暁闇/亡霊
『後宮彩華伝 復讐の寵姫と皇子たちの謀略戦』発売記念 はるおかりの書き下ろし番外編

暁闇
墨を流したような闇がどこまでもひろがっている。口を開けば喉まで真っ黒になりそうなその夜陰を、皇帝付き首席宦官・失邪蒙は恬然と眺めていた。
九陽城の正門たる午門の城楼、明黄色の甍をふいた屋根が重たい影を落とす南側の走廊に邪蒙の主君たる今上、嘉明帝は無言でたたずんでいた。
今日は嘉明二十六年一月十五日。
仁宗皇帝(光順帝)に次ぐ仁君と誉れ高かった今上を一夜にして残忍無比な暴君に変貌させた陰惨な事件、燃灯の変からちょうど九年目の元宵である。
元宵に灯籠を飾ることが禁じられてからもおなじ歳月が過ぎた。燃灯の変以前は無数の灯籠がさんざめき、光の錦を織りあげていたが、あの光景はもう遠い昔の夢のように思われる。熱に浮かされて幻でも見たのだろうと言われれば、そうかもしれないと首肯してしまうほど、現実味の薄い記憶になり果てていた。
「主上はお変わりになった」
いつだったか、司礼監掌印太監・葬刑哭が苦渋の面持ちでそうつぶやいた。首を縮めた亀のように何事にも消極的な老宦官が下手をすれば今上を中傷したと糾弾されかねない苦い言葉を吐くのはめずらしいことだった。
刑哭に限らず、官民はしきりに今上の変容を嘆いた。
最愛の汪皇后を喪ったことは悲劇ではあったが、悲しみに任せて虐政をしくのは横暴が過ぎる、高徳の英主として青史に名を残すはずだったのになんたる体たらくであろう、これがあの誉れ高い聖天子のお姿かと。
彼らの際限なき悲嘆に一定の理解を示すことはできる。たしかに彼らの目には、今上が突如として仁君の衣を脱ぎ捨て、暴君の衣をまとったように見えるのだろう。遠く離れていれば、舞台で役者がなにをしているか、つぶさには見てとれまい。だから彼らは繰り言のように「主上はお変わりになった」と言うのだ。
邪蒙はひねもす今上のそばにいる。東宮時代からだから三十年以上もその役目をつとめていることになる。長年仕えていれば主君への情がわくというが、邪蒙にはそれらしいものがない。そもそも邪蒙は当時李皇貴妃に仕えていた師父に命じられ、監視役として今上付きになった。慇懃な態度はくずさなかったが、それは責務に徹していたからで、主に親しみを抱いていたからではない。なお、邪蒙の事情は今上も先刻承知である。知っていながら素知らぬふりをしていた。互いに仮面で接する主従なのだ。
それでも長い年月をともに過ごしてきたことに変わりはない。邪蒙は観客席からではなく舞台袖から今上を見てきた。なればこそ、余人には見えないものが見える。
今上は仁君の衣を脱いで暴君の衣をまとったのではなく、仁君の衣を脱いで暴君の衣をあらわにしたのだ。つまり、はじめにまとっていたのは暴君の衣であり、それを仁君の衣で覆い隠していたということになる。
もとより正当な方法で玉座にのぼった人物ではない。
今上――高礼駿は先帝の皇八子だ。生母は一侍妾にすぎず、儲位からは遠いところにいた。何事もなければ、分不相応な野心を抱くこともなく、一親王として生涯を終えただろう。だが、礼駿には儲位を目指す理由があった。
彼が七つのときに母妃が不審な死を遂げた。その悲劇から謀略のにおいをかぎとった礼駿は、いつの日か母妃の仇を討つことを誓い、不勉強で頑是無い童子であった自分と決別してだれもが理想とする皇子を演じ、父帝の歓心を買った。策をめぐらせて尹皇后の養子におさまったのは、冠礼とともに立太子されるための布石だった。
母妃の横死の真相があきらかになったあとも、大人の風格をそなえた非の打ち所がない世継ぎの仮面をかぶりつづけ、官民に景仰された。そして先帝の譲位を受けて践祚し、聖賢の書から抜け出してきたような有徳の君主となった。
