ビストロ・マエストロ


 白いものは何でも美味おいしい。美味しくないものを見たことがない。
 たとえば、パンの柔らかいところ。これを真っ白な牛乳にひたせば、さらに美味しくなるのは自明の理。
 それからこのベシャメルソース。鍋で溶かしたバターに小麦粉を入れて、焦げないように焦がしバターの香りは食欲をそそるけどね、これは焦がしちゃダメ。
 あくまで白く、牛乳を入れながら、ダマにならないようにゆっくり混ぜる。少しずつプティ・タ・プティ
 ナポリ産のマカロニもあれば最高だったけど、パリじゃなかなか良いのは手に入らない。こればっかりは仕方ないね。
「ジョアキーノ? 今日はお店が休みなのにいい匂いがすると思ったらここで何してるの?」
 ちゅうぼうに入ってきたのは、この豚肉加工品店シャルキュトリのアパルトマンに住んでいる女の子。僕にとってはそうろうの先輩でもあるベアトリスだ。
「何ってもちろん、料理だよ」
「あなた一人で? 火まで使って、危ないじゃないの」
 かまどの前で踏み台に乗って、さらにつま先立ちして鍋を火にかけている姿は、たしかに危なっかしく見えるのだろう。
 実際、六歳児の身体は何かと不便でもどかしい。けどこれもしばらくのしんぼうのはず、子どもなんてあっという間に大きくなるものだから。
「慣れてるから大丈夫だよ。きみが店番をしているあいだ、僕はいつも厨房でお手伝いしてるってこと忘れたの? ちゃんとギヨームさんの許可ももらってるし」
 店主のギヨームさんは才能あるシャルキュティエで、とても良い青年だ。情にもろくて、あまり細かいことを気にしない、大らかなところが特にいい。
 彼の料理に惚れ込んで、そして人のさに付け込んで、僕みたいな怪しい幼児がまんまとここに住み着いた。
「そう。それでも心配だから、私も手伝うわ」
そう言って、自分もまだ充分小さい、僕の倍くらいしか歳を取っていない少女が腕まくりをする。
「ほんとに一人で大丈夫なのにだいたい、きみに手伝ってもらったんじゃ本末転倒だよ。今日はお礼のつもりで僕が料理を作ってるのに」
「お礼? ジョアキーノが私に?」
「ん」ベシャメルソースを指でひとすくい、ぺろりと味見して鍋を火から下ろす。「きみとギヨームさんにね」
「ギヨームさんはわかるけど、どうして私に? お礼をしなくちゃいけないとしたら、私の方だと思うけど」
「さあ、どうしてだろうね」
 小首をかしげる少女を横目に踏み台から下りると、それを足で押してずりずりっと調理台の前まで移動させ、またのぼる。
 さっき牛乳に浸しておいたパンをぎゅっと絞って大鉢に入れたら、会心の出来のベシャメルソースも投入だ。
「あなたが本当は家出してきたのを、ギヨームさんに内緒にしてあげてること?」
「その件は、別のものでお返ししてるでしょ」
「そうね。すごくいいもので返してもらってるわ、もらいすぎなくらい」
 そう言って彼女は、上機嫌な小鳥のように美しくさえずってみせる。変な癖がつかないように、まだ母音でしか歌っちゃいけないという僕の言いつけをちゃんと守っているのは感心だ。
で、結局お礼って何なの?」
「わからないならいいよ、きみはもう忘れちゃってるかもね。あ、ごめん、そこのラードが入ってる鍋を、火にかけておいてくれる?」
喜んでビアン・スュール
 結局手伝ってもらってしまったけど、まあいいか。
「うーん、何か、塩気のあるものも入れたいな」
 ぴょんと踏み台を飛び降りると、棚を物色して売れ残りの赤身ハムを失敬。混ぜやすいように、軽くつぶしておかないとね。赤い食べ物は栄養豊富で、これまた例外なく美味。
 風味があるのは黒や茶色。ポルチーニ茸をすり潰せば、立ち込める芳醇な香りで、厨房はたちまち雨上がりの森になる。
