今宵一刻値千金
『後宮彩華伝 復讐の寵姫と皇子たちの謀略戦』発売記念 はるおかりの書き下ろし番外編

「そろそろ寝支度をなさってはいかがです?」
成端王妃付き首席女官・念佳杏がおずおずと声をかけてきてはじめて、成端王妃・沈碧蘭改め蕭碧蘭は自分が描画に没頭していたことに気づいた。
描いていたのは鼠と瓜。どちらも子宝に恵まれることを願う吉祥文様である。
――あまり期待すぎるのはよくないけれど。
太子妃に立てられることが決まってから、洪列王・高忠徹から紹介された女医にかかり、無子の治療をしている。女医は最初の診察で治療をすれば九分九厘、身ごもるようになると太鼓判を押してくれた。
「私は嘘をつけないたちです。望みがなければ、率直にそう申し上げます」
女医の力強い宣言はすくなからず碧蘭を前向きな気持ちにしてくれた。無子には憂鬱がよくないらしい。心持をあかるくすることは治療に良い影響を与えると聞いたので、こうして画筆をとっていたのだ。
「そうね。寝支度をするわ。明日は早いんだもの」
明日はいよいよ皇太子・高才堅の婚礼だ。碧蘭は太子妃として儀式に出ることになる。早朝から起き出して沐浴しなければならないので、早く休んでおかなければならない。
書房を出ると、心地よい秋の夜風に出迎えられた。紅葉が月光を弾くさまを眺めていると、回廊の向こうからだれかが歩いてくるのに気づいた。成端王妃付き首席宦官・石力熊だろうかとなにげなく視線を向け、あっと声をあげる。
「殿下!」
「字で呼んでくれないのか?」
こちらに歩いてくる才堅が笑いふくみに言う。太子妃になることを承知した日に、彼を字で呼ぶよう頼まれたが、気恥ずかしくてまだ呼んだことはなかった。
「恐れ多いわ。皇太子殿下を字で呼ぶなんて」
殿下に拝謁いたします、とかしこまったあいさつをしてから碧蘭は才堅を見上げた。目が合うと、才堅はふっと口もとをゆるめる。
「夫なんだから字で呼ぶのに恐れ多いもなにもないだろう」
「夫とはいえ身分がちがうもの。あなたは世継ぎで……ちょっと待って、なぜあなたがこんな時間にこんなところにいるの?」
ここは東宮とは高い牆でへだてられた震宮の殿舎。明日の婚礼で才堅に嫁ぐまで、東宮妃妾になることが決まっている令嬢たちは震宮で起き臥しすることになっていた。皇太子が震宮に足を運ぶことは奨励されているわけではないが、禁止されているわけでもない。したがって才堅がここにいてもふしぎではないのだが、それは昼間に限った話だ。暗くなってから震宮に入るのは不品行と見なされかねない軽挙ではないか。
「人に見られたらなんと言われるかわからないわ。早く東宮に戻ったほうがいいわよ」
「来て早々追いかえさなくてもいいじゃないか」
「あなたの評判を傷つけないためよ。ほら、さっさと帰って」
追いかえそうとしてのばした手をつかまれ、抱き寄せられた。
「父皇に許可をいただいているから許してくれ」
「……それならいいけど」
こうして才堅の腕のなかにいられることがいまだに信じられない。夢を見ているみたいだ。
「明日からおまえは太子妃だ。東宮妃妾の頂に立つ覚悟はできているか」
「当然できてるわよ。……と言いたいところだけど、正直に言えば自信がないわ」
東宮妃妾になる令嬢たちとの顔合わせは一月前にすませている。数人とは仲良くなれたが、良好な関係とは言いがたい者のほうが多い。危惧していたとおり、気位の高い令嬢たちは遊里出身の女が自分たちをさしおいて太子妃に指名されたことが我慢ならないようだ。貞潔こそ女の美徳と教えられてきたのだろうから、彼女たちの不満はもっともなことだ。
「令嬢たちがどう思おうと関係ない。俺が選んだのは碧蘭――おまえだ」
甘いささやきが胸の奥まで響く。才堅は碧蘭を選んでくれた。うしろめたい過去を持たない深窓の令嬢のなかから選ぶこともできたのに、碧蘭を太子妃にしてくれたのだ。
彼の真情が心をあたためてくれるから、多少の不安はあっても大丈夫だという気がする。妃妾たちの信頼を勝ち得るかどうかは碧蘭の手腕しだい。才堅の顔に泥を塗らないよう、太子妃としてしっかりつとめなければならない。
「明日言おうと思っていたけど、今夜言ってしまうわ」
長い口づけのあとで、碧蘭は才堅の胸にひたいをうずめた。
「わたくしの名を呼んでほしいの」
