恋愛事変 ~謎解きの助手も漫画家アシスタントの仕事なんですか?~

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 漫画家アシスタントの仕事はにわたる。
 ネームを基にパースを取って背景を描き、漫画制作ソフトを使って3Dモデルを配置し、通行人や同級生などのモブキャラクターを描き、トーン・ベタ・カケアミなどの仕上げ作業をする。
 絵を描く以外でも、ポーズを取って絵のモデルをしたり、写真を加工することもある。
 もっと絵に関係のないことだと、部屋のそうやご飯を作ってあげたこともある。これは別に頼まれたわけじゃないけど。
 でも、謎解きの助手をすることになるなんて、あたしは考えたこともなかった。
 昼過ぎ、十三時、もりさんの自宅兼、職場のマンションへ行き、インターホンを鳴らす。返事がない。出かけてるのかなと思いながら、預かっていたあいかぎを使って玄関のドアを開ける。クーラーの冷気がふわっと出迎えてくれた。もう十一月なのに、外は全く秋じゃないからありがたい。
「あー、今日はそういう感じなんすねぇ」
 玄関のくつが散乱していた。パンプスのつまさきが家の中を向いているし、スニーカーやブーツは、ち取られたみたいに引っくり返っていた。
「お疲れさまですー、宇佐森さーん、入りますよー」
 声をかけながら、リビングに通じるドアを開ける。
 2LDKの家は広々とし、しょだなや観葉植物が並んでいてお洒落しゃれで清潔感がある。棚に置かれた鹿のつのは、あたしの部屋にあると拾ってきちゃったのかなと思われそうなのに、この部屋にあると素敵なインテリアだ。
 宇佐森さんの定位置はリビングの奥にあるコの字型の作業机の前だ。原稿や画材に囲まれながら、いつもこっちを向いて作業をしている。
 だけど今日は、手前にある応接用のながに座って書類を読んでいた。
「お疲れさまです」
 もう一度声をかけると、はっとした様子で宇佐森さんが顔を上げた。目と口を何度も開けたり閉じたりいている。
「あ、え、あ、火曜?」
「の、十三時ですね。鳴らしたんですけど、返事がないんで入っちゃいました」
「ごめん、手紙をしてて、あ、っと、あるけど背景の、今これしてて」
「雇用主に言うことじゃないけど、げんが崩壊してますよ」
宇佐森さんがき込みながら右手を向けてくる。
「ごめん、きゅうちゃん。最近、人間としゃべってなかったから」
「んな、山奥の熊みたいな」
「熊は、喋らない、と思う」
 宇佐森せい西さい、二十九歳、青年漫画誌で描いた『ばくたに』がヒット、テレビアニメ化・実写映画化もした。インタビュー記事はあるけど、宇佐森さんはメディアには出ず、シーツをかぶったお化けみたいな自画像同様に、個人情報の多くが隠されている。
 漫画の読者は宇佐森さんがどんな人だと思っているんだろう?
 あたしは、宇佐森青西のファンだ。それもかなりの。本はどれも読み込んだし、たくさん模写もした。
 あたしの勘では、女性じゃないかなとにらんでいた。ヒロイン二人の気持ちがリアルだったからということもあるし、ちょっと願望もあった。活躍している漫画家が、自分と同じ女性だったら嬉しいな、と。それに、できればお洒落で格好良い人だったらいいな、とも思った。
 背が高くてりんとしていて、紅茶とか大きいアクセサリーとかが似合う、そういう人であれ! と。
 担当編集者にアシスタント先として紹介され、宇佐森さんと初めて会った時の印象は、「想像以上だ!」だった。
 宇佐森青西は、すらっとしていて背が高く、肌も白くてとうみたいで、あたしよりもずっとしょうノリが良さそうだった。ゆったりとしたニットが大人っぽいし、履いてるスラックスも足も細長い。肩の下あたりまで伸びた黒髪も、シルクみたいにつやつやとしていた。
 もくなチェロ奏者と言われても納得、海外拠点の舞台俳優と言われても納得、雪の多い里で静かに狩りをして暮らす意味深な美女と言われても納得、美術品を狙う怪盗(普段は変装をして地味な銀行員をしている)とかでも納得、いや、そんな妄想をしてしまう。
 金髪プリンで背の低いあたしと違って、漫画も面白くて優しくて、かんぺきじゃないっすか。
 でも、そんな宇佐森さんもおかしくなる時がある。
 目の前の宇佐森さんは白いぶかっとしたパーカーにスウェット姿で、前髪はヘアピンで留めてぼさっとした髪は後ろの適当な位置で結っている。それが適当過ぎて、まとめきれなかった後ろ毛がながどりみたいになっていた。前に会った時よりも、ちょっとせてる。ちゃんとお風呂に入っているのかも心配になってきた。
 あたしはこれを、「人間やめちゃってる期」と呼んでいる。
 漫画家がおかしくなる時、それはぺーぺーのあたしも売れっ子の宇佐森さんも同じだ。
 ネタが出ない時と、しんちょくが悪い時の締め切り前だ。
 今日は後者だろうなあ。締め切り前だし。
 テーブルの上には飲んだペットボトルが並び、ねこけみたいになっていた。目をやると、シンクには洗ってない皿が積んである。台所でコップに水をそそぎ、自分のリュックサックから携帯食品を取り出す。
 宇佐森さんに手渡すと、携帯食品を両手で持って、もそもそ食べ始めた。小学校で飼ってたウサギのモモスケを思い出す。
 宇佐森さんが水をぐいっと飲み干し、ふーっと息を吐いた。
「ありがとう、九ちゃん」
 大きな眼鏡めがねをかけ直し、態度だけはいつもの涼し気な人間モードに戻っている。
「や、いいんすけど。そんな詰まってる進捗でしたっけ」
「別の仕事が降ってきてたの思い出して」
 コミックスの修正作業や表紙とかの時期でもないけど、何かあったっけ。
「『コハク』が三十周年でしょ。WEBとかアプリで企画をやるんだって。作家持ち回りで読者からのお手紙に返事をする、人生相談みたいな」
「へー、あ、そういえばやってましたね。『男子にバレンタインチョコをあげたいから、オリーブ先生のとっておきを教えてください!』っていう中二女子に、『貴方あなたにはあおやまはちみつショコラを教えるけれど、中学男子にはヤンヤンつけボーで十分』っていうのは笑っちゃいましたよ。オリーブ先生、恋する乙女おとめが好き過ぎるでしょ」
「パティシエ漫画を描いてるから詳しいはずって思われてるんでしょうね。あじゃえもん先生のところには、心霊絡みの相談が多いんですって。霊感ないのにどうしようって困ってるみたい」
「漫画家なんて人生博打ばくち打ちに相談乗らせようってのが、そもそもな企画だと思いますけどね」
動画とかSNSの双方向性みたいなものを試しにやってみよう、ハネて売上につながれば! って算段なのかもしれない。ま、でも宣伝は大事だしね。
「それで、宇佐森さんにはどんな相談が来てるんですか。やっぱ恋愛ですか?」
 宇佐森さんが、まゆをひそめて唇を横に伸ばした。珍しく子供っぽい。
「そんな顔しないでくださいよ。『エリマリ』は恋愛要素多かったからそうかなって」
「『エリマリ』は恋愛モノじゃなくて、成長たんとして描いたの。女の子が強く生き抜く姿を、せんこうのような強い生き様を。あ、強いって二回言っちゃった。だめね、まだ言語野が」
 かぶりを振って、宇佐森さんが続ける。
「九ちゃんの言う通り恋愛相談が多いんだけど、読者のお悩みがどれも面白くて。それで、昨夜からずっと読んで考えこんじゃった」
「あー、それで人間に戻り忘れたんですね」
「ごめんね。着替えて掃除して準備しとかなきゃ、って思ってたんだけど」
「いいですよ、やっとくんで。で、宇佐森さんはどんな相談に答えるんですか?」
「『武器にして戦うと強そうな都道府県の形はどれだと思いますか?』っていうのにしようかな」
「恋愛関係ないじゃないですか! それにそんなん青森一択ですよね。なんで恋愛相談を答えてあげないんですか」
「私の不用意な発言で、その人の人生が変わったら嫌じゃない」
 確かに、好きな漫画家からの言葉は影響力を持つだろうね。でも、んー、とあたしは首をかしげる。
「漫画を読んだ読者に、影響を与えることだってあるんじゃないですか?」
「漫画には覚悟があるから」
 宇佐森さんが、びしっと言い放った。
 姿勢や声色、たとえ人間やめちゃってる期であってもそこには揺るがない信念がうかがえる。
 真面目まじめですねえ、と少し冷やかしたくもなるけど、あたしは先生のこういうところも尊敬している。
「人生相談なんて、相手が誰かによって最初から何を言われたいか決めてるな気がしますけどね。背中をってあげりゃいいんですよ」
「蹴っちゃだめでしょ。せめて突き落とすくらいに」
 さて仕事の準備をするねと言いながら伸びをして、宇佐森さんが部屋の奥にある自分のデスクに戻っていく。その時あたしは、ソファのすきに紙が挟まっていることに気が付いた。抜き出し、手に取る。
 人生相談がプリントアウトされた紙だ。宇佐森さんはずっと座っていたから、挟まっていることに気付かなかったんだろう。
 目を走らせていたら、気になる一文が飛び込んできた。
「『わたしは一体誰を好きになったのでしょうか?』ですって。妙な相談ですね」
 ねえ宇佐森さん? と目をやると、眠たげにしていた宇佐森さんが目を見開いていた。
「もう一度言って」
「え?」
「もう一度。なんて?」
「『わたしは一体誰を好きになったのでしょうか?』」
 すると、宇佐森さんは、香りをゆっくり味わうみたいに大きく息をした。直後、「ふふふふふ」と愉快そうな声をらし、デスクのそばを離れた。ステップを踏むみたいな、弾んだ足取りで、こっちにやって来る。
「おかしいね。ふふふ、面白い。その相談、詳しく聞かせてちょうだい」
 とおまき九、十九歳、宇佐森さんの元でアシスタントをして二年目。
 仕事人モードも人間やめちゃったモードも知っているけど、こんな宇佐森さんは初めて見た。
 甘いお菓子を前にした子供と言えば可愛かわいげがあるけど、爛々らんらんとしている目は肉を前にした獣のそれだった。
「ねえ、早く。依頼文を!」

