龍の身代わり 偽りの皇帝は煌めく花園に惑う

 ここは(よう)()(こく)の京師、()(おう)
‌ さても然々(しかじか)な事情で皇帝の身代わりを務めることとなった(りゅう)()は、突貫帝王教育の日々を過ごしていた。息抜きといえば、後宮へ忍び込んで散策するくらいが関の山という切なさである。
‌ 忍び込む、と言うと人聞きが悪いが、正式な手続きを踏んで輿(こし)を用意させるのが面倒臭いだけである。貴重な休憩時間を無駄にはしたくないのだ。
‌ 何と言っても、この後宮には穴場がある。皇帝がぶらぶら歩いていても見咎められず、のんびり羽を伸ばせる場所がある。その楽園こそ、(こう)(せい)歌劇の敷地である。
‌ 後宮内で、宮女たちの()(りょう)を慰めるために創立された煌星歌劇。役者も裏方も女性だけで構成され、実に二六〇年の伝統を持つこの劇団の敷地内は、ある種の治外法権。人気の的は『男役』と呼ばれる男装の麗人たちで、生身の男である皇帝など見向きもされない。
‌ 今日も今日とて、龍意は劇場の裏手をぶらぶら散歩していたが、すれ違う宮女たちは申し訳程度の挨拶をしてみせるだけで、すぐに龍意から離れていった。この辺りに(たむろ)す宮女たちには別の目的があるのだ。
‌ やがて、キャー! と宮女たちの黄色い声が上がり、向こうから長身の女が姿を見せた。
‌ 現れたな、(ほう)(せい)()
‌ 五尺八寸〔約一七五センチ〕はありそうな背に、凛々しい顔立ち。稽古用の動きやすい胡服姿は颯爽として、ここが後宮でなければ、当たり前に男と疑わない美青年ぶりである。
‌「キャー! 星羅様ー!」
‌「今日もお稽古頑張ってねー!」
‌ やはりこの宮女の集団は、星羅がお目当てだったのだ。いわゆる『稽古の入り待ち』というやつだ。
‌ 劇場の脇には、訓練棟と呼ばれる建物があり、(せい)(じょう)〔煌星歌劇の役者〕たちは日々ここで稽古をしている。贔屓の星娘がいる宮女たちは、公演日程だけでなく稽古の予定もしっかり把握して応援に励むのだ。
‌ とはいえ、(ひい)()への過度な接近は控える、という暗黙の了解があるらしく、まるで規制の縄でも張られているかのように、宮女たちは稽古場の入り口から一定距離を置いて星羅に声援を送っている。
‌ だが直接声は掛けられなくとも、彼女たちにはとっておきの武器があることを龍意は知っていた。宮女たちはめいめいに団扇を取り出し、星羅に向かって振り始める。
‌ 星羅はそれらを見て悪戯げな笑みを浮かべると、
‌『眨眼〔ウインク〕して!』
‌ と書かれた団扇を振る宮女にはバチンと片目をつぶって見せ、
‌『飛吻〔投げキッス〕して!』
‌ と書かれた団扇を振る宮女にも気障(きざ)()(ぐさ)で応える。
‌ こんな騒ぎの中で、皇帝の存在を気に懸ける者はひとりもいなかった。
‌ 皇帝陛下の御成り! と変に気を遣われず、媚を売られず、放っておいてもらえるから好んでここを散歩しているわけなのだが、これはこれで面白くはない。
‌ 俺だって、役者時代はそれなりに人気があったんだけどな。
‌ 旅回りの小さな芝居一座だが、一応は看板を張っていたのだ。ひとりかふたりくらい、「こっちにもいい男がー!」と寄ってきてもよさそうなものなのに、宮女たちの視線は星羅に独り占めされている。
‌ とんでもない不敬罪だという気もするが、そもそも煌星歌劇とは、皇帝の寵愛を得られない哀れな宮女たちの気を紛らせるために設けられた娯楽であり、星娘もそんな宮女たちを『お客様』としてもてなすのが職務で、皇帝の相手をする義務はないのだという。
‌ つまり、この場では誰も罪を犯していない。龍意がなんとも釈然としない気持ちを持て余していても、ぶつける場所はなかった。
‌ やがて稽古が始まる時間になると、宮女たちは解散し、龍意も皇城でのお勉強に戻った。

