在るから。
()(しゅ)()を召し出せ」
 一呼吸置き、今上は静かに命じた。
「明朝ではない。いますぐに」
 その意味するところは察していたが、邪蒙はあえて綸言(りんげん)を待った。
「皇后に()(ごう)(たま)う」
 宗室の諡号は(れい)()がつかさどる。礼部(しょう)(しょ)(ない)(かく)(だい)(がく)()(さん)()(えん)(こう)(こく)が兼務していたが、彼が(れい)(しょう)(おう)・高()(ふう)による今上(しい)(ぎゃく)未遂事件に関与していたことがあきらかになり、()(めん)されてからは、内閣大学士(しゅ)()・李()(ぎょう)がその任を引き継いでいる。
 ようやく終わるのだろうか。
 今日に至るまで今上は汪皇后に諡号を与えなかった。彼女の死を受け入れられず、永の別れを決定づける(つい)()から逃げつづけてきたのだ。
 しかしとうとう、今上は決断を下した。
 燃灯の変からつづく混迷がこれで幕引きとなるのか、まだ確信はないが、そうなってほしいと思う。この国はあまりに多くの血を流し過ぎた。これ以上の流血は命取りになる。事によるとすでに、取り返しのつかない地点まで来ているのかもしれないが。
 ああいけない。「そうなってほしい」などという思いを胸に抱いては。
 影は、七情とは無縁の生きものなのだから。
「御意」
 のしかかる闇の重みに耐えかね、邪蒙は深く首を垂れた。
 よいときも悪いときも今上のかたわらに在る。邪蒙の役どころはそれ以上でも以下でもない。

【おわり】



亡霊


「いかがいたしましょう」
 皇帝付き首席(かん)(がん)(しつ)(じゃ)(もう)がおずおずと問う。()明帝(めいてい)高礼(こうれい)駿(しゅん)は休みなく(そう)(じょう)に朱筆を走らせながら「()(ごく)に送れ」と答えた。
「やつが(へい)(じょう)(きょく)(たい)(かん)になって半年も経つのに、いっこうに成果が出ぬ。()(ほう)(ばん)迅雷(じんらい)の開発には巨額の(きん)()(ぎん)を投じているにもかかわらず、新型火薬の実験は失敗してばかり。遅々として開発が進まず、成功のきざしすら見えぬのはあの(どん)(らん)騾馬(らば)が公金をくすねているせいであろう。(とう)(しょう)にやつの身辺を洗わせ、(とく)(しょく)の罪を暴くのだ」
 まったく腹立たしい、と礼駿は叩きつけるように朱筆を(ひっ)()に置いた。
「東廠は(ほう)()(せい)の探索に注力しているのだから、(どう)(しゅう)宦官ごときに人手を()く余裕はないのだ。百官の不正を摘発するのは()(さつ)(いん)のつとめであろうに、連中はつまらぬ小悪党を処分して職責を果たした気になっている。国の要たる兵事を食い物にする(たん)(かん)()()を取り逃がす()(ぶつ)どもが監察の顔を気取っているとは(ふん)(ぱん)(もの)だ。近々、都察院にも(おお)(なた)をふるわねばなるまいな。ごくつぶしどもを一掃して組織をたてなおさねば」
恐れながら兵仗局太監ではなく、成端(せいたん)(おう)の件です」
(さい)(けん)か。まだいるのか?」
「お引き取りくださいと再三お願いしているのですが
 七日前から皇八子、成端王・高(さい)(けん)(ぎょう)()殿(でん)の門前にひざまずいている。むろん夜通しではない。宮城の門という門が閉ざされる夕刻には親王といえども(きゅう)(よう)(じょう)から出なければならないので、早朝から日暮れ時までだ。
