六百年目の婚霊(?)写真
開湯六百年、おやしろ温泉最古の旅館、三澄荘。
旅館の守り神『小町御前』を祀る奥座敷で、現当主、三澄貴司は悩んでいた。
守り神のご神体たる小町御前人形が鎮座まします床の間の違い棚には、文明開化以降の代々の当主の写真が並んでいる。
いずれも正装で、人形用の白無垢を着せつけられたご神体の木人形と並んで写っているのは、婚礼写真だからだ。
三澄家の代々の当主は、小町御前人形と祝言をあげて夫婦になることで、その加護を繋いできたのである。
貴司自身も数日前、この奥座敷で祝言の儀式を済ませたばかりなのだが――。
当主と、小町御前との結婚。
これは家のしきたりであり、歴代の当主が守り神と恋愛関係を経て結婚したわけではない。
――と、わかってはいるものの、
「……むかつく」
貴司は現当主であり、つまり小町御前の今の夫である。どこの夫が、妻と過去の男たちの写真を並べられて喜ぶだろうか。
なかでも特に気に入らないのは、いちばん端にある比較的新しいカラー写真で――写っているのは貴司の実の父親、俊司だった。人間の息子も妻(つまり貴司と母のことだが)も捨てて宿泊客と駆け落ちしたくせに、どのツラ下げて小町様の夫だと。
(……破こうかな)
せめて俊司の写真だけでも、粉々に。
貴司にとって大叔父や曾祖父やらにあたる他の男たちは時効としても、この俊司だけは許しがたい。
(小町様、お許しください)
心のなかで適当に謝っておいて、安物のフレームに手を伸ばす。白い縁に指がかかった瞬間、
「貴司ぼっちゃま!」
明るい声で呼ばれて、全身がびくっと跳ねた。
硬直している貴司の横からひょいっと顔を出したのは、歳のころ二十代半ばくらいのきれいな娘だ。
浅緋色の着物に赤い前掛け姿で、まとめ髪につまみ細工の椿のかんざしを挿している。
どこからどう見ても旅館の仲居のようでありながら――この娘こそ、三澄荘の守り神たる小町御前が人の世に顕現した姿なのだった。
(でもまだ千代さんは、僕に正体を明かしてくれないんだよな)
千代というのは、旅館で働いているときの小町御前の呼び名である。
貴司は千代が守り神だと知る前から彼女に心惹かれており、十数年のあいだ切ない片思いを続けた末にようやく祝言にこぎつけたところなので、実はいま、幸せの絶頂にいるのだった――ただ、千代が自分は小町御前などではないと言い張るせいで、夫婦らしいことができていないだけで。
「こんなところでなにをしていらしたんですか? あ、それ、俊司さんの写真ですね」
貴司が父親に抱く複雑な心情など知る由もない千代は、引っ込めそびれた指が触れている写真に気づいて、嬉しそうな笑顔になった。
「やっぱりぼっちゃまに似ていますよねえ、俊司さん。優しそうな目元とか、きれいなお顔立ちとか、そっくりです。だからこのあいだ久しぶりにぼっちゃまにお会いしたとき、千代はびっくりしたし、とっても嬉しかったんですよ」
「……それは千代さんが、僕の父親を好きだったからかな?」
「えええ? なにをおっしゃっているんですか、ぼっちゃまったら。俊司さんはですねえ、もちろんかっこよかったですし、笑顔も素敵でしたけれど、お話をするお声が柔らくていい響きで、清潔感があってさわやかな匂いがして、ほかにもいろいろ」
並べ立てられる美点を聞きながら、貴司は父親のカラー写真を睨みつけ、決意を新たにした。
(お焚きあげに出してやる)
産土神である親代神社の次の祭日はいつだったろうか。
貴司が頭のなかでカレンダーをめくっているそばで、千代は優しい手つきで過去の夫たちの写真を並べなおし、それからまったく邪気のない顔で貴司を振り仰いだ。
「そういえば、ぼっちゃまは婚礼写真を撮らないんですか?」
「婚礼写真って、僕と小町様の? もう祝言はあげたし、今さら撮らないんじゃないかな」
貴司の母親の由美子も息子同様、小町御前にひねくれた思いを抱いているらしいので、先日の儀式の最中に記念写真を撮ろうなどという話は一切出なかった。
貴司としても、千代の過去の夫たちと一緒くたにして並べられるのは御免である。
だから素っ気なく言い放ったのだが、千代はとても残念そうに指をくわえて、首を傾げた。