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「宇佐森先生
 初めまして。いつも、先生の物語を楽しく読み、そして勇気づけられています。
『絵里万里砂漠谷』はボロボロになるまで何度も読み返しています。私は特に怖いもの知らずの万里が好きで、境遇や運命に負けない姿が本当に格好良いと思っています。
 今日は先生にご相談したいことがあります。
 わたしは(りん)()(あめ)さんという方が書いている「(なぎさ)のエチュード」という、WEB小説が好きで更新されるのをとても楽しみにしていました。
 主人公の(ふう)()が好きなのですが、とにかく一生懸命な女の子で、素敵なんです!
 (はる)(ゆき)という男の子の気を引くためにピアノを始めるんですけど、頑張る姿に胸を打たれて、(あき)()という意地悪なライバルに勝つために限界を越えようとする演奏会にも勇気づけられました!
 主人公の風花を陰ながら支えていたキャラクターがいるのですが、わたしはこのキャラ、モクレンさんが誰なのか気になっていました(春幸か秋庭だと思います)。ちょうど、わたしも私生活で悲しいことが立て続けにあって(つら)かったので、モクレンさんの言葉に救われていました。恋をしていると言ってもいいくらいです。
 そんなモクレンさんの正体がわかる、いよいよクライマックス!
 というところで、更新が途絶えてしまいました。去年の十二月一日なので、もうすぐ一年です。作者の林檎雨さんに何かあったのかな、と心配しているのですが、ずっと気になっていることがあるのです。
 他の方の書いた小説を、宇佐森先生に相談することも筋違いかと思うのですが、林檎雨さんの物語はどこか宇佐森先生の物語に通ずるものがある気がしているということと、尊敬する宇佐森先生ならばきっとわかることがあるのではないか?と、筆を取りました。
 わたしは一体誰を好きになったのでしょうか?
 宇佐森先生の知恵をかしていただけますと幸いです。
『渚のエチュード』の話ばかり書いてしまいましたが、もちろん、宇佐森先生のことも先生の漫画も大好きです!読み始めた理由は「エリマリ」と同じ(よこ)(はま)が舞台だったからです!
 お忙しいと思うのですが、できれば十二月までにお返事いただけると助かります。
 どうかよろしくお願いいたします!

