オイスターの憂鬱(著:辻村七子)
「久々にロンドンに行ったら、オイスターカードが要らなくなっちゃってたの」
二か月ぶりにお会いする大橋さんは、エトランジェに入ってくるなりそう言った。もうびっくりしちゃったと言わんばかりの顔を、いつも通りくっきり系のお化粧が彩っている。いろいろなファッション小物を買い付けに世界を飛び回る彼女は、セレクトショップを幾つも経営しているやり手の社長だ。アンティークジュエリーのコレクターでもあり、とても話し好きで気さくな常連さんである。十回以上お会いしているが、絶対にスカートにストッキングというスタイルを崩さない。
それはびっくりなさいましたね、と微笑むリチャードの後ろから、俺はお茶をサーブする。シャウルさんが届けてくれたばかりの茶葉と、平和な牛のラベルの牛乳のマリアージュ、ロイヤルミルクティーだ。今日はいつにも増してよくできていると思う。
お茶に手を伸ばす前に、大橋さんは俺を見た。
「ねえ中田くん、あなたシェイクスピアって読む? リア王とかマクベスとか」
「それは読んだと思います」
「まあ。あなたの年でそれだけ読んでいるなら上出来ね」
そして彼女は、流麗な発音でこう告げた。
ザ・ワールド・イズ・マイ・オイスター。
『世界は私の牡蠣』。直訳するとこうである。
俺がちょっと不思議そうな顔をすると、リチャードがくっくと笑った。
「喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』でございますね。マイ、の部分には、古英語のマイン、が用いられることもあるとか」
「そうそう、それよ。後ろには『剣でこじあけてやる』って続くのよね。文脈から意味をとれば、『私には何だってできる!』くらいの意味かしら」
それがねえ、と彼女は落ち込んだ顔をした。とりあえずお茶をどうぞとすすめると、大橋さんはカップに手を伸ばすかわりに懐から長財布を取り出し、青いカードを取り出した。
Oysterと書かれている。
「これね、オイスターカードって言うの。ロンドンのメジャーな交通系IC。さっきのシェイクスピアの言葉を踏まえて『オイスター』。向こうだと入金は『チャージ』じゃなくて『トップアップ』って言うんだけどね。便利だったのよお」
だった。彼女は過去形を使った。
ちょっと寂しそうな表情をしながら、彼女は喋り続けた。
「最近のクレジットカードって、タッチ決済ができるじゃない? ロンドンの地下鉄やバスもそれが使えるようになってたのよ。もちろんオイスターカードもまだ現役なんだけど、もうスマートウォッチの画面をあてたら一瞬でチャー! よ。チャー!」
チャー、というのは決済タッチ時に流れる効果音の真似らしい。俺がちょっと笑うと、大橋さんは困り笑顔でため息をついた。
「……別にいいのよ。私だってタッチ決済のできるクレジットカードくらい持ってるもの。でもオイスターカードって私くらいの世代にとっては……いいえ私にとっては、便利さと驚きの象徴だったの。あれが出てくるまで、ロンドンの旅はそりゃあ面倒だったのよお。地下鉄改札は大混雑で、バス料金にはらはらして、鉄道に乗る時には窓口に並んで、発音が悪くて駅名が通じなくて怒られたりしてね。オイスターさまさまだったわ。でも今は……もっと便利なものがあるのね。ああ、喋りすぎちゃった」
彼女は笑い、今度こそお茶を飲んでくれた。
あたたかな甘味をかみしめるような笑みのまま、彼女は俺を見て笑った。
「ねえ中田くん、あなた想像できる? あなたが今使っている『新しくて便利なもの』、スマホでも何でもいいわ。それがだんだん『時代遅れ』になってゆくところ」
「昔のブラウン管テレビみたいなものですかね? そういうこともあるんだろうな、って頭ではわかりますけど、実感はまだ……」
「それでいいのよ。そんなことわからない方がいいわ。リチャードさん、ごめんなさいねえ、ほったらかしにして。さあ、今日のアンティークを見せてくださいな」
そう言って大橋さんは俺から視線を逸らし、宝石箱を開けるのを待ち構えていたリチャードに向き直った。
敏腕宝石商は、今日もお客さまの望むものを過不足なく取り揃えていた。過去存在した大手宝石店の箱に入ったままのブローチ、幾つも横に並べられた七宝とダイヤを組み合わせた指輪、そして。
貝殻の形の中に、真珠がセッティングされたブローチ。
目を見張る大橋さんに、リチャードは優しい声で語り掛けた。
「大橋さま、こちらのアンティークブローチは十九世紀中ごろの品物ですが、シェイクスピアの活躍した時代をご存じですか?」
「それは、まあね。十七世紀の人でしょう」
「その通りです。彼の死後既に三百年以上が経過しておりますが、私たちは彼の詩をそらんじ、劇作を楽しんでいます。これは一体何を意味しているのでしょう?」
「……そうねえ」
大橋さんはちょっと芝居がかった様子で顎に一本指をあて、考えるポーズをとり、赤い唇でにこっと笑った。
