宝石商リチャード氏の謎鑑定 比翼のマグル・ガル 第六回

3 セレスタイトは歌う(2)


『ごめん。今ドバイ』
ジェフ」
『何も考えるな。リッキー、何も考えるな』
「申し訳ありませんが考えています」
『オーノー、考えるな! こういう時のお前は悲観的になるから怖いんだ。今からできる限りの力を使って東アジアにUターンするから、それまで持ちこたえるんだよ。お兄ちゃんが行くからね』
「持ちこたえてはいます。折れそうになりましたが、支えていただきました」
『えっ誰に』
「みのるさまです」
おやまあ
「彼は小さなナイトです。さすが(せい)()の弟だけあります」
そうだね。みのるくんのためにも、お前はしっかりしていないと』
「ジェフ」
『なあに。ヘンリーにはもう連絡したよ。もうそろそろ(とう)(じょう)ゲートに行くんだけど』
あなたがいてくれてよかった」
『変なこと言わない! 僕だってお前がいてくれてよかったよ。でもそれは今後何十年かしてから聞かせてほしい台詞(せりふ)。今じゃない。何かお腹にいれるんだよ、先が見えない時には長丁場の勝負だからね。それじゃあ後で!』
「はい。後ほど」



『大丈夫か? 今ニューヨークにいる』
ヴィンスこの前までみんな横浜にいたというのに、今はみんな遠い」
『恨めしそうな声で言うな。お嬢はまだ(ぎん)()のホテルにいるだろ。呼べ』
「こんな時に彼女を呼びつけても怖がらせるだけです。親しい人のこういった状況に、あの子を巻き込みたくない」
『仲間外れにされたってわかったら、(なか)()正義が目覚めた後に怒られるぞ』
ふふ。そうですね。その時には正義と共に怒られましょう」
『お前、大丈夫か?』
「この状況で私が大丈夫だと思われますか」
『思わないが、そういうことを俺に言える程度にはまともだとわかった。俺の予想だと、こういう時のお前はしばらく病院の床に突っ伏して何もできない状態になっていそうだが、今は電話なんぞをかけている。やるじゃないか』
「おそれいります」
変な伝言をみのるさんに頼んで、悪かったな』
「伝言?」
『聞いてないのか。じゃあいい。そのうち俺から言う。しばらく日本には行けないと思うが、状況は全部知らせてくれ。マリアン、平気だ。後で話す』
「それではまた」
『ああ、またな。連絡しろ』



『こんにちは(たに)(もと)です。お電話ありがとうございました。始発で行きます』
「いえそこまでしていただくわけには」
『行きます。明日は学校勤務もありませんし、何かあってからじゃ絶対(こう)(かい)するのがわかっていますから。正義くんのことを好きなのが自分だけだと思わないでください。もちろん私の好きとリチャードさんの好きは違うと思いますけれど、大切なことに変わりはありませんから』
ありがとうございます」
『この前、正義くんが電話をくれたんです』
「え?」
『大事なことを決めたから、話を聞いてほしかったって。ちょっと嬉しそうでした』

『何の話をしたのかは言いません。正義くんから直接聞いてください』
谷本さま
『私たちも面白いご縁ですよね。正義くんがいなかったら、絶対リチャードさんと私が知り合いになることなんてなかった。でも今こうして電話をいただけていて、今こんなことを言うのは適切ではないとも思いますが、嬉しいです』
こちらの台詞です」
『何か新しい情報があったら連絡をください。始発が出るまでは(おか)(やま)(えき)で待つので、いつでも(つな)がります。リチャードさん、しっかりしてくださいね。正義くんが一番嫌がるのはリチャードさんがつらい思いをすることですよ』
それをあの男に()()直接言ってやっていただきたい
『もちろんです。何やってるの! しっかりして! って、ちゃんと言いに行きますね』
ありがとうございます」
『こちらこそ、本当にありがとうございます。私の大切な友達の隣にずっと一緒にいてくださって、どれほど言葉を尽くしても足りないくらい感謝しています』