 開門するや(いな)やいそいそと暁和門までやってきてひざまずき、閉門時刻になると宦官たちに追い立てられて足を引きずりながら出ていく。その涙ぐましい献身ぶりはさながら国の命運を左右する重要なお役目を仰せつかった者のそれだ。
 馬鹿馬鹿しい。
 (ろう)(げつ)のさなか、降りしきる雪に身をさらし、容赦ない寒気に震えながらも才堅が必死に(こん)(がん)しているのは、国の命運とはまるきり関係のない私事である。
(こう)(えい)(ろう)(めい)()(りゅう)(へき)(らん)(ちゃく)(さい)として成端王府に迎えることをお許しください」
 過日、呼ばれもしないのに参殿した才堅がくずおれるようにひれふして(こん)(せい)したとき、礼駿は無言で返答した。言葉を発するまでもないことだったからだ。
 後宮の規則により、(みん)()の入宮はかたく禁じられている。それにともない、親王府や郡王府でも(そく)()ならばともかく、妓女を正室にするのは避けるのが常道だった。
 いやしくも親王の位を(たまわ)っている者が皇家のしきたりを知らぬわけではあるまいに、なんと恥知らずなことかと黙殺した。宦官たちに引きずられるようにして退室した才堅は翌日もおなじ嘆願をひっさげてやってきた。やはり無言で追いはらうと、その翌日にも同様のことが起こった。
 うっとうしいので才堅を暁和殿に立ち入らせるなと厳命したところ、今度は暁和門の外で(しゅう)()するようになった。暁和殿に出入りする(ない)(かく)(だい)(がく)()ら高官たちの(よし)ありげな視線をものともせず、雪空の下でひもすがら哀願していると聞いて礼駿はあきれかえった。
 まだ二十歳に満たぬ(にゅう)(しゅう)()とはいえ、(がん)()()い童子のように駄々をこねるとはわが子ながら情けない。しかもみずから進んで宮廷じゅうの笑い物になってまで欲しがっているものが馴染みの妓女だというから、開いた口がふさがらない。(きん)()(ぎょく)(よう)の一員でありながら恥知らずにも汚らわしい(せん)(ぎょう)()(わく)(でき)したばかりか、落籍(らくせき)して嫡妻にしようなどと、いったいなにを血迷っているのか。
 息子が(いん)(ばい)(めと)りたいと言い出せば、世間の父親は(げっ)(こう)するだろうが、礼駿は心からあきれていた。憤りさえ感じないのは、才堅になんの期待もしていないからだ。生死にすら興味がないのに、息子としての出来不出来に関心があるはずもない。
 ゆえに才堅が無断で遊里の女を娶ったなら、その罪を(とが)めて厳罰に処せばいいだけの話だが、やつは馬鹿正直に婚姻の許可を求めている。礼駿が無関心ゆえにこれを黙認すれば、天子を(いさ)めることを(しょく)(しょう)とする言官(げんかん)どもがうるさく騒ぎ立てるだろう。連中を黙らせるのはたやすいが、そこまでして才堅の切なる願いとやらを叶えてやる義理はない。
 よって目下、捨て置いている。今日も今日とて才堅は愚にもつかない哀訴のために寒風に吹かれて凍えているようだが、礼駿には一切かかわりのないことだ。
「気がすむまでやらせておけ」
「しかし連日のことですので、お身体に毒かと」
「ならばさっさと王府に帰ればよかろう。余が命じてひざまずかせているわけではない。あいつが勝手に居座っているのだ」
 (がい)(わん)を引き寄せようとした瞬間、矢に射貫かれたように頭が痛んだ。このところ頻発する頭痛は日に日に悪化しているように思われる。太医の診察を受けたが、みな一様に過度の心労が原因だという。
「なにとぞ御心をおしずめになり、夜は早めにおやすみになりますよう」