燃灯の変が起こるまで、今上は聖天子と呼びたくなるほどの名君だった。宣祐年間に弛緩した綱紀は粛正され、国帑を脅かす冗費は節減され、宗室の威勢はおさえられた。肥大化した宦官機構の権能に制限がくわえられ、とりわけ司礼監や東廠が強権をふるわぬよう監視が行き届いていたおかげで、だれもが思うさま天下国家を論じることができた。
その輝かしい皇威だけを見れば、今上こそ天性の仁君だと感じただろう。
さりとて、それは真実ではない。
今上が天性の仁君などではないことを邪蒙はよく知っている。彼が儲位を求めたのは権力を得るためだ。政を動かす力なくして母妃の謀死の謎を暴くことはできないと考えたのだ。それは亡き母を慕う孝子として当然のなりゆきだが、私情につき動かされて権力を渇し、私怨を晴らすため奇計を弄した者を聖人君子と持ちあげるわけにはいくまい。
今上は人間である。人間の男である。二十四旒の冕冠をかぶっても、明黄色の龍袍をまとっても、彼の肉体が天上のものでないという事実は変わらない。
神仙の力を持たない人間風情に、百官や万民が理想とする天子のひな型から寸毫も離れることなく、だれから見ても完璧な君王を演じつづけることができるだろうか? 皇族の理想、文官の理想、武官の理想、商人の理想、工匠の理想、農民の理想……人の数だけ理想があり、それらが矛盾せず融合することなど、けっしてありえないのに?
聖天子の虚像がくずれずにすむのは、その治世が数年で終わる場合だけだろう。どんな稚拙な詐術もほんの一瞬なら馬脚をあらわさずにすむ。しかるに玉座に在る時間が長くなれば、まやかしはほころび、仮面の奥に隠されていた素顔が見え隠れするようになる。
燃灯の変以前から今上はときおり激することがあった。そのはなはだしい震怒は民を虐げる貪官汚吏や辺境を荒らしまわる夷狄に向けられたもので、当時は好意的に評されていた。国と民を深く愛せばこそ不正や戦乱を憎んでいらっしゃるのだ、と訳知り顔の読書人たちは誇らしげに言い立てていたものだ。
むろん、彼らの解釈は的外れではないのだが、正鵠を射ていたとも言いがたい。
今上が不正や戦乱に義憤を燃やしたのは、それが〝仁君らしい〟行動だったからとも解釈できるからだ。
今上は仁君を演じていたのではないだろうか。母妃の仇を討つため、だれから見ても十全な皇太子を演じていたのとおなじように。
その証拠に、汪皇后が横死したとたん、今上は暴君の顔をむき出しにしたではないか。今上がまことの仁君であるならば、いかなる禍に見舞われても、絶望の淵に突き落とされても、仁道を見失うことはけっしてないはずだ。なぜならそれが仁者というものだから。
今上は偽の仁君だった。ゆえに化けの皮がはがれ、復讐者の顔が露呈した。
これが長年、舞台袖から今上を見てきた邪蒙の結論だ。
さりながら、この欺瞞によって今上を糾弾しようとは思わない。邪蒙は君王のそばに侍る影である。影に主を弾劾する資格があるはずもない。主が万民に慕われる仁君であろうと、万民に恐れられる暴君であろうと、無言のまま付き従う。あたかもかたちに寄り添う影のごとくに。
影は己の意思を持たない。持ってはならない。本来、宦官とはそういう存在だったはずだが、いつしか宦官は本分を忘れ、己の意思によって行動し、発言するようになった。彼らのような不遜な者たちに言わせれば邪蒙は旧弊な騾馬なのだろうが、邪蒙は昔ながらのやりかたで主に仕えている。