『これからもよろしくお願いしますね』
「もちろんです」
『それじゃあまた明日。いえ、もう今日ですね。また後ほど』
お待ちしております」



『すみません今マラガです!』
「だと思っておりました、(しも)(むら)さま。コンサートお疲れさまです」
『あいつメッセージで見ましたけど、子どもをかばったって? 何やってんだか正義のヒーローなのはわかってましたけどすみません。俺も慌てていて、ろくなことが言えない』
「ご心配をかけるだけかとも思いましたが、谷本さまに相談したところ、あなたにもお伝えすべきだと」
『実を言うと話はもうエンリーケヘンリーから聞いてます。信じられないんですけど俺に何かできることはありますか』
「祈ってください」

「正義が無事に私たちのところまで戻ってきてくれるように、祈ってください」
エンティエンド。わかりました。一番大きい教会に行きます』
「グラシアス。あなたの()()深さに栄光がありますように」
『大丈夫ですよ』

『正義は大丈夫です。あいつタフですからね。絶対平気だと思います。ちょっと疲れて寝てるだけじゃないかな。もし万が一起きないようなことがあったら、すぐギターを聴かせますから言ってください。あいつにまだ送ってない新曲がいろいろあるんです』

『はい。あいつ忙しいのに、いつデモを送っても(てい)(ねい)に返信してくれるんですよ。この曲がいいとか、こっちはこの前の曲に似てないか? とか。得難い友達です。あと、おいしい日本食も食べさせてくれるし』
「また是非お越しください。一緒にテーブルを囲みましょう」
『もちろん! それじゃあ、教会に行ってきます。周りの人も巻き込んで、天国でも地獄でも無視できないくらいのパワーで祈りますよ。それじゃあ、アスタ・ラ・ヴィスタ』
「はい。またそのうちに」



 思っていたより長い時間が経った後、リチャードはみのるの待つ病室に顔を出した。中田ひろみは外の部屋で仮眠をとっていて、かわりに中田(やす)(ひろ)がみのるの隣に立っている。心電図計の無機質な音に、みのるは少しずつ安心感を覚えるようになっていた。規則正しく曇る酸素マスクと同じに、正義の心臓が動いている証拠である。
 (うるわ)しい顔にみのるは目を見開いた。
「リチャードさん。大丈夫ですか」
「遅くなりました。正義の友人たちに連絡を取っておりまして」
 リチャードの言葉に、ありがとうございますと中田康弘が頭を下げる。
「助かります。そういうのはあなたでないとしていただけないことですから
「康弘さまもどうぞお休みください」
「私はここでいいんですよ。息子の寝顔なんて、ここ最近見ていませんでしたからね」
 日焼けした顔の男性は、正義のことを息子と呼んだ。とても心配そうに正義の顔を見つめ続けていて、看護師や医師がやってくると「どうなんですか」「何かできることはありますか」と、必死な顔で尋ねる。しかしみのるがその様子を見ていることに気付くと、すぐに力強い笑みを浮かべてみせるのだった。
 こんなお父さんが、世界には存在するのだと。
 みのるは目が覚めるような思いだった。
 康弘のような、いかにもお父さんらしい、立派なお父さんというものは、ドラマの中にしか存在しない、みんなの幻想なのだと思っていた。そういう人がいたらいいなというユニコーンやドラゴンのようなものだと思っていた。だが今目の前に、その幻想が立っている。
 いいな、とみのるは思った。
 正義にはこういうお父さんがいて(うらや)ましいな、と。
 そう思った後、みのるはそれが永久に口に出せない言葉であることを悟った。正義とみのるの間に横たわる『父親』とは、盛岡で死んでいた男性のことである。康弘は正義の父親であって、みのるの父親ではない。共有できる財産ではなかった。
 リチャードと康弘が病室の外に出て話す最中、みのるはじっと正義を見ていた。眠っているだけだと思い込みたかったが、正義の周囲に置かれた機械が邪魔をする。
正義さん、起きてください。みんな心配してます」
 みのるは弱々しい声で語り掛けたが、応答はない。
 話が終わったようで、リチャードと康弘が病室に顔を出した。入ってきたのはリチャードだけで、康弘は(ろう)()に立ったままである。
 みのるを見ていた。
「みのるくん、ちょっと一緒に話そうか」
「えっ」
 康弘は廊下を歩き去った。驚きながらみのるも後を追う。
 病院の待合室まで向かうと、それまでにはいなかった人たちが立っていた。三人いて、中年の男女が二人と高齢の男性が一人で、全員がパジャマの上に何か()()っただけの姿で、(ぼう)(ぜん)とした顔で泣いている。中年の女性は額の前で手を組んで祈っていた。みのるは胸が痛くなった。
 康弘は三人の邪魔にならないところまでみのるを連れてゆくと、あたたかく力強い顔でみのるを見つめ、告げた。
「霧江みのるくん、正義から話は聞いてる。この前、正義と一緒に新幹線で盛岡に行ったんだってね」
はい」
 この人は全部知っているんだな、とみのるは思った。父と子として、正義が話したのである。別に今更自分が説明することなんてないだろうと思ったので、みのるは黙っていた。
 康弘はみのるの顔をじっと見つめた後、茶色い合皮のソファ病院には本当にいっぱい()()があったに腰掛け、みのるに隣を促した。みのるが隣に座ってから、再び口を開く。
「こういう話を君にするのを、正義は嫌がると思うけれど、私は少しだけ話しておきたい。君と正義の、お父さんにあたる人の話だ」
「聞きたいです」
 みのるは即答した。
 康弘は(うなず)き、膝の間で手を組みながら(しゃべ)った。
「彼(しめ)()(ひさし)さんと、私は一度しか直接会ったことがない。正義が大学生の時のことだ。だがその前に何があったかは知っている。彼は私の妻であるひろみさんに、あまりよくないことをしていた。ドメスティックバイオレンスってわかるかな」
わかります。社会の授業で習いました」
「最近の学校はすごいな。彼はそれをしていた」

