「今日はここまで」

音符が描かれたクリーム色のボタンを前に、私はいつも緊張してしまう。
――呼び鈴を鳴らしてもハヅキさんがいなかったらどうしよう。
――私の恰好はヘンに見えないかな。
――誘われるまま今日も遊びに来ちゃったけど、迷惑じゃないかな。
さんざん悩んで、私はクリーム色のボタンを押す。すこし古くなっているのか、パキッというプラスチックのこすれる音がして、遅れてピーンポーンと間延びしたベルが鳴る。
一番気温の上がるお昼過ぎに来てしまったせいで、全身にうっすらと汗をかいていた。呼び鈴の音は余韻もなく消え去り、責め立てるような蝉の鳴き声だけが響く。
――もう一度だけ。
ボタンに指をかけたところで、玄関の鍵がガチャリと音を立てる。
ゆっくり開いた扉から、この夏、一度も外に出ていないみたいに真っ白な肌をしたハヅキさんの笑顔が見える。
「心春ちゃん、いらっしゃい」
やわらかい声で名前を呼ばれて、自分からたずねてきたくせに、すっかり恥ずかしくなってしまう。なんとなく髪を耳にかけると、雫型のビーズが指に触れる。ハヅキさんが作ってくれたイヤリングを、彼女に会うためにきちんと着けてきた。
冷房を効かせているわけでもないのに、家の中の空気はひんやりとしていて、ちっともじめじめしていない。
「暑かったでしょう?」
ハヅキさんは氷を入れたグラスにオレンジジュースをなみなみ注いでくれる。からからと氷の音が心地よかった。
リビングのソファーに身体を沈ませたハヅキさんは、たいして興味がなさそうにテレビをザッピングする。瞬きをするたびにふわりと揺れるまつ毛は涼しげで、この部屋の爽やかな空気は彼女が発している。
一緒にぼんやりお昼の情報番組を眺める。すると、オレンジジュースが飲み終わるころに、「ただいまー」と低く響く声が玄関から聞こえてきた。
「おかえりー」と、ソファーに沈んだまま、ハヅキさんは力の入っていない声を出す。
リビングの扉が開き、中学校のジャージを着たフミくんが姿を現した。けだるげな表情は、私に気づいた途端、すんとすました顔になる。
「心春、来てたんだ」
ぱらぱらと砂がこぼれるジャージの袖を軽く払って、フミくんは私に向かってぎこちなく手を上げた。すえた汗と、せっけんの制汗剤の香りがほんのり漂ってくる。
「うん」なんとなく照れくさかったけど、私も同じように手を上げる。
しばらくして、シャワーを浴びてきたフミくんが、キッチンをごそごそと物色している。冷蔵庫を開けっぱなしにしているのか『ピピピッピピピッ』という音が鳴ったかと思うと、なにかを炒める油の音や、レンジでチンする音が同時多発的に聞こえてくる。よくあることなのか、ハヅキさんはちっとも気にせずに退屈そうな顔でテレビを見ていた。
遅めのお昼ご飯の準備をしたフミくんは、リビングのダイニングテーブルにたくさんの食器を広げている。つけっぱなしのテレビが気になるらしい。座った位置のせいで、フミくんがテレビに視線を送ると、ちょうど後ろから見守られる形になるから、すこし居心地が悪かった。
彼の家なんだから仕方ないけど、ハヅキさんと二人きりじゃなくなってしまったのが、なんだかとても不満だった。
食事を終えたフミくんは、食器を片付けて自室に戻っていった。
またしばらくすると、呼び鈴の音が鳴って、大きなビニール袋をぶら下げた育央がやってくる。育央は私にまったく興味がない様子で、「これ、ばあちゃんが持っていけって」とビニール袋をハヅキさんに差し出す。
「あら、とうもろこし。こんなにたくさん」
黄緑色の皮がついたとうもろこしを、ハヅキさんはうれしそうにダイニングテーブルに広げた。
「とっても新鮮だね」
「ばあちゃんが、今朝もいでいたよ」
得意げに言う育央に、ハヅキさんは「それはたのしみ」と笑う。
「じゃあ、さっそく茹でて食べようか」
ハヅキさんに促されて、私たち四人はダイニングテーブルを囲んで皮むきをすることになった。横に座るハヅキさんが立派なとうもろこしを手渡してくる。ずっしりした重みと、青っぽい皮の香り。先端に生えたこげ茶色のへたれた筆先のようなひげが、触るとほんのり湿っていてなんだか気持ち悪い。目の前に並んで座るフミくんと育央は、集中しているせいか唇をほんの少し尖らせて黙々と作業している。テーブルの真ん中に黄緑色の皮の山ができ、あたりは伸び散らかした雑草の中にいるみたいな香りで包まれる。
とうもろこしなんて、黄色い粒がむき出しの状態でしか見たことがない。当然、皮をむくのも初めてだった。皮は一枚一枚がやわらかくて簡単にはがれた。何層にも重なった皮は、内側に進むにつれて薄く白っぽくなっていく。いっとう薄い皮をむいた途端に、とうもろこしの黄色い粒と、それを包む薄黄色の無数のひげが顔を出す。やわらかい繊維の質感が人間の髪の毛に似ていて、驚いた私はテーブルの上にとうもろこしを落としてしまう。
「心春ちゃん、どうかした?」
隣のハヅキさんが不思議そうな声を出す。
