遠き日の、あなたへ

集英社オレンジ文庫11周年フェア『百番様の花嫁御寮』(東堂 燦)スペシャルショートストーリー


 初夏の夜、(のき)(さき)に吊るした(ふう)(りん)が可憐に鳴る。
 真夜中の静けさに寄り添う鈴音は、庭から聞こえる虫の音と合わさって、耳に心地よかった。
 ()()は離れ屋の縁側で涼みながら、空を見あげる。
 雲ひとつない夜空には、欠けを知らない丸い月が昇っていた。冴え冴えとした白い月にはまだらに薄暗いところがあり、まるで兎のようだった。
「月見か?」
 夫である(なる)()の声がして、紗恵は振り返った。
「ええ。成実様も、よろしければ、ご一緒に。今日は満月ですよ」
 主屋から帰ってきた成実は、そのまま縁側まで歩いてくると、紗恵の隣に腰を下ろした。
「見事な満月だな。(かえり)(ざき)に戻るときにも、列車の中から見れば良かった」
 成実が邪気祓いから戻ってきたのは、この夜のことだった。移動の大半は列車だったようなので、きっと、車窓からも月は見えただろう。
「列車からも見えたかもしれませんが、私は成実様と一緒に見ることができて、嬉しく思います。昔、月には兎が住んでいる、と(たか)()お兄様が言っていました」
「俺は、あれは月の海なのだ、と姉上たちから教えられたな。海に見えなくもないだろう?」
 紗恵は夫婦水入らずで向かった離島のことを思い出す。あの島では厳しい現実に向き合うことにもなったが、あのとき見た海は美しかった。
「月の海も、本当の海と同じで美しいですね」
「月に行ったことはないから、本当に海なのかは分からないが。いつか月に行ける時代が来るのかもしれないな」
 はるか昔、国生みのとき、一番目から百番目までの神が生まれた。その神を始祖として、いまもなお所有している家は、此の国では(かみ)(あり)と呼ばれる。
 成実が生まれて、紗恵が嫁いだ(もも)()のように、神の末裔として、神の力を(ふる)う特別な一族だ。
 だが、神の力をもってしても、月に行くことはできない。
「月に行くことができるとしたら、それは人の力なのでしょうね。きっと」
「そうだな。もしかしたら、人の力で、そんな日が来るかもしれない。そのときにも、隣にいてくれるか?」
「わたしには未来のことは分かりませんが、その日が来ても、来なくとも、成実様と一緒にいますよ。それで、どんな未来だったとしても、今夜、一緒に月を見たことを懐かしむことができたら良いですね」
 紗恵が隣に視線を()ると、成実と目が合った。白梅の花を思わせる薄紅のまなざしで、彼は何か言いたそうに紗恵を見つめていた。
「俺も同じことを思っていた。今度、帝都に行ったとき、写真を撮らないか?」
「写真、ですか?」
 つい、紗恵は繰り返してしまった。
 写真という存在は知っているが、写真そのものを見たことはなかったので、撮ると言われても想像がつかなかったのだ。
「先日、軍部にいる知り合いから届け物があった」
 紗恵はそのときになって初めて、成実が手に携えていたものに気づく。
 成実が手にしていたのは一枚の紙だった。話の流れからして、これは写真なのだろう。
「成実様と、高良お兄様?」
 そこには、成実と、紗恵の異母兄である高良がいた。
 隣りあって立つ青年たちは、実に対照的であった。
 一人は柔和な笑みを浮かべて、一人はこちらを射貫くように見つめている。
 微笑む青年に、紗恵は記憶のなかにいる彼の姿を重ねる。亡くなった異母兄は、こんな風によく笑いかけてくれる人だった。
 その隣にいる成実は、ほとんど表情がない。もともとの顔立ちが鋭く、人並み以上に姿勢が良いこともあって、何処か威圧的な印象を受けた。
 何も知らない人間は、この二人が親友と言わても信じられないかもしれない。
「士官学校にいたとき、高良に連れられて撮ったものだ」
 士官学校時代なので、顔立ちに少年らしさが残っているのだろう。
「成実様も、高良お兄様も、可愛らしいですね」
? 可愛い、だろうか」
「私は、この頃の成実様のお顔を知りません。だから、そう思ってしまうのかもしれませんね」
「知らない。そうか、そうだったな。この頃には、もうお前と手紙を交わしていたから、知られているような気持ちになっていた」
 紗恵と成実がはじめて顔を合わせたのは、高良が亡くなったときだ。
 高良の遺体を連れてきてくれた成実は、そのまま高良の死を嘆く紗恵を花嫁とした。不義の子として厳しい立場に置かれていた紗恵を、生家から連れ出してくれた。
(だから、この写真の頃には、お顔を知らなくて当然で。でも、成実様の言うとおりなら、もう手紙を交わしていた頃。すでに成実様との思い出がある時期なのですね)
「どの手紙をくださった頃でしょう?」
 成実は軒先に吊るされた風鈴を指差した。
「高良と、風鈴を見に行った」
「お祭りの、ですよね?」
 読んでいると、風鈴の涼やかな音が聞こえてくるような手紙だった。
 地名までは書かれていなかったが、出かけた先で、たくさんの風鈴を吊るした祭りがあったのだという。
「お前は、本当によく(おぼ)えているな」
「成実様からいただいた手紙は、私の宝物ですから。高良お兄様も、楽しそうに、お話してくださいましたよ。風鈴のお祭りのこと」
「そうか。俺にとっても、楽しい思い出だった。こんな不機嫌そうな顔をしていたら、説得力がないだろうが」
 成実は写真を指差した。
 不機嫌そうとは思わないが、笑顔の高良に比べたら無愛想な印象を受ける。
「この写真を撮ったのは、そのお祭りのときなのですね」
「祭りの帰りに、高良に写真館まで引っ張られた。このとき撮った写真は、俺のもとにはなく、ずっと高良のもとにあったんだ。それが軍部で見つかったらしい」
「軍部にあったお兄様の私物は、亡くなられたとき、すべて家に送られたとばかり」
「写真一枚だけ残っていたらしい、いや、偶然というよりは、気を利かせて()けておいてくれたのだろうな」
「成実様のために、軍部の方がそのように取り計らってくださったのかもしれませんね」
「そうかもしれない。いま思えば、笑顔のひとつでも浮かべるべきだったな。高良が、どうして写真を撮りたいと言ったのか、その理由にも思いを()せるべきだった」
 成実は写真を裏返した。
 真っ白な裏面には、少し丸みのある文字が書かれていた。誰の筆跡なのか、紗恵も、そして成実もよく知っている。