 みのるは頷いた。正直なところ驚きはなかった。正義が黙っているからには、何かよくないことがあったのだろうと思っていて、みのるの想像は『実は人殺し』のあたりまでは飛躍していた。そのくらいまでだったら『想像のうち』である。あまり驚かない自信があった。
 でも実際のところは、ドメスティックバイオレンスであったという。
 何だそれだけだったんだ、と思っているみのるの隣で、康弘は言葉を続けた。
「私が彼に直接出会った時、彼は正義のストーカーになっていた。お金が欲しかったようでね、息子の周りをうろついていた。仕事には()いていなかった」
親が子どものストーカーになることなんてあるんですか?」
「私にはわからない考え方だけれど、実際にそういうことがあったわけだし、あるのだろうね」
 ふうんそうなんだ、というのがみのるの感想だった。
 そしてふと、考えた。
 正義が大学生だった時代というのは、十年くらい前のことである。その時みのるは四歳くらいだった。
 お父さんが消えた時期と一致する。
 お父さんはどうしていなくなってしまったのだろうとみのるはずっと思っていた。何か仕方のない事情があって家を()けなければならなかったのかもしれないと思おうとしていた。
 だが実際のところ、彼は(とう)(きょう)で、実の息子にお金をたかっていたのだった。
 確かにその時、みのるの家にはお金がなかった。お母さんはまだ働いていたはずだったが、あまるほどお金があった記憶はない。ベーカリーのパンが食べたかったけれど「高い」と言われて買ってもらえなかった思い出もあった。そして記憶の中のお父さんは、みのるとよく遊んでくれはしたが、仕事に行っていた様子はなかった。
 お金がない時には、働くのではなく、たかりに行く。それも自分の実の息子に。大学生とはいえ、まだ学生の子どもに。
 みのるは記憶の中のお父さんが、もやもやした灰色のおばけのような存在になったことに気づいた。今までのお父さんは、記憶の中に存在し、顔はよくわからないものの一緒に遊んでくれる大人Aでしかなかったが、そこにおまけがつく。
 お父さんはいい人ではなかった。
 少なくとも正義や、正義のお母さんにとって、いい人ではなかった。
 そして恐らく、生きていたらみのるにとってもいい人ではなくなっていた可能性が高かった。
 目を見開いたまま、みのるは大きなため息をついた。自分が一気に二十五歳くらいまで老けてしまったような気がした。康弘が言葉を続ける。
「こんな話をして申し訳ない。正義の気持ちも私にはわかる。でも私が君の立場なら、何も聞かされないでいるのはフェアじゃないと感じるかもしれないと思った。だから話した。正義にもこのことを話して平気だよ。私が勝手に判断したことだからね」
 そこでみのるは、彼がみのるに今、そんな話をした理由がわかった。お前の父親は悪人だったのだと聞かせてみのるを落ち込ませたかったわけではない。
 ただ、正義が生きているうちに、確実に生きているうちに、話をしたかったのである。
 この人はもう最悪の事態を考えているのだと気づき、みのるは再びぞっとした。みのるは当たり(さわ)りのない話題を探し、口を開いた。
「康弘さんはどういうお仕事をしているんですか?」
「私?」
 康弘はしばらく考えるような顔をした後、海の底にある資源を掘り出すお手伝いをしていると言った。あまりにも子ども向けすぎる言葉に、みのるがちょっと困った顔をすると、康弘は謝罪して言い直した。
 インドネシアやマレーシアの海底資源の(くっ)(さく)に関する、海外工事の監督をしている、と。
 みのるは社会の教科書の『インドネシア』『マレーシア』の項目を思い出した。日本に比べると南の方にある国で、人材輸出という名目の国民の高等教育に力をいれる一方、豊富な海洋資源を生かすためにインフラを発達させている。
 康弘はその『お手伝い』をしているようだった。
「すごいですね
「世界にはいろいろな仕事があるよ。私のような土木の仕事をする人間もいれば、正義やリチャードさんのように宝石を売る人たちもいる」