「なんでもない」
私は答えつつ、『てきとーにむけばいいから』としかアドバイスをくれなかった彼女に、ちょっとだけ文句を言いたくなる。
「お前、不器用だな」
目の前に座る育央が、くくくと笑いをこらえるような声で言う。ついさっきまで私にまったく興味を示していなかったくせに、馬鹿にするときだけは真っすぐに向けてくる視線に心底腹が立った。
「お前って言わないで。ムカつく」
口からついて出た固い声に、育央は不貞腐れた顔で黙り込む。その表情でちょっとだけ胸がすっとしたけど、困った顔で私たちを見るフミくんの姿で、空気をとても悪くしてしまったと遅れて気づく。むかれた皮の山が大きくなっていくにつれて、どんどん息苦しくなっていく。結局、とうもろこしを全部むき終わるまで、私たちは一言も話さなかった。居心地の悪いダイニングテーブルで、ハヅキさんだけがのんきな顔をしていた。
「鍋にたっぷりお水を張って」
ハヅキさんは、とうもろこしが四本すっぽり入った大きな鍋をシンクの前に立つ私に渡してくる。塩茹でするときは、薄皮をすこし残しておくと風味が落ちないらしく、四本だけ白っぽい皮がついたままだった。皮むきが終わったあと、男子二人はフミくんの部屋に戻っていった。
水を張った鍋は重たくて、両手にきちんと力を入れないと持ち上がらなかった。ガスコンロの上に置いて火にかける。しばらくすると、お湯が沸騰してぐつぐつと音をたて始める。ほんのり甘い匂いのする湯気がたつ。ハヅキさんはボウルに塩水を作っている。茹で上がったとうもろこしは流水にさらして、薄皮とひげを綺麗にはがす。ハヅキさんは手際よくそれをこなし、ボウルの塩水にとうもろこしを浸すと、「二人を呼んできて」と私に言う。
今日はもう二人と顔を合わせたくなかったけど、ハヅキさんにお願いされてしまったので仕方ない。中から聞こえてくる騒がしい声に、ノックをせず引き返したくなる。若干静かになったタイミングでドアを二回ノックすると、部屋の中の音がすんと消え去って、緊張感が扉越しに伝わってくる。
「とうもろこし、茹で上がったよ」
私がそう言うのと同時に、内開きのドアからフミくんが顔を出す。
「わかった、ありがと」
フミくんと、その肩越しに壁に掛けられた野球選手のカレンダーが視界に入る。あんまり部屋の中を見てはいけない気がして、私はすぐに視線を逸らす。
リビングのダイニングテーブルの上には、四本のとうもろこしが乗った丸皿が置かれていた。ぎこちない調子でやってきたフミくんと育央と、四人で席についた。
とうもろこしはまだほんのり温かかった。規則正しく並んだ真っ黄色の粒は、どこから食べたらいいかわからなかったけど、目の前のフミくんと育央がそのままかじりついていたので、真似ることにした。
恐る恐るかじりつくと、口の中に蜜のような甘さが広がる。粒の一つひとつが濃い香りを放っていて、塩加減もちょうどいい。もう一口、もう一口と、私は夢中になってかじり続けた。
「おいしい……」
「でしょ?」
ハヅキさんが隣でにっこりとほほ笑む。
「……とうもろこし」
おとなしく食べていた育央が、不意に口を開いた。
「……はじめて食べるの? コハルは」
さっき私が怒ったのを実は気にしていたらしい。『コハル』と呼ぶ声が妙にぎこちない。彼に名前を呼ばれるのは初めてだった。
――私も育央を名前で呼んだことはなかったな。
「いや、とうもろこしは食べたことあるよ。でも、茹でたてのやつをかじって食べるのは初めて」
「そうなんだ」
「うん……。イクオの家のとうもろこしはすごくおいしいと思う」
なんだか私まで話し方がぎこちなくなってしまう。『イクオ』と呼んだ三文字の一音一音がやけに粒立って響いて、あとからだんだんと恥ずかしくなってくる。誤魔化すように、私は思い切りとうもろこしにかじりつく。正面に座る育央もむっつりした顔のまま黙々ととうもろこしを食べ続けている。その様子が癪に障ったけど、口の中に広がる甘さですぐに気持ちが緩んでしまう。
ずっしりと重たかったとうもろこしはあっという間に食べ終えてしまった。ほころんだフミくんの表情と、やっぱりのんきなままだけど、どこかうれしそうなハヅキさんの横顔が見える。胃の中があたたかいもので満たされて、ほんのりと眠たくなってくる。
すぐに食べないとうもろこしは、冷凍保存することにした。ハヅキさんと協力して一本ずつラップにくるみ、ジッパー付きの保存袋に入れていく。あっという間に作業が終わると、冷凍室に綺麗にとうもろこしを詰め込んだハヅキさんがにこにこと笑みを浮かべる。
「今日はここまで。心春ちゃん、がんばったね」
ふと、褒められたのは、とうもろこしの下処理の手伝いだけではない気がして、私は曖昧に頷く。
たくさん冷凍したとうもろこしは、夏休みの間にまた四人で食べるかもしれない。ハヅキさんと二人きりで過ごせるに越したことはない。だけど、口の中に広がった粒の甘さを思い出して、それも悪くない気がした。
【おわり】