「いいのか? 以前はだめだと言われたが」
「あのときはあなたのことをよく知らなかったから。それに好きでもなかったわ。でも、いまは……」
「好きになった?」
「……そんなこと、言わなくてもわかるでしょ」
気恥ずかしさをごまかそうとしてくるりと背を向けると、うしろから抱きしめられる。
「言われないとわからないな。前にも言ったとおり、俺は女のことにまったく気が回らないぼんやりした男だから。はっきり口に出してくれなければ通じないぞ」
「なにが『ぼんやりした男』よ。わたくしの本心を知っているから、こうして抱きしめているんでしょ」
「これは俺がしたくてしていることで、単なるひとりよがりだ。おまえの本心など知る由もない」
「あなたって嘘が下手ね」
才堅は妓楼でさんざん見てきたひとりよがりな嫖客たちとはちがう。いつだって碧蘭の気持ちを優先してくれる。碧蘭がいやだと言ったことはけっしてしない。だから碧蘭を蕭貞霓と呼ぶことも、あの日以来、一度もなかった。わざわざ蕭幽朋の嫡女という回りくどい言いかたを使ってまで碧蘭の実名を避けたのだ。
「……でも、そういうところも好きよ」
火であぶられたように頬が熱くなるのは、この言葉が妓女の口から出たものではない証拠だ。嫖客を色香でたぶらかすときには恥じらいなんて感じない。それは春をひさぐ女の手練手管にすぎず、恋に身を焦がす女の真情とはかけ離れている。
「なんだって? よく聞こえないな。もっと大きな声で言ってくれないか?」
「いやよ。恥ずかしい」
「俺を好きだと言うのが恥ずかしいのか?」
「恥ずかしいわよ。だってそんなことを言ったら、あなた、うれしそうな顔をするでしょ」
「うれしそうな顔をするのは悪いことか?」
「……悪くはないけど、いたたまれなくなるの。胸が熱くなって……」
才堅の笑顔が好きだ。真剣な表情やおだやかな寝顔も好きだけれど、微笑む彼にはのぼせたように見惚れてしまう。
それは幸せなことであると同時にすこし恐ろしく感じることでもある。才堅に夢中になりすぎている気がする。太子妃になることを受け入れても、愛情を失うことへの不安が消えてなくなったわけではない。蜜月の愛撫に身をゆだねてしまえば、甘い夢が去ったあとの苦しみがいっそうつらくなるのだから、ほんとうは節制すべきなのに、この瞬間も才堅の腕のなかから抜け出せない。
「貞霓」
ふいに低い声が耳もとに落ちて、碧蘭は反射的にふりかえった。
「おまえをいたたまれない気持ちにさせたいわけではないが、おまえのそばにいるとこういう顔になってしまうんだ」
愛おしげな微笑が目にしみたせいか、泣き笑いのような表情になる。
――いまのわたくしには、いまがすべてよ。
まだ起こってもいないことで思い悩んで、現在の幸せを存分に味わえないなんて馬鹿馬鹿しいことだ。不吉な未来を想像してくよくよしている暇があったら、いまこの瞬間、確実に存在する幸福をしっかり胸に刻みたい。今宵は二度とくりかえされないのだから。
「才堅」
頬が燃えるのもかまわず、碧蘭は愛しい人の字を口にした。
「恥ずかしいから言いたくないけど、思い切って言うわ。……あなたのことが好きよ。とくにその笑顔がむしょうに好きなの」
「おまえを喜ばせたいときは笑えばいいんだな」
「それもいいけど、もっと有効な策は名を呼ぶことよ。あなたに名を呼ばれると、ふだんなら恥ずかしくてできないこともできるようになるみたい」
手のうちを明かすなんてますますもって妓女らしくない。けれど、後悔はない。碧蘭はもう娼妓ではないから。
「貞霓」
ふたたび名を呼ばれ、胸の奥が甘やかにわななく。自分はこの人の妻なのだという自覚が身体じゅうを満たしてくれる。
「おまえを愛しく思っている」
「そんなこと、言われなくても知ってるわ」
ついと横を向いたけれど、口もとがほころぶのをとめられない。
「……でも、あなたにそう言われるのは好きよ」
「じゃあ、おまえが聞き飽きるまで言おう」
「馬鹿ね。聞き飽きることなんかないから、あなたのほうが先に音をあげるわよ」
「そう言われると、ますます挑戦してみたくなるな」
ふたりして笑っていれば、この時間がとこしえにつづくような錯覚に陥る。
――永遠じゃないからこそ千金の値打ちがあるのよ。
いずれ失われるとわかっているものだからなおさら尊いのだ。人の命と同様に。
【おわり】