第一話 別当輝光、はりきりすぎて部下にうざがられる


 初秋の夜。
 薄雲をまとった月に照らされる平安の都――の六(ろく)条(じょう)界(かい)隈(わい)は、帝(みかど)の御所から離れている分、中流以下の貴族や庶(しょ)民(みん)の住む小さな家がひしめき合い、雑然としていた。それでも深夜ともなれば各家の灯(ともし)火(び)も消え、ひとびとは深く寝入って、町は静寂に包まれる。
 ……はずだったが。
 静かなはずの町に突(とつ)如(じょ)、女の悲鳴が響き渡った。
「助けて! 助けて! 誰か来て!」
 と、懸命に救いを求める声が続く。
 平安時代の都では、夜盗の類(たぐい)は何も珍しいことではなかった。真っ昼間でも、往来で若い女がならず者たちに攫(さら)われることがあるくらいだ。近隣の住人も厄(やっ)介(かい)ごとには関わるまいと、大半は聞こえないふりを装っていたが、それでも誰か、検非違使(けびいし)――この時代の警察機構に知らせた者がいたらしい。
 ほどなくすると、派手な装いの検非違使たちが数名、悲鳴の聞こえた家に急行した。
 場を統率しているのは、検非違使庁の三等官である少(しょう)尉(じょう)の博(ひろ)正(まさ)。
 壮年で、真面目そうな顔立ちに立(たて)烏帽子(えぼし)、紅(くれない)の単衣(ひとえ)の上に白狩(かり)衣(ぎぬ)を重ねて着用している。指貫(さしぬき)袴(ばかま)の色も白い。その装(しょう)束(ぞく)の白さは、夜の闇(やみ)にくっきりと浮かびあがっていた。
 彼が引き連れているのは、放(ほう)免(めん)と呼ばれる下(しも)部(べ)たち。
 元(げん)服(ぷく)前の少年もひとり交ざってはいたが、彼以外はそろいもそろって熊のように大柄で容(よう)貌(ぼう)もいかつい。ごわごわの髭(ひげ)を胸につくほど長くのばしている者さえいる。立烏帽子に藍(あい)摺(ずり)文(もん)の派手な装束をまとって、身の丈よりも長い棒を肩に担(かつ)いでいるさまは、こちらのほうが夜盗の一団であるかのようだ。
 ……それもあながち間違いではなかった。
 裏の事情に通じているからとの理由で、前科者を検非違使の下部として採用したのが放免なのだ。そのためか、放免が略奪などの不法行為に及ぶことも珍しくなく、都人からは盗(とう)賊(ぞく)同様におそれられていたという。
 が、少なくともこの場では、放免たちもそのような非道な行いに出ることもなく、上司の指示におとなしく従っていた。
 彼らが踏みこんだ家では、先ほどまで悲鳴をあげて救いを求めていた、ふっくらめの女が、血まみれの男の死体にすがってむせび泣いていた。男は御所勤めの下級貴族、女はその妻であった。
「何があった。泣いてばかりでは何もわからぬぞ。有体(ありてい)に申せ」
 博正が問いかけると、女も涙をぬぐい、言葉につかえながら説明し始める。
「お、夫は御所から遅くに戻ってくると、寝入る前に晩(ばん)酌(しゃく)をすることがたびたびありまして、今夜もきっとそうなるだろうと肴(さかな)の用意をし、帰りを待っておりました。そうして、やっと夫が帰宅し、晩酌を始めようとした矢先、見たことのない坊主頭の男が家に踏みこんできて、いきなり、いきなり夫を……」
 そこで女はわっと泣き伏した。ここぞとばかりに泣き声はより大きくなる。博正はうんざりして、視線を女から男の死体へと転じた。
 男は胸を袈(け)裟(さ)懸(が)けに斬られ、天井を仰いで大の字に倒れていた。死に顔には驚(きょう)愕(がく)と苦(く)悶(もん)の混じった表情が張りついている。ほぼ抵抗する間もなく、一刀のもとに命を奪われてしまったのは明らかだ。
「何か盗(と)られた物は?」
「いえ、いえ、わたしが悲鳴をあげましたれば、賊は驚いてすぐに外へと飛び出していきましたので、盗られた物は何も……」
