音
(短編小説新人賞 2022年年間最優秀賞 受賞記念作)
「ミソフォニアですね」
医師はパソコンの薄型ディスプレイに目を向けたまま言った。カチャカチャと何事か打ち込む日焼けした太い指がリズムカルに動く。
「やっぱり……」
わたしは背もたれのない丸椅子に座り、不安げに胸元にかかる髪の一房を触った。
「対応策としては、イヤホンやイヤーマフを使うとか、嫌な音を発している相手から物理的に距離を取るとか――それくらいでしょうか」
「じゃあ、わたしの人格に問題があるわけではないんですね?」
医師は椅子を軋ませ、わたしに向き直ると穏やかな顔に知的な笑みを浮かべた。
「安静さんはミソフォニア、音嫌悪症ともいう障がいをお持ちなんです。ミソフォニアは治療法が確立されていませんから、日頃から工夫するなどして対処していかなくてはなりません。特に嫌いな音はありますか?」
わたしは頷き、やや前のめりの姿勢になり打ち明けた。
「最近はカフェでノートパソコンを使って作業する人が増えましたよね」
「確かによく見かけますね」
「わたしはノートパソコンの打鍵音が特に苦手なんです……苦手というのはかなり控えめな言い方で――」
言い淀み視線を宙に彷徨わせる。
「いいんですよ。好きに話してください。ここは精神科外来で、安静さんは患者さんなんですから。誰もあなたを否定しません」
医師から優しく促されてわたしは安堵した。
「――殺意が芽ばえるんです。ノートパソコンをカチャカチャいわせながらタイピングしている人を見ると、心の中で罵るだけじゃなく、攻撃したくなるんです。特に頭にくるのはイヤホンで音楽を聴きながら作業している人。そういう人は自分の打鍵音が聞こえていないせいか、更にキーを叩く音が大きくなるから」
握った拳に力を込める。
「ノートパソコン限定? キーボードはどうです?」
医師は手元のキーボードに手を乗せて適当に指を動かした。カチャカチャと鳴るプラスチックの無機質な音。
「もちろん、キーボードも気にはなります。でも、ノートパソコンの打鍵音は更に怒りのボルテージが上がります。わたしにとって聞こえ方が違うんです」
「どんなふうに?」
「うまく説明できないんですけど、ノートパソコン特有の高く細い乾いた打鍵音が無数の鋭いナイフになって、わたしの脳を突き刺すようなイメージで……そうなってしまうと、激しい憎悪が溢れ出すんです」
「――そうですか。でも仕方ありません。先ほど説明した通り、ミソフォニアの患者さんは苦手とする音を聞くとそれがトリガーとなり、殺意や相手を攻撃したくなるといった感情を抱きやすい。だからと言って、本当に行動に移すわけではない」
「はい。わたしも実行する気はありません」
「基本、ミソフォニアの患者さんが不快に感ずる音は四〇〜五〇デシベルといった低い周波数です。政府が定めている騒音といわれるラインは越えていませんから、苦情を言うとわがままで神経質な人と捉えられ、更に本人はストレスを抱え込んでしまうんですよ」
「そうなんです。前職でも向かいに座る同僚のノートパソコンの打鍵音とハミングには悩まされました。周りの人たちが一向に気にしていないのを見て、自分だけの問題と気づいたんです」
「その職場はミソフォニアがきっかけで辞められたんですか?」
「まあ――、そうですね。大きな理由のひとつです。同僚の出す音に耐えきれなくなって上司に席替えを申し出たら、考えておくと言われたきり放っとかれました。一週間ほどしてもう一度お願いしたら、『君はわがままだ』と」
「辛かったでしょうね」
「もうその頃には半分諦めかけていたので、それ程ショックでもありませんでした。確かにミソフォニアを知らない人からしたら、わたしはわがままに映るはずです」
「それで今は何を?」
「デスクワークを避けて浦安のテーマパークでキャストをしています」
「いいですね。十月に入ってだいぶ涼しくなってきたから、今は混雑して大変じゃありませんか?」
「あそこは一年中混んでいますよ」
「確かに。――そこでは嫌な音に悩まされていませんか?」
「職場に問題はありません。でも……」
「どうしました?」
「実は埼玉の実家からは通勤が大変で、三ヶ月前に浦安のアパートへ引越したんです。わたしの部屋は二階の一番端で、隣室は空室でした。ところが最近、男の人が越してきたんです。隣の部屋に」
「――というと、今度は隣室の生活音で困っている?」
そうです。と言って医師の大きな瞳をすがるように見つめた。
医師は一通りわたしの愚痴ともとれる悩みを聞いたあと、右腕に嵌めた高級そうな腕時計にチラと視線をはしらせた。診察の終わる二十分が経ったのだろう。
「なるほど……とりあえずはお勧めした対処法でご自身に合うものを試してみてください。では、次回は一か月後かな。その時にまた今の話がどうなったか聞かせてください。受付で予約を取って帰ってくださいね」
わたしは軽めの精神安定薬を処方してもらい病院を出た。
アパートの隣人は引越しの挨拶にやってこなかった。
それは別にかまわない。ご近所付き合いは実家に戻った時だけでじゅうぶんだ。