 型どおりの口上からはなんの解決策も得られない。礼駿は無益な診断を下した無能な太医たちをことごとく獄につないだ。連中のなかに怨天教団が送りこんだ密偵がひそんでいないとも限らない。王朝転覆をもくろむ怨天教徒ならば、皇帝の(やまい)を知りながら(いん)(ぺい)することは大いにありうる。はたして鬼獄に送られた太医の過半数が怨天教団との関係を自供したが、よしんばそれが強要された虚偽の自白であったとしても(つう)(よう)を感じない。()(こう)の術で玉体を癒すことを職責とし、その身分にふさわしい(ほう)(ろく)を賜っていながら、いざ不調を訴える天子を前にしてなんの働きもできないのは無能あるいは(たい)()の極みであり、いずれにせよ罪にはちがいない。したがって罰せられるのは理の当然である。
お疲れのご様子ですので、しばらく仮眠なさってはいかがでしょうか」
 こめかみをおさえて顔をしかめる礼駿を見ても、邪蒙は「太医を呼びましょう」とは言わない。礼駿が役立たずの太医に憤り、なおいっそう状況が悪くなるのを承知しているからだ。そうしよう、と答えて礼駿は席を立った。套間(つぎのま)を通って臥室(しんしつ)に向かう。
 暁和殿の臥室は本来、頻繁には使われないものだが、燃灯の変以降は毎日、(あるじ)を迎えていた。礼駿が後宮に足を運ばず、暁和殿で起居しているためだ。
 いつ(にゅう)(よう)になってもいいようにつねにあたためられている寝間は居心地がいいはずなのに、この場に一歩立ち入るたび礼駿は()(たい)のしれない()(かん)に襲われる。
 ここは広すぎて、静かすぎて、寒すぎる。そしてあまりにうつろだ。皇后(おう)()(えん)がいないから。梨艶が存命だったころ、礼駿は毎晩のように皇后の居所である(こう)(しゅん)(きゅう)で過ごした。恒春宮の(ねや)すなわち梨艶の部屋はここよりずっとあたたかく、小春日のように心地よかった。間取りや内装のせいではない。そこに梨艶がいたからだ。
 その証拠に、燃灯の変の翌日からはほかの部屋同様、寒々しい一室に変貌してしまった。
 邪蒙に手伝わせて(りゅう)(ほう)を脱ぎ、(よく)(ぜん)(かん)をとって道袍(どうほう)姿で寝床に入る。錦の衾褥(ふとん)に身体を包まれて深く息をつき、まどろみを()()()せようとつとめる。
 むなしい努力が実を結ぶことはほとんどない。燃灯の変以来、呪いにでもかかったかのように眠りが浅くなった。夢路のなかばにたどりつく前に、何者かの手で(うつつ)に引き戻されてしまうのだ。けれどもそれはさほど悪いことでもない。現に戻れば夢から逃れられる。満身から脂汗を搾り取ろうとするおぞましい悪夢からは。
 ああ、また来たのか。
 それがやってくるときは背筋が粟立つようななまぐさい(しゅう)()が鼻をつく。
「おぼえているか、(えき)(ゆう)
 礼駿の名を呼ぶ声は低いが、男のものではない。
「おまえは私に言ったな。『俺は、あなたの(かい)(らい)にはなりません。ましてや暴君になど』と。たしかにおまえは私の傀儡にはならなかった。私に操られないよう、おまえは私を死に追いやったからな。おなじ母から生まれた姉である、この私を」
 気づくと、それは礼駿の眼前に立っていた。最後に対峙したときと変わらない、公主らしい華麗な襖裙(おうくん)姿で。
 礼駿の同母姉、廃公主・高(げつ)(じょう)(せん)(ゆう)二十九年、怨天教団を九陽城に手引きして父帝を(しい)(ぎゃく)しようともくろんだ鬼女は毒々しい色香をまとって艶然と微笑んでいた。
「あなたを死に追いやったのはあなた自身の罪ですよ、姉上」
