第237回短編小説新人賞 選評『天藤教授の研究』遠藤駿二
編集A 主人公は、大学に助教として勤めているアラサー女性です。自分が学生として過ごした大学に就職し、当時から師事していた天藤教授のアシスタント役も務める。主人公は天藤教授に想いを寄せているようですが、学者バカである天藤教授は、主人公の気持ちには全く気づかない。この天藤教授の「一日中、研究のことしか考えてない」感は面白かったです。
青木 天藤教授、すっとぼけキャラですよね。そこが抜群によかったです。
編集A こういう頓珍漢なキャラクター、私は大好きです。
青木 私もです。ただ、現状だと教授は、それほどの変人という印象でもないです。人当たりもいいですし、会話も普通に成り立つし、さほど突飛なエピソードが多いわけでもない。
編集B 作者が天藤教授を「変人」という設定にしているのはわかるのですが、実際に「本物の変人」として描写されきっていない印象でした。お寿司屋で一皿食べただけで引き揚げてラーメン屋に向かったというのは、小説としては「事件」というほどのエピソードではないように思いますし、蚊の研究をしているというのも、あまり驚くようなことでもないですよね。
編集D これが「ゴキブリ」なら、反射的に「ギャー!」ってなっちゃう人もいるでしょうけど、「蚊」なら「そういう研究者もいるだろうな」というくらいのものですよね。
編集B 研究室を訪れた記者たちが、顔を引きつらせたり、うへぇという顔をするとかというくだりも、ちょっと不自然かなと思いました。「蚊の研究」を取材に来たのなら、その程度は想定内でしょうから。
編集A どうやら蚊は何匹かケースから逃げ出してしまっているようで、天藤教授は鼻の頭を刺されていましたね。このシーンは笑えました。
青木 かわいいですよね。こういうエピソードがもっとたくさん欲しいです。天然学者バカの天藤教授の、もっとディープな「変人ぶり」を読みたかったです。
編集B 作者がまだどこか、抑制的な印象ですよね。
青木 天藤教授が脳回路構造学の権威で、日々実験に精を出しているという設定自体は、すごく面白かったです。台詞のあちこちに、動物はこうだ、生き物はああだといった発言がナチュラルに登場して、「本当に研究のことで頭がいっぱいなんだな」ということが伝わってきました。
編集A 蚊も動物も人間も、教授の頭の中ではすべてが同列なんですよね。そういう「学者らしさ」がうかがえる描写はいろいろ盛り込まれていたと思います。
青木 日常会話の中にも「研究者っぽさ」がしょっちゅう顔を出しています。そこがすごく工夫されていて、いいなと思いました。だからこそ、「変人教授」と呼べるほどの突き抜け感が若干物足りない印象でした。
編集E 本作は、主人公の「叶わぬ恋心」を描いた作品ですよね。「叶わぬ恋」というのは、テーマとして非常に魅力的だと思います。ただ、それをテーマにするには、主人公の恋心を匂わせる描写が少ないと感じました。
編集A 主人公は、おそらく天藤教授のことが好きなんですよね。天藤教授には奥さんがいるし、自分のことを恋愛対象として見てくれるような人ではないことも分かっている。それなのに、「好き」という気持ちにケリをつけることができない。主人公がそういう状況にあるということは理解できるのですが、肝心の彼女の「恋心」は、あまり共感できる形では伝わってきません。
青木 話の冒頭は、主人公の婚活場面から始まりますよね。マッチングアプリで出会った男性との食事シーンが、12枚目までかなり長く続きます。だから私は、かなり後になるまで、本作は「婚活」の話なのかと思いながら読んでいました。
編集C 私もです。序盤で、実に全体の3分の1以上の分量が、天藤教授ではない男性とのやり取りに割かれている。タイトルにもなっているはずの天藤教授について初めて言及されるのは9枚目。これはさすがに遅すぎで、構成に疑問が残ります。
編集A その時点でもまだ、主人公が天藤教授を好きということは、明らかにならないですしね。読者が主人公の気持ちに気づくのは、もっと後のことです。
青木 むしろ、「天藤教授」というワードは1行目に持ってきてもいいくらいですよね。「私がこれから、マッチングアプリで知り合った男性と食事をすると知ったら、天藤教授ならなんと言うだろう?」なんて感じで。
編集A お相手の矢崎さんとの会話の中や、主人公の思考の中に、教授をもっとたくさん登場させてほしかったですね。現状でも書かれてはいますが、ちょっと印象が弱いです。
編集B 「天藤教授はこう言った」とか「天藤教授ならこんなこと絶対にしないのに」とか、主人公が最初から頻繁に語りの中で繰り返していたら、読者ももっと早く、「想いを寄せているんだな」ということに気づけたと思います。
青木 天藤教授は取材を受けているときに、「蚊の恋愛」に関して饒舌に語っていますよね。主人公も矢崎さんから、「恋愛も研究対象なんですか?」と食いつかれたりしている。こういう話題が、意外と「主人公の恋愛」に絡んでいなかったように感じました。もっと効果的に使えたはずの要素なのに、あまり活用されていなかったです。