ただ、彼が鳴らすパソコンの打鍵音やイビキには悩まされ続けた。
普通のマンションやアパートならばパソコンの打鍵音まで聞こえはしないだろう。
けれど築四十二年のこの古い木造アパートに限っては壁が驚くほど薄く、隣人の生活音は筒抜けだった。
咳、くしゃみ。電話での会話。トイレの水を流す音からいつ風呂に入っているかまで丸わかりだ。
バス、トイレ別で駅から徒歩四分。家賃が四万五千円なら文句は言えない。
隣にあの人物が越してくるまではそう思っていた。
集合ポストに配達物を取りにいった際、
〝二瓶〟という新しいプレートが二〇二号室のポストに嵌め込まれているのを見た。電話の話し声から関西出身の男性だというのは推測できたが、彼の顔はわからぬままだった。
精神科で診察を受けてから一か月が過ぎようとしていた。
薄い壁の向こうからは相変わらず、アップテンポなミュージックやバラエティ番組らしき騒がしいテレビの音と二瓶さんの笑い声、そして最悪なイビキとパソコンの打鍵音がわたしを攻撃し続けた。
医師のアドバイス通りイヤホンを耳に差し、心落ち着かせるクラシックからインストルメンタル・ミュージックを大音量で聴いたけれど、もともとのアレルギー体質が災いした。
夜から朝まで耳にイヤホンを差し込んでいたために次第に耳の内側が痒くなり、職場では相手の言葉が聞き取りにくくなるなど、支障がで始めたのだ。
耳鼻科で軟膏を塗ってもらい、イヤホン禁止令をくらった。耳を暫くの間解放してやらなければいけないという。
その日の晩は久しぶりにイヤホンをせずにベッドに横になり、頭のすぐ横で延々と繰り返されるカチャカチャカチャカチャカチャカチャ……という音を聞いていた。
二瓶さんは引っ越してすぐに部屋の模様替えをしたらしい。どうもわたしのベッドの頭側の壁にデスクをピタリとつけ、そこでパソコン作業をしているようなのだ。
カチャカチャカチャカチャカチャ……
もういい加減にして!
そうわたしが思うのを見計らったかのようにパ――ンッ! という音が壁を突き抜けてくる。(おそらくエンターキーだ)
わたしが寝返りを打ちながらドンと壁を手で叩けば、そんなものは抗議のうちに入らないとばかりにタイピングが再開される。
抗不安薬を飲んでみてもイライラは解消されない。頭の横で繰り返される音、音、音。
腹の底からは憎しみと殺意がメラメラと湧き上がり、今にも隣へ怒鳴り込んでしまいそうな自分を抑えるのに必死だった。
翌朝、夢の国では目の下に青いクマをつくって接客するわたしがいた。
休憩中にトイレで手を洗いながら鏡を見ると、蛍光灯に照らされた顔は、自分の持ち場であるゴーストの館に相応しかった。頭に付けたカチューシャの飾りコウモリさえ、グッタリしているように思えた。
隣の洗面台に来た仲のいい同僚に、「のどかちゃん、なんか疲れてる?」と心配された。
「寝不足なだけ」
「寝付きが悪いの?」
「うーん、ちょっと――隣人の物音に敏感になっちゃってて」
「騒音問題かぁ」
騒音になるのだろうか。わたしにとっては騒音でも、周りからしてみれば取るに足らない生活音かもしれない。
「あまり酷いようなら管理会社に言ったら?」
「管理会社なんてないよ。古いアパートで、相談するなら不動産屋さんか下に住んでる高齢の大家さんだけ」
「へえ。なんでそんな古いアパートにしたの?」
「駅近だったし、とにかく家賃が安かったから。最近は光熱費が上がってるでしょう? だから少しでも低く抑えたかったの」
「まあね、やり甲斐はあるけどアルバイトだものね、私たち」
同僚は深緑色のシックなロングドレスの胸もとに落ちた髪を摘んで床に落とした。
気を抜くと閉じそうになる重い目蓋を懸命に開いて帰宅すると、アパートの渡り廊下からすでに二瓶さんの生活音は耳に届いた。それだけでズシンと胸が重くなる。
週明けには精神科外来の予約が入っている。医師に相談しても解決法はないと分かりながら、専門家に掛かっているという安心感が欲しかった。
二瓶さんの部屋の前を通ると、電話の話し声は一際大きくなった。格子窓の前で話す二瓶さんの影。
「――店長、頼んますわ。俺一週間休ませてもらってないんですよぉ。今月まだ休み二日しか貰ってへんし。え? 頼りにされても俺が死んだらどうしてくれます? 化けて店長の枕元たちますよ? そら金は欲しいですよー。勘弁してください。いや、確かにユブラジにはまだ荷が重いですよ、日本語イマイチやし――」
二瓶さんはどこかのチェーン店に勤めてるのかもしれない。パソコンを使って頻繁に作業するのは仕事とは関係ないのかも。
部屋に入るとベッドに倒れ込み、そのまま泥のように眠った。その日だけ、わたしの眠気がミソフォニアに勝利した瞬間だった。
――明け方、尿意で目覚めた。
トイレに行き用を足すと、ついでに皺くちゃになった服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
パジャマ用のシャツ型ワンピを頭から被って首を出し、壁掛け時計を見た。四時少し前だ。
今日は遅番だからまだゆっくり寝られる。