だからこうして今上が実に九年ぶりに午門の城楼にのぼり、城外を見晴るかす際も慎重に舌をしまいこんで、吹きすさぶ寒風にさらされつつ主のそばにひかえているのだ。息がつまるような夜陰のなか、今上がなにを思うのかは知りようがない。決断のときが迫っているのだろうということを、薄氷を透かして見る光のように感じ取ることができるのみだ。
「邪蒙」
名を呼ばれてはじめて「はい」と声を発する。今上はこちらを見もしない。見る必要がないのだ。邪蒙はつねに彼のかたわらに在るから。
「李首輔を召し出せ」
一呼吸置き、今上は静かに命じた。
「明朝ではない。いますぐに」
その意味するところは察していたが、邪蒙はあえて綸言を待った。
「皇后に――諡号を賜う」
宗室の諡号は礼部がつかさどる。礼部尚書は内閣大学士三輔・遠孔国が兼務していたが、彼が黎昌王・高利風による今上弑逆未遂事件に関与していたことがあきらかになり、罷免されてからは、内閣大学士首輔・李子業がその任を引き継いでいる。
――ようやく終わるのだろうか。
今日に至るまで今上は汪皇后に諡号を与えなかった。彼女の死を受け入れられず、永の別れを決定づける追諡から逃げつづけてきたのだ。
しかしとうとう、今上は決断を下した。
燃灯の変からつづく混迷がこれで幕引きとなるのか、まだ確信はないが、そうなってほしいと思う。この国はあまりに多くの血を流し過ぎた。これ以上の流血は命取りになる。事によるとすでに、取り返しのつかない地点まで来ているのかもしれないが。
ああいけない。「そうなってほしい」などという思いを胸に抱いては。
影は、七情とは無縁の生きものなのだから。
「御意」
のしかかる闇の重みに耐えかね、邪蒙は深く首を垂れた。
よいときも悪いときも今上のかたわらに在る。邪蒙の役どころはそれ以上でも以下でもない。
【おわり】
亡霊
「いかがいたしましょう」
皇帝付き首席宦官・失邪蒙がおずおずと問う。嘉明帝・高礼駿は休みなく奏状に朱筆を走らせながら「鬼獄に送れ」と答えた。
「やつが兵仗局太監になって半年も経つのに、いっこうに成果が出ぬ。火砲型万迅雷の開発には巨額の金花銀を投じているにもかかわらず、新型火薬の実験は失敗してばかり。遅々として開発が進まず、成功のきざしすら見えぬのはあの貪婪な騾馬が公金をくすねているせいであろう。東廠にやつの身辺を洗わせ、涜職の罪を暴くのだ」
まったく腹立たしい、と礼駿は叩きつけるように朱筆を筆架に置いた。
「東廠は彭羅生の探索に注力しているのだから、銅臭宦官ごときに人手を割く余裕はないのだ。百官の不正を摘発するのは都察院のつとめであろうに、連中はつまらぬ小悪党を処分して職責を果たした気になっている。国の要たる兵事を食い物にする貪官汚吏を取り逃がす愚物どもが監察の顔を気取っているとは噴飯物だ。近々、都察院にも大鉈をふるわねばなるまいな。ごくつぶしどもを一掃して組織をたてなおさねば」
「……恐れながら兵仗局太監ではなく、成端王の件です」
「才堅か。まだいるのか?」
「お引き取りくださいと再三お願いしているのですが……」
七日前から皇八子、成端王・高才堅が暁和殿の門前にひざまずいている。むろん夜通しではない。宮城の門という門が閉ざされる夕刻には親王といえども九陽城から出なければならないので、早朝から日暮れ時までだ。
開門するや否やいそいそと暁和門までやってきてひざまずき、閉門時刻になると宦官たちに追い立てられて足を引きずりながら出ていく。その涙ぐましい献身ぶりはさながら国の命運を左右する重要なお役目を仰せつかった者のそれだ。
――馬鹿馬鹿しい。
臘月のさなか、降りしきる雪に身をさらし、容赦ない寒気に震えながらも才堅が必死に懇願しているのは、国の命運とはまるきり関係のない私事である。