‌ 面白くないそう思いつつも、時間を見つけると後宮へ足を延ばしてしまうのはなぜなのか。
‌ 今日もまた龍意が劇場付近をぶらぶらしていると、今度は稽古の休憩時間にかち合った。稽古場から星娘たちが出てきて、外の空気を吸いながら軽食を摂る者もいれば、身体を(ほぐ)して体操をする者、台本を(にら)んで台詞をぶつぶつ言っている者もいる。
‌ そんな中、娘役らしき小柄な少女が泣きながら稽古場を飛び出してきたかと思うと、それを追って星羅も出てきた。
‌「(せい)()!」
‌ 泣いている少女の腕を取った星羅は、そのまま抱きかかえるようにして訓練棟の裏手へ歩いて行った。興味を惹かれて、龍意もこっそり後を追う。
‌ 皇帝ともあろう者が、なんで自分の後宮でこんなこそこそした真似を
‌ 内心で苦笑しつつも、木陰に隠れて星羅たちの様子を観察する。
‌「大丈夫だよ、青娥。青娥なら出来ると思うから、老師(せんせい)も厳しく言うんだ」
‌「でも私が出来ないせいで、いつもお稽古を止めちゃって星羅様にもご迷惑を
‌ 青娥は大きな(ひとみ)からぽろぽろ涙をこぼし、星羅はそれを指で拭って慰める。
‌「私だって出来ないことはたくさんあるし、難しい役に当たれば誰だって悪戦苦闘するよ。ひとりひとりが頑張って、みんなで頑張って、ひとつの作品を創り上げるんだ。青娥の頑張りは、私だってみんなだって知ってる。青娥はやれるよ」
‌「せ、星羅様~
‌ 感動したのか何なのか、青娥はさらに激しく泣き出し、そんな青娥を星羅はそっと抱き寄せた。そうして優しく頭を撫で、顔を覗き込むようにして言う。
‌「ほら、泣かないで。青娥は笑ってる方が可愛いよ」
‌ 彼氏か! 詐欺師か! この()()公子(こうし)〔プレイボーイ〕め!
‌ いや、違う。冷静になれ。これは、単に女の子が女の子を慰めているだけの場面だ。
‌ そう、それだけのことなのに、なぜこんなにドキドキさせられるのか。いけないものを見てしまったような気になるのはなぜなのか。
‌ 胸を押さえ、釈然としない気持ちを宥めようとしているところ、
‌「これはこれは、また楽しいものをご覧になっておいでですね、陛下」
‌ 背後からささやくような声を掛けられ、龍意はその場で小さく飛び上がった。慌てて振り返れば、女の子のように可憐な美貌の宦官が立っている。
‌「な、なんだ、(りん)(ずい)。驚かすなよ」
‌ 傍仕えの宦官・(しょう)琳瑞は、内廷にも外廷にも明るい事情通である。身代わり皇帝を演じる龍意にとっては、(こう)(ぐう)暮らしの案内役として重宝する存在だった。
‌「あのふたりの関係をご説明いたしましょうか?」
‌「関係、ってなんだよ」
‌ 言い返しつつも、ふたりが見える場所からこっそり離れ、琳瑞の話を聞く態勢を整える。
‌「あの(りん)青娥は、星羅さんの花嫁候補なのですよ」
‌「花嫁? 女同士だろ?」
‌「舞台上の相手役として、という意味です」
‌ 琳瑞は飽くまで真面目な顔で説明する。
‌「星羅さんは今、(ほう)()組の三番手ですが、いずれは花形〔主役〕へ上り詰める逸材と誰もが期待しています。このまま順調に人気と実力を伸ばして、星羅さんがめでたく男役の花形になれたとしたら相手を務める娘役の花形候補として、林青娥は育てられているのです」
‌「主役候補? 随分泣き虫の子供みたいだったがな」
‌「彼女はまだ初舞台を踏んで日が浅いですからね。でも娘役は新鮮さが命みたいなところがありますし、実際、星羅さんと青娥さんの並びはとてもお似合いです」
‌「星羅もそれを意識して、まるで恋人みたいに扱ってるってことか?」
‌「いえ、それはどうでしょうね。周りの期待は大きいですが、星羅さん本人は三番手になったばかりで、今はまだ将来のことよりも、現在の番手を守るためにひたすら頑張っている、という風に見えますね。花形の座は、誰でも行き着ける高みではありませんからねぇまだまだ星羅さんも踏ん張りどころが続くと思いますよ、ええ」
