GIRLS’TALK 1

青と銀で統一されたらせん階段を、仲の良さそうな男女が談笑しながら降りてくる。
多分、沙名子と同じくらい――三十歳前後だと思う。礼服ではない。男性はスーツだが、女性はカジュアルなワンピースを着ている。
横浜の結婚式場である。今日は二階でブライダルフェアをやっていたのを沙名子は思い出した。
そうでなくても、結婚式場というものは、いったん決めたら何回か足を運ばなくてはならない。
結婚というのは延々と続くタスクとすりあわせ、そして決断との戦いだ。結婚式をするしないに始まって、次々に決定を迫られる。ひとつひとつは小さいが、決めないと次へ行けない。
しかしそれもあと少し。結婚式のドレスとフロックコート、料理と進行を決め、招待する親族も定まった。あとは結婚式を挙げ、新居で新しい生活を始めるだけだ。
これでよかったのか。沙名子は今になって不安になる。仕事だったらタスクを終了したら消えていくが、今回はなかなか消えてくれない。決めているのが自分ひとりではないからだ。
「身内だから引き出物なんていいって思ってたけど、いろいろ見ていると、あれもこれもいいってなっちゃうよなあ」
太陽は――沙名子の夫になる男は。らせん階段を見ていなかった。さきほどからロビーのソファーに座り、熱心にカタログをめくっている。約束の時間まで時間があると、ついパンフレットを見てしまうのだ。
太陽はいつもの赤いパーカーの姿だが、太陽が着ているといいのだと思えてしまうのが不思議だ。太陽のすぐ横には、天天石鹸が入った大きな紙袋がある。
この結婚式場に決めた理由のひとつは、担当者が、必ずかかる経費をぼかさずに伝えてきたことだった。沙名子を奥さまと呼び、雰囲気で懐柔してこようとする担当者に辟易していたので、取引先、顧客として扱ってくれることにほっとした。
「引き出物は天天石鹸の詰め合わせにするんじゃないの」
沙名子は言った。今日は、そのためにわざわざ天天石鹸を持って足を運んだのである。太陽はこのまま大阪へ帰り、沙名子は東京に戻る。横浜駅で離れる予定だ。
「それはそうなんだけど、よく考えたら、結婚式に仕事を持ち込むことないじゃん」
「と、わたしは言ったと思うけど」
「そう。沙名子の言ったことが、今になって腑に落ちた。あとからわかるんだよ」
「太陽の好きにしていいよ」
沙名子は呆れて苦笑した。引き出物の内容なんて些細なことだ。太陽が天天石鹸を入れたいと言ったので、何でもいい沙名子は譲った。それだけのことである。
――わたしには多分、足りないものがある。
沙名子は反省とも自戒ともつかない気持ちで、隣にいる太陽を見る。
結婚については、悩むことも決定することもすべて太陽と一緒だった。難関をクリアすること、何かで失敗すること、迷うこと自体を楽しんでもよかったのかもしれない。今さらだが。
「そろそろ時間かな。俺、石鹸渡してくるわ」
太陽が時計に目をやり、紙袋を引き寄せた。
「引き出物の内容、考え直すんじゃないの?」
「それはそれとして天天石鹸はつける。当然だろ」
太陽はやけにきっぱりと言い、立ち上がった。
「沙名子はここにいていいよ。渡すだけだから。引き出物のカタログもらってくるわ」
「わかった」
沙名子は答えた。
ロビーは居心地がよかった。どこかから穏やかなピアノの音楽が聞こえてくる。さきほどらせん階段から降りてきた恋人たちが、仲睦まじく壁の絵を見ながら話している。
廊下の向こうから、女性がひとり、ゆっくりと歩いてきていた。おそらく本館の結婚披露宴会場の参列者だろう。フリルとレースをふんだんに使った。ゴシック風のドレスが美しい。本人も人形のような、作りものめいた美人である。
女性は壁際で止まった。スマホに目をやりながら、しばらく佇む。やがて諦めたようにバッグに入れ、ガラス張りの正面玄関を見る。タクシー乗り場を探しているようだ。列ができているのを見つけると、ほっとしたようにロビーの中央へ向かって歩き出す。
そのとき、らせん階段の上から、男性たちの乱暴な足音がした。女性を見つけて笑顔になり、足音を大きくして駆け下りてくる。
「――あ、いたいた、ななみちゃん!」
と、ひとりの男性が大きな声で叫んだ。
少し酔っているようだった。黒いドレスの女性が、びっくりしたように目を見開く。絵の前に恋人とともにいた女性が、ちらりと彼らを見る。沙名子は、ソファーに座ったまま目を逸らした。
結婚披露宴が終わったあと、七実は別館のロビーに行くことにした。