再びベッドにゴロンと横になった。
目を閉じる。
……カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ
信じられない。この時間に寝ていないなんて。しかもパソコンを今時分使うなんて――。
二瓶さんのイビキも嫌だけど、パソコンの打鍵音はそれ以上に辛い。
昨晩のこともあり、憎しみのマグマが今にもわたしの体を突き破って噴出してしまいそうだった。
両手を耳に当ててもその隙間から打鍵音が入り込んでくる。耳を塞いでいるのだから本当は聞こえていないのかもしれない。打鍵音に取り憑かれた末の幻聴なのかもしれない。もはやどちらか分からずわたしは上掛けを頭から被った。
――と、静かになった空気を感じ、耳に当てた両手をゆっくり外してみる。
寝たのかな? ホッとしたのも束の間、再び始まるタイピング。
カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ……
その瞬間、頭の中でカチリと撃鉄を起こすような音を聞いた。同時に勝手に右足が動いていた。
ドガッ‼︎
鈍い音と共にわたしの右足は壁にめり込み、足先はひやりとした空気に触れていた。
――やばい。
自分のしでかした事に動転し、壁から足を引き抜き、「わ、わ、わ」と声を出す。
足に怪我はしていないけど正気を取り戻すとジンジン痛みだした。指も足首もおかしな方向に曲がってはいないから骨折はしていないみたいだ。石膏ボードの白い粉がついた足を摩りながら壁を見る。
ベッドの足側に直径約二〇センチほどの穴がポッカリと口をひらき、その穴は隣の部屋まで貫通していた。わたしは息を呑んだ。
「嘘やん……」
それが隣人、二瓶さんの第一声だった。
二瓶さんは穴の前にやってきた。穴からは彼の腰部分しか見えなかったが、直ぐに顔が現れた。
二瓶さんは丸顔にたらこ唇が特徴的で、目と目の間が狭かった。
「おいコラ」
わたしはショックで直ぐに返事ができず、身を硬くした。
「おい! 聞いとんのか」
「はい……」
「どうしてくれんねん、この穴」
「はい……どうしましょう」
「こっちが聞いとんのや、頭沸いてんのかお前は」
「すみません」
二瓶さんは穴から離れて部屋を行ったり来たりし始めた。穴から離れることで二瓶さんの全身が垣間見えた。中肉中背。年齢は三十半ばくらいか。
「ああ〜かなわんなぁもう!」多くて硬そうな髪を掻きむしる。
わたしはというと、ずっとベッドの上に正座して、壁の穴に向き合っている。修繕費用はどのくらいになるのか考えていた。間違いなくふた部屋分。足りない場合は実家に頼るしかないかもしれない。
「おい」
「はい!」顔をぱっとあげると穴いっぱいに二瓶さんの収まりきらない顔がわたしを睨んでいた。
「下行ってなあ、大家の爺さん呼んでこい。あのスレンダーマン(細身で異常に背が高い背広を着た架空のキャラクター)みたいなやつおるやろ」
「え……でも午前四時ですよ? さすがにお休み中なんじゃ……」
「あの爺さんはお日様より早起きや。夜は八時前に寝る言うとった。もう起きて庭の花壇の手入れでもしとるやろ」
「はあ……」
「はよ行かんかい!」
「はい!」
ベッドから降りると玄関でサンダルを引っかけ、外廊下をヨタヨタしながら歩いた。鉄製の階段を他の部屋の住人に気遣いながら静かに降りる。これだけ大騒ぎしておきながらそれに意味があるか分からないけれど。
一階の一番端に大家さんの部屋はある。わたしの部屋とは対角に位置している。
大家さんは確かに起きていて、暗がりで庭の花壇にジョウロで水やりをしていた。
大家さんは二メートルはあるんじゃないかと疑いたくなるほど背の高い人だ。実際は百九十二センチだそうで、それは引越しの挨拶の際に教えてくれた。若い時は百九十五センチあったらしく、歳をとって縮んだのだそうだ。体格は骨張っていてとにかくスマート。二瓶さんがスレンダーマンに喩えるのも頷ける。
「おはようございます」
大家さんの背後からおずおずと声をかけると、大家さんはこんな早朝にも関わらず、別段驚いた風もなく振り向いた。
「ああ、安静さん。おはようございます」
「あの、ちょっと来ていただきたいんです。大家さんに直接見てもらいたいものがありまして……」
アパートの外灯の下で大家さんの眼鏡が光る。
「なんでしょう。そういえばさっき、二階から凄い物音がしましたけど」
「その件でちょっと、一緒に来てほしいんです」
二、三歩後退りし、階段を指差して言った。
「お願いします」
「わかりました」
大家さんはジョウロを花壇の脇に置くと、後ろからついてきた。わたしは階段を静かに上がりながら、ドクドクと脈打つ心臓の音を聞いた。
大家さんはアレを見たらどんな顔をするだろう――。
怖々自室の扉を開く。
「どうぞお上がりください」
大家さんはわたしの部屋に入るなり、眼鏡の奥の小さな瞳を見開き、息を吸い込んた。シュウッと。
それからズンズン穴の前まで歩いていき、顔を覗かせている二瓶さんに向かって言い放った。
「二瓶さん! なんてことをしたんですか!?