編集B 冒頭シーンで主人公は、イケメンでハイスペックな矢崎さんに、まったく関心を持てずにいる。それは「本当に好きな人が別にいるから」だと思うのですが、であれば天藤教授と会った場面で、もっとときめいたり、切なくなったり、「この人のこんなところに惹かれてしまう」なんて思ったりしてもいいのに、と感じました。
編集A 好きな人を前にして、無意識にスイッチが入っちゃう瞬間、みたいなものが欲しかったですよね。雌の本能として、意中の雄に反応してしまうような。
青木 同時に、頭のどこかでそういう自分を観察して分析しちゃったり。そういうところが描かれていたら、この二人が「生き物を扱う研究者」だという設定にも、ちゃんと意味があるんだなと感じられたと思います。
編集A この主人公は、クールな人物という印象ですね。おとぼけぶりを発揮する天藤教授に冷静なツッコミをいれたり、顔色ひとつ変えずに自由気ままな教授のサポートをしたりしている。それが、二人の面白い掛け合いを生んでいるのは間違いないのですが、同時にもう少し、主人公に「恋してる感」が欲しかったです。
編集C 主人公がなぜマッチングアプリで婚活を始めたのかも、やや引っかかりました。この主人公、最初から矢崎さんとの食事に全く乗り気じゃないですもんね。
青木 矢崎さんが場を盛り上げようとしているのに、主人公のほうはひどく心が冷めている。矢崎さんが気の毒にも感じられました。
編集C とはいえ矢崎さんも、真剣に婚活しているとは、私には思えなかったです。こんなにコミュ力が高いハイスペなイケメンなら、付き合う相手には事欠かないと思うので。
編集A 単なる遊びか、冷やかしっぽいですよね。つまり両者とも本気ではない。であればなおさら、ここまで長尺で描く必要はなかったように感じました。
編集B せっかくイケメンを登場させたのなら、それと対比させる形で、天藤教授の外見ももっとしっかりと描写すればよかったと思います。恋愛の話なのに、恋愛対象の外見イメージが見えてこないのは、すごく引っかかりました。
編集A 確かに。矢崎さんの外見描写はけっこうあるのに、天藤教授のビジュアルはそれほど描写されていない。
編集B なにより、読者がときめくようには描けていなかったと思います。現状ではまだ、ちょっととぼけた中年男性という印象でしかない。それは、この主人公の語り口に、恋をしている実感がないからだと思います。主人公の目を通して描かれる天藤教授の姿に、「恋をしている視点」のフィルターがかかっていない。
編集A こういう話であれば、読者が「わかるわかる。これはもう、主人公が好きになっちゃうのも当然だよね」と共感できるようなキャラクター描写をしてほしいですよね。
青木 天藤教授は、イケメンであってもそうでなくても、どちらでも成立すると思います。「だらしない格好を整えれば実は美形」という設定でもいいし、「全然かっこよくはないはずなのに、なぜだか心惹かれてしまう」という設定でもいい。
編集A 個人的には、むしろかっこよくなくていいかな。抜けてるイメージの方がいいような気がします。眼鏡が指紋だらけでくすんでるとか、白衣のボタンをいつも掛け違えているとか……。
編集B 丸めた背中が愛らしいとか、髪に寝癖がついているのさえ愛おしいとか(笑)。
編集A そういう「ふふっ、かわいい」と思うような、いわゆる母性本能をくすぐるような描写がないですね。読者がキュンとするポイントを、微妙に突けていないというか。
編集B 今回は主人公が女性だったので「女性目線」が問われていますが、性別は関係ありません。「恋している側」が男性であっても女性であっても、好きな人のことはどうしても目が追ってしまいますから、その人のことを語る際には、ディテール描写が否応なく出てくるはずなんですね。「あの人はああで、こうで、こんなところがまた素敵で……」といった具合に。そうであればこそ、読者もまたそのキャラクターに惹かれていくことができるのだろうと思います。
編集E 天藤教授ってたぶん、女性が「この人の魅力は私だけが気づいている」と感じて、のめりこんでしまうようなタイプの男性ですよね。
青木 まさに主人公がそうですし、天藤教授の奥様もそうなんだろうと思います。
編集A この奥さん、すごく素敵ですよね。ちょっと姉御肌で、でも礼儀正しくて、結婚した後もずっと夫に恋している。こんな素敵な女性にここまで想われているのですから、天藤教授は間違いなく魅力的な人物だと思うのですが、それがちょっとまだ、うまく出ていなかった。本当はより魅力的に描けたはずの人物ですが、そのポテンシャルを生かしきれていないようで、もったいなかったです。
青木 あるいは、無理に恋愛を絡めない方向もあったんじゃないかなと思います。天藤教授というすっとぼけた変人学者がいる。それを主人公が、クールにツッコミを入れながら観察しつつ、敬愛の情をもってフォローする、という話でも十分面白く読めるはずです。もちろんその場合も、教授の変人ぶりをパワーアップさせて、キャラを際立たせる必要はありそうですが。