七実にとっては慣れたことだ。レンタルフレンドの仕事で一番多いのは結婚披露宴の出席である。だいたい二次会を断り、速やかに移動して身を隠し、場所と時間をずらして帰る。新婦の情報は頭に叩き込んであるが、親族や本当の友人にどこかで会ってしまい、細かいところを突っ込まれたら困る。
今日は――今日も、と言うべきか。新婦の友人役だった。
精算はご祝儀や美容院代の分も含め、事前に振り込みで済ませてある。普段ならお礼のメールをしたら完了なのだが、今回はそういうわけにはいかなかった。七実が着ているドレスは、新婦から借りたものなのである。
今日の依頼は、「松」。依頼人の設定する人物になりきって、事情を知らない人たちと会うことである。「竹」は単純なデート。「梅」はその他のショートコースだ。
新婦の美咲は、アパレル会社で服飾の仕事をしている女性だ。趣味でも服を作っているが、結婚式ではウエディングドレスを着なくてはならない。自作のお気に入りのドレスを結婚式で見たいので、新婦の友達という体で、着て出席してほしい、それが依頼内容だった。七実は今日、新婦から言われるまま髪を巻き、金色のピアスをつけ、結婚披露宴にこれでいいのかと思うような、黒のレースがふんだんに使われたミニドレスを着ている。
友人の設定は、新婦の幼なじみ。小学校のときに別れたが、SNSで再会して結婚式に招待したということにしてください。名前はななみ。住所も曖昧でいいです。わたしも知らないということにするので。親族や友人に突っ込まれたくないから、少し変わった子ということで通していただきたいんです。夫も承知しています。
今回の依頼主は、新郎と新婦のふたりだった。結婚式の友人役の依頼があったときに、夫や親族が知っているのか否かというのは重要な項目だ。両親はともかく、夫に隠し事をしなくていいのでほっとした。
ドレスは大柄な新婦のサイズではなかった。サイズを細かく尋ねられてからの依頼だったが、美しく着こなすために七実はジムに通い、足のエステにも行った。控え室でドレス姿の七実を見て新婦は息を飲み、写真を撮っていいかと尋ねた。サングラスをかけた写真を許可すると、夫が撮影してくれた。夫は写真を撮りながら美咲に、よかったねと何回も言った。
自分の作ったドレスを見たいだけならモデルに頼めばいいし、幼なじみなどということにせず、親族にも素直に言えばいいのにと思ったが、そこは追及しない。詮索されるのが面倒なのかもしれない。
共通の知り合いがいない設定のほうが、演じるのには楽だ。
結婚披露宴はすばらしかった。七実は無口な幼なじみになりきって仕事を果たした。
別館ロビーで時間をつぶしながら、七実は新婦の美咲に、ドレスをクリーニングして返却するので、送り先と到着希望日を教えてほしいとメールを打った。
住所は知っていたが、確実に本人が受け取れる時間のほうがいいだろう。
返事は来なかった。二次会もあるし、新郎新婦は忙しいので仕方がない。
打ち合わせと現場が違っていたら現場に合わせる。臨機応変が七実の主義だ。なんでも仕方がないと思うようになったなあ――思いながら人のいない方向へ歩いていたら、ロビーの向こうから声が聞こえてきた。
「――ここ、天天石鹸が引き出物に入ってるのかな」
話しているのは女性だった。七実と同じか少し上――二十代の後半くらい。服装がカジュアルなところをみると、結婚式の来客ではない。彼女は横にいる長身の男性と話している。
「カタログにはなかったけど、持ち込みでなんでも引き出物にできたと思うよ。なんで?」
「紙袋を持ってた人がいたから。天天石鹸いいよね。なんでも使えてよく落ちる」
「あすみはなんでもいいって言うよな」
あすみと呼ばれた女性は、はきはきと話していた。カジュアルなワンピースが、茶色い髪に似合っている。ふたりとも礼服ではない。
そういえば今日は式場内で、ブライダルフェアをやっていたのだった。ふたりは会場から出てきたところらしい。つまり婚約者同士ということか。あすみとその彼氏には、長く交際した男女特有の、リラックスした雰囲気がある。
天天石鹸は普段使いとして人気の石鹸だ。七実ももちろん使ったことがある。いつどんな客が来てもいいように、化粧品はひととおり試している。
安価で良い石鹸だと思うが、確かに結婚式の引き出物としては珍しい。
七実が持っている紙袋は、ずっしりと重かった。服飾関係の本などが入っているようだ。最近はカタログをもらうことが多いが、これはそうではない。まあまあ大きな結婚披露宴だった。