若い女の子の部屋に穴を貫通させるだなんて、あなた正気ですか!?」
それを聞いた二瓶さんの顔色はみるみるうちに変わっていき、大声をあげた。
「こーれーだーかーら嫌やねん! ホンマに。偏見ちゅうのは! 怖いわ!」
穴から離れて腕を振り回し、ブツブツ悪態をついている。
「違うんです。わたしが開けたんです、その穴」
わたしが白状すると、大家さんは振り向きざまに言った。
「あなたが?」
「はい」笑う場面でもないのに気まずさの余り意味もなく媚びへつらうような笑みを浮かべてしまい、直ぐ真顔に戻す。
「あなたのように細い体のどこにこんな穴を開けるパワーがあるのか不思議でしょうがないんですがね」
大家さんはスーパーで夕飯の献立に悩むおばさんみたいに頬に片手を当て、わたしを見おろしている。
「おっちゃん、壁の内側スカスカやないけ。石膏ボードも古くて薄いし。欠陥住宅やわ」
「欠陥住宅はないでしょう、二瓶さん。まあ、親戚の工務店には多少無理を言って建ててもらいましたけど」
大家さんは頬に片手を当てたまま、二瓶さんからわたしへと視線を戻して言った。
「それにしても、どうしてこんなことになったんです?」
まだ信じられないといった顔をしている大家さんに説明する。
「以前からお隣の音が気になっていて。始めは我慢してたんです。でもなんていうか――とうとうわたしの怒りが頂点に達してしまったというか……」
「俺の怒りは頂点なんぞ突き抜けとるわ! 聞いてれば勝手なこと抜かしよって! 言うてみい、騒音をいつ俺が出したんや!」
穴の向こうから鼻と目と口だけ出して咆える二瓶さんの剣幕に慄き、大家さんの長細い背中に隠れて顔を半分だけ出した。
「何を隠れとんねんコラ!」
「まあまあ二瓶さん、起きてしまったことを責めても仕方ない。これからどうするかを考えましょう」
ご立腹の二瓶さんを大家さんが宥める。
「おっちゃん、あんたさっきはめっちゃ俺のこと責めたで」
「まずこのアパートはね、わたしのとこの親戚が建てたんで、修繕なんかはいつもそこに頼んでるの。今は代替わりして従兄の息子がやってんだけど、そこに頼みますから。それまで待ってください」
「勘弁してや、もう」
「すみません」とわたし。
「それまではね、タオルや段ボールでも使って、穴に目隠ししておいてください」
部屋を出ていく大家さんを玄関口まで見送る。
「こんな時間にお騒がせしてすみませんでした。ご迷惑おかけします」
「まあ、修繕作業が入るまでの辛抱ですよ。さっきは早とちりしましたが、ああ見えて二瓶さんは面倒見のいい人です。わたしがネットに弱いのを知ってね、家のネット環境やらスマホの細かい設定やら、いろいろ助けてくれたんですよ。『アレやらなあかんやろ。コレもやっとかなあかんで』って。大丈夫、口は悪いけど悪人じゃあないから」
「おっちゃん、いつまで若い女の部屋におんねん。早よ出ていかんかい」
大家さんは「はいはい」と言って扉の向こうへと消えた。
自分を庇ってくれる存在がいなくなり、不安に打ち震える。
「名前は?」
その問いかけに振り返ると、二瓶さんはまだ穴に顔を付けてこちらを見ていた。まるで人面瘡みたいで可笑しかったが、怒鳴られそうなので笑わずにおいた。
「あんた、ポストにもドア横にも名前だしてないやろ? 防犯のためか」
「はい」
「その方がええ。でもこれでこっちは被害者や。教えてもらおか」
「安静のどかです」
「穏やかそうな名前やがな。とても壁をぶち抜きそうにない」
「歳は?」
「二十五です」
「俺の一〇こ下か。俺は二瓶学いうねん。駅前の二十四時間営業の牛丼屋で働いてる」
わたしは二瓶さんにミソフォニアをカミングアウトすることを決め、ベッドに小走りで上がると、再び正座の姿勢をとった。
「な、なんや」
「実はわたし、――ミソフォニアなんです。音嫌悪症ともいう障がいです。特定の苦手な音に敏感で、その音を繰り返し聞いていると逃げだしたくなったり、激しい憎悪や攻撃性といった感情を抱いてしまうんです」
「で?」
「で、今、精神科に掛かってまして、試行錯誤しているところです」
「そのミスコリアっちゅうんは治るんかい」
「ミソフォニアは治すのは難しいです。だから対処療法が一般的で、わたしは二瓶さんが越してきてからイヤホンを耳栓代わりにして音楽をずっと聞いてたんです。でも耳がアレルギーを起こしてしまって、今日はノーイヤホンだったんです」
「そら、えろうすんまへんなぁ! 迷惑かけてもうて」
二瓶さんはたらこ唇の下側を突き出した。
「嫌みで言ったんじゃないです。わたしにはいろいろトリガー音があるんですけど、パソコンの打鍵音とハミングには特に敏感で。壁が薄いせいもあって、耳が音を拾ってしまうんです」
「ほう」
「二瓶さん、お部屋の模様替えをされましたよね? 以前はこんなに壁の近くでは聞こえなかったと思って」
「したよ。今のデスクの位置が一番ピッタリくるねん」
「そうですか。わたしもベッドの位置はここが最適なんですけど、移動させる方向で考えてみます」