「ふむ。では、怨(えん)恨(こん)かな?」
「わかりません、わたしには何もわかりません」
 ひたすら泣くばかりの女をもてあましていたそのとき、
「やあ、待たせたな。皆の者」
 陰惨な殺害現場にはそぐわない、妙に明るい声をかけながら、二十代なかばほどの青年貴族が登場した。
 泣きじゃくっていた女も、難しい顔をしていた博正も、放免たちも、一瞬、ぎょっとして動きを止める。大の字になっていた死体は、当然ながらずっと固まっている。
 青年がまとっているのは、紫と蘇(すおう)芳色(赤紫)を重ねた紫(し)苑(おん)の直衣(のうし)。高貴な色とされる紫が、品のいい顔立ちともよく似合っている。見るからに育ちがよさそうで、叩きあげの博正やいかつい放免たちがいる現場に彼が現れると、掃きだめに鶴(つる)が舞い降りた感がどうしてもぬぐえない。
 当人はそんな違和感などものともせず、
「何事かあれば、すぐにも呼び出してほしいと再三、頼んでおいたのに、また忘れられてしまったようだ。つれないな、判(ほう)官(がん)」
 検非違使少尉の別称、判官と博正を呼び、彼は屈託なく笑った。呼ばれたほうは困惑気味に目をそらし、ため息混じりにつぶやく。
「別(べっ)当(とう)……」
 反応したのは、さんざん泣きじゃくっていた女だった。
「えっ、別当?」
 涙をぴたりと止め、女は目を大きく見開いて青年をまじまじとみつめる。
 そうまで驚くのも無理はなかった。別当とは長官のこと。つまり、このいかにも上流の出らしき貴公子は、検非違使庁の頂点に立つ身だったのだ。
 検非違使の長官は、他に本官があり、別に他の役に当たるとの意味で別当と呼ばれる。
この青年――輝(てる)光(みつ)も若くして参(さん)議(ぎ)という要職に就いている。
 むしろ、そちらのほうが本職であり、物騒な都の治安維持など、部下にすべて任せていればいいのだ。正(しょう)真(しん)正(しょう)銘(めい)、いいところのボンボンの彼が、危うい現場に積極的に出る必要など欠片(かけら)もない。だからこそ、博正も放免たちも彼の登場に当惑を隠せていなかった。
 輝光自身にはその自覚もなく、「うん?」と小首を傾かしげて女をみつめ返した。
 彼の所作は無垢(むく)な大型犬を連想させた。市中をうろつき、腐肉をあさる痩(や)せた野(の)良(ら)犬ではなく、富貴の家で大事大事に育てられた、血統も愛想もいい犬種のそれだ。
 女のほうは、いかにも育ちのよさげな青年貴族からまっすぐにみつめられ、急に胸もとを押さえて恥じらい始めた。
「まさか、別当がこのようなむさ苦しい家に御(おん)自(みずか)らおいでくださるなんて……」
 夫を賊に殺されたばかりだというのに、若い男を意識してそわそわしている。これにはさすがの放免たちもあきれて、互いに顔を見合わせた。
 しかし、輝光が女に視線をやったのはほんのいっときにすぎなかった。彼がしげしげと眺めたのは、大の字になって倒れている遺体のほうだ。
「ふむふむ。なるほどね」
 顎(あご)をさすりながら何度もうなずいている。その様子はまるで、死体相手にその言い分を聞き取っているかのようだった。
 もちろん、死体はひと言も発してはいない。カッと目を見開いたまま、身動きひとつしない。
 それでも、輝光はひとしきりうなずいてから、博正に向き直った。
「すべてわかったよ。これで事件は解決だ」
「と、申されましても……」
 博正は苦々しげにつぶやいた。
「賊は逃げておりますゆえ、そやつを捕らえぬことには解決とはいきますまい」
「逃げてなどおらぬよ」
 輝光は部屋の隅(すみ)に置かれていた長(なが)櫃(びつ)に向けて、顎をしゃくってみせた。
「ほら、賊はあの中に隠れているとも」
 えっ、とその場にいた全員が驚きの声をあげた。特に女の動揺ぶりは激しく、
「い、いったい何を仰(おお)せられますやら」