「みのるくんは、将来はどういう仕事をしたいの?」
 えっ、とみのるは(うめ)いた。それこそ中学校で散々質問されることである。みのるの表情に、康弘は少し驚いたようだった。慌ててみのるが言い(つくろ)う。
「今考えてるところです。でも、決まってなくてすみません」
「そうか、中学生だものね。すまない。自分も中学の頃には、なりたいものなんか全然思いつかなかったな。ラグビーの選手とか、学校のプリントに書いていたような気がするよ。はは
 康弘は少しだけ笑い、わざとらしい笑いが途切れ、沈黙し。
 その後再び、脚の間で手を組んで、静かに告げた。
「早く正義に起きてほしいね」
はい」
「早く起きて、『大丈夫だよ』って言ってほしい。父親がこんなことを言っていいのかわからないけれど、あいつに『お父さん、俺は大丈夫ですよ』って言ってほしい。あいつは本当によくできた子でもっと俺に心配をさせてほしいとは思っていた。思ってはいたけれど、こんな形の心配はしたくなかった」
自分の子どもじゃなくても可愛(かわい)いですか?」
 みのるは口にした瞬間、自分の言葉を取り消して消しゴムをかけて(まっ)(しょう)したくなった。最悪である。だがもう遅かった。口から出た言葉は戻らない。康弘は大して驚いた様子も、もちろん怒った様子を見せずに、みのるを見た。
 そして泣きそうな顔で微笑(ほほえ)んだ。
「可愛いよ。世界で一番可愛い。大好きだ。命にかえてもいい。俺は正義が好きだ」

「血が(つな)がっているかどうかが、大事じゃないとは言わないよ。でも、一番、何より、特別に大事なものってわけじゃない。そんなに絶対的なものじゃないんだ」
 みのるの胸の中に、その言葉はすとんと落ちていった。今まで言葉にしたことこそなかったものの、ずっと当たり前のように思っていたことだった。
 たとえば正義とみのるも、兄弟ではある。だが同じお母さんがいるわけではない。それでも大事に思い合っている自信があった。
 たとえば正義とリチャードも、全く血は繋がっていない。それでも大事に(いつく)しみあっている。それもまた、明白なことだった。
 血の繋がりとはきっと()(びょう)みたいなものなんだろう、とみのるは思った。そこにあるとポスターがはれたり、紐がひっかけられたりする『とっかかり』。港にある似た形状のものと同じように、二つの異なる何かを結びつける時に(ちょう)(ほう)する何か。
 だが別に、そこに画鋲のようなものがなくても、人と人は繋がりをつくることができる。なければないで、セロテープを持ってきたり、壁の(すき)()に紙を突っ込んだりすればいい。
 それだけのことなのだった。
 みのるがひとり、深く納得していると、康弘は再び口を開いた。
「君のことも、私は大事に思ってる」