「香英楼の名妓・柳碧蘭を嫡妻として成端王府に迎えることをお許しください」
過日、呼ばれもしないのに参殿した才堅がくずおれるようにひれふして懇請したとき、礼駿は無言で返答した。言葉を発するまでもないことだったからだ。
後宮の規則により、民妓の入宮はかたく禁じられている。それにともない、親王府や郡王府でも側妃ならばともかく、妓女を正室にするのは避けるのが常道だった。
いやしくも親王の位を賜っている者が皇家のしきたりを知らぬわけではあるまいに、なんと恥知らずなことかと黙殺した。宦官たちに引きずられるようにして退室した才堅は翌日もおなじ嘆願をひっさげてやってきた。やはり無言で追いはらうと、その翌日にも同様のことが起こった。
うっとうしいので才堅を暁和殿に立ち入らせるなと厳命したところ、今度は暁和門の外で愁訴するようになった。暁和殿に出入りする内閣大学士ら高官たちの由ありげな視線をものともせず、雪空の下でひもすがら哀願していると聞いて礼駿はあきれかえった。
まだ二十歳に満たぬ乳臭児とはいえ、頑是無い童子のように駄々をこねるとはわが子ながら情けない。しかもみずから進んで宮廷じゅうの笑い物になってまで欲しがっているものが馴染みの妓女だというから、開いた口がふさがらない。金枝玉葉の一員でありながら恥知らずにも汚らわしい賤業婦に惑溺したばかりか、落籍して嫡妻にしようなどと、いったいなにを血迷っているのか。
息子が淫売を娶りたいと言い出せば、世間の父親は激昂するだろうが、礼駿は心からあきれていた。憤りさえ感じないのは、才堅になんの期待もしていないからだ。生死にすら興味がないのに、息子としての出来不出来に関心があるはずもない。
ゆえに才堅が無断で遊里の女を娶ったなら、その罪を咎めて厳罰に処せばいいだけの話だが、やつは馬鹿正直に婚姻の許可を求めている。礼駿が無関心ゆえにこれを黙認すれば、天子を諌めることを職掌とする言官どもがうるさく騒ぎ立てるだろう。連中を黙らせるのはたやすいが、そこまでして才堅の切なる願いとやらを叶えてやる義理はない。
よって目下、捨て置いている。今日も今日とて才堅は愚にもつかない哀訴のために寒風に吹かれて凍えているようだが、礼駿には一切かかわりのないことだ。
「気がすむまでやらせておけ」
「しかし……連日のことですので、お身体に毒かと」
「ならばさっさと王府に帰ればよかろう。余が命じてひざまずかせているわけではない。あいつが勝手に居座っているのだ」
蓋碗を引き寄せようとした瞬間、矢に射貫かれたように頭が痛んだ。このところ頻発する頭痛は日に日に悪化しているように思われる。太医の診察を受けたが、みな一様に過度の心労が原因だという。
「なにとぞ御心をおしずめになり、夜は早めにおやすみになりますよう」
型どおりの口上からはなんの解決策も得られない。礼駿は無益な診断を下した無能な太医たちをことごとく獄につないだ。連中のなかに怨天教団が送りこんだ密偵がひそんでいないとも限らない。王朝転覆をもくろむ怨天教徒ならば、皇帝の病を知りながら隠蔽することは大いにありうる。はたして鬼獄に送られた太医の過半数が怨天教団との関係を自供したが、よしんばそれが強要された虚偽の自白であったとしても痛痒を感じない。岐黄の術で玉体を癒すことを職責とし、その身分にふさわしい俸禄を賜っていながら、いざ不調を訴える天子を前にしてなんの働きもできないのは無能あるいは怠惰の極みであり、いずれにせよ罪にはちがいない。したがって罰せられるのは理の当然である。
「……お疲れのご様子ですので、しばらく仮眠なさってはいかがでしょうか」