P(ペン)N(ネーム) (りょく)(ちゃ)(けい)(かく)

 依頼文を熟読していた宇佐森さんが、コーヒーの入ったカップをそっとテーブルに置いた。コーヒーはあたしが読み終わるのを待ってる間に淹れといた。
「九ちゃん、悪いんだけど推理の呼び水になってくれない?」
「謎解きの助手も漫画家アシスタントの仕事なんですか?」
 (かん)(はつ)いれずにツッコミを入れてしまった。
「それもそうだね。いいわ、私が考える。こんな楽しそうなんだし」
「でも宇佐森さん、締め切りは?」
 宇佐森さんが、数秒黙り込んで、指を二本立てた。ピース?
「上乗せ」という言葉を、「ああもう、いいですよ」と(さえぎ)る。
「や、宇佐森さんは雇用主ですけど、そうなんでもかんでも金の関係ってのは寂しいですよ」
「九ちゃん」
「ってわけで、パフェでいいですよ。(せん)(びき)()ので」
 でいい、というには高価だけどまだ頭が冴え切っていない宇佐森さんは「ありがとう!」と目を輝かせていた。丸め込めたけど、良心が痛むぜ。
 十一月だし、和栗のパフェにしようかな。
「まあでも、わかりますよ。相談者の緑茶計画さんの気持ち。()()マリン先生が去年の十二月十三日に亡くなったじゃないですか。『おやすみノスタルジア』の続きが読めないかと思うと、あたしの世界が夜になっちゃいましたよ」
「命日までよく覚えているね」
「母の誕生日だったので」
 逆に張り切らないと泣いてしまう、そう思ってでかいケーキを買って母を喜ばせた。
「というか九ちゃん、江午先生のファンだったの?」
「そりゃあもう。学校サボってサイン会行くくらいには」
「私、江午先生のところでアシスタントしてたんだよ」
「マジですか! や、でも、宇佐森さんも影響受けてるんじゃないかとは思ってたんですよ」
 宇佐森さんのところでアシスタントを始めてもうすぐ二年になる。それでもまだ、知らないことがあったとは。「えー、江午先生ってどんな人なんですか?」
(しん)()な人だったよ。亡くなる一週間前に倒れて入院してたんだけど、病室にもタブレットを持ち込んでた。仕事人というかワーカホリックというか。漫画を描いて、趣味で小説を書いたり作曲したりしてたね」
「はー、創作の鬼って感じですね。楽器は何ができるんですか?」
「詳しい話は後でね。まずは、この謎を解いちゃおう」
 こりゃちゃっちゃと謎解いて仕事を終わらせてパフェ(つつ)きながら、近い存在だから知ってるこぼれ話を聞くっきゃないね。
「でも、実際答えは簡単だと思いますよ。宇佐森さんが依頼文読んでる間に、『渚のエチュード』をぱらっと読んでみたんですけど、すぐにわかりました」
「聞かせて」
「要は、主人公を応援してるモクレンさんって誰? 春幸と秋庭のどっち? ってことだと思うんですけど、最終的にヒロインとくっつく正ヒーローってことですよね。ちょっと意地悪な秋庭は当て馬ですよ。それこそ、『おやすみノスタルジア』で養われたあたしの当て馬好きセンサーがそう言っています。モクレンは春幸の方です」
 どうですか? と目線を向ける。宇佐森さんは目を丸くしていた。
「主観以外の何物でもないのに推理っぽく披露されびっくりしちゃった」
 宇佐森さんは厳しいな。わかりっこないんだから、説得力があればいいじゃん。
「九ちゃんが今、何を考えてるか手に取るようにわかるけど、違うと思うな。だって『渚のエチュード』は創作物だから」
 そんな当たり前のことを申されましても、と困惑してしまう。けど、あたしはアホだと思われたくなくて、(あい)(づち)を打ってみる。「なるほど?」
「九ちゃんの漫画で、主人公が最後のバトルで勝つのか負けるのか、決めるのは誰?」
「そりゃあ、あたしですよ」
「そう。覚悟を持って決めるのは作者。それは絶対。『渚のエチュード』でも同じで、作者の書くことが正解になる。例えば、突然忍者が『(せっ)(しゃ)がモクレンでござる』って現れる展開になったとしても、それが正解になる」
 作者が神で公式が絶対、ということか。二次創作の同人誌を描いてる友達が似たようなことを言っていた。
「でも宇佐森さん、そうしたら答えなんて出なくないですか?」
「とも限らないよ」
 そう言って、宇佐森さんがタブレットをこちらに向けてきた。

@緑茶計画
「風花は一体どこに向かうんですか!!!
 モクレンさんは一体だれ!!!
 春幸くん。。。うぇーん、みんな幸せになってもらいたよー!!
 早く続き読みたいです‼️‼️‼️‼️」
@林檎雨
「やったー! いつもありがとうございます!
 と言っても、最後の三行に書いてあることが全てですよ~
 ここだけ読んでもわかると思うので、じっくり一週間考えてみてください笑
 クライマックス、楽しんでもらえますように。」
@緑茶計画
「わたしゃ林檎雨先生の(てのひら)の上なんや。先生はお(しゃ)()さまやで」

 それは、最新話に寄せられていたコメント(らん)でのやり取りだった。
「わかった?」
「ええ、じっくり読まされるとオタクっぽい文章は、こう、共感性(しゅう)()がありますね」
「じゃなくて、林檎雨さんは、最後の三行だけ読んでもわかるって書いている。これはつまり、ミステリ小説で登場する
 間を置き、宇佐森さんが不敵に笑う。
「読者への挑戦」

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『消える火を見守るのは、まるで孤独な儀式だった。
 空に立ち上る煙を見届け、立ち上がり、バッグに手をかける。
 対岸のにぎやかな遊園地が、なんだかとても遠い。』