「その方がええな。部屋のど真ん中がええんちゃうの。どんなに暴れても壁に足が当たらんし」
「そうですね。明日さっそく移動させます」
今は無理だ。物音で階下の人にさらなる迷惑をかける。
「安静さんは皮肉が通じんらしいな」
「通じてます。でも、少しでも壁から離れた方がいいと思って」
このアパートは六畳間と四畳半の二間続きで、台所は板の間で三畳ある。
四畳半には箪笥やクリアケース、書き物机でもういっぱいだ。かといって六畳間のコンセントプラグやモジュラージャックがある壁側にベッドを配置したくはない。
古いアパートだから窓辺にベッドを置けば冬は寒さで凍えるだろう。あの位置が駄目なら真ん中に配置するしかない。きっと奇妙な部屋になることだろう。
しょせんこの狭い室内からベッドを僅かに移動させたところでたかが知れている。音感センサーと化したわたしの耳はすぐに二瓶さんがたてる物音に反応してしまうだろう。
イヤホンが暫く使えないのならイヤーマフはどうだろうか。しかしこれから壁の弁償をしないといけないのだから、出来れば買い物は控えたいところだ。
イヤーマフについては一旦忘れ、穴を覆う作業の方へ意識を向けた。
部屋には段ボールの空き箱が無いため、バスタオルで穴を覆うことにした。
既に穴から離れて奥へ引っ込んでいる二瓶さんに声をかける。
「二瓶さん、画鋲とかお持ちですか?」
「ここは賃貸やぞ。持ってへん」
「ガムテープは?」
「安静さんは持ってないんかい」
「ないです」
「難儀なやっちゃなぁ」
穴から二瓶さんの部屋を覗いてみる。意外と言っては失礼だが、こざっぱりとして片付いた部屋だった。
二瓶さんは奥に置かれたチェストの引き出しを開け、ガチャガチャ中を探り、ガムテープを取り出してきた。壁の穴から残り少ないガムテーを持った手がこちら側に入ってくる。
「ほれ」
「ありがとうございます」
バスタオルをガムテープで貼ってみる。何だか心許ないが、今はこれくらいしかできない。あと数時間後の出勤に備え、少しだけでも睡眠を取りたかったが、目が冴えてしまい全く寝付けなかった。
「――それは災難でしたね。お隣の壁まで穴が空くとは」
医師はパソコンのディスプレイに向かい、わたしの失態を打ち込んでいる。
精神科での二回目の診察日。わたしはこれまでの出来事を医師に報告した。
「それで今は?」
「チェストを穴の前に置いています」
「移動させるのは大変だったでしょう」
「キャスターが付いてるので簡単でした」
「でも気になりませんか? お隣は男性でしょう」
「口は悪い人ですが悪人ではありません」
「そうですか。念の為、気を抜かない方がいいですよ。生活音の方はますます気になるようになったのでは?」
「はい、それは確かに」
「イヤホンで耳もアレルギーを起こしたんですよね」
「今は安いイヤーマフを買って使ってます。万全ではないですけど」
「ふむ」
「はい」
医師は前回とは違う有名ブランドの腕時計をしており、サッとその高級時計に視線をはしらせると言った。
「ではまた、一か月後ですかね。受付で予約を取ってお帰りください」
秋晴れの日曜午前十時――
連休中の園内は大賑わいだ。
ゴシック様式のホラー感満載の館前で案内役に勤めていると、よく知った声が聞こえた。
「あれ? 安静さん?」
目の前には華奢でバンビみたいな目をしたかつての同僚である石田さんが、わたしの元カレと手を繋いで立っていた。
彼らの前後はウネウネとした長蛇の列で、数分立ちどまっては進んでいく。
「のどか。こんなところで働いてたのか」
彼は言った途端、横に立つ石田さんをチラ見した。わたしを昔のように呼び捨てで呼んでしまったから気まずいのかもしれない。
「安静さん制服似合ってる〜。可愛い〜」
石田さんはわたしの全身を下から上に舐めるように見た。
「ねっ」
伸二に顔面がくっつきそうなくらいの距離で同意を求める。
「ああ……そうだね」
そこで列が大きく前進した。
「じゃねっ! 頑張ってね」
石田さんはわたしに向けて小刻みに手を振りながら先へ進んでいき、そんな彼女に押されるかたちで伸二も前を歩いていく。
伸二は一度だけ罪悪感の満ちた瞳でわたしを捉え、すぐに視線を逸らした。わたしは黙って二人を見送った。
急に訪れた嬉しくないサプライズ。
それにより思い起こされる嫌な記憶から逃れようとしても、結局治り始めた瘡蓋を剥がすようにして傷口を見てしまう。
半年前までわたしは製紙会社の事務職に就いていた。伸二は同じ会社の営業で、たまに顔を合わす程度だったが、飲み会の席で隣り合い、意気投合した。
付き合いだして半年経った辺りから、彼が仕事が忙しいから会う回数を減らしたいと言い始めた。わたしは特に疑いもせず了承し、気づいた時には石田さんにすっかり心変わりした伸二に、電話で別れ話を切り出されていた。
あの時、石田さんは伸二の隣にいた。ポソポソと囁いていた彼女の声が忘れられない。
翌朝、石田さんは悪びれた素ぶりも見せず会社に現れ、向かいの自席に着いた。机上のノートパソコンを開き、いつものようにメールをチェックし、それから眉をハの字にして言った。