こめかみをおさえて顔をしかめる礼駿を見ても、邪蒙は「太医を呼びましょう」とは言わない。礼駿が役立たずの太医に憤り、なおいっそう状況が悪くなるのを承知しているからだ。そうしよう、と答えて礼駿は席を立った。套間を通って臥室に向かう。
暁和殿の臥室は本来、頻繁には使われないものだが、燃灯の変以降は毎日、主を迎えていた。礼駿が後宮に足を運ばず、暁和殿で起居しているためだ。
いつ入用になってもいいようにつねにあたためられている寝間は居心地がいいはずなのに、この場に一歩立ち入るたび礼駿は得体のしれない悪寒に襲われる。
ここは広すぎて、静かすぎて、寒すぎる。そしてあまりにうつろだ。皇后――汪梨艶がいないから。梨艶が存命だったころ、礼駿は毎晩のように皇后の居所である恒春宮で過ごした。恒春宮の閨――すなわち梨艶の部屋はここよりずっとあたたかく、小春日のように心地よかった。間取りや内装のせいではない。そこに梨艶がいたからだ。
その証拠に、燃灯の変の翌日からはほかの部屋同様、寒々しい一室に変貌してしまった。
邪蒙に手伝わせて龍袍を脱ぎ、翼善冠をとって道袍姿で寝床に入る。錦の衾褥に身体を包まれて深く息をつき、まどろみを手繰り寄せようとつとめる。
むなしい努力が実を結ぶことはほとんどない。燃灯の変以来、呪いにでもかかったかのように眠りが浅くなった。夢路のなかばにたどりつく前に、何者かの手で現に引き戻されてしまうのだ。けれどもそれはさほど悪いことでもない。現に戻れば夢から逃れられる。満身から脂汗を搾り取ろうとするおぞましい悪夢からは。
――ああ、また来たのか。
それがやってくるときは背筋が粟立つようななまぐさい臭気が鼻をつく。
「おぼえているか、奕佑」
礼駿の名を呼ぶ声は低いが、男のものではない。
「おまえは私に言ったな。『俺は、あなたの傀儡にはなりません。ましてや暴君になど』と。たしかにおまえは私の傀儡にはならなかった。私に操られないよう、おまえは私を死に追いやったからな。おなじ母から生まれた姉である、この私を」
気づくと、それは礼駿の眼前に立っていた。最後に対峙したときと変わらない、公主らしい華麗な襖裙姿で。
礼駿の同母姉、廃公主・高月娘。宣祐二十九年、怨天教団を九陽城に手引きして父帝を弑逆しようともくろんだ鬼女は毒々しい色香をまとって艶然と微笑んでいた。
「あなたを死に追いやったのはあなた自身の罪ですよ、姉上」
礼駿はつとめて冷静に死んだ姉を睨みかえした。
そうだ、月娘は死んだ。三十年近く前に。だからこれは姉自身ではなく、姉の亡霊だ。
「いや、私を殺したのはおまえだ」
亡霊は扇子の先で礼駿のみぞおちをつついた。
「あの日、おまえにはさまざまな選択肢があった。そのなかには同胞である私に情けをかけて救う道もあった。だが、おまえは私を切り捨てた。もっとあけすけに言ってもいいぞ。おまえは私を踏み台にした」
「なにを馬鹿な――」
「詭弁を弄したところで事実が変わるわけではない。おまえは私の罪を暴くことで父皇の御意に入った。父皇は実の姉さえ切り捨てるおまえの非情さを高く評価し、おまえを世継ぎにした。自覚がないとは言わせぬぞ。おまえは姉を売って玉座を買ったのだ」
わが弟ながらたいした卑劣漢だ、と亡霊はせせら笑う。
「肉親を殺して手に入れた五爪の龍の着心地はいかがかな? さぞや誇らしいのだろうな?」
苛立ちに任せて扇子を奪おうとした手は虚空をつかんだ。
「さりとて、非情すぎるのも考えものだ。奕佑よ、おまえは汪梨艶一人のためにどれだけの官民を殺戮すれば気がすむのだ? どれだけの血を流せばおまえの怨みは癒されるのだ? まさかとは思うが、天下蒼生の骸を積み上げて冥河に橋をかけ、地獄の業火に焼かれる愛妻に会いに行くつもりではあるまいな?」