 最後の三行には、そう書かれていた。
 まゆをひそめてしまう。もっと具体的なヒントがあると思っていたのに、これじゃあまるでわからない。ミステリーとなぞなぞは違うでしょ。
「宇佐森さん、当てが外れましたね」
 テーブルを挟んで反対側に座る宇佐森さんをうかがう。しんがんを見抜こうとする鑑定士みたいに、鋭くりょ深いまなしをタブレットに向けていた。
「諦めるのは早い。林檎雨さんは、三行読めばわかるって書いている」
「でも、これはノーヒントじゃないですか。キャラの名前だって出てないし」
「九ちゃん、私が漫画家にとって大切だと感じていることを教えるね。私のしょうの江午先生にも言われたことなんだけど、それは
 宇佐森さんがタブレットから顔を上げる。
 漫画を描いている時と同じくらい真剣な表情をしていた。
「想像力だよ」
 そして間髪いれずに、宇佐森さんがタブレットにタッチペンを走らせていく。線が生まれ、絵となり、ものげな顔をしてほおづえをついている女性が描かれた。速い、上手うまい、だけではなく技術に息を飲む。
「この人の視線の先にあるものは何か、悩んでいることは何か、嬉しいこと悲しいこと、コンプレックスや幸せな瞬間、そういう人間の人生に興味を持って想像をすることが大事なの」
 お説教というよりもさとすような口調で、どこか励まされているような気持ちになった。
 視線で、どうする? と訊ねられ、あたしはもう一度ラスト三行を読み直してみる。呼び水を与えるのもアシスタントの仕事なら、しっかり仕事をこなして高いパフェをおごってもらおう。
「横浜が舞台で、対岸に遊園地っていうことは、かなざわはっけいの海の公園だと思うんですよね。子供の時に潮干狩りとかバーベキューしたんですけど、あそこは向かいがシーパラなんで」
「私もそう思う。他に気になることは?」
「気になることは、うーん、物語の都合とかもあると思うんですけど、主人公の風花はこれからどこかへ向かうわけじゃないですか。なのに、をしてるってのはゆうちょうでは?」
「良い視点だね」
 められるとは思ってなかった。素直に嬉しい。
「風花は急がなければいけないのに、すぐに向かわない理由があるのかもしれないね。例えば早く行っても映画は上映時間にならないと始まらない」
「あ! だったら、春幸ですよ。入院してるから。去年、弟がもうちょうやって見舞いに行ったんですけど、十五時になるまで面会できませんでしたよ」
「でも、春幸は意識不明になっているから、お見舞いに行ってもすることはない。だからその線は薄いんじゃないかな」
「え、いやいや。大切な人なら目が覚めた時に一番に声をかけたいし、心配だからそばにいたいじゃないですか」
「いつ目が覚めるかわからないのに? その間、手持ちじゃない?」
 てっきり冗談を言ってるのかと思ったけど、宇佐森さんはきょとんとしている。
 あれ、あたしが変なこと言った?
 続く言葉が見当たらず、困惑していたら、宇佐森さんがせきばらいをした。
「なんちゃってね。うそうそ。じょうだんじょうだん」
 棒読みにしか聞こえなかったけど、怖いから追及できない。
「あと、何を燃やしたのかもヒントになるんじゃないですか。『儀式』って言ってますし、ただの焚き火じゃないと思うんですよ」
 声にしながら、頭の中でアイデアをあさる。だとしたら、なんだ。『夢』からつながる言葉はあるか? 夢への扉、夢への切符パチンと指を鳴らす。
「航空券ですよ! 絶対そう! 秋庭が待つ海外への航空券!」
 口にしてみると、それが揺るがない真実に思えてきた。絶対そうじゃん。どうですか?
「違うと思うな」
「どーしてですか。宇佐森さんは意地でも、風花を国外に追いやりたいみたいですねえ」
「だって焚き火の後始末はどうするの?」
「え?」
「九ちゃんは、風花がどうやって焚き火をしたと思ってるの?」
「そりゃあ、海岸で枝を重ねてさいだんみたいなものを作って、マッチを擦って火をくべた、みたいな感じじゃないですか?」
 だって絵的に映えるし。
「砂浜に直火をして、後片付けもしないで、帰る。風花はそんな子かな?」
「そ、れ、は、あーキャラがブレますね。そんなマナー違反する子は、緑茶計画さんの推しじゃないですよ」
 あたしは一体、緑茶計画さんの何を知ってるんだよって感じがするけど、間違ってない気がする。緑茶計画さんは平日毎晩十一時過ぎの電車に乗って、この時間は空いてていいねなんて自分に言い聞かせながら、更新された『渚のエチュード』を読んで、真っ直ぐな風花にやされたり鼓舞されたりして、電車の中で涙ぐむすさんだOLなんじゃないかと妄想している。
「それに、これは焚き火じゃないと思う」
「焚き火ですよ、本文にも」
 ほら、とラスト三行の火に関するところ指さす。
『消える火を見守るのは、まるで孤独な儀式だった。』
『空に立ち上る煙を見届け、立ち上がり、バッグに手をかける。』
 本当だ。焚き火とは言ってない。
「え、じゃあなんの火なんですか?」
「公園だから焚き火は禁止だろうね。でも九ちゃんはバーベキューをしたことがあるんでしょ?」
「ええ、レンタルしたコンロとか炭使ってやった記憶がありますよ」
「その煙じゃないかな」
 片付け途中のバーベキューのコンロを見て、風花が衝動的に航空券を燃やすなんてことはないねえ。見つかったら「あんた何してんだ!」って怒られるだろうし。そんなヒロイン見たくないし。
 でも、じゃあ、なんで林檎雨さんは書いたんだ?
 風景描写には意味がある。日差しには温かさが、枯れ葉にはさみしさが、主人公の気持ちが視線を通して運ばれてくるものだ。
 焚き火の火が消える夢が消える? 命が消える?