 礼駿はつとめて冷静に死んだ姉を(にら)みかえした。
そうだ、月娘は死んだ。三十年近く前に。だからこれは姉自身ではなく、姉の亡霊だ。
「いや、私を殺したのはおまえだ」
 亡霊は扇子の先で礼駿のみぞおちをつついた。
「あの日、おまえにはさまざまな選択肢があった。そのなかには同胞(はらから)である私に情けをかけて救う道もあった。だが、おまえは私を切り捨てた。もっとあけすけに言ってもいいぞ。おまえは私を踏み台にした」
「なにを馬鹿な
()(べん)(ろう)したところで事実が変わるわけではない。おまえは私の罪を暴くことで父皇(ちちうえ)の御意に入った。父皇は実の姉さえ切り捨てるおまえの非情さを高く評価し、おまえを世継ぎにした。自覚がないとは言わせぬぞ。おまえは姉を売って玉座を買ったのだ」
 わが弟ながらたいした()(れつ)(かん)だ、と亡霊はせせら笑う。
「肉親を殺して手に入れた()(そう)の龍の着心地はいかがかな? さぞや誇らしいのだろうな?」
 苛立ちに任せて扇子を奪おうとした手は虚空をつかんだ。
「さりとて、非情すぎるのも考えものだ。奕佑よ、おまえは汪梨艶一人のためにどれだけの官民を殺戮すれば気がすむのだ? どれだけの血を流せばおまえの怨みは癒されるのだ? まさかとは思うが、天下蒼生の(むくろ)を積み上げて(めい)()に橋をかけ、地獄の業火に焼かれる愛妻に会いに行くつもりではあるまいな?」
 梨艶は地獄にはいない、と礼駿は反駁した。
「ではどこにいると思っているのだ? (てん)(どう)で安穏と暮らしているとでも? おめでたいやつだな、おまえは。万民に憎まれる暴君の寵愛を一身に受けていた皇后が死後になんの(とが)めも受けず、あの世でも幸福を(きょう)(じゅ)できると本気で考えているのか? これはこれは、抱腹絶倒の笑い話だな! 私怨に囚われ、幾万の民を殺さずにいられぬ残忍非道な暗主が亡き妻の冥福を信じて疑わぬとは」
 けたたましい()(しょう)が朽ちた金属をこすり合わせるような不快な音を立てて頭のなかを引っかきまわす。
「おぼえているか、奕佑。おまえは私に言ったな。『俺は、あなたの傀儡にはなりません。ましてや暴君になど』と」
 亡霊は先ほどの台詞をくりかえした。
「『ましてや暴君になど』だって! あの日のおまえにいまのおまえを見せてやりたいものだな! いったいどんな反応をするだろう? 自分が血みどろの暴君になると知ったら」
 (はん)(ばく)しようとした舌は激情のあまり(しび)れて使い物にならない。
「いったい幾人の言官がおまえを諌めた罪で無残な亡骸(なきがら)になったのだろう? いったい幾人の妻妾や子女が、おまえが作り上げた罪により夫や父を(うしな)い、連座して(がく)(せき)に入れられたのだろう? いったい幾人の若者が半金(はんきん)()を所持していた罪で獄死したのだろう? いったい幾人の老人が(せい)明天(めいてん)(そん)を拝んだ罪で刑場に引っ立てられたのだろう? いったい幾人の子どもが(げん)(しょう)に灯籠を飾った罪で首を()ねられたのだろう? いったい幾人の(こう)(しょう)が火砲型万迅雷の開発を急ぐよう命じられ、新型火薬の実験の最中に全身を焼かれたのだろう? いったい幾人の官兵が暴発した万迅雷に手足を吹き飛ばされ、毒煙に()(ぞう)(ろっ)()を破壊されて死んだのだろう? いったい幾人の民が万迅雷の毒質に汚染された田畑を捨て流民になり、困窮して()()()(ぞく)に身を落としたのだろう? いったい幾人の民が万迅雷に起因する()(きん)に見舞われ、わが子の肉を食らって飢えをしのいだのだろう?」