 成実へ
 いつか、この写真とともに思い出を語ろう

「高良は、きっと、この写真をきっかけにしたかったのだろう」
「きっかけ。思い出を語るために、でしょうか?」
「ああ。当たり前のように、未来でも俺たちは隣にいる、と信じていたのだろう。俺もそうだった。この写真を見たとき、当時の気持ちが鮮やかによみがえった。高良と過ごしたすべてを憶えておくことはできないが、ともに過ごしたときの想いは、きっと忘れずにいられる」
 たとえ記憶が薄れてしまっても、想いまでは失われないのだ、と成実は微笑んだ。
「私も、そう思います。お兄様との思い出は、どれだけ願っても忘れるでしょう。遠ざかってゆくばかりでしょう。それでも、想いだけは、いつまでも胸のなかに」
「過ぎ去った日々は、もう戻ることができない。だが、たしかに幸福だった時間を懐かしむことは、悪いことではないだろう? そのきっかけになるならば、いまのお前と俺の姿を残しておきたい」
 だから、写真を撮らないか、と成実は誘ってくれたのだ。二人の(てのひら)から記憶が(こぼ)れてしまっても、そのとき感じた想いは手放さないために。
 紗恵は(うなず)くと、そっと成実に身を寄せた。
 成実から香る、優しい白梅の匂い。
 彼の先祖たる神様の香りに包まれながら、紗恵は目を閉じた。

【おわり】