「意味があるんじゃないか? って思うとなんでもそう思えてきちゃいますね」
「私は重要なヒントはバッグにあると思う。大きな、キャリーバッグを持ち歩いている、つまり旅立とうとしているってことだね」
 それは答えみたいなもんじゃん! 見落としてたのか、あたしの目はふしあなか!
 慌ててタブレットに視線をわせる。けど、どこにもキャリーバックのキの字もない。
「そんなん、書かれてないじゃないですか」
「九ちゃん、そのリュックを背負ってみて」
「へ?」
「で、その動作をさ、私がいいって言うまで実況してみて」
 それも漫画家アシスタントの仕事なんですか? といぶかしみながら、ソファにもたれている黄色いリュックサックに目をやる。
「ええっと、ちょっと角がげてて恥ずかしいなあって思いながら、リュックに手を伸ばして、持ちあげて、背負いました。なんか重いなああ、昨日帰りに買ったシャンプーの詰め替え袋を入れっぱなしにしてたらかって思い出してる人の顔をしてます」
「ふ、ふふふふふ」
 宇佐森さんが、口元を押さえて声を殺して笑っている。恥ずかしくてかっと顔が熱くなった。
「なんすかなんすか!」
「ごめんね、可愛かったから泳がせちゃった」
「なんなんすか!」
「でも、九ちゃんは『手を伸ばして、持ち上げて』って言ったよね」
「ええ、言いましたけど!? 宇佐森さんのことも持ち上げましょうか?」
「やっぱり小さいバッグだったらそうなるね。でも、小説では『手をかける』って書かれてる。
『持つ』じゃなくて手をかけるパーツがあるってこと。一体それはどんなものか? 例えば、キャリーバッグとかスーツケースについている、伸縮するハンドルとかじゃないかな」
「あー」
 からかわれていたことを忘れ、感心して声がれてしまう。そんなこと考えたことなかったけど、確かに言い回し一つでバッグの種類がわかってしまった。
 宇佐森さんったら頭が良い!
「でもでも、キャリーバッグには入院生活に必要なものが詰まってるのかもしれませんよ? 着替えの服とか」
「恋人でも家族でもない風花が、着替えの服をどうして持ってるの?」
 確かに。
「というわけで、モクレンの正体は秋庭なんだけど
 あたしが尊敬の眼差しを向けていることに気付く様子もなく、宇佐森さんはさらりと口にした。
「ちょ、ちょっと! というわけないですよ! 秋庭で確定なんですか?」
「ヒントはリュックにあるから、もう一度実況してみて」
 リュックに手を伸ばしかけて、はっとする。目をやると宇佐森さんが悪戯いたずらっぽく笑っていた。
 無意味に実況させようとしていたな!
 すっかりからかい甲斐がいがある、と思われてしまったみたいで悔しい。優しい先生だと思ってたのに。宇佐森さんの人間味を知れたことはファンとして嬉しいけど、複雑だ。
「大型のキャリーバッグを持ち歩いてて、旅立とうとしている。つまり、入院中の春幸じゃなくて、フランスの秋庭のもとへ向かおうとしているんだよ」
「なんでフランスなんですか? 国内旅行の可能性だって」
「それはさっき九ちゃんが言ったじゃない。『大切な人なら目が覚めた時に一番に声をかけたいし、そばにいたい』って。ただの旅行ならそんな時に行かない」
「それは、そうですけど」
 でも、やっぱり、秋庭は当て馬だと思うんだ、あたしは。読書経験がそう言ってる!
「着替えじゃないけど、何か見舞い用品を詰めてるのかもしれませんよ。ティッシュとかスリッパとかコップとかハンガーとか」
「でも、この時間は夜だよ。目が覚めた時に一番に、を目指すならもっと早くに行くんじゃない?」
 夜? 眉をひそめる。
「夜なんてどこにも書いてないじゃないですか」指摘してから、文章を見直す。やっぱり書いてない。
「夜じゃないなら、その説をあたしは認めませんよ」
 宇佐森さんは右手の人差し指をぴんと立てていた。天に伸びたしなやかな指は、アイデアを呼ぶらいしんのようにも見える。
「風花がいるのは金沢八景にある海の公園だとする。海の向こうに見える遊園地を、九ちゃんは賑やかって思う?」
 思いますよと口にしかけて、しゅんじゅんする。じっと宇佐森さんがあたしを見据えている。ちょっと待って、考えてみて、と促されている。漫画家なのだから、想像をして、と。
 あたしは風花だ。ひたむきで、恋をして自分の臆病さと夢を叶えるための勇気を知った、大学生の女の子だ。
 目の前には砂浜が広がっている。下りる為の階段が伸びており、そこに腰かけている。犬の散歩や家族連れが行き交う中、ぽつんと置かれた屋外用コンロが目に入った。危ないな、と思いながら見つめていたら、目が離せなくなった。
 あの頼りない火は、わたしだ。灯されているのは、自分の夢だ。
 幼い頃から大切にしてきた熱が消え、空に伸びていた煙もすっと失せる。まるで元から何もなかったみたいに、いつも通りの風景になる。
 さあ行こう。孤独な儀式、夢の葬送は終わった。
 そう思って顔を上げる。対岸の遊園地は、まるでしんろうのようだ。立ち去るわたしを気にすることなく、ジェットコースターは動いている。時間は回り続ける。
 遊園地が遠い。海を挟んだ向こう側で、賑やか、賑やか、賑やか?
「いや、違いますね。表現が。別にジェットコースターの悲鳴が聞こえる距離感じゃないし。遊園地の人の姿も遠すぎて見えませんし。なんならこっち側、砂浜の方が賑やかですよ」
「じゃあ、夜なら?」
 パチン、と宇佐森さんが指を鳴らす。
 あたしは再びの砂浜へ。真っ暗な世界、離れたところにある種火が、息を引き取るみたいに消えた。暗闇の中の焚き火だから見入っていたんだ。そのことに納得しながら顔を上げる。
 するとそこには
「そっか、夜の遊園地は電気できらきらしてる。それで、賑やかなんですね」