 と声をうわずらせ、盛んに首を左右に振る。
「賊は、ええ、逃げていきましたとも。その後ろ姿を、つるりと禿(は)げた頭を、わたしははっきりとこの目で見たのですから」
「ほう。では、その長櫃の中でじっと息をひそめているのは誰なのだろうな?」
 皮肉ではなく、本気で不思議がっているふうに輝光が言う。博正は表情をひきしめ、放免たちに、
「あの長櫃の中を検(あらた)めよ」
 と指示を出した。
 はっ、と畏(かしこ)まり、放免たちが長櫃に迫る。
「お、お待ちくださいませ」
 女は金切り声をあげて放免たちを止めようとするが、彼らは聞こうともしない。そのとき、長櫃の蓋(ふた)がいきなり開き、中から若い優男が飛び出した。
 烏帽子を載せた頭は禿げてもいない。優男はひどくあわてた様子で手近にいた輝光に体当たりをし、輝光はあっけなく吹き飛ばされてしまう。
「べ、別当!」
 博正が驚いて声をあげる。優男はこの隙(すき)にと、放免たちの間をすり抜けて家の外へ逃げのびようとする。そうはさせるかと、放免のひとりが肩に担いでいた棒を力いっぱい横ざまに振るう。
 棒は優男の腹にめりこんだ。彼はそのまま豪快に吹き飛んで壁に激突し、ずるずると床に倒れこむ。
 きゃあと女が悲鳴をあげて叫んだ。
「あんた! しっかり!」
 その呼びかけに、優男は白目を剥(む)いたままで何も応(こた)えない。気を失ってしまったようだ。
「あんた! あんた!」
 女は泣きわめきつつ、優男にすがりついた。殺された夫の死体にすがっていたときよりも、泣き声は格段に大きい。その様子を見ただけで、彼らの関係は丸わかりだった。
 博正は優男に体当たりされた輝光のほうに声をかけた。
「大事ありませんか、別当」
「大事ない、大事ない」
 輝光が起きあがったのを見て、博正はホッと息をつく。
「やれやれ……。だから、言わんこっちゃない……」
 危険な現場にしゃしゃり出てくる別当への愚痴(ぐち)を小声で洩(も)らしてから、彼はまた表情をひきしめ直し、女と気絶した優男を睨(にら)みつけた。
「おそらく、女はこの優男と共謀して夫を殺し、賊の仕業に見せかけようとしたのでしょう。賊は坊主頭だったと偽(いつわ)りを告げたのも、やつを長櫃の中に隠したのも、われら検非違使に捕まらぬよう、確実に逃がしてやるためだったかと。最初から殺害を計画していたのか、夫の留守中に間男を引きこんで密会していたのに、思ったより早く夫が帰宅して修(しゅ)羅(ら)場(ば)になったのか、そこはまだわかりませぬが――」
 博正の見解に、輝光がうなずきながら口を開く。
「うん。最初から計画していたようだよ。間男を長櫃に隠し、帰宅した夫が晩酌を始め、いい具合に酔ってきたところで、間男が飛び出して夫をバッサリ。本当は、そのまま間男を逃がしてやる手はずだったのに、初めての凶行で彼が動揺し、身動きもままならなくなってしまったので、再び長櫃に隠してから、検非違使を呼ぶために悲鳴をあげた――」
 すらすらと事のいきさつを述べる輝光を、博正をはじめ、放免たち、泣いている女までもが驚きの目でみつめる。さすがにその視線に気づき、輝光は小首を傾げて「かな?」と付け加えた。
 場に奇妙な空気が流れ、誰しもが当惑気味に顔を見合わせる。ただし、唯一、よくぞ言ってくれたといった顔をして、うんうんとうなずいている者がいた。
 殺された夫だ。
 その遺体は、天井を仰いで絶命したまま、微動だにしない。
 しかし、遺体のすぐ脇にうっすらと透けた人影がすわりこみ、輝光の発言に対して、しきりにうなずいていたのである。
 ただし、その姿は輝光にしか見えていない。霊だからだ。
 妻に裏切られ殺されたのが、さぞや無念であったのだろう。霊はさめざめと涙をこぼしつつ、わが身に起きた出来事を輝光にしか聞こえない声で語った。輝光は、当人から聞いた事の次第を、博正たちにそのまま伝えたにすぎなかったのだ。