メールの返事は来なかった。もう披露宴の出席者たちは移動しているだろう。そろそろタクシーに乗るべく、正面玄関に足を向けたところで、頭上から声がした。
「――あ、いたいた、ななみちゃん!」
七実はぎくりとした。
男性の声である。ロビーにある大きならせん階段の踊り場だ。男性ふたりが七実を見つけて駆け下りてくる。
「ななみちゃん、ですよね。美咲さんのご友人の。さきほどまで結婚披露宴に参加されていましたよね!」
眼鏡の男性が声をかけてきた。
服飾関係者らしい、やや変わった形のスーツを着ている。考えるまでもなく、さきほどまでの披露宴に出席していた新郎新婦の友人だ。披露宴のテーブルは離れていたが、顔を覚えている。この眼鏡の男性は、食事のときにわざわざ、ワインボトルを持って七実のところまで来た。
「――はい、まあ」
七実はしぶしぶ答えた。新婦手作りのドレスを着ている状態で否定できない。着替えを持参して、さっさとトイレでドレスを脱いでしまえばよかったと後悔した。
披露宴が終わってから時間が過ぎていたので、油断した。
これは、結婚披露宴に出席するときの心得の、上のほうにあるやつだ――と思う。
七実がレンタルフレンドであることを知らない親族たち、友人たちに声をかけられること、新郎新婦について聞かれること――とりわけ独身の新郎友人たちの目にとまることには気をつけている。雑談であっても気は抜けない。「松」の依頼のときは、レンタルフレンドであることがばれるのを避けなければならない。これまでのところ、七実は失敗したことはない。
既婚者を装えばよかったが、ゴシック調のミニドレスに結婚指輪は合わなかった。
七実は注意深く、依頼された友人役、ななみの設定を思い出す。二十五歳。新婦とは小学校のときの知り合い。とはいっても学校は違い、偶然、公園で知り合った。可愛いドレスが大好き。父親の都合で引っ越すことになり、新婦にさよならを言えないまま、交流が途切れてしまった。最近になってSNSで消息を知って連絡を取り合い、結婚式に呼ばれることになった。
「――あ、すみません。そういうのじゃないんです。俺……ぼくは、山本といいます。ちょっと不思議だったものだから。まさか、本当にいたなんて」
眼鏡の男は言った。隣の男性がうなずき、慌てたように額の汗を拭う。
「本当にいたなんて、とは?」
七実は無邪気を装って尋ねた。
この際、愛想は封印しようと決める。不快そうにして、さっさと去ってしまおう。エキセントリックな女性という設定なのだから許されるだろう。相手が怒るかもしれず、友人の性格がよくないと新婦が責められるかもしれないが、レンタルフレンドであることがばれるよりもましだ。
「つまり……本当に、ななみちゃんは、美咲さんの幼なじみなんですか」
「そうですね。会ったのはとても久しぶりでしたけど。それがどうかしましたか」
わかりやすく迷惑そうに言ったが、山本はひるまなかった。
「でも、そのドレスは、美咲が作ったものですよね?」
「今日の結婚式のために、美咲ちゃんからプレゼントされたんです」
「細かいことを聞いていいですか。――小学校のときの友達だっていうけど、卒業アルバムを探しても、該当する人がいないんですよね。美咲のお姉さんも、今日初めて会ったって言うし」
「小学校は美咲ちゃんと違うので」
「どこなんですか。美咲からはちょくちょく話に出てたけど、どうしてこれまで隠れていたんですか?」
「そういうの、教えなくてはいけないことですか。知りたいなら美咲ちゃんに聞けばいいと思います」
七実は語気を強くした。
山本は数秒黙った。
今日の七実は実年齢よりも幼く、あどけない雰囲気である。ドレスに合わせて、事務所に所属している凄腕のヘアメイクに仕上げてもらった。披露宴の最中も、こういった場に慣れていない風を装い、ほとんど喋らなかった。山本は、七実が反論してくるとは思っていなかったのに違いない。
「――いや、だって、美咲は詳しいことを教えてくれないから。結婚式にも絶対に来ないと思っていました。いつも、幼なじみの子のためにドレスを作ってるって言ってたけど、まさか本当にいるとは思わなくて」
「――美咲ちゃん、可哀想。信じてもらえなかったんだね」
七実は、ぽつりと呟いた。
内心、なるほど思っている。
事情をうっすらと察した。美咲は、今は離れてしまった幼なじみの女性を忘れられず、彼女のためにドレスを作っていた。彼女は、服飾家、デザイナーとしての美咲のミューズなのだろう。