梨艶は地獄にはいない、と礼駿は反駁した。
「ではどこにいると思っているのだ? 天堂で安穏と暮らしているとでも? おめでたいやつだな、おまえは。万民に憎まれる暴君の寵愛を一身に受けていた皇后が死後になんの咎めも受けず、あの世でも幸福を享受できると本気で考えているのか? これはこれは、抱腹絶倒の笑い話だな! 私怨に囚われ、幾万の民を殺さずにいられぬ残忍非道な暗主が亡き妻の冥福を信じて疑わぬとは」
けたたましい嗤笑が朽ちた金属をこすり合わせるような不快な音を立てて頭のなかを引っかきまわす。
「おぼえているか、奕佑。おまえは私に言ったな。『俺は、あなたの傀儡にはなりません。ましてや暴君になど』と」
亡霊は先ほどの台詞をくりかえした。
「『ましてや暴君になど』だって! あの日のおまえにいまのおまえを見せてやりたいものだな! いったいどんな反応をするだろう? 自分が血みどろの暴君になると知ったら」
反駁しようとした舌は激情のあまり痺れて使い物にならない。
「いったい幾人の言官がおまえを諌めた罪で無残な亡骸になったのだろう? いったい幾人の妻妾や子女が、おまえが作り上げた罪により夫や父を喪い、連座して楽籍に入れられたのだろう? いったい幾人の若者が半金烏を所持していた罪で獄死したのだろう? いったい幾人の老人が聖明天尊を拝んだ罪で刑場に引っ立てられたのだろう? いったい幾人の子どもが元宵に灯籠を飾った罪で首を刎ねられたのだろう? いったい幾人の工匠が火砲型万迅雷の開発を急ぐよう命じられ、新型火薬の実験の最中に全身を焼かれたのだろう? いったい幾人の官兵が暴発した万迅雷に手足を吹き飛ばされ、毒煙に五臓六腑を破壊されて死んだのだろう? いったい幾人の民が万迅雷の毒質に汚染された田畑を捨て流民になり、困窮して奴婢や匪賊に身を落としたのだろう? いったい幾人の民が万迅雷に起因する飢饉に見舞われ、わが子の肉を食らって飢えをしのいだのだろう?」
用意してきた台詞を読みあげるかのように亡霊はまくしたてる。
「可哀想に! 彼らは虐政の犠牲者だ。おまえの腸を焼く愚にもつかぬ私怨に殺された者たちだ。暴君の御代に生まれる官民はかくも不幸だ。彼ら自身にはなんの罪もないのに罪人あつかいされ、次々に襲ってくる禍事に翻弄されなければならない。もっと早く生まれたかったと彼らは思っているだろう。あるいはもっと早く死んでいればよかったと思っているだろう。女一人のために政道を誤った愚かな天子が君臨する国で生きるくらいなら」
「……黙れ、死人め」
「なんだって? 死人だと?」
亡霊は両眼をかっと見開いて頤をといた。
「そうとも、私は死人だ! だが、忘れたわけではあるまい? おまえが渇望してやまぬ女、汪梨艶も私とおなじ死人だぞ!」
耳障りな哄笑が果てしない闇に反響する。
「おまえはこうも言っていたな」
いつの間にか亡霊は眼前から姿を消していた。はっとしたときには、背後から青白い顔がぬっとあらわれる。
「『死者に情愛をねだることがどれほど無益なことか、おわかりにならなかったのですか』と」
奕佑、と亡霊はざらざらとした不気味な声で礼駿の名を呼ぶ。
「おまえの可愛い汪梨艶は暴君に愛された女として歴史に記憶される。後世の者は汪梨艶を悪しざまに罵るだろう。嘉明帝が道を踏み外し、数十万の民を虐殺したのは汪梨艶のせいだと。諸悪の根源はあの女だ。汪梨艶がおまえの寵愛を独占したことが暴政の端緒をひらいた。すべての禍はあの女が招いたものなのだ」
ちがう、と叫んでふりかえったが、そこには無人の暗がりが在るだけ。