 そうとは知らぬ女は、
「ど、どうしてそれを……」
 と言ったきり絶句し、がっくりとうなだれた。真実を暴かれ、もはや抗(あらが)っても無駄と観念したのであろう。泣く気力もなくして、しおれきっている。ふくよかな肢(し)体(たい)も急にしぼんでしまったかのようだった。
 博正は困惑しつつも、とりあえず放免たちに女と優男を縛りあげさせた。
「その者らを獄(ごく)に連れていけ。わたしは別当をお邸(やしき)に送っていく」
「いや、わざわざ送らずとも」
 輝光は首を左右に振って辞退するも、
「そういうわけには参りませんぞ、別当」
 眉(み)間(けん)にぎゅっと皺(しわ)を寄せた怖い顔で睨まれては、検非違使別当といえども否(いな)やはなかなか言えなかった。


 かくして、輝光と博正のふたりは肩を並べて帰路に就くこととなった。
 輝光の住まいは二(に)条(じょう)界隈。そうそうたる大貴族の邸宅が並ぶあたりに位置していたが、そこまでの道のりは遠く、雑然とした路地をいくつも通り抜けなくてはならない。
 輝光はむしろ、博正との夜歩きを楽しんでいた。
 この堅苦しい印象のある叩きあげの判官と、一度ゆっくり話してみたいと、別当に就任以来、ずっと思っていたのだ。ましてや、死者の声を聞き取って犯人の捕縛に貢献したばかり。機嫌がよくなるのも当然であった。
 博正のほうは年下の上司相手にいささか戸惑っているようだったが、そこは年の功、苦手意識を上手に隠して話しかける。
「しかし、さすがの慧(けい)眼(がん)でございますね、別当。どうやって、あの長櫃に男が隠れていると見抜かれたのですか?」
「いや、見抜くも何も、あの死体が自分から一部始終を語ってくれたから」
 正直に事実を述べたのだが、博正の表情は微妙なものになる。輝光もそれに気づき、すぐに付け加えた。
「……というのは冗談で」
「でしょうね」
「鎌(かま)をかけてみただけだよ。そうしたら本当に長櫃から間男が飛び出してきて、あれにはわたしも驚いたね」
 そういうことにしておこう、それが無難だ。……と、輝光はおのれに言い聞かせた。真実を打ち明けられず、残念ではあったが。
 実はね、死者の声が聞こえるようになったのだよ。
 霊の姿さえも見えるのだよ。すごくないかい?
 これって、検非違使の任務にも大いに貢献できる能力じゃないかな?
 ……と言いたい。お飾りの別当ではなく、勇敢で有能な指揮官だと思われたい。けれども、突然、そういう能力に目(め)醒(ざ)めましたと告白したところで、変人扱いされるのが目に見えているから、なかなか言いづらい。
 検非違使別当に就任して、まだ日も浅い。もっと実績を重ね、現場の部下たちともより親密になってから、「実は……」と明かしたほうがいいに違いないと、輝光は単純に考えていた。
「それにしても、今日のところは無事で済みましたが、いつもそうなるとは限りませんぞ。別当の身に障(さわ)りがあってからでは遅すぎます。何とぞ、今後は危険な現場においでくださるのをお控えくださいますよう、お願い申しあげます」
 言いかたは丁寧だが、はっきりと要望を告げてくる。実直な男なのだなと、輝光はこの年上の部下にますます好感をいだいた。
「なるほど、言いたいことはよくわかった。検非違使の別当とはそういうものだと、わたしも重々理解しているとも。しかしだね、わたしは一刻も早く皆と馴(な)染(じ)みたいのだよ。検非違使の任務自体にも興味があるし、そもそも直接、現場に出てこそ民(たみ)草(くさ)の暮らしも見えてくるわけで……」
 語れば語るほど、博正の顔がどんどん渋くなっていく。それでも、輝光はおのが意見を訴えるのをやめられなかった。
 都の治安を守る検非違使に、童(わらわ)の頃から憧れをいだいていたのだ。前科者の放免にも、枠にはまらぬ荒くれ者の魅力を感じてしまう。それに、彼には早いところ、わかりやすい功績をあげたいという想いがあった。