 用意してきた台詞を読みあげるかのように亡霊はまくしたてる。
「可哀想に! 彼らは虐政の犠牲者だ。おまえの(はらわた)を焼く愚にもつかぬ私怨に殺された者たちだ。暴君の()()に生まれる官民はかくも不幸だ。彼ら自身にはなんの罪もないのに罪人あつかいされ、次々に襲ってくる(まが)(ごと)(ほん)(ろう)されなければならない。もっと早く生まれたかったと彼らは思っているだろう。あるいはもっと早く死んでいればよかったと思っているだろう。女一人のために政道を誤った愚かな天子が君臨する国で生きるくらいなら」
黙れ、死人め」
「なんだって? 死人だと?」
 亡霊は両眼をかっと見開いて(おとがい)をといた。
「そうとも、私は死人だ! だが、忘れたわけではあるまい? おまえが(かつ)(ぼう)してやまぬ女、汪梨艶も私とおなじ死人だぞ!」
 耳障りな哄笑が果てしない闇に反響する。
「おまえはこうも言っていたな」
 いつの間にか亡霊は眼前から姿を消していた。はっとしたときには、背後から青白い顔がぬっとあらわれる。
「『死者に情愛をねだることがどれほど無益なことか、おわかりにならなかったのですか』と」
 奕佑、と亡霊はざらざらとした不気味な声で礼駿の名を呼ぶ。
「おまえの可愛い汪梨艶は暴君に愛された女として歴史に記憶される。後世の者は汪梨艶を悪しざまに(ののし)るだろう。嘉明帝が道を踏み外し、数十万の民を虐殺したのは汪梨艶のせいだと。諸悪の根源はあの女だ。汪梨艶がおまえの寵愛を独占したことが暴政の(たん)(しょ)をひらいた。すべての禍はあの女が招いたものなのだ」
 ちがう、と叫んでふりかえったが、そこには無人の暗がりが在るだけ。
「なにがちがうというのだ? おまえは汪梨艶の仇を討ちたいのだろう? そのために蟒服(ぼうふく)をまとった凶暴な猟犬どもを解き放ち、国土を荒廃させる邪悪な火器を乱用し、君王の暴虐を止めようとする忠臣たちを惨殺しているのだろう?」
 姿は見えないのに亡霊の声は耳もとで鳴り響く。
「復讐とはなんとむなしい行為であろう。官を、民を、邪教徒をいくら殺しても、汪梨艶は戻ってこない。死んだ者は生きかえらないのだ。おまえがやっていることは徒爾(とじ)以外の何物でもないのだぞ」
 そんなことはわかっている。わかっているけれども
「汪梨艶がこんなことを望んでいると思うか? おまえが天下のそこかしこに死体の山を築き、(きょう)(ぎゃく)の天子と呼ばれることを?」
 望むはずがない。梨艶は心やさしい女だ。自分を苦しめた者にさえ情けをかけずにはいられない慈婦なのだ。
「ならばおまえはいったいなんのために怨憎を燃やしているのだ? なんのために返り血を浴びつづけているのだ? なんのために修羅の道を歩んでいるのだ? いったいなんのために?」
 答えられない。舌が動かないせいではなく、思考が()びついているせいで。
 教えてやろう、と亡霊はまたしても耳もとでささやきかけてきた。
「おまえは呪われているのだ。おまえが愛慕してやまない亡霊に」

主上」
 床帷(とばり)の向こうから響いた邪蒙の声が礼駿を現に引き戻した。
(れん)(とく)(おう)が謁見を願い出ていらっしゃいます。成端王の件で奏上したき儀があるとのことです。主上はお休み中ですと申し上げたところ、ならばお目覚めになるまで待つとおっしゃいましてこの寒さですので客庁(きゃくま)にお入りいただくようお願いしましたが、『八弟が寒空の下で哀訴しているのに、兄たる自分が火鉢のそばでぬくぬくと待っているわけにはいくまい』と