‌ どういう立場から物を言っているのか、琳瑞はしみじみと頷きを繰り返す。そうしてから話を続ける。
‌「まあ、星羅さんの花嫁候補に名の挙がる娘役は他にもいますし、いろいろ相性お試し中といったところですか。そもそも、女の子が目の前で泣いていたら、誰に対してもあんな風に慰めますよ、星羅さんは」
‌「選り取り見取りか。やっぱりただの女ったらしじゃねえか!」
‌「星羅さんがどう思っているかはわかりませんが、青娥さんの方は星羅さんに嫁ぐ気満々のようですね」
‌「嫁ぐって! だから、女同士だろ!?」
‌「ああ、申し訳ございません。つい専門用語ばかり」
‌ 女同士で『花嫁』だの『嫁ぐ』だの、煌星歌劇にまつわる専門用語は難し過ぎる! 頭を抱える龍意に、琳瑞が話題を変えて問う。
‌「今、劇団の宿舎で星羅さんがひとり部屋状態になっている理由をご存知ですか?」
‌「宿舎?」
‌「ええ、通常、星娘の宿舎は二~三人部屋です。個室を満喫出来るのは、各組の花形くらいのもの。それが星羅さんは今、同室者なしの個室状態です。どうしてだと?」
‌「星羅のいびきがうるさ過ぎるからとか?」
‌ 自分で言っておきながら、そんなわけはないだろうと(かぶり)を振る。そんな龍意の放言を綺麗に受け流して琳瑞は言う。
‌「同室希望者が殺到して、収拾がつかないからでございますよ。青娥さんを始め、同室になってお世話をしたいと立候補する娘役や、後輩の男役が火花を散らし合い、迂闊に誰かを選べばどんな騒動になるかわからないということで、保留になったままなのです」
‌「凄い人気だな
‌「まあこういう騒ぎが起きてこそ、人気の証明、花形路線に乗っているとも言えるわけでございますが」
‌「なんというか
‌ 龍意は大きくため息を吐いた。
‌「本当に煌星歌劇ってのは、皇帝の存在を無視した組織なんだな。後宮の中の話なのに、さっきから聞いてれば、皇帝のこの字も出てこねえ」
‌「皇帝としては、面白くありませんか?」
‌ それはそうなのだが、人から言われると、それだけでもないような気がしてくる。
‌「いや俺にとって、ここは借り物の後宮だからな。元々手つかずで兄貴に返すつもりだからいいんだが、なんだか無性に悔しくなるんだよ、星羅(あいつ)を見てると」
‌ 男としてなのか、役者としてなのか、女たちのあの熱狂を自分も得たい、自分だってあれくらいやれると思ってしまう。だが替え玉の身の上で、変に宮女たちの人気を得ても面倒事が増えるだけだ。今のままが一番だとも思う。
‌ だから、何をどうしたいというのでもない。ただ、むずむずするというのか、もやもやするというのか、とにかく星羅を見ていると落ち着かない気分になるのだ。
‌ 自分でもよくわからない感情に、龍意は小さく首を傾ける。対する琳瑞は微笑んで言う。
‌「大変結構でございますよ」
‌「何が結構なんだ?」
‌「何度も申し上げますが、この後宮内にあって、宮女と星娘はまったく職掌の異なる存在です。星娘には皇帝の相手をする義務がありません。陛下が宮女を何人お召しになっても構いませんが、星娘に手を付けることは絶対の禁忌です」
‌「ああ、それはもう耳に胼胝(たこ)が出来るほど聞かされた」
‌「ええ、ですから、陛下の星羅さんへの興味が、好敵手に対するようなものであられるなら、間違いも起こらないでしょうし、大変結構なことでございますと申しました」
‌「間違いだと?」
‌ 龍意は(ふん)(がい)して琳瑞を睨んだ。
‌「こっちこそ何度も言うがな、俺は、気立てが良くて優しくて、ふんわり可愛いらしい女の子が好みなんだ。あんな、結婚詐欺師の男にしか見えないような女と、どんな間違いが起きるって言うんだ」
‌ これはまだ、身代わり陛下がそんなことを言っていられた頃のお話。(のち)に何が起こるのか、一寸先は闇である

‌【おわり】