「そうですか……ぼっちゃまもかっこいいから、俊司さんと写真を並べたらとっても見栄えがしそうなんですけど。わたしも、毎回どうやって写り込もうか楽しみにしていたので、ちょっと残念です」
「写り込むって、千代さんが? これは当主と小町御前人形との婚礼写真だけど……」
もしかして、いよいよ正体を明かしてくれるつもりだろうか。
千代こそが、小町御前だと。
貴司は期待に胸を躍らせたが、千代は(しまった)とばかりに口を押さえたあと、気まずそうに笑ってみせた。
「ええと、ぼっちゃまが見え……いいえ、気づいていらっしゃらないんならいいんですよ。千代もそんなに、目立とうと思って写ったわけではないので。ただちょっと、記念撮影のときってみんな大真面目だし、面白いじゃありませんか。だからええと、ちょっとしたおふざけで」
――いたずらを。
ごく小さな声で付け足す。
「?」
貴司は首を傾げ、改めて代々当主たちと守り神との婚礼写真に目を戻した。
千代と出会って以来、見ればむかつくのでまともに眺めてこなかった写真たちである。
ぱっと目に写っているのは、金屏風と、正装した当主と、白無垢を着せつけられた木人形だけだが……。
本性が神様である千代の姿は、普通の人間には見えない。
貴司が千代を見続けていられるのは、子供の頃に産土神に願って『見える目』を手に入れたおかげだ。
その目を凝らして写真に集中してみると――……じわじわと、見えてきた。
先々々代のふくよかな当主と小町御前人形とのあいだで、妙なピースサインをしている千代が。
先々代の隣で頬に手を当てて、古き良き『ぶりっ子』ポーズをしている千代が。
大正時代、歌舞伎の見得を切っている千代に、明治時代の見返り千代に変顔千代。
(これはいわゆる、心霊写真?)
「………………」
貴司の長い沈黙により、見えてしまったと察したらしい。そそくさと逃げだそうとする千代に、貴司はごく優しく声をかけた。
「千代さん」
「は、はいぃ! なんでしょうか、ぼっちゃま!」
「今度撮ろうか、婚礼写真」
「へ? ぼっちゃまがお着替えをなさって、改めて小町御前様と、ですか? それはもちろんいいことだと思いますけれど、どうなさったんですか、急に?」
「ちょっとね、気が変わったから」
貴司はふっと笑って、最後に手に持っていた先代、つまり父親の写真を違い棚に戻す。
スーツ姿の俊司と小町御前人形のあいだにちょこんと正座して写っている千代は、満面の笑みで嬉しそうだが、着ているものは浅緋色の普段着の着物だ。椿のかんざしは、成長してから貴司が贈ったものなので、髪飾りもつけていない。
(こんなの、婚礼写真じゃないよ)
小町御前人形の中身は、千代だ。代々の当主は婚礼に際してご神体の木人形に白無垢を着せつけてきたが、千代のほうはそのままだったらしい。
誰も、彼女を見ることができなかったから仕方ないのだろう。
だけど、貴司は違う。
(僕は千代さんが見えるし、触れられる。本物の婚礼衣装を千代さんに着せる方法も知っているんだ)
ちゃんと千代が身につけられる衣装一式を揃えて、小町御前人形に捧げればいいだけだ。だから、
「僕ももう一回羽織袴を着るから、今度は千代さんにも白無垢を着てほしいな。綿帽子を被って、金屏風の前に座って。とってもきれいだと思うよ」
「ええっ、わたしがですか……そうですねえ、どちらかといえば白無垢よりも色打掛を着てみたい……って、ぼっちゃま、なにをおっしゃっているんですか! ぼっちゃまが祝言をあげたお相手は小町御前様であって、千代じゃないんですよ。千代は守り神なんかじゃ全っ然、ありませんからね!」
「はいはい、そうなんだね」
「はい、は一回でいいんです。ぼっちゃまは三澄家の当主様なんですから、お返事もきちんとしなきゃいけません!」
「はい、気をつけます」
お説教する千代に追いたてられるように奥座敷を後にするとき、貴司は飾り棚の当主たちの写真を振り返り、小さく舌を出した。
(代々のご先祖様たちに、馬鹿父親。あなたたちは小町御前人形の夫にはなれたのかもしれないけれど)
「千代さんと結婚できるのは、僕だけだよ」
【おわり】