「正義の大切な弟だろう。私にとっても、半分以上は自分の子どもみたいなものだと思っている。もちろん私は、君のお父さんになるには年を取りすぎているかもしれない。それでも、もし正義ひとりの力で足りないことがあったら、私を頼ってほしいと思うし、頼ってくれたら嬉しい」
いいんですか」
「もちろん」
 康弘はにっこり笑って、小さく自分の胸を叩いてみせた。あ、正義に似ている、とみのるは思った。正義と康弘の間に血の繋がりがないことはわかっている。それでもこの二人は間違いなく親子なのだと、みのるは再び納得した。繋がりがあるのだと。
「そろそろリチャードさんのところに行こうか。あの人は正義をとても愛してくださっているけど、今あいつと二人きりにしておくのはよくない。あまりにも、何と言うか、重いものを背負わせすぎる」
「僕もそう思います
 みのると康弘は再び集中治療室に戻った。病室の前の椅子では相変わらずひろみが眠り込んでいる。その隣にリチャードが立っていた。
「リチャードさん?」
康弘さま、みのるさま」
 病室の中にいなくていいんですかと、みのるが尋ねる前に康弘が「どうしたんです」と声をあげた。()(けん)(しわ)が寄っている。リチャードは力なく微笑んだ。
「私がひとりで部屋に入っているのは、あまりよろしくないようです。家族の付き添いが必要だとかそれから、部屋にあまり大人数が入るのもよくないと」
「あなたの背中に『中田正義の家族』と書いた紙を貼っておきましょうか」
()()お願いしたく存じます」
 康弘が怒った顔で冗談を言うと、リチャードは力なく微笑んだ。
 リチャードが正義の病室にいることの何がいけないのか、みのるには全くわからなかったが、ともかく何か決まりがあるようで、康弘とリチャードとみのるはローテーションを組んで正義を見守ることにした。リチャードが病室にいる時には必ず康弘が廊下で様子を見守っている。みのるは自分が、正義を守るボディガードの一角を(にな)っているような気がした。
 壁の時計を見ると、三時三十分である。とんでもない時間だった。
 みのるはかなり迷ってから、(りょう)()に連絡を入れることにした。『めっちゃゲーム』が好きなスーパー親友は、お母さんに見つからなかった場合のみだが、夜通しゲームに興じることもあるという。
『起きてる?』
 メッセージはすぐに受信された。すぐ返信が入る。
『起きてるけど どうした? 徹夜? なんで?』
 良太はついでとばかりに、マシンガンを撃っているデフォルメ動物のスタンプを送ってきた。シューティングゲームに興じているらしい。
 みのるは少し迷ってから、ぼかさずにありのままを連絡した。
 正義さんが交通事故に()って。
 今意識不明で病院にいる。
 付き添っているところだと。
 次の良太の応答は電話だった。いきなりかかってきたのでみのるは困ってしまい、集中治療室前の(ろう)()から少し離れたところまで行って応対した。
「もしもし」
『もッしもし! お前マジでやばいことになってんじゃん。ちょっと母ちゃん起こすわ』
「起こさなくていいよ! 今起こされてもお母さんが困るって!」
『俺たち家族で病院に行く。正義さんってリチャードさんと二人暮らしだろ。いろいろ困ってるんじゃねえの。安心しろ。前に(しん)(せき)の一人暮らしの兄ちゃんがバイクで事故った時にも、うちの親めちゃめちゃ介護しまくってたから』
「正義さんのお父さんとお母さんも来てるから大丈夫!」
『あっ』
 そうなのか、と消え入るように言い、良太は静かになった。
 みのるは少し笑ってしまった。良太はあまりにもいつも通りの良太だった。病院の中には『いつも』とは全く違う空気が流れていて、その中では人の生き死にが外の世界よりも大きく変化する魔法がかかっているような気がした。
 だが良太は、いつもみのるが足を置いている世界にいて、夜通しゲームをしている。
 良太と自分の間にも、『画鋲』を介さない繋がりが存在することを、みのるは静かに確信し、感謝した。
「良太、ありがとう。声が聞けてほっとした」
『俺の声で? 癒やし効果とかあるのかな、録音したら売れると思う?』
