宿下がり

かぐわしい梅の香りが漂う庭に、鶯の鳴き声が響いた。
荇子は雑巾を握る手を止め、簀子の先に目をむける。簀子といっても四戸主の小さな家だから、古びて黒ずんだ角材を使った粗末なものである。真新しい白木で造られた御所のそれとはまったく別物だった。
それでも自分で手に入れた家だという事実に矜持がある。
板塀の手前の梅の木は、品の良い白い花を咲かせている。盛りは過ぎたが、まだ観る者の目を十分楽しませてくれている。あれもあと三か月もすれば、丸々と熟した黄色い果実を実らせる。完熟した梅の実は甘酸っぱくて美味で、今度は舌を楽しませてくれる。青梅のうちに収穫して追熟させる方法もありだ。残念ながらその頃には次の借主が入居しているはずだから、梅の実の権利は彼らに譲られているが。
「江宣旨さん」
呼びかけに荇子は物思いから立ち返る。単に切袴を穿き、上から腰布を巻くという軽装の卓子が怪訝な顔でこちらを見ていた。彼女もまた雑巾を手にしている。宮仕えから三年。十七歳の花盛りを迎えた可憐な女房は、宮中の殿方の熱い視線を一身に浴びる宮中の花だった。にもかかわらずこんな粗末のいでたちで掃除を手伝ってくれるのだから、やはり気立ての良い娘なのだ。ちなみに荇子自身も、卓子と同じかっこうをしている。
「なに?」
「どうなさいました? 外を眺めたりして」
「ああ、鶯の鳴き声がしたのよ」
荇子の答えに卓子は首を傾げた。
「そうなんですか、聞こえませんでした」
「夢中で掃除をしてくれていたからでしょ。ちょっと休みましょうか?」
「大丈夫ですよ。ここまでは終わらせてしまいましょう」
明るく卓子は言うが、手伝ってもらっている側としてはやはり遠慮する。
「仮にも内裏女房のあなたに、こんな荒仕事を手伝ってもらったりして悪かったわね」
「それを言うのなら、江宣旨さんだって同じですよ。掃除なんて下女にでも任せればよかったじゃないですか。東宮様の宣旨ともあろう方が雑巾を絞っている姿なんて、江宣旨さんに憧れている若い女房達が見たらがっかりしますよ」
帝の尚侍・藤原如子と東宮宣旨・大江荇子。帝の信頼厚い内裏女房の首席と次席の二人は、いまや若い女房達の羨望の的であった。特に諸大夫の娘から帝の腹心女房の地位にまで上った荇子は、彼女達にいつか自分もという期待を抱かせる存在だった。その荇子がこんな粗末なかっこうで、四戸主のささやかすぎる家の掃除を手ずからしているとなれば憧れも萎んでしまう。
「こんなかっこうをするのは、自宅だけよ」
苦笑交じりに荇子は答えた。先月までこの家を借りていた京官が、今度は地方官として讃岐に赴任していった。幸いにしてすぐに次の借主は現れた。この家は左京で市にも近い場所にあるので、中級貴族には人気の物件なのだ。来月には入居予定である。その前に掃除はもちろん修繕すべき箇所があれば済ませておこうと、荇子は二年ぶりに自宅に戻ることを決めた。そのことを卓子に話すと「わたくしも手伝います」と自ら名乗りをあげたのだった。下男、下女は手配しているが、人手は多いほうがよい。それに卓子の目的がおそらく東市にあることは予想できた。ならばまあ双方に利があるということで、手伝いに来てもらったのだ。あんのじょう卓子の挙動からは、さっさと掃除を済ませて市に行こうという魂胆が見え見えだった。
それから四半剋程で、あらかたの作業が終わった。
「もういいわよ。外に行ってきたら」
「でも、まだ庭のほうが」
「それは兒丸がやってくれるから。早く行かないと市が閉まるわよ」
前栽の手入れは下男に任せている。夏になれば籬をおおう夕顔や吸い葛も、この時季はかなり大胆に剪定してある。
荇子の言葉に卓子は顔を輝かせた。
「では、行ってきますね」
