大江戸恋情本繁盛記 ~O-EDO パンケーキ~
現代でも江戸でも、編集者の仕事というのはそう変わらぬものだ、と小桜天(二十六)は、原稿を待つ内に思うようになった。
浅草で事故に巻き込まれ、気づけばいきなり二百年近くも昔の江戸に放り出されて幾年月。いつまでも覚めぬ明晰夢が続いているが、覚めぬものは覚めぬのだから仕方がない。生きていくために始めた地本問屋の仕事も今のところは何とかなっているけれど、商売を続けるには目玉となる《戯作》――売れる《本》が要る。
そこで居候先の三味線の師匠、おふゆ(三十)に才を見出し筆を取らせたものの、このところの進みは芳しくない。作家はその日の天気、暑い寒いでも、筆が乗ったり止まったり。そうした時に再び筆が進むよう、良いものを書けるよう、サポートをするのも編集者の役目。
なので、朝餉の際、
「何か食べたいものとかありますか?」
そう聞いたら、
「……珍しい甘いもの」
と、おふゆが目の下に隈を作った疲れた顔で言ったので、現代のスイーツを江戸でも手に入る材料で何とか作れないものか、と思案した。
とはいえ、天は元より料理が得意というわけでもない。そこで、ネットに繋がらないスタンドアローン状態のスマホの中に何かないものかと調べると、以前、ブームの時に仕事の役に立つかもと保存しておいたパンケーキの作り方が見つかって、これだ、と膝を叩いた。
江戸に今川焼きはすでにあり、薄い小麦粉の生地で餡子を巻いた助惣焼なる菓子も売られているから、主たる材料は手に入る。おそらく無理なのは生地を膨らますためのドライイーストだけれども、なくともできる。
パンケーキが気晴らしとなって、おふゆの筆が進むのなら骨を折る価値があるだろう。
そう思い、天は、何かにつけ頼りになる気のいい男、御家人の遠野伊織(三十半ば)に材料の調達を頼んだ。侍にそんなことをさせるなんて、と周りが知ったら目を剥くだろうが、気にしないのが伊織ゆえ、ついつい甘えてしまう。
「ふむ……砂糖と蜂の蜜か。わかった」
どちらも簡単に手に入るものではないので、伊織なら伝手があろうと考えたのだが、その通りであったようだ。あいもかわらず謎の多い侍である。
数日の内には届けられ、天はさっそく、パンケーキ作りにかかった。持ってきたのは伊織本人ではなく使いの男であったので、馳走できないのが残念ではあったが仕方がない。
さて、小麦粉はうどん屋で分けてもらい、牛乳は近くの百姓の家の牛が子を産んだと言うのを聞いていたので、その乳を大徳利に入れてもらった。その噂を知っていたから、パンケーキにしたというところもある。
大徳利は、漏れないようにしっかりと栓をして、がしゅがしゅと振った。令和の一般的な市販の牛乳では無理だが、牛から直接搾った乳からならバターが作れる。
「天さん、いるかねえ?」
表からそう声がして、大徳利を振りながら出ると、ももんじや(肉料理店)の女主、かや(三十二)が風呂敷を手に立っていた。
「昼間っから、酒かね?」
手にした大徳利を見て笑うかやに天は、ちがうちがう、と首を振った。
「これは、バターを作っているんです」
「ばたあ? よくわからんけど、頼まれた卵、持ってきたよう」
かやの店では日常的に鳥の肉を扱っているので卵を入手しやすく、他で求めるよりも安く譲ってもらえた。
「いったい何をつくるんだい?」
「わたしの里の菓子です」
未来から来た、もしくは、これは夢、と説いても詮無きゆえ、出自は遠い山奥の里、いうことにしてある。
「へえ! 見てってもいい?」
「いいですよ」
かやは料理人ゆえ、見知らぬ菓子に興味があるのであろう。
大徳利の中でじゃぽじゃぽと音がし始めたら、丼の上に置いた笊に中身を空ける。乳は分離していて、薄い白濁した水分は下に落ち、笊にはぼそぼそした固形物が残った。
「それはなぁに?」
「バターです。牛の乳から分かれた脂ですね。食べてみますか?」
かやは指ですくって手作りバターを口に運び、へええ、と驚いた顔になった。どうやら気に入ったらしい。
天は卵を割り、丼に黄身、あらかじめ分けておいた乳、小麦粉を入れ、滑らかになるまで混ぜた。次に、別の丼に分けておいた白身を茶筅で泡立てる。ドライイーストを使わずにふわふわなパンケーキを作るには、メレンゲを使うと上手くいくとあった。