 それについても熱く語ろうとした矢先、ふっと怪しい人影が道の彼方(かなた)に見えてきた。脇の細い路地から現れて、輝光たちのいる通りを横切ろうとしているのだ。
 ただし、それを人影と称していいものかどうか……。
 輝光は思わず立ち止まり、目をすがめて、その怪しい一団をみつめた。
 むこうは二、三十人ほどいただろうか。
 先頭を行く者は武官のように巻(けん)纓(えい)の冠(かんむり)をかぶり、長槍(やり)を肩に担いでいた。ただし、諸(もろ)肌(はだ)脱いだ上半身や細い手足は濃い緑色に染まっており、口はやけに大きく、鼻も太く、両の目は爛(らん)々(らん)と黄(こ)金(がね)色に輝いている。
 その後ろに続く数人は、腰布をまとい、二足で直立歩行しているものの、顔は完全に獣(けもの)のそれであった。狐のようであったり、あるいは猿の面相であったり。
 獣人ばかりではない。真っ赤な顔に二本の角を生やして、鬼としか言いようのない者も交じっている。粗末な衣をまとった身体(からだ)はかろうじて人間だが、顔はボロボロの檜(ひ)扇(おうぎ)で、扇部分を閉じたり開いたりしながら歩いている異形もいる。
 どれもこれも物(もの)の怪(け) ―ばけもの、妖怪、魑(ち)魅(み)魍(もう)魎(りょう)、百鬼。呼び名は種々あれど、とにかく、この世のモノではないのは確実だった。
 その証拠に、博正は彼らにまったく気づいていないのだ。輝光が急に歩みを止め、通りの果てをじっとみつめているので、不思議そうな顔をしてはいるものの、もっと不思議な百鬼の夜行には目もくれない。
「どうされましたか、別当」
「いや……」
 輝光はゆるく首を左右に振った。
「いまごろになって、死体をまのあたりにした恐ろしさが身に染みてきてね」
 適当な理由をつけ、ふうっと大きくため息をつく。ここで立ち止まり、百(ひゃっ)鬼(き)夜(や)行(こう)をやり過ごそうと考えただけだったが、博正にとってはむしろ、「急に恐ろしくなった」的な反応のほうが理解できるらしく、どこか安心したような顔になった。
「そうでしょうとも。検非違使の出向く先は、血(ち)腥(なまぐさ)さい修羅場ばかり。こう言っては失礼ながら、摂(せっ)関(かん)家(け) の御(おん)曹(ぞう)司(し) たる別当には似つかわしくない場かと」
「御曹司だなんて、そんな大(おお)袈(げ)裟(さ)な」
 輝光は自(じ)嘲(ちょう)気味にひらひらと手を振ってみせた。
「親は大臣だけれども、わたしはしがない五男坊だよ。兄上たちに高官の地位を独占されて、わたしがつけいる隙などこれっぽっちもありはしないとも」
「何を仰せられます。検非違使別当は大事な御役目。家柄や容姿など、さまざまな面に秀でた人格者でなければ務まらないと称されておりますのに」
「うん。でも、このあたりがわたしの頂点かもしれないよね」
「そのような、お戯(たわむ)れを。まだまだお若いのですから、この先、栄達の道はいくらでも開けておりましょうに」
 おべっかではなく、本気で励まそうとしてくれているのを感じ、輝光は博正にニッコリと微笑(ほほえ)みかけた。
「ありがとう、判官」
 邪気のない笑みを向けられ戸惑う博正の肩先に、大きな羽虫が一匹、ふらりと近づいてきた。
 ただの羽虫ではない。百鬼たちの仲間だ。
 その証拠に、羽虫のぎょろぎょろとした巨大な目は昆虫のそれではなく、白目と黒目とがはっきり分かれた人間の眼球だった。さらに気色の悪いことに、薄い翅(はね)には笑うひとの顔のような模様が左右対称、一列に並んでいる。
 これが獣人や鬼だったらば、輝光もひるんだだろう。しかし、相手は言ってみれば、ぎょろ目の虫。普通のアブよりは大きいが、それでも赤子の握りこぶしくらいのものだ。
「あ、ゴミが」