     4


 宇佐森さんが冷蔵庫の中からパウンドケーキのアソートが並ぶ箱を取り出した。もとまちにあるお店で、よく宇佐森さんのお友達が土産みやげに持ってきてくれる。
 宝石箱じゃーん、という脳内食レポをしながら、お皿に並べてもらうのを待つ。あたしの好きなマロンを宇佐森さんは取り分けてくれた。あたしの食の好みまで覚えてくれたことと、優しさに感動してしまう。
「いただきまーす」
 あたしは鎮座している栗の実をお楽しみにいったんよけてから、ケーキにフォークを入れてほおばる。濃いマロン風味が口いっぱいに広がり、確かな幸せを味わう。
 宇佐森さんはどの味を? と見てみると、神妙なおもちでフォークを手にしたまま固まっていた。
「食べないんですか?」
「どうして林檎雨さんは更新しないのか気になって」
「ふふふ、そのことなんですけどね、あたしにも名推理があるんですよ。これは正直驚くと思いますよ」
「へえ、教えて」
「宇佐森さんも、漫画を描いてて悩むことってあるんじゃないですか? 展開どうしよう、風呂敷を広げ過ぎちゃった、みたいな。林檎雨さんもそうだったんですよ。結末を悩んでて、それで自分が敬愛する宇佐森さんに相談をして、アイデアをもらおうとしたんじゃないですか? そう、つまり相談者の緑茶計画さんは林檎雨さんだったんですよ」
 さあ、あたしをめてくださいよ! と胸を張る。
 直後、宇佐森さんはフォークを伸ばして、あたしのよけてた栗を突き刺した。そのままひょいっと自分の口に入れようと、したところで動きが止まる。
「九ちゃん、どう思った?」
「気が触れたのかと」
「はは、そうだね。ごめん、ごめん」そう言いながら、宇佐森さんから栗が返却された。怖かったね、大丈夫? と案じながら栗を食べる。マロングラッセだ。甘くて美味おいしい。
「お楽しみを横取りされるのは、悲しいものだよねって言いたくて」
「そりゃそうですけど」なんでまた。
「クライマックスってね、言うなればお楽しみだと思うの。自分が描きたいこと、伝えたいこと、核となるものじゃないかな。っていうことは、作者だったら他の人に決められて横取りされたくないはず」
 ああ、それは、確かに。「最初から、普通に言ってくださいよ」
「林檎雨さんのアカウントをのぞいたけど、他にも四つ長編を完結させてる。つまり、完成させる筋肉はあって途中で投げ出すタイプじゃない。それに、自作自演にしては布石が長すぎる。緑茶計画さんは熱心に更新のたびに書き込んでるみたいだしね」
 スマートフォンをいじってページを確認してみる。確かに、宇佐森さんの言う通りだった。
『更新、待ってました! 今日は先輩に嫌みなこと言われて落ち込んだんですけど、風花みたいにココアを飲んで気持ちを切り替えました!』
『毎朝乗ってる電車に、ヘルプマークの方がいることに気が付いて、風花みたいに席をゆずりました!』
『大事な会議があるので、毎日ギリギリ十八時まで準備してたんですけど、『渚のエチュード』で読んだやつ!と思って風花みたいに発表乗り切れました!!』
 更新のたびに、緑茶計画さんはコメントを残し、それに対して、林檎雨さんもお礼や返事をしていた。二人の間にはきずながあるように感じてしまう。
 だからこそ、あたしはなんだか残念だ。
「更新が途絶えた理由、事故にったとか病気で亡くなっちゃったからかなって、あたしはそう思うんですけど」
「そうかもしれないね。ただ、もう少し考えたいな。どうして、林檎雨さんは更新しなかったんだろうね」
 理由がりょのものではないとして、あたしだったら、描いてあげたい。応援してあげたいよ。
「理由が健康面じゃないなら、あたしは許せないです」
「どうして?」
「あたしが漫画を描くモチベは、あたしのためです。れいごとは言いませんよ。誰に頼まれたわけでもないし。それでも、あたしだってデビュー作の読切で読者の人から感想もらった時は、ああ、やっと自分は生まれたんだって嬉しくなりましたよ。『次回作待ってます!』って手紙をくれた人に、待たせてごめん! って思いながら連載目指して戦ってますよ。だから、もったいぶって一年知らんぷりするなんて許せません」
「九ちゃん、想像力」
「それでも!」
 自分語りなんだかいきどおりなんだかわからない言葉を吐いてしまった。宇佐森さんに怒ってもしょうがない。憮然とした顔つきをしてることも自覚して恥ずかしくなり、パウンドケーキを口に放る。味わって食べたいのに、もったいない。
「宇佐森さんは、どうしてまだ考えたいんですか?」
 宇佐森さんは、紅茶にミルクを注ぐ。ふんわりとした香り、優しい湯気が上るマグカップの中に、白が混ざる。柔らかな融合。
「想像力は、私と世界、私と人をつなぎ止めてくれる。風花の夢が少しわかる。大切な人と共に生きたかったっていうことも、夢だと思う。だけど私は人に恋をしたことがないから、人の気持ちがよくわからない」
 突拍子もないことを言われている気がして、目を瞬かせてしまう。
 恋愛漫画の旗手が?
 恋をしたことがない?
 まさか、と反射的に口にするのを堪える。さっきのお見舞いの話は本気で言ってたの? 困惑したまま、耳を傾ける。
「だから、考えることをやめてはいけないと思うの。想像し続けないといけない。人を傷つけて、平気でいられる自分ではなかったから」
 でも、と宇佐森さんは寂しげに目を細める。
「ごめん、これは私の考えだね。九ちゃんの仕事をすぐ用意するから
「あたしも考えます!」
 言葉をさえぎる。
「線引きしないでくださいよ、さびしいな。線を引くのはGペンだけにしましょうよ」
 宇佐森さんがまとっていた、冷たいふんが消えた。
「面白いことを言うね。九ちゃんは、作家に向いていると思うな。でも、林檎雨さんも同じく向いている。悩んでたのかもしれないけど、結末に迷っていたわけじゃないと思うからね」
「何悩むってんですか」
「影響力、じゃないかな」
 差し出された言葉の意味を、判断できずに持て余す。ただ、ずしりと重い。
「感想コメントを読むと、緑茶計画さんは風花だったらって、支えというか、指針にしているように見える。もしかしたら風花の決断が、緑茶計画さんの人生観を変えてしまうんじゃないかって不安になったのかも」
 なるほど、とあいづちを打ちながら思い返す。
「宇佐森さんは『漫画には覚悟があるから』って言ってましたけど、林檎雨さんは、そこまで腹をくくれなかったのかもですよ」
「そんなことはないよ」
「言い切りますね。なんでそんな信頼してるんですか」
「江午先生は、私に作家としての姿勢を教えてくれた人だったから」
 首をかしげる。江午先生のことじゃなくて、林檎雨さんの話をしてるんだけど。
 疑問を投げかける前に、宇佐森さんがあたしの目を見て口を開いた。
「林檎雨さんは、江午先生だと思う」