泡立て器は手に入らないので茶筅で代用し、砂糖を分けて入れながら角が立つまで動かす。途中、かやが代わってくれたので、なんとかなったが、ひとりだったら無理だったろう。
できたメレンゲを生地の丼に入れて、木べらでやさしく混ぜ合わせたら、竈で温めたおいた鉄鍋にバターを入れて溶かし、ぼろ市で買った底の抜けた大きな湯呑みの内側に油を塗り、それを逆さに置いて、十分に熱したところに、おたまですくった生地を流し入れた。
しばらく放っておいて、頃合を見て湯呑みを持ち上げると、円柱の形になったパンケーキが現れた。ふるりと揺れるそれを、木べらでそっとひっくり返す。
「なんでえなんでえ、おかしな匂いをさせてるじゃねえか」
そんな声と共に勝手に入って来たのは、彼の葛飾北斎の娘で、おふゆの本に挿絵を描いてくれている絵師、栄(二十七)であった。
「栄さん。どうなさったんですか?」
「なあに、処にちょいと用事があったんでこっちまで足を伸ばしてみたら、おかしな匂いをさせてるもんだから、こりゃあまた面白いことをやってるにちげえねえと思ってよ」
「おふゆさんのために、わたしの里の菓子を作っているんですよ」
「へえ」
「たくさんできますから、栄さんも食べていかれますか? あ、もちろん、かやさんも」
「そりゃあ、ありがてえ」
「わたしもいいのう?」
もちろん、と答えたとき、表でまた、
「ごめんくださいまし」
と声がした。
調理に忙しい天を見かねて栄が出てくれ、なんでえあんたらか、と聞こえた。
訊ねてきたのは、天の地本問屋『浅倉堂』で彫りと刷りを二人だけで一手に担う職人の、雪枝(二十六)と君(二十六)であった。
二人が此処へ来るのは珍しい。栄に連れられて台所に現れた大事な職人に、天は、店で何かあったのかと問うた。
「いや、栄さんの処に行ったらこっちだろうっていうから。次の錦絵を何色刷りにするか、相談する約束だったでしょう?」
「あ――すまねえ、忘れてた」
珍しいことではないので雪枝は太いため息をつき、まあまあ、と君に慰められた。
天は笑って、
「ちょうどいいから、ここでしていけば? すぐにパンケーキも焼けるから」
「ぱんけ?」
首を捻る君に、
「天狗の里の菓子だとさ」
そう、栄が説明した。
出自の説明ができなかった天は一時、天狗の娘とからかわれていたことがあって、実際、似たようなものだからと、構わずにいたことがあった。
二枚、三枚とふわふわのパンケーキが焼けていく中、わいわいと女たちが喋っていると、
「……なんなのもう、うるさいったら……」
奥の襖が開いて、おふゆが出てきた。
「よう、おふゆ。おめえさんも、こっちにこいよ。天がまたおかしなことをしてやがるから」
土間の板間に横に並んで座った栄が手招くと、気だるそうにおふゆはやってきて、栄らと同じように腰を下ろした。その膝の上にパンケーキが乗った皿を置く。
「わたしの里の菓子で、パンケーキっていいます」
「へええ」
声に生気が戻ったのを嬉しく聞きながら、天は、パンケーキの上に手作りバターを乗せた。バターは熱でとろりと溶けて良い香りを放つ。さらに、伊織が手に入れてくれた蜂蜜をたっぷりとかけて、
「どうぞ、めしあがれ」
女たちは顔を見合わせ、添えられた黒文字でふわふわのパンケーキを切ると、口に運んで、こりゃあ、と唸った。
「この世のものとも思えねえ……」
そう栄が言えば、かやはどうしてこうなるのかを探ろうと突いたり覗き込んだりした。雪枝と君は顔を見合わせて、ふふ、と笑い、肝心のおふゆは、
「ああ……」
と、なんとも幸せそうな声をもらし、天井を仰いだ。
女たちの様子に、天は胸を撫で下ろした。どうやら、初めてにしては上手くできたようだ。
ともあれ、おふゆにはよい気晴らしとなったらしく、その夜には、再び筆が走りだしたようであった。
それがパンケーキの力なのか、気のおけない女たちとかしましく喋ったおかげなのかは、なんともわからなかった。
後日、ひとり食べ損なった伊織にもパンケーキを馳走したが、男はひとくちで、
「ふむ、かすていら、か」
と言って、だがこれは長崎で食べたものよりもよほど美味い、と舌鼓を打った。
《了》