 輝光はすました顔で博正の肩をはらい、ついでにその羽虫を手の甲で弾き飛ばした。羽虫はあわてたように博正から離れ、しぶしぶと百鬼の列に戻っていく。
 博正は何も気づかぬまま、
「これはどうも」
 とゴミをはらってもらった謝意を述べる。
 そうこうしているうちに百鬼の群れは通りを横切り終え、狭い路地の彼方に消えていった。これで安心して前に進めると、輝光は歩き出し、博正も彼に続く。
 どこか遠くで犬がか細く鳴いていたが、もしかしたら百鬼の群れにおびえて声をあげたのかもしれない。
 そんな想像をしながら天を仰ぎ見れば、薄雲をまとった月の光も、瞬(またた)く小さな星影たちすらも、これまで以上に神秘的に感じられてくる。
(ああ、なるほど。夜の闇とはこんなにも豊かなものであったのだな――)
 霊や物の怪が見えるようになってから、その他のものの見かた、感じかたまでもが少しずつ変化してきたように、輝光には思えていた。それは新しい感覚への誘いざないであり、若(じゃっ)干(かん)のおそれはあるものの、それ以上にわくわくする感覚のほうがまさっていた。
 いつまでこれが続くのか、ずっとこのままなのか、それとももっと変化していくのか。まったく怖くないといえば嘘(うそ)になる。だが、とにかく捜査には役立つのだし、しばらくはこの能力を有効に活用しつつ様子を見ることにしよう、と彼はお気楽に考えていた。
 やがて、二条の自邸の前まで来て、輝光は博正に「あがっていかないかい?」と勧めた。しかし、博正は「夜も遅うございますから」と辞退して去っていく。どこまでも実直な男であった。
 彼に対する輝光の好感度はますます上がり、もっと親しくなれたらいいなと思った。ましてや今夜は、霊の声を聞く能力を用いて犯人捕縛に貢献できたのだ。
「すごいぞ、自分。やれるじゃないか、自分」
 上機嫌でつぶやきながら簀子(すのこ)縁(えん)から邸に上がり、自分の部屋へと向かおうとしていた輝光に、背後から声がかけられた。
「おやおや。ようやくお戻りでしたか、婿(むこ)どの」
 輝光は歩みを止めて振り返った。廂(ひさし)の間(ま)の御(み)簾(す)を上げ、部屋から顔を覗(のぞ)かせているのは、輝光の妻の母、詠(うた)子(こ)であった。
「ただいま戻りました、義(は)母(は)上(うえ)」
 輝光は義理の母ににこやかに微笑みかけたのに、詠子のほうは愛想のない顔で、あら探しをするように娘婿をじろじろと眺めている。
「遅いお帰りでしたわね」
「はい。検非違使たちとともに現場に出ておりましたので」
「まあ、現場に?」
 詠子は広(ひろ)袖(そで)を口もとに当てて眉をひそめた。
「別当ともなれば、そのようなことまでしなくてもよいのでは?」
 それはそうなのですが――と輝光が弁解するより先に、
「それはそうなのでしょうけれど、殿がお務めに熱心なのは喜ばしいことではありませんか? 母上」
 涼やかな声が彼を擁(よう)護(ご)する。振り向くと、いつの間にか妻の明(あきら)子(こ)が家の女(にょう)房(ぼう)を伴(ともな)って簀子縁に立っていた。輝光よりふたつ年上の明子は凜(りん)とした美女で、濃(こき)紅(くれない)の小(こ)袿(うちぎ)がとてもよく似合っている。
「あなた。お帰りなさいませ」
「うん。いま帰ったよ」
「お疲れでございましょう。夕(ゆう)餉(げ)はもう召しあがったのですか?」
「ああ。御所で済ませてきたし、今日はいろいろあって少しくたびれたから、もう休むとするよ」
「わかりました。では」
 輝光は詠子を振り返り、「というわけで失礼いたします、義母上」と告げ、明子とともにその場を離れる。妻のおかげで義母のお説教から逃れられたのは、正直、ありがたかった。
 戻った自室で、女房に夜着への着替えを手伝ってもらいながら、輝光は今夜の捕り物の様子を明子に熱く物語った。もちろん、霊の言葉を聞いて真相解明に至ったとは明かせなかったので、