 あいつが言いそうなことだ、と礼駿は仰向けのままため息をついた。
 先月まで東宮の主をつとめていた廉徳王・高(しょう)(せい)は道義心が衣を着たような皇長子だ。幼いころから才気煥発で孝心が深く雅量に富んでおり、これ以上の息子は望めまいと感嘆するほど申し分のない世継ぎだった。
 さりながらそれは燃灯の変が起こるまでの話だ。
 怨天教徒の凶弾により右足を負傷した承世は(じゅう)(ぜん)の世継ぎではなくなってしまった。肉体的な問題は皇位継承において致命的な欠点となりうる。事件から半年と経たないうちに、皇宮のいたるところで承世の廃太子が噂されるようになった。
 群臣は片足が不自由な皇太子を気まずそうにふりあおいでいた。頼りなく揺れる彼らのまなざしは次期皇帝への失意から生じたものではなく、漠然とした、しかし(しつ)(よう)に存在を主張する、凱という国の行く末に抱く()(たい)から生じたものだった。群臣の目には、不慣れな手つきで杖を持ち、(とう)(つう)をこらえるために眉間にしわを寄せて歩く承世の痛ましい姿が(きし)()を上げて沈みゆく老いさらばえた王朝を象徴しているように見えたのだろう。
 群臣の(ゆう)(かん)は疫病のようなものだ。放っておけば(りょう)(げん)の火のごとくひろがっていく。首輪を引きちぎった()()の念は猛獣のように暴れまわり、不穏の種が随所で芽吹くようになる。このままでは王朝の余命にかかわると知りながら、礼駿は承世の廃太子をためらった。
 承世は梨艶が産んだ唯一の皇子だ。承世が東宮を去れば、梨艶が産まなかった皇子のうちのだれかが後釜に座る。梨艶の血をひかない息子を世継ぎにすれば、彼女が生きた(あかし)を後世に残せなくなってしまう。礼駿は梨艶が皇太后として新帝に尊崇され、毎年供養してもらえるようにしたかった。承世なら礼駿の死後も生母たる梨艶に孝養を尽くしてくれるだろう。だが、ほかの者はどうだろうか。梨艶の血を一滴も受け継いでいない、梨艶にとっては赤の他人である息子は実子がそうするように彼女に孝養を尽くすだろうか?
 確信が持てない以上、決断を先延ばしにするしかなかった。
 だが先月、礼駿はやむなく承世を廃太子し、廉徳王に封じた。ほかのだれでもない、承世本人が自分を廃位してくれないなら自害すると詰め寄ったから。
「〝禍福は門なし。(ただ)人の招く所〟と申します。世継ぎでありながらこのような身体になったのは、私になにかしらの不徳があったせいでしょう。これ以上、東宮に居座っていても、父皇の(ぎょ)()の汚点となることしかできません。私は才徳のない不肖の息子ですが、恥は知っています。龍顔に泥を塗ってまで(ちょ)()に恋々とするつもりはありません。ふしてお願い申し上げます、父皇。私を廃太子し、十全の肉体と十分な才徳をかねそなえた者にあらためて儲位をお与えください」
 その申し出を受け入れたのは、謙譲の美徳を体現したような悲壮な決意に胸を打たれたからではない。承世の自害を止めるにはほかに方法がなかったのだ。
 かくて東宮は主を失った。承世を立太子したのは嘉明元年のことで、それ以前は礼駿自身が皇太子だったから、東宮が空位になるのは久方ぶりだった。
 だが、この状況は長続きしない。来年いっぱいで儲位をさだめる心づもりでいる。
 なぜそう急ぐかと言えば、己の命の期限が見えてきたからだ。
 身の内で(たぎ)る怨毒のせいだろうか、胸が火であぶられるように痛むことがある。その尋常ではない激痛はものの寸刻でおさまるのだが、頻度は頭痛同様、日に日に増しているようだ。太医に診察させても原因を特定できず、効果的な治療法や(やく)()がないので(かい)()は見込めない。わかるのはこの身体がなんらかの病魔に(むしば)まれていること、残された時間がさほど長くはないということくらいだ。