「どうかと思うよ」
 冗談だよと良太は告げた。みのるを(はげ)まそうとしていることがばればれで、みのるは久々に悲しいのとは別の理由で泣きたくなった。良太はあっけらかんと言葉を続ける。
『真鈴には連絡したのか』
「してない。真鈴にこんなこと言って平気なのかどうか、わからないから」
『そうだな、俺もわかんないや。あいつめちゃめちゃ取り乱しそう』
 みのるは(うなず)いた。そして何より数時間前に真鈴は正義に告白し、失恋したばかりである。正義はその後に事故に遭ったはずだった。真鈴はもしかしたら激しく自分を責めるかもしれない。そんなことはしてほしくなかった。
 少し話した末、みのると良太は、このことは学校に行くまで真鈴には言わないでおこうという密約を結んだ。月曜日までは秘密ということである。もしかしたらみのるは月曜日に学校にいけないかもしれなかったが、そうなった場合はもう隠しても意味がなさそうなので、真鈴にもきちんと伝えると決めた。
 良太はしばらく黙った後、ぽつりと(つぶや)いた。
中田さん、心配だな』
「うん
『頭を打ってるんだっけ。怖いよな。目が覚めない人もいるって言うじゃん』
「やめてよ」
『悪い。大丈夫だろ。中田さんがそうなると決まったわけじゃないしさ』
「そうだよ。本当にそうだよ。すぐ目を覚ますって」
俺、何かお前にできることある?』
 みのるは目を見開いた。何でもかんでもノリと勢いで何とかしてしまおうとする、(あか)()良太という男らしからぬ言葉である。みのるが絶句していると、良太は小さく怒り始めた。
『何だよ。お前笑ってんの? こっちは真剣に言ってるんだぞ』
「ごめん。笑ってるわけじゃない。ちょっと感動して」
『あっ、感動した? よかったー。俺、実はお前に感動してほしかったから』
「嘘だよ。良太はそこまで計算したりしないでしょ」
『おまえー! 俺がいいこと言ってんのに!』
 そのまま数分電話をしていると、康弘が心配して姿を見に来た。みのるは笑っている自分が嫌になり、そろそろ切るねと電話口で告げた。
 良太は最後に言った。
『中田さん、すぐ目が覚めるといいな。そうしたらお前、(なぐ)ってやれよ』
「ええっ、何で?」
『心配させんなバカ! って。最初に電話に出た時、お前死にそうな声してたもん。そのくらいしてもバチは当たらないんじゃね? それじゃ!』
 ぶっつりと回線は切れた。
 康弘に寄り添われ、みのるは再び集中治療室の前の廊下に戻った。ピッピッピッという音が外まで聞こえる廊下である。いつの間にかひろみが目覚めていて、代わりにリチャードが眠っていた。
 その様子を、廊下の向こうから見ている人々がいた。
 さっき待合室で泣いていた、三人組のうちの二人だった。中年の女性と、年を取った男性。パジャマの上にジャケットをひっかけただけの姿なのは相変わらずだったが、既に泣いてはいない。
 二人は眠るリチャードを見て、微笑んでいた。(かす)かに声が聞こえてくる。
「きれいな人じゃねえ」
「ほうじゃなあ。あれは幽霊かいな?」
「いやあお父ちゃん、幽霊は足がないじゃろ。(かわ)(ぐつ)をはいとるよ」
「目覚めたらお母ちゃんに見せてやりたいなあ。あいつ面食いじゃから」
「見られなかったら惜しがるじゃろうねえ」
「ほうじゃなあ」
 寝顔を見物されるリチャードが()(わい)そうになったので、みのるは二人とリチャードの間にさりげなく入り、うつむいて携帯端末をいじりはじめた。二人もそれで話すのをやめた。
 二人のいる廊下の向こうにはまた、また別の病室とカーテンがあり、ピッピッピッという音が微かに聞こえてくる。正義のものよりも少し遅い電子音が。
 あの人たちの大切な人も、何かの事情で目を覚まさないのかもしれなかった。病気か、交通事故か、いずれでもない何かの理由で。
 みのるはちらりと二人の方を見た。二人は無言でみのるを見ていた。
 何も言わず、みのるは小さく頭を下げた。二人もみのるに頭を下げる。
 まるで大人同士のやりとりのようだとみのるは思った。