だが本当の彼女は、結婚式には来られない。連絡が取れなかったのか、最初から美咲の想像の産物なのかはわからないが――だから美咲は、代わってドレスを着てもらうべく、レンタルフレンドを使うことにした。
美咲は、まわりには、彼女が――ずっと話していた幼なじみが、結婚式に来ると告げている。それがななみだ。
そしてこの男は、七実が、美咲を疑っている。美咲が嘘をついていると思っているのだ。
一瞬のうちに悟ると、七実は山本に向き合った。
「ごめんなさい、わたしは自分のことを話したくないんです」
七実はゆっくりと言った。ななみは自分のことを喋らない。ミステリアスな女の子だ。
「でも、結婚披露宴には参列したわけでしょう」
「それは美咲ちゃんだからです。わたしは美咲ちゃんが大好きだから」
「大好きって言っても、これまでぜんぜん会ってないんでしょう?」
「美咲ちゃんのドレスを通じて会っています」
こうなったらエキセントリックに徹する。不思議ちゃんになる。美咲が何かを言われたら、ななみちゃんは昔からおかしかったということで乗り切ってほしい。
「美咲もそう言って、何も教えてくれないんだなあ。――もしかしてあなた、美咲から頼まれたモデルさんだったりしませんか?」
山本はしたり顔で言い、七実は本気で苛立った。
この男は、どうして美咲の幼なじみが本当にいるのかどうか気に掛けるのか。実在していなかったらどうだというのだ。ミューズが生きていようがいまいがドレスは素敵だし、夫は承知しているのだし、美咲が幸せそうだったのだからいいではないか。
――と思っていたら、急に女性の声で遮られた。
「――あのー、すみません。嫌がっているみたいなので、やめたらどうですか」
七実は、声の方向へ顔を向けた。
申しわけなさそうに声をかけてきたのはあすみだった。
天天石鹸いいよね、と言っていた女性だ。隣にはあすみの恋人らしい、長身の男性がいる。
ロビーのソファーにも、もうひとり女性がいた。つやつやした黒髪が肩にかかっていた。横を向いているが、こちらに注意を払っていることはわかる。
「嫌がっている? いやぼくたちは別に、友達と話していただけです」
「いえ、友達ではないです」
山本の声にかぶせるようにして、七実はきっぱりと言った。男性の友達は受け付けていない。彼女の助け船に甘えた。
「――でも、披露宴にいたわけだし。――だったら、これから二次会どうですか」
「山本、いいから」
形勢不利を悟ったらしい、もうひとりの男性が声をかけた。彼はこれまで喋らず、山本と七実の話を伺っていた。彼が、ななみを不思議ちゃんだと吹聴してくれることを祈る。
山本は、もうひとりの男にひきずられるようにして行くと、七実はあらためてあすみに向かいあった。
「ありがとうございました。助かりました」
七実はあすみに礼を言った。
「こちらこそすみません、お節介かと思ったんですけど」
あすみはほっとしたように息をついた。
「あたしの友達で、結婚式で逃げちゃった子とかいるんですよ。昔のこととか、簡単に聞いちゃいけないと思います。本人にとっては辛いことがあるかもしれないんだし」
友達。七実はあすみの言葉ににこりとする。あすみにはたくさん、疑いようのない友達がいるのだろう。
ソファーに座っていた女性が、無言で立ち上がった。――おそらく彼女も、七実と山本を見守っていた。声はかけてこなかったけれども。
「――天天石鹸、渡してきた。カタログもふたつもらってきたよ」
少し離れたところで、彼女に、婚約者らしいらしいほかの男性が声をかけてくる。
「ありがとう。あとは電話でやろう。太陽が好きなのがあったら決めていいよ」
「了解。沙名子も一応見てくれよ。絶対に迷うよ。面白いから」
「うん。頑張って迷ってみるわ」
ふたりは笑った。これまで結婚式場で見た何組もの男女と同様、穏やかで幸せそうな婚約者たちだ。
あすみも沙名子も幸せになりますように、と七実は祈り、ミニドレスの裾を翻してロビーを横切る。
正面玄関に向かっている途中で、メールが入っているのに気づいた。
――ドレスは星野さんに差し上げます。とてもよく似合っていたので。心をこめて作りました。着ていただけたら嬉しいです。今日はありがとうございました。
美咲からだった。何かに吹っ切れたような、明るい文面である。
七実は、最近会ったばかりの幼なじみの幸福を心から願い、タクシー乗り場へ向かって、ゆっくりと歩いていった。
【つづく】
※この続きの『GIRLS TALK2』は、『派遣社員あすみの家計簿4』(小学館文庫/11月6日発売)のオビにある二次元コードから読めます。