「なにがちがうというのだ? おまえは汪梨艶の仇を討ちたいのだろう? そのために蟒服をまとった凶暴な猟犬どもを解き放ち、国土を荒廃させる邪悪な火器を乱用し、君王の暴虐を止めようとする忠臣たちを惨殺しているのだろう?」
姿は見えないのに亡霊の声は耳もとで鳴り響く。
「復讐とはなんとむなしい行為であろう。官を、民を、邪教徒をいくら殺しても、汪梨艶は戻ってこない。死んだ者は生きかえらないのだ。おまえがやっていることは徒爾以外の何物でもないのだぞ」
そんなことはわかっている。わかっているけれども――。
「汪梨艶がこんなことを望んでいると思うか? おまえが天下のそこかしこに死体の山を築き、狂虐の天子と呼ばれることを?」
望むはずがない。梨艶は心やさしい女だ。自分を苦しめた者にさえ情けをかけずにはいられない慈婦なのだ。
「ならばおまえはいったいなんのために怨憎を燃やしているのだ? なんのために返り血を浴びつづけているのだ? なんのために修羅の道を歩んでいるのだ? いったいなんのために?」
答えられない。舌が動かないせいではなく、思考が錆びついているせいで。
教えてやろう、と亡霊はまたしても耳もとでささやきかけてきた。
「おまえは呪われているのだ。おまえが愛慕してやまない――亡霊に」
「……主上」
床帷の向こうから響いた邪蒙の声が礼駿を現に引き戻した。
「廉徳王が謁見を願い出ていらっしゃいます。成端王の件で奏上したき儀があるとのことです。主上はお休み中ですと申し上げたところ、ならばお目覚めになるまで待つとおっしゃいまして……この寒さですので客庁にお入りいただくようお願いしましたが、『八弟が寒空の下で哀訴しているのに、兄たる自分が火鉢のそばでぬくぬくと待っているわけにはいくまい』と……」
あいつが言いそうなことだ、と礼駿は仰向けのままため息をついた。
先月まで東宮の主をつとめていた廉徳王・高承世は道義心が衣を着たような皇長子だ。幼いころから才気煥発で孝心が深く雅量に富んでおり、これ以上の息子は望めまいと感嘆するほど申し分のない世継ぎだった。
さりながらそれは燃灯の変が起こるまでの話だ。
怨天教徒の凶弾により右足を負傷した承世は十全の世継ぎではなくなってしまった。肉体的な問題は皇位継承において致命的な欠点となりうる。事件から半年と経たないうちに、皇宮のいたるところで承世の廃太子が噂されるようになった。
群臣は片足が不自由な皇太子を気まずそうにふりあおいでいた。頼りなく揺れる彼らのまなざしは次期皇帝への失意から生じたものではなく、漠然とした、しかし執拗に存在を主張する、凱という国の行く末に抱く鬼胎から生じたものだった。群臣の目には、不慣れな手つきで杖を持ち、疼痛をこらえるために眉間にしわを寄せて歩く承世の痛ましい姿が軋り音を上げて沈みゆく老いさらばえた王朝を象徴しているように見えたのだろう。
群臣の憂患は疫病のようなものだ。放っておけば燎原の火のごとくひろがっていく。首輪を引きちぎった疑懼の念は猛獣のように暴れまわり、不穏の種が随所で芽吹くようになる。このままでは王朝の余命にかかわると知りながら、礼駿は承世の廃太子をためらった。
承世は梨艶が産んだ唯一の皇子だ。承世が東宮を去れば、梨艶が産まなかった皇子のうちのだれかが後釜に座る。梨艶の血をひかない息子を世継ぎにすれば、彼女が生きた証を後世に残せなくなってしまう。礼駿は梨艶が皇太后として新帝に尊崇され、毎年供養してもらえるようにしたかった。承世なら礼駿の死後も生母たる梨艶に孝養を尽くしてくれるだろう。だが、ほかの者はどうだろうか。梨艶の血を一滴も受け継いでいない、梨艶にとっては赤の他人である息子は実子がそうするように彼女に孝養を尽くすだろうか?