「プリミティブなものは古びない、ってことかしら? 技術は古びるけど」
「私もそのように思います。たとえばグラハム・ベルの発明を待たずしても、遠方の知り合いの消息を知り、連絡をとるためのツールは、手紙や電報など多様に存在したはずです。それが今ではスマートフォン等の形になっている」
「そう言われればそうね。でも、それがどういう結論になるのかしら?」
「技術が満たすのは人々の需要です。人間の需要はあまり変化していないように、私は考えます。私たちは乗り物を都度乗り換えながら、時代という名前の高速道路を走り続けている」
そのように思うことがあるのです、とリチャードは言葉を結んだ。
大橋さんはしばらく、リチャードの言葉を咀嚼するような時間をとった後、ロイヤルミルクティーを一口飲んだ。そして口を開いた。
「……わかるわ。私なんか黒電話の時代から生きてるもの。その後に自動車電話が来て、ポケベルが来てPHSが来て、今はスマートフォン。そのうち『次』もきっと来るわね。今度は何かしら? ああこれは、ワクワクしているおばあさんの言葉よ。私は古いものが好きだけど、新しいものも大好きだから」
「存じ上げております。ところでこちらはアンティークではなく、最近スイスで活躍し始めた、二十代の気鋭のカッターによる、独創的なカッティングのアクアマリン・ルースで、私は『未来のアンティーク』候補であると思っているのですが」
「まあー! お話の持って行き方の達人。勉強になるわ」
大橋さんは小さな女の子のような顔で笑いながら、リチャードの差し出したアクアマリンを手に取った。あちこち穴ぼこが空いたチーズのような、独特な形の宝石を、彼女は気に入ったようだった。
一時間ほど楽しくお喋りした後、大橋さんは七宝とダイヤのアンティークと、アクアマリンのルースをお買い上げになった。俺が外までお見送りに出る。
銀座七丁目の通りに出たところで、俺は大橋さんに話しかけた。最近頑張っている、英語の発音で、精一杯。
「大橋さん」
「何?」
ザ・ワールド・イズ・ユア・オイスター。
『世界はあなたの牡蠣』。
大橋さんは少し笑って、指を振った。
「戯曲では『ユア』じゃなくて、『マイ』よ。リチャードさんが言ってたでしょ」
「あの、そ、それはそうなんですけど」
「わかってるわかってる。今日は泣きごとみたいな話をしちゃって悪かったわ。中田くんも頑張ってね」
「はい。またのお越しをお待ちしております」
それじゃあねー、と手を振って、大橋さんは銀座の歩行者天国に消えていった。
「お疲れさまでした、正義」
「うん……大橋さんの中だと、俺はまだ大学生なんだろうな」
「かもしれませんし、わかっていてからかっているのかもしれません」
「最近はメンズメイクも流行ってるだろ、俺老け顔メイクとかしてみようかな」
「歌舞伎の隈取をしたいというのなら止めませんよ。大変興味深いことです」
「それは銀座じゃなくて東銀座のメイクだろ」
「失礼」
俺、中田正義は今年で二十七歳である。シェイクスピアは日本語訳を全読した後、原文でひととおり攫っている。リチャード先生のスパルタ英語講座の一環だ。シェイクスピア、ナーサリーライム、聖書、そしてディケンズ。英会話で繰り出される『よくわからないたとえ』に「あれ?」と思わなくて済むように、これだけは読めと言われた文献に含まれていた。それにしても『これだけ』が多かった気はする。
とはいえ、ロンドン交通のオイスターカードにまで、シェイクスピアの薫陶が及んでいるとは考えもしなかった。
なあ、と話しかけると、美貌の男はティーカップを置いて俺を見た。
「『オイスター』って、日本語ではほとんと『牡蠣』に訳されるけど、あの文脈だと『アコヤガイ』の方が近いよな。『剣でこじあけてやる』は『真珠を取り出してやる』って意味だろ」
「エクセレント。私もそのように解釈しております」
つまり、引用されたファルスタッフ――ウィンザーの陽気な女房たちにやりこめられる、憎めないおじいさんキャラである――の台詞は、俺様は牡蠣食べ放題だぜということではなく、俺様は宝物を手に入れるぜという意味になる。アグレッシブなおじいさんだ。ちなみに『ウィンザー』はオペラの演目にもなっていて、彼はバリトンの世界でもかなり愛されているキャラである。それはさておき。
ザ・ワールド・イズ・マイ・オイスター。
改めて目の前に提示されると、いい言葉だなと俺はしみじみしてしまった。後に続く文章はなくてもいい。アコヤガイをこじあけなくてもいいと俺は思うのだ。宝があってもなくてもいいということではない。世界という名前のアコヤガイの中に、宝物がないはずがない。
世界のどこかに、輝く真珠があって、それは自分のものだという。
まるで宇宙にきらめく星々の中に一つ、自分だけの星が存在するように。
俺にはそれで十分だ。
【おわり】