「長櫃の中にひとの気配を感じたので、当てずっぽうで言ってみたら、中から間男が飛び
出してきてね」
 と、適当な理由をつけておく。着替えを手伝っている女房は、輝光の話を聞きながら目を白黒させていたが、明子はころころと品よく笑いながら夫の武勇伝に耳を傾け、
「殿が別当に就任直後にわが父が亡くなり、どうなることかと案じておりましたが、杞(き)憂(ゆう)だったようでございますね」
 と、彼の働きをとりあえず褒める。輝光は素直に喜び、童のように目を輝かせた。
「本当にそう思ってくれるかい?」
「ええ。ですが、だからといって慢心なさいませんように」
「ああ。しない、しないよ」
 この時代、妻の実家が婿の後ろ盾(だて)となり、出世のための便(べん)宜(ぎ)を図(はか)るなど、何かと世話をするのが通例であった。
 明子の父親は宮(みや)家(け)の出で、朝廷内でも頼りにされてきた重臣。摂関家の子息とはいえ、兄たちに要職を独占され、出世の見込みが薄かった輝光が後見として頼るには、願ってもない相手だった。輝光が検非違使別当に抜(ばっ)擢(てき)されたのも、義父のおかげであったのは言うまでもない。
 その義父が突然、亡くなり、輝光は途方に暮れた。と同時に、「ここで立派な功績をあげて将来に繋(つな)げなくてどうする」としゃかりきになった結果、現場主義の別当という、あり得ないものができあがってしまったのだった。
 輝光が脱いだ装束を衣(ころも)筥(ばこ)の蓋に載せ、女房が捧げ持って退室していった。夫婦ふたりきりになるや、輝光は明子に寄り添い、その肩へと手を廻(まわ)す。あら、と明子はいたずらっぽい目になった。
「お休みになるのではなかったのですか?」
「そのつもりでいたけれど、明子の顔を見ていたら疲れが吹き飛んだ」
「お上手ですこと」
 くすっと笑う明子を抱き寄せ、輝光は彼女の耳もとでそっとささやいた。
「妻が間男と謀(はか)って夫を亡き者にしようとする。近頃では珍しくもないのだろうが……。よもや、あなたはそのようなことはなさいませんよね」
「まあ、それをわたくしにお尋(たず)ねになりますの?」
「ええ。『そんなことはいたしませんわ、愛(いと)しいあなた』とその声で優しく言ってもらいたくて」
「……さあ、どうでしょう」
 もったいぶるように横を向いた明子の耳に、輝光がふっと息を吹きかける。きゃっと小さくあがった明子の悲鳴に、輝光の笑い声が重なる。
 装束を別室に片づけて戻ってきた女房が、入室する寸前でそれを聞きつけ、お邪魔をしてはならないと、そうっと引き返した。衣ずれの音も極力立てさせないように気を遣っていたのに、地(じ)獄(ごく)耳(みみ)の詠子には聞こえていたのだろう。柱と御簾の間から檜扇を差し出して、詠子が「これこれ」と女房を差し招く。
 御簾に寄ってきた女房に、さっそく詠子が尋ねた。
「どうでしたか、ふたりの様子は」
 女房は畏まって、輝光と明子の仲(なか)睦(むつ)まじさを報告し、
「あんなに御夫婦仲はよろしいのに、いまだ御(お)子(こ)がお生まれにならないのは残念でなりませんわ」
 と付け加えた。それは詠子も気にかかっていたようで、
「わたくしも、早く孫の顔が見たいと娘をせっついてはいるのだけれど、こればっかりはなかなか」
「いかがでしょう。子宝祈願の神社仏閣へ出向かれては」
「やはり、それしかないのかもねえ」
 結婚してまだ数年、ふたりとも若いのだからそこまでしなくとも、とは思わずに、詠子も女房も真剣にうなずき合っている。輝光の置かれた立場は、職場でも家庭でも、安(あん)泰(たい)なようでいて実はなかなか難しいものがあったのだ。

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