     5


 衝撃だった。いや、そんな、まさか。
「根拠は、根拠はなんなんですか」
「三つある。一つ目は、さっきも言ったけど江午先生は趣味で小説を書いていた。二つ目は江午先生が倒れたのが去年の暮れ、十二月六日だった。『渚のエチュード』が最後に更新されたのは十二月一日で、コメントに『一週間考えてください』と書いてあるのに八日に更新はなかった。そして、三つ目の根拠は」
 そう言いながら、宇佐森さんはタブレットにペンを走らせた。カチャカチャと音が鳴る。
「RINGOAME、を並び替えると、EGOMARINになる。アナグラムだね」
 ぞわっと肌があわった。
 得も言われぬ、驚きに似た快感が走る。これは、真実に迫ることへの興奮だ。
「すごい。宇佐森さん。や、でも、こじつけとは言いませんけど、まだ確信が」
「そうなんだ? てっきり九ちゃんは作者が江午先生ってすぐに納得するかと思ったんだけど」
「それはまたどうして」
「『おやすみノスタルジア』で養われたあたしの当て馬好きセンサーが、って言ってたから。作者が同じだから、センサーは反応したんじゃない?」
 全てが、カチリカチリと気持ちの良い音を立てるように頭の中で繋がっていく。意地悪な秋庭が見せるいじらしさ、弱さを見せたくないから虚勢を張るのに嘘を吐き通せないその不器用さが、ああ、繋がっていく。
「納得です!」
 全てに落ちたあたしは脱力しながらソファに深く腰掛けて、呆然としてしまう。
 台所に移動して食器を洗い始めた宇佐森さんを見やる。あたしは孫弟子だけど、宇佐森さんにとっては直系のしょうだ。師匠の死、という話題はつらかったんじゃないかな。
 水の音が止み、宇佐森さんがふっと笑い声をもらした。
「九ちゃんの視線から、感情がありありと伝わってくる。大丈夫だよ、ありがとう」
 心配してるのにフォローされてしまった。あたしだってもうすぐ二十歳はたちになるというのに、人生経験が足りなくて、なんて言っていいのかわからない。
「江午先生は高校二年でデビューしてから、ずっとげんえきで描いてた伝説みたいな人だった。たくさんの漫画を読者に届けた。でも、その仕事一筋の人生を倒れた直後にどう思ったのかな。そのことをこうかいして、それで更新しなかったのかな。まあ、それも今となってはわからないのだけれど」
 倒れた江午先生はワーカホリックな人生に後悔し、その一生懸命さを投影した風花を書いた。緑茶計画さんが憧れた先にあるのが、倒れてしまう人生だったら? そう案じた、ということなのかな。
 漫画をがむしゃらに描きたいあたしは、それでも、と思っちゃう。
 正しさが何かわからない。だけど気持ちの推測はできる。
「緑茶計画さんにはなんて伝えるんですか? 作者はもう亡くなっているなら、更新されない。こない便りを、続きを待ち続けるのは悲しいですよ。林檎雨さんは読者のこと、緑茶計画さんをはげますために最後まで想い、悩んでいた。だから更新できなかった、そう伝えられませんかね?」
 大切にされていた、そう感じることができたら緑茶計画さんも嬉しいし、励まされるんじゃないか? あたしは本気でそう思った。
 でも、瞬間、ぴりっと空気が張り詰めた。部屋の中で見えない糸が張ったみたいで、息が止まる。
 理由は明白、宇佐森さんだ。殺気じみた雰囲気をまとっていた。
「死者の声を勝手に語ることはできない。それは、やってはいけないことだから」
 声のトーンが低く、ここではない場所にいるみたいだ。
 でもこれは線引きとは感じなかった。作家の領域だ。かつに入ると殺される。江午先生も宇佐森さんも、自分だけの思考空間があって、そこで孤独な戦いをしているんだ。
 あたしも、いつかそこまで深い世界に行けるのだろうか。
「それに、緑茶計画さんの相談はどうして更新が止まったのか? とか、物語の続きについてじゃないよ」
「あれ、そうでしたっけ」
 もう一度、プリントアウトされた相談に目をやる。
『わたしは誰を好きになったんでしょうか?』
 そうだった。風花がどこへ向かうのか、つまり、春幸と秋庭のどちらを選ぶのか? だった。
「モクレンの正体は秋庭だよって教えたら解決ですね」
「ううん、違うよ」
「え? だって、風花は空港に行くんですよね?」
「九ちゃん、もう一度相談文を読んで。どこにも、モクレンの正体とか風花がどこへ向かうのかは質問されてないよ。緑茶計画さんの相談は、自分は誰を好きになったのか? だから」
「え? あ、本当だ。いや、じゃあ今までの時間はなんだったんですか?」
「謎があったから、つい気になって」
 宇佐森さんが、無邪気な笑みを浮かべている。まるで、少女のようなれんな表情だった。なんでそんな満足そうなんすか。あたしは脱力しちゃうけど。
「えー、じゃあ、今度は緑茶計画さんが誰を好きなのかを推理するんですか?」
「それならもうわかってる。質問文にちゃんと書いてあるから、読んだ人なら絶対にわかる」
 宇佐森さんが読者への挑戦じみたことを言う。
 嘘、そんなんなかったって。そう思いながら、文章に目をわせる。春幸派なのか秋庭派かなのかなんて、やっぱりどこにも書いてない。
「さっきの質問だけど、私は江午先生だったらっていうことを書くつもりはないよ。これは私への人生相談だからね。期待を裏切って、それ以上で応えないと」