 かるがゆえに新太子の選定を急がなければならない。
 早く世継ぎをさだめ、あらたな儲君(もうけのきみ)に大半の奏状を処理させよう。さすれば礼駿はわずらわしい公務から解放され、憎むべき怨天教団との闘いに注力できる。
 それなりに儲位にふさわしい者ならだれでもいい。
 承世以外の皇子たちは梨艶の血をひいていないという点でみな同類だ。だれを選ぼうがおなじこと。ならばいっそ争わせてやろうと考えている。一つしかない皇太子の椅子をめぐって兄弟でつぶし合わせ、勝ち残った者に東宮をくれてやろう。
 礼駿の死後、儲位争いの勝者は(せん)()して(りょう)()をまとい、二十四(りゅう)(べん)(かん)の重さと、黄金の玉座から見おろす景色の寒々しさを思い知るだろうが、そんな先々の話は礼駿の知ったことではない。自分が死んだあとのことを案じている余裕はないのだ。
 礼駿には生きているうちに成し遂げなければならないことがある。梨艶の仇を討ち、怨みを晴らす。ただそのために命を燃やしているのであり、復讐を果たしさえすればこの世に未練はない。
「通せ」
 錆びついた四肢を叱咤しながら、礼駿は半身を起こした。
「外で待っていたのなら身体が冷えているだろう。あたたかい飲み物を用意してやれ」
 御意、と首を垂れ、邪蒙が寝間を出ていく。衣擦れの音が遠ざかると、一段と濃くなった闇が両肩にのしかかってきてわれ知らずうなだれた。
なぜだ、梨艶」
 網巾(もうきん)をつけた頭を片手で支え、礼駿は嘆息した。
「なぜおまえは俺の前に姿をあらわさないんだ」
 まれに梨艶の夢を見ることもあるが、決まって生前の彼女だ。死者となった梨艶は一度も礼駿のもとを訪れていない。礼駿はいつも彼女を待っているのに。
 どんな(しん)(らつ)な言葉を吐いてもいい、どうして暴君になどなったのかと(ののし)ってくれてもいい。ほんのひと時でかまわないから()()()から戻ってきてほしい。もし会いに来てくれるなら、彼女の言うとおりにする。梨艶が民を殺すなと言うならそうする。言官を(てい)(じょう)に処すなと言うならそうする。万迅雷を使うなと言うならそうする。怨天教団を(ゆる)せと言うならそうする。復讐心を捨てて政道を正せと言うならそうする。
いや、なにも言わなくてもいい。言葉すら交わしたくないのなら沈黙していてもかまわない。礼駿の前にあらわれてくれるだけで十分だ。抱きしめられなくてもいい。指一本ふれられなくてもいい。梨艶の顔を一目見ることができれば、それだけで
「あなた」
 ふいに愛おしい(こわ)()が耳朶を打ち、礼駿は頭をあげた。梨艶の声だ。ふたりきりのときには、彼女は夫を「あなた」と呼んだ。そう呼んでほしいと礼駿が頼んだから。
 喜悦か、安堵か、名づけようのない(こころよ)い情動が視界を熱くする。礼駿は引きちぎるようにして床帷(とばり)を開けた。そこに焦がれてやまない愛妻の姿が在ることを願って。
 しかし、期待した人影はなかった。視線の先にはふだんと変わらぬ、うつろな暗がりが漫然と横たわっていた。
「あの女のせいだぞ、奕佑」
 忌まわしい亡霊がどことも知れぬ場所から禍々しい声を注ぎこむ。
「汪梨艶を愛したせいでおまえは死ぬまで亡霊を追い求める羽目になったのだ。どれほど必死になって追いかけても、あの女の袖はおろか、影の一端さえつかめはしないのに」

【おわり】