「安静さん、悪く思わないでね」
「え……」まさか周りに他の社員がいる中で言われるとは思わなかった。
「でも、こういうのって誰が悪いとかないと思うの。人の心は縛れないでしょう?」
「あ……」
「なになに? どうしたの?」
隣の島のデスクから先輩の女性社員が興味津々といった様子で声をかけてきた。
「こっちの話ですよ、先輩。仕事上のトラブルじゃないんで安心してくださーい」
陽気な声をあげ、石田さんはノートパソコンに向き直ると仕事を始めた。
よほど気分がいいのかハミングが止まらない。わざとなのかそうでないのか、伸二の好きなバンドのヒット曲だ。
その日から、虫が這いまわるようなパシャパシャいうノートパソコンの打鍵音と〝わたし今、超絶ハッピーなの!〟と言わんばかりのハミングは、わたしの精神を極限にまで追い詰めた。
やめて――お願い。そのハミングもキータッチも。今すぐにヤメロ。
退職を決意するまでそう長くはかからなかった。
ミソフォニアは後天的なものらしい。確かに、学生時代を振り返ってみても多少その気はあったかもしれないが、ここまで病的ではなかった。
石田さんの存在が、わたしをミソフォニアへと発達させたのは間違いないだろう。
仕事を終え、いつもより重い足取りで家路につく。早番だからまだ十八時にもなっていない。
今日の出来事が思考ゲージを最低レベルにまで引き下げていた為、夕飯の買い物を忘れていた。
冷蔵庫にあるのはよく冷えた水とミルクと卵だけ。外食する元気はない。
溜め息を吐き、壁に背を預けて寄りかかる。左肩の横には穴の前に置かれたチェスト。そこから二瓶さんの声が聞こえてきた。
「おつかれさん」
「今帰りました。二瓶さんも今日は帰りが早いんですね」
「ああ。さっき帰ったばっかりや」
「おつかれさまです」
「なんや、声が元気ないやんけ」
「……嫌なこともありますよ」
「せやな……これから飯か?」
「ボーっとして買い物するのを忘れちゃって。ゆで卵作ってそれだけ食べて早めに寝ます。今晩はパソコン打つのはご遠慮ください」
「ちょっと、この箪笥みたいのどかせへん?」
「どうして?」
「ええもんをやる」
キャスター付きのチェストを押して穴を露出させると、穴から深型で四角い発泡スチロール製の容器が出てきた。フタの上には割り箸まで載せてある。この匂いは……
まだじんわり温かいその容器は、受け取ると予想よりズッシリしていた。
「俺んとこの牛丼や」
「牛丼……」
「牛丼食ったことあるやろ?」
「ないです」
「嘘やん。そんなやつおるんか」
「わたし、変ですかね」
「――まあ、俺の知り合いにピザ食ったことないゆう奴おったしな。変ではないよ」
「でも、これ二瓶さんのでしょう? もらっちゃっていいんですか?」
「二個持って帰ってきた。でもここんとこ、だいぶ腹が出てきたしな、安静さんにやる」
「ありがとうございます」
わたしの記憶では、我が家の食卓に牛丼が並んだことはなく、両親に牛丼屋へ連れていかれた思い出もない。友人や彼氏とも食べにいくチャンスはなかった。たまに街中で牛丼屋の前を通ったとしても、さして興味を持たずに生きてきてしまった。
蓋を開けると内側に着いた水滴が垂れ、芳ばしい汁と肉の香りが部屋中に漂った。一口食べてみると、なぜもっと早く食べなかったのだろうと悔しくなった。お腹が空いていたのも手伝い、割り箸でかき込むように食べた。
「うまいか?」
「おいひいです」
「せやろ。おっと、コイツを忘れとった」
二瓶さんは封を切った付け合わせの紅しょうがを穴から見せて、わたしに容器をよこせと言う。三分の一ほど食べてしまった牛丼の器を差し出すと、二瓶さんはその上に紅しょうがをあけ始めた。わたしに紅しょうがは好きかどうか確認もしない所がおせっかいな二瓶さんらしい。でもそれは確かに美味しかった。
「うまいやろ。紅しょうがを載っけてない牛丼なんてサビ抜きの寿司と一緒や」
穴の横で全て平らげてしまうと、二たび二瓶さんにお礼を言った。
「気に入ったんならいつでも俺の働いてる店来たらええよ。牛丼の一杯くらいご馳走したる」
――いい人かも。
と思ったのも束の間、壁の後ろ側からパソコンの打鍵音が鳴りだした。途端に神経がピリピリしだす。今日は特に聞きたくない。いつだって嫌だけど。
「二瓶さん? わたしさっき、今日はそれやめてくださいねってお願いしましたよね」
「こっちにはこっちの都合があるんでね。ごめんやで」
「……それ、何をやってるんです? 小説でも書いてるんですか?」
「いや、再浮上の為の計画書や。思いついたら忘れんうちに打っとくねん」
なんだ、再浮上って。
「手書きじゃ駄目?」
「二度手間になるやんけ」
「わたし、ミソフォニアだっていいましたよね。本当に駄目なんです。その音」
打鍵音がピタリと止む。
穴から二瓶さんが顔を覗かせ、「ちょっとわがままなんと違う? 自分」と言った。
カッとして考えるより早く口が動いていた。
「それはそっちでしょ!」