編集C 天藤教授の人物造形に関しては、もうひとつ別の意味で引っかかる点がありました。最後のほうの場面で、「加瀬君は美人なんだから。すぐに恋人は出来るさ」なんて言ってますよね。
編集A そこは私も、すごく気になりました。天藤教授って、人間の顔の美醜になんてまったく興味がないタイプだろうと思うのですが。
青木 「人間の顔? ああ、大抵の場合、目と鼻と口がついているね」くらいの認識だろうと思います(笑)。奥様は美人らしいですが、おそらく綺麗だから結婚したというわけではないと思う。
編集A 奥さんのほうからグイグイ押しかけていったのかな。教授からしたら「なんか気づいたらもう結婚させられていたんだよね。まあ別にいいんだけど」というようなイメージです(笑)。
編集E 天藤教授が「加瀬君の恋愛はどうなってるの?」と妙に熱心に尋ねてくるのも、「らしくないな」と感じました。人の恋愛になんて興味がなくて、常に「蚊」のことで頭がいっぱいの教授だからこそ、魅力的なのに。
編集B 百歩譲って話題に出すとしても、「恋愛」とか「恋人」といったワードを使うのは、天藤教授の使う言葉として的確ではないと思います。
青木 逆にコメディ路線に振るとすれば、研究者気質のあまり、悪気もなく「君の繁殖活動はうまくいきそうかね?」と言っちゃうとか。で、「教授、それアウトです」「おお、そうだったか」みたいなやり取りになる。
編集A この二人の会話には、掛け合い漫才的な面白さがありますよね。そこももっとうまく活かせるはずです。
編集C 主人公の年齢が今ひとつはっきりしていないのも、気になりました。講義室の学生について、妙に年寄りぶった考察をしていますが、おそらく十歳も離れていないですよね。
編集A 二十代あたりは、学生~社会人で立場の変化が激しい時期ですから、年齢感はもう少しはっきりさせておいてもいいかもしれませんね。
編集C アラサーで助教授ということは、おそらく主人公は相当優秀な研究者ということかと思います。ですが、現状の描き方では、天藤教授の助手のような印象を受けます。彼女は彼女なりに、自分の研究も進めているのかな。天藤教授と研究内容が丸被りしているように読めましたが、それはあり得るのでしょうか?
編集D ちなみに、今の大学教員の職位は、上から「教授」「准教授」「講師」「助教」という順らしいです。学校によって多少の違いはあるようですが、昔の「助手」という役職名が、今は「助教」になっているイメージでしょうか。
編集A では、この作者はきちんと正確な知識があってこう書いている、ということなのでしょうね。ただ、一般の読者はそこまで知らない人が多いでしょうから、そのあたりについてはちらっと説明を入れておいたほうがいいと思います。
青木 実際、冒頭の場面で矢崎さんも「その若さで助教なんてすごいですね!」みたいな反応をしていますよね。だから読者も「よくわからないけど、多分すごいんだな」と思ってしまいます。主人公は優秀な研究者なのだろうとは思いますが、もう少し細かい説明を入れておいた方が読者に親切かと思います。会話の中でも入れられそうですよね。
編集A 「助教というのは、研究者兼アシスタントみたいなものなんです。そんなに高い役職というわけでもないんですよ」とかね。ほんのわずかでも説明があると、全然違います。
編集C タイトルもちょっとピンボケしているかな。「研究」では曖昧すぎる気がします。
編集E もう少し論文タイトルっぽくしてもよかったかもですね。
編集D 『天藤教授の考察――ヒトを求愛活動に駆り立てるものは何か』とか……。
編集A 大学の研究室という舞台設定は、すごく魅力的だったと思います。他の教授や学生を主人公にして、連作短編にすることも可能ですよね。
編集B クセの強い理系人間たちが次々に登場してはひと騒ぎ起こすという、「天藤教授の考察シリーズ」なんて感じにしても面白いかと思います。
編集A この作者さんは、かなり書き慣れていらっしゃる方だなと感じます。ちょっと細かい指摘がいろいろ入る結果となってしまいましたが、選評を読んでいただければ、「なるほど」と理解して、すぐに修正してくれるのではと思います。
青木 テクニカルな部分は、後からいくらでも改善できますからね。この作者さんのレベルなら、そんなに難しいことではないと思います。
編集A パソコンで出欠を入力する学生たちを見て、「鞭毛が一斉に回転し出すのとよく似ている」と思ったり、アデリーペンギンの求愛行動を自分に当てはめてみたりと、主人公の語りの中には、うまい比喩や表現が随所に見られました。ラストで教授が、「秋は好きな季節だね」と言うところも、すごくよかった。春と夏が恋の季節で、秋はその余韻なのだという言葉には、なかなかに味わい深いものがありました。とてもセンスのいい書き手だなと感じますので、今後もぜひ頑張っていただきたいですね。