     6


 みなさん、たくさんの相談を送ってくれて、どうもありがとう。
 私から作品を通して発信をすることはあっても、読者の方の声や悩みを教えてもらうことはなかったので、興味深かったです。
 恋愛相談が多かった中、興味深いご相談もありました。
『世界一格好良い国旗はどこのものですか?』というお悩みにお返事しようかとも思ったんだけど、『誰がどう考えても、素敵なのはキリバスで格好良いのはアルバニアになって、つまらなくないですか?』とアシスタントさんに言われて、納得してやめました。
 さて、今回お返事をするのはこちら。
『わたしは一体誰を好きだったんでしょうか?』
 緑茶計画さん、とてもユニークな質問をありがとう。
 相談の全文を載せてしまうと、第三者の作品を特定できちゃうから、概要だけ紹介するね。
 緑茶計画さんが読んでいるWEB小説は、ヒロインを支えてるキャラが誰なのかいよいよわかる! といういいところで更新が途絶えてしまった。自分の推しキャラの正体は、名前に春を持つ優しい方か、秋がつくクールな方かがわからずじまいになっている。それでさっきの質問をしてくれました。
 私も教えてもらったその小説を読みました。お話を盛り上げながらも、登場人物たちの心の機微に強く共感する、素敵な物語ですね。
 ヒロインを陰ながら支えているキャラクターは春じゃなくて秋の方です。
・焚き火を見守る悠長さがある。つまり、移動先の到着時間が決まっている。
・バッグを『手で持つ』じゃなくて、『手をかける』と表現しているから、バッグの種類はキャリーバッグやスーツケースのようなハンドル付きのもの。
・『対岸の賑やかな遊園地』と書いていることから、時間は夜とわかる。煌びやかな電飾を「賑やか」と感じたから、そういう描写になったと推察。
→以上のことより、夜に、スーツケースを持って、時間が決まった場所への移動をするということは、秋のいるフランス行きの空港だとわかる。金沢八景から成田空港までは京急線で行けるしね。
 でも、これはあくまで私の推理。
 作者が書いたことが絶対の正解だからね。他人が決めることはできない。
 緑茶計画さんは、だったらどうしよう? って不安になったかな。
 さて、そろそろ相談にお答えするね。
 実は、高校時代に全く同じ相談を受けたことがあるので、あの頃の血が騒ぎだしました。忘れていたことを思い出させてくれてありがとう。
『わたしは一体誰を好きだったんでしょうか?』
 緑茶計画さんが好きなのは
 私です。そして「エリマリ」の万里です。
 もちろんそれだけじゃなくて、相談してくれた小説のことも、そのヒロインのことも好き。
 相談文にも「私は特に万里が好き」「宇佐森先生のことも先生の漫画も大好き」「「渚の●●●●●」という、WEB小説が好き」「大好きな〇〇」など思いが(あふ)れていました。
 物語やキャラクターを発信する身としては、とても嬉しいことです。
 待っていた物語の続きが(つむ)がれずに、永遠に待つということの経験は私にもあるよ。
 緑茶計画さんと作者の方が、HPでやり取りをしているのも読みました。作者さんを慕っていて、読んで感想を伝えて活力にしていたんだね。きっと、作者さんはあなたのことを嫌ったり、意地悪をしたくて筆を置いたわけではないと思うよ。
 更新が途絶えてから一年、十二月までにお返事が欲しい、とのことでしたね。何か期限が迫っているのかな。一年間思い詰めて、悩んでいるのだとしたら辛かったね。
 毎日電車に乗っているから通勤か通学しているのかな、会社員にとって十八時はまだ帰るギリギリではないだろうから最終下校時刻なのかな、十二月ということは大学の願書を出す期限が迫っているからかな。
 進路に悩んでいて、遠くへ行くことに不安を感じているのかな?
 緑茶計画さんがHPに書き込んでいたメッセージを読んで、私もそんな想像を巡らせています。
 私は作者さんではないけれど、自分の作品を楽しんでもらえて作者さんは嬉しかったんじゃないかな。
 でも、依存するのはよくないと思う。
 アシスタントさんから、『人生相談なんて、相手が誰かによって最初から何を言われたいか決めてる』と(み)(ふた)もないことを言われました。
 だとすると、万里という強くて(ゆう)(かん)な女の子を描いた私なら、『自分の夢に向かって冒険をして』と答えることを緑茶計画さんは望んでいたのかもしれないね。
 私はそうも思うし、そうじゃないとも思う。
 私も万里も、あなたは一人じゃないよと応援しているけど代わりに決めることはしない。
 続きの書かれなくなった白い世界は怖いかもしれない。
 でも、勇気を出してあなたが主人公の物語を描き始めて。
 白紙の上を、勇気を出して歩き始めたあなたは線になる。
 か細くても、真っすぐでも曲がっていても、その線が生きた証になる。
 あなたは絵になるよ。
 健闘を祈る。

敬具 宇佐森青西

     7


 アシスタントに向かう電車の中で、宇佐森さんの返答を読んだ。
 握るスマートフォン越しに、宇佐森さんの熱が伝わってきて、あたしの胸に火が灯る。
 あたしは教室では周りの顔色に合わせて、自分の気持ちを()()()してしまうことが多かった。思ったことを口にしたい性分のこのあたしが、だ。
 だけど高校生の時に魔法にかかって、あたしも漫画を描こうと地図を広げた。
 目的地もわからない。真っ白な砂漠を彷徨(さまよ)う旅は、孤独だ。それでも見つけた足跡の、先人たちの気配に(あん)()する。みんなが通る道なのだ。それが、今はとても心強い。
 今日の宇佐森さんは、ストライプ(がら)のブラウスにカーディガンを羽織(はお)り、しゅっとしたスラックスという格好をしていた。(しっ)(こく)の髪は後ろで結って、鬼気迫る表情で原稿にペンを走らせている。シャッ、シャッと気持ちの良い音が響く。
 あたしはタブレットを操作して、スキャンした原稿にトーンを張りながら、確認したい指示内容があるのでいつ声をかけようかと様子を(うかが)っている。
 すると、急に宇佐森さんの手が止まって、みるみる顔が真っ赤になった。
 (うめ)き声をあげながら、顔を(おお)って突っ伏している。(ほっ)()は、今日で四回目だ。
「宇佐森さんのお返事、あたしは格好良かったと思いますよ。あなたが主人公の物語を
「やめてー」
 悲鳴を上げながら、宇佐森さんが恨めしそうにこっちを見てくる。昔はもっとクールビューティーな印象だったけど、最近は色々な表情を拝めてこれは役得だ。
「宇佐森さんの推理、(まと)(はず)れなことはなかったじゃないですか。裏も取れたんですよね」
 江午先生の友人漫画家に宇佐森さんが確認をしたらしい。江午先生はご家族がいないので、友人漫画家が原稿やプロットノートなどを預かっていた。プロットノートを郵送してもらい、確認したところ、『渚のエチュード』のことも書いてあった。
 そこには、風花がフランスへ行き、ライバルたちと(せっ)()(たく)()していく第二部の構想が書かれていたそうだ。
「それに、緑茶計画さんからもお礼の手紙が届いたんですよね。よかったじゃないですか」「漫画は覚悟をしているからいいんだけどさ、人生相談は向いていないよ」
 宇佐森さんが子供っぽく()()を左右に揺らす。
「そういえば、担当の烏丸(からすま)さんから宇佐森さんは高校時代に百人からの恋愛相談に乗っていたって話を聞いたんですけど、そうなんですか?」
「なにそれ。そんなわけないじゃない」
 ふふふ、と宇佐森さんが苦笑している。ですよね、烏丸あいつ適当なことを吹き込んでからに。
百五人」
「え?」
「ん?」
 や、なんか聞こえた気がしたんすけど、まあ、気のせいか。
 (もの)()げな溜め息を吐き、宇佐森さんが窓の外を見つめる。
「人生相談はあれだけど」
 格好良くて優しくて、たまに可愛(かわい)い、恋愛がわからないけど洞察力の鋭い漫画家。
「謎が恋しいなあ」
 宇佐森さんが一番の謎ですよ。

【おわり】