「はあ? 安静さん。さっき俺に礼を言ったばかりやぞ。ちょっと情緒が不安定すぎやしませんか?」
そう言って二瓶さんはわざとノートパソコンを穴の前まで持ってくるとカチャカチャとキーを打ち始めた。
「最低! 一〇も下の人間を相手に子どもじみてません? そんなことして楽しいの?」
「あー、楽しい楽しい」二瓶さんは首を左右に揺らしながら舌を出してキーを打ち続ける。
「やめてってば!」穴から腕を伸ばし、二瓶さんのパソコンを摑んだ。
「何をすんねん、壊れるやろ!」
わたしはパソコンを引っ張り、二瓶さんは渡すまいとしてしばし揉み合いになる。
バゴンッという音と二瓶さんのパソコンがわたしの手元にきたのは同時だった。
目の前には直径二十センチほどだった穴がさらなる進化を遂げ、広がった横幅は三〇センチを超えていたと思う。
「あーあー、見てみい! おまえのせいで穴が広がってもうたわ。どないすんねんアホ!」
「……大家さん、呼んできます」
二瓶さんはまだ言い足りないのか玄関に向かうわたしの背中に言葉を浴びせかける。
「あんたはパソコンの音聞くと超人にでもなるんか! どこにそんなパワーが潜んでんねん!」
惨状を目のあたりにした大家さんは呆れ返った。
「どうしたらこうなるんですかね。わたしは穴が広がろうが縮まろうが構いませんが、安静さん、あなたが大変になるんですよ。穴が大きくなればなるほど修繕費用が嵩むんですよ?」
わたしは大家さんの前で項垂れていた。もう言い訳すら思いつかない。
「おっちゃん。俺の部屋の修繕費用は出すわ。今回は俺にも責任の一端があんねん」
驚いて穴から顔を出す二瓶さんを見る。
「二瓶さんにも?」と大家さん。
「ああ。幸いにしてパソコンは無事やったし」
「まあ、支払いはどちらがしようと構いませんがね。もう二度とごめんですよ、気をつけてくださいよ、お二人とも。仲良く!」
大家さんは肩を怒らせわたしの部屋から出ていった。
部屋の真ん中に置かれたベッドでしばらく膝を抱えたまま黙っていたわたしは、二瓶さんに語りかけた。
「いいんですか、修繕費用の件」
「ええよ。さっきは確かに子どもじみてた。安静さんの言う通りや」
ベッドの上掛けの弛んだ生地を指で弄りながら話し出す。
「……わたしね、今だに振られた彼氏の写真アプリの投稿を見てるんです。わたしから彼を奪った彼女のアカウントまでチェックして。やめたいのにやめられないの」
「そんなんしても辛いだけちゃうの? 次へ行け次へ」穴からその姿は見えないものの、声だけが聞こえる。
「そんな簡単じゃないんです」
「そいつじゃなきゃ駄目なんてのは幻想や」
二瓶さんと恋愛について討論する気はない。
「……再浮上ってなんですか?」
「なんて?」急に話題を逸らされ、二瓶さんの声が裏返る。
ベッドをおりて四つん這いで穴に近づいていく。
「さっき言っていたノートパソコンを使って作ってる〝再浮上〟ってなんですか」
「ああ……いつかまた会社を経営したいねん。その為に今からいろいろ計画を練っとるんよ」
「〝また〟って、経営者だったんですか、二瓶さんは」
「そうや。俺な、二年前まで大阪におってん。そこで親父から譲り受けた部品工場を経営しててんけど、倒産したんよ。借金抱えて、妻子に逃げられて、その後直ぐに元嫁はオーストラリア人と再婚してな、子ども二人連れて今はパースで暮らしとるわ。慰謝料いらんから連絡寄越すな言われてん。にしても、パースて! ハハハ」
「……なんか、すみません」
「謝るな。よけい惨めになるやろ」
「どうして東京へ来たんですか?」
「自己破産はしたけど親戚にも借金してたからな。今も毎月少しずつ返してんけど、大阪にいるとつらくなるねん。だから逃げてきた」
「そうだったんですか」
「十五人いた従業員の再就職先だけは頭下げて回ってなんとか見つけられたから、それだけが救いやな。さっきあんたが言うとったやつ、写真投稿するアプリあるやんか」
「あ、はい」
「あれ、俺もしょっちゅうチェックしてた。元嫁の」
「二瓶さんも結構メンヘラなんですね」
「アホ。あんたと一緒にすな。俺が見たいのは子供たちや。まだ五歳と三歳の」
「あぁ……」
「もともと嫁のアカウントは鍵アカやってんけど、最近ブロックされてん俺……」
元奥さんからブロックされては、もう子どもたちの日々の成長もチェックはできないだろう。
「なんでなん?」
わたしは二瓶さんに同情した。
「なんでなん?」
同じ言葉を繰り返し、二瓶さんはそれ以降ふっつりと黙り込み、パソコン作業も諦めたようだった。
チェストを穴の前に戻してしばらくすると、二瓶さんは大イビキをかいて寝てしまった。
わたしはベッドで俯せになり考えていた。そしてライオンの咆哮みたいな二瓶さんのイビキをBGMに、簡単に荷造りをするとキャリーを引いてアパートを出た。
そのまま埼玉の実家に戻ったわたしは戸建ての快適な環境で、アパートの壁が修繕されるのを待った。
実家ではイヤーマフをせずとも過ごせたし、夜もぐっすりと眠れた。ただやはり埼玉の飯能から舞浜駅は遠く、遠距離通勤に限界を感じた。