 リチャードの隣で無意味に端末をいじっているうち、みのるは四時になったことに気づいた。もはや深夜というより早朝である。
 正義はまだ目を覚まさない。
 かわりにリチャードの端末がぶるりと振動し、青い瞳が姿を現した。きれいな宝石のような瞳だったが、少し充血している。リチャードはみのるを見、次に集中治療室のカーテンを見、康弘の後ろ姿を認めたようだった。いつもとは違って一瞬で(かく)(せい)する。
「失礼いたしました。みのるさま、正義は?」
「特にまだ、変わったことはないです」
()(よう)ですか」
 見計らったように『当直室』と書かれた扉が開き、若い男性の医師が出てきた。みのるが康弘を呼ぶ。ひろみも医師に向き合った。
 四人の前で、医師は(しゃべ)った。
「中田正義さんのご家族の方ですね。この先の治療方針についてお話しても構いませんか」
「一番いい治療をお願いします」
「医師としては、どの患者さまにも一番いい治療をしているつもりです」
 康弘はちらりとみのるのことを見て、離れているようにと合図したが、リチャードはみのるの肩を抱いた。
「みのるさま、よろしければ一緒に話を聞いてください。あなたがいてくださると、私は心強いのです」
「わかりました」
 みのるは良太との電話の後あたりから眠くなっていたがそれまで眠くならなかったのがおかしなことだったリチャードにそんなことを言われては頑張って立っているしかなかった。
 みのるにはお医者さんの話が完全にわかったわけではなかったが、医師はどうやら、意識が戻った場合、戻ったが障害が残った場合、その障害の程度か軽かった場合と重かった場合、最後に意識が戻らなかった場合、それぞれの治療について説明したようだった。つまりどの未来が訪れる可能性もある。みのるは震えあがったが、リチャードはきつくみのるの手を(つか)んでいた。
 逃げるな、と言われているとは思わなかった。頼られているのだとわかった。
 自分がリチャードを支えなければと強く思い、みのるは手を握り返した。
 若い医者は康弘に尋ねた。
「皆さまにお願いしたいのは、呼びかけてあげてほしいということです。脳というものは人体のブラックボックスで、いつ、どうしたら目覚めるか、ということはほぼ予想できません。しかし脳波の研究などによると、親しい人の声は届きやすいようです。皆さんで正義さんのことを呼んであげてください。呼び続けると正義さんも皆さんも疲れてしまうと思いますので、休み休み、根気強く」
「わかりました」
 康弘とひろみが(しょう)()し、みのるとリチャードも頷いた。
 親しい人の声。
 目が覚める。
 みのるはふと何かを思い出しそうになって、思い出せなかった。リチャードがみのるの顔を見る。
「みのるさま、どうかなさいましたか」
ちょっとしたことなんですけど、何かを思い出しそうなんです。でも
 思い出せなくて、とみのるは言い(よど)んだ。
 康弘とひろみは早口に何かを話し合い、再びリチャードとみのるに向き合った。二人は一度家に戻るという。二人の家はどこにあるのかと尋ねると、(まち)()だという。東京と()()(がわ)の境目あたりである。往復にはそれなりに時間がかかりそうだった。
「康弘さんはそろそろ限界だから、私が運転して、その間に助手席で仮眠してもらう。そうしたら家に到着する頃には()(たく)をする元気も出るでしょ。正義の着替えやら何やらはリチャードさんにお任せしていいですか。きっとそちらのマンションにあるでしょうから」
「もちろんです。お二人がお戻りになるまでは、私はここを離れませんが」
「そうしてください。よろしくお願いします」
 病院の夜間出入口の前で、リチャードは深々と二人にお()()をして見送った。みのるも同じことをする。
 二人がいなくなった後、リチャードはみのるに集中治療室のソファを促し、そっと頭を()でた。
「みのるさま、少し眠ってください」
でも」
「上まぶたと下まぶたがくっついてしまいそうですよ」
すみません。じゃあ、ちょっと」
 それだけ言うと、みのるはソファの外に足を出したまま、リチャードの膝を枕に目を閉じた。意識は一瞬で遠のいた。

【つづく】