卓子は腰布を外した。単のうえに萌黄かさねの袿をからげ、枲を垂らした市女笠をかぶって出て行った。
卓子と入れ替わるように、冠木門のむこうに姿を見せたのは征礼だった。山吹色の狩衣を着けている。狩衣は参内で着ることは適わぬ装束なので、仕事が終わってからいったん自宅に戻って着替えたのだろう。
「なんだ、もう終わったのか?」
簀子で足をぶらぶらさせていた荇子に、征礼は拍子抜けした顔で言う。そのまま彼は隣に座った。足早にやってきた下女に、手にしていた破籠を渡す。
「ご苦労だったな。兒丸と食べろ」
「ありがとうございます」
下女は破籠を受け取った。彼女も兒丸も、征礼が手配してくれた彼の家の使用人だった。とはいえちょいちょいとこの家の手入れに来てくれていたので、荇子とはすっかり顔見知りになってしまっている。だから彼女達は荇子のことを奥方様と呼ぶのである。
下女が奥に引っ込んでから、征礼は申し訳なさそうに言った。
「悪かったな。手伝うつもりでできるだけ早く来たんだけど」
「気持ちだけで充分よ。兒丸達もよく動いてくれたし、乙橘も来てくれたから」
「そういや、あの娘はどこに行ったんだ?」
ぐるっとあたりを見回しながら征礼が問うた。いつもなら「あ、藤蔵人さん」と明るい声で卓子は近づいてくる。
「市に行ったから、半剋は帰ってこないわよ」
「なるほど。あの娘の性格なら、たまにそういうところでの息抜きは必要かもな」
「そうでしょ」
二人は声をたてて笑いあった。
「ところで、今日はもう仕事は上がったの?」
「うん。お前がいないから早上がりは無理かと思ったけど、念のためにお願いしてみたらあっさりと了解してくれたよ」
「姫宮様のおかげで、主上も近頃は手がかからなくなったわね」
冗談めかして言うと、今度こそ征礼は腹をかかえて笑った。
弘徽殿女御が姫宮を産んだのは三か月前のことだった。女児であったので父左大臣はひどく失望していたが、とうの女御は「女の子がこれほど可愛いとは」と目を細めていた。お世継ぎの皇子を産むという目標は叶わなかったが、人生は思ったとおりにいかなくても喜びはいくらでもあることを彼女は実感したようだ。
なにより帝が大変な可愛がりようだった。目に入れても痛くはないとはこのことか。母親への情の差から、夭折した女一の宮との差を危惧していたことが、いまとなっては馬鹿々々しい。子供は等しくかわいいものだと、いつだったか主上が言っていた気がする。本当にそのとおりだった。
以前は荇子と征礼が同時に自分の元から離れることを嫌がっていたが、近頃は快く了承してくれるようになった。これも姫宮の存在ゆえか。これであれば状況が落ちつきさえすれば、かねてより話していた二人での大和への旅も許されそうだ。大和は荇子が娘時代を過ごした場所で、征礼と出会った思い出の土地だった。そこに二人で行ってみたいという思いが、荇子の中にずっとあった。
とはいえ、それはしばらく先の話。帝の内侍で、東宮宣旨でもある荇子には御所で果たさねばならぬ務めが山のようにある。それは征礼も同じで、彼はあいかわらず帝の一番の腹心で、けれど近頃では頭中将直嗣の信頼厚い直属の部下でもあるのだった。帝の左右の手と言われた二人の手は、いまや宮中の様々な人達の手とつながっている。二人が同時に長期に御所を離れることは、いまはできない。こんなふうに平安京の一角で、のんびりと過ごすことで我慢するしかない。
まあ、いまは仕方がない。
それにあの騒々しいばかりだと思っていた御所は、刺激的で実は案外楽しい場所なのだと近頃になって荇子はよく思うようになっていた。だから明日にはもう帰ろう。そう、征礼といっしょに、皆が待つあの御所に。
【おわり】