実家に戻ってから五日後、壁が直ったと不動産屋を通して連絡を受けた。
その翌日、わたしは浦安駅近くの二十四時間営業の牛丼店を訪れた。
昼時を過ぎた店内はわたし以外に客は二人だけだった。コの字型のカウンターテーブルに腰掛けているのはどちらも男性で、一人は牛丼の横にスマホを置いて食べながら指で画面をスクロールしている。もう一人はカバンを斜めがけにしたまま余程急いでいるのかかき込むよう食べており、むせていた。
一番端の席に着席すると、二瓶さんはすぐにやってきた。
「安静さん。来てくれたん? 急にいなくなって心配したわ。大家のおっちゃんが実家に居るて教えてくれたけど。やっぱ居心地いいやろ、実家は」
わたしは笑顔で頷き、牛丼の並盛りを注文した。オーダーを通して戻ってきた二瓶さんはカウンターに両肘を乗せて嬉しそうに言った。
「前に約束したとおり、ここは俺の奢りや。ゆっくりしてき。せや! 報告があんねん」
わたしが小首を傾げると、二瓶さんは秘密を打ち明けるように少し声を潜めた。
「大したあれじゃないねんけど。まず、俺の部屋の机の位置を変えたわ。ほんで、静音効果付きのキーボードカバーっちゅうのを購入してん。これでパソコンのタイピング音はかなり小さくなるはずやで。あとな、安静さんが朝番の日を前もって教えてくれたら、俺はできるだけ夜勤にシフト入れてもらうわ。それならあんたも朝までゆっくり寝れる思て。ええやろ?」
「二瓶さん……」
わたしの為に気を遣って対策をしてくれた彼に、あの部屋は引き払うつもりで、舞浜駅近くに新たな住まいを決めたばかりだと告げなければならなかった。
今度は鉄筋コンクリート製のマンションでオートロック付。家賃は一万五千円上がるものの、内見でしっかり壁の厚さをチェックしてあった。
二瓶さんはおでこに深い横皺を数本寄せ、その顔に一瞬だけ切なさがよぎるもすぐに破顔した。
「せやな。それがええ。あんなボロアパートに安静さんみたいな若い女の子が住んどったら親は心配や。あっこはな、こんな時間に牛丼食いにきよる男連中が住むような場所やよ」
二瓶さんは物凄い偏見を口にすると、二人のお客さんに「なあ!」と満面の笑みで声をかけた。
スマホを熱心に弄っていた客は顔をあげてゴクリと口の中のご飯を飲み下し、斜めがけの男と顔を見合わせた。
斜めがけの男がレジ前ですみませんと二瓶さんに声をかける。
「はいよ!」
二瓶さんはよく通る声をあげ、レジに向かっていった。
『ユブラジ』というネームプレートを付けた男性店員が牛丼を運んできてくれた。わたしはそれに紅しょうがをたっぷり載せ、箸をつけた。
*
コンクリート打ちっぱなしの洒落た外観の五階建マンションは、全室が単身者向けの築浅物件だ。
引越し当日、日暮れ前には部屋が八割型片付き、作業をひとまず終了した。
予め用意しておいた贈答用のハンドタオルが入った薄い箱を段ボール箱から取り出し、お隣に挨拶にいこうとした時だった。
どこからともなくパシャパシャというあの、ノートパソコン特有の音が聞こえてきた。それだけじゃない。ハミング。途切れることのないハミングが、二瓶さんより大きく癖の強い打鍵音と重なり合い、強烈なトリガー音となってわたしに襲いかかってきた。――嘘でしょ。
脳味噌の表面を小さな虫たちが這い回るような不快感。
音の発生源を辿ると、それは窓の外から聞こえてきていた。わたしの部屋は三階の角部屋。空気を入れ替える為に窓は半分だけ開けていた。付けたばかりのカーテンが風で膨らみ揺れている。
そっとカーテンを引く。向かいには一メートルも離れていない距離にタイル張りのマンションが建っている。わたしの住むマンションよりもずっと高級な分譲マンションだ。
目の前では窓を開け放ち、咥えタバコで熱心にノートパソコンを操る一人の男性がいた。その人はわたしの視線に気づくなり口からタバコをもぎ取ってその手を高く上げ、にっこり笑いかけてきた。
「やあ、どうも。その部屋、新しい人が越してきたんですね」
「……はい」
彼はタバコを掲げて言った。
「チェーンスモーカーだから、いつも部屋の窓を開けて仕事してるんだよ。カミさんがうるさくてね」最後だけ小声になる。
「はい……」
「君の部屋の前の住人は正直言ってちょぉっと神経質な人だったね。なんでも俺のハミングとタバコが不快だからやめろって、酷いご不満振りでさ。でも君は見るからに穏やかそうな人だ。良かったよ」
それには答えず静かに窓を閉めた。すぐに調子っぱずれなハミングと叩きつけるような打鍵音が、窓を突き抜け部屋に侵入してきた。
わたしはハンドタオルの箱をグニャリと両手でひん曲がるまで握り潰し、床に落とした。
【おわり】
参考資料
http://everything-arises-from-the-principle-of-physics.com/wp-content/uploads/2021/04/misophonia.pdf
ミソフォニア
https://misophonia.support/
日本ミソフォニア協会