 湿った松の落ち葉で覆われた土を、柔らかく踏みしめる心地に酔いしれながら卵黄とすりおろしたパルメザン・チーズも入れて、全部をまぜまぜ、こねこね。しょうとナツメグひとつまみも忘れずに。
「何を作ってるのか、さっぱりわからないわ。でもきっと美味しいんでしょうね」
「当然。美味しいものしか入れてないからね」
 小さな筒形に丸めたら、溶き卵にくぐらせ、パン粉をまとわせる。そしてそれを、ぐらぐらと煮立ったラードの中へ。
「わぁ
 沸き起こるラードの拍手かっさいに、僕は耳を澄ませる。厨房は静かな森から一転、今度は大劇場のホールと化した。
 ああ、だけど、満場の観客から賞賛を浴びるには何かが足りない。
 本当はトリュフも使いたかったけどさすがに無理だし、オリーブ油の代わりに、ラードで揚げたのが致命的だったかな。
「ああ
 おうのうする僕の耳にふと聞こえてきた、甘い感嘆のため息かと思われた少女の声は、やがて適当なメロディを帯びて、率直な言葉を乗せはじめた。
「いい匂い美味しそうお腹がすいた、はやく食べたい
 ぜっこんの使い方を覚えるまで子音は禁止、歌詞をつけて歌うなんてもってのほかなんだけど、僕は彼女を止めもせず、そのめちゃくちゃな旋律につい身を委ねていた。
 いや、だめだけど。すぐにやめさせないといけないんだけど、でもあとちょっとだけ。ほら、もうこんなに歌えるようになったんだから、あと数小節だけ、もうちょこっとくらいは、このままと、誰に言い訳しているのやら、まったく僕は悪い教師だ。
 ベアトリスが僕の〝秘密〟を守ってくれたこと、何より僕が打ち明けた秘密を信じて、受け入れてくれたこと。そのお礼として彼女に歌唱法を教えると、たしかにはじめはそう言った。
 だけどそれすらも、僕自身への言い訳にすぎなかったのかもしれない。
 本当は、お礼なんかじゃない。僕が彼女の歌をこの歌声を、もっと聴きたかったんだ。
やっぱり、劇場の真ん中にはプリマ・ドンナの歌声がなくちゃね」
 そっとつぶやいて、僕は二つめのタネを煮えたぎるラードの中に沈ませる。
 さあ三つ、四つ、どんどんいこう。そのたびじゅわっと鳴るシンバル、追いかける拍手の伴奏が、輪唱みたいに膨れ上がる。
 その中を彼女の無軌道な歌声が駆け回って、厨房がはち切れそうなほど美味しい音でいっぱいになったらついに迎える、こんがりきつね色のフィナーレ!
「うわぁ、美味しそう」
 お皿に上げたばかりの、まだじゅわじゅわと熱く濡れたコロッケの上に、ベアトリスが鼻先をかざす。
「こんなお礼をしてもらえるなんて、私ったら知らないうちに世界を救っていたみたいね」
「そうだよ。食べ物は世界を救うんだ」
 あれは僕が、初めてこの店を訪れた時のこと。
 店番をしていたベアトリスは、僕を飢え死に寸前の文無しと勘違いして、売り物のリエットをこっそり食べさせてくれた。店主にバレたらまずいとびくびくしながら、自分の立場を危うくしてまで。
 詳しい事情は知らないけれど、おそらく革命で孤児になった彼女は、何年もものいみたいにパリの街を彷徨さまよっていたらしい。やっと手に入れたこの居場所は、僕なんかには想像もつかないほど大切だったはずなのに。
「やっぱり食べ物のことだったのね、ジョアキーノらしいわ。私の分までパイを食べちゃったこと? それとも、夕食の時にたびたび私のお皿からで肉を誘拐していくことかしら」
「そういうのはお礼じゃなくて、埋め合わせっていうんだよ」
 あのささやかで偉大な親切を、やっぱり本人は忘れてしまっているらしい。
 だから僕は言葉にするんじゃなく、直接きみの胃袋にお返しするんだ。
 ボナペティ! あつあつ、とろりのジョアキーノ・ロッシーニ特製コロッケを、どうぞ召し上がれ。

【おわり】

レシピ参考:水谷彰良『美食家ロッシーニ 食通作曲家の愛した料理とワイン』春秋社