確信が持てない以上、決断を先延ばしにするしかなかった。
だが先月、礼駿はやむなく承世を廃太子し、廉徳王に封じた。ほかのだれでもない、承世本人が自分を廃位してくれないなら自害すると詰め寄ったから。
「〝禍福は門なし。唯人の招く所〟と申します。世継ぎでありながらこのような身体になったのは、私になにかしらの不徳があったせいでしょう。これ以上、東宮に居座っていても、父皇の御宇の汚点となることしかできません。私は才徳のない不肖の息子ですが、恥は知っています。龍顔に泥を塗ってまで儲位に恋々とするつもりはありません。ふしてお願い申し上げます、父皇。私を廃太子し、十全の肉体と十分な才徳をかねそなえた者にあらためて儲位をお与えください」
その申し出を受け入れたのは、謙譲の美徳を体現したような悲壮な決意に胸を打たれたからではない。承世の自害を止めるにはほかに方法がなかったのだ。
かくて東宮は主を失った。承世を立太子したのは嘉明元年のことで、それ以前は礼駿自身が皇太子だったから、東宮が空位になるのは久方ぶりだった。
だが、この状況は長続きしない。来年いっぱいで儲位をさだめる心づもりでいる。
なぜそう急ぐかと言えば、己の命の期限が見えてきたからだ。
身の内で滾る怨毒のせいだろうか、胸が火であぶられるように痛むことがある。その尋常ではない激痛はものの寸刻でおさまるのだが、頻度は頭痛同様、日に日に増しているようだ。太医に診察させても原因を特定できず、効果的な治療法や薬餌がないので快癒は見込めない。わかるのはこの身体がなんらかの病魔に蝕まれていること、残された時間がさほど長くはないということくらいだ。
かるがゆえに新太子の選定を急がなければならない。
早く世継ぎをさだめ、あらたな儲君に大半の奏状を処理させよう。さすれば礼駿はわずらわしい公務から解放され、憎むべき怨天教団との闘いに注力できる。
――それなりに儲位にふさわしい者ならだれでもいい。
承世以外の皇子たちは梨艶の血をひいていないという点でみな同類だ。だれを選ぼうがおなじこと。ならばいっそ争わせてやろうと考えている。一つしかない皇太子の椅子をめぐって兄弟でつぶし合わせ、勝ち残った者に東宮をくれてやろう。
礼駿の死後、儲位争いの勝者は践祚して龍衣をまとい、二十四旒の冕冠の重さと、黄金の玉座から見おろす景色の寒々しさを思い知るだろうが、そんな先々の話は礼駿の知ったことではない。自分が死んだあとのことを案じている余裕はないのだ。
礼駿には生きているうちに成し遂げなければならないことがある。梨艶の仇を討ち、怨みを晴らす。ただそのために命を燃やしているのであり、復讐を果たしさえすればこの世に未練はない。
「通せ」
錆びついた四肢を叱咤しながら、礼駿は半身を起こした。
「外で待っていたのなら身体が冷えているだろう。あたたかい飲み物を用意してやれ」
御意、と首を垂れ、邪蒙が寝間を出ていく。衣擦れの音が遠ざかると、一段と濃くなった闇が両肩にのしかかってきてわれ知らずうなだれた。
「……なぜだ、梨艶」
網巾をつけた頭を片手で支え、礼駿は嘆息した。
「なぜおまえは俺の前に姿をあらわさないんだ」
まれに梨艶の夢を見ることもあるが、決まって生前の彼女だ。死者となった梨艶は一度も礼駿のもとを訪れていない。礼駿はいつも彼女を待っているのに。
どんな辛辣な言葉を吐いてもいい、どうして暴君になどなったのかと罵ってくれてもいい。ほんのひと時でかまわないから黄泉路から戻ってきてほしい。もし会いに来てくれるなら、彼女の言うとおりにする。梨艶が民を殺すなと言うならそうする。言官を廷杖に処すなと言うならそうする。万迅雷を使うなと言うならそうする。怨天教団を赦せと言うならそうする。復讐心を捨てて政道を正せと言うならそうする。
いや、なにも言わなくてもいい。言葉すら交わしたくないのなら沈黙していてもかまわない。礼駿の前にあらわれてくれるだけで十分だ。抱きしめられなくてもいい。指一本ふれられなくてもいい。梨艶の顔を一目見ることができれば、それだけで……。
「あなた」
ふいに愛おしい声音が耳朶を打ち、礼駿は頭をあげた。梨艶の声だ。ふたりきりのときには、彼女は夫を「あなた」と呼んだ。そう呼んでほしいと礼駿が頼んだから。
喜悦か、安堵か、名づけようのない快い情動が視界を熱くする。礼駿は引きちぎるようにして床帷を開けた。そこに焦がれてやまない愛妻の姿が在ることを願って。
しかし、期待した人影はなかった。視線の先にはふだんと変わらぬ、うつろな暗がりが漫然と横たわっていた。
「あの女のせいだぞ、奕佑」
忌まわしい亡霊がどことも知れぬ場所から禍々しい声を注ぎこむ。
「汪梨艶を愛したせいでおまえは死ぬまで亡霊を追い求める羽目になったのだ。どれほど必死になって追いかけても、あの女の袖はおろか、影の一端さえつかめはしないのに」
【おわり】